
2004年 boid日記 4月
Text by 樋口泰人
4月30日(金)
仕事がトラブル続きなのとゴールデンウィーク前のあわただしさで、ガタガタになっている。
この3日間で睡眠は6時間ほど。
1日2時間。
こんなことで「爆音ナイト」まで持つのかどうか。
昨夜は「デッドマン」「クンドゥン」「ココロ、オドル。」の爆音調整。
ジャームッシュもスコセッシも相当いかれている。
すごすぎ。
「ココロ、オドル。」は、この2本の前に、フィルムとDVの基礎体力の決定的な違いをあからさまに知らされてしまう。
おそらく金のかけ方も半端ではないだろう。
そしてそれ以上に、ジャームッシュのロック野郎ぶりとスコセッシのサイケデリックな狂い方。
もしかすると彼らは、これくらいの音の環境の中で、映画の音を設計しているのではないかと思える。
「デッドマン」の工場の音だけで、もう、そこからニール・ヤングのギターが聞こえてくるような、そんなロックンロールな響きをジャームッシュは作り出している。
「クンドゥン」のどこまでも冴えきったクリアな音が目の前で渦巻く明晰な混沌にもあっけにとられる。
かつて見たときとは明らかに、全く違う音がそこにある。
まるで違うものを見ていたのか、とも思う。
ホームシアター程度にいくら金をつぎ込んでも全然だめだということがはっきりする。
疲れも吹き飛ぶ。
何という開放感。
呆れた。
しかし私は一体いつ寝られるのか?
4月22日(木)
昨夜、眠るのに失敗し、朝も早くから原稿書き。
11時くらいにちょっと寝て、2時前に起きたのだが、さすがに体調は最悪。
今年に入って多分、一番悪い。
眠ることも出来ず、起きていても何も出来ない。
まあ、1年のうちこの初夏の、最も気持ちのいい季節が、いつも最悪なのだ。
これから、空気が湿り始めるまで、電圧の関係で電線がビリビリとなったりすると、もう身動き取れなくなる。
とはいえ今日は、バウスシアターにて、第1回目の爆音音響調整。
上映が終わった後、10時くらいから爆音用のセッティングに変えて「イヤー・オブ・ザ・ホース」を見る。
デジタルミキサーにブースターをかませて、真ん中の4台のスピーカーからモノラルの台詞や歌、ステージの両端のスピーカーからベース、ギター、ドラムなどがステレオで出てくる。
最初はなかなかいいバランスが見つからずてこずっていたのだが、中盤過ぎになってようやく決まる。
前回のレイトショー上映のときより台詞も聞きやすく、高音もとげとげしくなくなった上に伸びがよくなり、低音はズンズンと地響きを立てる。
ギターの音のエッジも立ってガツンと聞こえてくる。
昨年の武道館のライヴの3倍くらいはいい感じになったのではないか。
まさにそこで生の音が生まれている錯覚が起こる。
ライヴより生々しい。
この音のためにだけ、一晩我慢してもいいと思う。
これまで知り合いにこの企画を伝えるときに、皆いい年齢だし、肉体的にも弱ってきているから、まあよほど暇で体力が余っていたら顔を出してくださいと、例によって思い切り弱気なお知らせをしていたのだが、この音を聴いてしまうとそんなことは言っていられなくなる。
もちろん最悪な体調も吹っ飛ぶ。
夜明けにこんな音を聴くことが出来るなんて、それは十分に幸せなことだ。
ペドロ・コスタにワイヤーのライヴを撮ってもらって、ここで上映したらマジでものすごいことになるのではないか。
これを聴いてしまったら、音楽映画はバウスシアターでしか見られなくなりますねえと、バウスのスタッフと話す。
本当にそうなのだ。
深夜過ぎまでに及ぶこういった劇場の努力の成果を何とか伝えたいのだが、とにかく多くの人にきてもらって聴いてもらうしかないので、本当にもどかしい。
boidが企画するこの「Sonic Ooze」シリーズは、次回は「グラム・ナイト」で、思い切り派手に行こうと思っているのだが、この音なら「デッド・ナイト」も十分やれることを確信。
かつてバウスでやったグレイトフル・デッドの「デッドムーヴィー」などなどを何とかやれないかと、妄想は膨らむ。
しかしこの状態で聴く「クンドゥン」のお経はどんなことになるか、来週は「クンドゥン」、「ココロ、オドル。」爆音リミックスの調整である。
4月21日(水)
篠崎から『犬と歩けば』のことを日記に書いてくれというメールが来る。
そう、もうすぐ公開なのだ。
