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ダグラス・サーク全作品回顧上映 リポート

ダグラス・サーク全作品回顧上映 リポート  at シネマテーク・フランセーズ

松井宏


Vol.29
『翼に賭ける命 THE TARNISHED ANGELS』(57)

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部屋の外はパレード。隣の部屋ではニューイヤー顔負けの大騒ぎ。ドロシー・マローンは言うだろう-「私はいつだって隣のパーティを諦めて、彼に付いて来たのよ」。だが実際のところ「隣に」あるのはパーティなどではなく、死なのだ。

かつて第一次大戦の英雄でありいまは飛行機レースのパイロット、ロバート・スタック、彼の妻でパラシュートの曲芸師でもあるマローン、そして彼らとつねに行動を共にしてきた整備工ジャック・カーソン。彼らは恐慌直後の一種のホーボーであり、レースからレースを転戦する「ボヘミアン」だ。そこへ取材という名目で加わってゆくアルコホリックの新聞記者ロック・ハドソン。3人の男とひとりの女を巡る関係は錯綜するが、しかし驚くべきは、それぞれに形成される関係性-それが3人だろうが4人だろうが-において、必ずひとりが道化の役を演じることだろう。すべてを見通しながらしかし目の前の事態に心底怯える道化を、異なった状況において、彼らはそれぞれ演じてゆく。

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すべての人間がその死に加担し、そしてすべての人間に愛されたスタックは、だからもっとも残酷な道化なのだ。彼は目の前の事態を何も知らない「スピード狂」などではなく、血管に流れるガソリンによって知覚をもっとも研ぎ澄まされた男なのであり(血管にアルコールを流すハドソンすら及ばないだろう)、すべてを見通し怯えながら最後の飛行機へと乗り込むのだ。だからこの男は死に取り憑かれているのではない。この男はたんに死なのであり、彼こそが周囲の人間に取り憑くのである。骸骨になってなおギターを弾き、あらゆる人間がそこで踊る。あるいはそのダイスの一振りで、ひとつの運命が決定させられる。そして、3人の男がみなマローンを愛したように、『翼に賭ける命』は、いかにして彼女の顔に死の徴を付けるかに賭けられている。『天が許し給う~』『心のともしび』の縦への運動が生への意志だったのだとすれば、ここでは横へのパンが多用され、あるいはフレーム外からの突如の侵入により「隣に」ある死が彼らを訪れ、マローンの顔から徐々にイマージュを奪ってゆく。『風と共に散る』と同様、扉は開け放たれ、死の風が吹き荒れてゆく。あるいは、思い出しても良いだろう、ベッドで眠る大人たちから疎外されてつねに床で眠り、そして父(であるはずの)スタックの墜落の瞬間では、空中を舞う飛行機メリーゴウランドで為す術なく叫ぶだけの息子を。下と上で疎外されつづけける息子。だがその下上における「疎外」とは、ここではまさに死から生へと逃れる唯一の、なけなしの手段なのである。

タイトルロールの被る冒頭シーンから、もう、すべての観客は血管にガソリンを注入されるはず。もはや誰も純粋無垢ではいられない。第七の封印が解かれたこの世界は、無垢な人間たちに苛立ち、彼らの血管へガソリンを流し込み、みずから地獄へと変容してゆくのだった。

それにしてもロバート・スタック。その声、その肩、その身振り、その強張った顔。信じられない。どうだろう、『翼に賭ける命』を『ミスティック・リバー』のメンツでリメイクしてみたらいいかな、などと。もちろんスタックはショーン・ペン。いやこの際、監督もペンにやらせてはどうか。

Vol.28
『心のともしび MAGNIFICENT OBSESSION』(53)
『MAGNIFICENT OBSESSION』(36)ジョン・スタール

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サークの作品のうち3つはスタールの「リメイク」である。『心のともしび』『間奏曲』『悲しみは空の彼方に』。ただし彼はどれも事前に見たことがなかったと語る。はてさて、本当かしら? 「年齢差カップル」は、これはサーク版のオリジナルなのだが、しかしスタール版では別のカップルによってこの年齢差が体現されている。そこから「年齢差カップル」の着想を得たような気がしないでもないが……どうだろう。

もし仮に「出来(でき)」という何ものかがあるとすれば、もちろんスタールの方に軍配が上がる。「語り」に関して言えば、スタールはまったく過不足なく、さらにサーク版には見られぬような奥行きさえ与え『心のともしび』を語り尽くす。あるいは主人公の男と女が最初に出会う場面を考えてみてもよいだろう。ふたりを出会わせ、ふたりの間に何かが生まれるその重要な場面を、サークの到底及ばぬ「洗練さ」でもってスタールは演出してみせる。もちろんこれらは30年代と50年代という時空間的な決定的差異にもよる。しかし、それでもやはり、サークのぶっ飛ばしぶりは凄いのではないか。まずこのひとは男と女の「洗練された」出会いというのをほぼ完全に無視する。これは多くの作品に当てはまる。「ちょっと待て」と言いたくなるほどだ。

もちろん視覚的な演出は本当に素晴らしい。たとえば夫を亡くした直後、かつて彼が使っていたデスクに腰を下ろすワイマンと、かつて彼の夫の「崇高なるオブセッション MAGNIFICENT OBSESSION」によって家族を救われた女性との会話シーン。ワイマンの後方には白い面を持つフレームが掛けられ(レントゲン写真を見るためのものだろう)、切り返しの女性のショットには、彼女の顔の手前、デスクの上にワイマンの写真がこちらを向いている。つまりこれは同時に、白い面が示す不在の夫と写真のワイマンとのショット-切り返しショットでもあり、しかもさらに、その夫の不在の白さが一瞬の不吉さとともに後にハドソンとのあいだで語られてゆくすべての物語を先取りしてしまう。

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何より、『天が許し給う~』も含め、当時のジェーン・ワイマンの起用というのは、これはやはり誠に正しいものだったと思われる。ほとんど表情がなく、つねに口を半開きにして何がなんだかよくわからず状況に巻き込まれてゆくその顔こそ、サーク版『心のともしび』そのものであり、そして彼女にハドソン(彼女の夫は大金持ちの道楽息子ハドソンの身代わりとなって死んだのだ)に向かっていちども「アイ・ヘイト・ユー」と口にさせないサークの一貫した聡明さに、われわれは感動すら覚えようものだ(もちろんスタール版ではこの決定的なひとことが叫ばれた)。

サークにとって男女の出会いの瞬間とは「洗練」されているべきではなく、むしろ、たとえば突如スイッチが入る電気仕掛けのオモチャや、メリーゴウランドや、飛行機のプロペラに近いはずだ。すぐさまに、すべてが開始され廻りはじめる。彼らは半口開けながら、そこに巻き込まれてゆくだけだ。そのなかでキャメラのみが自律性を獲得してゆく。ラスト近く、ハドソンによるワイマンへの手術シーンという、もっとも決定的な場面において見せられるのは、小さな動きだが奇妙な縦へのパンである。われわれはふと『天が許し給う~』のラストの、ワイマン/ハドソンから鹿へと受け渡される、小さな縦のパンを思い出すだろう。サークにおいて縦への動きとは、間違っても「神」への希求などではない。それはイマージュへの、そして絶対的な生への、強靭で美しい意志なのだった。

Vol.27
『風と共に散る WRITTEN ON THE WIND』(56)

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風には何も書き込むことができない。それは、筆は風を通過してしまうという理由の他に、なぜなら、風には彼らが知覚し得ぬ何かがすでに書き込まれているからだ。そこに余白はもはやなく、すでに、あらかじめ書かれた風はテキサスからアメリカ全土を駆け抜け、そして彼らの運命を加速させるだけだ。

たとえばその風とは、もちろん冒頭のスタックが走らせるスポーツカーであり、屋敷に枯葉を散らす突風であり、あるいはスタックがバコールを超速でかっさらうその様であり、またドロシー・マローンの腰の振りでもある。2階の部屋でくねらされる彼女の腰が、階段を登る父親の歩みを押し戻し、階下へと彼を墜落させてゆく。このシークエンスは、それがサークによるサークへの階段という装置を巡る一種の考察ともなっている以上に、ひとつの示唆を与えてくれるかもしれない。そこで彼らはひとことの言葉も発することがないのだ。つまり彼らの言葉すら、やはり、すでに風に書き込まれているのである。

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だが何よりもまずフィルムに深く書き込まれるのは、このテキサスの街-アメリカ全土?を覆う石油王「ハードリー家」の文字であろう。延々と砂漠に建てられた工場(それこそ「アメリカ」であるのだが、しかし50年代ハリウッドで果たして我々はこのような光景を目にしたことがあっただろうか?)、街のあらゆる店と道路と、あるいはすべての風景さえをも覆う「HARDLEY」の文字。不肖の娘マローンを屋敷に連れ戻したのは、ハードリー家の「秘密警察」とでも言うべき者どもであり、彼らの車にはデカデカと「HARDLEY」の文字が刻まれていたはずだ。すべてはHARDLEYに書き込まれているのだろうか? ハードリー家の娘マローン、その兄でアルコホリックな御曹司スタック、その妻となるローレン・バコール、兄妹の幼なじみでハードリー石油会社で働くロック・ハドソン、あるいは彼らの父……、あらゆる関係性-夫妻、不倫、同性愛、近親相姦、父子、母子うんぬん-が、予兆ではなく、明白さとしてそこに書き込まれている。ハードリー家に嫌気がさし海外へ逃げようとするハドソンと彼の実父との何気ない会話が、猟銃の手入れとともに為されていたことを憶い出してもよいか。賢者のような面持ちで銃を手入れし息子の話を聞く父。黒光りしながら存在を誇示する猟銃。われわれは自問するだろう。まさかハドソンの本当の父親とはハードリーなのか? あるいは、まさか母親が同じだとでもいうのか? それらは曖昧な解釈や、思わせぶりといったものではない。余白といった体のものでもない。たんに明白なのだ。そこにその自問が生じることの明白さである。すべてはそこに書き込まれている。

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すべては書かれており、そして風には何も書き込むことができない。だからスタックとバコールによる新たな筆致-新たな命を宿すこと-は一時的に完成しながら、すぐにまた消去されてしまう。風が吹いている。唯一マローンが、かつて木に刻んだ愛のイニシャルを涙とともに裏切り、他者の新たな愛へ仮の避難所を作ってやるだろう。彼らは風を逃れる。そしてマローンは、風に何かを書き込むのでなく、こうして自ら風へと書き込まれ、テキサスからアメリカを再び覆ってゆくのだった。風が吹き荒れている。

Vol.26
『大空の凱歌  BATTLE HYMN』(1956)

