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2003年 boid日記 5月

Text by 樋口泰人

5月29日(木)

ついに睡眠サイクルの乱れが一回転して早寝早起き状態となった。
早朝に目覚め、仕方がないので朝のニュースを見ていると、電通で新システムを導入し、社員の残業が減ったというリポートをやっている。
新社屋の入り口に電車の自動改札のような装置を付けて、写真の出社と帰宅時間を管理し始めたのだそうだ。
まあ、そのリポート自体は、「そうですかあ」というくらいのものだったのだが、朝の7時代から出社してくる人のちらほら姿が映っていて、リポーターも、「そろそろ出社する人も増えてきています」とか言っている。
まあ、仕事柄、やたら夜遅い人や朝早い人もいるんだろうなあと納得し、一体どんな人がこんな朝から仕事をしようとしているのかと見ていたら、何と、同じ人が2度、3度、その改札を通るのである。
何のことはない、NHKのやらせなのであった。
多分、「朝のニュースのリポートなんだし、出社する人が映っていなかったら絵にならないんじゃないか」、とか何とか、おそらくそんな理由で、電通の社員を何人か早朝出社させたのだろう。
でもねえ、やるなら、ばれないようにしてくれなくちゃ。
同じ人が2度通ったら、注意して見てればそりゃ分かるよ。
でもまあ、NHKの7時のニュースでこれだから、他ではどれだけこういったことがやられているんだか分かったものじゃない。
これでまた、NHKの受信料を支払わない言い訳が出来たなあと、ついそんなことを考える私もせこいなあと、苦笑。 夕方、安井君から電話。
カンヌにおける『アカルイミライ』の極端な受け取られ方についてあれこれ。
一体あの映画のどこが、フランスやヨーロッパの映画関係者を刺激してしまったのか、どうもよく分からない。
とにかく、梅本さんに、リベラシオンを始め、この間に出た『アカルイミライ』評のいくつかを翻訳してもらわなくては。
それと同時に、これまでの黒沢映画の受け取られ方についても、再確認しなくてはならない。
とにかく、海外向けに20分ほど短くしてしまったから伝わるものが伝わらなかった、というような状態ではないことは確かだから。
『大いなる幻影』が、日本でも黒沢ファンの何割かの人に不評だったのと同じような理由なら、まあ、分かりやすいんだけど、というような話をグズグズと。
あとは、最近のスピルバーグのペラペラな感じと、それを何とも思っていないような映画作りについて。
その電話終了後、『映画はおそろしい』に載っている「人間なんかこわくない」という書き下ろしの文章を読む。
と、これからは堂々とペラペラな人間描写をするのだ、宣言がされている。
この文章の「私」を「スピルバーグ」と置き換えれば、そのまま最近のスピルバーグ映画評になるから笑ってしまう。
そういえば、『マイノリティ・リポート』について書かれた、朝日新聞に掲載された文章では、その文章の中の「スピルバーグ」を「私」つまり「黒沢清」に変えるとそのまま、黒沢清論にもなるのだ。
確か、トビー・フーパーについて書かれた文章の「フーパー」を「黒沢清」に変えるとやはり黒沢清論になると篠崎が言っていたが、黒沢さんの、この、変換可能な主語の問題は、笑い話以上に本質的なことなのかもしれないと、ふと思う。
つまり、それが「ペラペラ」ということなのだが。
ヨーロッパの人にはその「ペラペラ」が受け入れられなかったということなのか……。

5月26日(月)

