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2002年 boid日記 10月

Text by 樋口泰人

10月31日(木)

nobodyのサイトの日誌で、梅本さんが『アカルイミライ』について、そして黒岩さんが羅針盤の新作『はじまり』について書いていて、どうやらともに「くらげ」がキーになっているらしく、一体これはどういうことなのかと思っていたら、本日は私もくらげの一日となった。
到着した郵便物の中に、リトルモアからのものがあり、何かと思って開いてみたら、羅針盤。
そう、『はじまり』はリトルモア・レコードからリリースされたのだ。
ジャケットは見事にくらげであった(裏ジャケ、とインナースリーヴ)。
午後から見に行った『アカルイミライ』もまた、東京の川に見事にくらげが浮かぶ。
くらげはどれも、こんなに見事に発光するのだろうか、それともある種のくらげだけなのか、光の当て方でこうなるのか、とにかく、『はじまり』も『アカルイミライ』もぼんやりとではあるが、誰も見まごうことないくらげの光を確かに発しているのであった。
だがその輪郭の不確かさは、かなり厄介である。
どこか中期バーズのデヴィッド・クロスビー作品(「It happens each day」や「Everybody's been burned」あたりか)にも似たメロウでサイケデリックなフォーク・ロックを、何層も積み重ねて出来た音の厚みの中から、ぼんやりと歌声が浮かび上がってくる。
いや、その音の厚みを、半透明の歌声が包み込んでいるといったほうがいいか。
おそらくヴォーカルを音の中心に集めないようなミックスがされているはずだが……。
例えば2曲目の「ねがい」という曲の金属的なギターの音がロジャー・マッギンの12弦ギターのように聞こえてくるのが、バーズを連想させた原因なのだが、その12弦ギターの2本セットの弦が作り出す二つでひとつ、ひとつで二つの音のように、このアルバムの歌も存在している。
それは、『アカルイミライ』の中での、浅野忠信とオダギリジョーの関係にも似た……。
これはどちらの物語なのだろうか。
表面上は確かに、オダギリジョー扮する仁村雄二の物語でもあるのだが。
梅本さんも書いているし、インタビューでは藤竜也も語っているように「3人の男は実はひとりの人物ではないか」という3人の男の物語という言い方もできる。
ただその時、3人は別々の役割を担うのではなく、同じようにありながら、自身を半透明にして重なり合っているという具合である。
そんな3人の姿が、あるときは電柱のちょっと上くらいの位置から電柱越しに見下ろされたり、床すれすれくらいの位置から見上げられたり、また、部屋の天上隅ににつけられた防犯カメラの映像のようにとらえられたりするものだから、さらにその重なり方の複雑さは増していく。
その複雑さが示すのは、この映画の語り手であるはずの黒沢清という人格の語りとしての位置の変化であるように思える。
藤竜也は「3人の男は実はひとりの人物ではないか」と言っているのではなく、正確には「3人の男がどれも黒沢さんの一部であって、実はひとりの人物ではないか」と言っているのだが、これは違う。
黒沢さんもまたその「一部」であるかもしれない「アカルイミライ」の物語を、とりあえずの代理として黒沢さんが語っている、そんな風情なのだ。
だからクレジットには「脚本、監督 黒沢清」となっているが、これはほとんど「nobody」ということだろう。
おそらくコンピュータ処理によるのだろう、どす黒い水の流れる川があり、高層ビルの周りに電気製品のリサイクル・ガレージや、『マングラー』を思い起こしもするおしぼりの洗濯・プレス工場や、取り壊し寸前のボロアパートや、おしゃれなカフェや、どこにでもあるような住宅街が展開する、外国人が見たらなんだかまったく見晴らしの利かないはずのどこにもない街の、そのあちこちにかすかに残った未来の記憶を、この映画は映し出しているようでもある。
ことさら強調されるビデオ映像は、まるで3000年後の世界で再生した『A.I.』のロボットのメモリー・チップに残された人間たちの映像のようなものかもしれない、などと思いながら見ていたのだが、気になったのは、女性たちがほとんど出てこないことだった。
くらげって単性生殖だったか、と思い調べてみると、雌雄異体ではあるが、生殖を受け持つ生殖ポリプから無性的に作られるということだから、これは無性生殖、ということなのかな。
つまり、配偶子は作られず、分化や分裂によって子孫が増えていく、ということで、突然変異は起こらない。
だから、そこに「怪物」が出現するとしたら、それは単に、私自身の中に埋め込まれていたものなのである。
もちろんだからと言ってくらげは何をするわけではない。

昨夜、久しぶりに PERE UBU のホームページを見たら、2月にロサンゼルスでデヴィッド・トーマスのディレクションによる3日間のイヴェントが行われる。
彼らのライヴだけでなく、『ミラー・マン』のアメリカ初公演、ロケット・フロム・トゥームズの1日だけの再結成ライヴ、ピクシーズの巨漢ヴォーカリスト(デヴィッド・トーマスといい勝負)フランク・ブラックのソロ・ライヴなど。
『ミラー・マン』にはヴァン・ダイク・パークスも出演し、ロケットの再結成にはリチャード・ロイド(テレヴィジョン)も参加。
UCLAでやるみたいで、これならかなり安全そうだしということで、我が家は子供も生活も放り出し、2月はLA。
日本にいてもろくなことないからまあ、たまにはということで。
それに、『ミラー・マン』が日本にやってくることもほぼありえないだろうし、PERE UBU だってもう無理だろうし。
報告は、このページでできると思う。

10月29日(火)

