
2003年 boid日記 9月
Text by 樋口泰人
9月29日(月)
本日は仕切りなおしで、『レイクサイド』の試写へ。
製作時から『レイクサイド』と言ってきたのですっかりそう思い込んでいたのだが、正式には『レイクサイド マーダーケース』(多分)。
見終わった後で思ったのだが、このサブタイトル的な「マーダーケース」の意味は、この映画の核をなしているのではないか。
つまり、これはある確定的なひとつの出来事としてありながらもなお、ひとつの症例、ケースに過ぎないということ。
したがってそれを見た側には、そこに描かれなかったさまざまな可能性としての症例が広がる。
その可能性が作り出す奥行きと、スクリーンの前面で展開されるひとつの現実との尋常ではない遠近感の中に、登場人物もそれを見る側もぐいぐいと引きずり込まれていく。
映画の冒頭に流れるドノヴァンの「シーズン・オヴ・ザ・ウィッチ」の音の分解のされ方に、この映画の構造がすべて要約されているようにも思う。
まず、曲の冒頭のギターは画面の中心奥深くから聞こえてくる。
その数フレーズがあった後、おもむろに入ってくるベースとパーカッションが両脇からギターを取り囲み、中央前面の空虚を作り出す。
もちろんそこを埋めるのはドノヴァンのボーカルなのだが、それはある確かなものがそこを埋めているというより、その空虚こそが作り出したある種の幻影でもあり、しかし確実に幻影としての実体を持つ何かであるような、そんな危うい歌声として、そこに添えられている。
まさに、魔女の息吹がそこに吹き込まれている、というように。
ドノヴァンのオリジナルでは、そのような音の位相はつけられてはいない。
どうやら全編を2台(時には3台)のカメラで撮影し、それも、通常のように「おさえ」と「寄り」というはっきりした役割分担によるものではないその2台のカメラの関係が作り出す奇妙な空間、目くるめく展開を見せる音楽とその微妙につけられた強弱が作り出す波のようなグルーヴ、それがどこで聞こえているか何の音なのかわからないといえばまったくわからなくもある音響などなど、魔女の息吹が吹き込まれた空間を、繊細な細部が支えている。
そこで展開されるひとつの症例は、高純度の人工物であり、それゆえに見る側の可能性としての物語を押し広げるだろう。
これはあくまでもサンプルである。
しかしサンプルとしての純度が高いゆえに、サンプルどおりではないわれわれの現実のそれぞれの可能性を、一瞬、強烈に、映し出してしまう。
それこそ映画の役割ではないかと、この映画は確信しているようでもある。
それから、予てから問題となっていた薬師丸ひろ子は、我が家の心配を他所に立派に存在していた。
夜の電話で青山に頭を下げたのだが、同時に、何故とよた真帆ではいけなかったのかと、疑問も呈す。
試写終了後、たむらさんに誘われて、イマジカ傍の中華飲み屋に。
この映画の撮影に関するさまざまな話を聞く。
こちらの勝手な思い込みが、たむらさんの技術的な知恵と工夫の話によって、いったんクールダウンさせられ、清々しい一瞬。
だが、夜の青山との電話の中で、さらにそれをひっくり返すような話を聞き、大笑い。
たむらさんの「ぼけ」に、ひたすら敬意を表す。
9月28日(日)
仕事がようやくひと段落したとたん、やはり体がガタガタになる。
金曜日は青山の新作『レイクサイド』の初号試写があって、まあ、何はともあれ駆けつけることになっていたのだが、寝坊。
前日のテレヴィジョンのライヴではあれだけ感謝しておきながら、翌日はこの仕打ち。
友達がいのなさにあきれるが、まあ、致し方なし。
でもそれもあんまりなので、久々に『月の砂漠』を見ようと起き上がるが、耳が鳴って目の前がクラクラ。
帯状疱疹は収まったが、今度は持病が浮上してきてしまったのだった。
どうにもならず、金曜日、土曜日は全休。
ひたすらボーっとするばかり。
日曜になってようやく持ち直し、予てから「行くように」と言われていたヒロヤマガタのライトショーへ。
これは6月くらいから、横浜の赤レンガ倉庫のそばで行われている「ヒロヤマガタとNASAのなんたらかんたら」というイヴェントの中のインスタレーションで、ヒロヤマガタとNASAで開発した特殊な機材を使いレーザーやホログラムで宇宙の神秘を体験させる、というようなもの。
なんていうと相当際物っぽいが、いわゆるサイケデリック・ライトショーの現代版とも言えるもので、その手の筋の信頼できる友人から、これはかなりすごいからぜひ行ってくれと言われていたのだった。
話を聞いていると、どうやらジェームズ・キャメロンが資材をなげうって開発した3Dシステムのあり方ともリンクしているようで、映像と身体との関係の今後、という意味で、とにかく見ておかねばという気になっていた。