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50年代に戦闘機もの戦争映画を撮るという難しさとともに(レイの『太平洋航空作戦』を思い出せばよいだろう)、どうやら多くの厄介事を抱えながら作られたらしいこのフィルムだが(『サーク・オン・サーク』にとても詳しい)、しかしそれでも、まずここで確認できるのは「動くもの」に対するサークの感覚の確かさであろう。言い換えればこのひと機械フェチなのだが、まあドイツ時代からまったくそれは変わらない。

第二次大戦時に誤って孤児院に爆弾を落としてしまい、それに苛まれながら故郷で牧師となったヘス(ハドソン)。かつては「キラー・ヘス」の異名を取ったパイロット。朝鮮戦争に突入した現在は自分の説教の無力を痛感する牧師。そんな彼に空軍から声が掛かる。過去の過ちを抱えながら、あるいはその贖罪のために彼は韓国へ赴く。

他者の殺戮者であることと、他者の導き手であること。もちろん「朝鮮戦争中に何百人もの戦争孤児を救い出したパイロット」という実話に基づいたこの物語で、その両者は矛盾なく共存させられねばならないだろう。しかしそれとは別に、サークは非常に聡明なやり方で、殺戮者と導き手とのあいだの葛藤を示してみせる。過去の呪縛から解けたハドソンとその相棒(ドン・デフォー)が爆撃へ向かうヒロイックなシーンで、相棒は大けがを負い瀕死状態で帰還の途につく。そこでハドソンは、意識を失う寸前の相棒へ、マイクを通して操縦の指示を伝える。なんとか基地へたどり着いた相棒だが、しかし我々が見るのはコックピットで命果てた彼……。殺戮者から導き手となり、そして結局は導きの無力とともに死に直面するハドソン。この一連のシークエンスは、物語上の論理とは別の次元で、ふたつの面-殺戮者と導き手-の折り合わせに収まらぬ余剰を我々に見せてくれるのだ。

しかしいったいあのショットは何なのか。戦時中の安らぎといった体でバラックのなか民族舞踊を踊る孤児たちがいる。その切り返しショットで捉えられるのは、左側に暗闇に覆われたハドソンの顔、右側に光を浴びる仏像の顔。問題にしたいのは、なぜハドソンの顔が暗闇に沈み代わりに仏像が見えるかではない。どうしてそこでハドソンと仏像は前後に並べられるのでなく、左右に並べられたのだろうか、ということだ。 なにか非常に気になってしょうがないのだ。

Vol.25
『わたしの求めること ALL I DESIRE』(53)

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人生の二周回目。二度目の人生。50年代のバーバラ・スタンウィックはすべてそれだと言ってしまおう。ラング『熱い夜の疼き』(52)、サーク『明日がある』(56)、それからこの『わたしの求めること』(フラー『四十挺の拳銃』も加えてよいだろうか)。彼女は、成功していようが落伍していようが、つねに一度目の場へ「帰還」を果たし、その幻影と模倣のなかで二度目の人生へ巻き込まれてゆく。もちろん「かつてスターだった」(サーク)女優としてのスタンウィック自身、また、もちろんこの「二周回目」というのはサークにとっても恰好の題材だ。ワイマン/ハドソンは言うまでもなく、後期作品のほぼすべてがそうだと言えなくもない。

かつて3人の子供を産みながら、NYでスター女優を目指すために家族を捨てた女性ナオミ(スタンウィック)。とはいえ現在の彼女は、夢とは裏腹に、しがないキャバレエ女優。彼女の元へ、大きくなった娘から一通の手紙が。母と同じく女優を目指す彼女が学生舞台に立つという。晴れの姿をぜひ見てほしい、帰って来てくれ、と。『悲しみは空の彼方に』へと連なる「舞台=演じること」の主題が見事なかたちで現れる。帰還したナオミはこの田舎町で、家族のなかですら「NYのスター女優」と思われており、彼女もまたそれを演じねばならない。ここで二度目の家族生活とは、一度目の模倣であるだけでなく、現在の生の偽りでもあるわけだ。さらにはそんな「スター女優」ナオミを模倣しようとする娘がいる。「演じること」はそうやって重層してゆき、その危うい皮膜の上にしか幸福は訪れない。つまりその幸福はかりそめでしかない。のだがしかし、かりそめであるがゆえの強度というものがある。そこで重要なのはスピードであろう。ナオミはつねに「速く」あらねばならない。家のなかを全速力で走り、息を切らしてダンスし、そして猛スピードで馬車を走らせねばならない。そのスピードこそが「かりそめ」の持つ危うさであり、同時に、一度目と二度目とのあいだを踏破しえぬ空転のモーターでもある。

一度目という過去が、ナオミを、そして二度目の家族を見つめている。キャメラはここで「過去のもの」としか言いようのない人称で、2階の手すりの木格子から何度もいくども家族を見つめるだろう。しかし本当に怖いのは、2人の娘と1人の息子のうち、ナオミに反感を抱く長女が最後まで、たったのいちども「ママ」と口にしないことか。サークはきっと、プロデューサーやスタジオから何を言われようと、この点だけは保持したのだろうか。にしても、やはりこれはとても怖いことで、背筋が凍ってしまうのだった。

Vol.24
『町に連れてって TAKE ME TO THE TOWN』(53)

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「アメリカの小さな物語3部作」トリ。金持ち爺から法螺吹き旅芸人を経由し、ではここでのヒーローはいったい誰か。おそらく世紀の初頭か境目の西部が舞台のこのフィルムのヒーローは3人の子供たちである。小津のフィルム群を徘徊するクソガキたちが確実にここにもいる。

ここでは子供たちこそがもっとも「大人」であって、彼ら3人の役目とは、やもめの父親に新たな妻を、つまり自分たちに新たな母を見つけること。雑貨屋の前にたむろし、馬に跨がり(ポニーではない!)、酒場へ侵入し、酒場の女性歌手(アン・シェリダン)を母/妻へ迎えるべくかっさらう。彼らの父であり敬虔な説教師である男(スターリング・ヘイドン)と、酒場の女。このふたりに代表されるふたつの異なるコミュニティを和解させるのがここで重要となるわけだ。3部作のうち前2作が、どちらかの世界(上流階級と一般階級、風来坊の世界と政治の世界)の緩やかな勝利で終わったのに対し、ここで和解が俎上にあがるのは、もちろんそこに男と女のラブコメディ?どのようにふたりが平等性を獲得するか?が主軸に座るからだろう。

子供たちがもっとも残酷な形象として現れる『天が許し給うすべて』『明日がある』のポジティヴ版とも言えるこのフィルムだが、注目すべきは、のちのサークに頻出してゆくある種の登場人物(たち)が明瞭に現れた点だろうか。偏狭で保守的なコミュニティを体現し、男と女を価値観と噂話で締め付けてゆく者(たち)だ。「アメリカの小さな物語3部作」で醸成されたのは、音楽と踊りに彩られたヒーローたちではなく、逆に、こうしたコミュニティの危うさだと言えるかもしれない。「赤狩り……」とふと口を濁らしてみたくもなるものだ。

もっとも保守的な女性がいる。彼女は途中まで非常に重要な駒としてフィルムに参加しながら、しかし突如ものがたりから追い出され、ハッピーエンドな和解にも参加することなく最後まで回収されない。この「回収されなさ」をサークの雑さととるか、あるいはサークの怖さとするか、これは考えてみてもいいだろう。

なにはともあれ。シェリダンにネグリジェで猟銃を持たせ、さらに目を瞑らせて熊を撃たせるだけで、これはもうとても大きな価値を持っている。そしてヘイドンのパンチはどこにいってもやっぱり強いのだった。

Vol.23
『僕の彼女はどこ? HAS ANYBODY SEEN MY GAL?』(52)

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サークが初めてロック・ハドソンを起用した作品。そして初のカラー。のちに現れくるあの青白い光はなく、ぴかぴかのテクニカラー。そして、ああ、ここにも雪が降っていた。そういえば『心のともしび』でも降っているのだ。『天が許し給う~』が最初だと思っていたが全然違った。

「アメリカの小さな物語/歴史3部作」(サーク)のひとつであるこのフィルム。『見せ物市で会いましょう』では法螺吹き旅芸人がヒーローだったが、今回はチャールズ・コバーン演じる大金持ちの爺さん。『誘拐魔』(47)では確かな善良さに軽い滑稽さを持った良い味の警官を演じていたが、やはりこの方、コメディのひとであろうか。『天国は待ってくれる』が10年前。ちっとも変わっていない。むしろ元気になっているんじゃないか。

コバーン爺。遺産相続先として、かつて若き貧乏時代に愛しながら別れざるをえなかった女性の、その息子家族をえらぶ。「足長おじさん」爺は、とはいえ「絵描き」として身分を偽り一家へ間借り人として転がり込む。何も知らない一般市民家庭へなぜだか大金が舞い込み、さてその成り行きはいかにと、爺が密かに見守るわけだ。とはいえ、たとえばキャプラ?コロンビア風の教訓色がここに存在しないのは、ひとえにこのヒーロー爺の軽快な救出活動ぶりによるだろう。家族の長男がギャンブルで大負けすれば、爺は見事なトランプ手さばきで勝ちまくり借金チャラにしてやる。あるいは爺は自転車に乗る。「自転車に乗って救出に向かう爺」という、『小説家を見つけたら』(ガス・ヴァン・サント)で再び見ることとなろうこの形象が、すっかり観客の胸を躍らせてしまうだろう。秀逸なダンスも見物である。このサンタクロース爺がやがて『心のともしび』のロック・ハドソンとなり、アメリカの夢物語を高速度で回転させ過剰な喜びと不吉さを生み出してゆくのだろう。

家族が小切手を受け取り大金持ちになった瞬間、父親がふと「ベッドの下のシャンパンをもってこい」と娘に命ずる。この一言で、すべてが幸福のうちにあるかに見えるこのフィルムが、その舞台を恐慌のただ中且つ禁酒法失効の直前の時期に持っているのだと、我々は再確認する。サークにある、この「ふっと」という瞬間は、たびたび観客をあらぬ妄想の暗闇へ引きずり込んでしまう。

ちなみにジェームス・ディーンが端役出演。ワンショットだけだがかなり印象的。笑える。

Vol.22
『ショックプルーフ SHOCKPROOF』(48)

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48年頃といえば、プロデューサーとの関係やらでハリウッドに嫌気がさしていた頃で、もちろんドイツ帰国の欲望もあり、たしかにこのフィルムは多くの点で傷ついてもいる。 カットを強要されたシーンもかなりあったろう。80分という制約然り。そもそもフラーがコロンビアに持ち込んだ脚本なのだが、結局は他人の手が入り、フラーの脚本を気に入っていたサークも手こまねき見ているしかなかったらしい。ラスト(このフィルムではかなり重要だ)も完全に書き換えられたとのこと。『サーク・オン・サーク』にそのへん詳しい。

