Welcome to boid.net!

  • 爆音サーフ・フィルム・フェスティバル

recent

diaries

2004年 boid日記 5月

Text by 樋口泰人

5月21日(金)

二日連続、酔っ払いたちを相手に朝までコースとなった。
19日は3時からスタジオボイスの中原君のページ「音楽ライター養成講座」のための対談。
と言っても、雑談。
何を話したか全然覚えていないが、boidの「Sonic Ooze」シリーズで、今度は爆音で霊の声を聞く「心霊ナイト」とか、レゲエのサウンドシステムを使ってレゲエ映画を見る「レゲエ・ナイト」をやったらどうか、というような話で盛り上がったと思う。
当然、「レゲエ・ナイト」の日は、場内スモーキングOK、ということでやろうと。
その雑談のテンションのまま、文藝春秋社にて、阿部君の『映画覚書Vol.1』出版記念インタビュー。
当然「インタビュー」にはならない。
雑談ではないのだが、本の話ではなく最近見た映画の話になってしまう。
途中、編集部から、もうちょっと本の話をと軌道修正される。
しかし、相変わらず表紙のデザインがイケている。
大笑いなお下劣さ。
阿部君としてはもうちょっとクリアな感じにしたかったということだが、まあ確かにそうなっていればベストだったと思いはするものの、これはこれで「映画覚書」というタイトルがなければ、何の本かまるで分からない。
キオスクで売っている下品なペーパーバック、という感じか。
「パルプ・フィクション」ということなのかもしれないが、おそらく、阿部君の想定しているクリアさになっていたとしたら、それともまた違ったものとなっていたはず。
微妙だが、その違いは、案外大きい。
だがまあ、これはこれで十分に笑わせてくれる。
水着の女性の尻の上に乗っかった水玉のサーフボードがなんともいい感じである。
対談の内容は、6月発売の「文學界」にて。
そうそう、この日のために、北野武と相性の悪い私は、見逃していた『Brother』と『Dolls』をようやく見たのだが、この2本は悪くなかった。
『夜風の匂い』や『白と黒の恋人たち』のガレルと共に見るといいのではないかと思えた。
その後中原君が加わり、阿部君の伊藤整賞受賞のお祝い。
食事の途中から何故か青山ネタになり、以後、暴言、罵詈雑言、誹謗中傷の乱れ打ち。
とてもここでは書けない発言の連続で、完全に青山の欠席裁判と化してしまう。
あまりにひどいことばかり言ったのでついでに本人も呼んでしまおうということになり、深夜過ぎに青山を呼び出すことに。
最初は、とても本人には言えないと、なんとなく遠慮もしていたのだが、夜もふけるにつれ、というか夜が明けるにつれたがが外れ、ほとんど欠席裁判と同じ状態になる。
これだけ目の前でボロクソかつ玩具にされてニコニコしている青山の実態を何とか世間に伝えなければ、ということで、いつか新作が再びカンヌに出品された際には、BSのカンヌ生中継を見ながらこちらは朝まで徹底青山糾弾討論をやろうかとか、中原君があらゆる青山関係者にインタビューをして「誰も知らない青山真治」みたいなタイトルの本を作ろうかとか、そんなことで笑っているうちに朝6時。
付き合ってくれた「文學界」「Title」の編集者の方々には、本当に申し訳ないことをしたと思う。
編集者は本当に大変である。
しかしおかげでこれからしばらく「クレヨンしんちゃん」を見るたびに、思わず吹き出してしまうだろうなあ。

