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2004年 boid日記 6月

Text by 樋口泰人

6月29日(火)

6月から7月にかけては結構暇で、皆様に先駆けて夏休みをとりニコニコしていようと思っていたのだが、何のことはないいくつかの試写に行けた程度ですでに日付の境界も曖昧になり、昨日と今日の区別がつかなくなっている。
暑くて寝てられない、というのもその原因のひとつなのだが。
ついでに自分が誰だか分からなくなって誰にでもなってくれたらいいのだが、なかなかそうはならない。
困ったものである。

とにかく、あれやこれやとめまぐるしく仕事をしている。
特に何をやったという記憶はないのだが、気がつくと息も絶え絶えである。
だが、月曜日の夜に会った青山は、さらに絶え絶えていた。
青山の場合はおそらく、飲みすぎとかビデオの見すぎとか神経張り詰めすぎとか考えすぎとか仕事のしすぎとか眠らなさすぎとかCDの聴きすぎとかで、同情はしない。
例の小樽の、中原君の運動についていけないという話も、この青山の姿を見ると、勝手に青山が弱っていたのではないかと思える。
目の前に弱っているものがいるのは気分がいい。
つい、いい気になって、あれやこれや突っ込んでいたような気がする。
その後、青山はさらに某有名小説家と飲むことになっていて、そこに某音楽小説家が加わる予定だと言う。
一体高円寺くんだりまでやって来て何をするつもりやら。
月曜の深夜高円寺の路上でギターとノイズをバックにオペラを歌う声が聞こえたら、彼ら小説家バンドである。
ビデオのひとつも撮ろうかと思ったが、さすがにそこまで暇ではない。
その代わり、青山から借りたニール・ヤング「Journey through the past」のさわりを見る。
ニール・ヤングの監督作だが、もう、ほとんどでたらめ。
CSN&Yのライヴシーンや、バッファロースプリングフィールドらしきバンドのライヴシーンなどを織り交ぜながらの垂れ流し。
ジャンクでトラッシュな映画はおそらく世界に山ほどあって、そのほとんどを私は知らないが、これはそれらとはレベルの違う「最強の」垂れ流しのようにも思える。
映画美学校の諸君も時にはこういうのを見ると、人生が変わるかもしれない。
まあ、変ったところで、いい人生が待っているとは間違っても言えないが。
しかも、DVDとはいえブートレグで、かつて新宿西口にあった(今でもあるのだろうか)「エアーズ」とか、その辺の海賊ビデオ屋で売っていたようなビデオを単にDVDに納めたという代物である。
もうほとんど、この映画を見たいか見たくないか、という、決定的な二者択一を、このDVDはこちらに迫っている。
頼もしい限りである。
ジャケットには「DOLBY DIGITAL」のマークも入っているんだけどねえ・・・

本日は、「ジェリー」の配給をするエレファント・ピクチャーズから訂正が入った。
先日私が見た「ジェリー」の試写は、フィルム上映だったとのこと。
なんてことだ。
これだけ映っていればビデオ上映でも何の問題もなしなどと、フィルム上映に対して書いてしまったのであった。
いやはや申し訳ない、というか、まあ、相変わらずいい加減この上なし。
それから劇場でのビデオ上映はデジベーではなくハイヴィジョン上映で、音響も映像もほとんど遜色ないものになるとのこと。
石井さんの映画の上映に付き合えたシネマライズだから、おそらく問題はないだろう。
しかしでは、最後の方の砂漠を二人が歩くシーンでの、シルエットになったケイシー・アフレックのぼんやり滲んだ輪郭は、一体どういうことだろう。
その奇妙な滲みによって、その場にはいないはずのものがそこにいるという、そんな不安定な空気が画面全体を覆っていたように思えたのだが。
それはフィルムの時点ですでに映しこまれていた滲みだったということになる。
単にシルエットで大写しになると、人はあのように映るものなのかもしれない。
それはそれで頼もしい話である。
いずれにしても、今後の上映のためにアメリカ版のビデオを確認し、音の問題を早急に解決しなければならない。
単に私の勘違い、という可能性も十分あるから、ドキドキである。
でも、原稿を書くとき、ビデオで何度も確認したんだけどなあ・・・