とはいえ5年間の服役を終えた仮出所の女性という設定はそもそも魅力的。その極めてセンシブルな状況が、経験浅い女優の硬さとも相俟って、なかなかよいヤバさを湛えている。この「仮の」と、たとえば「真の」という二極が、これは『LADY PAY S OFF』にも連なってゆくわけだが、男女関係にも伝染してゆく。ギャンブラー(かつて彼女はそいつを守るために殺人を犯した)か保護監察官か。そして後者との愛が真になるのだが、しかし今度はまた別の仮の状況を纏わねばならず(ふたりの結婚は規則で禁止されている)さらには、またしても愛する男のために罪を犯してしまった彼女を守るためふたりの逃避行が始まり……と、誰かに見られてはならない、知られてはない、隠さねばならないという「仮の」が持つ危うい状況が維持されてゆく。「仮の」を破る瞬間が裏切りであり、と同時にそれが「真の」愛へと連なってしまうところなど、きつい。サークである。

このあたりが彼女の髪の色の変化(もちろん<黒髪とブロンド>だ)にも浸透し、フィルム全体がきっちり引き締められる。さらにそこへ盲目の女性(監察官の母)が加わり、その予言者めいた様相が、どこかアポカリプティックな世界を開いてもくれる。3人の男女が揃う決定的なシーンでは、階段の上へ急スピードでキャメラがパンされ、そこではこの盲目の女性が「何かが起こっているわ!」と叫んでいる。流れるような運動がそのまま我々を神話的な場所へ連れて行ってしまう。

この盲目の「予言者」にどこまでも貫かれているように、ふたりの恋人の逃避行と落下が後半を加速させてゆく。そこには紛れもなく『夜の人々』(ニコラス・レイ)が、さらには同じくグレンジャー&オドネル『SIDE STREET』(アンソニー・マン)が確実に刻まれていた。逃げることがもたらす残酷な疲労だ。

Vol.21
『明日がある THERE'S ALLWAYS TOMORROW』(56)

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ひとつ。彼女バーバラ・スタンウィックが総てに奉仕するから。20年ぶりに再会した男フレッド・マクマレイへ、彼と過ごす空間と時間へ、ショットへ、物語へ、何も知らない彼の妻ジョーン・ベネットへ、そして彼が帰還すべき家族へ。彼の家族を蘇生させ、再構成し、再び輝かせるために。つまりこれは「不倫」のおはなしなのだ(そしてそれが諦められるおはなしなのだ)。けれども服飾デザイナーである彼女は、男に家族にこの物語にこのフィルムに、総てに正しく美しい洋服を仕立ててやるためそこにいる。総てに奉仕し、そして、総ての組成を新たに組み替えてやるのだ。

ふたつ。『明日がある』は他のフィルムに奉仕するから。ワイマン/ハドソンカップルの『心のともしび』『天が許し給うすべて』へ。なぜならここにはひとつの家族が、誰の欠落もなく揃うのであって、つまり前2作で物語を作動させるため死んでしまった夫/父の姿があり、彼の物語が語られているからだ。前日譚と言ってよい。3部作と勝手に言ってもよい。『天が許し給う?』の息子を演じた俳優がまたしても息子を演じている事実も、それを証明しようか。巧妙に隠されていたあの男には、かつてスタンウィックとの数日間があった。ワイマンは、かつてここでの妻/母ジョーン・ベネットだった。彼女は夫の為し得なかった愛を今度はハドソンとのあいだで作り上げる、とさえ言ってしまおうか。こうしてこのフィルムは2本のフィルムにすべからく奉仕し、新たな洋服と物語と、時間と空間とを仕立ててやるのだ。

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「奉仕すること」をモノクロとヴィスタに湛える『明日がある』は、だからとても美しい。「むかしむかしあるところに……」との文字で始まり、過去からの一通の手紙のごとくスタンウィックが突然訪れる。20年の筆跡が浮かし彫りのように現在へ現れ、現在を書き換え、来るべきエクリチュールが用意される。「私たちが一緒になった未来を考えてごらんなさい。あなたの娘が大きくなって結婚するとき、きっとあなただけが招待されないのよ。それはあなたにとっても私にとっても最低のことよ」。窓辺で最後にそう男に言い放つスタンウィック。外は雨だ。彼女の顔を雨と涙の奔流が通過している。そのショットが、まさしく来るべき未来とフィルムたちからの、愛に満ち満ちた極上の贈り物であるのは言うまでもない。けれどもまた、残酷かな、我々が知るのは『心のともしび』『天が許し給う~』で、たしかに男は娘の結婚式も息子の卒業式も見ることなく死んでしまい、消したはずの未来が実現されてしまうという事実でもある。そのときスタンウィックはどこで何をしているのだろうか。

などとぶらぶら考えたのだが、とはいえ「奉仕するひと(女性)」という形象は、サークにおいてたしかにドイツ時代から「純粋無垢なる女の子」としてあったわけだが、けれどこのスタンウィックを経由して、新たなディメンションを持ってしまったのだと思う。『風と共に散る』『翼に賭ける命』で「奉仕すること」はもはや何ものをも再構成せず、ただ世界を壊してしまうことに等しくなってしまう。逆にいえば『明日がある』はそうした過剰さの爆発がぎりぎり内側に留まっている、ということか。だが内側とはもちろんスタンウィックの顔である。物語の崩壊も家族の崩壊も背負いギリギリで踏み留まらせるその顔である。謎である。だからこそ強烈である。

ちなみに実をいうと、未来を語るスタンウィックを見ながら、ああ自分は本当にはこのフィルムで語られていることがわかっていないのだと、ものすごく愕然としてしまったのだった。

Vol.20
『自由の旗風 CAPTAIN LIGHTFOOT』(55)

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ライトフットがいる。サンダーボルトがいる。そう『サンダーボルト』(チミノ)のふたりはここから来ている。牧師に化けたサンダーボルト隊長とライトフットとの出会いはまさしくチミノがそのまま使っているもの。しかもイギリス圧政下19世紀アイルランドの反逆者たち。アイルランド魂爆発である。しかし、たとえばチミノが忘れられなかったのはまず、テクニカラーとシネスコで切り取られたこのアイルランドの美しい風景ではなかったのか。ほぼアイルランドロケという『自由の旗風』の、少し黒みがかった大地の緑、染み渡る潤い、乾いた廃墟。『異教徒の旗印』につづくシネスコ2作目がこれほど大きな違いを見せるのはひとえにこの大地のおかげか。ひとりの女性を全力で走らせればそれでよいのである。あるいは英国竜騎兵から逃げるライトフット(ハドソン)とサンダーボルト(ジェフ・モロー)の、画面の奥行きを最大限にいかした運動はとても気持ちがいい。

だがそうしたことよりもなによりも、このフィルムにあるひとつのイマージュが誰の胸をも強烈に締め付けるだろう。「父(的存在)が息子を牢獄から救い出す」というものだ。ここにはふたりの「父」がいて、一種のライトフットへのレッスンの積み重ねがすべてだとも言えるのだが、ひとりはもちろん華麗かつ透明に輝く伝説の反逆者サンダーボルト隊長。そしてもうひとりはライトフットから「臆病者」と「裏切り者」の称号さえ頂いてしまう不透明で卑小なる「父」、穏健派のリーダー。

なによりサンダーボルトとはライトフットにとって世界への「窓」としてのイマージュだ。あらゆるイニシエーションがそこにある。だがサークにおける窓とは、他の多くのフィルムに見られるように、いつでも牢獄に変わりうることを思い出したい。牢獄としてのイマージュ、そこへの囚われ(『天が許し給うすべてのもの』のワイマンを見れば十分だろう)。ここでもまた、サンダーボルトとライトフットとのあまりに盲目的とさえいえる透明な関係性から、サークが逆に示そうとする危うさに気付くはずだ。実際ライトフットはサンダーボルトの身代わりとして牢獄に囚われるのであって、それはまさにサンダーボルトというイマージュへの囚われと言ってもよいのだ。

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こうした二極(窓と牢獄)が、スクリーンに映る息子を見るサークそのひとの体験であることを、我々はつねに考えてよいのかもしれない。前にもどこかで書いたが、ドイツ時代の彼は前妻との間の息子との接触を法で禁じられる。息子に出会う唯一の方法は映画館に映る彼のイマージュを見ることだった(息子はナチプロパガンダ映画の子役となっていた)。映画とは、そこで、彼にとって息子と出会う「窓」であると同時に、息子の囚われる「牢獄」であったと、もちろん僕などには想像の(不)可能性で片付けられない恐ろしいことなのだが、しかしやはり考えてみてもいいのかもしれない。そして『自由の旗風』において「息子」を救うのはもはやサンダーボルトではなく、かつて「息子」ライトフットに捨てられた卑小な「父」だということ。そしてそれが、たとえば『天が許し給う~』のように別の窓――イマージュを与えてやることではなく、牢獄――イマージュからの文字通りの救出となっていること。そして、この行為がヒロイックにならないのは言うまでもなく、なぜならそれは、まるでスクリーンから息子を引っ張り出そうとするのと同じくらい単純かつ恐ろしい行為に近づくからだ。そこでは透明さではなくあらゆる不透明さが、イマージュへの嫉妬と裏切りでも呼ぶべき何かとして、鈍く重い一槌をくらわせるからだ。

たとえば『風と共に散る』のラスト、証人席に座るドロシー・マローンの法廷シーンを憶い出してみたらどうか。裏切りの告白をし始めたマローンへの切り返しショットとしてハドソンとバコールのカップルが見せられたとき、彼女は苦く曇った表情でカップルの救出へとその告白を変えてゆく。それは呪われた石油王「ハードリー家」という牢獄からの救出であり、もちろんマローンは女性だが、しかし『自由の旗風』の救出に似た鈍く重い何かがそこにあると言えまいか。

サークの息子は44年ロシア戦線にて戦死したのだという。サークがそのことを知ったのがいつだったのか定かではない(たとえば一時ドイツへ帰国した49-50年の時点では知らなかったようだ)。しかしもちろん『愛する時と死する時』(57)において、彼は息子に再び窓を与えてやり、本当に正しいイマージュを返してやるのだった。


Vol.19
『社会の柱 STUTZEN DER GESELLSCHAFT』(35)

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ひさびさにドイツ時代。イプセンの同名戯曲の翻案で、年代的には『沼地の娘』(35)と『第九交響楽』(36)のあいだに位置するサーク(=ジールク)第3作目。『APRIL, APRIL』にも似た、嘘のグラデーションからなる世界。ただ前者が愉快なコメディであったのに対し『社会の柱』は「悲劇」あるいはメロドラマ的、と呼べる。そもそもそれがイプセンの世界か。

