
2003年 boid日記 11月
Text by 樋口泰人
11月25日(火)
引き続き「アクロス・ザ・ユニヴァース」問題。
『ネイキッド』日本盤のライナーを読んだら、やはりネイキッド版はテープ速度を速めているとの事。
私の耳もいいんだか悪いんだか・・・
というか、自分の第一印象をまるで信じていないところが問題というか。
でもまあそれはともかく、いったい何故速めたのか・・・
本日は昼からダフト・パンク・インタビュー。
12時30分からということで、ミュージシャンも早い時間から働かされて大変だなあと思っていたら、案の定30分押し。
本人たちは、いたって普通の感じの受け答えで、予想していたほど野心的でもエキセントリックでもなく、ただ、ほとんどしゃべらないガイさんの方はよく見ると目つきは完全に宇宙人でドキドキした。
その後、イーストウッドの『ミスティック・リバー』。
冒頭、黒い画面に、ピアノ曲が流れる。
そのキータッチの繊細さにすっかり心をとらわれる。
カウリスマキの『過去のない男の』冒頭、列車の車掌が「切符を拝見」と語り始めるときの、あの声の感じ。
映画の始まりはこんなんじゃなきゃね、というような大人な手つき(というかもう老人なんだけど)。
エンドクレジットを見たら、その曲はイーストウッド自身の作曲。
まさか本人が弾いてるわけはないと思うが、息子、という可能性はある。
気になるところだ。
物語の方は、いきなり子供が誘拐され、このところ近所で誘拐未遂事件が多発しているだけに、そうかこの手があったか子供に教えておかねばと、現実に引き戻される。
とはいえその後の3人の旧友たちの物語は、ありえたはずの出来事とその後の可能性が彼らの現在へと折り重なり、その現在をさらに深く翳らせていくという泥沼。
それが全然気持ちよくない淀んだ川の臭気と共に語られていく。
もはや後戻りできない地点にいやおうなく立たされた3人の記憶と現在との交錯が、物語の中の3人より少し年上でいよいよ老いを意識せざるを得なくなった私には、胸に痛い。
だが、今回のポイントは、ショーン・ペン、ティム・ロビンス、ケヴィン・ベーコンの3人が演ずる男たちではなく、彼らの妻たちではないかと、そんな気がした。
オリヴァー・ストーンの『ニクソン』では、「暴れ馬」と比喩されたコントロール不能の「アメリカ」の力をなだめ、愛する彼女たちの存在抜きには、この映画は考えられない。
その彼女たちの繊細な息遣いによってこそ、コントロール不能な力がコントロールされるのだと、冒頭のピアノのタッチが語っている。
『マディソン郡の橋』との2本立てで見るといいのではないか。
終了後、中原君としばし雑談。
最近のお薦めはラス・メイヤーの新作『パンドラ・ピークス』だそうだ。
およそしょうもないことを最後まであっけらかんとやり続ける、ある種の健康な狂気に頭が下がる、というようなことらしい。
その意味では、ひとつのネタで1曲丸ごと勝負するリー・ヘイズルウッドに近い人なのかも、というところに落ち着く。
さらにその後、日仏学院に行き、私の娘が出演したビデオの上映イヴェントへ。
中原君とぐずぐず喋っていたため、当然のように遅刻。
ダンス系のものは基本的にまったく興味がないので、なんとなく居心地悪くもあり、逆に面白くもあり、といったところ。
2年前の自分の姿を見ることは、子供にとってはどうにも我慢がならないことだったようだ。
11月20日(木)
午後から青山ブックセンターに行って、CD-ROMの精算。
担当の軽部さんを待つ間、店内をあれこれ見ていたのだが、入り口のところにある雑誌のコーナーを見ると、よく分からないのだが、不況もお構いなしになんだかやたらと贅沢な雑誌が並んでいる。
「invitation」が発刊されたとき、80年代のバブルよもう一度みたいなこの感触はいったい何なのかと思っていたのだけれど、こうやってグッズ雑誌などと一緒に並んだところを見ると、それらに比べればまったく地味な印象を受ける。
