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2002年 boid日記 11月

Text by 樋口泰人

11月29日(金)

さすがに諸々の仕事がたまり、家にこもって原稿を書いていると、この日記を書く時間がない。
というか、こもって原稿を書いているだけなので、書くこともない。
とはいえ1週間もサボっていると、なんとなく書いてみたくもなって。
このところ、原稿の関係で、エルヴィスやクランプス、ロバート・ゴードン、リンク・レイ、ゲイリー・アッシャーなどなど、ロカビリー、サーフィン系の音ばかりを立て続けに聴いていた。
『ラヴレス』や『グレート・ボールズ・オブ・ファイアー』などのロックンロール映画もあれこれ。
もうほとんど琴線に触れまくりなので、とりあえずほとんど原稿もかけず、ひたすらウルウルするばかり。
この20年の自分の怠惰を呪う。
とはいえ目先の仕事もまだほとんど終わっていない。
本日は子供が熱を出して帰ってきた。
まあ、3年生にもなると、こういうときもそれなりに楽なので助かる。
昨日は、練馬で、青龍刀を持った6人組の中国人強盗団が民家に押し入って逃走中とのことで、杉並区の小学校は集団下校となり、たまたまピアノ教室にいく予定になっていたうちの子供をひとりで行かせるわけにも行かず、つきそい。
しかし青龍刀とは……。
テレビニュースを見ても、新聞のサイトを見ても全然話題になっていないから、青龍刀くらいではニュースにもならないということなのか。
まあ、爆弾抱えてホテルに突っ込んじゃうのに比べたら、ニュースになりようもないのだけど。
そういえば近所の中華料理屋。
しばらく休業した後、夏には店内を整理して「八仙」という新しい看板を出してすぐにリニューアルオープンするかと思いきや、既に3ヶ月を経過して未だオープンの気配なし。
でも、別店舗が入る気配もない。
あと、2,3ヶ月くらいしないとオープンしないのだろうか。
しかしもしこのままオープンしなかったとしたら、あの「八仙」という新しい看板は一体なんだったのか。
店内の壁とかも、確か店の関係者らしき人たちが何人かで文字や絵を描き付けていたはずなのだが、あの作業は……。
もしやオープンのための資金作りに日々東京の町を青龍刀を持って走り回っていたりして。
だとすると子供が集団下校をするたびに、店内の設備が整っていったりするのだろうか。
「八仙」オープンのために、あと何軒の民家が襲われねばならないのか。
恐るべし「八仙」。

11月22日(金)

本日は日記というより、お知らせ。
イーストウッドの新作『ブラッド・ワーク』は、12月7日公開で、2週間のみの上映という情報が。
つまり、12月20日まで。
「お正月映画」だとたかをくくっていると、あっという間に終わってしまうから、注意注意。
要するに、本物の「お正月映画」の場つなぎ上映。
なんていうことだ。

11月20日(水)

12月DVD発売される『夕陽のギャングたち』の特別試写(DVDでの上映)がたまたまあり、ジェームズ・コバーン追悼のため、参加。
いつものことなのだが、もうすっかり忘れていて、初めて見る映画のようだ。
と思っていたら、どうやら本当にこれが初めてだということに気づく。
このあきれた記憶力に愕然。
「追悼」どころじゃない、そんな資格もなかったと、うなだれるばかり。
気を取り直して見ていたのだが、ちょうど昨日、「これで黒沢さんの映画にジェームズ・コバーンが出演することもなくなってしまった」という青山からのメールを受け取った、そのことが妙に頭にこびりついていて、この映画のコバーンと『アカルイミライ』の藤竜也が重なってしまう。
あの服装といい、両者がともに技術者である設定といい、また、他者を導く役回りといい。
まあしかし、このような一致は特にそれを意識していなくても、いくつかの条件が重なれば必然的に生まれてくるものだろうから、それ以上深読みしても仕方ない。
ただ、とにかく、無意識のテロリストと意識的な革命家が作り出すふたつの物語を、たまたま同時期に私が見てしまったということは、それなりに奇妙な事実としてしばらく私にまとわりつくことになるだろう。
そうそう、それに、エンニオ・モリコーネのどこかとぼけた音楽と、『アカルイミライ』のパシフィック231の作った音楽の映画に対する距離感も、なんだか同じような印象を残したのだった。
ちなみにモリコーネさんは、来年のNHKの大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」の音楽を担当するのだとか。

