
2005年 boid日記 11月~12月
Text by 樋口泰人
12月30日(金)
いやあ、こんなにきつい年末はかつてなかった。
と、毎年言っているような気がする(笑)。
しかし、昨年はまだ、大晦日にオールナイトをやる余裕があった。
今年は、もう、そんな余裕はどこにもない。
体力、気力、経済力のすべてが尽きている。
各所から請求書は届くが、こちらがずっと前に出してあてにしていた請求書の振り込みは、当然のようにない。
それもあわせると数十万になるから、個人事業としては大いにつらい。
とにかくまあ、今年はあれこれやってみて、それなりに充実した年でもあったが、私の体力と経済力は、とことん使い果たした。
来年は、どこかでやり方を完全に変えないとダメだろう。
とはいえやり残したことも多すぎて、ひたすら反省。
久々にポートカスのCDも聴く。
何もできなかったお詫びというか、来年に向けての景気づけ。
本日は頭痛と吐き気の中で、この2ヶ月間封も開けず、山積みになっていた郵送物と宅配便の整理をした。
仕事で必要なものは、さすがに封は切っていたのだが、その他のものの中にもいくつか大切なものを発見。
すぐにお礼を言わねばならぬものもあったのに・・・
その中のひとつに、大澤真幸君の『美はなぜ乱調にあるのか』という批評集があった。
かつて、カサヴェテスの特集をシネセゾンが行ったときのパンフレットに書いてもらったカサヴェテス論が収録されている。
ちょうど先週末、シネセゾン渋谷のオールナイトのイヴェントで、そのパンフのことをちょっと話したばかりだった。
というか、この本の方が早くて元に届いていたのだから、もっと早く郵送物の整理をしていればそのときに宣伝できたのにと、悔やむ。
しかしあれからすでに10年以上が経つ・・・
「サーク・オン・サーク」の見本誌が届く。
美しい本になった。
とにかく、買って、読んでいただきたい。
内容も、メチャクチャ面白い。
サークを知らなくても、知っていればなおさら面白い。
ドイツとアメリカ、演劇と映画、本物と偽物、1度目と2度目などなどに徹底的に引き裂かれつつひとつの人生を生きた映画監督の、愚痴と泣き言と愛と希望が目一杯に詰まっている。
これを読むと、実際に映画監督でなくても、「映画監督」という人生があるのではないかと思う。
しかしこれを買ってもらうには、一体どうしたらいいものか。
などと頭をひねっていたら、boidのサイトを載せているサーバの管理会社から連絡が来て、来年10月でサーヴィスを完全に停止するとのこと。
近々、このサイト全体の引っ越しもせねばならない。
1月にはリニューアルすることになっていたのに・・・
ということは、メールアドレスも変更。
うーむ、これは、もういい加減boidもやめた方がいいということか。
という、不穏な発言で本年はお終い。
いろいろとお世話になった方々、ご協力いただいた方々、本当にありがとうございました。
12月28日(水)
サークのインタビュー集『サーク・オン・サーク』の仕上げも、ボブ・ディランのドキュメンタリー『ノー・ディレクション・ホーム』のパンフ作りも終わったのに、まだまだ仕事は続く。
本日は、実家に一晩だけ戻っていた子どもを迎えに甲府まで。
車中でも仕事は続く。
昨夜もほとんど寝ていないので、揺れる車内でのパソコン操作で、三半規管が狂う。
しかし、甲府のあまりの寒さに揺れも吹っ飛ぶ。
子どもを引き取り、再度中央線に乗って帰宅。
「レッツ・ロック・アゲイン」の件でバウスに連絡すると、なんと、『ノー・ディレクション・ホーム』が年明けから小さな方の劇場に移ってしまうかもしれないとの知らせ。
そうなると、あのサウンド・システムで聴くことはできない。
できればバウスのあの音で、と思っていた皆さん、あと3日です。
年明けてからのんびり、なんて悠長なことを言っていると、あっという間に見たいものが見られなくなる!
