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2003年 boid日記 10月

Text by 樋口泰人

10月29日(水)

ようやくこの数日普通に外に出始めたのだが、本日はつい調子に乗ってペドロ・コスタの『ヴァンダの部屋』を見に行ったら、またもや調子を崩してしまった。
美しい構図と光の中に映し出されたクズばかりを見せられる3時間。
ほとんどのシーンで、登場人物たちが薬を吸ったり打ったりしているだけ。
しかも「その後」がまったく映されてないのだ。
つまり、クスリの効果が示されない。
彼女たち、彼らは、クスリのおかげでどうなるのだろうか。
ハイになるのか、トリップするのか、酩酊するのか、それがわからない。
クスリを吸ったり打ったりしながら何をしゃべるかどんな風にクスリを吸い、打つのか、という事だけが示される。
咳き込んでばかりいるヴァンダは、まったく落ち着きなくクスリを吸ってばかりいるのだが、それはもう、呼吸するように吸うばかりで、彼女自身も「その後」を期待しているとはとても思えない。
また、彼女の住む町はおそらく再開発のためだろう、ブルドーザーやショベルカーなどが入って建物が次々に解体されていく。
でも、それがどうなるのか、何のためなのかは示されない。
町を出て行く人々も、その後どこへ行くのか、何をするのかも語られない。
つまり、この映画では「未来」がまったく示されないのだ。
クスリを吸う、クスリを打つ、家が解体される、人が出て行く、という繰り返し。
そこから想定される「未来」があるとしたら、「死」「廃墟」くらいだろう。
「未来」にむけての時間と空間は、完全に閉ざされている
それこそ「クズ」以外の何ものでもない。
この数日、裁判官が暴走族の少年たちに向かって「君らは犬のクソ以下だ」とか「産廃以下だ」とか言ったということが話題になっているが、この映画に映っているものこそ、そのようなものだ。
感情の入る余地はない。
置き去りにされた死体のような人間と死者の声だけがそこにある。
ヴァンダのクスリと同じように、呼吸するように、それらを映す。
そのおかげで未来が閉ざされていることの閉塞感はない。
時々画面の奥のほうに映し出されるテレビ画面の映像が、かろうじてそこを外部とつなげてもいる。
そうそう、この映画の中で、ヴァンダがしきりに電話帳みたいなもののページの表面を、ナイフのようなものでこすっている。
表面から何かを集めて別の紙にまとめている。
これはいったい何なんだろうか?
ページの表面に落ちたクスリの粉を集めているのだという説もあるようだが、私が見る限り、印刷インクを削り取ってそれを溶かして吸っているのではないかと思えたのだが。
いずれにしてもここでも「その後」が示されないので、彼女の行動の意味がまるでわからないのだ。
意味と目的を欠いた行動の集積。
カメラはそこにとどまる。
テレビ画面が示すような外部への通路を歩もうとはしない。
DV撮影されたこの映画を、フィルム変換することに監督がこだわったのも、そのあたりの理由によるのではないか。
「映画がないところにはファシズムが根付く」というティエリー・ジュスの言葉が、ここにもこだましているように思う。

10月28日(火)

狼の一族と吸血鬼一族とがそれぞれの血の存続をかけて争う『アンダーワールド』という映画を見た。
そこで語られる物語の設定や歴史はまあおくとして、彼らの戦いのほとんどが銃器を使ってのものである、というのがこの映画の特徴といえるだろうか。
それなら、ギャング同士や国家間の抗争でも良かったと思うのだが、人間同士だと簡単に死んじゃうし、では簡単に死なないようにするためにはどうするかといった繊細なアクションはする気がない、という宣言をもこめた、狼人間と吸血鬼との銃器アクションなのだろう。
ただそうは言っても、ジョン・ウーのように単純な銃撃を華麗な運動に変えるようなこともせず、なかなか死なない者同士がバンバンと打ち合っているだけだから、そもそもアクション自体に興味がないのかもしれない。
そのあたりがダメといえばまったくダメなのだが、『キル・ビル』を見たあとでは、これくらいで十分、という感じもする。
なかなか良かったのは、ミイラ化して眠っていた吸血鬼一族の長老がよみがえってくるところで、輸血用の管のようなものを全身に繋げた半分ミイラがよろよろと動く。
顔つきがなんとなくクリント・イーストウッドを思わせ、おお、この役をイーストウッドがやっていたらと、思わずニヤリとしたのだった。
イーストウッドにミイラか吸血鬼役を依頼する腰の座ったプロデューサー、監督は、どこかにいないだろうか。
ついでに、主役の女吸血鬼は、ケイト・ベッキンセールではなく、ハル・ベリーあたりだといいのだが。
ケイト・ベッキンセールも顔つきはなかなかいいのだが、どうもボディ・スーツが似合わない。
でも、監督と婚約したということだから、衣装を変えることを考えた方がいいのかな。
監督は美術畑からMTVを経て映画にたどり着いたという経歴の持ち主だから、どうやら3部作らしいこの映画の次作以降では、彼女の衣装をもう一ひねりしてほしいと思う。
物語は、少し前なら、白人と黒人との人種闘争、今なら、ユダヤとイスラムの宗教闘争などなどに置き換え可能な「血」を巡る闘争とそれを昇華する愛の物語。
親と子を巡る物語の方に視点を移すと、『スポンティニアス・コンバッション』のようなものにも出来たのではないかとも思える。
第2部となる続編は、はぐれ吸血鬼の物語になるはずなので、こちらに期待、というところかな。