それから昨日の試写の一件は、何人かから話を聞いたことを総合すると、要するに、世界的な大スター、レオナルド・ディカプリオの主演する大作として『ギャング・オブ・ニューヨーク』は宣伝されているのだという状況がわかった。
まあ、確かにそりゃそうである。
で、そうなるともう完全に広告代理店の世界となり、代理店にとっては、当日のマスコミ試写に集まった人々は、ディカプリオ人気にあやかろうとするマスコミの有象無象でしかなかった、というようなことになるのだろう。
彼らは顔を見ないで名刺を見るどころか、多分名刺さえ見ないだろう。
となると、昨日私が書いたような怒りは、やはりあまりに子供じみているなあと、反省。
どちらにしても「マスコミの有象無象」の中に片足を突っ込んで生きている以上、あらゆるものを記号化して数値化していく代理店的な世界の中でいかに抵抗していくかということについての、『夕陽のギャングたち』のコバーンのような実践的な技術(「技術がなければ火薬は扱えない」というような台詞もあった)を身に付けなければと思ったのだった。
あるいは、『K-19』のリーアム・ニーソンのような。

11月19日(火)

昨夜からの背筋の痛みと朦朧とする頭。
おかげで本日は開店休業状態。
夜、ようやく公開されるスコセッシの『ギャング・オブ・ニューヨーク』の完成披露試写のため、渋谷パンテオンへ。
15分ほど前に着いたのだが、既に入場が始まっているにもかかわらず長蛇の列が階段上まで続く。
無事入れるだろうかとハラハラしていると、案の定、立ち見となることのアナウンスがある。
まあ、雑誌の締め切りの関係もあり、仕方ないなあと思ってそのまま並んでいたのだが、さらに「名刺をご用意ください」とのアナウンス。
なんだそれ。
どうやら、試写状を他人に譲ったり、売ったりする人が増えているらしく、試写状の記名本人であるかどうかを、主催者側がアイデンティファイするためらしい。
でも、元はといえば、自分たちが顔を見てアイデンティファイできないほど多くの人に試写状をおよそ機械的にばら撒いて、劇場に入りきれないほどの人を集めたのはあんたらだろう。
試写状を見ても、どこにも「名刺をご用意ください」とは書いてないし、例えば名刺を持っていない人だったり、たまたまその日は忘れてきた人だったりしたら、あんたらはどうするつもりなのか。
それに、自分たちで確認できない人にまで試写状を配るのは、一体何のためなのか?
一体何のためにこういった試写を行うのか?
さすがにむかついたんで、そのまま列を離れる。
試写状を不正入手して、名刺が用意できずに帰った人、と思われたかもしれないが、まあ、そう思うなら思ってくれ。
某誌で、『ギャング・オブ・ニューヨーク』について書くことになっていて、ページも用意してあったのだが冗談じゃない。
すべてキャンセル。
子供じみた怒りかもしれないが、1本の映画を配給し、宣伝して多くの人に見てもらおうとするときの、このような機械的なやり方をあからさまに見せられた挙句、そのまま素直に頭を下げてどこの誰だか知らない人に名刺を渡すなんて、私にはとても出来ない。
松竹と日本ヘラルド、あんたらは完全に間違っている。
コクサッカーでマザファッカーなのは、スコットランドではなく日本だった。
『アカルイミライ』の藤竜也よろしく、「この現実を見ろよ」と、怒りにかられるばかり。
その昔、フランス映画社は、試写室が満員になると即座に別の試写室(ほとんどの場合映倫の狭い試写室だったが)を用意して、フィルムの1巻が終わるごとに試写室から試写室へと運んで、入りきれなかった人にも1巻遅れで見ることが出来るように手配するという力技を、平然とやってのけていた。
今日のような大きな劇場試写のときでも、そうだった。
しかしあんたらは、会社ばかりでかくて、そのような力技一つ見せることも出来ず名刺を見るばかりの、しょうもない奴隷である。
柴田駿と川喜多和子のチームは、そのやり方に不満を抱く人の話も聞いたが、しかし、自分たちが選んだ映画をどのようなやり方でどのような人たちとともに宣伝して、より多くの人に見てもらうことの情熱と現実的なノウハウを、はっきりと持っていた。
多分私は、その作業を目の当たりにして映画を見てきた最後の世代となるのだろう。
既にそのようなのどかな時代の出来事は、単なる昔話に過ぎないのかもしれない。
だとしたらなおさら、わずかながら他の人たちより余計にあるらしい私の霊能力を総動員して川喜多さんの亡霊を呼び起こし、おそらくそのやり方の方が効率がいいのだろう機械的な宣伝と他者の顔を見ず名刺を見るだけの営業で成り立つ配給業務をよしとする官僚的な配給会社を、襲ってもらおうか。
とんだとばっちりかもしれないが、シネフィルで知られるマーティン・スコセッシも、自分の映画が一体どのような状況の中で公開されるのか、知っておいたほうがいい。
呑気に映画ファンを気取っている場合ではないだろう。
WTC傍の編集室で、事件の際には危うくフィルムも焼失しかけた中でようやく完成にこぎつけたといういわくつきのこの映画でも、結局は巨大資本のシステムにすっかりのせられて、おざなりに消費されていくばかりなのだ。
もちろんそれこそ映画とも言えるわけだから、それ自体にどうのこうの言うつもりはない。
ただ、そんなシステムにのっているのも知らず、のびのびと神経症的な映画を作る肥満した映画作家などなんぼのものかと、私は思う。
いや、怒りのあまり、話がそれてしまったな。
スコセッシさんがそうだとは、全然思っていないのだけど。
まあ、とにかく、気が向いたら映画館に見に行きます。
あ~あ。
これで、松竹とヘラルド試写室は出入り禁止だなあ。
ジェームズ・コバーンが死んだ。

