
2004年 boid日記 2月
Text by 樋口泰人
2月29日(日)
本日は夕方からバウスシアター「爆音ナイト」のラインナップ最終調整。
ほぼ出揃って、火曜日には最終決定の運びとなる。
このオールナイト・シリーズのタイトルを決めねば。
これがなかなか難しい。
イーノのオブスキュア・シリーズとかキングだったかワーナーだったかから出ていたノンサッチ民俗音楽シリーズ、みたいなあっさりしてわかりやすいタイトルがいい、という話をするが、具体案は浮かばず宿題。
その打ち合わせの帰り道、携帯に電話あり。
中原君である。
「今日は来ないんですか?」という第一声。
ワイヤーのライヴがあったのである。
後期ワイヤーがどうもしっくり来ず10何年か前のライヴにも行かなかった私は、今回はかなり迷ったのだがなんとなく嫌な予感がして、行かないことにしたのだ。
だが、中原君の口調があまりに不思議そうで、つまり、当然ここにいるはずの人がいないのはどうしてなのか、というストレートな疑問を発していたため、なんとなくその気になる。
すでにビッグ・ピクチャーの演奏が始まりかけているのだが、ワイヤーまではまだ時間があるから大丈夫だと中原君。
あわてて家に帰り、夕食と食後の食器洗いをブリブリとやっつけて、渋谷まで。
すでにビッグ・ピクチャーもメルトバナナも演奏が終わり、ちょうどワイヤーの演奏が始まるぴったりのタイミングで到着。
もうその時点で、いきなりガツンとやられる。
若者のように身体をうねらせ歌うコリン・ニューマン、スキンヘッドになり妙な貫禄が出たそのままの迫力のベースを弾くグレアム・ルイス、もしかするとこの人がもっとも変化しているのかと思われるロックでもパンクでもテクノでもないサイボーグのようなリズムを刻むロバート・ゴトベッド、それにデレク・ベイリーのような風情で周りの騒がしさをものともせず微動だにしないままものすごいギターを聞かせるブルース・ギルバート。
すでに60歳くらいになる彼は、もう、孫もいるのだそうだ。
昨日の稲川さんの映画のタイトル「たった8秒のこの世に、花を」に絡めて言えば、たった1秒にこの世のすべてを詰め込んで1秒で終わる世界が、次々に目の前で展開されていく。
70年代末のニューウェイヴという音楽は、すべて彼らの音楽を指すのだと断言したくなる、シャープでその場限りでしかも永遠である音。
こんなことがあっていいのだろうか。
マジで涙が出た。
「たった8秒」の撮影対象となった画家の福山さんは銅版だか鉄板だかに傷をつけ、薬品をかけて錆びさせながら作品を完成させていくのだが、ブルース・ギルバートのギターはその錆びた鉄板に向かってビシビシとスチールを打ちつけ錆の奥にあるギラギラした鉄のきらめきを無理やり世界に向かってきらめかせるのだ。
こんな音楽を聴けただけでも生きていた甲斐があった。
そんなことを思ったのはペル・ウブのライヴ以来か。
中原君は泣きながら叫びまくり、もうグシャグシャ。
人生最高のライヴと言い放ち、興奮冷めやらず。
私も中原君も、昨年、初めて携帯電話というものを持ったのだが、すべてこの日のためだったのかもしれないと、神に感謝。
ついでに携帯電話の発明者にも。
青山ではないが、世界の平和を心から願った。
終了後、新潮の矢野君や大竹伸朗氏などと新宿の某飲み屋に。
中原君の興奮は冷め遣らず、諸々の暴言が噴出。
「今日来なかったやつらは皆バカヤローですよ!!」などなど。
大竹さんは10数年ぶりにやってきたワイヤーのライヴがクワトロ1回だけしか出来ないという東京の音楽環境に怒りまくる。
ホントにどうでもいいような日本映画が年間呆れるくらいの数作られているのに。
それらの予算のほんのちょっとをペドロ・コスタに渡してワイヤーのライヴ・ドキュメンタリーを作らせようというプロデューサーは日本にはいないのか。
インビテーションも黒沢さんのDVDの次は、ペドロ=ワイヤーのDVDという思い切りのいい決断は出来ないのか。
この際「新潮」にも大竹さんの19や中原ヘアスタイリスティックスのCDをくっつけて盛り上げようではないかとワーワー言っている傍で、肝心の矢野君は酔っ払ってすでに寝てしまっている。
さすがである。
と、書き終わったところに青山からメール。
「あ、あんた鬼か、悪魔か……。」と。
何を隠そう、数日前、ワイヤーどうしようかという青山からのメールに、「私は今は、エリオット・マーフィーの方が見たい」と書いて、青山の行く気を殺いだのは、私なのだった。
