
2005年 boid日記 4月~5月
Text by 樋口泰人
5月15日(日)
13日、14日と酷い耳鳴りに襲われ、しかも14日はグルグルの目眩。
入院したとき以来の激しいものになった。
いろんなことが限界に来ている。
とりあえず、boid宣伝部員を募集する。
ただ、金はまったくないので、売り上げを山分けという出来高払い。
全くの宣伝未経験だとこちらもつらいので、経験者でガッツのある人。
というこちらに都合のいい条件で付き合ってくれる人はいるだろうか?
今後、実は次々にいろんなboid企画が控えているので、それぞれをちゃんとやっていくと1年後には普通にギャラも支払えるかもしれない(希望的観測)。
しばらくの間、本気でboidと付き合ってもいいと思うなら、下記のアドレスにメールを。
うーん、しかしこの募集の都合の良さは、30億円持ってきてくれるスポンサー希望の都合の良さと、あまり変わらないかな。
まあ、ものは試しということで。
したがって、30億円スポンサーになってもいいと思われる方も、下記のアドレスへメールを。
bakuon@boid.pobox.ne.jp
本日は、ようやく耳鳴り・目眩が治まり、生き返った気分。
午後から、新作を執筆中の高橋さんを連れて、知り合いの占い師のところに。
霊能力者の取材をしたいというので、参考になるかどうかと、とりあえず紹介したのだ。
果たしてシナリオの役に立ったかどうかは別にして、二人の話はあれこれ興味深いものばかり。
うーん、テープにとっておいて、映画完成の際にこの場で発表するとかすればよかったか。
しかし、高橋さんは、このような仕事でなければ、本当は陶器作りとかをしたかったのだそうだ。
「こちらが取材しに行ったのに、話しているうちに人生相談みたいになっちゃいましたね」、というのがこの日の高橋さんの感想。
その後、横浜日仏にて、大寺主催のシネクラブ。
クレール・ドゥニの『美しき仕事』を上映後、トーク。
考えてみたら、ドゥニの映画も結局、ヴィンセント・ギャロが出ていなければ公開されない、という状態。
デプレシャンの新作は、配給が付いたものの公開はまったく未定、ジャック・ドワイヨンなんか『ポネト』以来何も公開されず、ヴェンダースも昨年の「Land of plenty」はおそらくどこも買っておらず、カンヌに出品中の新作「Don't come knocking」もどうなるか分からない。
単に音楽ドキュメンタリーの人となってしまった。
しかも、ドイツのロック・バンドのドキュメンタリー「Viel passiert - Der BAP-Film」は未公開。
まったく本当にしょうもない状態になってしまった。
なんか、リュミエール以前の状態に戻っちゃったよねえ、と、大寺と愚痴。
だがそんな愚痴を言っていても始まらない、というのが、この横浜日仏のシネクラブである。
ひたすら前向きな大寺の態度に感心する。
でもまあ、boidはもうちょっとヨレヨレで転がりながら行くことになるだろう。
大寺からは、それについて、諸々の忠告を受ける。
5月12日(木)
というわけで昨夜から延々と、プロット作りの作業。
あれこれ資料を引っ張り出しながら、しかも気がつくとそちらの資料を読んだり聞いたりしている方に夢中になってしまい、なかなかはかどらず。
途中で、ロッキー・エリクソンについてのドキュメンタリーが作られていることを発見。
今年のサウス・バイ・サウスウェスト映画祭でプレミア上映されたもの。
あわてて、キングレコードの長谷川氏に連絡を入れ、何とかならないかと話をする。
長谷川氏は現地でそれを見ていて、かなり面白い映画だったと。
その中のいくつかのエピソードを聞き、呆れる。
何とかして見たい。
ただ、「仕事」ということになると、かなり状況は厳しいらしい。
本当に、何とかならないものか。
夕方、4月末にロンドンでプレミア上映が行われたT.REXのドキュメンタリーを見てきた友人から電話。
これまたあまりにすごすぎて、もうすぐ日本でも発売になるDVDだけでは全然満足できないとのこと。
なんてことだ。
とりあえず、明日、某所に連絡を入れて、劇場上映実現のための準備を始めることに。
見たい映画を見るのに、すべてを自分たちでやらねばならない。
当たり前といえば当たり前だが、一体金ばかり儲けている配給会社や製作会社は何やってるんだろうかと、無性に腹も立つが、まああちらにしてみたらこちらなど「数」のうちには入ってないのだから仕方なし。
誰かboidに映画の10本や20本を平気な顔して買えるくらいの資金を調達してくれる人はいないものか。
boidはいつでもウェルカムである(当たり前か・・・)。
5月11日(水)
夕方から、リチャード・ヘル&ヴォイドイズの『ブランク・ジェネレーション』の試写。
DVDで発売されているドキュメンタリーの方かと思っていたら、そうではなく(というか、ちゃんと説明書きを読んでいればすぐに分かったはずなのだが)、リチャード・ヘル自身が脚本も手がけたというフィクション。
いやあ、これまた見なかったことにしておきたい90分。
演奏シーン、何もしないアンディ・ウォーホルなど、見所はいくつかあるのだが・・・
客席の最前列にいた、顔を黒く塗ってノリノリのリーゼントの男は、もしかしてジャームッシュか?