11月18日(月)

信濃町の駅ビルに引っ越したアスキーの編集部にて、プリンタがらみの諸々のページ作りの打ち合わせの後、六本木ブエナビスタ試写室。
デニス・クエイドが35歳でメジャーリーグ・デビューを果たした実在の投手に扮する『オールド・ルーキー』。
デニス・クエイドのスポーツものといったらもう、泣くしかない私は、やはりボロボロと泣きまくる。
いや、全然たいした映画ではなくて、編集も細かすぎるし音楽をつけるタイミングもワンパターンだしで、もうちょっとどうにかならないものかとも思ってしまうのだが、これはもうどうしようもない。
どこにいても居心地の悪そうな彼の引き攣った笑いに、我を失ってしまうのだ。
監督はイーストウッド組の人で、『パーフェクト・ワールド』や『真夜中のサバナ』の脚本家のひとりであった。
しかし、デニス・クエイドは果たして日常から左利きだっただろうか?
実在のモデルが左利きなので、左利きの男を演じているのではないか?
投球フォームその他、どこかぎこちなく、もはや生きていることそのものが所在なげだ。
そしてそんな人間がそこに確実にいてしまうという事実に思わず涙腺が緩むのかもしれない。
その涙を引きずりながら、渋谷へ。
シネカノン試写室にてケン・ローチの『スイート・シクスティーン』。
スコットランドのうんざりするような憂鬱な気候の中での物語。
主人公はこの気候そのものだとでも言いたくなるような強さで、この物語を支えている。
ジャ・ジャンクーの『青の稲妻』や黒沢さんの『アカルイミライ』が、どこにあるわけでもないがどこにでもあるような、しかし誰も見たことのない空間を構築しているかのように見えるのに対し、この映画は目の前にある風景の力を出来る限り汲み取ろうとしているかのようだ。
もうすぐ16歳になるはずの少年たちがたつ場所の寒々しさに、身も凍る。
すっかり凍りつきながら見ていたためか、背中から首筋にかけて痛み出し、首が回らなくなる。
映画の中のリアルによって引き起こされた現実のリアルで物理的な痛みに、さすがにむっとする。
この映画にもうちょっとのユーモアとばかばかしさがあったなら……。

11月17日(日)

夕方から黒沢さんにインタビュー。
boid.net掲載のため、無理を言って時間を作ってもらったのだ。
インタビュアーは、私と梅本さん、そして「nobody」の志賀謙太。
梅本家の作業部屋は防音、空調ともに最高で、夜になるとヘッドホンをしながらの仕事となって時間が長引くに連れ頭の中が朦朧となりそのかすみがかかったような頭で手探りしながら原稿を書かねばならぬ毎日を送っている私は、ちょっぴり、いやかなりうらやましい。
2時間を越えたインタビューの内容は、近々boid.net.にアップの予定。
『アカルイミライ』『ドッペルゲンガー』と立て続けに見て、その刺激で広がった妄想をクールダウンしつつ、新たな刺激を受けるインタビューとなった。
請うご期待。
インタビュー終了後、例の岐阜の幽霊マンションの話で、黒沢さんに、何とか言葉にしてくれと言われる。
確かにそうなのだが、相手が目に見えないだけに始末が悪い。
見えないが質量はある何か、という感じ。
その見えなさの具合は、ホラー映画のように闇の中にまぎれているような見えなさではなく、もっとあからさまな見えなさである。
何に一番近いかといえば、『プレデター』か。
透明化した宇宙人がぶち当たってきて、いきなり心臓を鷲づかみにされたというような。
だがそれもまた、なんだか説明になっているようないないような……。
あとは、2月のロサンゼルス行きに向けて、デヴィッド・トーマス・イヴェントの会場となるUCLA周辺の地域事情について。
黒沢夫妻にいろいろと脅かされる。
車無しで、本当に行けるだろうか?
しかし毎度のことではあるが、超多忙な中の黒沢さん、梅本さんの強力に感謝。

11月16日(土)

