
2005年 boid日記 2月
Text by 樋口泰人
2月21日(月)
12日にあったMOSTとHEAD RUSH のライヴが余りにすごく、一気に体調を崩して、風邪引きのまま本日まで。
その日はMOSTのメンバーの何人かが風邪を引いてかなりひどかったらしいから、おそらく音に付着した菌が耳から体内に侵入したのだろう。
灰野さんのギターは今ここで聞こえていたかと思ったらいきなり宇宙の彼方から聞こえてくるような、めくるめく変容の中に、こちらの身体ごと引きずり込むような音だった。
久々に背筋が凍った。
本日はさらに喉と鼻の調子が悪くなり、しかし何としてでも今日は行かないと先日の失態を取り戻せないと言うかすでに取り戻せはしないのだが、とにかくいくらなんでも見に行かねばと、『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』。
この映画に関しては、既にシナリオも読み、撮影も見て、一部の編集も見て、サントラも聴いてという、もう、前情報目いっぱいの状態で臨んだので、いきなりこれを見た人とは印象がかなり違うのかもしれないが、ものすごく普通の映画、という印象をまず持った。
「普通の映画だねえ」と、終了後に青山に声を変えると「それは、つまんないってこと!?」と聞き返された。
いや、最大限の褒め言葉なのだと言ったのだが、今映画を作ると言うことは、こういう映画を作るということだろうという思いが、非常に強く残ったのだ。
この映画に即して言うと、ほとんどの映画がレミング病に感染しているのだ。
この映画の設定ではレミング病に感染した人間はどんどん自殺していくことになっているのだが、日本映画のほとんどは自殺も出来ず、自分が死んでいるのも分かっていない。
短気な私はすぐに、早く死んでしまえばいい、と、劇中の中原の台詞みたいなこと思うのだが、この映画はそうではない。
決して先走るわけでもなく、いらつくわけでもなく、フィルムがやるべきことをただひたすらやる。
「ウィルスの餌になる」こと、ということなのだろう。
ここにいたと思ったら消えて行く我々の存在そのものをウィルスに捧げ、捧げることで、消えて行く我々を生かす。
長島から受け取ったサントラの冒頭が、サックス入りの曲だったのでちょっと驚いていたのだが、この消え行くサックスの音こそがこの映画の主題なのだということが、良く分かった。
エリック・ドルフィーのアルバムを聞き返そうかと思ったが、まあ、そのうちいずれ。
それから、ビデオの映像がこんなに泣ける映画は他にないのではないか?
かつてはこれは、8ミリフィルムの役割だったはずで、ビデオ映像は8ミリを過去のものにしてしまった「現在」と「未来」を表すものとして使われていたはずなのだが、この映画では、ビデオ映像こそが懐かしく、かつてあったがもはやそこにはないものを映し出している。
いや、そこにはないことでそこにあるものと言ったらいいか。
ビデオ映像をそのような使い方をすることで、フィルムの映像が常に更新中の現在時制を持ち始める。
写された瞬間から消えていく映像。
それがフィルムだとでも言いたいかのようだ。
つまり、それは我々の「生」と同じ。
その意味でこれは絶対的に普通の映画だし、青山が言う「義」の映画だと思った。
帰宅後、喉・鼻苦しすぎ、頭もボーっとして、一旦寝る。
10時過ぎに、ベルリン映画祭から帰ってきたキングレコードの長谷川氏から報告あり。
ベルリン映画祭で上映されたダニエル・ジョンストンのドキュメンタリーを何とか買い付けられないかと、お願いしていたのだ。
報告によると、どうやらイギリスでは、全国30箇所くらいで一気に公開するらしい。
日本ではとても考えられない。
というか、配給されるかどうかさえ危ないのだ。
それが日本の映画界の現状である。
キング頑張れ。
2月10日(木)
少しは楽になるかと思ったら、相変わらず次々にあれこれあって、パズルのように予定を組み合わせるものの、結局予定通りに行くはずもなく、次々に不測の事態が降りかかり、一体何をやっているのかなにをしなければならないのか良く分からぬまま日々が過ぎていく。