ただ、例によって体調も悪く、時間もなかなか取れず、最終日になってようやく腰を上げるという始末。
だが、ホームページを見ると、どうも、一部が8月末で中止になっているという情報が。
それでもと思って行ってみたのだが、やはり、問題の会場の周りにはロープが張られ、「機材トラブルにより中止されました」との掲示が。
仕方なく、日光に照らされて刻々と色を変えていく謎の2対の巨大キューブを怪しい姿を虚しく眺めつつ、一家で中華街へと向かう。
しかし「機材トラブル」で、開催期間の半分を中止してしまうとは、よほどのトラブルだったのだろうか。
どうも怪しい。
本当は、誰かライト・ショーを見ながら狂ったか暴れたか、あるいはショック死したかで、ただ、NASAがらみでもあるため公にはできず、もみ消された挙句このような事態になったのではないか。
まあいずれにしても、キャメロンにしろヒロヤマガタにしろ、アメリカの金持ちはどこか狂っている。
そのうち、『コンタクト』にも描かれていた、いかれた大金持ちが現れるのではないだろうか。
9月25日(木)
いよいよニール・ヤングが来日するらしく、周辺が騒々しい。
昨夏の公演は見逃したから、私としては80年代半ばのライヴ以来となる。
あの時は前半カントリーで後半フィードバックという2部構成でやったのだが、今回はどうなるのか。
昼寝中に安井君からも、その件も含め、電話。
『ファム・ファタール』の2重の夢オチの話に笑う。
夜は、青山に誘われてテレヴィジョンのライヴへ。
普段、音楽雑誌はほとんど読まないので、いったいいつ再結成したのか、新しいアルバムが出ていたのか、何故今来日なのか、まるでわからず、半信半疑のまま会場に向かう。
青山と待ち合わせたパルコブックセンターで、目の前に青山がいるのに通り過ぎ、キョロキョロと青山を探していて、青山に怒られる。
このところ目の調子が本当に悪い。
まあ、人の顔の判別がつかないのはいつものことなのだけど。
しかし、トム・ヴァーラインとフレッド・スミスの髪の毛の問題を除いては、テレヴィジョンのメンバーたちの体型はほとんど昔のまま。
すでに体型からして「現役」だったのだが、演奏はさらに「現役」。
ライヴなのに、繊細な音をちゃんと聞かせる。
しかもリズムの切れも良く、驚く。
70年代は、リチャード・ロイドの美しくもあるギターのフレーズやドラマティックすぎる曲の展開がパンクっぽくなくてなかなか馴染めないところもあったのだが、今聴くとさすがにしっくりときて、過ぎ去った20数年を思う。
開始前、青山から映画監督の最盛期10年説の披露があり、ほう、と、ある種納得はしていたのだが、その意味で言うと、テレヴィジョンの10年は、これから始まるのかもしれないと思わせる充実ぶり。
トム・ヴァーラインの声は、50歳を過ぎて、ようやくその年齢と折り合いがついてきた、という感じでもある。
苛立ちや居心地の悪さといったネガティヴな感情ではなく、今そこに自分がいることだけで歌を歌うことができる、いい意味でのポジティヴな強さを感じた。
『夜風のにおい』の赤いポルシェのように、その赤さとスピードだけで画面を充実させてしまう、あの感じ。
あるいは、カトリーヌ・ドヌーヴの赤いコート。
誘ってくれた青山に感謝。
多分私だけなら、どうせうんざりするような懐かしライヴだろうと、馬鹿にして行かなかっただろうから。
9月24日(水)
朝10時から築地のソニー試写室にて『犬と歩けば』の0号試写。
この時間だと、さすがに電車が込んでいる。
会社員の人たちは本当に大変だなあと思うのだが、こちらもほとんど寝ていないので、きつい。
しかし音関係の調整も済み、フィルム変換された最初の試写ということもあり、それなりの緊張感。
ビデオでの最後の試写が8月上旬だったから1ヵ月半はすっかり頭から離れていたので、かなりいろんなものが見えてくる。
気になったことはいくつかあるのだが、とりあえず、結果的にフィルム上映するにしろ、撮影時の光の加減など、フィルムでの撮影とは違うノウハウが必要なのだということは良くわかる。
おそらく当分、ビデオとフィルムとの共存時代がしばらく続くだろうから、撮影からフィルムでの仕上げまでトータルにかかわり、調整していく役割を受け持つ人間がいて、さまざまな技術を蓄積していく必要があると思う。
でもさすがにスタッフとして関わってしまうと、なかなか普通に見ることができず、何とも変な感じだ。
劇場で上映される頃には単なる観客として見ることができるだろうか。
来年の春くらいには公開になるといいのだけど。
どうやら、犬の映画が次々にあるらしく、あまり公開が遅くなると単なる二番煎じのように見られてしまうのかもしれない。