朝から小学校で、音楽会。
体育館に集まった小学生たちが合唱や合奏を繰り広げるとなると、当然、カナダの小学生たちがビーチ・ボーイズなどを合唱した例のCDを思い浮かべるのだが、当然、そうは都合よくならない。
かろうじて、まだようやく音をコントロールできるようになったばかりの小学校1年生たちだけが、カナダの小学生たちの音の厚さと強さに対抗しえていたくらいで、学年があがるにつれ、音は弱々しく当り障りのないものとなってくる。
合唱も合奏も、体育館の広い空間の中にぼんやりと吸い込まれていくばかり。
音楽の先生たちの求めているものが、高学年になるほど分かってくるのだろうか、要求されている音と欲望する音との間で迷いつつ、とりあえずは要求されている音に合わせておこうというような、子供ながらの政治的判断がそこには働いているように思えて、まあ確かにそれはそれで彼らなりの生き延びる方法なのだろうが、なんだかそれ以上そこにいる意味も見つけられず、休憩時間前に終わった我が子の出番を見届けて、妻とともに席を立つ。
ただ、我が子のクラスにジャイアンのような暴れん坊の問題児がいて、彼だけが、大声で気持ちよさそうに歌っているのがさわやかな印象を残した。
まあそれもまたこちらの欲望の投影であるのかもしれないが、ジャイアンのさわやかさは彼がごくまっとうな普通の子供であることの証のように思え、しかし、学校内では彼が大変な問題児として扱われていることを思うと、この子を受け入れることの出来ない教育が犯している間違いの大きさに、泣けた。

11月15日(金)

本日は、アキ・カウリスマキの『過去のない男』、リチャード・リンクレイター『テープ』の2本立て。
基本的に1日1本しか映画が見れない私は、もう、見る前からアップアップの状態。
見終わってから分かったのだが、本日の2本立ては、いわゆる作家的な現代映画が持つ大きな振れ幅の両極端に位置するものだった。
カウリスマキは、徹底したフィルムへの執着。
端正かつ繊細に設計された画面作りと必要最小限の会話によって物語が展開する。
「映画」を見ること作ることに注がれたカウリスマキの時間と愛情に、襟を正す。
さらに今回は、画面ばかりではなく、音の面でも一貫して、とろけるような柔らかで甘美な世界を作り上げていた。
冒頭、生まれてくる過敏な音をやさしく包んで外部に送り出すような繊細なタッチのピアノの音が聞こえてくる。
そしてそのピアノ演奏に負けないくらい繊細な声帯の震えによって発話される、列車の車掌の「切符を拝見」という台詞から、映画は始まる。
その、音を最大限にやさしく転がすような演奏=発話は、フィンランドでは大ベテランの女性シンガー、アンニッキ・タハティの歌声、そして、バンドのギターのエコーへと引き継がれていく。
もう、いつ壊れてもおかしくない、表面張力ギリギリのところまで、やさしさと甘美が詰め込まれたこれらの音の、自身を音の可能性の限界のところで保とうとする微妙な震えの緊張が、映画の最後まで持続する。
ただ私としては、ギターの音はもっともっとやれるのではないかと、耳をクリス・スペディングにして聞いたのだった。
一方『テープ』の方は、DVで撮影された、いわゆるドキュメンタリー・タッチの一編。
安モーテルの一部屋に10年ぶりに集まった男女3人の会話だけで成り立っている。
舞台劇が元になっているという。
3人の俳優たちが同じ演技を繰り返し、それを1台のカメラがいろんな角度からいろんなサイズで撮影した数テイクを、マッキントッシュの画面に時間をあわせながら並列させて必要な部分をつまんでいきながら時間を再構成する、という編集作業が容易に想像される。
だからそこに映された映像のサイズも画面構成も、これでなければいけないという決定的なものではなく、常にその決定的なものからずれつづける、あるいは失敗しつづけるものとして、揺れ動いていく。
カウリスマキが、決定的なものだけをそこに映し出そうと繊細さを極めるのに対し、こちらはそれだけは映さないように、その周りを旋回しつづけるのだ。
果たしてその旋回は、成功していただろうか?
どうも釈然としなかったのは、3人の登場人物たちがどこかひとりの人物のようであり、そのひとりの人物が3人の姿を借りて自己分析を行っているという、そんなふうに見えてしまったことだ。
後で説明を聞くと、その元になった舞台というのは、実はひとり芝居で行われていたものなのだそうだ。
納得。
だから、このような再会ものとして、私は当然のようにジョン・セイルズの『セコーカス・セブン』を思い浮かべていたのだが、あの映画のラストでは、登場人物たちが全員で、「まるでCSN&Yのような」とかつて私の友人がそれを評したのを私は今もおぼえているのだけれど、美しいコーラスを行う、あのようなハーモニーは、この映画からは聞こえてこない。
もちろんそんなハーモニーを作り出す、登場人物それぞれやそれを聞く私たちにとっての時間の再構成の仕組みをこそ、この映画は疑っているのだが。

11月14日(木)

