9月公開の「ベンダ・ビリリ」を見た。
コンゴのキンシャサを拠点にする、ホームレスやハンディキャップを持つ人々のバンドのドキュメンタリーである。 

全体のストーリーは、ヴェンダース&ライ・クーダーの「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」なんかを思わせる、ドリーム・カムズ・トゥルーな道筋がつけられているのだが、何よりも彼らの音がいいのが嬉しい。

音がいいだけではなく、映画の製作者たちが彼らの音を聴かせようとする時のほとんどで、外部の物音も一緒に入れている、そのスタンスに惹かれた。
つまり彼らの音は単独でそこにあるのではなく、常に彼らの周りの世界とともにあることが、この映画の中で示される。
彼らは世界とともに生きる。
家がないとはそういうことだ。
外部の音がすべて彼らの中に入ってくる。
そこから彼らの音楽が生まれる。

よく見ると彼らがレコーディングするスタジオも、外に向けて開放されているではないか?
見間違いだっただろうか?

足が不自由な彼らが車いすを離れ直接その不自由な足(というか膝)で大地に立つ時、その姿は、そのアフリカの大地こそが彼らの足なのだというふうにも見える。
彼らの音楽は大地から浮上して彼らの身体を通って「音楽」となり空の果てへと拡散し、そしてまた空の彼方から大地へと降り注ぐ。
そんな音楽の循環の途方もない広がりがそこにあった。

たとえば、ライヴ会場の音を映画館の空間目一杯に広げ、そして最後にはアンプから出るモノラル音の、ひとつの音楽の塊に向けて音を次第に収縮させていったペドロ・コスタ「何も変えてはならない」と一緒に見てみるといいかもしれない。

かけがえのないたったひとつの音があるということ、しかし世界中からわき上がり降り注ぐ音があるということ。
そのどちらも身体中で受け止めたいと思うのは強欲なことだろうか?

ベンダ・ビリリの公式サイトはこちら→

樋口
 


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