見逃していたフランソワ・オゾンの『8人の女たち』を見る。
これがなんとも素晴らしい。
なぜもっと早く見て大騒ぎしていなかったのかと悔やむことしきり。
まあ、簡単にいってしまえば、これは誰もが言っているように、ダグラス・サークなのである。
タイトルからは完全にアルトマンの『3人の女』を想像していたのだが、まったく違った。
冒頭のタイトルバック、いきなり宝石が映り、いかにもメロドラマですよという音楽。
おお、『悲しみは空の彼方に』ではないかと思っていると、次は雪の中に立つ一軒の家の脇にたたずむ鹿の姿。
これほどこれ見よがしにサークをやるとはたいした根性である。
しかもこの雪と家。
『天はすべて許し給う』ではないか。
当然、一体8人の女たちを使ってどんなメロドラマが始まるのか期待は募るのだが、これがまたあっけにとられるほどの展開。
いきなり歌われるフレンチ・ポップス、突然の銃声、唐突な衣装換えなどなど、本気と冗談すれすれのところで展開していく物語は、まるでクラフトワークのアルバムを聞くような微妙な距離感の中に、見るものを落とし込んでいく。
例えば、ジャック・リヴェットの映画でも、ツァイ・ミンリャンの映画でも、確かこのような唐突な歌を間にはさみながらの思わぬ展開を見せる映画はあったが、このやる気があるんだかないんだかよく分からない絶妙な振り付けとともに歌われる彼女たちの歌にこめられた喜びと悲しみの大きさは計り知れない。
その計り知れない大きさの中にどのように彼女たちを佇まわせるか。
彼女たちを見つめる監督の、そんな視線と意思のあり方が、さらに物語を展開させる。
その一軒の家は単なる一軒の家でもあり、世界のすべてでもあり、同時に、どこにも実在しない現実離れしたお話の中の家に過ぎなくもある。
だから当然のように、その「家」は「風とともに散る」ような、はかなさとともにあるのだが、だからこそのこのドタバタとなる。
三池崇の『カタクリ家の人々』も、およそこのように作られるはずのものであっただろう。
おそらくそこには予算の問題が、圧倒的な壁として立ちはだかってくるわけで、単純な比較は出来ないが。
だがいずれにしても、物語の最後、8人の女たちが横一線に並んで正面を向いたところで、私は思わず泣いた。
この喜びと悲しみと愛と憎しみとが充満する、しかしどこか上の空な希薄な時間と空間こそ、映画が描きえる至福そのものと言えるだろう。
いやあ、思わず「世界に愛と平和を」とか、叫んじゃいそうになってしまった(笑)。
「フィクション」映画はまだまだ終わってはいない。

家に帰ると子供がべそべそ泣いている。
どうやら子供の世界でも、愛と憎悪による小競り合いが頻発しているようだ。
致し方なし。
今はまだ無理だろうが、あと何年かしたら、今日の『8人の女たち』を見せてやろうと思った。
まあ、馬鹿にされるかもしれないが。

10月28日(月)

CD-ROMの発売その他であたふたしている間に、世の中はなんだかすごいことになっているのであきれる。
モスクワや世田谷や福岡の結構な出来事から、愛知での代議士暴行といった小競り合いまで、なかなか油断のならない世の中となった。
そんな事も反映しているのだろう、映画美学校の「ファースト・カット」シリーズのフィクションを3本集めた本日の上映は、ほとんどが製作関係者で、先日のドキュメンタリーの時のような、上映・批評・宣伝といった「その後」に関わる人々の姿はまばら。
世の期待はドキュメンタリーに集まっているということか。
本日の3本はすべて女性の監督作品。
3本の感触が似ているのはそのせいもあるのかもしれないが、特に『人コロシの穴』『カナ子』という2本は、妊娠と男女関係、親子関係という題材までよく似ていて続けてみるとなんだか区別がつかなくなるのだが、それ以上に、3本に主演する女優たちの行為の類似が目に付いた。
例えば鏡の前で何かぶつぶつ言う、ベッドの上を転げて床に落ちる、壁や窓ガラスに体を打ちつける、太股に伝う血をぬぐう、などなど。
それらの行為からおそらく多くの人が想像できるような物語的な意味をもって、それらは使われているのである。
その行為とそれが示す意味との直結のし具合が、3作ともほぼ似た感触なのだ。
もちろんだからどうだということではまるでないし、登場人物たちはどちらにしても何かをやらざるを得ないのだから、それが似てくることだって十分ありうることなのだが、それらを見せるタイミングや状況、意味までが似ているというのは、彼女たちがいかにそれらを単なる記号として扱っているかということの現れと言えるのではないか。
もちろんそんなことは、これらの映画に限ったことではないのだが。
そしてたしかにそれが映画である以上、俳優の行為は単なる記号である事だってあるのだろうが……。
ならばその記号をいかに見せるかということに知恵を絞ることも監督の仕事のひとつではないか。
例えば、ビデオで撮影された『とどまるか、なくなるか』では、3人の女子中学生たちが並んで歩くシーンの演出は、彼女たちの足の上げ方、歩くスピード、歩きながらの位置の入れ替えなどによって、とんでもない状況に陥りつつある主人公の「生」に、暖かな光を投げかけていた。
行為と意味とが直結する生々しさが決して示しえない光景が、そこにはあった。
この監督である瀬田なつきさんに、上映後、主人公がお墓の中の道を走って帰宅するシーンを何度も入れたのはなぜかとたずねると、「いえ、なんとなく、いいかなと思って……」と口篭もっておられたが、実ははっきりとした意図はあったように思う。
ラストシーン、兄が失踪し、父は単身赴任地でテロに遭い(果たしてテロだったか既に記憶にないのだが)、母も突然入院して死亡という家族の崩壊の中で生きていく主人公の住む住宅街の道路に、彼女は裸足で立つことになるのだが、その住宅街の道に、墓場の道は何度も重ねられていたはずなのである。
思い起こせば、彼女が墓場の道を走るとき、それぞれの墓につけられた住所表示(この墓の住所表示のことは、本当はなんと言うのだろう)が映りこんでいて、確かに番地でもないと目的地に行けないよなあと思いながら見ていたのだが、そんな表層的な意味でも彼女は「住宅地」の中を駆け抜けていたということになる。
つまり、その墓場としての「住宅地」の中でいかに生きるか、ということが彼女の課題となるはずで、この映画はようやくその出発点に立った、ということになるだろうか。
本日の3本の中では最も未熟さが目立った1本だったが、自らの出発点の位置を示したという意味で、確かにそれは、「ファースト・カット」であった。
『人コロシの穴』は、主人公の少女時代の記憶と現在とが重なり合いながら描かれていく。
時を越えての行為の連鎖が展開するこの物語に、もうひとつねじれが加わっていたら、と思う。
つまり、主人公の女性が、もしかすると自分もまた自分を育てた両親と同じ事をしていたかもしれないという可能性の上に立っていたら、ということである。
だから、時間の重ね合わせは、自分の記憶とのものだけではなく、両親の視点からの記憶とも行われることで、大きな広がりを獲得したのではないかと思う。
つまり、彼女の中に両親が入り込むような形で……。
boidの仕事を何度か手伝ってもらったことのある貴田君(主人公の恋人役)の声はなかなかいい。
この声だけで、彼は俳優としてもやっていけるのではないか。
『カナ子』は、プレスシートの解説によると、「どのシーンも急に始まったかと思うといきなり断ち切られ、時折、極端に断片的な回想が唐突に挿入される。下手くそといえばこれほど下手くそなドラマ進行もない」とあるが、私にはこの作品が最も説明的で分かりやすく見えた。
分かりにくかったのは、後半で主な舞台となる部屋が、主人公の部屋なのか、男の部屋なのかということだけで、後は上述したような行為と意味との直結という意味で、物事の区分けと序列付けがされていたと思う。
ただ、その分かりにくかった部屋こそが、この映画の「狂気」の生まれる場所であるはずだ。
その意味で、この分かりにくさはこの映画にとって非常に重要なものだと思えた。