私もとにかく明日、何とか時間を作ろうと思う。
そうそう、昨日判明したのだが、CD-ROM版の『恐怖の映画史』が、フランスで翻訳されて単行本になる。
映画研究家が作る黒沢清研究本の中に一部が入るのだとばかり思っていたら、違った。
世の中、おかしな事が起きるものだ。
12月22日(木)
トミー・リー・ジョーンズの初監督作『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』。
メルキアデス・エストラーダが3回埋葬される物語である。
1度目と2度目は複数の視点からひとつのことが語られ、2度目が終わり3度目へと向かう時点で視点はひとつになるが、そのひとつの視点が複数の視線を持ち始め、メキシコ国境に住む盲目の老人に扮するレヴォン・ヘルムの盲人の視線までを獲得する。
『21グラム』の脚本家の脚本で、テイストはよく似ていて、トミー・リーではないもうひとり主人公がショーン・ペンに似ていて笑わせるが、『21グラム』とは全く逆の立場に立っている。
つまり、監督個人の才能や、俳優たちの才能や個性に頼らない映画。
何しろ、後半の主人公は「死体」なのだ!
すべてがその「死体」とふたりの主人公の「生」の境界線上で展開する。
国境を越えてメキシコに入っても、エキゾチックな場所へと移行する訳ではない。
そこでもまた、「死」と「生」がうごめきあっているだけだ。
久々に、疲労感と共に主人公たちの旅を見た。
ただ、撮影がたぶん、ビデオなのだろう、全体にピントが甘く、ちょっと残念だった。
もしかして映写かプリントの問題、ということはあるのだろうか?
その後、日仏学院にて、某映画のための打ち合わせ。
先行きはまだはっきりとは見えてこない。
家に帰ると、『サーク・オン・サーク』の書店からの注文があまりに少なすぎ、という報告。
これでは全くどうにもならず。
誰かの手に取られる前に、とにかく書店に置かれなくてはスタートラインに立てない。
書店でのスタートラインに立てない以上、ネット通販しか望みなしかと思い、アマゾンとアフィリエイト契約を結ぶ。
まあ、さっさとそれくらいしとけよ、とも言えるが(笑)。
したがって、今後、このページにはアマゾンへのリンクがそこかしこに貼られることになるだろう。
でもそれくらいでサークが何とかなるなら、こんな事態にはなっていない。
こんなことなら、4500円くらいの値段にして、買える人だけが買い、あとは図書館に一斉に注文、ということにしておけばよかったと、心の底から反省。
逆にそれくらいの値段なら、書店もっちょっと注目してくれたかもしれない。
実際、こちらの労力はそれくらい分はたっぷりかかっているしなあ・・・
ここ数日、日々荷造りしては郵便局まで抱えていって発送した、フリーペーパーが威力を発揮してくれたらいいのだけど。
という訳で、トミー・リー・ジョーンズとレヴォン・ヘルムで盛り上がり、最後はしょぼくれたジョー・ストラマーの命日であった。
12月21日(水)
クローネンバーグの新作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』。
ヴィゴ・モーテンセンとエド・ハリスが出ているということくらいしか知らず、驚きと共に見る。
クローネンバーグの映画、ということを全く意識せずに見たら、あるいは、クローネンバーグのことを知らない人が見たら、それはそれで普通のサスペンスに見えてしまうくらい、物語は分かりやすい。
60字以内で内容を記せ、と言われたら、多くの人が同じような要約を書くのではないだろうか。
各シーンがすべて、その物語の語りに奉仕しているように見えて、すべて、その物語の流れとは関係ない細部に奉仕しているようにも見える。
いずれにしても、目の前で起こっていることしか語られない。
シーンが変わって、次のシーンの始まりの会話も、ガレルなどと同じように、すでに交わされていた会話の途中から始まる。
おそらくそのためなのだろう、スクリーンの中で起こっていることと、それを見ている現実との境目がなくなる。
見終わった後、青山が「久々に、登場人物との一体感を味わった」と言っていたのだが、それこそこの映画の醍醐味と言えるのではないか。
自分ではない誰かと一体になるということが、この物語のテーマともなっていて、それが物語を動かしていると思えるからだ。
12月20日(火)
疲れがどっと出ていてやたらと眠い。
とはいえ、朝から、サークのフリーペーパーの発送作業などなど。
昼からは、ラース・フォン・トリアーの新作『マンダレイ』。
『ドッグヴィル』の続きである。
本日が完成披露試写なので相当混み合うかと思っていたのだが、半分ほど。
この時期、みんな忙しいということなのか、それとも、もはやこの程度のものなのか。