というか、日本映画の特集ということもあってなのか、はっきり言ってどこか貧乏くさくさえ見えてしまうのだ。
まあこれは、相対的な問題なのだけど。
でも、いずれにしても、80年代とは違うバブルがここには生まれているような気がする。
不況で、家を買ったりするとかいう大きな金は使えないが、そこそこの贅沢をすることは出来るという、箱庭バブルのようなものといえばいいか。
まあ、いずれにしても関係ないなあと、ため息。
帰り道、青土社の宮田君に偶然出会う。
宮田君はこれから青山ブックセンターに行くところ。
12に入ったら、今後の企画会議をしましょうということになる。
帰宅後、ダフト・パンクのアルバムを聴きなおす。
来週、インタビューをするのだ。
1stはなかなかいいんだけど、どうも2ndが気に入らなくて、と思っていたのだが、ここに来てのあれこれの展開を見て、その上でそれぞれを聴くと、それぞれそれなりの方向性が見えるので、感心する。
通常のミュージシャンのようにアウトプットされたものではなく、インプットとそれを処理するプログラムによって、彼らは彼ら足りえているのだろう。
つまり、インプットは無限だから彼らも無限だ、というような意味で。
それから、昨日の日記に書いた「アクロス・ザ・ユニヴァース」の速度問題。
スペクター版もネイキッド版も、速さは同じだった。
スペクターのエコーとコーラスやストリングスの処理が、それを遅く感じさせていたのだった。
フィオナ・アップルもデヴィッド・ボウイもビートルズよりかなり遅い。
二人とも遅さは同じくらいだから、スペクター版の体感速度がそれくらいなのだろう。
おそらく、ネイキッド版が当時出ていたら、ボウイ版もアップル版も存在しなかったはずだ。
11月19日(水)
『マトリックス レボリューションズ』を見たときに、あれこれ腑に落ちないことがあったので、『マトリックス』『リローデッド』の2本を見直した。
DVDで見ると、読み飛ばしていた台詞、見過ごしていたシーンなどをあれこれ確認できて、ようやく物語が分かった。
人間と機械(プログラム)との戦いではなく、人間の変容の物語だったのか・・・。
そうでないと、「現実空間」であるはずの機械とネオの戦いでも、ネオが超能力を使えるというようなあまりにご都合主義な展開だもの。
だから、映画の中の「機械」こそがいわゆる人間の肉体だというふうに考えると、筋が通る。
再度『レボリューションズ』を見て確認してみよう。
それはともかく、『リローデッド』のアクションは、2度目だといたずらに騒がしく、早かったり遅かったりして、あまりに馬鹿みたいなのでかなり笑える。
ずっとこればかりやり続けてもらってもいい。
その後、スピルバーグがプロデュースしたテレビ・シリーズ『テイクン』、90分X10話の第1話を見る。
いきなりトビー・フーパーが監督なのだ。
宇宙人好きにはおなじみのロズウェルでの宇宙人来襲事件のエピソードをきっかけに、その後半世紀にわたる3家3世代を描いていくという年代記の始まりである。
第1話はロズウェル基地周辺での異変とそれに関わった人々のエピソードが中心になるのだが、基地なので当然飛行機のエンジン音がうるさい。
冒頭の戦闘シーンでは必要以上にカットが短く、爆音が飛び交う。
まずは素晴らしい始まりである。
宇宙船の登場シーンは、まるで『未知との遭遇』のようなのどかな田舎道の風景で始まるのだが、ノイジーなストリングスと共に現れた宇宙船は、突然の大爆音で女性キャストの前をすっ飛ばしていく。
当然車もぶっ壊れ、周囲は焼け野原。
この一瞬の出来事の大胆さに目を見張る。
以降、風景が変わる。
写し方が変わったのではなく、私の方の視覚と視線が変わったのだ。
ほんの数秒で世界の見え方を変えてしまうフーパーのこの力技に感動する。
『この世の外へ』で不満だったのは、やはりこのような力技が見られなかったことである。
12月にDVD発売されるらしいのだが、是非ヘッドホンでボリューム・フルスロットルで聞いてほしい。