たしか『人形の家』のなかに「嘘のアトモスフィアは伝染を引き起こす」といったセリフがあったように思う。旦那がノラに言った言葉だったか。まさにその通り。この『社会の柱』というフィルムが呼吸するのも嘘という空気である。社会の「柱」である成り上がりブルジョワ名士の現在が、嘘という過去でできていて、その出っ張ったお腹が嘘で満たされていて、その吐く息がまた嘘として伝染する。義弟の娘だという女の子は実は彼の非嫡出子であり、義弟がかつて犯したという金の横領も実は嘘であった。どちらも家族を、会社を存続させるために成金名士が作り上げた嘘。つまりそれは、あたかも「作品」=ひとつのフィルムを成り立たせるための「フィクション」そのものへの考察に見えなくもない。嘘の伝染はまさに物語の進行そのものであり、同時に、物語の信仰そのものをなにか省みさせるようでもある。

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もちろんここには、観客を巻き込んだ、嘘が日の目に曝されるまでの素晴らしいサスペンスの時間がある。しかしサークが重用視するのはそういった観客のマニピュレーションではないだろう。そうではなく、フィクションとか物語というものが根っこに抱えるとても危険なものを見せようとする、とでもいうか。予兆、とでも呼べばよいのか、つまり「そこに映るすべての人間が潜在的にはあらゆる関係性を持ちうるのではないか」という怖さである。そういう順列組合わせ的な世界、それこそが物語の実際の根幹であると同時に物語自体を壊しかねないものであって、ファスビンダーなぞはまさにその点を極めて真面目に押し進めたはず。

こういうのを「嘘の伝染した世界」と呼んだらいいのか。たとえばそれはサークにおいてブルジョワたちのひそひそ噂話として多く現れるし、あるいは『風と共に散る』では、テキサスの街とアメリカ全土にまで染み渡る石油王「ハードリー家」の紋章として現れるだろう。ある種のトランスな状態としての環境。そこではさまざまな予兆がもの凄く具体的なものとして現れ、過剰さへと連なってゆく。そうやって『風と共に散る』では水色のスポーツカーがぶっとばし、『翼に賭ける命』では飛行機のプロペラがガンガン回り、そして『社会の柱』では海が荒れ狂い、どでかい船が沈没してゆくのだった。

Vol.18
『僕と祭で会わないかい MEET ME AT THE FAIR』(52)

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スキャットマン・クローザースがいる。そして旅芸人一座。『ブロンコ・ビリー』ではないか。しかもラッセル・シンプソンが保安官として静かに物語を見守っている。フォードが支えているわけだ。『誰かあの娘に会ったかい? HAS ANYBODY SEEN MY GIRL?』(52)『街へ連れてって TAKE ME TO TOWN』(53)を合わせ「アメリカの小さな物語/歴史3部作」と語るサークだが(『僕と祭で~』はまんなか)、まさに、である。他2作は未見ながらしかしこのフィルムは、フォードからイーストウッドへと連なる静脈に位置づけられるはずである。挿入される歌やダンスの弱さは否めぬものの、それはそれでいいのだ。ちなみにもちろんテクニカラー。

20世紀のごく初頭が舞台となり、インチキ飲み薬と自らの法螺話で稼ぎ続ける似非医者風旅芸人「ドク」(ダン・デイリー)とスキャットマン。アメリカの数々の歴史が彼の法螺話によって語られるのだが、しかし法螺話という形態によって、その語りそのものがアメリカの歴史へと接近するだろう。旅芸人が孤児を拾う。孤児が最初足を引きずっているのが良い。旅芸人の馬車からのユラユラしたキャメラが、釣り合い取れずひょこひょこっと歩く孤児を見つめる。その揺らめきによってフィルムが開始されるだろう。旅芸人から孤児への口承「伝達」という主題、しがない旅芸人の馬車から選挙会場へ、ひとりの孤児から政治劇へ、そうして法螺話が伝染するようにしてアメリカの姿が形成されてゆくだろう。しかしまた、この旅芸人は『パリのスキャンダル』のヴィドックのアメリカ版だとでも言えようか。ヴィドックが絵画/伝説から生まれその変奏だとするならば、旅芸人ドクは語り/法螺話の、変奏というよりは、まさにそれそのものである。その点サークにおける「ヨーロッパ」と「アメリカ」の差異でもあろうか。

こうした旅芸人は、きっと、恐慌前後を舞台としたフィルムでホーボーとなるのだろうが、そう考えたときカザン『群衆の中の一つの顔』(56)は、しかし、『僕と祭で~』の孤児が辿るかもしれないひとつの悲惨な姿といえようか。あるいは『翼に賭ける命』の飛行機曲芸師ロバート・スタックが、その姿かもしれない。そういえばあれも恐慌直後の物語だったか。

ちなみに画像は、政治の操り人形として物語に奉仕するヒュー・オブライエン。いい顔をしている。

Vol.17
『天が許し給うものすべて ALL THAT HEAVEN ALLOWS』(55)

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サーク初雪。先週パリの土曜日はついに雪。お昼の数時間の出来事だったが感傷に浸らせぬほどの大粒と勢い。その後寒さは多少緩んだものの、しかしこの時期の数週間がもっとも冷えるという話もある。僕も腰を痛めた。宿を持たぬ人々からはすでに死者も出た。

初めて冬を映し雪まで積もらせてしまったサーク。だがもちろん季節は晩夏から始まる。庭師ロック・ハドソンとジェーン・ワイマンとが出会わなければならなかったから。庭仕事のあとに外のテラスでワイマンがお茶を出し、ハドソンがビスケットを食べる必要があったからだ。ビスケットをひとつ、そして少し躊躇してついついふたつめを取るハドソンと、その躊躇に一瞬目を奪われ、一瞬停止するワイマンの顔。ファスビンダーやデプレシャンが正しく継承し、もはやほとんど消えてしまったといえるこの絶妙なリズム。たとえば『天はすべて』のリメイク『不安と魂』(ファスビンダー)で、ワイマンとしてのおばあちゃんとハドソンとしてのアラブ男が出会うあの地下のくされたバーで、雨宿りについつい駆け込んだ彼女が、一瞬の躊躇を挟んでついついコーラを頼んでしまう。ついついコーラを頼まなければ彼らの恋は始まらなかっただろう。そして、ついついふたつめのビスケットを手にしなければ彼らの恋も始まらなかった。

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なぜこの男(女)はこの女(男)を愛するのか。「ついつい」愛してしまうのだ。一瞬の躊躇と停止に開かれた無際限な時間というものがあり、彼らはそこへ落ち込んでゆくのだ。たとえば季節の経過と裏腹に、3度示される時計台の針はたった6時間毎しか進まない。12時、6時、12時。ふたつの12時において重要なのは昼と夜との違いではなく、その同じさであり、つまりここにはクロノロジカルな時間とは別種の時間が開かれている。同じワイマンーハドソンのカップル『心のともしび』とも異なるこのフィルムの奇妙さは、時間の停止のなかにすべてがあるからであり、ドライヤーの壮大なメロドラマ『奇跡』の復活のときを虫眼鏡によって全編に拡大しているゆえだ。このフィルムは時間が再び動き出すまでの過程としてある。壮大なクリシェのなかに死んだカップル?イマージュを、窓から入る光によって、影によって、青みがかった白さによって復活させること。そしてハドソンに命を返してやり、ワイマンの顔にアフェクションを返してやること(「君にはアフェクションが必要だ」と、夫を亡くしている彼女にひとりの男が言うだろう)。クリシェを生み出し街を覆うのはブルジョワたちのクラブのざわめきだが、そこに鹿のイマージュを返してやることが重要なのだ。カップルの住まうバラックの「ひき臼」は回転運動の凝固としてあり、それはやがて板を乗せられテーブルとなるのだが、しかし本当にそれらが運動を始めるのはフィルムが終わってからなのだ。

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もっとも謎のショット。クリスマスの夜の、多数の子供たちを乗せたサンタのそり。そして次の、窓際に立ち涙を流すワイマンを外から捉えたショット。すでにハドソンと別れており、子供たちとの和解を期待しながらその到着(約束の時間に彼らは遅れている)を待っているときだ。なぜ彼女はこのときそこで泣いているのか。周囲の圧力に屈してハドソンと別れたからか。子供たちさえ彼女に反対したからか。そして彼らがついつい遅れてしまったからか。やがて彼らから告げられる残酷な事実の先取りだろうか。そのすべては正しく、また、すべては不十分だ。なぜならこの彼女の涙とはまさしく、永遠のクリシェ?イマージュ「サンタのそり」から再び命を与えられた、アフェクションの厚みそのものだからだ。
やがてファスビンダー『不安と魂』、もっと言えばキアロスタミ『10話』によって、この厚みは何度も我々の元へやってきてくれるだろう。

Vol.16
『異教徒の旗印 SIGNE OF THE PAGAN』(54)

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撮影ラッセル・メティ、音楽フランス・スキナー、美術にラッセル・A・ガウスマンとアレクサンダー・ゴリッツェン。ロス・ハンターはいないが、サーク組はすでに固まっている。『誰かあの娘に会ったかい?』も『ALL I DESIRE』(53)も『心のともしび』(54)だってすでに作っているわけで、色だってがんがんテクニカラー。美術のふたりはやはり特にカラーでその力を発揮する。東西分裂直前の5世紀ローマの宮殿が、メティのカメラと相俟って、ときどきピエロ・デラ・フランチェスカ「笞刑」のような奇妙な目眩を引き起こしもする。どこかこのひとたちはおかしい。

なによりもこのフィルムはジャック・パランスのものだ。ローマ進撃を目論むフン族の首領アッチラ=ジャック・パランスは、ライヴァルとなるセンチュリアンのひとり(ジェフ・チャンドラー)を筆頭とした大根ぶりもあり、ひとりだけまったく別の空間にいるかのよう。『ヒットラーの狂人』のキャラダインのようなヤバさをあまり男優に求めないサークだが、パランスの起用はひとえに、初めてとなるシネマスコープへの対応からだろうか。この男が、空間的にも物語的にも、中心を形成しつつ同時に崩壊させてゆく。つまり「キリスト教と野蛮」の初期設定は見事に肩透かしされ、このアッチラ=パランスこそがもっとも理性的であり且つそれゆえに信仰が持つ「不条理さ」に崩壊させられてゆくわけだ(もしかしたらそういう点も「笞刑」に似ているのかもしれないが)。こういうのはまさしくレイやアルドリッチの「50年代的なもの」の姿なのだが、それがテクニカラー&シネスコに移植されるとどうも奇妙極まりなかったりする。『翼に賭ける命』(57)の、あれはモノクロだったが、ヤバい登場人物の複数性による空間の圧縮がここにはまだないと言おうか。