『ベティ・サイズモア』のニール・ラビュートの新作、ということくらいしか情報を知らぬまま『抱擁』を見に行く。
ヴィクトリア王朝時代の二人の詩人の研究者たちの物語であった。
現代と過去を往復しながら、詩人たちの不倫関係と研究者カップルとの恋の進展とが重ねあわされていく。
詩人の物語ということもあってか、めちゃくちゃ台詞が多い。
しかもほとんどが、極端なアップ。
ブッカー賞受賞小説の映画化ということで、どうやらそれなりの長さのものを大胆に縮めてしまったらしく、アップの連続のまま、物語は都合よくトントンと展開していく。
思わず笑い出しそうになるのをこらえるのだが、それにしてもこのアップは気持ち悪い。
会話とアップの連続といえば、どうしてもガレルの「救済の接吻」を思い出す。
さすがにこの映画と比べたりするとガレルさんに申し訳ないかと思うものの、この気持ち悪さは只者ではない。
最後のクレジット・タイトルを見たら、撮影はジャン=イヴ・エスコフィエであった。
なあんだ、気持ち悪いはずだ。
だが最後に、ちょっといいシーンがあった。
詩人たちの間には女の子が誕生し、ただ、当時の不倫なので、母親たる詩人は父親詩人の元を去り、その子を養父母に預け、自分は叔母として彼女を育てていた。
そこにある日、何も知らない父親詩人が通りかかり、我が子たる少女と出会う。
その少女の名前から男は彼女が自分の子であることを知るのだが、もちろん彼は何もすることが出来ない。
少女が男に、「デイジー・チェーンを作って」といい、男は「いいよ、クラウンにしてあげる」と応え、雛菊の花冠を少女の頭に載せるのである。
まあ、ただそれだけのシーンだが、まるで、ドノヴァンやマーク・ボランの歌声が聞こえてきそうな美しい言葉のやり取りに、ちょっとほろっとなった。
だから、この映画は完全に構成を間違っている。
現代の研究者たちとの恋と重ね合わせるような小細工はしないで、堂々と二人の詩人の物語を語るべきなのだ。
森の妖精が語る物語として。
テーマ曲はドノヴァンの「House of Jansch」にして、女性詩人のシーンにはマリアンヌ・フェイスフルの「In the night time」を流す、というのはどうだろう。
同じ曲の女性側からの変奏(「In the night time」はマリアンヌ・フェイスフルがカヴァーしたときにタイトルを変えた)によって、二人の揺れを増幅させていく。
泣けると思うんだけど。

夜、夕刊フジのサイトを見ていたら、「岐阜の幽霊住宅、ポルターガイスト再発」との見出し。
誘われるようにページを開くと、問題の幽霊住宅の写真が。
モニタの画面から、もうただならぬ妖気が直撃し、一瞬硬直する。
久々の衝撃。
記事を読むどころではない。
何も出来ず、そのままページを閉じる。
恐ろしい。
あれは本物。

11月13日(水)

またもや早朝に目がさめ、1日中朦朧としていた。
完全に時差ぼけ調整状態。
家にいても眠ってしまうだけなので、無理やり外出。
見逃していたセドリック・カーンの『ロベルト・スッコ』へ。
だが、体調のせいなのか、生理的な部分も含めてまったくフィットせず、30分以降は拷問のような苦しみを味わう。
こんなふうになったのはいつ以来か。
とりあえず、繰り返し流されるマリアンヌ・フェイスフルの歌声にすっかりあてられて、この歌声から逃れるためなら何だってする、という状態で、HMVへ。
歌い方を変えてからのマリアンヌ・フェイスフルはどうにもこうにもまったく受け付けない。
とにかく、TLC、ミッシー・エリオット、JAY-Z、ジュラシック5などなど、それぞれの新譜を、金もないのに衝動買い。
毎度思うのだが、カードは恐ろしい。
しかしTLC。
いくらレフト・アイ追悼盤とはいえ、ティンバランドまで取り込んでやりたい放題。
ふんだんな資本力と、それに伴う技術力を駆使されてこんな音を作られた日には、その他大勢の貧乏ミュージシャンたちはたまらんだろうなあと思う。
どんな音響処理がされているのか具体的なことは分からないが、トラックごとに音の輪郭や彩度などを変え、つまり存在の位相の異なった音が一気に同じメロディを奏でる、その空間の広がりにクラッとくる。
アルバムタイトルの『3D』というのは、これからはレフト・アイの亡霊とともに歌う、という宣言なのか。
このようなやり方で語られた映画を思わず妄想。
これに比べると、愛らしいアルバムではあるが、ベックの新作の音響処理など、単なる出来のいい宿題としか思えない。
とにかくおかげで、マリアンヌ・フェイスフルの悪夢からは、とりあえず逃れる。

11月12日(火)