10月25日(金)

久々の公開boid.net。
『恐怖の映画史 パート2』の発売記念で、黒沢・篠崎をゲストに、マリオ・バーヴァの『呪われた館』の上映。
平日の4時からという時間帯だったのでどうかなあと思っていたが、やはり、まったくダメではないが、予想最低限よりちょっといいくらいの入場者数。
もう少し何とかならないものかと思うが……。
PERE UBUだって来日ライヴは3日間で200人だったんだと、こういうときはあのライヴを思い出して元気を出すことにしている。
上映はDVDでのもの。
家のモニターの小さな画面で見るのとは違い、細部の微妙な変化がよく分かる。
その他の作品もそうだが、照明の見事さにあきれながら見た。
撮影所が機能していた時代のこのような作品は、目の毒というか、毒ではないのだが、もはやこのようなものは作られえないだけに、黒沢さんや篠崎はじめ、多くの監督たちにとっては、きつい記憶としてあるのだろうと、まあ、他人事のように思う。
トークのほうは、そういった撮影所のこと、恐怖映画と怪奇映画、幻想映画の違いについて、そして、サーヴィスコーナーに入ってからは、黒沢さんが持ってきた、怪奇映画における到着のシーンを集めたビデオ、篠崎は人間をおそう少女たちのビデオ。
怪奇映画における到着シーンの端的な描写と、ティム・バートンの『スリーピーホロウ』における導入の長さとの比較は、ロックンロールとロックの違いの説明のようにも聞こえ、印象的だった。
あるいは、ジュークボックスをメインにしたシングル盤の時代からアルバムの時代への変化、というふうに言えるかもしれない。
打ち上げでは、篠崎の薄い映画ネタ話で盛り上がる。
篠崎は26日から1週間、今度は『浅草キッド』の上映で、ほぼ連日のアテネ通いとなる。
本物の浅草キッドや寺島進、高田文夫など、まったくアテネらしくないメンバーが日替わりゲストとして来場するということなのだが、一体どうなるのだろう。

それから、先日の『あじまぁのウタ』のサブタイトルの「天上の歌声」だが、「元ちとせを意識したものだろう」と私は書いてしまったが、実は、こちらの上原さんのほうが本家であった。
もう数年前から、彼女の歌声はそのように比喩されてもいるらしい。
確かに、キャリアを考えてみれば、ごく当然のことであった。

10月24日(木)

昨日、ようやく『恐怖の映画史 パート2』CD-ROMが完成。
すっかり時間がかかってしまった。
こういうことがもっとさっさとやれるようになれればいいのだが。
しかしここにきてのハードワークがたたったのか、風邪を引き、具合が悪い。
まあ、いつものことではある。

昨日CD-ROM製作作業を手伝ってもらった人々も関係している、映画美学校の学生たちによって作られた「ファースト・カット」のシリーズが、今年度分もまた、11月からユーロスペースで公開されるのだが、そのうちのドキュメンタリー学科の人々の3作品を見た。
(「ファースト・カット」に関する詳細は下記のサイトへ
  http://1stcut.netfirms.com/ )
『記憶のない生』『ひとつぶの』『ヒノサト』という3本だが、映画美学校の学生が作ったという以外、特に共通したテーマのようなものはない。
『記憶にない生』は、ボケの一種なのか過去の記憶をほとんど失ってしまった92歳の老人へのインタビュー。
『ひとつぶの』は、手作り飴の職人の仕事振りを追ったもの。
『ヒノサト』は、画家である祖父の絵と、彼の手作りの蓄音機、そして、彼の暮らした町の風景によって構成されるスケッチ。
どれもまったく違う対象に、違う視点からアプローチしているのだが、3本続けてみるとなんとなく共通点のようなものが見えてくるから不思議だ。
これは彼らの共通点というよりも、多くの作品の中からこの3作を選んだ選者の視点、ということなのかもしれないのだが。
例えば『記憶にない生』が一番何に近いかといえば、『メメント』である。
昔の記憶がほとんどない老人に、彼のかつての職業や死んでしまった妻のことを尋ねると、老人は、「忘れた」と言いながら、ポツリポツリ都断片的な記憶を語る。
だが、その過去の記憶よりも、私にはどれだけ過去の記憶がないかということを説明する老人の現在の言葉の、確かに本当にゆっくりとした語りではあるのだが、しかしその語りの一貫性、明晰さに、ちょっと驚かされる。
私の知っている老人たちは、昔話は出来ても現在の話はほとんど出来ないのだ。
この映画の老人には、「現在」しかないのかもしれないなどと思っていると、7分というかなりあっけない時間で映画は終わる。
『メメント』の主人公の記憶は約10分だったから、ほぼそんなものか。
この老人も、7分後とに現在に立ち向かい、それ以前のことはすべて忘れていっているのだろうか。
『ひとつぶの』は、徹底して、職人や装置の仕事の動き、リズムだけを追う。
まるでフィルムの映写機のような、水あめをこねる機械の回転運動、鍋の中に入れられた水あめが沸騰死するあわ立ち、最後の仕上げでひとつぶひとつぶを丸めていく作業時の道具のこすれる音や転がりだす水あめの音。
職人はほとんどしゃべらず、それも、仕事に熱中する頑固者の職人、というイメージではなく、せっかく取材をしにきてくれたのに特に何も見せるものや語るべき事もなくて申し訳ない、といった風情。
時々、それらの仕事についてのちょっとした解説をして、それもなんだか、語るべきことのないお詫びのように見えてくるから不思議だ。
『ヒノサト』は、最後のほうになるまで、どうしてそれらが映されているのか、ほとんど分からない。
どこか田舎町の風景と、その何箇所かに飾られている同じ作者によるものと見られる絵、そしてある人物の、主語のない日記のような断片的な文章、という3つの部分から構成されているのだが、それらをつなぐきっかけ、説明がないのである。
繋がりや関係の分からないものが説明のないまま次々に描写されていって、それらの積み重ねの中でようやくそれらをつなぐ糸口が見えてくる、という、近年の若手監督たちの映画ではよく見かける構成が示すのは、実はその「主語」であるはずの人物が既にいない、ということである。
ぼんやりと、何を見るということもなくなんとなくそこにあって目の前のものを眺めているように見えるこの映画のカメラの視線は、既に死んでしまった画家の視線という風に言えるのかもしれない。
画家の描いたもの、行ったこと(日記)を手がかりにしながら、彼がかつて眺めていたはずのものを映し、同時にもしかすると今もそこにさまよっているかもしれない彼の魂の見ているものを映そうという、そんな試みだろうか。
これらの3作品ともに、実はこれは俳優が演技していましたといわれても、だまされた気がしない、演技でこれを作ったとしたらそれはそれで結構、というような不思議な印象を受けた。
あと一歩でフィクションに突入するようなアンバランスな場所に、作り手たちが位置している、というようなことだろうか。
だとすると、だからこそ、自分たちが何について何を作っているのかということに付いて、十分に意識的であってほしいと思う。