まだまだ先は長い。
その後、いったん家に帰って昼寝。
最近は1日が10時間から12時間単位で過ぎていき、2,3時間の睡眠で8時間前後活動し、突然眠くなってぶっ倒れるという日々。
夕方起きて、青山ブックセンター本店での『恐怖の映画史』単行本発売記念イヴェントへ。
以前アテネフランセで数時間にわたって行った公開版「恐怖の映画史」で、やりきれなかったビデオその他も上映しつつ、幽霊を捉える主観と客観の視線の問題などについて。
黒沢さんはダニエル・シュミットの『今宵限りは』の中の鎧武者がイングリット・カーフェンの髪の毛に重なる問題のシーンのビデオを。
篠崎は『犬と歩けば』の中の、「起き上がりこぼしシーン」のサーヴィス・カット。
フィルム版がようやく完成した日にこうやって見せるというサーヴィス精神というか宣伝魂に、いつもの事ながら頭が下がる。
そのごのうちあげでは、黒沢さんのフィルモグラフィに抜け落ちていた作品について、篠崎から指摘あり。
どうやら大学浪人中に作ったもので、『六甲外伝』とか言うタイトル。
すでにうろ覚えなので、間違っていたら申し訳ない。
『仁義なき戦い』のように、登場人物がストップモーションになって、そこに字幕が入る、というのをやってみたかったのだと、黒沢さん。
黒沢さんによれば、あれは作品ではないからこれまでフィルモグラフィに入れてなかったのだ、という事なのだが、果たしてどうか。
それも含め、『白い肌に狂う牙』の上映を迫るが、ガードはなかなか固い。
あとは次回作について。
先日のNHKの「トップランナー」を見た人は気づいたかもしれないが、どうやらいよいよミイラものをやる、ということらしい。
でも普通のミイラものとはちょっと違うらしい。
具体的なことはあれやこれや聞いたのだが、さすがにまだオフレコとの事。
主演女優候補の中にはあっと驚くような、おそらく誰も想像つかないような人の名前もあり、あきれる。
実現したらすごいし、かなり可能性はあるような気もするのだが、ただ、それで人が呼べるかどうかというのはまた別の話なので、どうなることやら、今後の進展が楽しみではある。
ただ、今日のイヴェントでもアテネのイヴェントに来ていた人は2,3人程度という状態だったから、かなりインパクトのあることをしたり、えげつないくらいの宣伝をしないと、世間にはやっていることさえ伝わらないだろうから、問題の某女優の起用は、その意味で非常にいい話のように思えるのだが。
まあ、あまりあれこれ書き始めると書いてはいけないことまで書きそうなのでこの辺で。
篠崎は明後日からバンクーバー映画祭へ。
『刑事まつり』と『突貫じじい』シリーズを持って。
果たしてカナダでどんなふうに見られるのだろうか。
9月18日(木)
社会復帰したらしたでいきなり忙しくなり、結局眠る時間なし。
朝9時前にようやく眠りにつくが、すぐに電話で起こされる。
どうしても1時からの試写に行かねば原稿が書けないので、結局そのまま起きていることになる。
ジム・シェリダンの『イン・アメリカ』。
貧しいアイルランド移民の物語。
完成披露試写だというのに、ヤマハホールは1/3かそれ以下の集客。
バーズの「ターン、ターン、ターン」が流れている。
きっと映画に使われるのだろう、いつこれが使われるのかと気にしていたら、冒頭、主人公たちがニューヨークにたどり着いたときに流れ始めたのは、「魔法を信じるかい?」。
これはまあ、「アメリカを信じるかい?」と読み替えられるだろう。
その後はアイルランドの妖精譚に似せたアメリカ妖精譚が語られていくことになるのだが、中盤のクライマックスは「ターン、ターン、ターン」ではなく、「デスペラード」。
例のカナダの小学生たちが学校の体育館で行った合唱を録音したCDにも入っていたイーグルスの名曲。
これをやはり体育館で、主人公の少女が独唱する。
アメリカで迷子になった(ロスト・イン・アメリカ)魂たちが、もはや幽かなものでしかなくなってしまったおぼろげな「アメリカ」に向かって歌う。
そういえば、この一家も、アイルランドからカナダを経由して、ニューヨークにやってきたのであった。
この少女は実は、あのカナダの小学校の体育館にいたのではないか、というような妄想も湧き上がるが、あれは70年代の録音。
この映画は『E.T.』大ヒット中のアメリカ。
ちょっと年代が違う、とは思うものの、なぜか彼女は最初から、ハンディカムを持っている。
『E.T.』のころにそんなものがあるはずはない。
彼らの「アメリカ」は、ある種の「時間」のことでもある。
その後いったん帰宅し仮眠。
夜は、安田生命ホールでのスティーヴン・ソダーバーグ『フル・ルロンタル』。
こちらも完成披露試写なのに、人影まばら。いったいどうしたことなのか?