月曜日は夜明け頃、ひどい頭痛で目がさめて、薬を飲んでもどうにもならず、終日休業状態。
どうにもならない。
本日もまた、明け方に目がさめるが、とりあえず頭痛は治まっている。
頭痛は、朝型生活への転換へのお知らせだったということか。
仕方ないのでそのまま起床。
昼から、今年のカンヌのパルムドール、ポランスキーの『戦場のピアニスト』を見に行く。
第2次大戦中の母国ポーランドを舞台にした物語である。
当然、ユダヤ人迫害もの。
実在した、ポーランドを代表するユダヤ人ピアニストがいかにしてその極限状態の中を生き延びたかを、克明に描いていくのだが、問題はこのピアニストで、要するにピアノを弾くこと以外はまったく無能な人間なのである。
つまり、ピアノを弾くこと以外のあらゆる能力が要求される状況の中で、幸運と人々の愛とに支えられて生き延びていく、徹底して血の気の薄い男の物語となっているのであった。
おそらくこの映画がパルムドールを受賞した背景にはさまざまな政治的思惑が渦巻いているのだろうが、この映画の物語が想起させるヨーロッパの具体的な歴史ではなく、どこか旧約聖書めいた突き放した視線というか、次々に起こる出来事をひたすら描写していくばかりの記述スタイルに、この映画の特徴はあるように思う。
物語の前半は、フレームの切り取り方が妙に狭苦しく、これはあまり広げてしまうと余計なものまでセッティングしなくてはならないという美術予算の問題をはじめ、さまざまな要素が絡み合ってのものかとも思えるのだが、その後半、ソ連軍の侵攻が始まり、ポーランドが焼け野原になった挙句ドイツ軍が壊滅し、隠れていた主人公が表に出たとき、思い切りのロングショットとなり、どこまでも広がる焼け野原にたった一人ぽつんと立つ主人公が映し出される。
神に愛されたとしかいえない幸運で生き延びた主人公の生は、この死屍累々たる焼け野原の上にこそあるのだと、思わず納得してしまうような焼け野原の広がりに、ちょっとあっけに取られる。
確かに、彼に関わった人々、彼を助けた人々は、敵味方の区別なく皆バタバタと死んでいったのであった。
だから、物語終了後のクレジットタイトルのときに、ショパンのポロネーズの演奏終了まで延々と映されつづける主人公の指先の鍵盤の上の躍動は、血まみれの死屍の踊りのような迫力があった。
先日、娘が何故かビデオ棚にあったエリック・レッドの『ボディ・パーツ』を見ていて、私もつい、ブラッド・ドゥーリフに見入ってしまっていたのだが、あの映画の中で移植された殺人犯の「ボディ・パーツ」のように、この映画のピアニストの腕も誰かに移植されたわけではないが、彼の人生に刻み付けられた血塗られた廃墟の記憶は、確実にポランスキーによって引き継がれ、世界に株分けされたと言えるだろうか。

11月9日(土)

夜、ユーロスペースにて、フレデリック・ワイズマンの『バレエ』のトーク・イヴェント。
阿部君とこうやって対談するのは初めてで、阿部君はトーク前に「いつも早口になっちゃって時間が余っちゃうんですよ」と、笑う。
普段でさえかなり早口な阿部君がそう言うんだから本当にそうなんだろうと思っていると、やはりそうであった。
こういったとき、自律神経失調気味の私は自分のペースを守ることが出来ず、というかあらかじめ決められた自分のペースもないわけなのだが、相手のペースに合わせてしまうので、トーク終了後、ユーロスペース支配人の北条君から「今日はなんだか声がはっきりしていましたね」と言われてしまうほど、結構テンションがあがってしまっていた。
そんなわけで、ワイズマンのことも知らず、純粋にアメリカン・バレエ・シアターのバレエの裏側を見に来たお客さんには申し訳ないような、権力とそれとの闘争のあり方と、不自由さについての、怒涛の30分となったのだった。
その勢いのままうちあげに突入したので、こちらもまあ、かなりのものとなった。
最先端テクノロジーを駆使しつつ前近代的な映画作りを続ける日本映画界の話。
ちょっとした企画も持ち上がるが、これを形にすることはできるだろうか。
阿部君の小説も、映画化の話はくるもののなかなか形にならないそうだ。
こういった時間のかかり方に私はすぐいらついて、あっという間にやる気を無くしてしまうのだが、ワイズマンの映画に出てくる人々の絶望的な状況での飽くなき交渉の姿勢を見ていると、やはりもうちょっと気を確かに持たなくてはと反省するばかりである。

11月6日(水)

昨日の『SFホイップクリーム』の続きなのだが、海外撮影によって、日本では見ることの出来ないような風景とともに映画を作る、という意味で、試写を見ながら山川直人の『ビリィ・ザ・キッドの新しい夜明け』を思い出していたのだが、家に帰って送られてきた『スタジオボイス』をぺらぺらと見ていたら、それがDVD発売されるという広告が載っている。
「80's POPレジェンド再臨」というコピー。
うーん、POPかあ。
素朴な映画的憧れとともに作られていた『ビリィ・ザ・キッド』と、9.11以後の世界で確信犯的に公開される『SFホイップクリーム』の違いは、こうやって見ると明らかだ。