10月22日(火)

昨日の青山のライヴ・フィルムのタイトルは『あじまぁのウタ』というものであった。
りんけんさんの事務所の名前で、「交差点」という意味だとのこと。
まさに、二人の関係とその関係が示す場所=「天上」とが、タイトルに埋め込まれていたのであった。

本日は連日の五反田イマジカ。
黒沢さんのもう1本の新作『ドッペルゲンガー』の初号試写であった。
『アカルイミライ』が見られぬまま、『ドッペルゲンガー』が先になるというちょっとお間抜けなことになってしまったのだが致し方なし。
役所広司さん扮する研究員が身体障害者用の車椅子ロボットを開発している。
ノーベル賞をもらった田中さんタイプではなく、もうちょっと天才肌。
障害者の意思に直結して、その意思どおりの運動をこなす、限りなく人間に近いロボットを作ろうとしているのだが、もちろんうまくはいかない。
そんな彼の前に、ドッペルゲンガーが現れるのである。
このドッペルゲンガーが、通常我々のイメージするようなものと、かなり違う。
いやこれは私だけがそう思っているのかもしれないが、とにかく、例によって徹底して即物的なドッペルゲンガーなのである。
ことあるごとに、その即物性が現れて、私はひたすら混乱しつづけた。
しかも、『キャリー』などでフライシャーの『絞殺魔』の画面構成を70年代に引用したブライアン・デ・パルマをあざ笑うかのような、これまた徹底して大人な画面分割。
もちろんこれは、「ドッペルゲンガー」とのひとり二役芝居を、できる限りCGのお世話にならぬようどう作るか、という映画の要請の問題もあったのだろう。
現在のアメリカ映画なら間違いなくCG処理画面で、二人の顔もはっきりと映しこみながらの二人の肉体が接触するシーンなどを盛りだくさんに作るだろうが、今回はそれだけはやらない(いや、予算的にやれないのかもしれないが)と、心に決めたかのように、かつての映画のようなカット割と演出によって、二人のシーンを作り上げている。
ただ、まったくデジタル技術を使わないということではなく、何しろ撮影からして24コマのハイビジョン・ビデオであり、編集や画面分割ではもうすっかりデジタル技術の恩恵にもあずかっているわけで、そのデジタル最新技術を使い込んだ上で旧時代のフィルムの感触を出している、そのスタンスは、どこかこの映画の主人公に近い。
そんなわけで、主人公とロボットとの関係も、「現実」と「映画」というふうに読み込むことはもう思い切り可能となるのであった。
そしてそこにドッペルゲンガーが介入するのである。
映画の冒頭で、なかなか思うようにならないロボットの製作中、主人公と助手との間に大雑把に以下のようなやり取りがあった。
とりあえず映画のストーリーに直接関係してくるような会話ではないので、私の曖昧な記憶のまま書いておいても問題はないだろう――。

助手「もっと単純にしたほうがいいんじゃないですか?」
主人公「人間の意志は複雑なんだ」
助手「だからそこを単純にすれば、うまくいくのでは?」
主人公「複雑なものを複雑なまま作るんだ」

これを、映画を巡る発言だと考えても、十分に成り立つ。
だがそこに、ドッペルゲンガーが立ち現れるのである。
もちろんそれは、「意思通りに動くロボット」を動かす「意思」の問題そのものである。
しかも、その即物性によって、単なる自分の中の意思というよりも、自分の外側にあってなおかつ自分のものであるだろう意志であることが、明確にされる。
『映画は恐ろしい』という単行本のタイトルが思い浮かぶが、まあ、深読みは『アカルイミライ』を見てからにしよう。
それから、上述したようにこの映画も、ビデオからフィルム変換して作られたものだが、またもやほぼまったく見分けがつかなかった。
上映後、青山、高橋さんと3人で、一体どこがフィルでどこがビデオだったのかと話していたのだが、結局全部ビデオ撮影であったと黒沢さんに言われ、3人とも愕然としたのであった。

10月21日(月)