約3年ぶりになるウディ・アレンの『さよなら、さよなら、ハリウッド』は2001年に作られたもので、この時期になってようやく公開。
本人が監督になる映画はどうも苦手なのだが、今回は、公私混同というより、「監督」という「私」の上にアメリカ映画史が微妙に重々しく重なり、いつもとはどこか違う。
国際貿易センタービルが崩壊した頃この映画はすぐその傍で撮影されていたはずなのだが、そのことばかりかニューヨークの町さえほぼ映らない。
撮影所のセットと室内の閉じられた空間が、画面を覆う。
逆にそのことが、その外での出来事を思わせもする。
前作『スコルピオンの恋まじない』は、時代設定をちょうど第2次大戦開戦前くらいにしていた。
そこでもまた、戦争の話は一切出てこなかった。
テオ・アンゲロプロスの『エレニの旅』は、もう、限りなくゴージャスとしか言いようのない、ギリシアの田舎の寒々しい風景に圧倒される。
日本の監督たちには目の毒というか、まあ、余りにゴージャス過ぎて、腹も立たないかもしれないが。
だがその一方で、ひとつのショットから次のショットへと映るカットの大胆さに驚く。
いつまでも同じ風景が映っているかと気を抜いた瞬間、ガラッと世界が変っている。
恐ろしい。
本日は、青山の新作『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』の試写。
しかし、会場のイマジカ第1試写室に行っても誰もいない。
「試写中」との掲示もある。
まさかと思い、受付で尋ねると、3時からだと言う。
3時30分からだと確信して疑わなかった自分に愕然とする。
しかも、何人かの知り合いに、3時30分からだと伝えてしまっていたのだ。
当然彼らも遅刻。
私から連絡をもらったばかりに、このお間抜けな事態。
自分ひとりならまだいいが、他人まで巻き込んでしまうとさすがに申し訳なさのあまり、動揺するばかり。
試写終了後、青山始め、佐藤公美、長嶌などなどに、ガンガン責められる。
まあ、当たり前である。
次はちゃんと行きます。
音は、さらに手直しをするのだそうだ。
その完全版を見るために本日の試写はパスしたのだということにしておく。
家に帰って、青山から来た試写お知らせのメールに「3時30分から」と書いてないか、とりあえず確かめてみる。
絶対そんなはずはない、同じメールを何人にも送っていたのだからと青山には言われるが、それでも私のものに「3時30分から」と書かれていたら、それはそれで格好のネタになると思ったのだが、そんな美味しいネタはあるはずもない。
残念。
2月1日(火)
ようやく昨夜であれこれが終わり、これで少しは試写通いも出来る。
とはいえ、起きたときから頭痛でこの頭痛のまま試写に行くか頭痛薬を飲んでボーっとしながら見るか、いつもならいずれにしてもつらいので行かない、ということになるのだが、本日は、ウェス・アンダーソンの新作『ライフ・アクアティック』である。
先日先に見た中原からも、大傑作との一報が入っていて、見逃すには余りに惜しい。
さらに、一昨日の日曜日に頭痛の中映画を見て、その後が余りにつらかったので、本日は、頭痛薬を飲んでいく、という決断。
ケミカルなものは基本的に効き過ぎて大変なことになるので、子ども分を飲む。
それでもブエナビスタ試写室に到着したときはトロトロ状態。
そのまま試写になだれ込むのだが、そのトロトロの中で見ていても、目を見張る。
船の穂先だろうか、とにかく縁の部分に腰をかけたビル・マーレイとケイト・ブランシェットが特にどうということもない話を交わす、その姿を真正面から捉えたショットにうっとりする。
小さく聞こえる波の音、何を話しているのだったか、ビル・マーレイがケイト・ブランシェットをなんとなく口説こうかどうしようかそんな感じで他愛ない話を仕掛けるのだったか、このなんでもないひと時を捉えることが出来さえすれば映画はそれでいいのだと言われているようで、もうずっとこのシーンだけを延々と見ていたくなったのだが、そんなことはさせてくれないのが、ウェス・アンダーソン。
次から次へ、ネタの嵐。
挙句の果てに、嵐にやられて全滅した島へと主人公たちは行き着く。
おお、こここそがアメリカ映画の死滅する場所。
そこで繰り広げられるチープな銃撃戦!