午後からは『ラスト・サムライ』。
時代を変えれば『マトリックス レボリューションズ』になるのではないかというような、見分けがつかない人間たちがわらわらと戦う。
やはり台詞はうっとうしいが、アメリカも何とか戦争の意味と意義を見つけようと苦労しているなあと、ぼんやりと思う。
戦闘シーンの真田広之はさすがに凄い。
『キル・ビル』で、ほぼご隠居状態の師匠には目もくれず、ハリウッドのアクション俳優として活躍してほしいものだ。
帰りに久々にHMVに。
このところ9月はたがが外れたようにCDを買ってしまっていたので、しばらく行くのをやめていたのだ。
本日も、長居をすると危ないので、目的のもののみ。
ビートルズ『レット・イット・ビー ネイキッド』、ワイアット『クックーランド』、DMX『グランド・チャンプ』。
唯一衝動買いは発売されたばかりのジョー・ストラマーの遺作『STREETCORE』。
しかし、ストラマー以外はすべて2枚組み。
音楽業界もそろそろ省エネを考えた方がいいのではないか。
ちなみに『ネイキッド』は、注目していた「アクロス・ザ・ユニヴァース」と「アイ・ガッタ・フィーリング」がかなり最低に近いものになっていて、憤懣やるかたなし。
「ゲット・バック」「ワン・アフター909」「ドント・レット・ミー・ダウン」はよかった、というか、結局ポールのベースの迫力で聞かせちゃってるからねえ。
でも、「アイ・ガッタ・フィーリング」なんて、ベースの音がでかくなっただけで、一瞬で風景を変える力はないし、何よりも、ポールとジョンの絶妙なバランスがまったくなくなってしまっている。
これで本当にビートルズ・ファンは喜んでいるのだろうか?
「アクロス・ザ・ユニヴァース」なんて、デモ・テイクじゃないのって感じ。
ジョン・レノンはかつてスペクターのミックスに対して、「クズみたいな曲に奇跡を起こした」と語ったけど、今回はその逆。
しかも、多分、テープスピードを上げている。
スペクターが下げたのかな。
実際に速くしているのか、速く感じられるようにしてしまったのか、とにかくこの速さではまったくダメである。
フィオナ・アップルだって、デヴィッド・ボウイだって、この曲をこんなに速くはやらなかった。
ただまあ、それぞれ最初からこれが出ていたら、そんなことも感じはしなかったかもしれないけど。
まあ、それやこれやの不満を、ストラマーの遺作で癒す。
DMXはDVDつきでサーヴィス満点だが、アルバムの方の76分という長さはどうなんだろう。
この半分でもいいような気もするが、その反面、この冗長さが素晴らしいともいえる。
11月17日(月)
2日連続で夜遊びをしたためか、昨日はすっかりぐったりしていた。
安井君から電話があり、土曜日に何故すぐに安井君は青山に電話をしなかったのか、という唯一残されていた疑問に解決がつき、ようやくさっぱりする。
そして、「梅本さんがニール・ヤングになっている」と安井君に言われてあわてて見た「nobody」サイトの『キル・ビル』評の轟音を聞き、溜飲を下げる。
梅本さんのアンプはまだまだ許容量十分である。
本日は、アメリカ在住のいとこから、ウォーレン・ジヴォンのビデオが届く。
ケーブルテレビか衛星放送の音楽チャンネルのような局でやったドキュメンタリー番組の録画を頼んでおいたのだ。
最新アルバムの準備に入った昨年の秋くらいから約1年間の足取りを、日記形式でつづった番組である。
CM込みで1時間、実質45分程度の放映時間はまったく物足りないが、それでも日付が更新されていくその繰り返しのうちに、じわじわと何かが伝わってくる。
テレビ番組の録画のためにニューヨークを訪れたとき、不必要にでかい黒いリムジンに乗ったWZの不思議な風情や、女性スタッフに冗談をかまし、「ロンドンの狼男」の雄たけびのような不気味な笑いを見せる一瞬、などが印象的。
あと、すでに30歳くらいになるのではないか、息子がピアノを弾き語りする自曲(タイトル忘れた)にあわせて、彼と息子とのいくつかの写真が映し出されるときは、さすがに泣ける。