本日は、本来なら阪本君の『ぼくんち』の完成披露試写に行くところ、鼻水治まらず、よって回避。
夜、長嶌の関わっているいくつかの映画、テレビ番組の企画などなどの顔合わせで、篠崎と六本木にある某製作会社へ。
といってまだ具体的なものではなく、とりあえずの顔合わせというようなことなので、要するに、酒飲みながら馬鹿話をする会となる。
例によって篠崎も長嶌も、二人がちゃんと話をするはじめての機会とは思えないほど、全開。
暴言、問題発言その他諸々連発されるのだが、あまりに次々にあれやこれや出てくるので、ひたすら鼻をかむばかりの私は、鼻水とともにすべてを忘れる。
確か『ガス人間第1号』で、盛り上がっていたはずだ。
『忘れられぬ人々』には八千草薫をキャスティングして、三橋達也、八千草薫の『ガス人間第1号』コンビが40年ぶりに復活、というのを夢見ていたのだと語る篠崎は、笑いながらも、目は真剣。
しかし長嶌も、君の専門は一体何なんだと突っ込みを入れたくなるほど60年代特撮ものやお笑いネタは許容量十分で、篠崎の馬鹿話をどんどん増幅させていき、あきれるばかり。
関西人は恐ろしい。
どうやら篠崎企画の「刑事まつり」用、「刑事音頭」まで作ることになったような。
いや、「刑事ファンク」だったか。
果たして実現の可能性はあるのかは謎。
ただ、篠崎の話によると、すでに「2チャンネル」で「刑事まつり」のことが報告されているらしいので、これまたあきれる。
どうやらこの日記の一部が転用されているらしい。
いやはやすごいなあと思うしかないのだが、しかしそれをちゃんと見つけてくる篠崎もまた……。

家に帰り、新聞系のサイトをあれこれ見ていたら「ニューヨーク映画祭への参加を、アキ・カウリスマキが拒否」という記事を見つける。
テロがらみで、やはり映画祭に招待されていたアッバス・キアロスタミが入国拒否されたことへの抗議、ということだ。
共和党の歴史的勝利といい、アメリカは相当おかしなことになっているようにも見える。
とはいえ何をどうすればという具体案もすぐには思いつかないので、とりあえず、キアロスタミ原案による『突貫じじい』エピソード5を引っさげて、キアロスタミの代理の篠崎がニューヨーク映画祭に殴り込みをかける、というのはどうだろう。
小津生誕100年記念ということで。

11月5日(火)

寒さのためか、すっかり風邪を引いてしまった。
鼻水が止まらない。
病気への抵抗力などもうどこにもないので、ただひたすらなされるがまま、ズルズルと出てきた鼻水をかむばかりである。
家にいるときはとりあえずそれで何とかなるのだが、外出したときなど予想以上に鼻水が出て、持ち合わせのティッシュがなくなり惨めな思いをする。
だから基本的にこんなときは外には出ないのだが、いや風邪くらいでグズグズしていてはいけない、いい大人なんだしとか何とか突然焦りだし、無理やり試写に行ったりもして、でも用心のために風邪薬などを飲んだ日には、結局眠くなりぼんやりしたまま試写の時間を過ごすことになる。
そんなわけで瀬々君の『SFホイップクリーム』を見に行ったのだが、ボーっとして単なる役立たずになってしまっていた。
まあ、映画のほうもそんな役立たずの物語でもあったので、多分に救われた思い。
プロレスにも詳しくなく、この映画が参照しているという『不思議惑星キンザザ』も見逃していて、その他のB級宇宙ものもほとんど見ていないという、マニアの血の薄い私でもニヤリとする、気合の入った怪作となっていた。
フィリピンの廃墟を未来の惑星に仕立て上げるというアイディアは、こうやって撮影されてしまうと、どうして誰もこれをしなかったのだろうと思えてしまうのだが、これを実現させるためには相当な力技が必要だったのだろう。
ただ私としては、武田真治と松重豊のコンビもいいのだが、武田真治と石橋凌というコンビでこの映画を見たかったように思う。
よりゴージャスな役立たずの映画となったに違いない。

11月1日(金)