でも、中原君にきいたら、中原君は会場から青山にも電話したということだから、やはりあの電話の気配を嗅ぎつけられない自分を呪うべきだろう。
まあでも、本当は青山には申し訳ないと思うばかりなのだが・・・
ああそうそう、大竹さんは「ロックは60歳から」と断言していた。
ブルース・ギルバートの姿を見ると、本当にそう思える。
まだまだ我々はヒヨッコである。
2月28日(土)
予告どおり(?)見事に寝坊。
あたふたと仕事の整理をしているともう夕方で、当然、nobodyのイヴェントにはいけず、とにかく稲川さんの作ったドキュメンタリー作品を見に映画美学校へ。
これもギリギリで、予想以上の人込み。
結局立ち見での1時間。
60年生まれのとある女性画家についてのものだった。
美術や詩に関してはまったく疎い私は、彼女の事をここではじめて知った。
にも拘らず、彼女のような人を何人も知っているという、その近さと共にそれを見た。
おそらくそれは、私の住んでいた80年代高円寺(現在、彼女は高円寺に住んでいるという)に、本当に彼女のような女性画家がいたという私の知る事実によるものではなく、彼女を見つめるこの作品の視線が、ある近さをもたらしているのだと思えた。
具体的には、彼女の顔を大写しにするカメラの位置と角度の問題なのかもしれない。
あるいはまた、ロングショットで小さく捉えられた彼女と漫画家の花輪和一の会話が、単に普通の大きさで聞こえてくるだけでなく、彼女たちのすぐそばにマイクがあってそのマイクが彼女たちの呼吸やその周囲のざわめきもすべて丸ごと拾ってきているようにミックスされた、音響処理のためかもしれない。
もちろんマイクがそんなところにあったら、ロングショットで捉えられるはずもないわけだから、彼女たちの会話はおそらく彼女たちの胸元につけられているはずのワイヤレスマイクが拾い、そしてカメラのすぐそばにある別のマイクが周囲の空気を拾い、それらが繊細に重ねあわされているはずで、それらスタッフや稲川さんの周到な計算と理性に裏付けられた視線によってもたらされる近さ、ということなのだろう。
それは親密なものでもあり、厳しいものでもあった。
ただ、吉増剛造さんが登場すると、一気に雰囲気が変わった。
これは作り手の側の問題ではなく明らかに吉増さんの問題なのだが、これまた初めて吉増さんが話している姿を見た私は、ただひたすらあっけにとられた。
語っていることもまっとうでごく普通の会話がそこでは交わされているのだが、吉増さんの視線、物腰、しぐさがどう見ても怪しい占い師か霊能力者に見えてしまうのだ。
これはすごい。
その軽やかな怪しさに、私は思わず吹き出しそうになり、笑いをこらえるのに懸命だったのだがそれでもくすくすと笑ってしまい、周囲の人に迷惑をかけたかもしれない。
確かその前くらいに、江戸時代の版画家の伊藤若冲の作品に関するエピソードがあった。
たまたま今作っている日本映画のカタログの表紙を若冲で行こうと試みたものの、昨年も断られたのだが今年もまた断られてショックを受けていて、そこにいきなりここで若冲の絵を見せられて、何か怪しいエネルギーを注入されたためなのだろう、それ以降、見るほうの私のテンションもぐっと上がってしまい、個人的に大いに盛り上がってしまったのだった。
ただ、若冲の版画を200年早すぎたグラムロックととらえている私のような軽はずみなとらえ方は、この作品では決してなされていなかった。
私がそれをグラムロックと言ってしまうことで見落とされてしまうような何かをこそ、この作品は見つめている。
それゆえの近さと厳しさが感じられたのだ。
君はそういうがこの事実を消すことはできないだろうというような、ある意味で親の遺言ともいえる、そんな作品であった。
そうそう、主人公の彼女は、あるシーンでミスフィッツの髑髏のTシャツを着ていた。
2月27日(金)
相変わらずあたふたする日が続く。
昨日は夕方、CDその他を持って安井君が遊びに来た。
お土産のラムチョップの2枚のアルバムが良い。
どうやらアメリカでは、オルタナ・カントリーというのがそれなりに浸透しているらしい。
かつてのカウボーイ・ジャンキーズや今で言えばロウなんかの生真面目さともちょっと違う。
ジョン・フェイヒーが触れているはずのアメリカのもっとも危険な部分の周りを周回している。
