
2003年 boid日記 6月
Text by 樋口泰人
6月30日(月)
週末はほとんど眠るまもなく働いていて、さすがにもういい歳なので、疲れが尾を引く。
フラフラのまま、久々の『ドッペルゲンガー』。
イマジカで見た時に比べ、音楽の音量が小さいような気がする。
あの時の、強い印象が増幅されて、私の中で勝手に音を作っていたのかもしれない。
初めて見た人は音のうるささに驚いているらしいから、やはりそれなりのボリュームでなっているのだろう。
人間の記憶、慣れ、は本当に恐ろしい。
物語の方も、さすがに2度目だと突然の展開、突飛な出来事も、とりあえず普通に見ていられる。
また、まとめ作業の終わった『恐怖の映画史』その他のこのところの黒沢さんの発言と重なる部分もあり、すっかり説得させられる。
黒沢版『ターミネーター3』を妄想。
ただ一方で、登場するドッペルゲンガーが、オリジナルと何ら変わるところのない性格で、二人いることに何の意味もない物語、というのも妄想。
まあ、これでは映画にならないか。
その後、いよいよ本日から始まる「アメリカ映画講座」。
第1回は稲川さんの「ロバート・アルドリッチ講義」である。
講座前の雑談中、安井君に、最近の日記の文体に、『恐怖の映画史』の黒沢・篠崎文体が乗り移っていると指摘される。
確かに。
私の場合、簡単に乗り移られるのである。
慌ただしい中で書いていたから特にはっきりと出てしまったのかもしれない。
『恐怖の映画史』の単行本版は7月10日発売である。
稲川さんの講義は、時間がかなり足りなくなってしまったのが惜しまれる。
『燃える戦場』のジャングルとイギリス軍陣地の間にぽっかりと空いた草原、空間に、映画の魂が宿っていることがよく分かった。
遺作となった『カリフォルニア・ドールズ』まで、それは確実に引き継がれていたことも。
6月24日(火)
このところの睡眠不足のため、一気に寝坊して、大幅に予定が狂う。
こんな日もある。
とはいえ、『ターミネーター3』。
監督は『ブレーキ・ダウン』や『U-571』のジョナサン・モストウで、キャメロンはノータッチ。
ゲイル・アン・ハードの名前は複数の製作総指揮者の中にあるが、果たしてどのような役割だったのか。
まあいずれにしても、10年以上が過ぎてしまったわけだから、もはや同じようには作れない。
ジョン・コナー少年の10年後の物語である。
そして予告編でもおなじみのターミネーターX、女ターミネーターの登場。
これがまた強い。
登場してから20分くらいは、もう、このターミネーターXがいかにむちゃくちゃ強いか、ということを見せるだけに費やされる。
これが本当にあきれるくらい滅茶苦茶やる。
これじゃあ、助けに来たシュワルツェネッガーがいくら頑張ったってどうにもかなわない、ということが誰にも納得できたところで、シュワルツェネッガーとコナーはなんとかターミネーターXを振り切って逃げるのだが、その後の展開は、例えばゲイル・アン・ハードならおそらく、そのどうにもかなわない相手をどうやって倒し、その間に何が変わるかを、様々なエピソードを積み重ねながら見せていくはずなのだが、ここではそうはならない。
いや、そうはしない。
もうこれだけ強いのが相手なんだから、「勝つ」なんてあり得ない、というようなところからこの映画は作られている。
いや、様々な可能性のうちの一つをつかみ取るのではなく、目の前に引かれた一本の道を強く歩むことでしか、その他の可能性は生まれない、というところか。
とにかく、運命論と実践論とがごちゃ混ぜになって語られていくところが何とも居心地が悪い。
この手のことを語らせたら、やはり日本のアニメにはかなわないのではないだろうか。