しかしこのビデオの一番の見所は、ブルース・スプリングスティーン。
『The Wind』の中でも、彼の引くギターだけがやけに突出していたのだが、このビデオではさらにそれがはっきりとする。
他の人々が、WZの死に対してある種「人間的」な反応を示しているのに対し、スプリングスティーンだけがそうではないのだ。
死んだって生きてるのと同じだよ、というか、生きてたって死んでるようなものだよ、というか、とにかく生死の境をものともしないクレイジーな態度をとるのである。
ギターと共に。
スプリングスティーンの歌自体にはあまりそんなことは感じないが、でも考えてみれば、WZといいロバート・ゴードンといい、私のアメリカン・アイドルの2人は、共にスプリングスティーンがらみなんだよなあ。
昔のアルバムでも聞いてみようか、という気分になる。
蛇足だが、80年代半ばの武道館公演は、見ているのだった。
ああそれから、この番組の後、次回の予告か何かがあって、それがジョニー・キャッシュ特集。
その予告の中で、おそらく死の直前くらいのジョニー・キャッシュの姿が映り、これが凄い。
それから、多分1年位前に撮影されたのだろう、晩年の彼の弾き語りが1曲。
これまたたっぷり堪能した。
午後から、阪本君の『この世の外へ』。
おそらくはまったく潤沢ではない予算の中で、戦後の東京の野外撮影は大変だっただろうなあと、素直に驚く。
それぞれのシーンが独立してあるのではなく、反響しあったうえでそこにあるという物語の構成もいい感じに洗練されて、安心して見ていられる。
萩原聖人、オダギリジョー、村上淳など、見慣れた俳優たちも、見知らぬ俳優のような演技をしている。
戦中と戦後、日本とアメリカ、闇市と進駐軍キャンプ、軍歌とジャズ、大人と子供、白人と黒人、一般女性とパンパンなどなど、物語の中でさまざまな境界線が引かれ、それらがあっさりと、あるいは唐突に突き破られていく。
だが、主人公たちは「外」に出るわけではない。
ただそこにいて、ジャズを演奏するだけなのだが、ラジオから流れてくるジャズ、朝鮮戦争で死んでしまったアメリカ兵が残した楽譜、押入れで聞くしかなかったレコードなどなど、彼らの演奏にはそこにはない何かが流れ込んでくる。
つまり、「外」が「内」へと流れ込み、彼らがいるそここそが「外」になるという構図である。
と、まあ、頭では納得できる。
だが、何かが足りない。
大ざっぱな言い方になってしまうが、セクシーではないのだ。
外とつながっていることの官能が、うまく伝わってこないというか。
たとえば、『過ぎ行く夏』でジョン・トラヴォルタが演じたような、ある種の抽象性を帯びた役柄を背負う人間が一人くらい出てきてほしかったし、進駐軍キャンプの軍曹の誕生パーティーでの歌は、当然のようにマリリン・モンローの「ハッピー・バースデイ、ミスター・プレジデント」のような処理をしてほしかった、というようなことかな。
あるいは、この映画にはブルース・スプリングスティーンがいない、というか。
オダギリジョーと哀川翔が惜しいところにいっていたが・・・
でもまあ多分、そのようなことをしてなおかつ「映画」という商品に仕上げるためには、この映画にかかった何倍かの予算と時間が必要なのだと思う。
だから、今後はもし可能なら、ちょっと考えてみてほしいなあ、というようなほのかな希望ということで。
ただ、これまでは基本的に阪本君の生まれた昭和30年代以降の記憶の中で物語を作ってきた坂本君が、この映画で親の世代の記憶の世界に突入したのだ、という事を付け加えておきたい。
11月15日(土)
まずは13日の日記の訂正から。
ビターズ・エンドの定井君から、『悪い男は』ホン・サンスではなく、キム・ギドクであるというメール。
ホン・サンスはビターズ配給でもうすぐ公開になる『気まぐれな唇』の監督。
