
2003年 boid日記 12月
Text by 樋口泰人
12月30日(火)
年内にやっておかねばならない仕事が予想外にあって、すっかりバタバタしていた。
本日も朝から黒沢さんがやってきて、編集した短編を画像加工チームに回すためのデータ作成。
マックのファイナルカットプロで作ったデータをwindows で処理するためのやり取りなのだが、ハードディスクのファイル・システムの壁にぶつかりなかなかうまくいかない。
先日は24Pのクイックタイム変換でも苦労した。
編集作業自体は滞りなく行ったのだが、最後のところで思わぬ事態となってしまった。
例によって私が最後の詰めを甘く見ていたのが原因なのだが。
黒沢さんに余計な気苦労と時間を使わせてしまい、深く反省するがその反省が身にしみるわけではないことが分かっているだけに、なんともお詫びのしようがない。
でもまあ、結局は何とか折り合いは付き、データは無事加工チームに渡った(模様)。
後はその仕上がりを待って、年明けに編集の微調整と音の調整を行って完成なのだが、この状態まできても、いったいどのような完成形態になるのか謎のままだ。
まあ「謎」といっても皆目見当が付かないというわけではなく、いくらでも変わる可能性を持ったまま音の作業に入る、といった感じ。
その変化の可能性の予想が付かないのだ。
画像編集の段階でも、ほんのちょっとカットを短くし、順番を入れ替えただけでとあるシーンは俄然輝きを増した。
作業中はよく分からなかったのだが、全体を見直したときそのことに気づき、唖然としたのをおぼえている。
そういった作業をインプロヴィゼーションとでも言いたくなるような「現場」の感覚で行っていく。
編集作業の常識ということかもしれないが、あらかじめ頭の中にあったイメージに作業中の画像を合わせていくのではなく、そこに見えているものと撮影中に見たものとこれから見えてくるものとの不安定な関係の中に身をおきながら、あるアクションを起こしていくといった風情なのである。
特にたいしたことをしているわけでもない。
おそらく音の調整でも、その微妙なアクションが大きな変化を呼ぶことだろう。
先日、『AA』の編集準備を、午後から夜中までを青山の目黒部屋で行った。
そこでようやく灰野さんのソロ演奏を見ることになったのだが、安井君や青山からいろいろ話は聞いていたものの実際に目の当たりにすると、さすがに背筋が伸びる。
この音と映像が見たかったのだ。
これがあればほかにいらないと、真剣に思う。
『AA』製作のため、青山、大里氏、青山チームの面々はこの1年間膨大な時間と労力を費やしここまできたはずなのだが、この映像と音がそれらの苦労をすべて解消してくれるだろう。
青山チームはこの1年、本当にいいことをした。
1本や2本の企画がぶっ飛んだからといって、これを撮ったのだから、それで十分。
世界に向けて堂々と胸を張れると思う。
とはいえ、職業映画監督としてはそうも言っていられないだろうが。
だが、だったら職業映画監督なんかにならなければいいと、梅本さんなら言うのではないだろうか。
その灰野さんの映像で、今年の映像体験を終えようとも思ったのだがさすがにそうなると本当にしばらく他の映画など必要なくなり、こちらの「職業」にも関わってくるわけでそれなりに不安にもなり、『ラヴリー・リタ』というのを見に行った。
オーストリアの女性監督のデビュー作。
初期の高野文子や岡崎京子が描いていたような不機嫌な女の子ものということになるだろうか。
ヨーロッパの人にとってはどうなのかわからないが、日本の漫画読みにとっては取り立ててどうということもないようなストーリーで、私もこの手の物語にはほとんど関心はないのだが、見ていくうちに、エピソードがそれぞれブロック化され、その反復とズレによって物語が進行していく構成になっていることが分かってくる。
ミニマリズムの反復ではなく、例えば『亀虫の妹』の中に出てくる、「飯を食う、金を借りる、飯を食う、金を借りる、飯を食う、海老を食う」というナレーションと映像の反復がもたらすグルーヴと共に、それは語られていくのだ。
それもまたミニマリズムの一種なのかもしれないのだが、テクノ、打ち込み以降の反復とズレが、ごく当たり前にそこにあり、意識と無意識の中間くらいのところでそれを呼吸しているという、そんな気配が感じられる。
さらに、そのグルーヴが大きな円環を描いて閉じられたその後にほんの少し付け加えられた、その後の時間。