それはともかく、あちこちやられてガタガタになったシュワルツェネッガーがよたよたと歩く後ろ姿がどこかしらフランケンシュタインにも重なる感じはなかなか良い。
しかし、あのターミネーターXが乗ったクレーン車がCGだというからあきれる。
スタッフもその苦労を語ったりしているが、CGがリアルな重さを獲得したと言えばいいだろうか。
CGを使ったトレーラーのアクションということで『マトリックス リローデッド』と比べると、こちらの重さは相当なもの。
この重さとともに『ツイスター』をリメイクしたらどうなるだろう。
音も、本当にそうかは謎だが、一番凄いところでは1000以上ものトラックを使って作ったと語っているように、DVD出た時にヘッドホン・ボリューム全開で聞いたらどうなるだろうと思わせるようなものではあった。
その詰め込み具合が、もはや変えられぬ運命を予感させてはいたと思う。
だがまあ、それ以上のものではなかった。
夜は、篠崎新作のビデオ取り込み。
主演ココリコ田中、りょうが演ずる恋人たちのシーン。
二人とも、非常に落ち着いている。
腰が据わっているというか。
まあ、田中氏の場合は、劇中のキャラがフワフワした人なので、そのフワフワのまま、周囲の空気になじんでいるというところ。
あとは、光の加減の見極めで、かなりいい感じになるのではないか。
6月23(月)
いよいよ篠崎組編集機材のセッティングも終わり、後は撮影ビデオの到着を待つばかり(今回は、24Pハイビジョンでの撮影で、最終的にフィルム変換する)。
一昨日、篠崎から電話があり、撮影は順調とのこと。
インまでは相当苦労したみたいだから、その分、撮影は気合いのノリが違うのかもしれない。
金曜日は私も、ハル・ベリーで気合いを入れに『X-men2』。
これには、『ファム・ファタール』の主演女優も出演しているのだ。
資料によると1作目にも出ているということなのだが、さすがの私もあのタイプの女優が出ていたら絶対に覚えているはずで、よほど小さい役だったのかと思っていたら、悪役ミュータントの秘書であった。
でも、全身を青緑色の人工皮膚で覆い、しかも誰にでも変身できるカメレオン・ウーマン。
これでは覚えているはずがない。
まあそれはそれ、前回は登場人物のキャラの紹介やミュータント同士の内紛といった、まあそれなりに狭い世界の物語だったので落ち着いて見ることができたのだが、今回は、人間とミュータントとの戦いというふうに物語が広げられているので、いろんなミュータントを登場させなければならないし、アメリカを取り巻く社会情勢も考えねばならないし、地球規模の戦いであることをどこかで見せなくてはならないしで、なんというか「ご苦労様」、という感じ。
衛星放送では『スターウォーズ』の最初の3部作をやっていたが、公開当時は、場所が宇宙になっただけで新しくも何ともないアクションなどとも言われて、大人の映画ファンには不評を買っていたこのシリーズだが、このところのCGアクション映画の数々を見慣れた目には、それでもたいそう立派な古典的映画に見える。
こちらもまた、世界設定はやたらと広がってしまって収拾を付けるのに大変そうだが、それでも、広げるところと狭めるところのバランスは失われていない。
それなりにアダルトな映画に見えてしまうのだ。
『ロード・オブ・ザ・リング』も『X-men』も『マトリックス』も、2作目はどれもそういったアダルトなバランスが、全く壊れてしまった感じがする。
これらは、単にそれらがそうだ、というだけのことなのか、あるいは何かの表れなのか。
本日は『H story』に行く予定が、諸事情で行けず、『8 Mile』。
これを観るなら渋谷で、と言われていたのだが、さすがにその体力なく、近場の新宿でお茶を濁す。
キム・ベイシンガーがエミネムのお母さんをやっているではないか!