エリオット・スミス亡き後、ガス・ヴァン・サントの映画にもっともふさわしいのは彼らではないか。
「GERRY」や「エレファント」の背景で幽かに聞こえていたノイズの数々が一つの形になって彼らのアルバムの中にある。
そのお土産のお返しに、リー・ヘイズルウッドが60年代半ばに作った、トロトロのカントリー・ソングを聴いてもらう。
自分が幽かなものであることをまるで気づいておらず、あくまでその正反対の血の濃さの中で歌われる幽かな歌。
その流れで、深夜の作業中は爆音でのナンシー・シナトラ・ナイトとなる。
いつかあの「ドラマー・マン」のバタバタしたドラムを、「グッドタイム・ガール」のめくるめく展開を、バウスシアターの爆音環境の中で響かせたいものだと、まだ始まってもいないboidイヴェント「爆音シリーズ」のその後に思いを馳せる。
ちなみに安井君が某レンタルショップから借りてきたという小西康陽プロデュースによる和田アキコのアルバムも聴かせてもらったのだが、こちらもそれなりに面白く笑いながら聴いたものの、やはり、ナンシーにはかなわないことを再確認。
まあ、ナンシーのほうはもう30年以上も前のオリジナルだから比較に無理があるのだけど。
本日は、渋谷での打ち合わせのあと、つい、ディスク・ユニオンに寄る。
なんと、ロケット・フロム・ザ・トゥームズの新作が出ている。
どうやら昨年行き損ねたUCLAでのデヴィッド・トーマスのイヴェントの中で1日だけ再結成されたのがきっかけで、その後録音までしたらしい。
テレヴィジョンのリチャード・ロイドが参加、かつ、プロデュースも。
音の方はもちろん、悪くはない。
この「悪くはない」という微妙なスタンスを取らせてしまうその音の処理のされ方が良い。
テレヴィジョンにしろ、ワイヤーにしろ、70年代末のパンク/ニューウェイヴの時代のバンドの活動再開が相次いでいるが、そこには様々な理由や事情があるのだろう。
ただ、それぞれ40代後半から50代になり、何かが彼らの中にフィードバックしているはずなのだ。
ロケット・フロム・ザ・トゥームズが新曲ではなく当時の曲だけをやるという選択をしたことの意味は、おそらくその辺りにあるのではないか。
「悪くはない」というのは、その彼らの選択=意思によるものだと思う。
一昨夜はエリオット・マーフィー・ナイトだったのだが、近年のエリオット・マーフィーにもその感触がある。
デヴィッド・トーマスよりさらに強くそれを意識してるようにも思える。
その意味で、エリオット・マーフィーは近年のウディ・アレンに一番近いことをやっているのではないかと、ふと思う。
来日はしてくれないだろうなあ。
もう1枚買ったのは、ヤング・ピープルというバンドのメジャー・デビュー盤。
この名前で、男ふたり女ひとりのバンド構成といえば、つい、ヤング・マーブル・ジャイアンツを思い出してしまうのだが、まさに現代版のYMGという感じ。
ラムチョップといいこのバンドといい、アメリカのアンダーグラウンド・シーンの広がりは今でも私が気づかないだけで相当な深さを保っているのだということを、実感。
アルバムの最後の曲は「ナイト・オブ・ザ・ハンター」。
当然、映画からインスパイあされたらしい歌詞が聞こえる。
サンフランシスコのバンドらしい知性に裏打ちされた音、ということなのか。
ただ気になるのは、ソングズ:オハイアのアルバムでも1曲だけボーカルをとっていたスカウト・ニブレットなどもそうなのだが、USアングラ・シーンの才能ある女性ボーカリストのほとんどが、先日の初期ジョニ・ミッチェルではないが、その才能だけで歌っているのではないと思えることだ。
「ナイト・オブ・ザ・ハンター」ついでに言えば、その彼女たちの才能がいったんオハイオ川の氾濫によって流されて、流域に散らばったその広がりから歌が生まれてくることを私は願うばかりである。
しかし、こうなるとYMG「コロッサル・ユース」が聞きたくなり、つい、アマゾンに注文してしまう。
とまあ、こんなことをやっていたらすでに朝である。
本日(もう28日)のnobodyイヴェントにはもはや間に合いそうにない。
前もってお詫びしておく。
2月23日(月)
このところ毎日単純作業のデスクワークをやっているので、一日音楽を聴いていることになる。
聴いているとつい夢中になり、手が動かない。
集中してやるときの倍くらい、時間がかかる。
でもまあ、こんなものだろう。