先日、ガスホールで行われた一般向けの完成披露試写に行ったとき、あれこれ書くはずだったのだがとにかくマジで忙しかった。
本日もほとんど眠りながら書いている。
そんなわけで許してくれ、篠崎。
超満員の会場で、久々に見た『犬と歩けば』は、なんとも立派な映画になっていた。
嫌味ではなく、いい映画なのだ。
ソニー試写室での初号試写のときは、ハイビジョンでのDPL上映ということもあったのか、色も音もどこか落ち着きがなくどこかしっくり来なかったのだが、フィルム変換されたものは落ち着くところに落ち着いて、スクリーンの中に見事に納まっていた。
「納まりがいい」という言葉が貶し言葉にならない映画は、かなり珍しいのではないか。
それは多分、適切な時間経過と共に物語が語られていくことによるのではないかと思う。
一つ一つのシーンでの時間経過ではなく、何かが突然変わってしまったときに事後的に了解される時間経過の重さと意味が、ゆっくりと積み重ねられていく。
因果関係の説明的な丁寧さではなく、起こってしまったことを唐突な事件としてではなくごく普通の当たり前の出来事のように見せてしまう丁寧さ、と言えばいいか。
その当たり前さが見る側の現実に反射して、見るものの過去を少しだけ輝かせてくれる。
そんな穏やかな映画であった。
だからこそ次は、「ダグラス・サークみたいな大メロドラマを作って欲しいなあ」と、篠崎に告げて会場を後にしたのだった。
単なる「犬映画」を小器用にまとめた映画とは一味違うものになっているので、是非見に行って欲しいと思う。
5月1日公開。
新宿武蔵野館と銀座シネパトスにて。
4月19日(月)
本日は久々に試写2本。
ベルトルッチとベロッキオ。
それぞれ68年と78年の社会的事件を素材にした政治映画であった。
ベルトルッチの『ドリーマーズ』は、アメリカからやってきた血の薄い平和主義の若者が主人公というのがポイントである。
彼と、フランス人の双子の姉弟でありまるで恋人同士のようでもある二人が、68年5月革命のパリの現実とシネフィルの妄想との間で揺れる。
アメリカ人の若者はシネフィルではあるがどちらにも巻き込まれ、双子はどちらにも属す。
双子の弟は父を嫌うが、アメリカ人とギタリストの話で口論になったとき、弟はジミ・ヘンドリクスではなくエリック・クラプトンを支持して、しかし、彼の父はどこから見てもクラプトンそっくりなのだ(風貌が)。
双子が愛と憎悪の悪循環の回路の中にあることが、そんなふうにして示される。
アメリカ人の血の薄さとは、その回路に巻き込まれるでもなく外れるでもなく、そこに巻き込まれつつそしてそれゆえに外れていく彼の佇まいのことを指す。
その血の薄さに対応しているのが、彼と弟がカフェで話すシーンで店内音楽として流れるミッシェル・ポルナレフの「愛の願い」と、その音量の小ささである。
ジミ・ヘンドリクス、ドアーズ、ジャニス・ジョプリン、ボブ・ディラン、グレイトフル・デッドなどなどのアメリカ音楽やフランソワーズ・アルディなどのフレンチ・ミュージック、そして数々の映画音楽がそれなりの音量で次々に流れる中、店内音楽という設定ゆえのこともあるのだが、ミッシェル・ポルナレフだけが、二人の会話を邪魔せぬよう、そこで流れているにも拘らずあたかもそこには音楽など流れていないかのように流れる。
そしてそのことが、フレンチ・ミュージックにおけるポルナレフの位置をもはっきりと示している。
フランス人としてアメリカと共に生きることの不確かさと、それを受け入れつつひたすらそうであることを繰り返し続けるポルナレフ。
マーク・ボランがエルヴィスのファルセットを限りなくいかがわしくかつゴージャスなものに変えたのと同じやり方で、ポルナレフも独特の裏声の中にエルヴィスのアメリカを込める。
アメリカの音楽をフレンチ・ポップスに取り入れるそんなポルナレフの手法の繊細さが、このほんのちょっとのシーンにはっきりと現れている。
何かのためではなく、何かと共にあることの途方もない労苦とその幽かさに、思わず泣きそうになる。
このポルナレフがあってはじめて、ラスト・シーンのアメリカ人の態度が意味を持つのではないか。
佐向大君が『まだ楽園』で示した、どちらでもあることによってどちらでもない場所に行く幽かな道筋を、ベルトルッチも見つめているように思えた。
と、これくらい大袈裟に書くと『まだ楽園』に注目が集まったりするだろうか?
