
2005年 boid日記 3月
Text by 樋口泰人
3月22日(火)
「終わらない仕事はない」と呟きながら、ある意味呑気に、ある意味限界ぎりぎりのところで漫画を書いていたかつてのガールフレンドの姿を思い浮かべながら、この何週間のハードな暮らしを何とか乗り切った。
乗り切ったと思うとまた、それなりの問題は起こったりして、簡単には楽をさせてくれない。
明日は山梨の実家に帰り、入院中の父親の病状と手術のスケジュールを確認し、その後に備えねばならない。
といっても何ができるわけではない。
車がないと生活できない場所であるにもかかわらず、免許もない。
弱っている母親の世話といっても家事ができるわけでもない。
何となく、だらしなくそこにいることしかできないのだが、状況次第で、しばらく田舎暮らしとなる。
まあ、東京にいてもつらいばかりだから、それもまた気分が変わっていいのかもしれない。
いずれにしても、呑気に暮らすには田舎ライフ充実のため、ネット環境を整え、視聴覚環境を充実させる必要がある。
諸々の準備をしていると、それなりに予算がかさみ、一体それほど準備をするほどのものなのかどうかとふと我に返るのだが、そうでもしないと帰る気にはならないので。
山梨と東京とで半分ずつ暮らし、教習所に通いながらダラダラとDVDを見続ける日々、を目標にしているのだが、そんなお気楽なことになるのだろうか・・・
一昨日は、吉祥寺スターパインズ・カフェにてメイヨ・トンプソンのライヴに行った。
青山から前もって、スキンヘッドにしたことと2日ほど前に酔っぱらって転び頭にキズを作ったことを聞いていたのだが、待ち合わせ場所にやってきた青山の額を見て唖然。
あまりに見事な2本のキズ。
しかもスキンヘッドと妙にフィットしている。
そのキズに縦1本が入るとジェネシス・P・オーリッジだねえと笑っていたが、しかし人は単に転んだだけであのような見事な2本のキズを額に作れるものだろうか。
顔の他の部分には全くキズがないのだ。
額から激突したのだと言われればそうかとしか言いようがないが、ならばその2本の見事なラインは一体いかにして???
それに関しては、酔っぱらっていたのでお答えしかねるとの返事。
友人の「カナリア」プロデューサー妹からは、「下駄で殴られたみたいですねえ」との指摘。
実は、酔っぱらったあげくけんかして本当に下駄で殴られたのかも、という疑惑も起こるが、まあ、今時下駄を履いた輩がどこにいるのか、額から激突して2本のラインを作るのと、下駄を履いた輩とけんかするのと、確率的には前者が勝るだろう。
いずれにしてもあまりのことに、本人も呆れて、しばらく酒は飲まないとは言っていたが、確かにその日の夜は飲まなかった。
会場は超満員。
相変わらずスターパインズのライヴハウスらしからぬきちんとしたしきりには呆れるが、まあそれは適当にやり過ごす。
岸野雄一バンド、突然段ボール、メイヨ・トンプソンという3者の演奏はどれも見事であり、かつ、共通の核を持っているように思えた。
当たり前の言い方になってしまうが、それぞれ「言葉」と「メロディ」と「リズム」との齟齬とズレときしみの中に身を任せつつ「歌」を引きずり出す、その姿勢の正しさ、ということになるだろうか。
「言葉」と「メロディ」の間を浮遊しつつそのどちらにもなりうる可能性のかけらを「歌」として未来に差し出しているかのような岸野雄一、日本語の「言葉」と英語の「リズム」の否応なしの亀裂を決して繕わずそのまま見せることに身体を賭けているかのような突然段ボール、そしてその両者を繊細かつ強烈に統合してしまうメイヨ・トンプソン。
長時間のスタンディングで、足腰がすっかりガクガクになったが、それもまた彼らが投げかけてきた「歌」の堆積のようなものとして、今後もじわじわと私の身体を痛め続けるに違いない。
その後、某所で食事となるが、ライヴには遅れてやってきた中原の一人舞台。
しかし、相変わらず、全く大人とは思えない資金破綻ぶり。
本人としてみればそんな予定ではなかったということなのだろうが、これまた唖然とするばかり。
だが、そうでもしないと原稿が書けないという説明は、納得できぬ訳でもない。
そこにもまた、ただならぬ亀裂が走っているに違いない。
そしてさすがに呆れたのは、すでに2代目のiPod が、ほとんど満杯になっていること。
共に40Gのもので、概算して7000曲以上がそこに詰め込まれていることになる。
しかも、2代目はジャケットも表示できるので、それらもすべてネット上から拾い集めてきているらしい。
趣味とかマニアとか、そういう状態ではない。
感動的ですらある。
3月2日(水)