20日は、篠崎、長嶌と『犬と歩けば』打ち上げ。
残念ながら東京でのロードショーは終わり、22日からは朝9時50分からのモーニングショーのみの上映となってしまう。
一体そんな朝も早くから映画を見ようという人がどれだけいるかわからない、というのはこちらの生活習慣の問題かもしれないが。
とはいえもし間違って早起きしてしまったり、寝損ねてもはや眠れなくなってしまったりしたら、この機会に是非駆けつけて欲しい。
あと2週間。
篠崎は、三橋達也さんの通夜帰り。
『忘れられぬ人々』の後、三橋さんとはいくつかの企画が持ち上がったのだがそれが実現せぬままこんなことになってしまったと。
ちょうど三橋さんがなくなった夜、私は偶然『Dolls』を見ていたのだが、おそらく『忘れられぬ人々』がなかったら、あの三橋さんはいなかっただろう。
そんなこともあって最初はしょんぼり始まったのだが、次第に篠崎が酔っ払い始める。
翌日の電話の篠崎の自己分析によれば、やはり三橋さんの件がそれなりに影響していたらしい。
最後にはろれつも回らなくなり、中原君にしつこく電話をかけようとし始める。
我々が止めるのを面白がって何度も何度もやるのは、まあいつもの篠崎のご愛嬌なのだが。
しかしこの日も暴言続出で、酒の飲めない私としては、この2日間の発言録を10年後くらいに出版したいくらい。
店(『犬と歩けば』にも登場した)の閉店時間をとうに過ぎ、「すみません、最後の1杯を」という篠崎の注文は数回を数え、ほとんど訳が分からなくなったところでお開きとなる。
外は台風の雨。
どうやら篠崎は、歩いて数分の自宅まで、数十分をかけて帰ったらしい。
どこかで三橋さんの霊と話し込んでいたのだろうか。

5月17日(月)

5月末に発売される阿部君の初の映画評論集を読んでいる。
水曜日にこの本を巡るインタビュー、対談をするのだ。
ただでさえ読むのが遅い私は、この500ページにも及ぶ本を最後まで読めるかどうか。
読んでいると、いかに私に映画の記憶がないか思い知らされる。
したがって、水曜日までに読み終えるかより、ここに書かれている映画のことを私がすっかり忘れていることに方がプレッシャーとなる。
しかも、見ていない映画もある。
慌てて夜8時20分からの『キル・ビル2』歌舞伎町へ。
いきなりモノクロ、車を運転するユマ・サーマンの顔を正面から捉えたアップである。
しかも、フロントグラスがない。
久々に見るこの感触。
本気である。
「1」は単なる助走のようなものだったか。
実際、私のように記憶の欠落した人間は、「1」がなくてもあっても、見ていても見ていなくても同じなので、結局「2」さえあればいいのだということになる。
ルーシー・リューは見たいので、まあ、彼女のシーンだけは回想としてどこかに入れ込んでいてくれればそれでOK。
良かったのはマイケル・マドセン。
ほんとにいい。
他の人達がそれぞれ皆、『マトリックス』シリーズに顕著な語りとアクションとの分離を、やはり過剰に生きているのに対し、マドセンだけは、語ることもアクションすることもなく、単に何となくそこにいる。
何もないことに満足しているわけでもなく、開き直っているわけでもなく、何もなくなってしまった自分を申し訳なさそうに、でも、生まれつき図体がでかいので隠れることもできず、オロオロしているにもかかわらず、その図体のでかさが態度のでかさと勘違いされてますます居場所をなくしてしまう、といった風情。
『エレファント』のティモシー・ボトムズである。
もっとナルシスティックな人かと思っていたら、全然そうじゃなかった。
まあその分デヴィッド・キャラダインが・・・
『マトリックス』と同じく、語りの部分は字幕を読む気もせず、半分うとうとする。
まあそんなもんだろう。
思い起こせば、『レザボア・ドッグス』のころから、タランティーノはこのように映画を作ってきたのだった。
これもカンフー映画の特徴といえば言えるのだが、ならばもう、語りはいらないんじゃないかと思う。
アクションだけで押し通し、あとは音楽があればいい。
だって、最後のクレジットタイトルで再び最初と同じユマ・サーマンの運転シーンに曲が流れ始めたとき、当然映画はもう終了しているわけだから、観客達はばたばたと帰り支度をし始めていいところなのに、ほぼ誰一人として席を立たなかったのだ。
もう、これだけでいいんだよと、結構マジで思ったのだが。
あとはマイケル・マドセンがオロオロしているだけで十分。
まあ、「お前のために映画を作ってるんじゃない」と言われるだろうけど。
音楽は相変わらずいい感じであった。
サントラを買おうと思った。
あのギター。
デュアン・エディやアル・ケイシーを思わせる、深いエコー。
もうちょっと低音がビンビンと金属的に震えてくれれば最高だった。

5月14日(金)

