
2003年 boid日記 3月
Text by 樋口泰人
3月16日(日)
この間死にそうになって働いていたなどと書くと怒られそうなくらい多忙の青山を横目で見ながら、しかしやはりめちゃくちゃ働いていた。
とはいえ私の場合、この先6月までめいっぱいとか、そんなことはないので、一昨日でとりあえず一段落。
この週末は小休止である。
ほとんど何もせず(と言うか何もできず)呆然としていたのだが、見逃していた「ビクーニャ」を見て驚いた。
boid.net上に掲載した青山の書いたアジ文は、形式的には「扇動的な文章」ということになるかもしれないが、しかし、確かに「ビクーニャ」の抱えている可能性は、ああいった書き方をさせてしまうのだ、ということがよく分かった。
まったく新しい映画というよりは、かつてあった新しい映画やあるはずだった新しい映画を思わせるこの映画は、それゆえに、すべての日本映画の可能性の終着点でもあり陥没点でもあるようなものとして、その向こうの暗がりへと、映画を押し出して行くように思える。
今、青山がチョンジュ映画祭用に作っている40分程度の短編「軒下のならずものたち」との2本立てで、どこかで上映(「ビクーニャ」は再上映だが)できると面白いのではないだろうか。
「軒下」には、映画史上かつてない食事シーンがあって、こういった迫力ばかりが映画のすべてではないと思うが、しかし、斎藤陽一郎がカレーを食うだけでこれだけのスペクタクルとなるとは、驚くばかりであった。
編集前の段階では、一体何故このようなショットが必要なのかは全然判らなかったのだが。
ただ笑ってしまったのは、その中に1ヶ所、ソクーロフのようなショットがあって、「ソクーロフだねえ」と笑っていたのだが、長嶌の音がついた瞬間、それが「石井聰亙なショット」に変貌したことだ。
カメラも同じたむらさんだし、このような食事シーンが入った「逆噴射家族」を、思わず妄想してしまった。
それはそれ、「ビクーニャ」の抱えている様々な可能性は、実現されなかった可能性という意味で、個人的に大きなショックを受けた。
それが何かは公にはできないが、取り返しがつかないこと、不可逆な時間の流れの残酷さを強く味わった。
まあ一方で、その残酷さにあえて逆らいたい気もしているのだが。
3月6日(木)
朝10時から、築地のソニー試写室にて、マドンナの主演新作「スウェプト・アウェイ」。
試写で配布するプレスシート作りのための内覧試写で、試写室内には私一人。
気持ちがいいような薄気味悪いような、なんともいえない感じである。
監督はガイ・リッチーで、夫婦共作ということになるのだが、物語は、リナ・ウェルトミュラーの「流されて」のリメイクだから、なんとも微妙な新作ではある。
とはいえ記憶の中では思い切り濃厚なオリジナルとは違い、こちらは、男女の権力闘争のドラマとなっている。
そのあたりは確実にマドンナが主導権を握っているように思えるのだが。
したがって、これは二人の男女の物語であるとともに、どこか二人のマドンナの物語のようにも見える。
つまり、成り上がり以前のマドンナと成り上がり後のマドンナの。
4月発売のマドンナのニューアルバムは「アメリカン・ライフ」というタイトルを持つのだが、二つのアメリカン・ライフが、この映画の中で一人のマドンナの上に重なり合っているような、そんな感じ。
ラヴストーリーとしてはどうにも調子が出ないのは、おそらくそのためだろう。
ラストシーンで、結局男と一緒になれなかったマドンナが、ストーリーの上では極自然に、しかし、現象としてはどうにも無理やりな感じが否めない唐突さでマドンナが涙を流すのだが、これは、男と別れる悲しみではなく、もはや自分が分かれてあることが出来ない、つまり、自分の中に男がすでに重なり合ってしまっていて、眼下で自分を求める男自体を自分がすでに必要としていないことをどこかで知ってしまった悲しみ、というようなもののように思える。
相変わらずマッチョなマドンナの肉体は、「成り上がり後」の肉体から、悲しみを帯びた尊大さ、というような言い方がありとするなら、そのようなレベルへとヴァージョンアップしているように見えた。
上映終了後、プエスシート作りの打ち合わせをして、夕方からの日本映画カタログ入稿作業まで少し時間が出来たので、新宿東映パラスへ。
「ギャング・オブ・ニューヨーク」の前売りを買っていたのに全然見ることが出来ないまま主要映画館での上映が終わり、かろうじて継続していた東映パラスでも明日までとなり、さすがにとにかく見ておかなくてはと、駆けつけたのである。
といっても40分遅れ。
まあ、最初の40分は、次の回に居残って見直せばよい。
だが全然他人事のように見えるのは何故だ。