いやはや、実はキム・ギドクもホン・サンスも見たことがなく、ホン・サンスという名前自体かろうじて知っているという状態なのだが、何故、何が要因となって『悪い男』とホン・サンスが結びついてしまったのか、まるで見当もつかない。
勘違いや混乱には、それなりの予備知識が必要なはずなのだが、それさえもない上で勘違いするという、自分でもコントロール不能な状態になっているようだ。
昨夜はライヴの後、飲みに行った店で、安井・青山のテレビ話をきょとんとしながら聞いていた。
この10数年、テレビ・ドラマやバラエティの類をほとんど見なくなってしまった私は、テレビやアイドルの話になるとまったくついていけない。
しかし安井君はともかく、たぶんというか当然のように思い切り忙しい青山は、いったいいつそんなにテレビを見ているのか謎である。
単純に、寝ていない、という事なのか。
帰宅したのが2時くらいで、その後景気付けにニール・ヤング『WELD』をフル・ボリュームで聴いてようやく欲望を満たし、寝る。
本日は朝から子供の学芸会である。
もろもろの問題があるらしく、劇といっても基本的に集団劇で、主人公のような登場人物がいる場合は、何人かが交代で、主人公を演じる。
誰もが同じくらいの台詞があるように配慮されている。
衣装も、同じような役をやる子供はおそろいのものでほとんど区別がつかないから、『マトリックス レボリューションズ』の増殖したエージェント・スミスがわらわらと舞台の上で動き回っているような感じ。
それはそれでなかなか凄い。
夜は、池袋シネマ・ロサでの『亀虫』へ。
地下鉄に乗ろうとしたときに携帯が鳴り、冨永君が「青山さんが時間を勘違いしている」と。
上映後の青山・冨永対談は10時過ぎからという予定なのに、青山は11時からと思い込んでいるようなのだ。
昨日も確かに、対談は11時からだから、ニール・ヤング・ライヴが終わってからでもまったく問題なしと、胸を張っていた。
しかしもはや、8時30分。
私としては、「今頃は武道館だよ」と言うほかなし。
いったいどうなることやらと思いつつも、まあ、とにかく池袋へ。
本当に久々のシネマ・ロサ。
案の定、場所が分からなくなり、近所をぐるぐる回った挙句、ロサ会館のゲームセンターの中に入ってしまい、迷路のようなところを通ってようやく劇場にたどり着く。
どうやら青山には無事連絡が取れたみたいで、対談は大丈夫とのこと。
安心して、久々の『亀虫』を堪能する。
こうやって見ると、ナレーションの声が、左右のスピーカーに微妙に振り分けられ、その分解のされ方がなんともいい感じというか、無茶苦茶冷静な作業がなされていて、驚く。
音響の山本君に尋ねたところ、ステレオ録音されたものの左右のバランスの変化ではなく、モノラル録音のものを左右に振り分けているとの事。
この、それぞれ独立した音の配置が作り出す空間と、映されている現実の空間、そして人間関係、世界の広がりのいかがわしさが、『亀虫』の底辺を作り出している。
そこから時々浮上してくるものをわれわれは見させられているはずなのだが、当然それが全体を作り出すはずもなく、像は結ばないからまた次が見たくなってしまうのであった。
でもどうして、『台なし物語』と題された第5話(?)は、『亀虫』というタイトルがついていないのだろう。
上映が終わり、対談が始まる。
その席で、どうして本来なら絶対にここにいるはずのない青山がここにいることが出来たのか、という話が暴露される。
もちろん、ライヴを途中で切り上げてきたのではない。
これまたあきれるような物語があるのだが、これはあまりにいい物語なので、イヴェントに同席した人だけのお楽しみ、ということにしておく。
私としては、そのあっけにとられるような話を聞き、昨日のチケット間違いのこともあり、青山にレンタル秘書を雇うように薦める。
家の近所の電柱に、「レンタル秘書派遣」という張り紙を見つけたばかりだったのだ。
これはいったいどういう秘書なのか、新手のデリヘルではないか、というのが大方の意見だったのだが、果たして真相は?