この映画にとってそここそが出発点であることは言うまでもないのだが、その「その後の時間」を示すためにこそ、上記の反復は行われていたはずで、つまり、彼女が当たり前のように呼吸している空気と映画の構成、日常と形式とが相互侵食しているそのあり方に、好感を持った。
映画も捨てたものではない。
そうそう、青山日記で私が「T」を付け加えて「HANX」が「THANX」になってしまったと指摘された。
うーん、スティッフ・リトル・フィンガーズのこのアルバムは、さっき調べてみたら私もかなり好きで聞いていたはずのものだったのだが、例によってもうすっかり忘れてしまっていた。
申し訳ない。
ただ、青山が書いていた世代論敵に言わせてもらえば、私の場合、「HANX」と「TANX」(T.レックス)の中間世代であるのだ。
事なかれ主義の私の無意識ががそれをどちらもいかして「THANX」にしたのだというオチで許してもらおう。
ああそうそう、昨日梅本さんから渡された、橋本君のお土産CDであるジュリー・デルピーのアルバムがなかなかいい。
美しくまっすぐな視線の初期ジョニ・ミッチェルといった塩梅。
灰野さんの演奏にあんなに心奪われながら、こういった歌にころっとやられてしまい思わず照れるが、まあそんなものだろう。
いったい誰が曲を書いているのだろうと思ったら、ほとんど彼女自身の作。
ゴーストライターが作っているのでなかったとしたら、ソングライターとしても十分やっていけるのではないだろうか。
歌手としては、発声の透明な美しさがすべてだから、もはや若くはない彼女にとって、この声を年齢と共にどう変えていくかが勝負どころだと思う。
それから、事情あって坂本安美から受け取ったジャンヌ・バリバールのアルバムも、こちらはひたすらダークな女性版レナード・コーエンといった雰囲気で、聴き応え十分。
彼女の声もいいのだが、演奏、曲作り、アレンジなど、彼女を支えるメンバーかプロデューサーの才能によるところが大きいように思える。
フランスの音楽事情はまるで分かっていないので、確かなことは言えないが、彼女たち女優を取り巻く音楽環境は相当充実しているように感じられた。
確かに、音楽一本やりでないという余裕の産物でもあるのだが。
それやこれやで今年も終わる。
明日は実家に帰省。
3日に戻ってくる。
皆様良いお年を。
それから最後に訂正。
『ヴァンダの部屋』に使われていたのは、同じパナソニックのDX100というカメラであった。
黒沢さんが使ったのはDVX100。
当たり前だが、『ヴァンダの部屋』撮影時には、DVX100はまだ、発売されていないのだった。
12月18日(木)
本日より、黒沢さんの短編編集。
某雑誌のおまけのDVDに収録するための15分程度のものになるということなのだが、浅野忠信主演という以外、私は何も知らぬまま本日を迎えた。
今回の撮影に使ったのは、パナソニックのDVX100というカメラ。
1秒間24フレームのプログレッシヴ撮影ができるDVカメラである。
通常のDVは1秒間30フレームで、なおかつ、1フレームが2分割されて一つのフレームとなっている、いわゆる60i(インタレース)という形式だから、かなり質感が違う。
この24Pというのは、基本的にはフィルムに変換するためのものだが、普通のモニタには24フレームをさらに30フレームに直した状態で映るので、おそらく、この24PDVをモニタで見るのとフィルムで見るのとでも微妙に違う。
そのあたりがうまいこといって微妙な画面にならないか、というのが黒沢さんの狙いとしてはあったようだ。
だがいきなり、AC電源の装着の仕方が分からない。
多分装着されているバッテリーをはずして、その代わりにつけるのだろうというところまではわかるのだが、バッテリーがはずせないのだ。
黒沢さんも分からず、スタッフに電話して、ようやく解決。
うーん、説明を聞けばあきれるほど簡単なことだったのだが・・・
カメラが小型化している上にいろんな機能がついているので、ほんのちょっとしたことを見落とすと、なかなか思うようにならない。
まあとりあえず、無事キャプチャ作業に入る。
最初映っていたのは、那須の牧場の倉庫を使って撮影したシーン。
これがまるですべてを計算してライティングしたかのように、微妙な光の具合になっている。
でも、ノーライトで、最初の調整だけをしてあとはそのままの自然光でやっているという。
光の強い部分とその手前の人物のコントラストもうまい具合に出ていて、ビデオ的なジラジラした感じがない。
要するにDVX100というカメラと24P撮影というのでこういう光と色になるのだ。