このところ、1日が16~18時間単位で回っていて、どうにも具合がよろしくない。
活動時間と睡眠時間とが短時間で入れ替わるから、要するに1日中眠いのである。
おまけに、耳鳴りの方も相変わらず爆発の予兆だけが延々と続いている。
この季節は耐えるしかない。
本日も、夕方、どうにも眠気に耐えられなくなって布団に入り、眠りに落ちそうになったときに青山からの電話。
現在青山は、今月初めから富士山麓で新作の撮影中なのだが、どうやら突然撮影時間に空きが出てしまい、退屈しのぎに電話をしてきたのである。
撮影は順調そう。
雨が多くそれなりに大変ではあるが、現在のところ、うまいこといっているとのこと。
富士山でのロケもあと2,3日、撮影全体も来週には終わるというスケジュールの、いよいよ終わりが見えてきた辺りで、さすがに都会が恋しくなってきたらしい。
そういうときに大きなミスをするものだから注意するようにと、激励なのか、脅しなのか分からぬことを言い、電話を切る。
この電話でとりあえず覚醒状態に入ったので、仕事の続き。
青土社の「ユリイカ」が7月発売号で黒沢清特集をするので、その原稿のために、今、あれこれのビデオを見直しているのだ。
いつものことであるが、いろんなことを忘れていてあきれる。
ビデオ発売の際に再編集でもしたのではないか、とさえ思えるシーンも散見する。
しかし、今更ながら驚くのは『CURE』のA級ぶり。
『アカルイミライ』との類似も目につき、カンヌの人々はこちらを期待していたのだろうなあと、ぼんやりと思いつつ、気がつくと夢見心地である。

5月21日(水)

昨夜から耳鳴りの予兆が出始めて、本日は終日船酔い状態。
ヨロヨロしながら、アレックス・コックスの新作『リベンジャーズ・トラジディ』に行ったのだが、これまた何とも船酔いするような映画であった。
最初の5分で、見る意欲をなくす。
こちらの体調の問題もあるのだが……。
音楽は甘っちょろいし、テレビモニタの使い方とかデレク・ジャーマンみたいだし、登場人物たちは80年代の情けないパンクだし、これって一体……。

カンヌのサイトに載っていた『アカルイミライ』の記者会見の模様を見た。
『うなぎ』からの影響を見ることができる、というような質問があった。
日本で見ていると、「黒沢清」という作家の映画として、その流れだけをつい追ってしまいがちなのだが、海外から見ると、やはり「日本映画」という大きな括りの中の1本に過ぎないということがよく分かり、面白かった。
そうそう、海外配給用に20分ほど短くなった『アカルイミライ』は、かなり印象が変わっているようだ。
ちょうど、『恐怖の映画史』単行本版のために黒沢さんの発言を整理しているところなのだが、その中に、編集を進めていく中でだんだん短くしたくなってきて、斬った挙げ句ほとんど訳の分からぬものとなってしまう、というような発言があった。
短縮版『アカルイミライ』もまた、黒沢清の欲望の残骸だけが残った映画になっているのかもしれない。

5月20日(火)

何かすっかり梅雨の気配で身体が重くて仕方がない。
あれやこれやの試写にもすっかり行き損ね、チラシ製作のため、青山の短編「秋聲旅日記」を見る。
編集作業を通して見てきたのだが、完成版はこれが初めて。
何とも寄る辺ない場所におぼつかなく生きる主人公たちのたたずまいが何とも言えず、良い。
ある意味で、『エイジ・オブ・イノセンス』を超えている。
編集過程では、もうちょっと鈴木清順の大正ロマンみたいな感じにも思えたのだが、全然違った。
音楽の力による部分も大きい。
その後、中野のタコシェに納品に。
80年代はよく行った中野ブロードウェイの2階、3階だが、もう10年くらい行っていない。
とにかく久々に訪れたそこは、めくるめく世界であった。
ジャンルは違うが、秋葉原、アメ横的ゴチャゴチャ感。
あきれつつきょろきょろしつつ、タコシェのならびの中古屋で、つい、エリオット・マーフィの旧譜などを買ってしまう。
気持ち的には、納品した分がすでに売れたものと見なされている。
ついでなので、夕方から組まれている『エデンより彼方に』の試写に。
すでにあれこれ雑誌にもレビューが出ていて、見る前から、ダグラス・サークがインプットされていて、これが失敗の原因か。
映画が始まってもなかなか乗れない。
確かに色遣いや設定はサーク的なのだが、何かが違う。
20分くらいするとようやく、ジュリアン・ムーア扮するブルジョワ夫人の物語ではなく、その夫であるデニス・クエイドの物語であった、ということが判明して、一安心。
いや、確かにジュリアン・ムーアが主人公に違いないのだが、監督の力の入り具合は明らかに夫の方に傾いている。
『風とともに散る』でいうと、ロバート・スタック主人公、という感じか。
まあ、デニス・クエイド・ファンの私のうがった見方なのかもしれないが。
だが、どう見ても、ジュリアン・ムーアの方は、ドラマにはなっておらず、エピソードのつながりだけ。
サークの名を出すのも恥ずかしいくらいの出来ではないか。
同じ、ジュリアン・ムーアなら、『めぐりあう時間たち』の方が私はいいと思うけど。
とにかく、あまりに複雑な影を帯びるデニス・クエイドのパートと、なんだかおざなりな悲劇を演じるジュリアン・ムーアのパートとのアンバランスな物語に、最後まで居心地悪く、時をやり過ごす。
私が子供なのかもしれないが、このジュリアン・ムーアのパートは全く納得できないな。
あと、木々の紅葉も室内装飾も車の色もドレスの色も、全然ダメだった。
まあ、こういう事もある。