映画の内容はともかく、見る前からこうあからさまに世間の期待値を見せられてしまうと、何だかそれだけでしょんぼりする。
内容の方は、ニコール・キッドマンからロン・ハワードの娘に主役が替わり、今回のテーマである「権力とその関係」には全く似つかわしくない可憐さが、最大の皮肉となる。
もちろん物語も演出も、その皮肉を十分意識しているから、段々どうでもよくなる。
前回同様のセットも、その見せ方も洗練を増しているから、驚きはない。
次々に過酷な出来事が起こる自動運動する物語を見ている気分でもある。
今回はアラバマが舞台で、人種問題が取り上げられていて、次回は「ワシントン」というタイトルらしいから、当然、平和大行進やキング牧師の演説が、何らかの形で入ることになるだろう。
そうなると、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の変奏とも言えるような、ある種のミュージカルになるのではないかという予想。
その後、ズート・サンライズ・サウンズの渡辺さん、小泉さんと「レッツ・ロック・アゲイン!」Tシャツの打ち合わせ。
今回は、ルード・ギャラリー・ヴァージョンとズート・ヴァージョンができる。
来年の夏は、日替わりジョーTシャツができそうだと笑う。
その後、リトルモアの忘年会に行く予定だったがすでにヨレヨレで家に帰る。
と、すでに1週間以上しめきりを過ぎていて、すっかり忘れていた原稿の催促。
しかも、担当編集者は入院してしまったとのこと。
私も注意しなくてはと思うものの、先日、青山に会ったときに、「樋口さんより絶対に俺の方が忙しい」と言われてしまった。
青山に言われたら、もう、返す言葉はない。
確かにそうなのだが、ただ、年齢差を考えて欲しいものである。
まあそれにしても、どうして今からでも原稿が間に合うのだろうか・・・
おかげで書かねばならないではないか・・・
12月19日(月)
ようやく『サーク・オン・サーク』校了。
それから、スコセッシのディラン・ドキュメンタリー『ノー・ディレクション・ホーム』のパンフも。
ふー。
とはいえ、その間やり残したことが山積み。
まずは、コーヒーカップもおくことができなくなっていた机の周りの整理から。
1ヶ月間封も切ることができず、階段のところに積まれていった郵便物と宅急便は、まだこれから。
それに、生活費稼ぎもしなくては。
しかも、さらに、追加企画も考えてしまった・・・
12月13日(火)
あまりに忙しく何も出来ない。
ただ、あまりに長い間日記をさぼっているのもちょっとなあ、と思い。
しかし、あまりに忙しくて何も出来ない、くらいしか書く事がない。
あとは、死にそうだ、というくらいか・・・
『シビル・アクション』のジョン・トラボルタの心境。
ザイリアンの新作の試写も始まっているようだが・・
11月16日(水)
本日もまた、愕然とする出来事が。
夕方、スコセッシの作ったボブ・ディランのドキュメンタリー『ノー・ディレクション・ホーム』のパンフレットの打ち合わせでデザイナーの事務所を訪ねた後、ディラン関係の持っていないアルバムでもこの際買っておこうかと新宿タワーレコードに。
「買っておこう」の目的には、ザ・バンドのボックスセットがあり、しかし1万円を超える値段なので躊躇して、ブリジット・セント・ジョンとジーン・クラークを買ったところに中原から電話。
「バンドのボックスセット買いましたか?」と。
何とまあ、タイミングのいい、今まさにどうしようかとタワーで悩んでいたところなのだと伝えると、中原も、HMVで迷っていて、それで私に電話して買う価値があるかどうか尋ねようとしたところなのであった。
それはそれで何ともいい大人が別々の場所で同じことを悩んでいたとは、という笑い話なのだが、続いて「今、阿部さんと一緒で、ガス・ヴァン・サントの新作を見てきたんですよ」というひと言。
・・・・・。
・・・・・カート・コバーンの物語である。
当然、私も、ジョニー・キャッシュの伝記映画と共に楽しみにしていて、今週は音楽映画の週と決めていたのだ。
まあ、今日が完成披露試写で、試写はこの後も続くのだから見ることができないわけではないのだから特に落ち込む必要はないのだが、しかし・・・
とにかく試写にはほぼ完全に行けない状態で、次々に送られてくるビデオにも目を通すことができず、それでもジョニー・キャッシュとカート・コバーンだけはと思っていた、その2本さえ忘れてしまうとは・・・
明日以降、私のところに「試写に来て下さい」と電話してくる配給・宣伝の人は、運が悪いと思ってくれ。
ほとんど、「お前のせいだ」と言わんばかりの勢いで、たぶん怒る。
冗談じゃない、あんたたちのために生きてるんじゃない。
まあそれはそれ、帰ってから、ついに買ったボックスセットを聴く。
・・・ああ、リチャード・マニュエル!