そういえば『ヴァンダの部屋』もこのカメラで撮影されていたはずだ。
『ヴァンダの部屋』のあの光や色は、美学的なものというより、単にテクノロジーの産物であるというようなことさえ言いたくなる。
黒沢さんも、いたくその画面のニュアンスを気に入った様子。
DVで何か撮ろうと思っている監督たちは、とにかく一度はこのカメラを使ってみるべきだろう。
しかしとはいえ、ここに映されているのはいったい何なのか・・・
そこに浅野忠信がいるのはわかる。
70人という贅沢なエキストラたちがいるのもわかる。
しかも彼らがそれぞれそれなりの演技をし、動きを止めるところはまるでストップモーションであるかのようにぴたっと止まったりして無茶苦茶気持ち悪いのもわかる。
だが、この総体は・・・
本日はとにかく撮影した分の入力作業のみで終わったのだが、その後、DATに収録した音の変換のために美学校に向かった黒沢さんの身に一大事が。
テープを届けにやってきてくれた助監督の杉田君が、今にも倒れそうな様子で青ざめている。
目の当たりにした杉田君としては、おそらくそれくらいの衝撃だったのだろう。
映画監督は気力・体力の産物というのを実感。
12月17日(水)
ようやくあれこれ細かい仕事が終わり、本日は久々に試写に行こうと思っていたのだが、明日から始まる黒沢さんの短編編集の準備のため、朝からあたふた。
というのも、今回は24PDVで撮影し、基本的に24コマのまま編集するため、編集ソフトはファイナルカット・プロ4でやらなくてはならないからだ。
ファイナルカットはヴァージョンアップして、よりプロ仕様になって、細かな設定ができるようになった。
そういった設定や操作を駆使する「プロ」にとってはありがたいことなのだが、素人にとっては、いったいどこまでが必要な操作なのかそうではないのかよく分からない。
解説書も、それぞれの機能や設定の説明だけで分厚いものが1冊。
たいていは3からの続きで大きな問題はないのだが、とはいえあれこれ変わっているからつい、何がどうなったのかいろいろ使ってみたりすると、時間はすぐにたってしまう。
夜は、六本木にて、青山、長嶌と食事。
それに冨永も加わり、男4人で焼肉を囲む。
その話の中で、青山の最新企画の進行状況について、私が思い違いをしていたことが判明。
そりゃまあ、大変だ。
どんな映画監督だってそういう事態は何度か経験しているはずではあるだろうけど、だからといってそういった事態に慣れることはできないだろう。
店を替える途中で青山が青山ブックセンターに寄る。
店内で、今月号の「新潮」を取り、われわれに見せるのだが、それには青山、阿部、それに金井さんなどなどが短編を寄稿。
著者にそこまでされてわれわれも買わないわけにはいかず、3人がそれぞれ買う。
これで青山ブックセンター六本木店の「新潮」は売り切れ。
その後「新潮」を買いにきた人、ごめんなさい。
そうそう、昨日の日記で書き忘れていたのだが、ペドロさんにとってジョー・ストラマーがゴダールで、ワイヤーがストローブ=ユイレだという。
だったら小津は誰だと尋ねると、ちょっと待ってくれ、それはインタビューの最後に答えるとのことで、インタビューの最後に再度尋ねると、思わぬ答えが。
まあ、うまく逃げられたとも言えるが。
誰だったかは秘密。
長嶌からの情報だと、なんと、問題のワイヤーが来日する。
コリン・ニューマン、ブルース・ギルバートは健在とのこと。
今更来てもらっても本当に困るのだが、でも、先日のテレヴィジョンみたいなこともあるし、心は動く。
コリン・ニューマンのセカンド・アルバム「Provisionally Entitled the Singing Fish」というのはCDになっているのだろうか。
ネット上の通販などでは手に入らないのだが。
情報を求む。
12月16日(火)
本日はペドロ・コスタ・インタビュー。
どうやら昨日のアテネでのイヴェントは大盛況だったということなのだが、イヴェント後のうちあげ会場である新宿の某所から、深夜2時くらいに電話があった。
「ジョー・ストラマーの遺作のタイトルを教えてくれ」と青山。
どうやらペドロさん、安井君、中原君などなどと音楽話で盛り上がっているらしい。
本日、インタビューまでに宣伝の原田君から話を聞いたら、朝6時くらいまで飲んでいたという。
皆さんお元気で何より、という感じ。
酒の飲めない私はひたすらあきれるばかり。
しかもペドロさんは本日11時くらいからインタビューだから。
まあでも、そういった濃密(?)な時間を過ごすことが次回作につながっていくのだろう。