まあ、プロジェクトとしては、かなり小さい部類のものだし、ほとんどの撮影がDVということもあって、期待値はかなり低いのかもしれない。
構成は、現実部分をDV、映画中映画の部分をフィルムで撮影し、DVの部分では、シーンによってはかなりはっきりと色分けがされている。
『トラフィック』と同じようなかなりあざといやり方で、10人ほどの主要登場人物が右往左往する群像劇を描写していくのだが、『トラフィック』より各エピソードは細分化され展開も速いので、途中まで、人間関係を整理するのに骨が折れる。
プレスシートにも人名辞典のようなものや人間関係図が載せられていて、見終わった後でそれを見れば何とか整理がつくという感じ。
だが、問題は整理された物語ではなく、細分化された一瞬のエピソードの中で、何かが確実に起こってしまうということである。
そしてそのように確実に起こってしまう何かを整理して語るためにこうやってエピソードが細分化されていくのだ、というような立場を、この映画はとる。
だから実は、『マトリックス リローデッド』並みに、登場人物たちのせりふによって、物語はむちゃくちゃ整理されて語られているのであった。
その整理された物語の隙間で、些細なことやとんでもないことが起こる。
しかし、デヴィッド・ドゥカブニー、凄すぎ。
何が凄いかは見てのお楽しみというところ。
9月17日(水)
連休の間はほぼ完全にダウンしていて寝たり起きたり。
その甲斐あってかようやく少し回復し、本日から活動開始の予定だったのだが、朝から子供が熱。
その上に、義父が倒れて入院の知らせ、さらに、ガタガタになりながらやっていたフィルムマーケット用のパンフレットのデータ部分に校正ミスがあり、修正シールを貼り付ける騒ぎにまでなってしまう。
ふーむ、さすがにいろんなことが限界に来ていたのかもしれぬ。
起こってしまったことは直しようがないのであきらめるしか仕方ないのだが、まったく思いもよらぬところのミスで、いよいよ本格的に秘書が必要かもと思う。
その分稼げればいいんだけどねえ……。
それやこれや、すっかり弱りながらエド・ハリスの初監督作品『ポロック』。
ジャクソン・ポロックに扮したエド・ハリスの、終始一貫する無骨な風情が、いわゆる「天才かつ狂気の画家の生涯を描いた映画」という言葉が想像させるエキセントリックな画家の風情とは一線を画す。
かといって、かつてトミー・リー・ジョーンズが引退したプロ野球選手に扮した『タイ・カップ』のような、いかにもアメリカ的な無骨な変人というわけでもない。
やっていることは確かにエキセントリックな芸術家タイプの変人なのだが。
しかも、ポロックの29歳から44歳での死までを描くこの映画の中で、ほんのちょっとした仕草を映し出すシーンなどはその仕草の終わりまで時間とともに描いていくのに、なぜか、15年の時間の流れは感じない。
エド・ハリスの肉体の変化や、ラジオから流れるニュースなどから、確かに時が流れていることは分かるのだが。
それはたとえば、70歳のクリント・イーストウッドが刑事に扮し、走りながら犯人を追うとき、確かにそこに何らかの息苦しさを感じはしても、イーストウッドが現役刑事であることはすんなりと受け入れてしまうような、そんな時間の流れ方。
だってイーストウッドはかつて一度死んで、その死んだところからスクリーンに映り始めてるんだから、というような。
この映画の原作が、「An American Saga」というタイトルを持つことを知り、なるほどと納得する。
奥さん役のマーシャ・ゲイ・ハーデン、愛人役のジェニファー・コネリー、ともに良し。
ジェニファー・コネリーとエド・ハリスって、『ビューティフル・マインド』もそうだったか。
あのときのエド・ハリスは主役ではなかったが、どうなんだろう、あの映画で、ジェニファー・コネリーをこの役にと思ったんじゃないだろうか。
まあ、配役にはいろんな事情が絡まるから憶測に過ぎないのだけど。
いや、製作年代を見ると、この映画のほうが先かもしれないな。
いずれにしてもこういった役で登場するジェニファー・コネリーは最高である。
エド・ハリス以上に死と深く関わっているような、そんな感じなのだ。
しかも、一時のシャロン・ストーンのような華麗さがある。
あと、CDを何枚か。
デトロイト出身の女性ロッカーといったらスージー・クアトロだが、どちらかというとランナウェイズを思わせる風情のデトロイトの女性ロック・バンド、Slumber Party。
音の方は、ラナウェイズのプロデュースがキム・フォウリーではなくメイヨ・トンプソンだったらこんな感じだったか、というような。
ただ、こういう平板なグルーヴの出し方って、やはり、ソニック・ユース以降、ということになるのかな。
でも、5曲目のキーボードはもろに、スーイサイド「シェリー」。
いろんな意味で、70年代末から80年代を感じさせるバンドで、ちょっと琴線に触れる。
で、メイヨ・トンプソンがボーカルでも参加している、Van Oehlenの新作。
Oehlen兄弟のバンドなのだが、Albert Oehlen は、90年代レッド・クレヨラのメンバーでもあった。
ただ、メイヨの声がストレートに聞こえてくる曲よりも、なかったり、ぐしゃぐしゃにフィルターがかけられている曲の方が良かったように思う。