その後、黒岩、中根とboid作戦会議。
例によって半分くらいはしょうもないことをグダグダ話しながらも、少しは前進。
爆音レイトの4週間の土曜の夜には、毎週イヴェントを行うことにする。
爆音企画の場合、こういった映画的な企画は出来ればまったくしない、というつもりだったのだが、あまりに無愛想にするより少しは愛想よくした方が、少しでも見に来てくれる人が増える、との意見・状況を素直に受け入れたのだった。
負担は増えるが致し方なし。
どうせやるなら少しでもいい感じでやりたい。
具体的な内容、ゲストは追って。
帰宅後、深夜のジョナサンにて、爆音レイトのチラシを配ってくれる若者たちに会う。
バンド仲間で、高円寺在住の一人は、環七沿いの部屋のため、外の騒音に耐えうるようあらかじめ防音部屋になっているのだという。
つまり爆音部屋である。
これはうらやましい。
boid事務所設立の折りは、やはり環七沿いの爆音部屋にしようかと心が揺れる。
もう一人からは、74年テレビジョンとか82年ケヴィン・エアーズとか98年エリオット・スミスなどなど、いくつものDVDを借りる。
ウルウルするが、今夜はそれらを見る時間はない。
とにかく、月曜日に打ち合わせした某企画のプロットを仕上げてしまわねばならないのだ。
5月10日(火)
黒沢さんも参加しているテレビ・シリーズ「楳図かずお 恐怖劇場」が劇場公開される、そのための試写を見に映画美学校へ。
楳図かずおは確かにあれこれ読んでいたはずだが、相変わらず記憶喪失な私は、ほぼ何も憶えていないに近い。
だからまあ、思い切りニュートラルな状態で試写に臨んだのだが、まるで『CURE』の夫婦の物語の別ヴァージョンのような黒沢さんの「蟲たちの家」に、すっかり動揺する。
ホラー映画を見ていると言うより、ものすごくリアルな現実の物語を見ているような、そんな妄想にとらわれた。
それは映画の問題であるのか私の問題であるのか区別がつかない。
その後に「絶食」というのが続いたのだけど、これが監督デビューという伊藤匡史氏には申し訳ないが、あまりにレベルが違いすぎ。
演出、演技、編集、全然ダメ。
おそらくテレビの深夜シリーズで見ている分にはこれでいいのかもしれないし、案外にやにや笑いながら見ることが出来るのかもしれない。
だから、それらをそっくり劇場に、という発想自体に無理があるということだろう。
あまりのことに愕然とするばかり。
このような状態で公開されるということは、黒沢さんにとっても不幸としか思えないのだが。
その後、八重洲富士屋ホテルの喫茶店にて、リニューアルされる「ハイファッション」の連載についての打ち合わせ。
途中から編集長の田口さんも参加。
諸々の話の中で、連載の方針が決定。
いわゆる映画紹介のコーナーにはならない。
5月9日(月)
泣く泣くジャ・ジャンクーの新作の試写をあきらめ歯医者に行って、右奥歯を入れる。
とにかく片方だけでも入ってくれたおかげで頭痛が消える。
その後、青山・土田と某企画についての会議兼食事を新宿某所にて。
奇妙な盛り上がりを見せるが、青山は途中で貧血。
もう30時間以上も眠っていないらしい。
さすがに真っ青になっているので、ちょっとびびる。
その姿を見せられては、プレゼンできる形にするまでの作業を引き受けざるを得ない。
だが、そんなこと、私に任せてしまっていいのか???