6月27日(日)

先走ってはいけないと、しばらくお預けにしていたオリヴィエ・アサイヤス「demonlover」を見る。
日本でも某配給会社が買ったという情報は2年ほど前から聞いていたのだが、さすがに2年も経って公開が決まらないと、心が揺れる。
結局待ちきれず、フランス盤DVDを仕入れてしまったのだ。
パソコンだとPALでも見れるのでこういう時に便利。
当然、日本語字幕はないので(一部日本語が使用されるものの)、物語は大ざっぱにしか分からないのだが、ボリュームを目いっぱいに上げてソニック・ユースのサウンドトラックのノイズと共に見ることになる。
見ながら、パンク以降の映画、ということを考えた。
パンクというと誤解されてしまうかもしれない。
「ユリイカ」のヨーロッパでの受容の際に「ポスト・シネマ」というような言い方がされていたように記憶しているが、この映画も確実に「以後」の映画となっているように思えた。
カットの速さは相変わらず。
しかしそれはスコセッシやオリヴァー・ストーンのそれとは、決定的に違っている。
60年代から70年代前半のロックと、パンク・ニューウェイヴ以降のそれとの違いと言えばいいか。
例えばスコセッシやストーンの早いカットワークには、作り手や登場人物たちの人間的な感情が、常に深く関わっている。
だが、オリヴィエのそれは、その場の空気の揺れや物質の摩擦、微粒子のぶつかり合いなど、ある種の量子力学的な運動の中で行われているように思えるのだ。
言葉を換えると、暴走するテクノロジーのスピードとそれによる空間の断絶が、そこでは示されている。
人間的な感情でもなく、運命の計り知れなさでもなく、ひたすら機械的な運動とその暴走。
その意味でも、ソニック・ユースの音楽に、それは非常に近い。
だから、感情的なクライマックスはそこには訪れない。
そこが物足りなさとなるのだろうが、ソニック・ユースだって、ほとんどどの曲も同じようなものだし、どの曲も同じようなものであることがソニック・ユースを作っているわけだし、ただひたすらそれらは轟音と共にあればよい。
「感傷的な運命」が横浜フランス映画祭で公開された数年前、来日したオリヴィエに、思わず、ソニック・ユースな映画ですよね、とか何とか、ほとんど意味不明のことを言ったのだが、多分、あの時は、上記のようなことが言いたかったのだと思う。
映画のデジタル化以降と言えばいいのか、映画が映し出すことの限界が、それまでの境界を越えた。
それをよしとするかしないかはそれぞれの判断によるだろうが、テクノロジーの進化は、映画の視覚と役割を確実に変えているはずなのだ。
その電子的な視覚(?)を血肉化することが、この映画でははっきりと意識されていると思う。
多分それは、「映画」にとってかなり決定的なことだ。
ソニック・ユースを好きな人はわりと容易にニール・ヤングを好きになれるけれども、ニール・ヤングから入った人は、70年代末のある種の音楽をどう聴くかで、ソニック・ユースを聞けたり聞けなかったりする、それと同じ断絶が、そこにはあると思う。
限りなく似ているが違う。
オリヴィエ・アサイヤスのカットワークは、その断絶と共にあり、そしてその断絶によってはじめて語ることのできる同じ似通った物語を語っているはずなのだ。
私の場合は、おそらく、この映画が示した視線を通してしか、過去の映画も今の映画も見ることはない。
それだけは強く感じた。
世界中には何人か、そういった視線を感じさせてくれる監督たちがいるから心強い。
だけどまあ、ニコラス・レイの「We can't go home again」なんかのことを思うと、あまり時代的なこととは関係ないのかもしれないが。
テレビの役割におそらく本気で希望を見ていたロッセリーニみたいな人もいるしねえ。

それから、主演ではないが、ジーナ・ガーションがよかった。
これまでの出演作の中で、最もいいのではないか。
彼女が主演でなかったことが惜しまれる。
最後のボディスーツは、やはり彼女に着て欲しかったのだけど。