あとは、フラワーポットメンのボーカリストだったジョン・カーターのアンソロジー2枚組と、エターニティーズ・チルドレン。
当時の機材のせいなのか、あレンジャーがすごいのか、音の広がりと厚みにやられる。
まあそんなところ。
あまり音楽にばかり逃避していると、ますますあれこれのミスが増えていきそうなので、気をつけないと。
9月11日(木)
あまりの暑さと湿気で寝たり起きたりして夕方。
ぐったりするばかり。
まあ、そればかりでも仕方ないので、追悼のため新宿へ。
9.11ではなく、WZ。
9月7日、ついに亡くなってしまった。
とにかく、「死ぬ、死ぬ」という予告ばかりが先走っていたので、死んだ、という報告を受けても、特にショックもなく、空虚が広がるばかり。
自ら追悼したようにも思える、「ザ・ウィンド」の音のせいもあるかもしれない。
本当にあれがラスト・アルバムになってしまうのか......
とにかくまだ買っていなかった、「ファースト・セッション」を買う。
10代のジヴォンは、ソフト・ロックをやっていた。
バックには、ハル・ブレインやトミー・テデスコ、ライル・リッツといったフィル・スペクターがらみの人々が。
というか、まあ、当時のロサンゼルスの腕利きのスタジオ・ミュージシャンが集まったらこうなった、というところだろうか。
オリジナルの他、ビートルズやディランやジミー・リードの曲をやっているが、とにかく声が違う。
何も知らず聞いただけでは、絶対にウォーレン・ジヴォンだとは分からない。
あと、トマス・ディンガーの追悼アルバムというのも出ていた。
どうやら日本盤のみの発売らしい。
買おうと思ってチェックして手に取らずにおいたら、店内をあれこれ見ているうちにどこにあったか分からなくなり、トマス・ディンガーのコーナーにもなく、もしかしてあれは何かの錯覚だったか。
結局DAFのニュー・アルバム(笑)を。
ついに来日したライヴに行った中原君の話によると、何やらかなり異様な盛り上がりだったとか。
しかし、10数年前とほとんど変わらない音なのに、今聴いても特別古いとか懐かしいとか感じないのは何故か。
結局何も変わっていないのか。
だとすると、70分を越すこの収録時間の長さはいったい何なのだ!
一緒に買ったミュンヘンかどこかのガレージ・テクノ、ファット・トラッカーズの1曲目、「ティーネイジ・ドーター」という曲(単に「ティーネイジ・ドーター」と繰り返しているだけ)は、不気味なスーイサイドという感じでなかなか良かった。
こちらは30数分という短さで、それも好感が持てる。
あとはボーカル次第。
バンドとしての立場をどこにおくかという決断が待たれる。
とはいえこのところ逃避してCDばかり買っているので、もうこれくらいにしておかないとと思う。
ただ7月に顔面に出た帯状疱疹の影響なのか、左目の視神経をやられたみたいで、大画面を長時間見ていると酷い頭痛が起こるのだ。
ビデオやDVDなら休み休みでOKなのだが。
だからもうちょい逃避して左目に復活してもらわないと。
まあしかし、この暑さでは......1時間そこらの外出ですっかり疲れ果て、放心しながら家に帰る。
帰ったところで何ができるわけではない。
9月9日(火)
毎度のことながら、体調の件では多くの人にご心配をかけている。
しかし、案外みんな、帯状疱疹にかかっているのでちょっとあきれる。
病院の資料にも、近年増加が顕著で、これはジワジワと環境汚染が進んでいる証ではないか、というようなことが書かれていたが。
わたしも、10年ぶりに高円寺に戻って数年が経つが、それまではほとんどなかった様々なアレルギー症状が出ていて、これもおそらく、環七と青梅街道の排気ガスのおかげかと思える。
それはそれ、帯状疱疹の方は、病院の薬が効いて、ようやく昨日から、激痛が遠ざかった。
ヒリヒリした痛みは相変わらずだが、まあ、動くのがいやでしょうがない、という段階は過ぎた感じ。
本日は某フィルムマーケット用カタログの校了日で、デザイナーの事務所がある渋谷まで。
しかし暑い。
気分は夏休みなのだが、右半身に痺れを抱えたままの身体にこの暑さはきつい。
作業終了後、タワーレコードへと向かうが、途中でマジでクラクラ来て手近のHMVに変更。
Scout Niblett「I am」、MADLIB「Shades of Blue」、Dudley Parkins「A Lil'Light」、LACKS「RE:LACKS-VOL.1 WITH THE WORLD」を買う。
体調不良のためか、久々にアングラ路線になった。
アンダーグラウンド・ヒップホップは聴くとどれもソコソコ面白いのだが、どれも、このまま洗練されていってお終いなのか、というような印象を受ける。
それから、先日送られてきたスタジオボイスを見ていたら、nobodyの人々がモデルとして写っている。
「アカルイミライ」の高校生みたいなシャツを着て、大学の教室にたたずむ姿は何だか奇妙な感じだ。
「nobody」最新号も楽しく読ませてもらっているのだが、これまた、そろそろいろんな意味で決断のしどころかな、という気がする。
隔月刊になった以上、そろそろ一人や二人、この雑誌専任でやって行かざるを得ないのではないか?
