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2002年 boid日記 12月

Text by 樋口泰人

12月26日(木)

先週の土曜日に子供と一緒に『ハリー・ポッター2』を観にいって、土曜の午後だというのに冷たい雨のせいなのか天候など関係ないのか、とにかく評判の割にはすっかりガラガラの映画館の、しかし効き過ぎの暖房のために完全に体調を崩し、そのまま持病の耳鳴りが始まりぼんやりとしていたら、ジョー・ストラマーが死に、このまま私の頭も耳鳴りとともに爆発してしまうのかとしょぼくれていたのだが、気が付くと耳元で「トミー・ガン」だの「ロンゲム・ボヨ」だの昔馴染んだクラッシュの曲が聞こえてきて、どうやら耳鳴りもストラマーを追悼しているらしい。
ならば致し方なし。
おとなしくその耳鳴りとともに過ごしていた。
ようやく昨夜あたりから快復し、本日はクローネンバーグの新作『スパイダー』に。
何の前情報もなく、「蜘蛛男」の物語だとばっかり思っていたのだが、まったく違った。
イギリス人小説家の原作を元にした、ねじれた親子の物語であった。
成長した息子である、精神に異常をきたした男の思い出として、その物語は語られていく。
小説では、その男の思い出が果たして事実なのか妄想なのかよく分からない、その曖昧な語り自体が大きなファクターとなっているようなのだが、映画では、そこには曖昧さはない。
曖昧なのは、男の存在のほうである。
その男を演ずるレイフ・ファインズの熱演(?)で、とにかくそのような男がそこにいるということは否応なしに目に付くのだが、その男は「頭のおかしい男」という以外の何をやるわけでもない。
いっそのこと、その男の出番はなくし、そこで語られる思い出だけで構成したらいいのではないかとさえ思う。
だがそうではない。
男が壁に寄り添い、土に寝そべり、ベンチに座り込み、ガスストーブをじっと見つめる、そんな動作の繰り返しが、ある種の呪文のように、壁や土地やベンチやストーブに張り付いた記憶のあれこれを、目に見えるものとして引き剥がしていくのである。
私の耳鳴りの中の「トミー・ガン」や「ロンゲム・ボヨ」には私が絶対に必要なように、ここで語られる思い出には絶対にこの男が必要なのだと、それは語っているようでもある。
だからひとりの少年の物語として語られるそれらの思い出は、複数の少年の思い出でもあるだろう。
それらの壁や土地やベンチやストーブを共有したはずの。
その総体として、男はそこにむなしく存在する。
シャツを何枚も重ね着している男に向かって、誰だったかが「中身のない人間がこういうことをするのだ」というようなことを言っていた。
だが、重ね着されたシャツこそ男のすべてなのだ。
その重ね着されたシャツの隙間に染み込むように、ピアノをベースにしたハワード・ショアの音楽が流れる。
それは重ね着のシャツをひとつに纏め上げるわけでもなく、バラバラに解きほぐすわけでもなく、ただ、隙間にあるばかりであった。

終了後、実はこの試写会場で中原君と待ち合わせていたのだが、姿がない。
しょうがないなあと笑いつつ、田畑さんらと立ち話をしているところに、登場。
エクセルシオールにて、某仕事の打ち合わせというか、まあ、ほとんど雑談をグズグズと。
結局はお互いの貧乏自慢となるところが、なんというか……。
来年はもうちょっと商売もきちんとやらなくては。
まあ、来年のことを考える前に『ギャング・オブ・ニューヨーク』をとにかく見るように、中原・田畑両名から薦められる。
確かに。

12月18日(水)