昨日はつい、大ざっぱなことを書いてしまった。
少しフォローしておく。
『Ladies of the Canyon』と『blue』の違いを具体的に挙げておくと、まず、歌い方が違う。
高音の裏声になる部分を、『blue』でははっきりと意識的に使いこなし、そこに様々な変化をつけている。
それに伴って、高音と低音の音域が広がり、また、大きな音と小さな音の幅も出て、そしてそれらを使っての歌とアルバム自体の展開力が格段に力強くなっている。
この大きな幅と展開の中に、そこで歌われる様々な人や場所の物語が流れ込んでいるのだ。
だからもちろん、『しあわせの法則』が、『Ladies』を使ってそのような大きな幅を持つことも可能だ。
それをやれているかどうかが、ポイントだと思う。
全力で物語を語っているかどうか。
まあ、こんなことをぐずぐず言っていないでさっさと見ればいいのだが、それとこれとは話は別。
なかなか身体が動かない。
2月22日(日)
その後熱を出して寝込んでいたのだが、ようやく回復した。
基礎体力がなくなっているので回復が遅い。
最初は呼吸器に来て最後は胃腸。
しばらく固形物が食せず、つらい日々だった。
復帰したらしたで、思わぬ休みを取ってしまっただけにさらに仕事状況は厳しくなっていて、日記など書いている時間はないのだが、これまた訳あって。
というのも、リサ・チョロデンコの新作『しあわせの法則』という映画がジョニ・ミッチェルのサード・アルバム『Ladies of the Canyon』を下敷きにして作られているという話を聞いたので見る前にちょっと予習おこうと思いたち、手元にあった何枚かを聴きなおしたのだが、全然納得がいかなかったのだ。
このアルバムは聴けば分かるように、ルー・リードみたいな、とある町の人々のスケッチ、という形式で作られたアルバムである。
音楽的にどうのこうのというより、歌詞の中ででスケッチされている風景や人々の姿に思いを馳せながら聴くことになるのだが、まあ、それなりにいい感じで聴ける。
ただ、もしこれを下敷きにして映画を作るとなると、結局、このアルバムから30年後に同じようなコンセプトで作られたエイミー・マンのアルバムを元にした『マグノリア』のような、大勢の人物が登場してざわめきあうオムニバス・アルバムのようなものになってしまうだろう。
『マグノリア』は3時間も使ってそれをやり、それによって出てきた過剰な部分を堂々と見せているが、果たして100分そこそこのこの映画ではそんな太いものは期待できそうもない。
ジョニ・ミッチェルをやるなら、どうしてその次のアルバムの『blue』でやらなかったのか?
この二つのアルバムは1年しか隔たっていないが、この1年は、ティム・バートンの『シザー・ハンズ』と『ビッグ・フィッシュ』くらいの隔たりがある。
歌う立場が全然違っているのだ。
『Ladies』では外側から街の人々を見たスケッチだが、『blue』では歌うジョニ・ミッチェルの中に、それらの街の人々が入り込んでいる。
ジョニ・ミッチェルが街そのものになったというか。
彼女たちの歌をジョニ・ミッチェルが聞きながら歌っている。
誰にも気に止められず、大したこともできず、自分勝手に生き、誰かにひどいこともして、あるいはひどい目に遭いながら日々を過ごしている彼女たちの誰に自慢できるわけでもない人生と共に、歌が歌われている。
おそらくいつかは敵となって自分を苦しめるだろう人々の人生を、それでも生きる価値はあると肯定するような、徹底して開かれた場所から、『blue』の歌は歌われているように思う。
かつて村上龍は、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの演奏は簡単に真似できて、皆が真似したけれども、誰もヴェルヴェットのようには演奏できなかったと書いていたが、これが意味しているのも、ルー・リードの歌う立場を誰も真似しなかったということだろう。
70年代初期に作られたジョニ・ミッチェルのこの二つのアルバムの違いの質も、そのようなものだ。
確かに外側からのスケッチはクールだし、気持ちがいい。
でももう、映画はそんなことをしていてもどうにもならないということを、どうしていい加減分からないのか。
こんなことでクールを気取っているやつらには、やはり『スクール・オブ・ロック』のジャック・ブラックの正義の鉄槌を!