そのときどうしても「売る」ことと直面すると思う。
まあ、そんなことがなくても直面はしているはずだが。
このまま売れてしまえば問題はないのかもしれない。
ただそうでない場合、ではどうするのか?
大寺と梅本さんの往復書簡によるシネクラブの問題は、一方で非常に切実な「nobody」の抱えている問題のようにも読めた。
9月5日(金)
あまりの痛みに病院へ行く。
といっても痛み止めは効かないから、ウィルスバスター薬をくれるだけなのだが、これが高い。
薬代5000円也。
ふーむ。
あとは安静にしているだけ。
どうやら7月に顔面に出た発疹も、帯状疱疹だったみたいで、続けて2度も出ることは滅多にないし、顔面に出るのはよくない兆候だから、気をつけるようにと。
要するに、抵抗力限りなくゼロ。
まあ、それでどこまで切り抜けられるか、というのをこの20年くらいやってきたわけだけど、いよいよそうも言っていられなくなったということか。
それなりにニコニコしつつ、引き受けていた仕事にあれこれ断りを入れる。
火曜日までに原稿を入れないと白紙になるんです、と言われてもねえ。
病気のためやりたくないんだか、単にやりたくないんだかよく分からなくなる。
またしても逃避。
『ワイルド・スピード2』。
リュダクリスはいい感じの役で出演もしていた。
マイアミが舞台だったのだ。
物語の方は、面白くもなし、つまらなくもなし。
大量のビッチたちが画面のあちこちに登場していて、それだけでまあ、満足。
途中、単に車を壊しまくるだけのカーレースシーンが映り、専用の車やレース場も映ったのだが、あれって現実にあるのだろうか?
ダートカー・レースとも違うし、モンスタートラックのレースとも違う。
ほとんど『太陽の帝国』の中国の砂漠の中のゴミ捨て場のような感じ。
やたらとテンションの高い残余の世界といったところなのかもしれない。
そうそう、ちょっと前に見た『座頭市』も、残余の世界の物語だったように思う。
だがどうもフィットしない。
おそらく、あれは24PHDで撮影されたものだと思うのだが、ビデオカメラとフィルムのカメラの画角と焦点深度の違いをコントロールし切れていなかったのではないか。
サイズがフィットする時は奥行きがダメで、奥行きがフィットする時はサイズがダメ、ということになるのかな。
これは24Pを使ったカメラマンに尋ねてみなければ分からないのだが、同じレンズを使うと、ビデオの方がサイズが小さくなるのではないか。
で、サイズを合わせるためにレンズをカエルと焦点深度が違ってくる。
もしかするとそういったことを克服して、今の24PHDカメラは実用化されたのかもしれないのだが。
だからはっきりしたことは言えない。
ただ、とにかく、世界の切り取り方と奥行きとのバランスにたいして、映画が無自覚だと、そんな印象を得た。
鈴木慶一の音楽もダメだった。
ケーブルテレビでテレビ版の『新・座頭市』をやっていて、それをたまたま見たら、全く画面にフィットしない変なキーボードの音楽がついていて、それがまるで、サン・ラーみたいな音で、何だか強引に画面と絡まり合っていてそれはそれで面白く見ることができたのだが、多分この映画でもそんな使い方をしたかったのではないかと、想像がつく。
でも何かがうまくいっていない。
同じ曲でも、大オーケストラでやるとか、あるいはジャズ・バンドがやるとかすると、結構よかったのではないかと思った。
で、結局、ほとんどアクションのない座頭市の刀の切れ味だけが印象に残り、血に染まった残余の世界の絶望が、見る者の心に侵入してくる。
どうもそれはやりきれない。
9月4日(木)
神経の病気だから仕方ないのだが、帯状疱疹の痛みがヒリヒリと神経をあまりに刺激するのに耐えられず、ディスク・ユニオン、HMVへ。
ユニオンは60年代ガレージ・バンド大会で、めくるめく世界。
何と、ついにミュージック・マシンまで日本盤になっている(ファーストとほぼ同じジャケットのベスト盤)。
あきれながら、やはり日本盤になったリッターのファースト、ゴールデン・ドーン、それから、これまたついに日本盤、しかも紙ジャケで、オリジナル仕様の帯付きのニュー・エイジ・ステッパーズのファーストを買う。
しかし、いくらオリジナル仕様といっても、ジョン・ワディントンをジョン・クディントン、クルーシャル・トニーをクルミアル・トニーと表記した誤植(?)まで......