先週末から風邪を引いてすっかりグズグズになっている。
月・火と暖かかったので持ち直しかけたのだが、再び喉鼻が。
でもすっかり試写もサボってしまったので、昼から阪本君の『ぼくんち』へ。
ミシンの踏み板を踏む女の脚から始まって海へ泳いでいく女で終わった『顔』と比較して見ると、こちらは、ボートの床を踏み抜く女のハイヒールから始まり、その女の子供が小型船で海へ出て行くところで終わる。
『顔』の女は、雪道にも靴を履かずに出てしまうが、『ぼくんち』の女は基本的にハイヒールを履き続ける。
最後も女自身ではなく、その子供が出て行くという入れ替わりがある。
『顔』で島から出て行った女が戻ってきたことで何かが変わり、そして島から別の何かが出て行くという物語ともとれる。
その間に、複雑な親子関係と家族関係、そして男たちの散種と女たちの繁殖の問題が大きく横たわっているのだが、やってきた女とその母親が島に残していた二人の子供の物語として、この映画は一本の筋を通す。
そこで母親たちは、そこにいるべきでない何ものかとしてハイヒールを履き続け、そこに留まり、何かを封印する。
それはおそらく、今回は、フォークダンスとして変奏される島の盆踊りの円環が示す何かだろう。
二人の子供たちだけがそこから逃れ、「ぼくんち」は、彼らがいるところそのものとなる。
つまり、島にあった「ぼくんち」がどこにでもあるだろう「ぼくんち」となって、しかしそれはたった一人で生き続けなければならない孤独な「ぼくんち」として、彼らの身を苛み続けるはずだ。
その過酷な物語が、徹底してコテコテのギャグで埋め尽くされ、その寒々しさこそが孤独な「ぼくんち」の移動を支えているとでもいいたげに、語られていく。
その後、六本木へ走り、『24Hour Party People』。
パンク・ニューウェーヴ時代のインディ・レーベル「ファクトリー」の物語である。
私が今、boidをやっているのも、ファクトリーやラフトレードといったレーベルのおかげでもある。
とにかく私にとってはリアルタイムの物語なので、もっと早く見なくてはと思いつつ、どこかで見るのを避けていて、年末ぎりぎりになってしまったのだった。
だがこれは、ファクトリーの物語というより、ファクトリーのオーナーである人物のリアルタイムの回想という形式がとられ、この人物が付き合ったおかしくもあり悲しくもあり才能もある人々の物語となっていた。
つまりはっきりと、物語としての距離感が示されていて、案外素直に見ることができた。
もちろんそこには涙ものの映像や、人物たちが映っていて、そのたびにドキドキしたりしたのだが。
途中、主人公がインタビューされるシーンで、マンチェスターで生まれた彼らの歌が世界中に広まっていくことが私の誇りだ、というようなことが語られていて、やはりこれも散種の物語として美しく終わるのだろうかと思ったのだが、だがそのような希望も何もないところで彼らは生きているということだけが示されて終わる。
そういった血の薄さが、この映画を素直に見ることができた原因ではないかと思えた。

その後、新宿で友人に会う。
もう20年になるのだが、ファクトリーやラフトレード以降の音楽の流れを同じように呼吸しながら付き合ってきたその友人の迎えた人生最大の危機の話を聞き、大いに動揺する。
もう少し濃密な20年を過ごせなかったものかと、我々の血の薄さを呪うが、今更遅い。
結局いつものように馬鹿話をして別れた我々には、散種はまったく希望とならないのだと、あらためて思う。
人はあくまでも徹底して単独に、過酷な場所へ置き去りにされる。
その置き去りにされた孤独な場所において、ようやく誰かと重なり合えるだけだ。
種は広まらないが、誰かや誰かや誰かの人生が次々に重なりながら、ようやくその場に在るだけ。
案外能天気でもお気楽でもある。
その意味で、『ぼくんち』が、年下の子供が乗る船のシーンを最後に持ったのは、心に残る。
島の兄貴分でもあり、親父的な役割もする男から教わった「生活とカネ」という言葉を座右の銘にしてたくましく生きようとする年上の子供ではなく、常に誰かの庇護の下にあって、しかしその上で、否応なく過酷な場所に引き出され続ける年下の子供。
「ぼくんち」とは、その少年が不可避的にさらされてしまうその過酷な場所のことではないかとも思った。

12月13日(金)