昨日の「デアデビル」や本日の「スウェプト・アウェイ」のように、画面の中から主人公たち以外のものを徹底して排除した抽象的な空間を作るのとはまるで逆の、主人公たちがいる空間そのものもまた主役であるかのように、そこかしこにいろんなものを配置して、主人公たちが確実にそこに存在していることを丹念に見せていく、そんな作り方がここではなされているはずなのだが、そしてそれこそ映画なのだという確信がそこには息づいているはずなのだが、どうもどちらにしても大して変わらないなあと、思えてしまった。
これは私のほうの問題なのか。
スコセッシの映画でこんなことを思うなんてかつてなかったから、ちょっとさすがに動揺する。
でもラストで、かなり唐突にギャングたちの世界の外側の世界が描写されるにあたり、ああこれではダメだと確信。
「アメリカ」の捉え方が、まるでなっていない。
そんなこといくらやったって、「アメリカ」と「合衆国」は分裂するばかり。
分裂して戦いあって、ノスタルジックな思い出を重ねていくだけ。
U2もロビー・ロバートソンも全部ダメ。
マドンナの涙の足元にも及ばない。
「スウェプト・アウェイ」がそれほどの映画だとは全く思わないが、だが、マドンナの示す「アメリカン・ライフ」を、スコセッシさんも謙虚に見据えるべきだろう。
3月5日(水)
少し時間が空いたので、20世紀フォックス試写室にて「デアデビル」。
「バットマン」や「スパイダーマン」などと同じ、コミックヒーローもの。
だが、この手の映画にしては1時間40分程度と、短い。
物語もあっさりしていて、薄味であった。
多分殆どの背景がCGによる描き込みだと思うのだが、このあっさり感は、物語的なものというより、背景その他のCG処理の要請ではないかとさえ思える。
時間と資本の限界。
多分これは、大作の予算ではなく、「クロウ」あたりと同じくらいなバジェットの作品なのだろう。
だが、ちょっと気になったのは、一応現代のニューヨークを舞台にする物語であるにもかかわらず、登場人物以外の固有名が、きれいに排除されていることだ。
ビルなどの看板もなかったのではないか。
同じような質感の煉瓦造りのビルが並んでいるかと思えば、夜は、窓からもれるライトばかり。
主人公の父親が殺されるスタジアムの一角だけが、かろうじて、現実っぽいつくりになっていたくらいかな。
その意味では、クローネンバーグの「スパイダー」の、人通りのない町並みと同じような薄気味悪さである。
大勢の人間が映っているだけに、余計にその、人工的な空間が気にかかる。
また、「デアデビル」を追いかける新聞記者、というのが登場していて、物語はどちらかというと彼の書いた記事がベースになっているかのような調子で進む。
一方で、所々に入るナレーションは、「デアデビル」本人のものだ。
印象としては、「トゥルーマンショー」のドームの無機質な空間の中に、主人公であるデアデビルと、彼と世界をコントロールするプロデューサーが一緒に入ってしまった、という感じなのである。
同じ場所にいないことによって成り立っていたはずの映画のルールは、ここにはない。
二人の「共同作業」は、続編に持ち越される。
3月4日(火)
今、ユニジャパン(日本映画海外普及協会)が毎年出している、昨年度分の日本映画の年鑑を作っている。
とりあえず海外向けのものなので、全て英語である。
なおかつ1年分の映画のデータ。
最後の詰めで、殆ど昼夜の区別がなくなっているのだが、まあ、それもあと少し。
たださすがに、1日数十通以上のメールをやり取りするのは疲れる。
もう少しシステマティックにできればいいとは思うのだが、そうした瞬間、何かが抜け落ちて行くことも一方の事実である。
こういったデータ作りの作業は、その場だけで終わるのではなく、年間を通しての恒常的な作業としてやることができればいいのだが。
せっかくの財団法人なのだし。
先日の日記で、一つ書き忘れた。
シネコンのチェーンの一つであるヴァージン・シネマを東宝が買収したのだという。
これで、シネコンは、ワーナー系と東宝系の二つになるということだ。
たとえば、「呪怨」や「アカルイミライ」などはヴァージン・シネマの系列で、東京以外でも公開されていたのだが、ヴァージンが東宝系になってしまうと、そういう事が可能かどうかはわからなくなる。
そうなると、今度は、「呪怨」や「アカルイミライ」というような映画に、製作費がつくかどうかも分からなくなるという事だ。
シネコンの買収なんて、単に映画ビジネスの世界のゲームのようなものだと高を括っていると、気がついた時には見たい映画が全く作られなくなっている、というような事態にもなりかねない。
いや、もうそんな事態は目の前に迫ってきているというべきかもしれない。