すっかり貫禄もつき、大変よろしい。
監督のカーティス・ハンソンとは、もしかしてすっかりいい感じになっているのだろうか。
しかもベイシンガー母さんが見ているテレビ映画は『悲しみは空の彼方に』。
後にラスヴェガスかどこかのショー・ダンサーになる黒人メイドの娘がまだ小さい頃のエピソードをやっていた。
あちらが白人社会の中の黒人の物語だとすれば、こちらは黒人社会の中の白人の物語であり、ダグラス・サークによって監督されたそれから約半世紀が過ぎたその間の歴史が、作者たちにはっきりと意識されているのだろう。
エミネムがその母にプレゼントされた車の中で、友人とラップし始める時のバックに流れていたのはレイナード・スキナードの「スウィートホーム・アラバマ」だった。
ニール・ヤングの「サザンマン」へのアンサー・ソングであるこれが選らばれたのは、偶然ではないはずだ。
ディアンジェロやXibitなども出演(Dr.Dreは出ていなかった、多分)。
エミネムに徹底的に馬鹿にされるXibitはなかなかよかった。
ただそれ以上に、車体プレス工場(さすがデトロイト)で働く、エミネムのシーンがよかった。
まだはっきりとした形を持たない金属の塊が、ゴツイ機械にプレスされて一つの形を持つ。
その時の力と埃と汗と動きが、ただひたすら轟音となってエミネムの周りを取り巻いている。
そしてそのプレスされた車体がガシガシと組み合わさって一つの車を作っていくような、編集。
ビデオ育ちの監督には絶対出来ないはずの、空間がプレスされ2次元になった物体同士がつなぎ合わされる時の軋みが聞こえてくる、そんなゴツイ編集を久々に見た気がした。
それは、ベイシンガー母さんとのトレーラーハウスの中のシーンでも同じである。
その、ある形を持ってしまったもの同士がぶつかり合う編集が、最後のラップのバトル・シーンに繋がるわけだから、それはそれなりに盛り上がったりもする。
だけどみんなこんなにマッチョで大変だなあと、思う。
これはデトロイト時代のエミネムの物語で、あの独特の粘り着くようなうねる歌唱法を開発する前だから、これでいいのかもしれないけど。
あと、『悲しみは空の彼方に』をあそこまで見せた以上、最後はベイシンガー母さんの葬式にエミネムの歌が流れるのかと思っていたら、さすがにそうはならなかった。
まあ、一応実話だしね。
などなど、脚本にはあれこれ不満はあるが、それなりに堪能。
カーティス・ハンソン監督には、今度はベンシンガー主演の映画を撮っていただきたいと、切に思う。
6月18日(水)
しかし凄い湿気である。
あまりなことに、日記には記さなかったが、やはりこの湿気には参る。
中原君は本日だか明日だったかからロサンゼルスということらしいが、この湿気から逃れられるだけでもうらやましい。
とはいえアル・クーパー。
ジョン・シングルトンの「ワイルド・スピード2」の試写に行くつもりだったのだが、青山からの誘いで予定変更。
というか、以前、行く約束をしていたのに、私が忘れていたのであった。
代々木公園内にあるSHIBUYA-AXというホールは、オールスタンディングで1000人くらいはいるのだろうか。
クアトロより少し大きめのホール。
登場したアル・クーパーはしっかり太って貫禄十分。
サングラスのせいなのか、ロイ・オービソンのようにもポール・ウィリアムス(「ファントム・オブ・パラダイス」)のようにも、ディランのようにも見える。
やってきた音楽と同様、自在な顔。
太ったミイラのようでもある。
上半身はほとんどまっすぐなまま、肘から先だけが動く。
活動範囲は極端に狭いのだが、何だかやたらと大胆な動きに見えるのは何故か。
もしかして半分惚けてしまっているのではないかとか、声が出なかったらどうしようとか、最初はそんな心配もしたのだが、それはまったくの杞憂に終わる。
何とも立派なエンターテイナーであった。
暴れるところは暴れる、引くところは引く、客席に降りもする、「ジョリー」では見事に観客をあおる、最後にはしっかり椅子も蹴倒してジャンプしながらピアノを弾く、という具合。