昨日から体調最悪で、本日は寝たかと思ったら頭痛で目覚めてしまう。
寝る前に予兆があったので頭痛薬を飲もうとしたのだが、まあ、寝れば治るだろうと高をくくってしまったのだ。
いつも同じことの繰り返し。
全然学習しないのは何故だろう。
まあそれはそれ、頭痛薬でなんとかやり過ごし、青山のテレビ用ドラマ、「地球の想い出」(ダムドファイル・シリーズの1篇)の試写に。
1時からだとばかり思い、あせって家を出て、途中で青山に電話をかけると1時30分からだということが判明する。
逆ではなくて良かった。
と、思うことにして、それ以上あまり深くは考えない。
やはり美人でビッチな秘書がいないとダメかもしれない。
「地球の想い出」は、大地震で破壊された地下室に取り残された人々の物語。
擬似密室劇。
閉じ込められているとはいえ、外部もまた破壊されているわけだから、通常の密室劇とは密室であることの意味が全然違ってくるのだ。
内部でもあり外部でもあるような密室、と言えばいいのだろうか。
当然、聞こえてくる音も部屋の中で聞こえてくるのか外側から聞こえてくるのかよく分からない。
すべてが曖昧だがそれゆえ決定的な場所で、物語は進行する。
その決定的な場所とは、すべての「地球の想い出」が現在形のものになる場所、と言えばいいだろうか。
彼らのいる地下室には、地震でひび割れた下水管から彼らの勤める製薬会社の廃液が流れ落ちてくる。
その廃液を飲んで、一人の女は生き延びるのだが、それは彼女の体を蝕むというより、どこかはっきりと彼女の身体の一部となって、あるいは彼女をその廃液の一部として、存在し始めているようでもあるのだ。
つまり、想い出=廃液のリバース=リサイクルの完成。
彼らのいるその地下室が環境問題を研究する(部署名は忘れてしまった)部署の部屋であることも、無関係ではないだろう。
だから、こういった題材にありがちな、登場人物たちの人間的な奥行きや感情の吐露のリアリティとは、この作品は無縁である。
もちろんそれらはそこにはっきりとあるのだが、それを語る彼らと語られる内容との関係が、それまでの、表層と奥行きの関係とははっきりと違うものになっている。
彼らの語る想い出が彼らの過ごしてきた人生の広がりを見せるのではなく、思い出を語る彼らの語りが彼らをその場に存在させている、と言えばいいか。
世界の終わりと誕生が同時に起こりそれが反復されるのである。
「EM/エンバーミング」に続く青山によるエコロジー映画、と言ってもいいかもしれない。
まあ、他のも全部そうだよ、とも言われそうだが。
後半は、長嶌の音楽が全開。
台詞も聞き取れないくらいの大きさとなる。
だがもちろん、その台詞もおそらく音楽の中にリバースされているはずだから、聞き取れなかったからと言って何の問題もない。
ひとつだけわがままを言わせてもらえば、例えばゴダールの「リア王」だったか「ヌーヴェルヴァーグ」だったかに出てきた、まるで宇宙空間で撮影されたかのような鮮明な輪郭と色彩を持つ花束に教会の鐘がカラーン、コローンと鳴る、徹底して透明な一瞬が欲しかったようにも思う。
残酷な鮮明さ、というべきか。
まあ、これがあったからと言って果たしてどうなるかは、私もまるで見当が付かないのだが。
私のナンシー・シナトラをかけず、カーペンターズ版の「エンド・オブ・ザ・ワールド」を流したテレビ用編集版の「地球の想い出」は、もうちょっと印象が違っているかもしれない(私が見たのはDVD用の編集ヴァージョン。当然著作権の問題で、カーペンターズは流れない。時間も5分ほど長い)。

その後、海老根と共にboidサイトのリニューアル作業。
さすがにそれなりの量があるので簡単にはいかない。
今月中には何とかなるだろうか。
そして夜は、「まだ楽園」の佐向君と会う。
彼も酒が飲めないことが発覚。
そこにノーボディの結城君が加わり、コーヒーとケーキで深夜まで。

5月12日(水)