ちなみにこのフィルム、元々ほかの人間が撮る予定だったらしくサークはかなりの最終段階でシナリオを受け取ったとのこと。『サーク・オン・サーク』のなかでもほぼ愚痴混じりに語っている。ちなみに『サーク・オン・サーク』では他の自作についてもよく愚痴調で振り返っていて、そんなところもなかなか愉しめるのだった。

Vol.15
『奇跡 THE FIRST LEGION』(50)
『丘に響く雷鳴 THUNDER ON THE HILL』(51)
『恋の支払い THE LADY PAYS OFF』(51)

「今年度ベスト家庭教師」に選ばれた女性教師(リンダ・ダーネル)と、カジノの支配人(ステファン・マクナリー)。あたかもミネリ『走り来る人々』を思わせるような設定の『恋の支払い』だが、しかしここには激烈な対立(昼と夜、文学と賭博、安定と不安定、保守型と破滅型うんぬん)があるわけではなく、つまり、ふたつの環境の残酷な浸透があるわけでもない。ここには一方の極のルールしか実は存在していない。つまり詐欺、騙し、というルール。

あるとき酔っぱらった女性教師がカジノで気付かぬうちに大負けしてしまう。そこで借金の肩代わりとして支配人(すでに妻を亡くしている)はヴァカンス先での娘の家庭教師を彼女に強要する。嫌々ながら借金のために引き受けざるをえない彼女……。このようにしてまず二極のうちの一方がもう一方へ移植される(そもそもこのフィルムは確かにシチュエーション・コメディ風に開始される)。しかしそもそもこの出会いが騙しによってできているように(実は支配人のイカサマが彼女を大負けさせている)その後の世界は驚くほどに一極のルールで構成されてゆく。

女性教師は実際、賭博師にまして、もっともこのルールに適応してゆく。たとえば恋のライヴァルとなる金持ち女がそこでまったく無力極まりない存在としてあるのも、ひとえに彼女がこのルールを理解せず使用もできないゆえだ。そして教師であることは足枷となるどころか逆にこのルールで生きるための大きな手となる。つまりルールとは騙しである以上、我々は彼女が本当に彼を愛しているのか、あるいはそこに詐欺があるのか、つまりそれが彼の鼻をあかすための復讐なのか、判断のつかない宙ぶらりん状態へとサークによって置かれる。

Sirk24.jpg リンダ・ダーネル

船酔いのために飲んだ薬がアルコールであったように、女性教師はこのルールに酔いしれ、薬であるはずの教師という職業すらその酔いの螺旋運動を加速させてゆく。だがもっとも重要なのは、このルールが最高潮で完成したときにこそ、もう一方の極もまた同時に最高潮に完成したかたちで現れてきてしまう点だ。つまり詐欺の演出が終了した瞬間(男が女に愛を告白するとき)と、教師としての理性すなわち負けたライヴァルに感化され生じた、身を引かねばならないという理性が現れる瞬間の同時性。ふたりのショット?切り返しショットによって示されるリンダ・ダーネルの顔であり、実はそこにこそ怪物的な形象がある。高度の矛盾ではなく矛盾のなさ。言うなれば回転運動の酔いの頂点で生まれる目眩が持ちうる奇妙に静かな均衡。つまりここにある均衡点とは、もちろんそこが互いの愛の成就点なのだが、二極のどちらかが崩壊するときでもなく、どちらもが妥協とともに平等にいたるときでもなく、どちらもが崩壊してしまうのでもなく、二極のどちらもが完成に至るまさにその点なのである。

ではそのとき男はいったいどうしているのか。つまり本来ならルールの支配者であり演出家であった男。彼はそのショット?切り返しにおいてもちろん呆然の面持ちだ。サークの徴とも言える、発話者でなくその聞き手を捉えるショット(そして顔がギリギリ見えない角度の発話者の後頭部が手前にある)により、あたかも自らが知らぬうちに誕生させてしまった怪物を眼の前にするかのような。そしてここにまたサークの重要な点があるだろう。つまり演出家という存在への視線。その特異さとでもいうか。

サークにおいては度々、物語を司る演出家的存在が途中から奇妙に影を薄くしてゆく。画面には映っているのだが、どこか居心地悪そうに、そしてぽっかりと口を開いて立ち尽くしてゆく。『夏の嵐』のサンダース、『スライトリー・フレンチ』のアメチー、『恋の支払い』のマクナリー、あるいは『翼に賭ける命』のハドソンすらそう言えるかもしれない。このことが多く彼のフィルムになにかしらの停滞をもたらしもする。しかし重要なのはどこか彼らに死のイマージュが与えられている点(実際死ぬか死なないかにかかわらず)。あるいは『第九交響楽』『心のともしび』『天が許し給うすべて』にいる顔の見えない死者。この死者は物語を開きながら画面から完全に除外されるのだが、しかしそれはまさしく、そのことによって、ぽっかり口を開いて立ち尽くす演出家たちと同等なのである。怪物的なものは、そのスピードの違いはあれ、この演出家たちの開いた口の深淵に、あるいは死の開いた環境にこそ生まれ来る。その怪物はひとりの人物であったり、複数であったり、あるいは物語そのものであったりするだろう。

たとえばさらに『奇跡』で、問題となる二極は、今度は、まさしく理性と非?理性だ。イエズス会修道所で起こった「奇跡」(3年間寝たきりの修道士がベッドから立ち上がってしまう)が、医者による詐欺(=治療)だったのか、あるいは本当にミラクルだったのか。二極が対立ではなく一極の世界として進行し、そしてあるとき同時に両方ともの完成を迎える。酔いの頂点で迎えた目眩、それがもたらす明晰な怪物的形象、その前でぽっかり口を開けている演出家たちシャルル・ボワイエ、ライル・ベドガー……。それがここでは二極の余剰としての「本当の」奇跡バーバラ・ラッシュとして現れてきてしまうのだった。えげつない、というのか。

ともに小規模(『奇跡』はまだ独立系、『恋の支払い』はユニヴァーサル時代とはいえまだ3本目でありB級と呼んでさえよい)、サーク自身どうやら良い思い出を持っていない作品。スタイルの結晶化(『丘に響く雷鳴 THUNDER ON THE HILL』(51)も含め、このときぐらいから明確にドライヤー的な画面が見られるようになる)とは裏腹に奇妙なバランスの悪さがあるのだが、逆にそこから色々見えるかもと言ったところか。ちなみにこの前後は彼自身どたばたしていて、たとえば49-50年あたり彼はハリウッド(というかあるプロデューサー)に嫌気がさしドイツへ戻っていた。もちろんそこで息子の消息を辿ったが、しかし何も見つからず。最初の妻はすでに癌で亡くなっていたという。

Sirk25.jpg 『丘に響く雷鳴 THUNDER ON THE HILL』 (51)

Vol.14
『眠りの館 SLEEP, MY LOVE』(48)
『スライトリー・フレンチ SLIGHTLY FRENCH』(48)

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50年にウニヴァーサルと契約する以前、アメリカでのサークは独立系のプロダクションとともに比較的自由を確保していた。そのあいだにジョージ・サンダース3部作(『夏の嵐』『パリのスキャンダル』『誘拐魔』)があるのだが、前者2本と『誘拐魔』とのあいだにはちょっとした線引きが行われるだろう。そこには40年代流行りの「フィルム・ノワール+メロドラマ」という要請からの多少の窮屈さが、前者たちの闊達さとの境界線となろうか。とはいえ一方でもちろん相変わらず良しのサンダースとか、セットや照明を含めたヴィジュアル面での完成度などは増すばかりなのだった。ちなみに『誘拐魔』でもそうなのだが、サークは劇場の客席を作るのが本当にうまい。これはドイツ時代からのこと。まったく無関係に集まってしまった客たちの様を、ひとりひとりを際立てながら緩やかな塊に纏めるショット(多くはパンが用いられる)にはたびたび驚かされる。

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さて、ではサンダースの後はドン・アメチーと組んだ連続2本(実は『天国は待ってくれる』以外で初めて見た)。このあたりになるともう職業監督的な確かさを見せ始め、特に半ミュージカル映画ともいえる『スライトリー・フレンチ』は縦、横、斜めのコンポジションからなる非常に端正な画面を見せてくれ、そこに置かれる人物の配置など本当に良い。あるいは40年代的心理(学)サスペンス仕立てのノワール『眠りの館』は、当時これまた隆盛を極めていた表現主義的技法をバランスよく制御しつつ、人物たちの両義性を見事に描き出してくれる。だが何より重要なのは、この2本ともが一種の「演出」を巡るおはなしになっている点だろう。たとえば『眠りの館』では、旦那アメチーが奥さんクローデット・コルベールを薬で催眠にかけ、言葉で彼女の動きを操るのであり、また『スライトリー』では落ち目の演出家(映画監督)のアメチーが起死回生のために、縁日舞台に立つ教養なしの女の子を新人女優として教育し、そして恋に落ちてゆく。そうやってこれらのフィルムは、あたかもサーク自身の演出レッスンのようなものとして現れてくるだろう。『スライトリー』のウィラード・パーカー演じるプロデューサーが「ダグ(Doug)」と呼ばれるのも、どこかサーク自身の意志が感じられようものだ。

しかしジョージ・サンダースからドン・アメチー、そしてちょっと飛んで50年代のロック・ハドソンへ。単純化すればこの流れは、古きヨーロッパ的なるものからアメリカ的なるもの、あるいは高尚的なるものから民衆的なるもの、云々といったところか。それはもちろんアメリカ自身の、ハリウッド自身の変化でもある。そしてどちらの極にも魅了されるサークの歩みはやはりどこか特異なものとなってゆくのだろう。どうなることやら。

Vol.13
サーク覚え書き(1) by森元庸介

信仰が危険な誤謬とみなされ、イデオロギーが過去の遺物として冷笑されるのであれば、背信もまたその意味を失うのだろうか。いや、裏切りはいつでもあるだろうし、裏切りへの猜疑という主題はさまざまな藝術形式においてむしろ無闇に切迫感を増しているかもしれない。だが、透明性が前提とされ、最大利益の追求が理性的な行動原理と等価であるとみなされるそのとき、裏切ることは単に出し抜くこととほとんど見分けがたい。翻って、背信を疑われかねない灰色の立場を引き受ける者、裏切りへの誘いを受けていまいかと惑う者、あるいは真摯さの貫徹がどうしようもなく裏切りへ傾くのではないかと予感する者、そうした形象が己のうちに抱え、また己の周囲に浸透させる不透明さについて、わたくしたちがどれほどの感受性を保っているといえるだろう。

ダグラス・サークのいくつかの作品を見て、そのようなことを思う。作家性の徴といえるのかどうかはわからない。ただ、わたくしがそこから教わった、あるいは考えるよう促されたことがあるとすれば、以上がそうなのである。