「廃墟になってしまった映画の現在の中でいかに映画を作るか、それをまず考えざるを得なかった」と、先日のインタビューでオリヴィエ・アサイヤスは語っていたが、ウェス・アンダーソンにも新たな映画の廃墟がはっきりと見えているはずだ。
そしてそれが、並大抵に廃墟でないことも。
日曜日に見た3D版の『ポーラーエクスプレス』は、はっきりと映画の終わりを宣言していた。
良くも悪くも、その3D版は見られなければならない「映画」だ。
そこで一線が引かれ、その先に行くかとどまるか、作り手にも観客にも態度の選択を迫る。
あの映画の中で、「見るのではなく信じる」ということが言われていた意味が分かる。
3D版では、本当に見ることは意味を持たないのだ。
どんなに目を凝らしてもダメだ。
それはいきなり視神経に、ダイレクトにやってくる。
見世物的でもなく、もう、当たり前のようにやってくる。
先日の黒沢さんの『LOFT』は、映画を引き受けつつ一線を引く映画だった。
そしてウェス・アンダーソンの新作もそうだ。
しかも、ぬけぬけと、本当に一線を引き、仲間たちに態度の選択を迫る場面まであるではないか。
そして、線を挟んでビル・マーレイ側(自分の側)に来たものは仲間じゃないという、何ともねじれた態度の選択。
そして、仲間になりたいウィレム・デフォーは勘違いして線を越えてしまうというお間抜けぶり。
本来ならこういう映画は、富永昌敬が撮るはずだったのだ。
『LOFT』『レイクサイド』そしてようやく完成した『エリ・エリ・レマサバクタニ』と並んで、日本映画の観客と作り手たちに、後戻りの出来ない決断を迫るはずだったのだ。
少なくとも私はそれを待っていた。
でも、ウェス・アンダーソンにやられてしまった。
しかも、日本映画殺しではなく、アメリカ映画殺しである。
おそらくヌーヴェル・ヴァーグもこうやってフランス映画の墓を掘ったのだと思わせる。
その上、撮影はチネチッタ。
撮影所の映画の思い出もすべて引き受けて、軽々しく決着をつけている。
規模が違いすぎる。
スピルバーグのやっていることさえ、単に親父の郷愁に見えてしまうではないか。
まあ、ちょっと大袈裟すぎるか・・・
昨夜書いていた「nobody」用の『アレキサンダー』をネタにしたアメリカ映画の原稿と、問題がかなりかぶってしまったのでつい、あれこれと妄想が広がってしまう。
しかしいずれにしても、その100分の1程度の規模で造らねばならない冨永には100倍の思考が必要とされるに違いない。
もちろん観客である我々もまた、それを引き受ける覚悟を要請されるだろう。
いよいよ始動するだろう『ロスト・イン・アメリカ2』を作るためには大変な力が必要となるはずだ。
家に帰るとPORT CUSSのDVDなどを発売しているHELLO GOOD=BYE STUDIOの塚本さんから、さまざまな音源が届けられている。
70年代の音も混じっていて、続けて聴くと、PORT CUSS の現在が、鮮明に浮かび上がってくる。
その鮮明さの持つ歴史を一気に受け取った気がした。
ファーストアルバムのライナーに湯浅さんが、ジョーイ・ラモーンが死んだことを知ったとき、思い出したのはヒロシさんのことだったと書いていたが、『Clean』の中でジョーイの唯一のソロ・アルバムの3曲目「ミスター・パンチー」を使い、ロックの思い出と自らの歴史に決着をつけそれとともに新たな第一歩を踏み出そうとしたオリヴィエ・アサイヤスに、これらの音を聞かせてあげたい。
現在の映画が直面している大いなる危機を実感している映画人たちには、是非この音を聴いてもらいたいと思う。
ああそれから、『ライフ・アクアティック』はジョナサン・リッチマンのDVD『Take me to the Plaza』みたいな映画だとも言っておこう。
引かれた一線の上で、絶妙にとどまり続けることも出来るのだ。