何故かは分からないのだけれど、このところ試写に行くと、この日記に書いてくれといわんばかりのあれやこれやが起こるので笑ってしまうのだが、まあ、それもこちらが勝手に何か書こう書こうと思っているからほんの些細なことも大事に見えてしまうのかもしれないけれど、しかしまあ、今日は、いきなり音がモコモコになっちゃうんだもの。
なんか変だなあとは、はじまったときから思っていたんだけどね。
とにかく、フィルムの巻が終わるたび、通常ならスムーズに次の巻が始まってつなぎ目はほとんどわからないように映されているところが、全部、次の巻の始まりのリード部分が映ってしまっている。
10からカウントダウンされるやつ。
いやあ、映写の人は何やってるんだろうなあ、配給会社もなめられたもんだなあと思って笑ってみていたのだけど、さすがに途中で音まで変になっちゃうと、笑い事ではなくなる。
映画自体も、主人公が聴いているウォークマンの、イヤホン越しの音や、イヤホンから直接聞こえてくる音や、通常の映画音楽風に画面全体から聞こえてくる音が、ひとつの曲の中でランダムに変えられて出てくるので、スペインの山の中でほとんど迷子になってしまった主人公たちの混乱が、彼らの会話までウォークマン越しの音で聞こえてくるような事態を招いたのかと錯覚しもしたのだが、どうもそうではない。
まあ、ようやくその巻の頭から再上映して何とかそこは通常の音に戻ったのだが、再びラストシーンで同じ事態に。
さすがにもう、皆あきれたのかバタバタと席を立って帰っていく。
映画のほうは、将来的にはアベル・フェラーラの『ブラックアウト』とか撮っちゃうかもしれないなあと思えるような、イギリス人グラスゴー出身のクールにいかれた女性監督の2作目で、デビュー作『ボクと空と麦畑』は日本でも公開されているようだが私は見ておらず、しかしとにかく、思わぬ場所でのなんでもないカメラのパンや、ずらしまくるピントや、そこがどこなんだか全然分からない風景の切り取り方など、昔スリッツのビデオクリップやポップグループのライヴやロンドン・パンクのドキュメンタリーをあれこれ撮っていたドン・レッツ(確かこの名前)の諸作品を思い出し、私はとりあえずニコニコしながら見ていたのだが、だから普通には相当好き嫌いがあるはずの映画になっていて、それだけでもうんざりする人は大勢いるはずだろうから、このような事態となってはさらにそのうんざりも増幅されようというもの。
あちこちで悪評が書かれるかもしれないが、映画のタイトルともなっている主人公『モーヴァン』に扮するサマンサ・モートンがジョディ・フォスターを思わせる硬質の演技を見せなかなか良いのだ。
監督はこの映画の主人公たちの住むスコットランドのオーバンをオーバンとしてではなく世界のどこにでもあるような場所として撮りたかったと語り、町の周囲にあるはずの山や湖(川?)といった自然以外の風景をほとんど写さず、断片的な室内シーンばかりで構成していて、同じようにウォークマンから聞こえてくるカンの「スプーン」やリー・ヘイゼルウッド=ナンシー・シナトラの「サム・ヴェルヴェット・モーニング」などももったいないくらいに断片として使っているのだが、これらすべてが彼女たちがどのように世界の中に置かれているか、周囲から分断されることでようやく場所を得ている彼女たちの存在の仕方を示していた。
ただ、女性たちは、どうして悲しいことがあると湯船の中に潜るのか、まあ分かるような気もするのだが、とにかくこの演出は世界共通だなあと、変なところが気にかかってしまった。
でもとにかく、配給会社の皆さん、松竹試写室にはなめられないよう気をつけましょう。
強気に出るか、付け届けをするか、どちらかですな。
いやはや。

その前に見たのがロバート・ゼメキス製作による『ゴースト・シップ』。
『ER』の看護婦さんが主演している。
物語の設定といい、女性主人公の扱い方といい、『アナコンダ』を思わせる。
服装なども、『アナコンダ』のジェニファー・ロペスにそっくりなのだ。
このジュリアナ・マグリースさんは、『ER』で世界的に名前は売っているはずだが、さらに映画でステップアップしようとしているのだろうか。
プロフィールを見たら、今後リチャード・リンクレイターやブルース・ベレスフォードなどの作品が控えている。
その中の1本に、監督ジャック・グリーンというのがあったのだが、まさかこれは、あのジャック・N・グリーンじゃないよなあ。
と、思って調べてみたら、やはりジャック・N・グリーンだった。
『ブラッド・ワーク』のカメラマンが新しくなったのは、イーストウッドの若返りなのだとばかり思っていたのだが、グリーンさんが監督になってしまったという理由もあったのか。
でもその後もグリーンさんはいろんな映画の撮影をやっているから、まあ、それも大した理由ではないのかもしれないが。
で、この映画の監督は『13ゴースト』と同じ人。
あちらも、1軒の屋敷に閉じ込められた主人公たちが、そこに取り付いている幽霊たちに襲われるという物語だったが、こちらは家が船に替わっただけといえば替わっただけ。
うーん。

それから書き損ねていたのだが、2日ほど前に青山から連絡があり、高木元輝さんが亡くなったとのこと。
12日の新潟でのライヴの前日に、部屋で死亡しているのが発見されたのだという。
ずっと体調を壊していて、ただ最近はそれなりに持ち直していたので、ライヴも可能ということだったらしいのだが……。
詳しいことは近々音楽誌などに掲載されるはず。
でもさすがに、高木さんクラスだと新聞には死亡記事が載らないんだということが判明。
どこかの会社の社長のお母さんとかだと載るのに。
やはり、一人暮らしの孤独な老ミュージシャンの死など、社長の母の死に比べたら社会的影響力はまるで違うということか。
確かにそういわれればまさにそうかもしれず、とにかくこの孤独な死を悼むのみ。