とまあ、大いに憤慨したのであった。
しかし、作られた映画は別物だから。
案外、そのあたりのことを承知しつつ作っているのかもしれない。
ちゃんと見て、感想を書きますので配給会社の皆様お許しを。
2月12日(木)
あれやこれやでガタガタになっているところに子供が熱を出し、一晩中真っ赤な顔してうなっているもので眠ることも出来ずにいたらその風邪がこちらにも飛び火して、しかも花粉症らしきものも絡まって仕事にならぬがやらねば仕事は終わってくれないので、この2日間『AA』編集はお休み。
この状態が3月末まで続くかと思うとさすがの私も呆然とするが、ようやく熱が下がって学校に行った子供が帰ってこない。
学校に電話しても先生は定時に帰ったと。
帰ってきた子供は、先生に言われた作業をやっていたと。
全く何がなんだか分からない。
むかっ腹を立てながら咳き込みつつ仕事仕事。
この間、かろうじて『スクール・オブ・ロック』と『ビッグ・フィッシュ』を見た。
『スクール・オブ・ロック』は個人的に乗り遅れた感あり。
カメラワークのドンくささに慣れるのに時間がかかってしまった。
青山と話していて、中原君はジャック・ブラックが触れている「ロックの正義」にやられたのではないかということになる。
ならばものすごく納得がいく。
極めて倫理的な姿勢だ。
大ヒットして、是非、ゼブラーマンをやっつけて欲しい。
ただやはり、引き攣りまくりのジョーン・キューザックに歌を!!!
ニコール・キッドマンだってT.レックスを歌えるんだから、ジョーン・キューザックに歌わせたって全く問題ないと思う。
最後のアンコールのシーンは一発かまして欲しかった。
ティム・バートン『ビッグ・フィッシュ』は、語り手と聞き手の交錯が良かった。
誰が語っても誰が聞いても一つの話でしかないものを、次々に語り変えていく構成のアンサンブルが、絶頂期のバーバンク・サウンドを思わせた。
ヴァン・ダイク・バークスの架空の新作、という感じにも思える。
これまた、最後の葬式シーンはガンガン行って欲しかったとは思うのだが。
うーん、忙しすぎて、少し気が立っているのかもしれない。
しかし、デヴィッド・ボウイはトニー・ヴィスコンティのプロデュースじゃないか!!!
全然知らなかった。
とってつけたような白々とした音の重ね方とボウイの年齢を超えた歌声の組み合わせはやはり絶妙である。
それからこの時期に突然日記を書いたのにはちょっと理由がある。
この場で何人かに個人的なお知らせを。
まず、コリン・ニューマンの件で彼が参加するCD(SIMPLE MEN『Portrait With Egg』)を送ってくれた大阪の栃尾さん、どうもありがとう。
ニューマンのCDは手に入れました。
SIMPLE MENの方は、コリンさんが参加していない曲の方が進化したコリン・ニューマンみたいに聞こえ、サックスの入った1曲目はピーター・ゴードンのラヴ・オヴ・ライフ・オーケストラを思い出してウルウルしました。
あと、「とよさん日記」とは何ぞや、という質問メールをくれた伊東さん。
メールが帰ってきてしまうので、ここでお答えを。
http://dravida.udn.ne.jp/cgi-bin/viebs.cgi
上記の場所にアクセスを。
「とよさん」については、青山日記の「イントロ」にて紹介がありますのでそちらを参照してください。
それから、私と1字違いの樋口寿人さん。
CDの感想を書こうと思っていたのですが、メールアドレスが分からなくなってしまいました。
気が向いたときに連絡くれれば、気が向いたときに感想を書きます。
それから、本日は、バウスシアターにて「爆音上映会」の打ち合わせ。
5月1日のオールナイトで決行することが決定。
具体的な内容は追ってお知らせします。
とりあえずそんなところ。
次は何時書けるか・・・