あと、おまけの音楽メイキングは、ソニック・ユース・ファンには涙ものだろう。
私には具体的な機材の知識がないのでよく分からないが、小さなボックスに、おそらく抵抗の一種だろう、剣山のようになった突起物の塊がくっついていて、その一つ一つの突起にキャップをかぶせたり取ったりしながらつまみを操作してノイズを発生させるジム・オルークの地味な作業を、そのキャップの思わぬ美しさに見とれたかのように延々と映し続けたり、いい歳のおっさんなはずのリー・ラナルドが本当に子供のように笑いながらギターを弾いたり。
このメイキングだけを見ると、「demonlover」の音楽は、ジム・オルークが完全にバンマス状態。
姿勢の強さではなく、他人と無関係でいることで他人と関係できる能力と言ったらいいだろうか、ネット時代の関係性においてバンマスとなっているという感じ。
本編共々このボーナストラックを、「Sonic Ooze」シリーズで爆音上映できたらと、心から願った。
果たして日本公開はできるのだろうか。

6月26日(土)

仕事がらみで、ソニック・ユースのDVDを見た。
90年のゲフィン移籍以降のビデオクリップ集である。
寄せ集めと言えば寄せ集めで、それらをあるテーマに沿って集めたというようなことはなく、とにかく集めた、という代物である。
だが、その寄せ集めがソニック・ユースになっているところが彼ららしい。
元々そのようなバンドなのだと、改めて思った。
つまり、バラバラに作られた断片が、断片として集められても、それらがパーツになることはなく、そのままひとつの全体をなしているような感じ。
彼らの曲の区別のつけがたさと、しかしそれゆえの固有性は、そういうことだと思った。
しかしもう、キム・ゴードンって50過ぎかア・・・

あとは一日、何をやっていたんだかよく分からない。
いくつか原稿を書いたような気がする。

6月25日(金)

あまりに不快な目覚め。
暑さよりもとにかく湿気には全く耐性がない。
あまりのことに寝てもいられないので、予定通り「ジェリー」の試写に。
これまで見ていたのはアメリカで発売されたビデオで、シネスコのものをスタンダードサイズにトリミングしたもの。
したがって、今回はじめてシネスコの「ジェリー」と対面するのである。
ただ、今回は、フィルムではなく、デジタルベーカムでの上映。
ロードショーももうすぐ渋谷に新しくできるデジタル専門館での上映となるため、フィルムではない。
フィルムで撮影されたものを何故わざわざビデオで上映しなければならないのか、そのあたりの事情は分からないのだが、試写を見て納得。
上映状況は極めてよい。
なおかつ、ビデオならではの輪郭の微妙なにじみが、主人公たちの存在の希薄さをくっきりと際立たせているのだ。
その意味で、「シェイディーグローヴ」のビデオ部分の撮影意図とクロスする上映ともなった。
フィルムで見るよりずっといいのではないか。
製作者達の意図ではないかもしれないが、今日の試写を見る限り、全く問題なし。
ただ、「またもや」なのだが、あったはずの音がない・・・
以前「nobody」のガスヴァン特集の原稿にも書いた、疲労しきった主人公たちがズルズルと砂漠を歩く、その足音のようなノイズが、全く入っていないのだ。
今回は、原稿執筆時にビデオで何度も確認したところの音だったから、余計にショックは大きい。
一体これはどういうことなのか・・・
足音なしで見るそのシーンは、しかし画面の中にはっきりとその消えた足音が埋め込まれているようなシーンにも見えた。
その意味では足音なしで全く問題ないのだが、ただ、ビデオについていた足音は、それが二人の足の運びからどんどんずれていくところがポイントだったのだが・・・
しかしそれもまた、私の妄想なのかもしれず、こうなってくるともう何がなにやらといったところ。
そんな話を安井君にすると、今、映画美学校の安井ゼミでは蓮實さんの「映画の神話学」の講読を行っているのだが、そこに書かれているシーンの多くの部分は、実際にビデオを見てみるとかなり違っているのだと言われる。
頼もしい話である。