家に帰って聴いていると、妻が、「これが出たらならロンドン・アンダーグラウンドも出ているのではないか?」というのであれこれのサイトをチェックするがまるで出ている気配はなし。
レコード棚の隅にあった7インチ・シングルを取り出して懐かしがる。
当てにならない資本主義を当てにしてはなるまい。
そろそろレコード・プレーヤーを買わなくては。
HMVでは、ニール・ヤング、ミスフィッツ、ネプチューンズ、ブラック・アイド・ピーズの新作を、ボロボロと買ってしまう。
ミスフィッツはボビー・ダーリンやジェリー・リー・ルイスその他50年代ポップ・ソングをブリブリ・ゴーゴー爆音でぶっ飛ばしているのだが、ドラマーにマーキー・ラモーン加入。
当然、「ワン・ツー・スリー・フォー」一発で50年代へひとっ飛びなのである。
50年代の漂白された社会も、その裏に貼りついた影も、抑圧された黒人たちがもてあます魂も、その轟音と共に鼓膜へと届けられる。
10曲入り24分という素晴らしさ(ただし、もう1枚、DVDのライヴ映像付)。
しばし帯状疱疹を忘れる(ただし、「思わせぶり(It's only make believe)」は、ロバート・ゴードンのカヴァーの方の勝ちかな)。
一方ニール・ヤングは、グリーンデイルという街(おそらく架空の)をテーマにした、コンセプト・アルバムになっている。
クレイジー・ホースと一緒といっても、演奏は、ニール・ヤングの他は、ラルフ・モリーナとビリー・タルボットという、ミスフィットと同じ3人のシンプルな構成。
しかも、もしかすると一発録音してるんじゃないかという雰囲気さえある。
明らかに失敗しているギターのフレーズもそのまま入っているし。
つまり、その演奏の持続によって、我々をグリーンデイルへと運んでいこうという思惑がそこに見えるのだが。
したがって演奏時間も78分。
こんな音をサントラに映画を見ることができたら、とも思うが、まあ、それはそれでうんざりするかもしれない。
ブラック・アイド・ピーズは3作目にしてほぼ完成された、という感じ。
マドンナ風にも見える女性メンバーも加入して、それなりの華やぎも見せるし、ラテン系の音の使い方も、どこか白人風な使い方で、つまり、エキゾチックな距離感と共に使われていて、だがそこに外部を求めているわけでもない不思議なバランス。
生楽器の多用が、ポイントなのだろうけど。
ネプチューンズはまあ、プロデュース・チームなので、曲自体はバラバラ。
その中では、シンセサイザーのビート音しか使っていないリュダクリスとI-20のデフ・ジャム・サウス・チームが1番だったかな。
確か、リュダクリスがプロデュースしたデフ・ジャム・サウスのコンピレーションにもこんな曲が入っていて、こちらはショーナのいい感じの声が印象に残っている。
で、あれこれ調べてみたら、『ワイルド・スピード2』って、リュダクリス、ショーナ、I-20などなどがかかりまくっているみたい。
明日は仕事をさぼって映画館へと向かうことにする。
もう、終わってしまっているか?