小さな例から。『アコール・フィナル(フィルメックス公開タイトル「アコード・ファイナル」)』(38年)で身分を偽って音楽学校に紛れ込んだ天才ヴァイオリン奏者は、学生たちのひそかな合同練習に遅れてやってくる。かれにとってそれは「いつものこと」だが、それでも周囲の冷ややかな視線を知らぬわけではない。退学を免れたければ宣誓に署名すべしと教授に迫られて最初に席を立つ学生は、いつも座に賑わいをもたらしてきた陽気な好青年だけれど、かれはいったいどうするつもりか。穿った観客でなければ「もしや」という思いを同級の学生と共有するはずである。

束の間の疑念、というより判断の宙吊りは、もちろん無垢なものでありえない。これが38年製作のフィルムであること、1897年に生まれ、故国ドイツをあとにしたばかりの作家が「イグナツィ・ローゼンクランツ」というクレジットの背後に何かしらのしかたで関わっているらしいこと、等々のことがらが見る者の反応を何かしらの形で規定していることはまちがいないのだから。なるほど、わたくしには一方で映画史について、あるいは歴史一般について必要なだけの知識を得ようとする努力が欠けており、他方でひとつの作品をそのものとして鑑賞し、判断するための訓練が決定的に欠けている。とはいえしかし、ごく最小限度にサークについて知っていることがら--いってしまえば、かれが戦前のヨーロッパに生まれた監督であるということ--が、その作品のうちで人物が次の瞬間にくだす選択が見通しがたいものであるという印象、また、その見通しがたさが深い経験と思惟によって基礎づけられているという印象と相関的であることを否む理由がさしあたりは見つからない。

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別の例を挙げて話を進めたい。『翼に賭ける命』(58年)に、その曖昧さにおいて印象深い場面がある。かつての撃墜王を演じるロバート?スタックとその右腕たる整備工ジャック・カーソンが、ほとんど廃物となった飛行機を修理すべく夜を徹する覚悟でいる。スタックの妻を演じるドロシー・マローンが作業場を訪い、カーソンに向けて仕事の見通しを訊ねる。このときカーソンは、苦い逡巡に満ちた表情を浮かべるが、それはマローンの問いかけが「未必の故意」を漂わせた教唆を必然的に含んでいるからである。夫の身を案じるのであれば、すべての作業を打ち切るように懇願すべきところである。確答を与えられるのはひとりカーソンのみであるが、その答えは実のところかれの匙加減ひとつにゆだねられてもいるのだ。そして、その男は、妻が夫を愛しながら、しかしその桎梏から逃れようとしていることを十分に承知している。

状況を怖るべきものとするのは、カーソンには背信を免れるいかなる通路もないという事実である。もしも妻が夫を殺せとうながしているのだとすれば(彼女の問いがそのように聴き取られるべきだとすれば)、カーソンは少なくとも離陸させるに十分なだけの修理を機体に施さなければならない。だが、飛行機の現状に鑑みれば、それは絶望的な務めである。たとえ離陸が果たされたにせよ、飛行をつづければ必ずや夫は命を危険に曝すであろう。しかし、ともあれ修復を果たさなければ、整備工は飛行士に対してやはり背信を働くことになる。パイロットは己が飛ばなければ何者でもないことを知っているのだから。

だが、ここで背信はふたりの他者に対してのみ向けられているわけでない。カーソンは、ひとたびは結婚の意志を明言したほどにマローンを愛しているのであり、同時に、たとえ、その地上での為体--まさしくボードレールの「阿呆鳥」--に嫌悪を抱こうとも蒼穹を飛びまわるスタックの姿に心底から惚れ込んでいるのだった。夫妻の友人にして飛行士の整備工である男は、飛行士の妻に恋い焦がれ、飛行士に紛うかたなき愛を捧げている。かくして、背信の可能性、否、その必然性は四重にカーソンを絡め取る。

語の低い意味で心理学的な解釈であるとは承知している。だが、以上のすべてがジャック・カーソンの浮かべる数秒の表情のうちで怖ろしいほどに集約され、言葉による説明を少しも要さぬまま、関係の地獄を伝えてあますところがないという事実に注意を向けたい。そしてさきほどから言葉を費やしているのは、この明証性が本当のところ、どれほど自明であるといえるのかを考えているからである。 (以下つづく)

Vol.12
『パリのスキャンダル A SCANDAL IN PARIS』(46)

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名立たる盗人にしてドンファン、そしてなんと警視総監へ就任と、まったく御都合主義の権化ともいえるヴィドックなる男の半生(19世紀初頭フランスにて実在の人物)。ハリウッドのさまざまな技術をどうやらほぼものにしたサーク。快楽とともに為される、映画による映画のおはなしといったところか。

ヴィドック(ジョージ・サンダース)とは、まさに身分を偽ることのテーマをもっとも軽やかかつ純粋に体現する存在である。しかし彼はもちろん、たとえば仮面をとってもまた別の仮面があるといった入れ子状の存在ではない。ここに隠された秘密はない。すべてが明らか。ひとつのシーンがそれを教えてくれる。脱獄した直後ヴィドックと仲間エミール(エイキム・タミロフ)は、ふとした偶然から教会の壁に描かれる「馬に乗る聖ジョージのドラゴン退治」のモデルを務めるのだが、完成した瞬間にあろうことかそのまま馬でとんずら。なるほどそれはまさしく伝説=物語という「語り」が生まれる瞬間なのだ。またモデルと壁画のシンメトリーの静止ショットから、その直後の動き出す馬とふたりの男、あるいはモンタージュされる複数の映像。なるほどそれはまさしく、絵画から写真そしてついに映画によって獲得された運動という出来事に立ち会う瞬間なのだ。

こうしてヴィドックという存在は、ひとつの伝説=物語をさまざまなイマージュで反復し変奏するという、なるほどそんな様態をさすことがわかる。しかしよくよく考えればそれが映画における語りであり、また映画(のクラシック)というものなのだった。サークが「アイロニカルな」という形容詞をこのフィルムに与えるなら、そのアイロニーとは映画そのものに存するアイロニーでもあろう。あまりに明らかで且つあまりに謎めいていて、あまりに適当で且つあまりに真剣で。
50年代に入る前の40年代ハリウッドが持ち得た珠玉の一品。

*横浜日仏学院シネ・クラブ「特集:放浪紳士」にて12/17上映
  (講師:大寺眞輔氏、ゲスト:青山真治氏)
  http://www.ifjtokyo.or.jp/yokohama/culture/cinema_j.html

Vol.11
『夏の嵐 SUMMER STORM』(44)

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チェーホフ唯一の長編小説『狩場の悲劇』を原作とする『夏の嵐』。フィルムの大半は、かつて判事であり現在は貧窮にあえぐジョージ・サンダースの回想形式(告白記)。その点原作と同様ながら、フィルムは「現在」と「過去」のあいだにロシア革命を導入する。貧しい農民の娘であり、公爵の召使いと結婚してしまったオルガ(リンダ・ダーネル)がどのように判事(ジョージ・サンダース)と公爵(エドワード・エヴェレット・ホートン)を魅了してゆくのか。のし上がり女性の典型的な物語が人々の輪舞として精緻に描かれる。それはひとえにドイツ時代からのサークの鏡がここで物語の構成にまで変奏されている故だろう。皆がみな誰かの鏡としてあり、それを逃れる手段は死のみである。

たとえば彼が婚約者を裏切りオルガと最初に抱擁する場面。そこで鏡を介してふたりの女性の視線(オルガと婚約者)が交錯してしまうという、とても美しいショットが挿入されるのだが、しかしサンダースだけがその視線の交換から、つまり鏡から排除される。そしてオルガの臨終の場面。犯人の描写を要求される彼女は、目の前にその男がいるにも関わらず、彼への愛ゆえに決してその姿顔と名前を口にしない。息を引き取る瞬間の彼女をとらえたショットに男の手が密やかに挿入されながら、ここで、オルガは鏡の裏面へと赴き、その煌めきを不透明にする。

だがここでサークがチェーホフと歩を共にするのは、一種の時間への感覚であろう。なにも回想形式ゆえのことではない。「私たちよりも大きな何かがあなたにある」。サンダースに裏切られた婚約者はそう彼に告げる。もちろんそれは彼のなかにあるオルガへの愛をさすと同時に、この「我々よりも大きな何か」とは、まさに時間のことを指すはずだ。鏡のシステムの完成から生まれる輪舞は、逆にクロノロジカルな語りを少しずつ混濁させてゆき、なにか、時間の結晶化を促しつつあるような気がした。

Vol.10
『ヒットラーの狂人 HITLER'S MADMAN』(42)

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MGMの獅子からDirector : Douglas Sirk。冒頭のクレジットタイトルに少々感慨深さ。Sirk名初の監督クレジット作品。つまりユニヴァーサル時代以前のアメリカ時代最初の作品だ。ちなみにたった8日間での撮影だったとのこと。

「ヒットラーの狂人」とは誰か。それはナチス占領時のチェコスロヴァキアで「ヒットラーの死刑執行人(HITLER'S HANGMAN)」(当初はこのタイトルが付けられていたらしいが『死刑執行人もまた死す』が先に公開されてしまったため変更されたという)として恐怖を体現する総督ハイドリッヒ。支配を甘受していた小村の住民たちがやがて抵抗へ立ち上がるのだが、フィルムの白眉は別に位置している。

それは、異様なほど長く描かれるハイドリッヒの断末魔にある。銃弾に倒れながら一命をとりとめたこの男の最期。慰問に訪れるヒムラーに向かい、あるいはヒットラーにさえ呪詛を吐きかけながら、ただ無条件に生を渇望する。死刑執行人による、異様な生への意志。この強度の矛盾こそが、このプロバガンダ的フィルムに相対的な客観性を獲得させる。「ナチ高官やヒトラーもひとりの人間だった」と言った似非の中立的ディスクールではなく、あくまでも、死への意志の過剰さと生への意志の過剰さ、その両極の類似と引き裂かれこそが重要。あたかもフォードのような、と言えようか。耐え難き客観性とでもいおうか、これは後のサーク作品でガンガン見せつけられるものだろう。

ハイドリッヒの死の直後、ヒットラーからの電話を受けたヒムラーは、その断末魔ではなく英雄的な最期としてハイドリッヒの死を報告する。二重の死、つまり死さえ死に葬るこの方法こそが、ナチスのひとつの神髄でもあり、我々をもっとも凍り漬けようものだ(ナチスによって結果的に全滅させられてしまう小村をドキュメント風に語るフィルム全体において、このシーンは重要な染みとしてある)。
ハイドリッヒを演ずるジョン・キャラダインが本当に素晴らしい。ナチスの「演劇性」をカリカチュアに陥ることなく受肉させる。『怒りの葡萄』(40、フォード)『スワンプ・ウォーター』(40、ルノワール)『ヒットラーの狂人』と、なにかキャラダイン3部作とでも呼びたくなるような、それぞれのアメリカの染みとしてキャラダインはそこにいるような気がする。 ちなみにデヴュー間もないエヴァ・ガードナーが端役出演ながら絶対に忘れられない姿を見せてくれる。