夜は、バウスシアターの西村さん、nobody三宅さんと「グラム・ナイト」の打ち合わせ。
前回来てくれた人の半分が、もうひとり友人を誘ってきてくれたら・・・という虫のいい話でニコニコする。
でもまじめな話し、本当にそれだけのことで随分状況は変わるはずだし、 3ヶ月に1度、あの音響を体感していくと、映画を見る時の身体感覚も相当変わるはず。
気がつくと自分が別のものになっている感覚というのは、これはもう、何物にも変えがたいと思うのだけど。
グラムロックは、おそらくそういう変化のダイナミズムを身体に刻みつけた人達の音だと思っている。

それから、配給会社の人の話によると、「ジェリー」の製作会社はすでにつぶれてしまったとのこと。
やはりこういう作品を作るところはつぶれてしまう、という状況は日本もアメリカも同じ。
boidの今後にも大いなる不安がよぎる。
まあ、boidは会社じゃないからつぶれようもないのだけど。

6月24日(木)

暑くて寝てもいられない。
ったく、なんてことだ。
このところ早寝早起きになっていたのだが昨夜は寝たのが夜明け近くになり、これでまたもや昼夜逆転かと思っていたら、朝9時過ぎには目覚めてしまった。
目覚めさせられた、と言うべきか。
まあ、早起きで仕事が片付くと思ったら大間違い。
寝不足で具合悪いまま、1日が終わる。
そんなところに配給会社からガスヴァン「ジェリー」、ついに公開との知らせ。
先日の日記での愚痴が届いたか。
明日、朝10時からの試写である。
明日も暑くて目覚めさせてくれることを希望する。

ところで、これまた先日の日記に書いた友人の「片づけられない私のガラクタと闘う日々」日記について、妻から根本的な疑問が。
「こんなに毎日日記を書けて、なおかつ写真までアップできるまめな人が、どうしてゴミくらい片付けられないのか?」
ある種核心をついた疑問のようにも聞こえるが、答えは簡単である。
なぜなら、彼女の日記もゴミだからである。
ゴミの生産には精を出せても、片付けはできないのだ。
ただまあ、こうやって外に向かってゴミを出すことで、部屋の中のゴミがかろうじて片付いていくことを、私は願うばかりである。
本日の日記にはクイズが掲載されている。
「ブルーベルベット」「ラグタイム」「エクソシスト3」の共通点は何か、という問題。
ヒントは、そこには「スポコン」や「チャイルド・プレイ」も加わるという。
マニアには簡単な問題だが、果たしてどれくらいの人にわかるのだろうか。
「スポコン」が何の略なのか分かる人は、もう当たったも同然。
でも、「当たっても全然エラくないクイズ」だということなので、これまたゴミが増えるばかり。

そうそう、昨日買ったジャック・ジョンソンのサーフ映画は、「ステップ・イントゥ・リキッド」のスーパータンカー・サーフィンを見ながら私が妄想した、延々とサーフするだけの映像に好き勝手に音楽をつけただけの「ラストショー2」状態の映画にかなり近い。
ただそれによって、ひたすらまじめにスピリチャルなものを映そうとしているところが、ジャック・ジョンソンの姿勢である。
彼の音楽の成り立ちがよく分かる。

6月23日(水)