徹夜明けで、登校前の子供と朝食をとっていたら、NHKの朝のニュースで北朝鮮から一時帰国している蓮池薫さんに旧友がレコードを聞かせて旧交を暖めたというニュース。
その友人は誰のレコードを持っていったのかと思ったら、ブラッド、スウェット&ティアーズであった。
かつて二人でよく聴いていたらしい。

午後から、青山が監督したライヴ・フィルムの初号試写。
五反田イマジカにて。
りんけんバンドのヴォーカリストである上原知子をメインに据えたもので、おそらく劇場公開されるはず。
しかし既にタイトルを忘れてしまい、初号試写ゆえ手許に資料もないというこのいつもながらのいいかげんさに我ながらあきれるが、まあ、忘れてしまったものは仕方がない(実はこの上原知子という文字さえ怪しいのだ)。
確かサブタイトルに「天上の歌声」とかついていて、これはまあ、元ちとせを意識したタイトルなのだろうが、映画のほうもとりあえずそのサブタイトルに負けないたおやかな歌声と多少所在なげでそれゆえ確かにこちらを包み込む柔らかなシンセサイザーの音色から始まる。
初号ということで、フィルムの乾きの関係もあり、音はまだ安定していないということだが、試写室の周囲から立ち上がる音の壁の厚さはかなりいい。
5.1チャンネルの場合、音を分解しすぎて結局スカスカなものになっているのがほとんどで、これならモノラルでやってくれと大抵の場合思うのだが、これはそうではない。
柔らかに揺れる音の塊の中にいるようで、しかし、目の前にある映像は思い切りピントが決まっていて、その鮮明さとのバランスに、クラッとくる。
青山もたむら(まさき/撮影はたむらさんなのである)さんも、頭狂ってる。
上映後、たむらさんから聞いたところによると、たむらさんは、もうちょっとピントを甘くするつもりだったのだとか。
だがこれはこれで良し。
構成は、『カオスの縁』や『Phew Vido』と同じく、ライヴとリハーサルとインタビュー。
沖縄の風景は最後になるまでまったく出さず、ブースの外側のガラス越しにとらえられたインタビューで時折語られる思い出話も、照屋林賢との和やかなやり取りによって過度な感傷から常に遠ざかりつづけるので、「天上の歌声」というサブタイトルが呼び起こすエキゾチックな場所は、この映画には映らない。
それは、そうなることをあらかじめ排除したというよりも、この映画が彼女の歌を見つめる視線のあり方がもたらした結果に過ぎないだろう。
実はこの映画にとって、上原知子は主役ではない。
いや確かに彼女についての映画ではあるし、存分に彼女の歌を聴くこともできるのだが、常に彼女の脇にいて彼女と交信しつづける照屋林賢の存在が、視線を微妙にずらすのだ。
といっても、影の主役は林賢さんであるとか、結局彼女の歌を作っているのは林賢さんであるとか、そのような謎解きはこの映画にはまるでない。
単純に、彼女と彼との微妙な関係が、そこには映されているのである。
つまりそこに歌の生まれる場所があるということなのだろう。
だからあえて言えば、この映画の主役は歌である。
その歌の生まれる二人の関係を、「天上」と言うのだとしたら、それはなかなかいいのではないか。
「天上」は、厳しくもあり、同時にいいかげんでお気楽な場所でもあった。
一箇所、たった一つのカットワークで時間と場所が一気に切断されかつ繋ぎ合わされる感動的なシーンがあって、おかげで私はまたもやそこにないものを妄想してしまったのだが、何を妄想したかは青山に既に伝えたのでここには書かない。
上映後、たむらさんからちょっとした秘密を明かされる。
24コマのビデオ撮影ということで、普通なら思い切り遊んでしまいたくなるところをオーヴァーラップ以外はシンプルに仕上げているなあと思っていたら、どうやらそうでもないらしい。
我々の知覚できるか出来ないかのところで、あれやこれやストップモーションを入れたり、色をいじったりしているようなのだ。
それを話すたむらさんのうれしそうな顔は、まるで新しいパソコンか何かを与えられて喜ぶ子供のようであった。
しかしフィルム変換されたこの映画を見て、ビデオ撮影されたものだと分かる人は、一般観客の中に何人いるだろうか。
これは変換技術だけの問題ではなく、撮影技術の問題でもあることを、やはりたむらさんから聞いた。
フィルムとは違うその撮影時の露出その他の勘所を把握しさえすれば、フィルム変換しても画質にはもうまったく問題のないところまで、現像技術はきているのである。

10月20日(日)

カトちゃんからCDが届く。
カトちゃんといっても、クリスの方のカトちゃんである。
タイトルは『SOLO』。
このキャリアにしてはじめてのソロ・アルバムなのだが、思い起こせば、我々がビデオ収録した98年のライヴも、初めてのソロ・ライヴで「世界プレミア」だったわけだから、これがはじめてのソロ・アルバムでも何の不思議はない。
とはいえ、スタジオにこもって作り上げられた音ではなく、いつものように、ある場所と時間におけるインプロヴィゼーションが収められたものだ。
ビデオを撮ったおかげなのだろうが、これらの音の出る風景が、CDの音からするすると立ち上がってくる。
ただ、ビデオから直接立ち上がってくる想像上の光景より、CDの音の構成された空間のほうが、より広がりがあるので驚く。
ひとりでやっているのは分かっているのだが、ひとりでやっていないように聞こえる。
思いがけぬ瞬間に思いがけぬ音が聞こえてきたり、音と音との距離感が、あるひとりの人間の身体的な空間を、すっかり混乱させているのである。
いや、混乱というより、やはりこれが「カオスの縁」ということなのだが。
だから一生懸命聴かなくてもいい。
とはいえイージーリスニングとも違う。
この音に対する距離感とユーモアが、カトちゃんの真骨頂だと、改めてそう思う。
多分もう店頭には並んでいるはずだ。

10月18日(金)