Vol.9
『ボフィエ BOEFJE』(39)

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つづいてオランダ時代。やあ驚いた。
BOEFJEというのはスラングで子供のごろつきというか浮浪者を意味するらしい。まさしくそんなごろつき少年が主人公。で、調べて知ったのだが、それを40代後半の女優が演じている。彼女すでに舞台で同作を演じていたとのこと。見始めてすぐ、ん?これ女の子だろうと思ったのだが、まさかねえ、40代の女性とは。でも両性具有的、年齢不詳的ないかがわしさが、かなりうまく登場人物に組み込まれている。このガキ、良い感じに何をしでかすかわからないのだ。

運河に面するロッテルダム市街を俯瞰でとらえ、キャメラはゆっくり縦へ、そして次のショットで横へパン。オープニングでこうして街を切り取り、場面は一挙に「ボフィエ」の住まう貧困街の窮屈な一室へ。こうして『人情紙風船』(37)における長屋群、ルノワール的な中庭、そうした一種の路地的な磁場がロッテルダムの貧困街に導入される。かなりの低予算だったらしく、その意味で、ヌーヴェルヴァーグ的な(トリュフォー的な)街-子供のカップルの誕生に興奮するだろう。第二次大戦でドイツ軍の爆撃によりロッテルダム旧市街が壊滅させられた事実を思うと、このフィルムの貴重さも増そうもの。最終的な救済=和解という物語の要請にも少し余白を残すあたりは、サークらしいか。

そういえばサークの靴フェチぶり。『沼地の女』『夏の嵐』(44)もそうなのだが、貧困かつ悪意のなさを体現する登場人物はかならず靴によって示される(『翼に賭ける命』にもその変奏が見られるか)。まさにボフィエもそう。ボロボロのブーツが、がんがん画面を侵しまくる。

Vol.8
『アコード・ファイナル ACCORD FINAL』(38)監督:イグナツィ・ローゼンクランツ

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ドイツを離れアメリカへ渡る合間に2本の作品をフランスとオランダで残したサーク(=ジーレク)。『アコード・ファイナル』はそのうちのいっぽん(ただし正確にはフランス・スイス合作)。前者にはジーレクのクレジットはどこにもない。スイスで出会ったプロデューサーから、その義弟ローゼンクランツの処女作の全面的な監修を依頼された、という経緯。ジーレク快諾、ながらウーファとの契約を破棄した彼は会社から訴追を受けていたらしく、さらに自分の居場所をナチスに知られるのも避けねばならなかったため、ノンクレジットを願い出たという。なので「監修作品」といったところ。あるところでは「俺がほとんど監督したようなもんだ」と語っているし、他のところではかなりつっけんどんにこのフィルムを語っていたりもする。わからんなあ。

とはいえ冒頭の湖の煌めきに進むボートを見るとき、ああ『心のともしび』(54)の原型だとか、あるいは湖を渡る物語の移動が、進行中のボートから映した水面のショットだけで示されるのは、これは、海を挟んだ物語『第九交響楽』のショットでもあった。また様々に仕掛けられた、身分を偽るというテーマもいつも通りサークなのだった。

舞台はスイスの音楽学院。ケチな先生に反発して、ひとりの闖入者とともに生徒たちが結束してコンサートをやり遂げる、そんな学園もの(学園チームもの)のお手本といえる。その路線としてはサーク唯一ではないか。教室に座る生徒たちの直線の列からコンサートの舞台に座る彼らの半円状の形態へ。その形態的なたわみが物語のしなやかさをも体現してゆこう。サークの円環が半円として開かれた状態の本作は、その意味で、ある種の風通しの良さと寛容性とを備えているだろう。賭け(10番目に学校の門をくぐった女の子をものにする!)を楽しむ金持ち親父たちと貧乏学生たち、男と女、ある女から他の女へ、そうした二極が接続され最終的に平等を獲得する過程は他の作品には見られないものか。

そうえば『翼に賭ける命』では、周囲のすべての人間が、結果的に、ひとりの男の死に加担してしまうというそんな構造になっていた。飛行機を巡るチームの結束がまったく逆の展開を生んでしまう。ラングやあるいはカザンとは別種の、集団の暴力性に対する感覚があるような気がする。そんなことを逆に、『アコード・ファイナル』を見ながら考えた。

*東京フィルメックス「映画大国スイス 1920 ~ 1940」特集上映枠にて11/25, 26と上映。詳細こちら→http://www.filmex.net/index.htm

Vol.7
『世界の涯てに Zu Neuen Ufern』(37)

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『第九交響楽』(36)においてその静かな佇まいで陰からフィルムを指揮したヴィリ・ビルゲルと、次作『南の誘惑』(37)で再び歌姫として登場するツァラ・レンダーの、歌(メロディ)とドラマが紡ぐメロドラマ。どちらもサーク(ジーレク)お気に入りの俳優だったよう。メロドラマに必須の「障害」という要素が流刑地(ヴィクトリア朝時代オーストラリアのパルマッタ、女性用の流刑地だ)として登場する本作は、『第九』と比べ、中心軸が分かりやすいとも言えよう。決して美女とは断言し難いレンダーだが、こうした異国におけるストレンジャーにはぴったり。当時大ヒットしたらしい。 女性に対する慣習やモラルが全体を覆いながら、そして決定的な転換点にかならず法(契約)が配される。結婚、人身売買、小切手など、さまざま契約の履行、不履行、詐欺が重なり合い、登場人物たちの行く先を方向付けるだろう。女性用の牢獄からの脱出手段が「脱獄」ではなく「結婚」なのだが、その場面をあたかも人身売買のごとき様で見せるあたり、どこか、この結婚なる契約制度の限界点を覗き見させるようでもある。

とはいえ、ここでは鏡のショットについて。このフィルムでは最良のとき、つまり女が男とともにいたときには鏡のショットがない。それを我々が見るのは彼女が最良のときを失った後だけだ。その鏡に映る姿は、まさに、過去とのあいだの越え難き距離として現れるだろう。しかもその鏡は、過去の男ではなく新たな男が彼女へ最初のプレゼントとして買い与えるもの。その移行を、何気なく鏡のショットで見せてしまう残酷さにこちらの顔まで歪もうものだ。

なぜこの男(女)はこの女(男)を愛するのか、いや、愛していると誰が何が確証するのか。この単純ながら深遠な問いが、それぞれの経験する他の男女関係からグイグイと締め付けられ、炙り出されてゆく。

Vol.6
『悲しみは空の彼方に Imitation of Life』(59) by 藤井陽子

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ダグラス・サークがアメリカで撮った最後の作品であり、最高傑作と囁かれもする『悲しみは空の彼方に』。サーク特集の幕開けはまずこの作品からだ。シネマテークにある三つの会場のなかでもひときわ大きな「アンリ・ラングロワの部屋」(300人くらい入るのだろうか)は人で溢れかえり、その興奮と期待の熱気に包まれてスクリーンがゆっくりと姿を現した。
オープニング。スクリーンの上辺から無数の水晶がゆっくりと降りしきって、それが重力と浮力のバランスに導かれ隙間なく着実にスクリーンをいっぱいに満たしていく。「まばゆい」という言葉がぴったりのそれに、周りからは小さくため息がもれる。私も同様。始まる前から興奮しすぎだろうか、この始まりにはどこか、ダグラス・サークのメロドラマかくありかと思わせるような美しさの幻影と真髄のリズムをちらり見せられた気持ちになる。テクニカラーの美しい撮影はラッセル・メティによるもの。

コニーアイランドの真夏のビーチは、多くの人で賑わっている。思い思いに寝そべり歓声をあげてはしゃぐ人たちのなかに、白いワンピースを着たローラ(ラナ・ターナー)が階段から駆け下りてスカートをゆっくりとふくらませ、娘の名前を呼びながら、観客をこれから始まる舞台へと導いていく。駆け降りた先に待っているのは、ドラマの主要人物、ローラ、スージー、未亡人で黒人女性のアニー、その娘サラ・ジェーン、カメラを持った男(のちにローラ、スージー、サラ・ジェーンから愛されるが、静かに脇役に徹する彼)スティーヴ。出会う時は出会うのだと、遠回りをはぶいた邂逅(5人一挙に!)のいさぎよい話法にまず驚愕。その後、彼らはいくつもの出来事を重ね、幼かった娘たちは美しく成長し、5者5様に絡まりあいながらドラマを稼動させていく。女優の仕事の依頼を告げる電話とスティーヴの情熱に板ばさみになりながらローラとスティーヴがキスするところといい、サラ・ジェーンが人種的な悩みを抱えた末に母アニーとナイト・クラブの楽屋で言葉を交わす時の羞恥と嫌悪とねじれた愛情の中をもがく姿といい、ローラ、スージー、サラ・ジェーン、スティーヴの四角関係といい、メロドラマはうねるうねる。

そのかたわらで気になるのは、ドラマの織目から少しずつ染み出してくる、女優としての生活を持つローラや、白人の容姿でも実は黒人の血を持つことを悩んで常に自分を白人だと演じるサラ・ジェーン、スージーの言い放った「演じるのはやめて…!」だ。『オープニング・ナイト』(87、カサヴェテス)のジーナ・ローランズ、『黄金の馬車』(53、ルノワール)のアンナ・マニャーニの持つ独特の魅力、演じることと生きることの重複部に半ば意識的に立ってその間をゆれている女の姿、そのどこかロマンチックで不安定な形態に繋がろうか。この「演じられた人物」という意識は、女たちだけに限らず、この映画全体に通底する意識だというようにも感じられる。ベールがかけられたようなこの感覚は何だろう。

この映画の中の、演じることと生きることの間で起こる運動には、例えば幻想を突き破って響き渡るアンナ・マニャー二の笑い声や震える体といった、突出した現実の瞬間と幻想の、不意打ちの幸福な混交があるのではなく、幻想を幻想として、最も純粋で濃厚な厚みを持ったものとして結晶させることに心が置かれているようだ。ラナ・ターナーはラナ・ターナーとしてではなく、ローラとして、ローラとスージーとスティーヴの関係を作るひとりの女として美しい。この映画の中の、演じることのベールをひとつ脱いだ女は、その下にまた違うベールをまとっているのであり、いくらベールを脱いでも本当の彼女たちが見えないもどかしさと恍惚が、このメロドラマにある種のタッチを加え、確かに包んでいる。それは、彼女たちの方へ避けがたく感情移入させられつつも、彼女たちには決して近づけないと思わせる遠さを生みだしていて、『天が許し給うすべてのこと』(55)にも通底して、見るものをこの緩衝地帯で熱くさせている。僅かなタッチの下には、残酷さとどぎつさが確かに息づいているのに、それを握り締めたら、なぜかまばゆさが滲み出てしまったというような稀有さも、ここから生じるのか。