5月7日(土)
奥歯の状態が悪化し、しかも両側なので始末に負えない。
口の中でちゃんと咀嚼することが出来ないので当然胃腸に負担がかかり、そちらも最悪な状態に。
月曜日の歯医者まで、もう少しの辛抱なのだが、ちょうどその時間帯にジャ・ジャンクーの新作の試写を行うという知らせが入る。
っとにまあ。
だからゴールデンウィークは嫌いなのだ・・・
もういい加減サラリーマンの都合で休みを勝手に作るのはやめて欲しいものだ。
休みたければ勝手に休めばいいじゃんとしか思わない。
勝手に休めないような奴らの都合に、どうしてこちらが合わせなければならないのかと、まあ、こちらも勝手な都合でしかないのだが。
日仏の坂本安美からメールが来る。
先日の上映の件。
ゴダールの新作に関しては、とにかくフランスでの公開からあまり時間を空けず、日本でも上映できないか、との配慮から今回はフィルムではなくビデオ(ベーカム)での上映を決断したとのこと。
で、ベーカム上映をした場合、日仏のシステムではセンターのスピーカーからの音が出ない。
というか、ベーカムになった時点で音が2チャンネルになるということなのだろうと思う。
私にも、そのあたりの技術的なことは分からない。
とにかくそういうことなのだそうだ。
だからやはり、ゴダールがどのような音の処理をしているのかは、フィルム上映されるまでははっきりしないということになる。
もちろんフィルムの方がベストなのは分かっているが、それをやっていたらいつ上映できるかも分からない。
そんな現在の状況の中での決断だった、ということである。
つまり、今回の上映は単なるきっかけに過ぎないということで、それに満足しないことのみを日仏の上映は求めているということにもなるだろう。
今後もそのような欲望の作動装置として、日仏学院の上映が企画されていくことを強く願う。
多くの配給会社が、それに応えてくれればいいのだが・・・
5月4日(水)
先日の『ラヴレス』『ラストショー2』のDVD日本盤情報が青山から。
『ラヴレス』の日本盤は発売されたが、『ラストショー2』の方は「2」ではなく、『ラストショー』の廉価版のようなものが発売されたのだ、とのこと。
ちょっとだけ安心。
それから、『エリ、エリ』の波を見つめる視線についても返答あり。
ひとことで言えば「陸サーファー」「夢見るもの」ティモシー・ボトムズ(『ラストショー2』)とブライアン・ウィルソンの視点。
「一種の禁欲の果ての快楽」みたいな部分でそれは爆音と共通するのだと。
そしてそれは、『ラヴレス』にも共通してあった感覚で、なんと、初めて聞いたのだが、当初『Helpless』は『ラヴレス』を想定して書かれた物語だったのだとか。
光石研=ロバート・ゴードンという大胆な設定。
などなど、『エリ、エリ』その他を巡るあれこれの解説があったのだが、まあ、それをここで書いてもこれからの映画なので、多数のまだ見ぬ人を含め混乱を招くばかりだからやめておく。
いずれ青山の手によって、さらに突っ込んだ解説が、たぶんよりわかりにくい形を伴ってなされるだろう。
ひとことだけ付け加えるなら、それは「快楽のための禁欲」ではなく、あくまでも「禁欲の果ての快楽」である。
だからその「快楽」は結果でしかなく、それが結果でしかないという点においてどこまでも苦い「快楽」であるはずなのだ。
禁欲の果てに現れるだろう死者=歴史と共にしか味わえない快楽というか。
そんなものを果たして快楽というのかとも、多くの人は言うだろうが、そしておそらく、短編集『ホテル・クロニクルズ』の最後に置かれた「白猫」の物語が意味しているのも、そのようなことではないかと思う。
夜、歩いて数分のクラブ、U.F.O.CLUBにて、元レスト・オブ・ライフの西岡さんがやり始めたバンド、Americoのライヴを見る。
ちょっと前に会ったとき、「セクシーな格好してやりますよ。私みたいなガリガリなのがセクシー姉ちゃんやると、かなり笑えると思いますけどね、あはは」とか言って笑っていたのだが、ステージ上でキラキラのノースリーヴ・ワンピースを着込んだ姿は、なかなかなものである。