あと、ヘルツォークの映画で書き忘れていたことがひとつ。
これにもクラゲが登場する。
一瞬、あっけにとられるのだが、本当に登場するのだ。
世界的なクラゲ・ブームなのだろうか。

12月10日(火)

ハードワークの日々がようやくひと段落。
すっかりがたがたになって試写にもまるでいけなかった。
だがやはりこれくらいハードに働いていないと毎月の生活費は稼げないわけだから、そうなると当然試写にはいけなくなり原稿も書けなくなる。
ギャラが倍にならないとやっていけないなあと、寒さに任せてグズグズと転職を真面目に考えるが、まあ何ができるわけでもない。
とりあえずまあ、とにかく試写である。
ヘルツォーク『神に選ばれし無敵の男』。
久々の試写で景気付けも込めての選択だったのだが、いきなり受付で名刺の要求、ガツンとやられる。
試写には余程不似合いに見えるのだろうか。
今回の場合、この映画の配給と同じ東北新社から出ているヘルツォークのDVDの解説まで書いてるだけに、さすがにしょんぼり。
それさえ読んでもらえていないんだよなあ。
このあんまりに一方通行な状況は、どうにかならないものか。
やはり転職しかないのか。
まあそれはそれ、それくらいでしょんぼりしていては、ヘルツォークにはなれない。
フィルモグラフィを見れば分かるように、とにかくほぼ1年に1作の確実なペースであれこれ作りつづけている。
まあその多くが、テレビ用の作品やドキュメンタリーということも影響しているのかもしれないが。
とにかくそれなりの数はこなす。
それでも全然作り足りないと思っているかもしれない。
ただ、日本でそれらが公開されようがされまいが、いや、それがヨーロッパでもアメリカでも同じように、ヘルツォークは無関心なようにも見える。
スペクタクルを撮るのだというその一点に向かって、がむしゃらに歩を進めていく。
どうしてもそんなイメージで見てしまうのだが、この作品は、そのスペクタクルの見せ方が、随分冷静になったように見える。
クラウス・キンスキーが死んで、ハウリングがなくなり、ある種透明な形での語りが始まったというか、余裕さえうかがわせる懐の深さで、映画のタイトルからはまったく想像もつかない実在の天才美人ピアニストの演奏を間近からじっと撮るのである。
タイトルどおりの「無敵の男」は二人登場する。
ポジとネガの関係とも見えるが、とりあえずはその二人の物語である。
だがそのベースには、ティム・ロス扮する魔術師の愛人となるピアニストの演奏が、確実に流れている。
彼女の演奏が生んだ物語を、ヘルツォークが語ったという感じだろうか。
ヘルツォークの分身は既に物語の中にはなく、消えていったその分身とともにヘルツォークもヨーロッパの歴史のまばゆく怪しい光と影の中に身を置いて、聞こえないものや見えないものたちの語る声に耳を傾けている、といった風情なのだ。
世紀末にゴダールが駆け抜けていった地平を、ヘルツォークがゆっくりと歩んでいく。
そして、駆け足では聞き取れない音に身をゆだねている。
それがどんな地点に至るかはまだ謎だとしても、とにかく分身の消えたひとりの映画監督として、ヘルツォークは自分を包む時間と空間の中にその体を溶け込ませようとしているように思えた。
もうかつてのように「純粋な映像を撮るためなら、月にまで行く」必要はない。

上映終了後、石井(聰亙)さんを見つける。
久々。
元気そうで何より。
石井さんは、この後、同じ会場での『曖昧な未来、黒沢清』も見るのだと言う。
私は、ヘルツォークをたっぷり堪能したのでパス。
うーん、こんなことだから名刺を要求されるんだな。

12月2日(月)