アニーの死によって、再び5人はひとつの場所に集まる。外は雪。ひとつの終わりと新しい始まりの地点に立った彼らを捉えて、映画は幕を下ろし、会場内は興奮の余韻に満ちた。

Vol.5
『第九交響楽 SCHLUSSAKKORD』(36)

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NY。ニューイヤーを迎えた喧噪。音楽、ダンス、仮装、シャンパーニュ、時計台。『サンライズ』に連なる大都会のイマージュの重なりと混じり合いから突如、雪の積もる公園へ降り立つとき、いまだ喧噪を引きずる仮装者が愉しき酔いでひとり。その千鳥足の先には暗いベンチにうずくまる男……。が、ゆっくりと崩れる男。死だ。貧窮の挙げ句の自殺。彼の顔の代わりに見せられるのは、ただ雪の上に落ちた仮面の表情だけ。

『第九交響楽』はそうして幕を上げ、生への魅惑と死への魅惑を一挙に知らしめてくれる。『翼に賭ける命』(57)のはっきりとした原型がここにあろう。実際ここにいるみながみな何かに心奪われ、魅了されている。ある者はベートーヴェン第九に、ある者は未来を読むオカルト師に、またある者は水槽のなかの金魚に。魅了されること、つまり自らを失うことで、ある者は生へと、ある者は死へと巻き込まれてゆく。キャメラは流麗な運動によって、あるいは、闇と光のグラデーションからなる静止によって、その、我を失う顔たちを捕まえてゆく。劇場の客席でオペラに心奪われるハンナの、あの、美しさを越えた表情は、このフィルム(初のメロドラマ的メロドラマ)にて初めてサークが獲得できたものだろう。

実母でありながら、故郷ドイツに残した息子の養子先夫婦に、家政婦とし偽装して入ってゆくハンナ。彼女は、その夫婦の夫が指揮する第九に陶酔し病の床から回復する。そして不妊で、オカルトに陶酔し、夫も新たな息子も目に入らぬ妻シャルロット。ふたりの女性に託されるのは「魅了されること」の両義性だ。他者に心奪われることと自らに心奪われること。つまり他者の顔を自らに受け入れるか、あるいは、自らの顔を他者に投影するか。サークにおいて、死は、後者の人間たちに与えられる。それはまた、ドイツにまだ留まらざるをえない彼が行う、ナチスに魅了されるひとびとへの愛に溢れた警鐘でもあろう。

ひとつの事実を。サーク第一の妻は離婚後ナチに入党し、彼と息子のコンタクトを禁止する判決を勝ち取る。サーク二番目の妻がユダヤ人という理由で。そして息子もまたヒットラー・ユーゲントへ入り、さらにナチのイデオロギー映画の子役として活躍しはじめる。息子に出会う唯一の手段、それは映画館の暗闇に腰をおろすことだった。ナチスへ陶酔する元妻。息子を見るため映画館の客席に座るサーク。あたかもハンナのように……。そしてまた彼は直接息子に会える望みをまだ捨てていなかった。まだ息子の目を覚ませてやれる望みを。だからドイツに留まった。

Vol.4
『四月、四月 APRIL, APRIL』(35)
『LIEBLING DER MATROSEN』(37)監督:ハンス・ハインリッヒ

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ユニヴァーサル時代の上映もあったがせっかくなのでドイツ時代を。『APRIL, APRIL』は「ルビッチ的」などとも評される社会風刺コメディ。パン製造業で財を成し新たにパスタ製造に乗り出した成金プチブル家族。エイプリルフールに仕組まれた嘘(公爵が工場を訪れる!)をきっかけにその一家を翻弄するドタバタ。偽公爵と本物の公爵。噂話と一家の体面……。ぜったい知り合いたくないフランス人成金親父が『ショタール商会』(32、ルノワール)にいるとすれば、ドイツ人のそれはここにいるといったところか。愉快。

バーレスクに見られるような明確な価値転覆ではなく、嘘と真実のグラデーションこそがこのフィルムの妙。たとえばウィスキィをジュースだと騙されて飲み続けいつの間にか酔っぱらってしまう、そんな愉しき酔いの進行にちかい。嘘と真実の入り交じる液体を嘘と真実の2本のストローで飲み干してゆく。どちらのストローにも嘘と真実が不確定に混じり、彼らは愉快な酔いとともにその液体のなかを生きてゆく。そうしたグラデーションからなる液状の環境が「噂話」として現れる。公爵が来るんだって、娘さんと公爵がデートだって云々と、噂、つまり人々の囁きという無数の粒子からなる環境があり、それを一挙に知らしめるのが嘘という方法であり、真実という方法。

ここで重要なのはどうやら、身分を偽る、偽装とでも呼ぶべき手法。彼が脚本として参加した『LIEBLING DER MATROSEN』はまさしくそんな偽装のオンパレード。父でない男は同時に父であり、母でない女は同時に母であり、また男は自分自身の伯父であり云々。そうした関係性のグラデーションのなかに恋が産まれ、新たな家族が産まれる。『男装』(35、キューカー)に通じながら、さらに大きな場所へと我々を連れて行ってくれる小品。

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Vol.3
『南の誘惑 LA HABANERA』(37)

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ドイツ時代最後の監督作となる『南の誘惑』。どうにも気になるフィルム。なぜならどうにも弱いと感じてしまうから。サーク失速? いやいや、この弱さはいったい何なのか。

エキゾティックな南、プエルトリコの島の大地主に魅了され即結婚してしまうスウェーデン人女性(『世界の涯』(36)にも主演のスウェーデン人女優ツァラ・レンダーが演じる)。そんな驚愕の設定なのだが、たとえば『扉の陰の秘密』(48、ラング)における、路上のふたりの男の決闘と闘牛シーンによる、あの恐怖と快楽すれすれを抉る冒頭に比すとき(『南の誘惑』でも、つかみ、つまりエキゾティックな国と男に惹かれる装置として闘牛が用いられる)どうにも弱いと言わざるをえない。あるいは、ストレンジャーとして入った楽園がやがて地獄に変容するという残酷さ。その点は、世界の変容に取り残された貴族の、崩壊に抗うギリギリの凛々しさを伴う『呪われた城』(46、マンキウィッツ)が遥かに上をいこう。

もちろん、地獄に変容したその世界の一部屋で演出される男と女の空間、表情、姿勢、光など、サークはありえない美しさと恐ろしさを見せてくれる。「あなたもこの国も私にはずっとストレンジャーなの」。あたかもイプセンの『人形の家』の精髄を見るような。だがもっとも重要なのはこの南の小国が一種の政治劇の場に変容している点だろう。あくまでナチスとの共犯関係にあるウーファに対する、ジーレク=サークの寓話的作戦とでもいうのか。「かつては楽園だった。でもいまは地獄」。ペスト吹き荒れる島を去る船上でレンダーが呟くラストの一言。それはきっと、いまジーレク=サーク自らがいる場、つまりウーファに向けられていたはず。

Vol2
『宮廷演奏会 DAS HOFKOZERT』(36)

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泣く。少々散漫に始まりながら気付いたときには、すでに、後戻りできぬ場所に入り込んでいる。度々取りざたされるサークの円環運動とはそういうものか。ここにも観覧車が廻り、そしてワルツの回転でフィルムは幕を閉じる。

「おじさま不潔だわ」とはにかむ瞬間の原節子にそっくりなマルタ・エゲルトが、もう堪らなく可愛い。随所にミュージカル的要素を盛り込んだ歌と愛を巡るコメディでありながら、それでいて、思い出の純粋形態が水晶のように現れわれらの胸をしめつける。かつて宮廷歌手だった母の歌を、娘が同じ場所で同じ人々を前に歌い、そうやって誰かの過去を忠実に再現することで、思い出は人称を越え出て、現在が素晴らしいヴォリュームを獲得する。絵画や写真といった表象=再現装置が随所に演出されながら、しかしもっとも重要かつ唯一の装置(門外不出の譜面)が燃え上がり消え去るときの炎。その煌めきが現在だといおうか。

身分を知らぬ者同士が対面するという偽装的主題は相変わらずながら、さらに、どこか不思議の国に舞い込む少女を思わせ、そしてさらに、近親相姦のエグさまでカヴァーするこのフィルムは、ベルイマンの最上の恋愛コメディ『愛のレッスン』(54)や『夏の世は三たび微笑む』(55)を思い出させもする。泣けた。

Vol.1
『沼地の女 Das Madchen vom Moorhof』(35)


11/9(水)のオープニング上映『悲しみは空の彼方に』(59)をさっそく逃す。個人的には翌日上映ドイツ時代(1935-37、デトレフ・ジーレク名義時代)のこの1本『沼地の女』(フランス語タイトルより訳出)よりのスタートとなった。ダグラス・サーク全レトロスペクティヴ(於シネマテーク・フランセーズ)だ。現在ルノワール、クローネンバーグとやや過剰に特集が重なるシネマテーク。おもに「文化愛好家」の方々(ルノワール)、高校生・大学生(クローネンバーグ)と、緩やかに客層が固まりつつあるそれぞれのなかでサークの会場はもっとも観客の温度・湿度ともに高い。真打ち登場、か。ほとんどサーク体験のない身としては、そう、これから愉しくこの作家を発見していきたいと願うばかりだが。とはいえ客席について周りを見回すとなぜだか緊張。がんばるぞっ。

女性ふたり、男性ひとりという設定もさることながら『沼地の女』で目を見張るのはまず、ルノワール『トニ』(34)にも通ずるそのネオレアリスム的な屋外撮影の美しさ。これはドイツ時代、アメリカ時代を通じてもほとんどないのではないか、と勝手に予測。生に幻滅しかけた無垢なる「沼地の女」が、すでに地主の娘と婚約寸前の農夫によって小間使いとして雇われ、生の歓喜を再び、あるいは初めて獲得してゆく。それは田舎の大地を木靴とともに耕し、駆け、あるいはバケツを持ち上げ、という、働くことによる交感から産まれるものだ。とはいえ、もちろん彼女の無垢さはつねに対極のベクトルを抱え、それはフィルム全体にも言えること。天使と魔女、愛と死、あるいはネオレアリスムと表現主義的技法。たとえばヴァージンロードの祝祭がそのまま同時に牢獄への祝祭となるような。一方の極に忠実であればあるほど他方の極を同等の濃度で導き入れてしまう、そんな運動か。脇役の造形も美味い。伏線とその回収も然り。そして回収後にどどっと訪れる余剰。そこには何かしらこの世界の喜びと、えげつなさが同時に存している。


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