練習不足とヘタウマと貫禄とをごちゃ混ぜにしながら、一体このバンドは何者なのだ?と思わせてしまう演奏も同様。
50年代から60年代にかけてのアメリカのロックンロールやポップソングの形式を、今後いかに読み替えていくかがAmericoの課題となるだろうが、たとえばそれは、アメリカにおいて、その過程の中でひとつの形を作りつつあったロバート・ゴードンをさらに光石研に置き換えるといった読み替え作業だけではなく、『エリ、エリ』における岡田茉莉子と宮崎あおい、『ライフ・アクアティック』のアンジェリカ・ヒューストンとケイト・ブランシェットの視線、あるいはそのラストシーンで探査船の船首だったかに立つ死んでしまった息子の幽霊の視線を導入することでもあるだろう。
腰の据わった遅さ、主旋律とは微妙にズレながら進むギターのコード進行、ガリガリのセクシー姉ちゃん、バブルガム・ミュージックを象徴するようなドラムのエコー、陸サーファーの身もだえのようでもあるギターの痙攣などなど、さまざまな要素が総動員された、壮大かつスウィートなロックンロールが誕生することを願う。
そしてたぶんそれは、我々の課題でもある。
5月2日(月)
4月30日の「夢見る者を世界が必要としていると思うか?」というウェス・アンダーソンの問いに関して、青山から、それは、「夢見るものが世界を必要としているか?」というふうに設問を反転させなければならないのではないか、というメールが来る。
確かに。
この最初の設問だけだったら、単なる青春映画だと言われても仕方がない。
だがたぶんそこに、ビル・マーレイの役割の重要さがあるのだと思う。
彼の、つぶらな瞳の、しかしどこまでもまっすぐな視線の持つ尊大さは、「夢見るものが世界を必要としているか?」と、映画の中と映画の外に向かって、常に問いかけているようにも思う。
その二つの反転した問いがグルグル回ることが、アンダーソンの映画のエネルギーになっているのではないか。
そしてその二つの視線の間でひたすら混乱する男として、『ライフ・アクアティック』のウィレム・デフォーがいるように思うのだが。
となると、「道化」はウィリアム・デフォーか・・・
夜、映画美学校にて、篠崎の『霊感のない刑事』の40分ヴァージョンを。
ネット上でも公開されているヴァージョンのブローアップである。
倍の長さになっている。
したがって、これでもかというしつこい繰り返しが次々に。
後半は無声映画のスラップスティック・コメディの様相を呈し、これはこれで本気の迫力。
緑の丘から、頭に出前の岡持をかぶった男が転がり落ちるシーンで、そういえば篠崎は昔酔っぱらうとよく、誰も頼みもしないのに階段落ちをやったものだと思っていたら、最後のクレジットに、監督・脚本などの他、「スタント」の文字も。
なんて奴だホントに。
欲を言えば、この倍の長さにして欲しかったと、注文をつける。
どこかでうまくいかなくなってしまった夫婦の物語をもっとじっくり見たいと思ったのだった。
まあ、でも、そうなると刑事まつりではなくなってしまうのだが。
終了後、一緒に見ていた松田広子、篠崎、そして、美学校の近所で仕事をしている松田妹を呼び出して食事に。
いかにして家の中に溜まったものを処分するかという話で盛り上がる。
しかし一番のショックは、アメリカのアマゾンからわざわざ買ったロバート・ゴードン主演の『ラヴレス』、そしてボグダノヴィッチの『ラストショー2』の日本盤が出たという話。
私は、松田妹に自慢するために『ラヴレス』アメリカ盤まで持ってきたというのに・・・
『ラストショー2』は、もう、公開時に見て以来の最愛の映画で、あまりのもったいなさに以来1度も見ずに、でも我慢しきれなくなってアメリカ盤DVDを買ったのに・・・
情報整理をバカにしてはいけない、というのが、本日の教訓。
ただし、帰りの電車の中で、『ラストショー2』の日本盤発売の方はちょっと怪しいという言葉が篠崎から漏れ、ちょっと安心。