それから中原君から、キム・フォウリーは42年生まれだから今年61才という指摘あり。
同時に、スロビング・グリスル再結成との情報も。
来春、イギリスにてライヴを行うのだそうだ。
しかし、一体、前期ノイズ・バンドとして現れるのか、後期ダンス・バンドとして現れるのか。
昔、原宿にあった小さなスペースで寒々しい工場の風景と共にひたすら轟音が垂れ流されるスロビング・グリスルのビデオを、じっと見ていた時のことを思い出す。
しかしこれは帯状疱疹には悪いだろう。
あと、青土社の宮田君から連絡があり、『恐怖の映画史』の増刷が決まったとのこと。
めでたし。
9月3日(水)
脇腹の痛みと謎の炎症は、どうやら帯状疱疹だったようだ。
これがなかなか痛い。
体を動かすのが億劫で仕方なく、のそのそ動くものだから、余計に気分がめいる。
かつてこの病気を患った松田広子に、「きついですよぉ」と脅される。
確かにきつい。
ただ、右手右足の痛みは、謎。
妻の謎のクスリの処方により快方に向かいつつあるのだが。
その痛みを紛らわしついでに、アンチ・ポップ・コンソーティアムのビーンズの新作を。
小さめの音で聴いているとゲーム音のようにしか聞こえないが、ボリュームを上げるといい感じのサイヴァーワールドが広がる。
もちろんあくまでも省エネ。
デジタル・シンセ以降のクラフトワークがヒップホップを経由して進化した形、とでも言ったらいいか。
『マトリックス リローデッド』の音楽も、彼みたいな人がやればよかったのにと思う。
一方クラフトワークの新作は、デジタル省エネ路線を推し進めたものではなく、デジタル・シンセを使ってアナログ的な展開をしている。
うまくいっているかどうかは別にして、マンマシンからマシンマンへの転換がなされているようにも思う。
パソコンのモニタで見るDVDの映像が、ビデオ時代のモニタの映像に比べて格段フィルムの感触に近くなった、そんな感じなのだ。
その意味で確実に2003年のアルバムであるように思う。
それはともかく、「ABCDヴィタミン」と繰り返される6曲目の「ヴィタミン」は、なかなかの名曲。
CANの「ヴィタミンC」もそうなのだが、つい口ずさんでしまう、変な親密感がある。
夜は、『ドッペルゲンガー』のパンフ用の資料整理のため、黒沢さんに諸々のチェックをしてもらう。
本当は篠崎の仕事でもあるのだが、篠崎は現在6月末に生まれた第2子の元へ帰省中。
私のようなものにも資料があっさり作れるくらいのデータを残した篠崎に頭を下げつつ、黒沢さんのお世話にもなる。
大学時代に作った「SCHOOL DAYS」がPFFで予選落ち、というエピソードは、いい話なので、パンフにもしっかり記しておくことにする。
9月2日(火)
またもやあたふたしている間に1ヶ月以上が過ぎてしまった。
相変わらず体調は悪いが、まあ、こればっかりは仕方ない。
リュウマチではないかとの話も出ているが、もうちょっと様子を見ないと分からない。
しかし痛い……。
先日、ウォーレン・ジヴォンの新作を買った。
ことによるとこれが最後のアルバムになるかもしれない。
イーグルスのメンバーやライ・クーダー、ビリー・ボブ・ソーントン、ジム・ケルトナーなどなど、これまでにない豪華メンバーがそろったが、どうも気に入らない。
悪くはない。
悪くはないのだが、何だか生きているうちに自ら追悼アルバムを作ってしまったのでは、と思わせるようなところがあって。
私としては、実はこの後、ゾンビがいきなりボコボコと墓場から蘇るような、ゴリゴリとしたラスト・アルバムが用意されているのではないかと、ちょっと期待しているのだが。
したがってこのところの愛聴盤は、リマスターされて発売された70年のファースト・アルバム「Wanted Dead or Alive」の方。
これを聴くと、ついに発売されたニール・ヤングの「On the Beach」もヤワに聞こえてしまう。
それからキム・フォウリーが新作を出した(ちなみにウォーレン・ジヴォンはファースト・アルバムを、キム・フォウリーに捧げている)。
クラフトワークの新作発売にもあきれたが、こちらはもう一体何をしていたんだかというくらい、最近の動向を知らなかったので、驚きのまま買ってしまった。
数年前からグラスゴーに住んでいるのだそうだ。
美人秘書ならぬ、花嫁募集中だとのこと。
「俺がまだ君の世界を揺らすことができるうちに俺を見つけてくれ」とか何とかという、ロックンロールなコメントが載っていた。
今、もう60代半ばかと思うけど。
しかしこのアルバムはなかなか聴かせる。
何とかというグラスゴーのミュージシャンと二人で作ったものだが、その二人が、もはやこの世にいないあの人やこの人と共演しているような、彼岸のロックンロール。
あと、Nappy Roots の新作。
3曲目の「Nappy Roots Day」で使われたビー・ジーズの「ホリデイ」のメロディを聴き、小学時代を思い出し、変な気分になる。
ケンタッキー辺りでビー・ジーズを聴く黒人たちというシチュエーションはどうにも想像がつかないが、彼らのアルバムを聴くと何となく納得がいく。
これまた彼岸のヒップホップと言うべきか。
いや、それはまあ、こちらの憂鬱な気分の妄想だろう。
というわけで、ぼちぼち活動再開、の予定。
とりあえず、9月24日に、単行本版「恐怖の映画史」発売記念、トークイヴェントが、青山ブックセンター本店にて。
当日は、「恐怖のリミックス パート2」となる予定。