あと気になったのは、「I need a man to love」「Ball and chain」「Combination of the two」というジャニス・ジョプリン(というか、ビッグ・ブラザー名義)の3曲が流れるのだが、これはすべて『チープ・スリル』の中に入っているもので、映画中でもLPレコードの1曲目に針を落とし「Combination of the two」が流れるからほぼ確実に『チープ・スリル』からの選曲であるはずなのだが、あの、荒っぽい感じがないのだ。
テンポも少し遅いような気がする。
『チープ・スリル』の別ヴァージョンが、どこかに存在しているのだろうか。
たとえば、30数年前のパリに突然タイムスリップしてしまったその場にいてはならないアメリカ人のようなものとして作られた海賊版が・・・
ベルトルッチさんが来日したら、誰かそのあたりを尋ねて欲しいものである。
ベロッキオ『夜よ、こんにちは』は、78年の「赤い旅団」によるイタリアのモロ元首相誘拐暗殺事件を素材にしたもの。
誘拐と密室劇というのを勝手に想定し、『壁の中の秘め事』みたいな映画だったらどうしようと思っていたのだが、全然違った。
密室劇でもなかった(笑)。
こちらもベルトルッチと同様、当事者達の意図や意思や感情などなどを具体的に描こうとするジャーナリスティックなものではない。
犯人グループの中の唯一の女性に焦点を当て、しかしそのひとつの視線が気がつくと複数の視線へと変化しているという、物語の大胆な展開力に戸惑いつつ驚かされる。
こちらのポイントは、彼女に言い寄る同僚の若者。
彼の書いているシナリオと、現実の進行とがリンクして、彼の突然の退場と共に、どうやらこの映画は実話物語から彼のシナリオの物語へとシフトして行っているようだ。
つまり、たった一つの現実が含んでいたはずの可能性の物語といえばいいか。
あるいは、ガレルふうに言うなら、ゴミ箱に捨てられたフィルムの物語。
ありえたかもしれない物語ではなく、ありえなかった物語。
そしてそれゆえに見えてくるさらに違う可能性の物語。
ここで用いられるベロッキオ独特のオカルティックな手法は、ガレルの映画の蝋燭のような役割としてあるのだろう。
この2本の試写の間に、長嶌のスタジオで『ココロ、オドル。』爆音リミックスの仕上げ。
黒沢さんの長期離日中に、我々が勝手にあれこれしているのである。
台詞のない映画なので、音を変えるだけで、もう、呆れるくらい印象が変る。
面白いが、さすがにはらはらもする。
だが、とにかくこれはオリジナル版とは別物なのだと言い聞かせて、思い切りやる。
いや、思い切りやってしまってから「別物なのだ」と言い聞かせているといった方が正解。
ベルトルッチの映画の最後は、エディット・ピアフにジミ・ヘンドリクスを重ねていたが、こちらはオリジナル版のシーナ・アンド・ロケッツに某曲を(これは爆音リミックスをやると決めた時点ですでに決めていた曲で、ベルトルッチの映画を見たからそうやったのではない。念のため)。
しかもそのあとに、某氏の声をスピード変えつつ。
さすがにベルトルッチはここまではやらない(笑)。
その声に『クンドゥン』の冒頭をかぶせてしまおうという試みである。
と、ここまで書くと、少しは『爆音ナイト』に来てくれるだろうか。
あるいは、「映画の冒涜」と怒られるだけだろうか。
4月7日(水)