青山から日記の文章が長い、という指摘を受ける。
うーん、確かに。
1ヶ月も書かないでいると、やはり何かがたまってしまうのか。
反省して、本日からはごくあっさり目に。
とはいえ、そうなると結局、「書くことは何もない」ということになってしまう。
困ったものだ。
「16歳の合衆国」というのを見たが、ガス・ヴァン・サントがエリオット・スミスを音楽に、キアヌ・リーヴスとリヴァー・フェニックスを主演に撮ったら無茶苦茶面白くなるだろう、という身も蓋もないことを思った。
すでにその半数が故人。
その亡霊を写すのだというガッツが望まれる。
それが映っていなければ何も映っていないのと同じ。
言いがかりみたいに聞こえるかもしれないが、そういうものだ。
その後、日仏学院に出向き、坂本安美にあれこれのお願い。
メールでも済む用件だったのだが、なんとなく人恋しくなるときがある。
ついに帰国する彦江からの情報で、カイエ最新号にゴダールが新作のフレーム・サイズについて解説しているという、そのページを見る。
それからスタローンの「ザ・ボディガード」へと行くつもりが、ついHMVに。
昨日の「ステップ・イントゥ・リキッド」で流れていたブライアン・セッツァーの旧作、あとはデヴィッド・グラブスの新作、それから、ジャック・ジョンソンが作ったサーフ・ドキュメンタリーがついにDVDになり、それも。
もう完全に「クレイジー・サーフィン・ナイト」まっしぐらである。
先走ってはいけないとは思いつつ、抑えが利かない。
そうは言っても立派な社会人である私は、帰宅後、「AV Special」用チラシの準備と印刷所の手配その他に奔走。
20年ぶりくらいに見るはずのウェイン/ジェイン・カウンティ「ベルリンブルース」に思いを馳せる。
「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」を見たときも「スクール・オブ・ロック」を見たときも、やはりロック映画ならなんと言ってもこれ、と、わけもなくそんな想いが湧き上がってきたのだが、とはいえロードショーで見て以来見てないから、果たして今見るとどうなのか。
そろそろ音響調節もかねてバウスで試写をやるので、それもまた待ち遠しいのであった。

6月22日(火)

本日は、朝10時過ぎから渋谷。
センター街方面の午前はかなり異様な光景だが、六本木通り方面はシャカシャカとサラリーマンが歩き回り、完全にお仕事モードである。
私も負けじとスピードアップするのだが、追走に苦労。
見上げると坂上からヤクルトおばさんがワゴンに引きずられるようにして降りてくる。
まあ、「おばさん」と言っても、私より確実に若いと思う・・・
片足が不自由らしく、もう一方の足で懸命に踏ん張りながらの作業である。
本日の暑さでは、相当な肉体労働。
これから夏に向けて、彼女の仕事は更に過酷さを増すであろう。

デザイナー事務所で打ち合わせを済ませた後、侯孝賢「珈琲時光」。
松竹の試写室はできる限り行きたくないのだが、松竹配給なので致し方なし。
だが、いつもより、映写状態もいいし音もクリアな気がするのは、これは、映画のせいか、それとも映写機をついに新しくしたのか。
いずれにしても、侯さんの映画は相変わらず繊細な音使い。
ある時は、カット代わりから数フレーム遅れて音が始まり、ある時は、その前のシーンと混ざり合いながら次のシーンへと音がつながっていく。
主人公が乗った中央線の列車の走行音の奥に気がつくと本当に小さなノイズが重なり、それが車内の空気を重く圧迫し始めるとき、主人公は電車を下りてホームに座り込む。
何もない人生だが、何かが確実に起こっている。
それでいいのだ。
台風の後の澄んだ今日の空気と同じ光が、何故かそこにもある。
レンズのせいか、あるいはシャッター・スピードを微妙に変化させているのか。
すべての人生は栄光に満ちている。
そんな感じか。
娘の前でどこにも居場所のない情けない父親を演ずる小林稔侍のようにはなれはしないしなるつもりもない私だが、それでもOKだと、その光は語りかけてくる。
何もなく何もしないことを恐れも戸惑いもするがそれもまたよしとする、強くはないが弱くもない視線が捉えた光。
個人的には80年代のほとんどの時間を過ごした高円寺のレコード屋のすぐ前にある古本屋「都丸書店」の前に立った主人公を捕らえたショットが、もうちょっと左側にずれていたらかつてのレコード屋跡が映るのにと、ドキドキしっぱなしだった。