こんな雨模様の日は本来なら絶対に家から出ないのだが、どうも本当に体力がなくなってきたらしく家の中でぐずぐずしているともうどうにもならなくなってしまうので、最近は無理やり外に出ることにしている。
まあもちろん、出たからといって何ができるわけではない。
それもよし。
本日は、池袋ジュンク堂書店にCD-ROMの納品。
いろんな本が出ているのであきれる。
その後アテネへ。
篠崎の『浅草キッド』を見る。
編集時に、もううんざりするくらい見たのだが、仕事を離れてみるのはこれが初めてなのだ。
もういろんな事を忘れ始めているので、ようやく新鮮な目で見ることができる。
とはいえ自分が関わった映画をこうやって大勢の人と見るのは、それなりにドキドキする。
監督の人たちはこういったことの繰り返しが日常になっていくわけだから、その上どのような結果となるにしろ、対外的にはすべての責任を引き受けることになるのだから、これはもう大変である。
さすがの篠崎も、この1週間はほぼ毎日上映とイヴェントで、青ざめている。
だがあとから話を聞くと、その間に、ファンタスティック映画祭のオールナイトにも顔を出していたみたいだから、これはもうなんと言ったらいいのか……。
しかし、新鮮な目で見る『浅草キッド』は、ずいぶん立派な青春映画になっていた。
篠崎の編集粘り勝ち、という感じは、確実に伝わってくる。
ギャグの演出も冴えている。
コテコテのギャグも盛りだくさんで、それらを堂々とやらせてしまっているところなど、立派と言うほかない。
先日、予告編作りで関わった『ロックンロール・ミシン』のような映画を篠崎が撮ったらどうなるだろう。
映画作りは確かにそれなりに大きな額の金が動くので、最終的には自由が利かなかったり、慎重になったり、安全作に走ったりというようなことは、その意思に関わらず大いにあることなのだろうが、ほんの少し頭のやわらかいプロデューサーが、思わぬ企画を思わぬ監督にぶつけて実現させると、もうちょっといろんな動きが出てくるはずだ。
終了後、うちあげの席で、篠崎からいくつかの企画発表あり。
ひとつは、今回の『浅草キッド』上映中にも特別上映された、青木富夫さん主演の短編シリーズ、「突貫じじい」の続き。
今回の特別上映は5話までだったが、このシリーズはエピソード10まで作られるそうだ。
11月中には10まで仕上げ、12月には、完全版を上映する予定らしい。
今回の上映に関して、先週、この日記で報告しておいてくれと頼まれたのを私が忘れていて、余計なことを書いたり、大げさに書いたりはするくせに肝心なことは書かないと怒られる。
でもまあ、この日記は、余計なことと増幅された出来事によって成り立っているようなものだから仕方がない。
それからもうひとつは、短編『刑事』シリーズの企画。
フォン・トリアーの「ドグマ」よろしくいくつかの条項を設けて、その決め事に沿って、何人かの監督たちが刑事ものを撮るのである。
いくつか決まっているのは、タイトルに「刑事」の文字が入る、ギャグは最低5個以上ないといけない、監督自身がビデオ撮影する、人は必ず死ななければならない、などなど。
篠崎からいくつかのネタが披露されるが、これは書いてよかったのかどうか既に忘れたので、さすがに今日のところはやめておく。
同席していた黒沢さんも、引き受ける。
「僕はこう見えても負けず嫌いですからね。やるなら一番笑わせますよ」と、一言。
『勝手にしやがれ 英雄計画』の脚本を書いた大久保さんも、「脚本書きますよ」と乗ってきて、企画はほぼ成立。
これも年末か年始に「刑事(デカ)祭り」(仮題)と称して、上映の見込み。
篠崎は、黒沢さんが、ギャグばかりではなく、出演俳優も、豪華キャストを組んでくるのではないかと、既に疑心暗鬼にかられている。
篠崎のキャストは、とりあえず、青木富夫さんが刑事になることだけは決まっている。
青木さんはとんでもない人で、病気で片肺をとってしまったばかりなのだが、先日もタバコを吸い始め、篠崎が心配すると、「タバコが体に悪いなんていうのは、肺のあるやつが言うことだ」といって、そのまま吸いつづけているという。
そしてもうひとり、とある人物を驚かすために、秘密兵器に出演依頼。
これは、出来上がってのお楽しみ。
「こういうのはタイトルが面白すぎてもダメなんだよ」という黒沢さんの発言で、お開きになる。
などと書くと酒の席の馬鹿話のようだが、時に現実となってしまうので要注意である。
まあ、馬鹿話にかわりはないのだが。

それから二つほど訂正を。
ひとつは、10月28日付の中の、『人コロシの穴』についてのコメントで、人名表記を間違えてしまった。
貴田君は木田君。
私の知り合いに貴田さんという人がいるのと、木田君の名前が貴裕なんで、すっかりごっちゃになってしまった。
木田君申し訳ない。
もうひとつは、訂正というのではないのだが、29日付で『8人の女たち』に触れたが、ジョン・フォードの劇映画の遺作で「7 Women」というのがあるではないか、という青山からの指摘。
確かに。
私は未見なのでそれ以上のことは言えないが、さまざまな記憶と未来とが、あの映画のあの1軒の家の中で錯乱しながら渦巻く現在を形作っていたことは確かである。