10月27日(月)

10月に入って持病の耳鳴りが何年かぶりに本格化して、機能不全に陥っていた。
耳鳴りといっても単にガンガン鳴っているわけではなく、周囲の音が異常に良く聞こえるようになってそれらが頭の中で反響し、人前で、人格を保っているのが出来なくなってしまうのである。
ぼんやりとDVDなどを見続けていた。
昔はそれでも、人と会ったり、仕事をしたりしていたのだが、さすがにもうそんな体力も気力もなし。
ぼんやりしているとそれなりに治ってくるから、まあ、単に人と会ったり仕事をしたくないだけなのだろう。
まあ、とはいえあまりこもっていてもそれはそれでよろしくもないので、ボチボチ外に出始めた。
本日は『キル・ビル』。
すでに周囲から評判は聞いていて、まあ、その中では「金をかけた『刑事まつり』」という評が圧倒的だったのだが、それ以下でも以上でもないので、さすがになんともあきれる。
まあ、冒頭のナンシー・シナトラには、ちょっとやられてしまったのだが。
ただ見終わってから考えるに、その曲が、リー・ヘイズルウッドではなくソニー・ボノの曲であるあたりが、「それ以上でも以下でもない」この映画のあり方を、あらかじめ指し示していたように思う。
ヘイズルウッドやスペクターやジャック・ニッチェなどなどの仕事振りを脇から眺め続け、そのエッセンスを組み合わせて曲作りを行ったソニー・ボノのセンスと、この映画はどこか近いところに位置しているのではないか。
健康なオタクと言ったらいいのだろうか。
タフな苦労人、という印象を受けた。
とはいえ、物語の語り方は、あれでよかったのだろうか。
語りの形式は、ほとんど『マトリックス リローデッド』と同じ。
つまり、設定の説明が次々に言葉によって語られて、あとはアクションのみという。
まあ、そのあたりの最新の語りの形式へのヴィヴィッドな反応はさすがともいえる。
個人的には、最後のナンシー・シナトラと梶芽衣子との戦い(ユマ・サーマンとルーシー・リューの戦い)を、たとえば、ユマ・サーマンが着物で、ルーシー・リューがボディ・スーツ、という風に入れ替えるか、サーマンを黒髪にして、ルーシーを金髪にするとかしてくれたらと思った。
でもまあ、それをしないところが、タランティーノの「健康さ」なんだろうけど。
それから、千葉真一の登場シーンは、なぜか、『夢の涯てまでも』の笠智衆を思い起こさせた。
このあたりも笑っちゃうくらい健全・・・

あと、リトルモア・レコーズから、11月発売のモールスというバンドの『moools』というアルバムが届く。
これが3枚目のアルバムだそうだ。
初めて聞くバンドだが、歌詞もメロディもかなりいい。
気になるのは音の線の細さ。
初めてのバンドなので、何とも言いがたいのだが、個人的にはエコーのかけ方が足りないように思えた。
あるいは、バーズのロジャー・マッギンの12弦ギター、あるいは、デヴィッド・クロスビーが響かせる微妙なハーモニーが足りないのではないか。
より狂おしい音を希望するばかり。
これはタランティーノにも言えること。
ああそれから、『キル・ビル』の大殺戮場面となる変な和風クラブで演奏している3人組の女性バンドのドラマーは、妻の友人である。
アメリカでのプレミア会場でも演奏したとの事。
画面ではメンバーはそれなりの年齢に見えるが、実際はその見た目以上のキャリアの人たちである。