昼、日仏学院にてペドロ・コスタととある企画についての打ち合わせ兼ランチ。
相変わらず日本語以外はダメな私は、坂本安美のお世話になる。
昨夜、その場で言わなくてもいい私の大人気ない余計なひとことで気分を害したはずの坂本は、しかし、気持ちよくあれこれを手助けしてくれる。
改めてお詫びを。
さらに、昨夜のジャンヌ・バリバールの歌について語るペドロさんの言葉の、視線の位置に改めて、昨夜のカメラの位置を感じる。
つまり、あの近さでしか見つめることのできない距離を、ペドロ・コスタは見つめているのだ。
『ヴァンダの部屋』のヴァンダとの距離と同じ近さゆえの距離が、その言葉の中にあったように思う。
で、問題の企画に関しては、かなりいい感じで話が進む。
結局問題は製作資金。
まあここまできたら後には引けないので、何とかするしかないのだが。
そうそう、ちょっと前、『ヴァンダの部屋』のトーク・イヴェントのときに、ペドロ・コスタがストローブ=ユイレにクラッシュのCDを渡して聞かせた、という話をしたのだが、これは間違い。
クラッシュではなくワイヤーの『ピンク・フラッグ』だったそうだ。
いずれにしても無茶であることには変りはない。
コリン・ニューマンはストローブ=ユイレのファンだということだ。
たださすがに『ピンク・フラッグ』を聞いたストローブ=ユイレは、呆れていたらしいのだが。
とはいえ、私の提案した無茶な企画に平気で乗ってきてくれるペドロさんの無謀さに感謝。
うーん、でもまあ、単なる酔っ払い、という言い方も出来るのだが。
長生きしてクレとは言わないが、犬の散歩の後ソファでそのまま死んじゃった(ジョー・ストラマー)、みたいなことは、10年先までとっておいてほしいと思いつつ、帰宅。

5月11日(火)

朝、リジー・メルシエ・デクルーが死んだとの知らせを受ける。
癌だったのだそうだ。
昨年、友人がインタビューをした際のツーショットの写真を見せられ嫉妬に駆られたばかりだったのだが・・・
47歳。
私とほぼ同い年。
70年代末、ZEレーベルからリリースしたアルバム『プレス・カラー』の、あの引き攣ったギターをもう聴くことはできない。
多くのミュージシャンや若者達が「アンチ」であることに活路を見出し、ギターをうまく弾けないことを武器にある感情の場を作り出していった時代に、うまく弾けないギターやうまく歌えない歌を武器にするのではなく、それをそのまま天上の音色に変えて何も支えのない空虚な場所に立っていたその鮮やかな姿を、もう見ることは出来ない。
それはまるで、『夜風の匂い』の真っ赤なポルシェに駆け寄る真っ赤なコートを着たカトリーヌ・ドヌーヴのおぼつかない足取りのような姿と音だったはずなのだ。
90年代以降は目立った活動はしていなかったから音楽的にはもはや過去の人、ということにもなる。
ただ、コンプレックスや怒りや反発や悲しみといった人間的な感情をベースにするのではなく、あるいは、それらを超えた目に見えぬものを相手にするのではなく、ほんのちょっとしたユーモアと優しさの痕跡のようなものとして音を出す、『夜風~』のカトリーヌ・ドヌーヴの靴音にも似た彼女のスタンスの残酷な優雅さが、私はどうしても忘れられないのだ。
といっても、ある時期あっさりと彼女のアルバムを中古屋へ売ってしまった私に、そんなことを言う資格があるかどうか。
まあそれはそれ。
うっかりすると、皆、死んでしまう。
私も体調が思い切り悪い。
やらなくてはならないことが何もできない。
寝ることも起きることもできない。

それから遅くなってしまったが、「爆音ナイト」のお礼を。
オールナイトの長丁場にも拘らず、ほぼ満員となった。
来場者の皆様、どうもありがとう。
挨拶もトークもないそっけないイヴェントで申し訳ないと思いつつ、挨拶やトークを聞きたいなら他に行けばいいと、ついそんな想いが態度に出てしまう私の天邪鬼にお許しを。
次回は「グラム・ナイト」。
今回の作品がそれぞれ刺激的だっただけに、次回への緊張感が高まっている。

夜は、ジャンヌ・バリバールのライヴ。
ほとんど身動きできない状態だったのだが、何とか駆けつけると、こちらも超満員。
スタッフの頑張りの成果。
ステージ正面でビデオカメラを構えるペドロ・コスタの堂々とした「近さ」に感激する。