もちろん、バンドの全員、演奏も極上で、昨日のデ・パルマの大混乱ぶりとは大違い。
それはそれで見事なものであった。
確か前にもこの日記で書いたかと思うのだが、拉致されていた蓮池さんが故郷に戻ってきた時、旧友がブラッド・スウェット・アンド・ティアーズのアルバムを持って蓮池さんを訪ね、二人で再開を祝ったというニュースをやっていたのだが、果たして蓮池さんは、このライヴに来ていただろうか。
観客のおじさん率は相当高く、多分私が平均年齢くらいだったのではと思われたから、来ていても目立たなかったかもしれないな。
その後、青山と食事しながら、諸々の愚痴やら何やら、あれこれ。
これからの展開で、なかなかよろしき話もあり。
実現するといいのだが。
あとは私の金運問題で、常識では考えられない私のわがままなお願いに応えてくれた青山夫人に感謝。
6月17日(火)
ようやく『恐怖の映画史』単行本版の仕上げが終わる。
単行本の仕上げは本当に大変だ。
なんてことはまあ、青土社の宮田君におんぶにだっこの私がいうことでもないのだが、おんぶにだっこされていてもこれだけ大変なんだから、フリー編集者の人々は一体どうやって暮らしているのか、想像を絶する。
まあ多分、フリー編集者として生きていくのだという覚悟の問題でもあるのだが。
私にはとうていその覚悟はない、ということを、本を作るたびに思い知らされる。
風邪は一旦快方に向かったものの週末のガタガタでまたもや酷くなり、何ともやりきれない。
本日は昼から『チャーリーズ・エンジェル フルスロットル』で気合いを入れる。
会場の朝日ホールに行くと、中原君、柳下君がいる。
「いや、風邪が酷くて」とか言うと、「そんなときに何でまたこんな映画を見るのだ」と突っ込まれる。
まあ、確かに。
会場は、思いの外空いている。
半分ちょっとの入りではなかったか。
しょうもないお遊び映画、というような認識なのだろうか。
今回は、それなりの金とコンピュータ技術を注ぎ込んで作った60年代のB級作品、とも言えるものになっていた。
ロジャー・コーマン製作のバイクもの的な部分や、怪奇映画みたいなテイストが突然現れたり。
物語を語る、という感じではまるでなかったのだけど。
もうちょっとうまくやれば、『ビルとテッドの大冒険』から『ビルとテッドの地獄旅行』への転換のようなものが見られたはずなのだが。
その後、鼻水が苦しく帰ろうかなと思ってもいたのだが、とにかくデ・パルマの新作がおかしな事になっている、という中原・柳下両名の意見に従って、『ファム・ファタール』試写に。
確かにこれは相当なことになっている。
『チャーリーズ・エンジェル』の後で見ると、細部は紛れもない「映画」として十分に成立しているのだが、全体のデッサンが狂っている。
冒頭の「ボレロ」が流れる数分間も、これまでならもちろん1カットの長回しでやるところ、もはやCGでいくらでも長回し風の見せかけは作れるハリウッドでそんなことをしてもしょうがないと思ったのかどうか、デ・パルマは何度かカットを割っている。
だが、割ったことで、逆に奇妙な持続感が、そこに発生しているのだ。
何かをやめることで何かが生まれ、何かをやることで何かが消えていく、そのバランスが絶妙に狂っている。
これは多分私だけなのだろうが、主人公の女の顔が、どんどん変わっていって、それまでこの映画の中に登場した女性の誰にでも見えてくるのである。
本当に何が何だか分からなくなってしまった。
私好みの唇の厚い、アンジェリーナ・ジョリー系の女優だったのだが。
おまけに、何とも大胆な、あきれるようなオチ。
多分これをそこらの新人がやったり、ソコソコのベテランがやったら、本当にしょうもないオチとして笑われていただろうが、デ・パルマは、それを爆笑に転ずる。
いや、爆笑したのは、私だけだったのかもしれないが。