昨日の日記の件で、青山から「映画の役割は終わり、というだけでは半分しか言ったことにしかならない」という指摘を受ける。
「でもいま、映画の役割とは、映画の役割はまだ片付いていない、と人々に伝えることではないでしょうか。」と。
確かに。
だからこそ『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』の意義があるわけで、ただ、今、映画がどのような場所にあるかを気にもせずかつてあったかもしれない「映画」の中で映画を作っている人が多すぎる、ということに、つい苛立ってしまうのであった。
なかなか大人になれない。
ただ、私は3Dを受け入れているので、アメリカ映画にはどんどん3D作品を作って、日本にも次々に3D劇場ができることを望んでいる。
3Dには、それでしかできないことが確かにあるように思う。
もちろんそのことと「映画の役割は終わり」というのとは別なのだが。
それから、誤解されてしまっているかもしれないので付け加えると、『クライシス・オブ・アメリカ』は、目の前にあるものが信じられないという、テクノロジーがもたらした状況の中で作られた映画であって、それ自体が「だから映画の役割は終わり」と言っている映画ではない。
いずれにしても、私が言いたかったのは、ウディ・アレンもジョナサン・デミもまともに見ることのできないこの状況というのは一体どうしたことか? ということであった。
ウディ・アレンもジョナサン・デミも、特に好きな監督、というわけではないのだけど・・・
それから、ついでにワイクリフ・ジーンのアルバムを買った。
昨年出たものを買い損ねていたのだ。
日本盤が出ていたから、そちらを買ったのだが、ジーンではなく、ジョンと書いてある。
これまで私が買ったのはすべて外盤だから、つい英語読みをして、「ジーン」だとばかり思っていたら・・・
確かに、ハイチ出身だから、フランス語、クレオール語読みになるんだよなーと思ったのだが、だったら「ジャン」ではないのか?
クレオール語では「ジョン」なのか?
このスペルで「ジョン」と記すからにはそれなりの理由があるはずだ。
こういった人名表記は一度気になり出すとどうも気になる。
音楽誌をほとんど読まなくなってから、もうかなりになるので、ちょっとしたことがよくわからない。
先日も、ロバート・ワイアットとアルバムを出したギルアド・アツモンが、日本盤では「ジラッド・アツモン」と表記されている、という話を聞いたばかり。
いや、日本盤の製作者たちを責めているのではなく、なんかこういうことってちょっとしたことでうまいこと巡り始めるはずなんだが、その回路がどこかで断線されていて、それがもどかしいのだ。
本日は、『ウィスキー』を見に行った。
前々から齋藤敦子さんから、『ウィスキー』の前に撮った映画がかなり良くて、「樋口仕様」という推薦を受けていて、でもどこもその映画は配給してくれないから、とりあえず『ウィスキー』を、ということになったのだ。
こちらは、老人たちの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』であった。
芸もなく遊びも知らず貧乏な主人公の一人が次第に不機嫌になっていく様は、身につまされた。
だが気になるのは、ここで見せられる老人像が、どこかやはり、若者が想像した老人像でしかないように思えてしまうところだ。
つまり、彼らの行動や心情がわかってしまうということで、だからもちろん、この映画はそれなりに受け入れられるのだろうが、たとえばファスビンダーならこうはやらないよなー、とか、つい思ってしまったのだった。
いよいよ老年をどう生きるかを考え始めている者としては、訳のわからない老人たちが出てきて、こちらの思いを涼しい顔して台無しにしてほしかったのだが。
まあそれもまた、「こちらの思い」な訳だから、そうはうまくはいかない。
いずれにしても、「わかってしまう」老人像をいかに伝えるか、という点では、焦点はボケていない映画であった。
だから音楽の始まりと終わりのポイントがちょっとずれていたのは気になったのだが。
あと、老人の住むアパートの壁の青がなかなか気に入ったので、今度、私の仕事部屋の壁を青く塗ってみようと、呑気なことを思いながら見ていた。
結構気分が変わるかもしれない。
家に帰って妻に部屋の壁の塗り替えの話をすると、ほとんど「できるものならやってみな」というニュアンスで、「大変だよ」と一言。
いや、どうせ自分の部屋だから、つらかったら途中でやめようかと・・・
それから、彼らはユダヤ教徒なんだよなー。
これがこの映画にとってどの程度の意味があるのか、日本人である私にはぴんとこなかったのだけど、たぶんこれは、かなり重要なことではないか?