「ロンサム・スージー」以降、もう、彼はもうほとんど曲を作らなくなってしまった、と嘆いていたのはグリール・マーカスだったか?
デジタル・リマスターされたそれらの曲は、驚くべき豊かさで空間を広げている。
リチャード・マニュエルのあの鼻にかかったかすれ気味の歌声も、ホントに間近で聞こえてきて、自殺したのはこのような歌声でここに甦るためだったのではないかとさえ思わせる。
音の位相も呆れるくらいクリアになり、そこにはないどこか別の場所から聞こえてくるような、たとえばガス・ヴァン・サントの『エレファント』の廊下で聞こえてくるようなピアノの音が、しかしこんなにもはっきりと聞き取れる。
実は昨日、知り合いに、ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」の演奏は、レヴォン・ヘルムじゃなくて、イギリスツアーに同行したミッキー・ジョーンズの方が好きなのだ、というようなメールを送っていて、それは何故かというと、本当に大地に拳をたたきつけてその大地からの反動をエネルギーにして曲を進めていくミッキー・ジョーンズの演奏に、つい心躍らされてしまうからなのだ。
だがリマスターで聴くレヴォン・ヘルムのドラムは、叩くと言うより何かを揺り起こすようでもあり、そしてその揺り起こされた何かのリズムを聞き取りながら更にそのリズムを再びその何かに返していくような、そんな夢見るような演奏であることがこれまたはっきりとわかり、ああやはりこのリズムがザ・バンドなのだと、もうほとんどそれだけで泣きそうになっていたのだ。
とにかく、この1万円は、これまでのアルバムすべて持っている人にとってもお得、というか、持っているからこそお得感がわかる、というような代物。
ボックスセットとはいえ、ボックスではなく、写真集のような、まさにアルバムサイズのブックレットもついているわけだから。

しかし、それで涙しているわけにもいかないので、MOPの新作で気合いを入れる。
結局はガツンというハードパンチだらけになるのだが、アルバムジャケットの、どこか恐怖映画めいたデザインから予想されるように、レヴォン・ヘルムがうっかり揺り起こしてしまった本来ならここにいるべき者ではない者たちが地上に現れて荒れ狂っているとでも言いたくなる、怪しい揺れが全体を支配する。
そういえば何かの映画でほとんど幽霊のようなタクシー運転手を、レヴォン・ヘルムが演じていたように思う。
あの時確か、意味ありげに十字架がゆらゆらと、フロントグラスの前で揺れていたような・・・
あと、ブリジット・セント・ジョンの『Thank you for...』。
このところのオルタナ・カントリーやらフォーク・ブームのおかげで、彼女のアルバムまで再発されることになり、嬉しい限りである。
彼女の歌を聴くと、ああ、ニコとジャクソン・ブラウンが長続きしてくれていたらおそらくこうなっただろうか、といつも思う。
『チェルシー・ガール』を聴きたくなった。
などなど、本日はもう、あまりのばからしさに仕事する気なし。
しかしこのつけは、もうすぐ確実に訪れるであろう。
11月14日(月)
相変わらず、目眩く日が続く。
身動き取れない上に、試写に来てくれとかビデオを見てくれという誘いは頻繁にあり、見なくてはならないのに見ることのできない新作ビデオだけでもすでに10本以上たまっているという具合。
しかし、とにかく目先の仕事である。
1日が3倍くらいの長さがあったらとか、あるいは分身が5人くらいいたらとか、クリスマスや正月さえなければとか、などなど、無駄なことを思うばかり。
ウディ・アレンの新作『僕のニューヨーク・ライフ』と、キェシロフスキの遺稿を『ノーマンズランド』の監督が映画化した「Hell」(邦題がついたのだが、すでにその資料がどこに行ったかわからない・・・)は、よく似たテーマの2本だった。
同じ 「偶然と運命」という言葉を主人公たちが口にする。
しかも共に、「都会派のシネスコ」。
ウディ・アレンのシネスコは『マンハッタン』以来だと思う。
二つの塔が倒れて、縦長のニューヨークは必要なくなったということなのか、棺桶の中の物語、ということなのか。