11月14日(金)
本日はニール・ヤング・ライヴ at 武道館。
青山・安井両名と飯田橋駅で待ち合わせし、武道館まで歩いていったのだが、入場口手前で3人分のチケットを出そうとした青山が、「あれ?」とか言っている。
何かと思って見ると、チケットが2枚しかない。
明日は、私は不参加だからもしかして明日の分を持ってきたのかと尋ねると、私でもあるまいにまさかそんな間違いをとは思ったのだが、やはりチケットは明日の分。
さすがに笑ってしまうが、とりあえず青山は青ざめてチケットを取りに戻る。
私と安井君は、まあ仕方ないので、入場口前の植え込みのところに座り込み、待つ他はなし。
多分演奏開始は30分遅れくらいだろうからまあ、何とかなるんじゃないかとか、われながらあきれるくらい呑気な態勢で、ぐずぐずとあれこれ無駄話。
最近の安井君の情報源は「めざましテレビ」で、本日は『レット・イット・ビー ネイキッド』の日本版発売日だということもあり、番組内でもその話題が取り上げられ、出演者の弁によればもう完全にフィル・スペクターが悪者になっていて、写真まで出して「この人がこのアルバムを無茶苦茶にしたのだ」というような論調が出来上がっていたのだという。
まあ、最近の写真を出されてしまっては、さすがに誰がどう見ても悪者だから・・・
でもねえ・・・
多分、その他雑誌などのレビューでも同じようなものだろう。
そこまで露骨ではないにしろ、「ようやくこのアルバムが本来の姿に戻った」というポジティヴな論調の一方で、無言のスペクター排除がなされているはずだ。
どこかの雑誌で湯浅学氏が、スペクター擁護の弁を弱々しく書いていたのが印象に残っているが、湯浅氏でもあれくらいしか書けないくらいの抑圧が働いているのだろうか。
大瀧詠一さんなどは、どう思っているのだろう。
あとは、ジョージ・ハリスンの追悼ライヴ・フィルムの話題で、ちょうど来日中のエリック・クラプトンも登場したとか、上映後のコメンテーターとして内田裕也が出てきたとか。
などなど話しているうちに上演開始予定時刻をすでに20分以上が経過。
いやあ本当に30分遅れだねえ、とか言っていたら、ちょうど25分過ぎくらいで演奏が始まる。
と、そこへ、青山登場。
あまりのタイミングのよさにあきれるが、とにかくほとんど見逃すこともなく、会場に入ることが出来たのだった。
しかし、表での待ち時間の間に、新作『グリーンデイル』の物語(どうやら映画にもなっているらしい)を演ずる役者みたいなのが出てきてステージ脇で演技していたら笑っちゃうよねなどと話していたのだが、これが本当にやっているのであきれてしまう。
こういったことをぬけぬけとやってしまう平気さには、本当に頭が下がるというか・・・
だが、『グリーンデイル』物語を演じていた人々はほとんどがローディその他のスタッフで、物語終了後に警官役の男性がそのままの格好でマイクその他の調整をしていたのにはさすがに笑ってしまった。
で、第2部はヒットパレード。
当然、会場内は大盛り上がりとなるのだが、『グリーンデイル』自体は元々が大音量の作品ではなくそれほど気にならなかったものの、ヒットパレードの方では音の小ささがやはり気になってしまう。
武道館だからこうなのか、とにかく、「遠い」のだ。
前回のNHKホールのときは会場も小さいし、しかもでかいアンプががんがんと並び、前半のカントリー・タイムが終わり、後半のフィードバック・タイムに入るとここぞというときにはアンプに向き合って演奏し続けた、あの音と姿が今でも印象に残っているのだが。
かつての武道館のイメージからは程遠いバランスの取れた音響には好感が持てるものの、やはりねえ。
アンプも小さいし。
アンプに向き合っての演奏も、ビリー・タルボットがちょこっとやったくらい。
最後にやるはずの「ライク・ア・ハリケーン」もやらずじまいで、まあ、こう書くと全然ダメなライヴのように思われるかもしれないが、それはそれで見れてしまうあたりは「貫禄」ということなのかもしれない。
うーん、最終日の明日、これでおしまいということで羽目をはずしたらどうしようと不安になり、明日は、ニール・ヤング・ライヴのあとシネマ・ロサでの富永「亀虫」シリーズ上映イヴェントに行くことになっている青山にチケット譲渡を申し出るが当然のように断られる。