5月16日(金)

昨夜の『リローデッド』試写の後に食した激辛ラーメン(もうちょっと違うものかと思ってたのんでしまったのだ)のため、胃腸が重い。
じっとしていてもつらいので、ようやく『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』へ。
本日が最終日なのだ。
どこで勘違いしたのか、50年代の物語かと思ったら、60年代の物語だった。
とはいえ、そこかしこに50年代の影を引きずっているようにも見え、そうなるとやはり、ディカプリオでは多少荷が重いのかもしれない。
悪くはない。
悪くはないのだが、ふと、映画のリズムが停滞したときに見せる立ち姿、座り姿が、どうにも素人っぽく見えてしまう。
表情のアップは頼りなくてとてもいいのだが……。
どこかに、若い頃のメル・ギブソンのような俳優はいないのだろうか。
一方物語は、『インヴィテーション』誌の蓮實さんの「時代劇」という指摘にもかかわらず、圧倒的に「現代劇」に見える。
いや、何が「現代劇」か、といわれると説明に困るのだが。
とにかく、未見の『エデンより彼方に』とは、全く違う出発点にたった映画だと思う。
いや、すでに50年代60年代は存在しない現代から、そこをどう見るか、ということでは全く同じだが。
何しろこちらは、父が二人いる。
実の父(クリストファー・ウォーケンがいい)が死んだ後、それまでしつこくディカプリオを追いかけ回していたトム・ハンクスが、代理父となるのである。
なんというか、それまでは先行する映画(実の父)に詰められたコンテンツ(ディカプリオ)のあとからついてきていたビデオ、DVDといったデジタル・メディアが、代理父としてコンテンツを擁護し始めた、という風にも見えるのである。
スピルバーグは光学的な映像から電子映像へと、かなり意識的にシフトチェンジしているのではないかと、まあ、こちらの勝手な思いこみ半分ではあるのだが、そんなことを思った。
その意味での「現代劇」として、60年代を捏造しているのではないか……。

一旦帰宅後、夜9時過ぎからのキャメロンが3Dで撮ったタイタニックのドキュメンタリー『GOSTS OF THE ABYSS』を見に行くつもりだったのだが、さすがに胃腸も重く、身体が動かない。
夕食後、うっかり寝込んでしまい、すでに間に合わず。
代わりに、本日送られてきた dip の新作『Underwater』を聴く。
もう一枚、同じ dip がやった『9 souls』(豊田利晃監督)のサントラも送られてきたが、こちらはまだ。
dip を聴くのは何年ぶりか。
少なくとも、dip になってからは聴いていないと思う。
つまり、90年代を全く知らないのだが、80年代に比べ、だいぶ音が太くなったという印象。
いきなりの太いベース音で始まる1曲目は、例えば、最近はニール・ヤングと一緒にやっているドナルド・ダック・ダンがジェシ・デイヴィスの2枚目のアルバムの1曲目でやったようなベースの厚い音だったら、とか、それぞれの曲のハイファットのエコーがもう少し深ければ、とか、ギターのエッジが立ってないのはどうしてかとか、あれこれ思うことあり。
だが、最後の8曲目で、それらがまとめて炸裂。
長嶌には、「なんだ、あんたがラリーズ好きなだけじゃないか」とか言われてしまいそうで、ちょっと照れる。
でもまあ、8曲目以前の曲も、ヘッドホンが完全にひずむくらいボリュームを上げると、全然違って聞こえるから、発売時には、「ボリューム全開」と注意書きしておくといいかもしれない。
7曲目の「ハーレムノクターン」は、ファントム・サーファーズのアルバムに入っていても不思議ではないようなホラー・テイストになっていて、なかなかいい。
ただ果たしてこういう事って、作っている方の側では、どの程度のボリュームを想定しているのだろうか?
先日買ったdelgadosのアルバムなんかは、ボーカルの音量を普通にするだけで完全にドラムの音がひずむから、それはそういう風に作ってあるのだと、分かりやすいのだけど。
その意味で、日本のバンドはもっと凶暴になってもいいのではないかと思う。
黒沢さんの『風の又三郎』を見習ってほしい。
7月2日発売だということです。
リトルモア・レコードより。