墓石の建立式が物語を展開させるきっかけになるから、そのためだけのユダヤ教なのか?
それともウルグアイとユダヤ教という組み合わせは、それほど奇妙なことではないのか?
『ストレンジャー・ザン・パラダイス』にも、宗教ネタは出てきたのだったか・・・
すでに記憶にない。
男女3人、飛行機、車、ギャンブル、旅行、音楽などなど、様々な要素がかぶっているのだが。
そうそう、思い出したが、さっきの音楽の始まりと終わりの切れの悪さ。
あれは、車のエンジンがなかなかかからなかったり、うまくつかない蛍光灯、老人たちの歩行の遅さ、などと関係があるのかもしれない。
そのあたりの踏ん切りの悪さは、案外いい感じでもある。
3月1日(火)
熱を出していた。
風邪の症状が治まったと思ったら、ついに花粉症が。
昨年までは何となく怪しいなと思う程度だったが、今年はもう完全に花粉症。
うーん、これはひどい。
世間の人々が、あれこれ騒ぐはずである。
いざ酷くなってみると、これで人類は滅亡するのではないかと思えてくる。
本当に久々に試写に行く。
かなり無理矢理だったが、ジョナサン・デミの新作『クライシス・オブ・アメリカ』は、都内では豊島園のシネコン・チェーンの劇場でしか公開されないというから、とにかく試写で見ておかないと、ということだったのだ。
これだけ劇場が増えて、どこも「ソフト」を求めているというのに見たい映画が見られないというこの状況は、全く理解しがたいが、それが現実である。
ライヴドアも、ニッポン放送ではなく劇場をガンガン乗っ取って、適正な上映ができるシステムを作ってほしいものである。
あるいはNHKも公共放送をやめて、公共劇場でもやってくれたら・・・
まあ、そういう金の使い方をしないのが金持ちということなんだろうけどねえ。
渋谷にboid劇場、作りたいよ、ホント。
そしたら、絶対に、この『クライシス・オブ・アメリカ』とウディ・アレンの『スコルピオンの恋まじない』の2本立てをやるんだけどねえ。
あと、3D版の『ポーラーエクスプレス』を見れば、今のアメリカ映画の状況が一発でわかるはずだと勝手に思っているものの、なかなか伝わらない。
映画がおもしろいとかつまらないとか、そんな問題じゃなくて、ことは映画自体の存続に関わる問題なんだけど。
日本の映画関係者にはそういった危機感はないのだろうか?
いずれにしても、『クライシス・オブ・アメリカ』は、テクノロジーの進化と映画と歴史とに、深く関わっている映画であった。
ジョン・フランケンハイマーの『影なき狙撃者』のリメイクということなのだが、当時の政治状況における様々な陰謀とその影の主体、というサスペンスはもちろん押さえつつ、そこにテクノロジーが加わるといったい世界はどうなるか、ということを一気に見せてくれる。
もはや引き返すことのできない泥沼に、アメリカもアメリカ映画も足を踏み入れてしまった、その実感だけを頼りに作られているような映画であった。
3D版『ポーラーエクスプレス』が実感させる「見えるものの中には真実はない」という台詞はそのままここにも適応される。
「映画」の役割は終わり。
その中で映画人として何を作るか。
そんな倫理的姿勢を示した映画。
まあ、だからこそ、東京ではまともに公開されないんだろうけど。
ついでに言っておくと、物語とはあまり関係のないようなあるような謎の役割でロビン・ヒッチコックが出ている。
ジョナサン・デミはヒッチコックのライヴ・フィルムを撮っていて、すでにアメリカ盤のDVDが出ているのだけど、日本では劇場公開どころかDVD発売もされない。
これがまた、ライヴを撮るのにこんな方法があったかと思わせる、それだけでも見ものなのだが、映画の終わりがフィルムの終わりにもなっているというシニカルな方法もとられていて、こういう作品が公開もされず発売もされず、しかもリージョン・コードの関係でほとんどの人がそんな存在も知らされない、そんな国に住んでいるのだということばかりを実感してしてしまう作品なのだ。
あと、音響設計みたいなことを、ワイクリフ・ジーンがやっていた。
ジョナサン・デミの映画には、いつもいろんな音があれこれ入っていて驚かされることが多いのだが、今回のものはまた格別。
こうやってできあがってきたものを見てみると、ジョナサン・デミとワイクリフ・ジーンという組み合わせは、見事としか言いようがない。
まあ、あまり映画音楽っぽくないから(映画音楽っぽい部分は、別の音楽担当者がやっている)、今後、ハリウッド映画にどれだけ進出できるかどうかわからないが。