そのドキドキと栄光を抱えたまま、映画美学校試写室にて「ステップ・イントゥ・リキッド」。
サーファー達のドキュメンタリーである。
実は、今度の「グラム・ナイト」の後、秋の「Sonic Ooze」は「クレイジー・サーフィン・ナイト」というのをやる予定。
アメリカの最もイカレタ部分を一晩目の当たりにするという目論見である。
その取材も兼ねての試写。
こちらは、「いかれていると思われているサーフィンだが、実はものすごくまっとうに生きている人がほとんどで、そしてそのまっとうさゆえに、アメリカ社会と相容れないのだ」という実に健全な物語を語る。
それはそれでよし。
だがまあ、あまりにサーフィンと人生を強調されると、スコセッシのブルース・シリーズと大差なくも思える。
ある者はブルースに、ある者はサーフィンに、という対象の違いだけではないかと。
だがまあ、波の大きさと迫力に、これはまあ、人生を語りたくもなるかも、と納得。
宇宙飛行士が宗教家になるのと似ている。
ただその中で、波のほとんどないテキサス湾で行うスーパータンカー・サーフィンというのにはかなり呆れた。
かなりのスピードで走行する馬鹿でかいタンカーによって引き起こされる波に乗るのである。
通常のサーフィンだと、波は一瞬でなくなってしまうが、これだとタンカーが止まるまで続く。
サーフィン映画の欠点は、波の特性上、ひとつのショットが持続しないことだが、このスーパータンカー・サーフィンだと大丈夫。
サーファー達がつかれきるまで延々とこのサーフィンを映し、好き勝手に音楽を流しているだけのサーフ映画を妄想する。
爆音状態の「ラストショー2」である。
もちろんこの映画はそれはやらない。
仕方がないので、家に帰り、「DOG TOWN & Z-BOYS」を見直す。
今度の「サーフ・ナイト」では絶対に上映するつもりの、70年代のいかれたサーファー&ボーダーたちの映画である。
これを爆音でやったら・・・
「ステップ・イントゥ・リキッド」のスピリチャルな波と比べ、この映画のワイルドな波。
廃墟になったボードウォークの支柱にガンガンと波がぶつかり、その間をサーファー達が滑りぬけていく。
その進路を得るため、サーファーがサーファーへ思い切りぶつかっていくのだ。
もう、明日にでも上映したくなるが、まあ、人生我慢が大切。
「ステップ・イントゥ・リキッド」の公開記念で、どこかで特別レイトショーなどやられなければいいが・・・


6月21日(月)

気がつくと1ヶ月間、日記を書いていなかった。
まあ、相変わらず忙しさと体調の悪さと、面倒だったのと、あれやこれや・・・
とはいえ、対外的にはそれなりに活発に動いていた。
というか、かつてなく活発に、という感じ。
オールナイトのイヴェントも、バウスでの「Sonic Ooze」グラム・ナイトの前週に、シネセゾン渋谷での「フレーム・サイズを考える」という、視覚編をやることにしてしまい、2週連続。
こちらは、ガレルの「内なる傷痕」が上映期限切れということで急遽追加したもの。
よく分からないが、ほっておくと、見たい映画がどんどん見れなくなる。
「月の砂漠」をやることにしたのは、昨年の池袋でのロードショーのとき、単に横が縮まっただけの小窓みたいなスタンダードサイズの上映を見て、さすがにこれではいけないと思ったからだ。
機会あればシネセゾンでと思っていた。
とりあえず、やれることはやれるうちにやるしかない。
CDだって、見つけたときに買っておかないとすぐになくなってしまう、と、これは昨日青山に別件で言ったような気がするが、まあ、そんなものだ。
気がつくと、オリヴィエ・アサイヤスの映画も全然公開されないし、オリヴァー・ストーンの絶対面白いに違いないはずのカストロ直撃ドキュメンタリーやアラファト直撃ドキュメンタリーもどこも買ってくれず、ガスヴァンの「ジェリー」もまだだし、エイベル・フェラーラなんてもう名前も聞かないし、ヴェンダースのドイツのバンドのライヴ・フィルムも。
まあ、音楽みたいに簡単に安くはいかないからねえ。