午後から『アカルイミライ』の試写に行こうと思っていたのだが、例によって体調も思わしくなく、グズグズ。
どうせ混んでて見られない、とまあ、弱気な限り。
本当に久々にウォーレン・ジヴォンを聞いて泣いていたら、夜になって安井君から「wz」という件名のメール。
何かと思ったら、ウォーレン・ジヴォンが末期の肺ガンで余命2ヶ月という知らせ。
何ということか。
メールに記されていたサイトを見ると、本当に書いてある。
「残された日々は子供たちと暮らしながら、できる限りレコーディングをする」というような発言も。
そこのページからリンクしてあるオフィシャル・サイトにも同様な記事が記されているので、間違いなく事実だろう。
そこに掲載されているいくつかの最近の写真は、まだ十分たくましく、とても余命2ヶ月とは思えない。
何ということか。
先日、青山から電話があり、キャスリーン・ビグローの『K-19』のあのなんともいえない重たさはジョン・ヒューストンの映画に近いのではないかという指摘があり、確かにそうだという話をしていたのだが、実はウォーレン・ジヴォンだったということを、本日、CDを聞きながら思っていた。
「潜水艦の任務が終わって故郷に帰っても炭鉱に入るだけ」という乗組員たちの抱える重さが、自分を信頼して反乱をおこした部下を自ら処分して新任艦長と乗組員たちのその後の道の重さを引き受けつつその巨体を艦内の狭い空間に押し込めつづけるリーアム・ニーソンの苦い思いが、そこでは歌われている。
確かにそれは、「センチメンタル」なものではあるかもしれないが、それも承知の上で重いベースが刻むリズムの反復の中に、その音が終わった後も続くだろう反復を生きる光景を、我々は見ることになる。
その光景の鮮明さにおいて、ウォーレン・ジヴォンはニール・ヤングを上回っているように思えるのだが。
だからこそ、ニール・ヤングも何度かレコーディングに参加してもいるのではないだろうか。
いずれにしても、ジム・ジャームッシュは、早速カメラを抱えて、ウォーレン・ジヴォンの最後のレコーディングに駆けつけるべきだろう。
とりあえず、妄想上のラスト・レコーディング・ライヴ・フィルムのタイトルは『センチメンタル・ハイジーン』ということにしておこう。

10月17日(木)

昨日は銀座のガスホールで黒沢さんの新作『アカルイミライ』の完成披露試写があったのだが、10分ほど前に行ったら既に会場は満員。
階段のところで並んでいたら、アテネの松本さんが降りてきて、「いっぱいなんで帰ります」と、力ないお言葉。
その弱気に背中を押されるように、私も階段を下りる。
と、下のロビーにはスローラーナー越川、青土社の宮田君、などなどがオロオロしている。
一体黒沢さんの試写で、このような混乱を誰が予想しただろうか?
越川によると、どうやら出演者のひとりオダギリジョーが、今、かなり注目の人なのだそうだ。
舞台挨拶もあるしなあ。
というわけで、映画は見れず、釈然としない思いのまま、越川とお茶を飲みながらグズグズと四方山話。
おかげでジャマイカ戦も見逃す。
しかし、こんなに人が来るなら、25日のアテネでのイヴェントのチラシを配ってもらえばよかった。
いつもこういうことは、ことが起こってから気が付く。
こういうことにきちんと対応できないと、いつまでたってもboidはマイナーなままである。
トホホ。

本日は昨日の続きで、黒沢・高橋監修による『呪怨』。
清水崇監督は、映画美学校の第1期生で、黒沢・高橋の指導を受けていたという。
この映画については、黒沢さんからも高橋さんからも話を聞いていて、なんとなく予想はつけていたのだが、確かに、短編の積み重ねであった。
その重なり具合がなんとも絶妙でもあり、最後のほうで、登場人物たちの過去と未来とがひとつの空間の中で強引につなぎ合わされるその力技は、なかなかお見事。
私が最もすごいと思ったのは、テレビの画面がゆがむシーン。
それだけだと特別たいしたことはないのだが、この映画の最初から最後まで、幽霊が動くときのなんとも気持ち悪い音が配されていて、それは限りなく金属音に近いのだが絶対に金属ではない、骨がこすれたりゆがんだりするときに立てるのかもしれないとにかく硬い有機物の音で、その「ギギギギ」という音が、幽霊ではなくテレビ画面がゆがむ(その中の登場人物の顔がゆがむ)時にもするのである。
おお、電気信号までこの音を立てるのか。
あくまでも有機的な物体とそのゆがみを主張してやまないその音と、物体のない電気信号にしか過ぎない映像のゆがみとがつながれる、その奇妙な感触に、「怖い」というのではない「冴えた」発明の音を聞いた。
だがそれらの細部が積み重なって作り出すこの映画の物語の終わり方は、何かがうまくいっていない。
幽霊が主人公にようやく近づき、その幽霊と主人公との関係がなんとなく示されそうになるところで、例の硬い有機物のねじれる音が、柔らかな悲鳴のようなものに変わっていく。
その音が示していた、あくまでも物体でしかないにもかかわらず限りなく物体から遠いものが次第に人間らしいものに変化していくといったらいいのか、その変化の中になんだか突然「物語」が現れてくるように感じられたのだが。
短編感覚のエピソードつなぎで語られるこの映画をどのように終わらせるのか、物語の途中からかなり気にかけていたのだが、でも、ビデオでは「2」があるみたいだから、これはまだ終わってはいないということなのか……。
しかし、この映画をビデオで見る気には、絶対ならないな。
ひとりで、自分の家でこれを見るのは、物語がない分だけ、その細部が記憶に絡みつきそうで、ただでさえ最近、身の回りにちょろちょろとあれやこれやの気配を感じているだけに。
あの部屋の奥に、なんだかよく分からないものがうずくまっている感じ……。

10月12日(土)