監督はやはり体力である。
インタビューのほうは、『骨』で使われていたワイヤーの「lowdown」の話やレゲエが嫌いだという話などなど。
でも、『ヴァンダの部屋』では登場人物の一人がボブ・マーリーの「ノー・ウーマン・ノー・クライ」を歌っていたじゃないですかと質問したら、笑いながら、その場の状況をあれこれ説明してくれた。
予想通り、いわゆる演出とは違うが、かなり時間をかけた精密な演出がなされていることが判明する。
これは本人は言わなかったのだが、『骨』や『ヴァンダの部屋』に共通する奇妙な反復の精密さは、ワイヤーのブルース・ギルバートの反復ギターによるものではないか。
私としてはコリン・ニューマンかと思っていたのだが、夜かかってきた青山からの電話によると、好きなギタリストの一番はブルース・ギルバートなのだそうだ。
本人は、あのような反復は、小津映画の笠智衆によるものだと話してくれたのだが。
まあしかし、インタビューは疲れる。
呆然としながら帰宅後、吉祥寺バウスシアターのスタッフと、来年のboid企画イヴェントに関する打ち合わせ。
うまく具体化していければいいのだが。
12月12日(金)
またもやしばらく途切れてしまった。
安井君からも「また体調悪いの?」という電話がかかってきたのだが、今回は仕事。
秋はすっかりサボっていたために、その反動がきたのか、かつてないパニックに陥っていた。
時にはこれくらい働かないと生活は成り立たないわけで、まあ、致し方なし。
その間、逆に時間ができたという青山(まあ、青山の忙しさは並みではないから、「時間ができた」といっても推して知るべし、というところなのだが)が、久々に日記を書くというので、ならばこちらはサボれるなあと、ついそのままサボっていたのだった。
とはいえ、青山の日記も相変わらず大変で、安井君からは「あの状態は鬱ではない」という診断が下る。
本物の欝はあんなに日記は書けない、というのがその理由。
荻野からは、「今のぼくには重すぎて読めない」というメール。
長嶌からは、心配の電話がかかってくる。
で、とりあえず来週、男3人で淋しく鬱を語らう会を行うことになったのだが、まあ、相変わらず人騒がせな日記である。
おちおちサボってもいられない。
本日は、小津の生誕100周年日ということでシンポジウムがあり、それに出席する青山はこれまたそんな場所でそんなことを言うといったいどうなるのだろう、というようなネタを見つけたみたいだが、果たしてその発言はあったのだろうか。
私のほうは、ようやく仕事の山場を越え、今度はそうなるとさすがに身体共に疲れが出始め、終日ぼんやり。
ロクス・ソルスのサイトの方に送られてきた通販の注文者への返信に、ロクス・ソルス宛の私信を送ってしまったり、あんまりだから久々にCDでも買いにと駅まで行ったものの財布を忘れていることに気づき、まあ、無理をしないほうがいいかと引き返すなど、恥ずかしくもあり、情けなくもある1日。
仕方ないので、買ってきたままろくに聴かずに置いてあったDMXの新作を景気付けに聴くのだが、気がつくと、というかどうして今更気がつかなければならないのかあきれるくらいでかでかと載っているのだが、これもまた、「犬」なんである。
DMXはピット・ブルという闘犬を、どうやら40匹も飼っているらしい。
今回のアルバムは、その犬に自分自身を重ねあわせ、闘う犬としての血の純粋さがテーマになっているということなのだが、英語の歌詞を読むのがつらく、真意は分からない。
でも、前回のアルバムが『the great depression』だったことを思うと、この「大恐慌」と「犬」というつながりはそのまま『ドッグヴィル』ではないか。
となると、闘う犬の純潔というのもきな臭い。
『ドッグヴィル』の犬は、吠え立てるだけで何もせず、虐殺が完了してからようやく姿を現す間抜けな犬だったが。
『25時』の、ボコボコに殴られる犬というのもある。
どれもこれも、その犬がアメリカの姿に重なる。
今、それらのうちのどの犬になってもおかしくないほど、アメリカは不安定な鬱状態にあるということで落ちをつけるのは、まだちょっと早い気がする。
フォン・トリアーも、映画の最後を「ヤング・アメリカン」ではなく、DMXの「bloodline anthem」あたりでカマせば、逆に光が差したようにも思うのだが、普通に見るとそれはそれで余計にひどい物語になってしまうのかな。
まあそれはこちらの勝手な妄想なのだが、しかしあの「ヤング・アメリカン」はなかなか居心地が悪く、困った。