この間、映画を見ていないわけではなかった。
スコセッシのプロデュースしたブルース・シリーズはあれこれ見た。
マイク・フィッギスの「レッド・ホワイト&ブルース」は、教育テレビのお勉強ドキュメンタリーみたいだった。
テーマはイギリスでのブルースの受容、というところだろうか。
トム・ジョーンズとヴァン・モリソンの出演が光る。
しかし、トム・ジョーンズが悪口を言うためだけに生きていた頃のジョー・ミークの動画映像が使用されるのには驚いた。
これは、仲がいいから使用できたのだろうか、それともそれくらい嫌なやつだったのだろうか。
トム・ジョーンズとジョー・ミークの仲が気になるところだ。
マイク・フィッギスはどう思っているのだろう。
ヴェンダースの「ソウル・オブ・マン」は、あくまでも、現在と未来に視点を置いたブルース。
今のミュージシャンとかつてのブルースマンの演奏を対比させながら進む。
しかも語り手は、未来に居場所を置くブラインド・ウィリー・ジョンソンという設定。
まるで、ゼメキスの「コンタクト」のような視線が気持ちよかった。
個人的には、何故か2曲もやったボニー・レイットにちょっとどきどきした。
スライド・ギターでなかったのは残念だったが。
でも、トゥーツ&ザ・メイタルズの新作では、思い切りスライド弾きまくってたから、そちらと合わせて久々にボニー・レイットを満喫、という感じ。
リチャード・ピアースの「ロード・トゥ・メンフィス」は、ロスコー・ゴードン、アイク・ターナー、B・B・キングといった老人たちの物語。
その意味で「ブエナビスタ」に一番近い。
最も一般受けするのではないか。
死ぬ直前のサム・フィリップスも登場する。
どこか高田渡にも似た、つまり、単なる酔っ払い。
応対するアイク・ターナーも、かなりいかれている。
だが、いい素材がいっぱいあるのに、音が悪いのが本当にもったいない。
ボーカルだけが聞こえてくるテレビの音響とまるで同じなのだ。
と言ってもまあ、元々はテレビ番組だから致し方なし、というところか。
それに、どこを見せてどこを見せないか、という判断は、演奏ではなく物語を基準に決められていて、それもイライラする。
結局、ブルースそのものを見せる企画ではないのだ。
まあ、それでも、そんな製作者の意図などお構いなしに勝手に現れてしまうものがブルースなのだというオチはつけられるのだけど。

あと、ロバート・アルトマンのバレエものやケヴィン・コスナーの西部劇などを見たが、どんどん忘れる。
コスナーのものは、医者の助手をやっている女性が主役のコスナーと恋をする。
傷ついた男たちが彼女に治療される。
西部劇で、こんな治療シーンはかつてあっただろうか。
ロン・ハワードの「ミッシング」も女医が主人公だった。
アメリカ映画は確実にイラク以降を見つめているようだ。
それから、「クレヨンしんちゃん」や「ねこぢる草」のアニメーター湯浅政明の「マインド・ゲーム」というのも見た。
かなり評判がいいみたいだが、私には自己啓発ビデオのようにしか見えなかった。
特にこの世を前向きに力いっぱい生きる必要を感じていない私には、まるで無関係な映画だった。
「キューティ・ハニー」も見た。
街中にサトエリのポスターが溢れているのに劇場はガラガラだった。
お父さんが子供をつれて見に来ていて、それはちょっとやばいんじゃないかと思っていたのだが、見てみると、特にやばくはなかった。
日曜日の朝の「仮面ライダー」とか「なんとかレンジャー」とか、その手のものと同系。
どこか「刑事まつり」。
でもまあ、トラッシュはトラッシュなりに面白くはあったが。
不機嫌な市川実日子はなかなかよかった。

あと、友人が日記を始めた。
ブログである。
なかなか面白いので暇だったら覗いてみて欲しい。
http://www.style-21.jp/diary/teribani/index.html
友人と言っても、彼女を知らない人はまるで何だか分からないわけだけど、この日記自体、誰が何のために誰に向かって書いているのかまるで分からない状態のやりたい放題だから、逆に、誰でも読むことができる。
これらを読んでいると、かつてなら岡崎京子くらいしか書けなかったことが、今や一般レベル、という 妙な感慨も(と言っても彼女は、岡崎さんとほぼ同年齢である)。
よく分からないが、多少大袈裟に言えば、男たちが汗水たらして作り上げてきたあれやこれやは、こういったものによってあっさりと相対化される。
清々しいことこの上なし。
本人の性質上、いつまで続くか謎ではあるのだが。