日仏学院の「映画と音楽」という特集上映で、ティエリー・ジュスの新作短編をやるので見に行く。
大里俊晴氏の講演つき。
いきなり始まった予告編で、ジャンヌ・モローに、「料理をしないのは想像力のない証」と怒られ、ひたすら恐縮する(10月9日付日記参照)。
『デュラス 愛の最終章』という映画で、ジャンヌさんはマルグリット・デュラスさんに扮しているのであった。
ティエリーの新作短編は30分程度なので、その前に作った『ノエルの一日』も同時上映される。
久々に見たら、見たことのないショットがいくつもあって驚く。
いや、単に忘れているだけなのだが。
だが、この2年くらいの間に、編集しなおしていないか?
ミュージック・ビデオでよく見られるモノクロではなく、40年代50年代の犯罪映画のようなモノクロの使い方に、あらためてドキドキする。
特に、スタジオのミキシング室内での照明と人物の配置。
だが、やはり、ノエル・アクショテの音は、何度見ても何度聞いてもしっくりこない。
これは単に、私の育ちの悪さ、ジャズや現代音楽への許容量の狭さに原因しているのだが……。
新作『コードネームはサシャ』のほうは、主人公の胸に傷があるという設定に愕然とする。
やはり心臓の手術をしたというようなことを言っていたと思う。
ただ、イーストウッドは胸の中央に縦の傷だったが、こちらは胸の左側に横の傷。
しかしこの奇妙な一致はどういうことか。
イーストウッドに先駆けて、胸の傷ものをやってしまうとは。
物語のほうは、胸の傷とはあまり関係がない。
『セックスと嘘とビデオテープ』にも似た見ることを巡る男女関係が語られていく。
二人が男の家に入って、昔あこがれていた上級生のことを話すサシャのシーンは、ちょっとほろりときた。
早く長編を撮ればいいのに。
というのは他人だから言えることで、そのための資金集めの大変さはどこの国も同じだろう。
でも、30分くらいだと、とにかくそれなりに形になっちゃうし、後はいくら時間かけて編集しても、細部が洗練されていくだけだし。
もう助走は十分。
大里氏の講演は、秘蔵の映像やらありふれた映像やらなつかしの音源やらを駆使しつつの90分。
本人は「連想ゲーム」と言っていたが、これは明らかにティエリーの映画に即したやり方を選択した、ということだろう。
ティエリーの映画について語らないことで語っていくその回り道の楽しさ。
60年代のビル・オジェのあまりに激しい歌と踊りには笑ったが、アラン・タネールの『サラマンドル』のラストシーンの人ごみの舗道を歩く彼女の姿の姿を見て、ビル・オジェ=パティ・スミス説を唱えた私は、ただただ納得。
しかしリタ・ミツコ……(これは会場にきた人でないと分からない)。
終了後、市ヶ谷駅へひたすら走る。
6時までに家に帰らねばならなかったのだ。
映画を見た後の無駄なおしゃべりの時間は、映画を見ることにとってとても大切な時間なのだが、どうにもならない。
梅本さん、大里氏などにも挨拶もできず、電車の中で汗だくになっているという情けなさ。
うーん。

10月10日(木)

クリント・イーストウッドがまたもや同じ物語を作った。
『我が心臓の痛み』。
まるで映画とはこのひとつの物語を繰り返すだけのものだと確信しているかのような当然さで、何の衒いもなく見慣れた物語を反復している。
ただ今回、大きく違うのは、イーストウッドの傷が、背中ではなく胸にあることだ。
その胸の傷を、これ見よがしに何度も何度も見せる。
こともあろうに、殺された姉の復讐をイーストウッドに要請する妹に、その胸の傷を触らせて、キスまでさせているのだ。
クリント・イーストウッドとは、その傷そのものだとでも言いたいのだろうか。
そしてその傷の向こうには何があるのかといえば、その妹の殺された姉の心臓である。
イーストウッドは、心臓移植された元FBI捜査官という役回りなのである。
つまり今回は、一度死んだイーストウッドが現代医療のおかげで蘇り、自分の内部に置かれた他者の心臓の復讐をせよという指令を受けるという展開となっているのだ(ニック・カサヴェテスの『ジョン・Q』と、遠くこだまする)。
その主治医に扮するアンジェリカ・ヒューストンが貫禄の演技を見せていて、これはなかなか見ものなのだが、その主治医がまだ手術が終わったばかりなのだから絶対にそんな捜査などするなと止めるのだが、「私じゃない、この心臓(ハート)がやらせるのだ」というような台詞まで用意されている。
脚本は「ペイ・バック」「ロック・ユー」の監督でもある、ブライアン・ヘルゲランド。
おそらくイーストウッド・ファンなのだろう、物語の中にも、さまざまなイーストウッド的記号がちりばめられている(ただ、原作があるので、はっきりとは言えないのだが)。
「no one」「no-one」「nobady」というゴダール的な言葉遊びから、「荒野のストレンジャー」の「名無し」にまでつながる連続殺人犯像は、その意味で心臓移植までのイーストウッド自身でもあるだろう。
この殺人犯は、「コード・キラー(記号殺人鬼)」と呼ばれているのだが、つまりそれは、既に記号化されてしまった自らの過去に復讐を果たす物語というふうにも読むことが出来、心臓移植による蘇りという物語とも考え合わせると、この歳にして更なる「宙返り」を狙う巨匠の野心満々な新作とも言える。
しかも一見、これまでの物語とほぼまったく同じ構造をもつ物語を語りながら。
だがまあ、そこまで考えるのはこちらの問題でしかないということをこそ、記号をたどることで浮かび上がる犯人像はことごとく間違っているという、この映画の物語は示している。
いつものジャック・N・グリーンにしては、カメラワークも色調整も頼りないなあと思っていたら、これまでの映画で照明技師をやっていた人の初撮影作品となっていた。
となるとやはり、イーストウッドは蘇りのための新しい血を求めているのか?
ああそれから、言うまでもないことなのだが、レニー・ニーハウスの音楽が、本当に絶妙のタイミングと音色で流れてくる。

10月9日(水)