5月1日(日)
昨夜からの頭痛とめまいが続く。
この時期は、たぶん、気圧と気温の変化の落差が大きいためなのだろう、大体こんな感じになる。
確か、めまいでぶっ倒れてそのまま入院したのもの連休明けだった。
じっとしているに限る。
昨夜の日記に肝心なことを書き損ねた。
今、ゴダールのビデオ短編やら、若手の新作やら、巨匠の貴重な作品やらがこうやってみることが出来るのは、日仏のこのような企画のおかげである。
あまりに当たり前にやっているので、それは、「やれるところがやっているのだ」というような印象を受けてしまうのだが、実はこのような企画を「やれるところ」は他にもいくらでもあるはずで、要はやる気があるかないかの問題であることは明らかである。
関係者の相当な努力と力がないと、このようなことは「当たり前のように」見えない。
その上で、次回は音響も!、という贅沢な注文であった。
まずは関係者にお礼を言うべきところを、つい先走ってしまい、心苦しい限り。
ただ、やはり、ゴダールのステレオとモノラルの使い方、使い分けを、ちゃんと確かめたい、という欲望は募るばかり。
白黒、カラー、デジタルビデオという映像のセットに、モノラル、ステレオ、サラウンド、といった音のセットがどう対応しているのか、そこまでは考えていないのか・・・
フランスではすでにDVD発売されているのだろうか?
確かめてみよう。
夜、『Siestas & Olas』というサーフィン・トリップ映画を見る。
3人のサーファーたちがメキシコを旅しながらサーフィンをする、というそれだけのドキュメンタリー。
というか、サーフィン以外の部分は、そこで起こったことを再現しながら進行する。
本人たちによる再現フィルムのようでもあり、再現フィルムのように作られたドキュメンタリーでもある。
もちろんその「再現」は、繰り返し押し寄せる波のようなものであり、再現ではないことも織り込み済みで、現実の波と再現された再現され得ない現実とのグルーヴが、見ている側をも次第にその波の中へと誘い込んでいく、といった感じ。
サーフィン映画で映される波は、時折、ある種の崇高さを含みながらスクリーンに登場し、それがサーファーたちの生き方にも関わって来るという仕組みになっている。
だがこの映画の波は、即物的というわけではないが、その崇高さとの関わりが微妙に重層化されている。
それはサーフィン以外の部分の「再現」とも関わりがあると思う。
そしてこのような映画を見ると、ますます、『エリ、エリ』の波のとらえ方が気になってくるのだ。
浜辺の一地点に据えられてじっと動かない視線により見つめられた波・・・
出来ればイルカの視線になりたいと願いながら、サーフィン映画の視線が海と波を見つめているとするなら、『エリ、エリ』の動かぬ地上からの視線は何を願っているのだろうか。
ああ、めまいと頭痛はいよいよ老眼が入り始めているためではないかと思っている。
とりあえず、メガネを新しくしなくては・・・
4月30日(土)
それなりに時間が出来るかと思ったら、やはりそれなりにあれこれある。
しかも、この時期は毎年決まって気力体力共に最低になるので、むちゃくちゃ調子が悪い。
1週間ほど、酷いめまい。
3日ほど前、『エリ、エリ、レマ・サバクタニ』を再見した日など、帰り道はまっすぐ立っていられなかった。
まあ、これは映画のせいもあるのだけど。
それほど音が強力になっていた。
地に足がついた音。
前回見たときと、かなり違う。
360度のサラウンドといった感じ。
救急車が、頭の右後ろから前へと駆け抜けていく。
スタッフの苦労のかいがあった。
しかしここまで来ると、上映劇場がないのではないか。
そちらの方が心配。
だがいずれにしても、世界の終わりからの次の一歩をこれだけ確実に踏み出した映画を見ることが出来る幸せ。
その夜だったか、ウェス・アンダーソンの処女作『アンソニーのハッピー・モーテル』を見たのだが、こちらには、「夢見る者を世界が必要としていると思うか?」という台詞があった。