夏以降、どうも調子が優れず(いつものことだが)、「調子悪くて当たり前」な勢いのままダラダラと過ごしてきたのだが、そのつけがいよいよやってきて、このところ突然ハードな日々を送っている。
こうなるたびに、原稿料がせめて倍くらいになってくれたらと天を仰ぐのだが、もう10数年変わらない。
昨日は、一家で表参道近くの某所へ。
込んでいるのは嫌だからと、千駄ヶ谷駅から向かったのだが大間違い。
ラグビー早明戦であった。
若者たちの傍若無人にむかつきまくる。
いや、人ごみが嫌いなだけか。
帰りは、妻子を残し、仕事をせねばと私ひとり先に帰宅するのだが、家の入口の前で呆然。
カギを持ってでるのを忘れたのだ。
これも早明戦のせいだと苛立ちを転化してみるもののそれでどうなるわけでもない。
近所のドトールで、ひたすら妻子の帰りを待つばかり。
待つこと2時間弱。
ようやく仕事を再開(この間、初夏に免許をとったという松田さんが車に乗ってやってくる。実際に運転している姿を見ても、とても信じられない。本人の知らぬ間に、あちこちで迷惑をかけていなければいいがと、変な心配をする)。
明け方、とりあえず寝て、残りは昼からと思い、手帳を見ると、月曜日1時からインタビューという文字に絶句。
火曜日だとばかり思い込んでいたのだ。
進行中の仕事の締め切りは月曜日夜。
インタビューを終えて夕方からやり始めたのでは到底間に合わない。
仕方なくそのまま仕事続行。
1時間ほど仮眠して、新富町にある「松し満」という料亭へ。
料亭でインタビューなんてはじめてだが、確かに昼の料亭というのはあまり使われない時間だろうし、案外狙い目かもしれない。
建築のことはまるで分からないので、明治なのか大正なのか昭和初期なのか、とにかくまあ、いかにも「料亭」といった趣のある、懐かしい空間であった。
インタビューしたのは、ソクーロフの新作『エルミタージュ幻想』のプロデューサー、アンドレイ・デリャービン氏。
いきなり名刺を渡され驚くが、これまたいかにもプロデューサー的な振る舞いということか、この料亭の風景に妙になじんでいる、これもその人当たりのよさと関係あるのか。
しかし通訳が入っての50分は短い。
話の流れで、つい、「この無茶な企画を実現するためにどんな努力をしたのか」という漠然とした質問をしてしまったのが良かったのか悪かったのか。
とにかく、映画実現までの物語が延々と語られることになる。
用意した質問はほとんどできず、「ほう、それはすごいですねえ」などとうなずくばかりのインタビューとなってしまった。
とにかく撮影本番の日は、サンクトペテルブルグ、いや、ロシア国家を挙げての一大イヴェントとなったらしい。
アメリカに出張中の映画大臣(ロシアには「映画省」という省庁がある)は、その日の撮影を見るためだけに、仕事をキャンセルして1日だけ帰国し、翌日またアメリカに戻っていったのだとか。
またソクーロフは、90分をワンカットで撮影するというポジティヴな提案をした後、どうしてワンカットなのかという理由の説明の際には、「編集をしたくない」というようなネガティヴな発言もしたらしい。
このあたりの具体的な話を突っ込もうとしたところで時間切れ。
さすがにプロデューサへのインタビューだと、話が具体的になるので、あと2,3時間は欲しい。
こういう場合、2,3人でまとめて3時間くらいのインタビューを行って、それを、再利用フリーの原稿として各マスコミに配布する、というようなやり方はできないのだろうか。
終了後は慌てて帰宅。
さらに続きの仕事を続行して、一山越える。
だが実は今週、さらに難物が……。

それから、例の「刑事まつり」に関する続報。

参加監督、決定!
正式タイトル「新春刑事まつり」
ルールは以下の3つ

1、主人公は刑事であること。
2、完成尺は10分を1秒でも越えぬこと。
3、1分毎に最低でも必ず1個のギャグを入れること。

参加者は以下の全12人。
企画・製作ダーティ・ダズン・プロジェクト

青山真治「NOと言える刑事」
市沢真吾「スローな刑事にしてくれ」
奥原浩志「(題未定)」
黒沢清「霊刑事」
佐々木浩久「だじゃれ刑事」
篠崎誠「忘れられぬ刑事たち」
高橋洋「アメリカ刑事」
西山洋市「特殊刑事」
廣木隆一「(題未定)」
堀江慶「引き刑事」
万田邦敏「夫婦(めおと)刑事」
山口貴義「モーヲタ刑事」

2003年1月11日から24日までの2週間。昼間の興行!

とのこと。
でも、まだここに書いちゃいけなかったのかな。
その場合は、読まなかったことにしてください。
超豪華出演陣に関しては、さすがの私も書く勇気がなくて書いてないのだけど。
ああそれから、上映場所は、シネマ下北沢(多分)。
いや、先に篠崎に確認をとってから書けばいいんだけど、つい、先に書いちゃうんだよなあ。