まあ仕方ない、あとはジム・ジャームッシュにまた何かやってもらうことを期待するばかり。
『イヤー・オヴ・ザ・ホース』のDVD日本盤の発売はないのだろうか・・・
上映権利がまだ残っていたら、一度どこかで爆音上映会をやりたいのだが。
しかし、明日が気になる・・・
11月13日(木)
相変わらず低調な日々。
試写に行こうとしても腰が上がらず、DVDのお世話になる。
「オリヴァー・ストーン祭り」から今週は、「ガス・ヴァン・サント祭り」へとなだれ込んでいる。
「nobody」最新号の青山特集で、松井君が『誘う女』のドノヴァン「シーズン・オヴ・ザ・ウィッチ」について触れていたこともあって。
それにまあ、『エレファント』の前にとりあえずあれこれ確認しておきたいというのもあったのだ。
とはいえ、相変わらずつかみにくい風景が目前に広がり、ひたすら呆然とするばかりではあったのだが。
ただ、先日青山から、ホアキン・フェニックスと私の類似、という指摘を受け、そのときは、「エー?・・・」みたいな感じではあったのだが、『誘う女』のホアキンが気になって仕方ない。
まあ、現在直面している現実への引き攣り具合、という事では、まあ確かに、とも思うのだが。
『Uターン』のホアキンならさすがにちょっと困ってしまうが、『誘う女』のホアキンなら、とりあえずポジティヴに受け止めることにしよう。
夕方になってようやく腰を上げ、ホン・サンス キム・ギドク『悪い男』の試写に。
強く誘われなければ絶対に見なかった映画だが。
ホン・サンスという人に関しては、『魚と寝る女』という映画を撮った人だということを知るくらいで、その他の情報がまるでないまま見た。
見ているといろいろあきれるようなことがあり、動揺したり、困ったり、うんざりしたりしながら見ることになったのだが、日本の70年代の日活ロマンポルノや東映やくざ映画の現代韓国版、という見方も出来る一方で、それは、ソダーバーグやタランティーノを思わせる語りの構成を持っている。
その極端な落差に思わず笑ってしまったのだが、監督について何も知らないだけに、そんなところで笑っていいものかどうかも分からずさらに戸惑いは増したのだった。
まさか、本気でこの物語を語ろうとしているわけではないよなあ、と思いつつ、いやいやこれは本気に違いないとも思え、本気だったらどうしようという(いや、もちろんどんな映画でも本気には違いないだろうが)困惑も頭をもたげてくる。
だがいずれにしても、この物語の本気さは、最後のクレジットタイトルが出るときの画面の右上方に小さく残された赤い小さな点に集約されるだろう。
スクリーン(世界)には常にそのような赤い点があるという事を、世界に再確認させるために作られた強烈なファンタジーとして、この映画は機能しているように思えた。
11月10日(火)
選挙関係の記事をあれこれ読んでいたら、民主党の管代表が顔面エステまでやった、という記事を見つけた。
今回は、これまで生活信条として絶対にやらなかったようなこともすべてやって、この選挙にかけたのだそうだ。
奥さんの話によると、「靴なんか1足あればいい、という人がスタイリストまでつけた」ということで、多分それは、今回の選挙への意気込みを示すと共に政権奪取への相当な手ごたえをつかんだことの結果なのだろうと思われる。
民主党としてはまたとないチャンスであったはずで、事実、新潟では田中真紀子も比例区での民主党への投票を呼びかける、田中康夫を全国区的な選挙の表舞台に立たせるという、目いっぱいのパフォーマンスもあった。
その上でのこの結果。
力を振り絞り、なれないこともやり、マスコミでのパフォーマンスでも勝利し、しかしそれでもゴタゴタ続きの自民党になんとなく逃げ切られてしまった。
これはもう、管代表としては何ともやりきれない民主党の「勝利」であっただろうと、想像がつく。
なんだか重たくて面倒だけど、やっぱりみんな「word」使ってるしねえ、というような曖昧だがどこか決定的な選択によって、はっきりと力の差を見せつけられてしまった--そんな感触ではないだろうか。
まあそれはそれ、夕方から青山の作業部屋にて、撮影の終わった『AA』の編集作業打ち合わせ。
何十時間分あるのだろうか、膨大な量の素材から、映画美学校の青山ゼミの面々がある程度編集したものを見る。