ようやくひと段落着いたかと思ったらそうは甘くはなく、その後もあれやこれやでどうにも落ち着かない日々。
その落ち着かぬ日々の中で数日前に見たオタール・イオセリアーニがあまりに素晴らしく、呆れた。
「蝶採り」「群盗 第七章」。
ともに90年代に作られた、政治寓話と言えるようなものだが、祖国グルジアとロシアの歴史を映し出すその視線の壮大さ。
しかもそれが、遠近法的な奥行きを作り出すことはなく、めちゃくちゃとも言いたくなるような繊細な乱雑さで2次元平面上にちりばめられていくのだ。
「蝶採り」では話し声、周囲の物音などを、ある聴覚の中心が聞き取っているというのではなく、そこかしこに偏在ししかも声高に自らの中心性を訴えているような聴覚が聞き取っている、という風情で、たとえるなら「ブラザー・ベア」のティナ・ターナーの歌声のようにどこから何が聞こえてくるのかよく分からぬまましかもそれが大きな空間を作り出すわけでもなく、安物のカセットテレコで録音された遠近感のない音の空間が、そこに出来上がってしまっている。
そして「群盗 第七章」は、編集、構成自体がそのような遠近法の混乱を大々的に引き起こし、しかもそれこそがOKなのだと、騒ぎ立てているのである。
もう、本当に、酔っ払いの映写技師がフィルム間を間違えなから上映してしまった映画のよう。
もちろん物語の中にも、そんな挿話が挟まれている。
中心と辺境の物語はすっかり解体され、その辺境こそが中心であり、そしてそれによって辺境そのものにもなりえることが告げられる。
黒沢さんの「ココロ、オドル。」を見た、安井君や青山が、ロシア的、グルジア的な視線、ということを言っていたのだが、おおこれがそうかと、心底納得。
ボストンのミスティック・リバーを写したビデオ映像が投射されたスクリーンの前に立つ浅野忠信の視線。
ただ青山によると、グルジアと言ったのは、パラジャーノフを想定していたということだが。
おそらく、黒沢さんも安井君もイオセリアーニは見ていない。
ちょっと前、安井君と、「ココロ、オドル。」のやり方で、「人間の歴史」というのを9時間くらいで作ったら絶対に面白いよねえという話をしていた。
だが、すでにそれはここにあったであった。
まあ、何はともあれ、どんなに世間から無視されても、安井・黒沢両名には是非見てもらいたい2本である。
とはいえ、安井君はこの不順な天候のため、ダウン中、黒沢さんはいまやニューヨークからアルゼンチン、そしてサンフランシスコへという3週間ほどの南北アメリカ大陸を往来する映画祭の旅の最中。
映画監督は気力、体力がないとやっていけない。
本来なら今頃はイランの地で、オロオロとカメラを回しながら政治的社会的混乱に巻き込まれてこの世の外へ放り出されているかもしれなかった篠崎は、危機を察した某放送局イラン支部の配慮により、離日直前で企画ごと無期延期となるという、これは幸運なのか悲惨な出来事なのかよく分からぬ状況に陥っている。
しかし、まだまだOKである、おそらく。
とはいえ本日は、話題のメル・ギブソン「パッション」の試写に行ったのだが、まあ、危ないなと思いつつ30分前には到着したものの、なんと1時間以上前に行かないと入れないのであった。
貧乏ライターの時間と電車代を返せと、怒りに震える私は、まだまだ修行が足りないのであった。
本当にヘラルド試写室とは相性が悪い。
いい加減試写のシステムを変えてくれないかねえ。