この映画の撮影は、2年前のカンヌでも行われていた模様で、確かに当時、デ・パルマはカンヌにいて、その時フランスの若手監督たちに会場で批判され、それを蓮實さんがいかに擁護したか、というエピソードを、『恐怖の映画史』の中で黒沢さんが語っているのだが、その時集っていたフランスの若手監督たちがどれだけ集まっても、このようなあっけらかんとした大胆なオチを撮ることは出来ないだろう。
まあ、そんなことしてどうする、という言い分も確かにあるとは思うが。
だが、それをやることが出来るのが、アメリカ映画なのだ。
そのオチや最後の展開を語ると、この映画の場合は確かにまずいだろうからここでは触れないが、最後串刺しするかどうかは、分かっていても本当にドキドキした。
そんなわけで性悪女の魔力にすっかり参ってしまった私は、その後会った人々に、やたらと興奮して、「いやホントに凄いんだ」と語りまくってしまう。
ほとんど訳の分からぬまま、そのビッチな性悪女がいかにいいか、というようなことばかりを口走っていたように思うが、多分それはこちらの思いこみもたぶんに含みつつ言わせてもらえば、『ミッション・トゥ・マーズ』で、あまりのCGの多用にほとんどやることもなく呆然としていたはずのデ・パルマが、これまで自分の関わってきた「映画」の終わりをヴィヴィッドに感じつつ、しかし、その終わりゆく「映画」を生真面目に作り直そうとするのではなく、生真面目は多分生真面目なのだろうが、それ以上に、それでも「映画」はこれくらいでOKというような、ある種のいい加減さとしょうもなさとともにビッチな映画を作ってしまった、というようなことに、感情移入してしまったのだと思う。
うーん、年甲斐もなく、しょうがないなあ、と、反省。
そうそう、先日、『エヴァとステファンとすてきな家族』という映画を見たのだが、これが、本当にごく普通に作られている映画で、何とも清々しかった。
映画自体の完成度、衝撃度、などなど、諸々の問題はあるのだが、何というか、育ちのよい人がごく当たり前に映画を撮ってしまった、というような爽やかな距離感があった。
もちろんそのためには、普通ならざる力業が必要になる
多用されるズームやカメラの激しい動きについて、監督自身はカサヴェテスの名前を挙げているのだが、私としては、嘘でもいいから「アルトマン」と言ってほしかったなあとは思った。
この監督はスウェーデンの人なのだが、今の若手のアメリカ映画の監督たちで、一体誰が一番最初にアルトマンを導入するか、私は密かに期待している。
6月10日(火)
相変わらず怒濤の日々が続く。
もうちょっと楽になるはずだったのだが、甘かった。
おまけに、パソコンのフォントが壊れ、昨日は終日メンテナンス。
しかも私の風邪が酷くなり、途中でダウンして、メンテナンス未完のまま、もう面倒なので、なんとか動くからいいやと、それ以上の作業を放棄する。
おかげで、使い出してしばらくすると、すぐに「メモリ不足」のお知らせはでるは、動きは怪しくなるは。
でももう、直す気力も体力もない。
試合続行中のスポーツ選手みたいなものかなあと、オーバーなことを考える。
本日は、朝から、篠崎組のクランクイン前の集まりがあったのだが、風邪と『恐怖の映画史』単行本版の仕上げ作業のあれこれで、出席できず。
明日までに篠崎の直しが入らないとまずいことが判明しているのだが、篠崎は12日からクランクイン。
端から見ているだけでももうすっかり大変そうで、さすがに「明日までにやらないと、そのまま出す」とも言えない。
とにかくその他の作業を進めておくしかないのがつらいところ。
昼過ぎに電話のあった長嶌も、何だかむちゃくちゃな仕事態勢のようだ。
現在は、ランブルフィッシュ製作のホラーのシリーズ番組(36話分と言っていたように思う)の音楽を作っているのだとか。
万田さん、その他が監督をしているらしい。
夕方から、この日見なければ原稿がかなり危なくなるので、無理矢理『アダプテーション』へ。
昨夜もほとんど寝ていないので、眠ってしまわなければいいがと思っていたのだが、風邪と疲れでテンションが上がっているのと昼食抜きだったので腹減りでもあり、まあそうなるとそれなりに頭が冴える。
まるで、こんな映画を作りたいんですよお、面白いでしょう、というよくできたプレゼンテーションを見ているような感じのまま2時間が過ぎる。
