
幻想列車、走る
『宇宙の柳、たましいの下着』は、いくつかの側面がある。ひとつは美学と偏愛。正確に言うと、偏愛というフィルターを通して直枝氏の美意識と立ち位置が見て取れる。これについては綴られた言葉を各自が読み取ればいいと思う。本書は、今年の初夏に毎週行われたインタヴューがベースになっていて、それを下敷きに直枝氏による加筆、書き下ろし、それにリミックスが施され、形を成したものだ。インタヴューに同席して、内野席から下敷きの部分を見て来た立場から、この本を紹介してみたい。
先ず、本書を貫くスピリットはアンチ・カタログ本である。巷で話題のアレとアレ、10年前に猛威を振るったホニャララ系に対する猛烈な反発がセレクションに反映されている。まあ、もともと天の邪鬼というか、コソーリ、中古レコード屋のエサ箱から引き出して、ひとりニヤニヤしながら悦に入るなら、「旬」なアイテムよりも、無風地帯に置き忘れられた物件の方が良く、その一枚、一枚を繋げてゆくと、廃盤ならぬ、かつてある土地に走っていた幻の路線区ができ上がる。カーネーションに「幻想列車」という名曲があるが、大井町の汚れた運河と雑踏から、銀座の数寄屋橋、かつての花街、湿度の高い水戸街道を走り、江戸川を渡ると空気が一変し、その空気は高尾の山、三浦半島のヘソ、葉山の子安の里へと通じる、幻想列車の車窓の景色と車体の軋む音。できれば汽笛も鳴らして欲しい。
あるレコードが作られた具体的な背景も、ブリティッシュ・ポップだ、スワンプ・ロックだというカテゴリーをいったん外して、幻の列車の車窓の景色、もしくは停車する駅、また突然、急行列車になり、通過する駅になったりする。鉄道模型ファン限定のタームかも知れないが、直枝が作った音楽の風景のジオラマである。
ひとつ注意してもらいたいのは、直枝自身はここで描かれた、音楽家や作品の廻りを周回している衛星のように見えるが、彼自身は「地動説」の人で、太陽も月も星も直枝を中心にまわっている。そう彼は鈴木慶一よりも、矢沢永吉や岡村靖幸に近いのだった。そこのロック純情とエゴの地動説によって生じる「ねじれ」を読者はある程度は意識して読む必要がある。このふたつは一定したものではなく、基調になることもあれば、味付けになることもあり、位置が変わり続けるからだし、直枝の美意識を解く鍵になるからだ。
もうひとつは世代的な「ねじれ」がある。『宇宙の柳、たましいの下着』のセレクションは70年代の成熟したロック、フォーク、ポップスが核になっていて、実際、カーネーションの音楽と繋がりはある。ただ、わたしや直枝の世代には、70年代の音楽は失踪した父親のようなもので、多感な時期は音楽の転換点だったことは忘れてはいけない。それらの音楽が「はい、これまでよ」とばかりにリセットされて、いま見ると非ヴィンテージ感の漬け物のような80年代の音楽、その他各種サブカルが母親なのだ。90年代のロック/ポップスは、簡単に云うと、80年代の音楽のあり方やプロダクションに対する反省から始まり、なしくずし的に70年代の再評価が起こり、新しい観点でカタログ化されたわけで、先述したように、そこに対して猛烈にアンチなソウルが燃え上がっているので、音楽史的な立ち位置は幾何学的に複雑というか、複雑骨折しているというか……直枝が苦々しく「サブカル」というときの背景はかようにこんがらがっている(本書はまごうことなくサブカル本だが、スピリットはアンチ・サブカルなのです)。さらに、職業的アイデンティティー、ポップス制作の直枝ゆえ、マドンナやビヨンセ、竹内まりやなど、チャートのてっぺん、マーケットのストライク・ゾーンど真ん中には、常にアンテナではなく、チューニング・メーターをセットしているわけで、「ねじれ」は縦走化してゆくことになる。
さらに、追い打ちをかけるように、直枝は、言葉で説明できない物を説明するために、言葉を使う。だからと云って、本書は『フィネガンス・ウェイク』でも、『エイプス・オブ・ゴッド』でもなく、直枝の好きなリチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』なのだ。奇妙なイメージや不可解な隠語めいたものに満ちていても、「失われた風景」に対するノスタルジー、何気なく日常的に存在しているものへの愛情……横町のねじれたコスモロジーの正体は表紙でささやかに謳われている。そう、本書は21世紀の東京っ子の本なのだ。どこに行っても、何をしても同じという事に気付いた時、詩が生まれる、と云ったのは、漱石だったか……。
中山義雄