いずれにしても、そこもまた「地獄」である。
もちろんヨーロッパの「地獄」も別の意味で底なしで、だからなのか、あからさまに70年代末から80年代初頭のデ・パルマ風ヒッチコック、つまり、かなりいかがわしいことを承知で作る確信犯的なヒッチコックを導入して、その「地獄」とそれを見る我々の現実との折り合いをつけているように思える。
『ノーマンズランド』を見逃しているので、そちらもそういった操作が施されているのかどうか、わからないところがもどかしい。
本日は、前々から楽しみにしていたジョニー・キャッシュの伝記映画、ホアキン・フェニックスが若き日のキャッシュを演じる『ウォーク・ザ・ライン』の試写。
ギリギリの時間になり、六本木駅から20世紀フォックス試写室まで走る。
しかし試写室前には人影がなく、いやな予感が。
1時前についたのに、すでに始まっているのだ。
もはや入れない。
思い起こすと案内状に、12時45分スタートです、お間違えのないようにと、太字ででかく書いてあったのだった。
そんな強調しなくても大人だから見ればわかると、その時は思っていたのだが・・・。
なんてことだ。

帰ると、『グリーンデイル』の時にお世話になった、ニール・ヤングの熱狂的なファンのN氏から荷物が届いている。
先月末に行われた、毎年恒例の「ブリッジ・スクール・ベネフィット」の土産である。
ニール・ヤング一家が運営している障害者のための施設の支援ライヴ。
昨年は確かソニック・ユースとかがゲストだったはずだが、今年は、CSN&Yが登場したり、ジェリー・リー・ルイスがやったりという、それはそれで驚くべきラインナップ。
ロス・ロボスのライヴが最高だったとのこと。
来年は私も、と思う。
そのためには、この仕事にどこかで踏ん切りつけなくては。
仕事自体というより、仕事のやり方、ということなのだが。
来年はブリッジ・スクール・ベネフィットも20周年。
確かにある程度の名誉と地位と経済的な力を得たからこそできることではあるのだが、それでもそれを自分たちだけの力で20年継続し、それがこうやって世界的な広がりも見せているという彼らの着実なやり方には、学ぶことは多い。
現在、沖縄では『グリーンデイル』が公開中だが、残念ながら大変な苦戦。
映画や音楽やその他あれこれいろんなものが、ほんのちょっとの時間がたつだけで、どんどん忘れられていってしまう。
常に新しいものばかりを追いかけるだけの、日本のマスコミと宣伝・広告会社の横暴は、どうにかならないものなのか・・・
まあ、こちらも、その中でどうやっていくかというやり方を、確実に見つけていかねばならないのだが。
それから、先週からパリのシネマテークで始まった、ダグラス・サークの全作品回顧展のリポートを、お届けする。 こちら→
現在、日本では劇場公開できる作品は一本もない。
アテネでの会員向けの無字幕上映と、ドイツ文化センターが持っている『南の誘惑』が営利目的以外なら公開できる、というだけである。
あとは、『風と共に散る』のDVDが3月だったか4月だったかに発売された。
この貧しい映画事情を考えると、全作品回顧上映ということが平気で行われてしまうフランスとの落差に頭をかかえるばかり。
boidに金と時間を!(笑)
11月2日(水)
諸々が片づいて一息つくはずだったのだが、そう簡単には楽にならない。
いやあ、生きていくのは厳しい。
こんなに働いていいのだろうか、というくらい働いている。
爆音ゴダールは毎晩多くの人が駆けつけてくれて、本当によかった。
爆音にすると映画がまた別物になってしまう映画を作ってくれたゴダールさんにも感謝。
ゴダール第2弾は、いよいよデジタル時代を、と思っている。
来年半ばくらいにできるだろうか。
それから、場内で流れていた音楽に関して、何人かから質問された。
ゴダールとは全く関係なく、私の最近の愛聴盤を、単に流していただけなのだが、こうやって興味を示してもらえると、案外嬉しいものである。
80年代、レコードや時代を思い出す。
流していたのは、以下の2枚である。
Devendra Banhart "Cripple Crow"
