
ロックほど素敵な退屈はない
カーネーションというバンドのことはファースト・アルバム『Young Wise Men』(88年)から知っていた。革靴の底がアップになった印象的なジャケット̶イメージはスティーリー・ダン『摩天楼の幻想』のジャケ・イラストと繋がっている̶が、バイト先のレコ屋に入荷してきたことを覚えている。
それから10年以上、彼らの多くの作品を耳にしてはきたけれど、今ひとつ、のめりこめない壁のようなものを感じてきた。その壁が取り除かれたのはメンバーが直枝政広、大田譲、矢部浩志の3人になってから。21世紀の話だ。視力が落ちて目が悪くなったのでメガネをかけたらよく見えた、というんじゃなくて、むしろ長年かけていた(ということすらも忘れていた)度の合わないメガネをはずしてみたら、くっきり見えるようになった、というような感じで、カーネーションの音楽が自分の中で響きはじめた。
彼らがトリオ編成としての大きなヒントとしたアルバム、アレックス・チルトンの『ルーズ・シューズ・アンド・タイト・プッシー』というレコードをその頃、僕も愛聴していたこともひとつのキッカケだった。ついミニマルなんて言葉に頼りたくなるその編成の美学。キモとなるのはスタイルがそのままアーティストのアティチュードと一致していることだろう。これでいいのだ、と、これがいいのだ、が1ミリのブレもなく密着している。
それから、幾度もライヴに足を運んで、新しいレコードも聴いている。そのたびに、先に書いた「3人」は一過性のものではないことを痛感させられる。残念ながら実演を観ることができなかったが、06 年12月の渋谷での11人編成による「ROCK LOVE」の音源にさえも、その「念」のようなものが感じられる。バンドにとって「守らなくてもいい」なにかを発見したように見える。
「エンジェル」は3人になってからのカーネーションの代表曲のひとつ。歌詞に花火が出てくる歌として「男の子女の子」と並ぶ名曲だと思う。どんどんと湧き上がるように上昇していくメロディの昂ぶりが最大の魅力だが、僕が一番好きなのは後半の間奏に出てくるブレイク。あのハード・ロック・バンドみたいなリフが出てくる瞬間だ。「3人のバンドでできること」として3人が一生懸命、しかも悩まずに考えたような、あの展開。歌そのものの完成度に対して、なんともシンプル。たとえステージで西池崇や渡辺シュンスケとの5人編成になっていても、いや反対に人数が増えている時こそ、「3人で作った」、あの部分に痺れる。乱暴を承知でいえば、あのリフにはロックの美徳のひとつである「退屈」を思い切り味わうことができるのだ。
そう。3人になって以降のカーネーションの音楽には、ロックの退屈を知るものが、ロックの退屈を楽しめるものへ向けられた、極めて純度の高い退屈がある。退屈は言葉を変えるなら陶酔であったり、忘我であるのかもしれないが、やはり、ここは退屈という言葉にこだわりたい。
牧野耕一の監督作品『カーネーション/ ROCK LOVE』でのカット割りや映像効果を見ていて、ああ、この作家はきっと、ロックの退屈から逃れようとしているのだな、と感じた。というか、ロックの退屈、なんて言葉を思いつくきっかけは、まさに、この映画である。それをサービス精神ととるか、大きなお世話ととるかは観客次第である。思えば、このテーマは、音楽を扱う映像作品についてまわる、恐らくは終ることの無い最大の命題だと思う。さらに『ROCK LOVE』を観ていて気づいたことは、僕自身、すでに何度も「カーネーションの映画」を“自分の中で” 監督、撮影、構成、演出してきたこと。映画の間、その映画と、牧野作品とが火花を散らして戦っていた。携帯の電源を落としても、この火花が映画館の暗がりを照らすかもしれない。
『ROCK LOVE』は金言にも満ちている。バンドと共に株式会社ハリケーンを設立した本根誠の「カーネーションは金になるバンドだって確信してた。今もしてる」という一言には痺れまくる。男(バンド)たるもの、こういう女(?)に惚れられてナンボ、だ。いや、とにかく。映画を観ていてもライヴも観ていても、いつも、いつも感じることは、つまるところ、やりたいことやって幸せなバンドだということ。僕が幸せを感じるのは、こんな幸せな人たちを見ること。そういう意味では、『ROCK LOVE』も例外ではない。そして、また、早くライヴが観たくなる。
カーネーション、100人乗っても大丈夫。
安田謙一(ロック漫筆)