『パンチドランク・ラヴ』とよく似た部分もあり、同じアメリカのスタジオ外の人々ということもあってつい比べてもしまうのだが、『パンチドランク・ラヴ』の詰め込み具合とは全然違う手際の良さで、お話がトントンと展開する。
シニカルとしか言いようのないそこでの笑いやさめた視線にあきれると同時に、彼らもまあ、何とか売れるものを作ろうとして必死なのかもしれないと、変な近しさも覚える。
まあそれも、この物語に含まれた罠なのだが。
いずれにしても、アメリカ人がアメリカで撮って、フロリダの沼や湿気があり、いかにもというようなバーバンク・サウンドがそこに流れていても、だからといってそれが「アメリカ映画」になるとは限らない、という見本のような映画だった。
本来なら、その後、諸々の愚痴やら何やらを言いつつ青山と食事の予定だったのだが、とにかくこの体調ではどうにもならず。
連絡もしないでパス。
いやはや、何だか昨日から、あらゆる事から逃げている気がする。
6月5日(木)
火、水と自宅作業が続き、外に出ていなかった。
さすがに腰が重い。
本日は昼から、水戸映画祭の伊藤君と会う。
見た目はパンクな兄ちゃんという感じの伊藤君だが、一人でNPOを立ち上げ映画祭を運営しているしっかり者である。
ただ、無理がたたってかメニエル病になり、先週まで倒れていたのだという。
目眩、耳鳴りとなると私も負けてはいないので、変な方向に話がずれていく。
でもまあ、懸案事項の話も多少進む。
DVDレーベルを作る企画。
この際だから、レーベル名は「DAZE」にしようかと思う。
目眩チームのレーベルということで。
昔のマーキュリーみたいなレーベルロゴだったら、それなりに説得力があるのではないか。
その後、アルゴピクチャーズに向かい、篠崎の新作映画の編集の件で打ち合わせ。
東京に住んでもう20年以上が経つが赤坂という町はほぼ全く縁がない。
何度歩いても、どこを歩いているかわからなくなる。
目眩は更に増す。
それに今回は、24PハイヴィジョンをDVでオフライン編集するので、その辺りの技術的なやりとりもかなり不安。
テクノロジーの進化は、わからぬものにとっては泥沼である。
このところ、ビデオ編集に関するデジタル・テクノロジーの最先端に触れつつ、一方で、『恐怖の映画史』単行本版作製のための青土社との極めてローテクなやりとりとで、心身共に完全に引き裂かれている。
まあ、私の場合、簡単に引き裂かれてしまうのだが。
この落差の大きさに、船酔い状態の日々が続いている。
気分直しに、中原君からずっと進められていた『ジェイソンX』を見る。
まあさすがにあちこちもたもたしているが、なかなかいい。
最強の殺人鬼ですな、ジェイソン。
最初から、「串刺し」のオンパレードで、台詞の中にも「串刺し」が出てきて、『恐怖の映画史』作成中の身としては大いに楽しませてもらった。
『エイリアン』でいうと、シガニー・ウィーヴァーの役割の女性主人公、多分私の好みの顔つきなのだが、全編が薄暗い中で進行するので、結局見極めがつかなかった。
違う映画に出演しても、見分けがつかないかもしれないなあ。
6月2日(月)
昨日のヤゴの続き。
一緒に水槽に入れていたザリガニと川エビを別々の入れ物に移した。
朝見てみると、ザリガニの入れ物の中にまだヤゴの死骸が入っている。
どうして取り出さないのかと子供に尋ねると、「だってザリガニの餌になるじゃん。捨てちゃうよりいいでしょ」というクールな答え。
このクールさに、時々頭がクラクラするのだ。
夕方、『秋聲旅日記』のチラシの打ち合わせのため、デザイナーの事務所があるマンション前で、ユーロスペースの堀越さんと待ち合わせ。
しかし堀越さんが現れない。
堀越さんは初めてなので、大体の場所を教えておいたのだが、どこかで勘違いが起こったのかもしれない。
携帯に堀越さんから電話。
どうやら側にいるらしいのだが。
そこから見える物件を確認し合うと、確かに側にいる。
でも姿は見えず。