アンダーソンの映画は常にその疑問を反復し、肯定する。
『エリ、エリ』は、その肯定を前提に作られているように思う。
本日は、ゴダールのいくつかの短編と、『映画史』別ヴァージョン『選ばれた瞬間』を日仏にて。
しかし、昨夜、治療中の奥歯の仮詰めがすっぽりととれ、まともにものが食えない状態になり、昼の上映をあきらめて歯医者に。
肝心なときになると、歯がとれるというのは一体どういうことか・・・(昨年の釧路日記参照)
したがってゴダールは、短編は見逃し、『選ばれた瞬間』のみ。
といってもフランス語に英字幕だから、端から言葉の意味はあきらめて、映像と音に集中するのみ。
しかし、センターのスピーカーからまともに音が出ていない。
スクリーン脇の天井につけられたスピーカーからメインの台詞その他の音が。
これはこれですごい分解の仕方である。
何しろ、スクリーン外からしか音が聞こえてこない。
そこに映っているものの外側から、まさに声が聞こえてくるのだ。
確か『ヌーヴェル・ヴァーグ』を初めて見たときだったか、音があまりにピンポイントに定位されていて、その精密さと映されているものとの切り離せない関係に、それがまさにそこから聞こえてくるが故にその外部からも聞こえてくるような回路を見たようにも思え、それこそめまいの連続だった記憶があるのだが、こちらはこちらでそれとはまったく違う「外」の見せ方で、それなりに呆れながら見ていた。
だが、その後のドミニック・パイーニ氏の講演の際のいくつかの参考上映の映画もすべて同じ状態だったので、これは、単に設備の問題であった・・・
だがゴダールは、明らかに、フィルムとビデオとカラーとモノクロを使い分けながら重ね合わせるように、モノラルとステレオとを使い分け、重ね合わせ、エコー操作によって、音による「映画史」、あるいは「選ばれた瞬間」を作り出していたように思えた。
その後のパイーニ氏の講演は「ゴダール映画における道化の役割」みたいなテーマ。
それは「近代」以降のテーマではないかという蓮實さんの指摘がその後にあったのだが、たとえば「道化」とは、「夢見るものを世界が必要としていると思うか?」という自問を反復し、そしてその行程をし続けている者、というふうに言い換えることは出来ないか。
パイーニ氏には、アンダーソン映画におけるビル・マーレイとゴダールについて、青山映画の斉藤陽一郎と光石研について、話してもらいたいと思った。
ああそうそう、本日のものすごく大きな反省がひとつ。
これは、今回のboid爆音企画に関わっている人間にしか分からないことなのだが、
チラシの配布はどんなにつらくても自分の手で!
うーむ、私の手間とバウスシアタースタッフの労働が一瞬にして水泡に帰すとは・・・
だがこれは、誰も責められない。
やはり、最後まで自分たちの手でやらねばならないのだ。
4月25日(月)
昨日の日記に書き忘れたのだが、中原からメールがあり、バリー・レヴィンソンの『隣のリッチマン』というのを見た。
ベン・スティーラー、ジャック・ブラック主演だから当然、「バカでまぬけな」アメリカン・コメディとなる訳なのだが、そこにマーク・マザーズボウの音楽が加わり、バリー・レヴィンソンの「アメリカ」への視線が加わって、デヴィッド・リンチの言う「ご近所映画」の背後の広がりが一気に開ける。
リンチと違ってバリー・レヴィンソンだから、当然、ダークなものではないのだが。
おそらくアメリカでもたいした話題にもならず公開されたのだろう、日本ではもちろん劇場公開もされず、宣伝らしきものもないままいきなりDVDリリースされてしまった作品で、「ご近所映画」の定義通り、周囲の世界で何が起こっていようとほとんど関係ないまま自分たちの狭い世界の中に暮らす人々の物語だからますます日本でそれを見る意味は希薄になるのだが、だからこそそれを見る意味があるわけで、それがアメリカ映画のベースを作っていたのではなかったか?