5月15日(木)

諸々をすっかりさぼっていた。
今回がさぼった最長記録かな。
相変わらず体調も悪いのだけど、今回の場合はあれやこれやの仕事が重なり動きが取れなくなっていたというのが本当のところ。

まず忘れぬうちに、お知らせを。
一つは、映画美学校でのアメリカ映画講座。
内容に関しては、こちらを見て欲しい。
「ロスト・イン・アメリカ」に至るまでのアメリカ映画史を、我々なりに捏造しようという試みとなるはずである。
言ってしまえば映画の技術者を養成する学校で、技術的なものとは一切関係のない講座で、しかも、10回25000円という料金でどれだけの人が受講してくれるのか全く見当もつかないが。
もうひとつは、「恐怖の映画史」単行本版。
青土社から6月下旬に発売予定。
これまでの流れでいうと、「恐怖の映画史 パート3」にあたる部分がメインである。
マリオ・バーヴァ、ハマー・フィルムのホラー、ドラキュラやミイラについて、といった話で盛り上がっている。
それに、パート1,パート2を部分的に使って再構成して作った(というか、現在進行形)。
パート1,パート2を買って頂いた方にも十分楽しめて、単行本を初めて買った人はパート1とパート2を読みたくなるような、そんなものにしているつもりだが。
でもさすがに、『マトリックス リローデッド』のようにはうまいことはやれない。
これってホントに、「1」と「3」を見ずにはおれなくなるからねえ。
一体この世界はどうなってるんだか、分かるような、全く分からないような。
その辺りのさじ加減が絶妙で、うまいことごまかしながら、派手なアクションで納得させていくという相変わらずの力業を見せてもらった、という感じかな。
ゲームの中に出てきそうな、自らの世界観をひけらかしまくる小理屈野郎が何人も出てきてうっとうしいが、まあ、そんな字幕はすっ飛ばして見ればなかなか良い。
まあ、「そんな字幕をすっ飛ばして」見ているから、結局その世界がどうなっているのか全く分からなくなってしまうのだが。
でも、中音域の音圧が全くなくてペラペラなのは、ちょっといかがなものか。
音響の意図としては、サラウンドとは反対の方向を目指しているはずで、つまり、音は前からだけ出ていて、その出し入れと奥行きと高低で聞かせる、という具合になっていたと思うけど、それが前方でほどよく分解されながら配置されているだけ、という聞こえ方になってしまっているのだ。
何か、作者の意図とは違う音が出てきているような気がしてならなかった。
しかし、ウォシャウスキー兄弟には是非、CGバリバリの『オーシャンズ11』を撮ってもらいたいものですな。
あとは、今月号の「インヴィテーション」で松浦寿輝さんが書いている『ハンテッド』に関するレビューを読んでから、『リローデッド』の上映に向かうことをお薦めする。
理由は、あまりにあからさまなので、見れば分かるとしか言いようがない。
そうそう、あきれたのは、試写場内の警備体制。
いきなり警備員がずらっと並んでいて荷物チェックとかされてしまった。
ライヴに来たみたいだったのだけど(だったら音響をもっとちゃんとしろ!)、事前に情報が漏れないように、録音したり、録画したり、写真を撮ったりする道具のチェックなのだと。
上映中もかなりの数の警備員が見張ってるんだもの。
もしかして、こういった場所で録音や録画をして、ネット上で流したりすることがはやっていたりする、ということなんだろうか。
プレスシートと一緒に受け取った「おことわり」が書かれた紙には、「著作権の保護」ということしか書かれていなかったのだけど。
白い服ならぬ青い服の集団にドキドキしながら観た『リローデッド』でした。