「嘘ついてるんじゃないか」と堀越さん。
でも同じものを見ているのだ。
しかし本人の姿だけが見えない。
もしかして違う場所にいるのではなく、違う時間にいるのではないかと、本気で心配になる。
しかしまあそんなはずはない。
何のことはない、同じ物件を挟んで向こうとこちらの角にいただけのことだった。
渋谷では時々こういうことが起こる。
ちょっと前、同じデザイナーの事務所に行こうとした時、気がつくとユーロスペースの前に立っていたのだった。
まあ、どうでもいいことだが。
帰宅すると青山から電話。
クランクアップのお知らせかと思ったら、取り残しの撮影で、再び富士山にいるとのこと。
まあそれも明日で終わり。
主演の一人、薬師丸ひろ子はかなりいいとのこと。
我が家では一体どうして今更薬師丸ひろ子なんだと常に話題になっていたのだが、そのことを伝えると、「いや絶対にいい」との答え。
こればかりは観てみなくては何とも言えないのだが、それなりの感触を得た模様。
しかしそれを妻に話すと、「青山さん、情にほだされやすいからなあ」というクールな答え。
私はおろおろするばかりである。
6月1日(日)
運動会である。
昨日の雨で、ダメな親としてはこのまま延期になってくれたらラクでいいのだがと思いつつ、子供の様子を見ていると、そうも言っていられない。
引き裂かれる思いで朝を迎える。
例によって体調悪し。
気分が悪くて眠れず、仕方なく子供と一緒に起きてしまう。
空模様も微妙。
とりあえず雨も降っていないし、「延期」という連絡もないので、子供は運動会の支度をして学校へ。
親たちは、開会時刻に合わせて出かける分けなのだが、外に出ると雨が降り始めている。
学校に着いた頃には結構な降りになっていて、開会が遅れ、結局、午前中は中止。
雨の上がる午後を待って、短縮ヴァージョンを行うことになる。
うーん、見学は午前中で切り上げて、午後は仕事、という予定だったのだが……。
まあとにかく、そこにいても仕方ないので一旦帰宅。
昨日帰国した黒沢さんに電話を掛け、報告を聞く。
黒沢さんは、それなりの感触を得て帰ってきた模様。
梅本さんからもメールがあって、どうやらあれこれ批判しているのは、「映画」に対し、ある種の固定したヴィジョンを持っている人たちらしい。
『アカルイミライ』は、それらの人を、かなり刺激してしまったということなのだが、黒沢さんの報告によっても、おおよそそのようなことが明らかになる。
イタリアの若者向けのメディアには、かなり熱狂的な指示を受けたとか。
短縮ヴァージョンによって、『アカルイミライ』の持っていた「新しさ」が、はっきり出てしまったのだろう。
多分それは、『マイノリティ・リポート』について朝日新聞に掲載された黒沢さんの文章にあるような、スピルバーグの現在のわかりにくさと同じような、わかりやすいわかりにくさとして、ヨーロッパの人に伝わったに違いない。
いずれにしても『アカルイミライ』は、「映画」の形式を巡るある種の闘争に捧げられた、ということになるのかもしれない。
昼前に、再び学校へ。
お弁当を食し、2時間に短縮された運動会。
毎年思うのだが、小学校の運動会は、親子競技もないし、親同士の変な関係性も発生しないし、何となくただダラダラと見物しているだけでいいので、これはこれで非常にラクだ。
延期を願ったり引き裂かれたりすることは実はまるでないのである。
子ども達の走り回る姿を見ているのは、何となく楽しい。
次第に「個」から「種」へとシフトしていくドライヴ感が、ある種の感慨を呼ぶ。
とはいえ、短時間だが地面に敷いたシートの上に直座りをしていたためだろう、せっかく治った腰が重い。
この重さは、やはり「個」の重さである。
そういえば、先日子供が川からヤゴやら川エビやらザリガニの子供などをとってきて、水槽に入れて飼っていたのだが、もうすぐトンボへ脱皮しようとしていたヤゴが、少し大きくなってきたザリガニの子供に食われてしまった。
水槽には、真っ二つに割られたヤゴの身体が沈んでいる。
「種」として生きるのは、それはそれで大変なのである。