『ミリオンダラー・ベイビー』と、友情もの2本立て、というのはどうだろうか。
その、まったくタイプの違った二つの映画の幅の中にアメリカ映画がある。
しかし、配給会社やバイヤーの人たちに文句を言っても始まらないが、ようやく試写に行く時間が出来たので試写状をあれこれ眺めてみても、見たい映画がない。
もちろん、ただ漫然と映画を見に行くので十分なのだが、それでも全然見たい映画がないのだ。
これは、おそらく、『隣のリッチマン』のような作品を配給しない彼らに問題があるはずで、 だって、未公開作品では見たい映画がかなりあるんだから。
音楽だったら輸入盤で済ませられるんだけど。
まあでも、あんたのために配給してるんじゃないと言われそうだな。
夕方から、歌舞伎町にてデニス・クエイド主演の『フライト・オブ・フェニックス』。
今週で終わってしまうので、これまたあわてて見に行く。
劇場の前でばったり、瀬々君に会う。
瀬々君は、隣の劇場でやっているロバート・デニーロ主演の『ハイド・アンド・シーク』を見に来ていたのだった。
いい大人がこんなところでこんな時間に一体何をやっているんだか、というところなのだが、まあ、そんなものだろう。
『フライト・オブ・フェニックス』の方は、タイトルからも分かるように『飛べ!フェニックス』のリメイクで、冒頭のジョニー・キャッシュの歌が流れるシーンはなかなか期待させてくれたものの・・・
無駄のないテンポだけで2時間弱を押し切ってしまう見せ方は、いかにも現代的な見せ方と言えるだろうか。
オリジナルは2時間20分を超えていて、短くなった30分ほどがやはり問題である。
いろんな事が起こりいろんなエピソードが満載なのだが、時間が流れない。
たとえば、『ライフ・アクアティック』の中の、気球に乗ったビル・マーレイとケイト・ブランシェットの何気ない会話のようなシーンがひとつでもあれば。
あるいは、『ミッション・トゥ・マーズ』で火星の砂漠をうろつく主人公たちをとらえたロングショットのようなシーンがあれば。
夜、某雑誌の原稿のため、ジャック・ジョンソンが撮ったいくつかのサーフ映画を見る。
すでにDVD発売されていて、これが新パッケージで再発されるのだ。
これを見るのは何度目かになるのだが、結局またもやぼんやりと見てしまう。
『フライト・オブ・フェニックス』にはなかったシーンだけで出来ているような映画、と言えるかもしれない。
こちらの自由にはまったくならない「波」を相手に、いかにしてそこにこちらの「道」を見つけていくか。
自分の想像を超えたものに対して、それを受け入れつつ歩を進める、そのレイドバックすれすれの大らかさに、ちょっと救われた気がした。
そうそう、大学時代の友人から、何年かぶりで電話があった。
相変わらずとち狂っていた。
恐ろしいくらい、時間がゆっくりと流れている。
彼の中で、何かがフラッシュバックしているようなのだが、こちらはどんどん記憶を失いながら生きているので、胸が痛む。
変な気分だ。
4月24日(日)
ようやく復帰。
父親の手術の方は無事終わり、右肺の1/3を摘出というそれなりに大変なものだったにもかかわらず、まるで盲腸の手術後のような見事な回復ぶりで、現代医療のスキルの進化と洗練に呆れるばかりであった。
まあ、自覚症状が出た後のものではなかったのと、父親の気力・体力のおかげでもあるのだが。
そんなわけで予定よりも遙かに早く帰京して、しかしそれでもその間にやれなかったことをあれこれしていたら、あっという間に1週間以上が過ぎてしまったのだった。
しかしまあ、田舎は本当に車がないと生きていけないし、どこを向いても老人たちばかりで、呆れた。
私の祖母は101歳でまだ健在なのだが、その世話を、70過ぎの老人たちがしているという状態である。
