
禊のロック
『カーネーション/ ROCK LOVE』で「遠浅の生温い海」の話をしている部分がある(リラックスできる究極のシチュエーションは何かという流れでの発言のはずだ)。集中して物を作っているとついついいろんな余計な感情を呼び込んでしまうし、邪気に触れ、なんらかの心理的な混乱も増えるわけだ。まず、そういう状態の時だったり「いざ」という肝心な時に、フラットな気持ちに立ち返るためにも「自分が一番幸せだった時」のイメージをたぐり寄せて、その中で自分を遊ばせてあげると不思議と気持ちが柔らかくなるものだ。トレーニングというほどの大袈裟なことでもないが、おれの場合、子供の頃に行った房総の遠浅の海の温度が「幸せな記憶」のひとつにある。透明で安全な遠浅の温かい海に座り遠くをただ見ている姿。そのイメージはいつでも呼び出すことができるし、その景色は色から何から何まで、いつまでたっても変わらず自分に中にある。心の中の庭、いつ戻っても何ひとつ揺るぎない場所。おれは何かというと、そこからいつも生きるパワーを得ているような気がしている。
本でいうと、意外かもしれないけれど深沢七郎『みちのくの人形たち』の文体、ひらがなの抜け、余白の白さにはある種、魔除けの効果を感じたりもする。内容はかなり怖い話なのに、不思議なものでおれにとっては禊のような感覚でつき合える一冊だ。「マタイ受難曲」は禊だと語ったのは武満徹だが、その気持ちはとても良く理解できる。作家とは邪気をもって気をあつかう因果な商売なのだ。おれは昔から信仰は特にこれといってあるわけではないけれど、遠くへ出かける時は神棚に「パン! パン!」と向かい合うし、ライヴ直前には相撲取りのように、気合いをいれて肩を「ポン! ポン!」と祓う。これだけでも随分と気は軽く楽になるものだ。
『ROCK LOVE』はカーネーションが11人編成で挑んだフル・ロック・オーケストラだったわけだけど、あれはバンドにとって24 年目のある種の禊のような儀式だった。ドラムスの矢部くんが映画の中で「(これをやってしまうと)楽しすぎてもう3人には戻れない」と語っていたけれど、それは正直すぎるほど正直な意見だったと思う。長年たまってしまった邪気をまとめて面倒見つつ扱わざるを得ない現実世界と、遠く幸せな印象のイメージ世界との綱渡りとはそういうものだ。結局、その後のメンバーは何かに動かされるようにそれぞれが個に戻った状態が半年以上続いた。矢部くんは念願のソロ・アルバムを作り、大田くんは仕事をアップグレードし、おれは主に疲労した身体を整えたり、ライヴでのソロ・ワークやこの本のことを考え続けた。そうするしかなかったという精神状態もある。あの映画の中にはそういったメンバーなりの悲痛な叫びが随所に隠されている。『ROCK LOVE』は正直な作品だったし、正直なライヴだった。
強く、幸せな場所に還ることを意識し、努力しないと「やっていけない」ように思う時もある。音楽を選んで演奏したり、聴くことも同じだ。さらに、その際にはおそらく代償のようなもの、何かと引き換えなくちゃいけないものもある。そこは注意すべき部分だ。作家が念をこめた絵、小説、詩、映画。「契約」の中に生まれた音楽の持つ「魔」。それはそれは背負ってきたものは大きい。軽薄とも見られがちなポップ・ソングだけれど、その切実な思いや念のこもった怖さや重さも、黒いヴィニールを手に取り、覗けば必ず何かが見えてくる。とてつもなく幸せな記憶が蘇る分、そのすり減った溝の深さや、歌の業の深さは並大抵のものではないと気付くはずだ。つまりは、心して「自分が一番幸せだった時」へ旅に出なくてはならない。
※直枝政広『宇宙の柳、たましいの下着』より抜粋(一部改稿)