最終的には1時間のものを6話、という構成にする予定とのことだが、その賭場口に立ったばかりの私はひたすら呆然とそれらを見るばかり。
ただ、佐々木君と大友さんへのインタビュー部分はもうそれなりの量と質でまとまっていて、面白く見た。
どこか決定的に以前とは違ったものとしてある「音楽」について、いや、何と言うか、間章を道しるべにしながらもそれまでとは違う音楽との関係を持ち始めた彼らの立場を、口ごもりながら、あるいは同じことを繰り返し語りながら、何とか説明しようとする二人の姿がいい。
語っている内容に関しては思うところがあるのだが、おそらくこのビデオを見た人それぞれの「思うところ」を彼らを通してどのように触発していくかが、『AA』の編集作業にとっての大きな問題となるだろう。
その帰り、すでに12時近くになった地下鉄の中で、微妙にゲイらしいお兄さんから盛んに視線を送られる。
ドキドキだが、ひたすらうつむくばかり。
11月9日(日)
どうも今ひとつ調子が出ない。
リハビリがてら表に出始めたのだが、あれやこれやし始めるとすぐにガタガタになって、結局何もしない方がまし、という状態に落ち着いてしまう。
仕方ないので再び篭ってDVD鑑賞の日々。
10月は「ブライアン・デ・パルマ祭り」というのをやって喜んでいたのだが、今月は「オリヴァー・ストーン祭り」である。
先日は久々に『ナチュラル・ボーン・キラーズ』を借りに新宿TSUTAYAへ行った。
だが、DVDの在庫があるはずなのにどこを探してもない。
置いてある可能性のある項目もなさそうな項目も一通り見て、いよいよ店員に尋ねなければダメかと覚悟したのだが、そのときふと思いついて、クエンティン・タランティーノのコーナーを見たら(オリヴァー・ストーンやデ・パルマのコーナーはないのだが)、当然のようにそこには何本もの『NBK』が置いてあったのである。
まあ、確かにシナリオはタランティーノなんだけど……。
一抹の寂しさと共に借りた。
見直してみると、相変わらずのことなのだが、記憶では、これこそ『NBK』だと思い込んでいたシーンがないので愕然とする。
どんなシーンかというと、物語の前半終わりのあたりで、マロリー(ジュリエット・ルイス)がガソリンスタンドのお兄ちゃんと車のボンネットの上でファックした挙句殺してしまうところ。
私の記憶ではあそこで、おびえるお兄ちゃんをマロリーが、ナンシー・シナトラの「ブーツ」を歌いながら、ブーツでこれでもかと蹴りまくるのであった。
だがもちろん、そんなシーンはない。
お兄ちゃんはあっさりと拳銃で撃たれてしまう。
マロリーは「ブーツ」も歌わない。
この記憶があったために、前半でマロリーが金髪の鬘をつけているのは完全にナンシー・シナトラだと思い込んでいて、それがまあ、『キル・ビル』へも繋がっていったのだが……。
だが、別のシーンでマロリーは「ブーツ」を歌った。
今となってはすでにこのときから十分に狂っていたトム・サイズモア扮する変態刑事がマロリーを逮捕したシーン。
刑事に抱きかかえながら、マロリーはブツブツと「ブーツ」をつぶやくのであった。
しかしいったい、どうしてこの二つのシーンが混乱して記憶されたのか、まったく分からない。
しかも、マロリーが蹴りまくるシーンまで捏造されている。
多分ここは、『ニア・ダーク』でビル・パクストンがクランプスの『フィーヴァー』に合わせて酒場の客を蹴り殺すシーンが重ねられてしまったのだと思うのだが。
あと、一緒に借りた『Uターン』は、何度見てもこのジェニファー・ロペスは別人なのではないかと思えてしまう。
これ以降の、「歌手」になってからの彼女ばかりでなく、『アナコンダ』のジェニファー・ロペスとも違う。
2度とこんな演技はしないだろうなあ……
ちなみに、オリヴァー・ストーンはキューバでカストロのドキュメンタリーをとった後、パレスチナに行ってアラファトのドキュメンタリーを製作中とのこと。
どこかで配給してくれないだろうか。
こんなにあれもこれもうんざりするほど上映されているのに、結局不自由さは変わらない。
ヴェンダースが作ったドイツの地元バンドのライヴ・フィルムも見れないし。
まあ、こういうことは結局自分でやるしかないんだけど。