でもまあ、78歳になる私の父が、手術後数日ですでに車の運転の心配をしているくらいだから、本人たちにとってみたら70代などまだ序の口、ということなのかもしれないのだが。
ようやく、『アビエイター』を見た。
想像していたのとはまったく違ったものになっていたので、ちょっと戸惑った。
確かスコセッシが学生時代だったかにとった短編で、ひげをそりをやめられなくなった男がどんどん顔面をそのカミソリで切り刻んで血まみれになる、というような短編があったように記憶しているのだが、なんか、それを2時間30分にしたような、大ざっぱな印象としては非常に小さい作品になっていた。
ケイト・ブランシェットの演技や演出などをはじめ、細部は目を見張る部分がいくつもあったにもかかわらず、でも何も見なかったような、そんなうつろな気分にさせられた。
でも翌日見た『コンスタンティン』と比べると、いかにスコセッシが「映画」を作ろうとしているのかははっきり分かるのだが。
しかし、その前に見た『フォーガットン』といい『コンスタンティン』といい、「X-ファイル」のようなテレビ・シリーズの1挿話、みたいな感触を得てしまうのは何故だろうか。
確か「ダーク・エンジェル」のシリーズを始めたジェームズ・キャメロンが、インタビューの中で、「やりたいことは映画の時間のスケールではやれない。テレビ・シリーズものくらいのスケールがないと」、というようなことを話していたと思うのだが、かつてのような、小さな世界を入り口にしてその向こうの広大な広がりをいかに見せるかというような作り方ではなく、大きな世界設定をまず作り上げてその中の限定された世界の中での物語をいくつも積み重ねることによって、その世界設定を埋めていく、というような作り方へと、物語の作り方がシフトしてしまったのだろうか。
私の子供が、最近「NARUTO」(という表記でよかったのか?)という現代忍者ものの漫画に夢中になっているのだが、これもまったく作り方は同じで、これは「ポケモン」も同様なのだが、キャラクターの紹介が事細かくまず、記されているのだ。
身体的特徴やら得意技、癖、などなど。
まるで物語は、それらを語るためにあるような、そんな感じでもある。
いい悪いというようなことではなく。
でもまあ、 かつての「ウルトラ」シリーズの怪獣たちのことを思い出すと、まあそんなものかな、とも思う。
だが、宇宙人やら時代を超えた運命やら世紀の大富豪、みたいな大きなものの力を借りないと何も語れなくなっているのかと、なんだか寂しい気持ちになる。
それとどこか共通した感覚なのだが、本日子供と一緒に見た『名探偵コナン』は、テレビの時の快調なテンポがなく、どこか「映画的」なるものへの視線の元に作られたものになっていて、疲れた。
想定された「映画」があり、それに近づくためにさまざまなアイテムを獲得していく道のりとして、この映画があるような。
だからどこまで行っても何をやっても、結局それを超える大きな世界設定みたいなものが出てきて振り出しに戻ってしまうという感覚。
『エターナル・サンシャイン』の記憶喪失も同じようなものだろう。
『ミリオンダラー・ベイビー』のような、徹底して救いのない物語がアメリカで受け入れられたのも、そういった傾向とどこか関係しているような気がする。
もちろんイーストウッドにはまったく関係ない話ではあるのだが。
ああそれから、ようやくboidの爆音活動を開始する。
6月11日からバウスシアターにて4週間のレイトショー。
『デーモンラヴァー』『ジェリー』『右側に気をつけろ』『ドリーマーズ』というラインナップである。
詳細は、近日中にアップする。
『ジェリー』は都内では初のフィルム上映なので、ライズXにてビデオで見た人も、是非。
爆音とフィルムの組み合わせでどれだけ感触が違うか、確かめて欲しい。
まあ、爆音『ジェリー』って、一体どうなるのか・・・、これは見た人にしか分からないお楽しみになるだろう。