Bill Fay "Bill Fay"[Original recording remastered]
ディヴェンドラ・バーンハートは、初期はダニエル・ジョンストンやピーター・アイヴァースのような狂ったフォークソングといった音を出していたのだが、3枚目からそしてこの4枚目のアルバムになって、ますます現代のティラノザウルス・レックスへの道を歩み始めた感じもする。
ビル・フェイは60年代から70年代にかけてのイギリスのフォークシンガー。
直接尋ねられた人には、西海岸の人、というようなことを言ってしまったかもしれないが、イギリス人。
これが1stアルバムで、71年の作品。
何曲かで聴くことのできるジャック・ニッチェ風のストリングス・アレンジなど、ソフィスティケイトされた歌を支える徹底して洗練された故にとんでもなく狂った音響が、他のイギリス人のフォークシンガーと一線を画す。
まあそれはそれ、先週末は2日間一歩も家から出られず、パソコンに貼り付いたまま。
さすがに膝がガクガクになったので、月曜日はとにかく外に。
見逃していたダルデンヌ兄弟の『ある子供』を見る。
その後、やはり見逃していたシャーリーズ・セロン主演の『モンスター』DVDを借りる。
その選択に全く意図はなかったのだが、続けて見てみると、ほぼ同じ物語なので唖然。
なんて書くとまたもや、一体何を見てるんだと、言われてしまうかもしれない。
でも、社会の最底辺で絶望しながら生きる人たちの、その絶望的な生態を徹底して見つめる映画、という意味ではよく似ている。
それぞれが、アメリカとヨーロッパ社会の構造的な陥没を示してしまっているという意味でも。
違うのはアメリカ側が若さを終えかけている女性、ヨーロッパ側がこれからの人生があるはずの若者というそれぞれの立場の違いと、カメラのレンズの向こうの出来事をどのように捉えるかという視線の違い。
アメリカ=フィクション、ヨーロッパ=ドキュメンタリー(的なフィクション)という鮮やかな色分けも、何だか微妙に気持ちが悪い。
しかも、アメリカはシャーリーズ・セロンにアカデミー主演女優賞を、ヨーロッパ側はカンヌでグランプリを与えるという、双方の、おそらく、9.11以降と言っていいだろう、政治的、心情的な配慮と見つめる視線の先が、別々の場所から同じものに向かっているようで、何となく気持ちが悪い。
だがアメリカ側は、更にその後に、やはり30代の、若さの終わりを迎えようとする女性ボクサーがボロボロになって死んでいく『ミリオンダラー・ベイビー』を用意するわけだから、やはり私としては、アメリカ側に肩入れしたくなってしまう。
とはいえ、この3本を、まとめて見ると、欧米が意識的、無意識的に向かおうとしている場所が見えるようでもあり、面白い。
アメリカ映画ファンも、好き嫌いはあるだろうが、『ある子供』を見ることをお薦めする。
ただ私としては、今回は、前作のような狭い車内でのカメラ移動というような大技を見せてくれなかったことが心残り。
いつそういった、突然のフィクションの出現があるのかと、期待していたのだが。
本日は、ほとんど寝ないまま、あれこれの打ち合わせ。
1月から2月にかけて、ダグラス・サーク盛り上げ企画をいくつか行うのだが、その内のひとつの概要を決める。
その後、長嶌、デザイナーの宮川さんと夕食。
ネパール・カレーを食いながら、久々にあれこれと、馬鹿話。
帰宅後はまたもや仕事。
スコセッシ監督のボブ・ディラン・ドキュメンタリー『No Direction Home』のパンフレット用資料製作をしているのだ。
3時間30分の作品だが、それでも65年までという、この後一体どうするんだ、というようなとんでもない映画。
テレビ用に作られたため、まずは最初にテレビ放映(NHKBSデジタル)があり、劇場では、12月末に公開予定。
全然時間がなく、しかも、盛りだくさんの出演者や資料映像、使用曲の数々。
それらにいちいち解説を付けていく作業だが、この時間内ではとうていやりきれないので、どれをやりどれをやらないか、という胸の痛む判断をしながらとにかく先に進む。
後には戻れない。