今週は、月曜日も火曜日も試写に行く予定だったのだが、行こうとするたびにちょっとしたアクシデントが起きて行けずじまい。
本日はジャ・ジャンクーの新作『青の稲妻』。
試写室に入ると何故かジョイ・ディヴィジョンが流れている。
最近、仕事で70年代アメリカをテーマにした2時間分の選曲を頼まれて、昨夜はテレヴィジョンの『マーキームーン』をおよそ15年ぶりくらいで聴き直したばかりだったこともあり、さすがにちょっと驚く。
ジョン・ディヴィジョンも多分、15年以上聞いていないと思う。
などなど思い出にふけるうち映画が始まり、画面に現れたタイトル字幕を見ると、この映画の英語タイトルが「Unknown Pleasures」になっている。
なーんだ、それでジョイ・ディヴィジョンだったのか。
ただ、試写の前に流れていたのは「Unknown Pleasures」じゃなくて、「Closer」の方の曲ではなかったか?
うーん、さすがにもうどちらがどうだったか曖昧極まりないのだが。
でも映画のほうは、ジョイ・ディヴィジョンとは関係なし。
試写の後にこの映画のプロデューサーでもある市山氏に聞いたのだが、どうやらカメラマンのユー・リクァイがジョイ・ディヴィジョンのファンで、そんなところから英語タイトルが決まったのだという。
それで映画のほうは、まずいきなり篠崎が出てくるので驚く。
それもほぼ主役。
篠崎本人は今ごろバンクーバー映画祭で、確か帰国は11日と言っていたはずだが、どちらにしてもまだ見ていないとのこと。
これだけよく似た男が堂々とスクリーンに現れて、それももう既にカンヌをはじめとする映画祭で上映されていると知ったら篠崎はどう思うだろうか。
映画に出演中の「篠崎」は、まだ学生で、この映画のためにスカウトされたという。
次回作は、ユー・リクァイの新作「All Tomorrow's Party」に出演とのこと。
いずれにしても日本での舞台挨拶は、ジャ・ジャンクーと篠崎との対談というのはどうだろう。
まあそれはそれ、青春映画であった。
総体としての印象は、神代辰巳とヴェンダースを立て続けに見たような感じ。
と書いてしまうと、これは「そんなにすごいのか」と思われるのだろうか、それとも「何を今更」と思われるのだろうか。
そのどちらでもある、と言えば、このなんとなく歯切れの悪い、しかしこれでいいのだ、という感触が伝わるだろうか。
ただカット変わりの「間」の演出はどうなんだろう。
特に、「篠崎」が徴兵検査を受けるときの検査待ちの若者たちをゆっくりと映していくときのショット。
他のやり方はなかったのだろうか。
この「間」の演出と、あとは「反復」が、この映画の演出の特徴であった。
DJクラブのようなところで「篠崎」ではないもうひとりの主演の若者がチンピラに殴られるシーンでは、流れている音楽の反復するビートに併せるように、ビンタとチンピラの台詞とが何度も繰り返される。
その時、おそらく、台詞は、その場で俳優が言ったものではなく、あるいはその場で言ったものの1回だけを、繰り返し流していたように見えた。
微妙にリップシンクしないその反復とズレの中に、彼らの青春があるのだろう。
風景も風俗も、日本でいえば戦後の焼け跡から現代の渋谷あたりまでが同居する現代中国の地方都市の現在の空気を映すことで、この映画はその大きな時代の変容を映し出そうとしているように見えた。
つまり、流れを線的に見せようとするのではなく、ある時、ある場所という動かぬ一点を見せることで、その前後の変化を見せようとする試みのように。
おそらくそれゆえ排除されたはずの、世代の違う大人からの視点の不在が、気になるといえば気になるのだが。

試写後、元ユーロスペース、現在は金沢のミニシアター「シネモンド」総支配人である土肥さんに会う。
3年ぶりくらいか。
5歳を筆頭に1年おきに3人の子供を持つ彼女の子育て話を聞く。
どうやら旦那というのがよく出来た人で、週に2回ほどの保育園のお弁当の日には、出勤前に3人分を作り、日々の洗濯等もやるのだとか。
私の周りには弁当作りに長けた夫たちが多く、もっぱら片付け係をやっている私としては、頭が下がるばかり。
我が家でも時には私が、とも思うのだが、料理はうまいに越したことはないという機能的な判断から、ついつい妻任せになっているのだ。
片付けるのは特に何も考えなくてもできるけど、作るのはメニュー考えるの大変なんだよなあ。
許容量の少ない私の頭ではとても出来ない。

家に帰るとケン・ローチの『スイート・シックスティーン』の試写状が到着している。
『青の稲妻』のプレスシートに載っていた、海外プレスのコメントの中に「ドキュメンタリーとしてもドラマとしても体をなしていない『Sweet Sixteen』と対照的に、『青の稲妻』はその両面において成功をおさめている」という「ヴィレッジ・ヴォイス」紙の評があり、この『Sweet Sixteen』というのは一体誰のどんな映画なのかと疑問に思っていたところだったので、思わず笑ってしまう。
これはぜひ見に行かねばなるまい。

10月3日(木)

ついにソクーロフ『エルミタージュ幻想』。
とはいえ、本日もまた、危ないところだった。
時間の余裕があると思ってCD屋などをうろうろしていたら、腕時計が電池切れで止まっていたのだ。
慌てて渋谷の町を走る。
ようやく公園通りの坂を登りきり、NHKの敷地内にたどり着くのだが、そこからがまた長い。
建物はそこに見えているのに、なかなか行き着かないのだ。
東京とは思えないほどの敷地の広さのため、完全にパースペクティヴが狂う。
かつてヒューストンの街中を歩いていたときのことを思い出す。
こんなところで毎日働いていたら、そりゃあ人格代わるだろう。

映画のほうも、サンクト・ペテルブルグにあるエルミタージュ美術館を使って、ハイビジョンカメラでの1カット撮影、というのが売りになっていたのだが、したがって当然手持ちカメラであり、おそらくステディカムを装着しているのだろう、過剰なほどに滑らかに動くのだ。
これがなかなか気持ち悪く、最初のうちは、もう、ほぼ船酔い状態。
それに、画面には登場しない、カメラの視線の主体(この映画も、『ブレアウィッチ・プロジェクト』などと同じく、一人称の視点で語られていく)のつぶやきのような声がかなり頻繁に聞こえ、画面内での会話や人々のやり取りと重なるので、字幕を読むのが相当きつい。
すぐに、字幕を読むのを諦める。
しかし、ソクーロフがエルミタージュ美術館をハイビジョンで撮ったというとこで、私は勝手に、展示されている美術作品の断片を次々に撮影してそれらをつなぎ、重ね合わせ、照明を変え、ひとつの壮大な美術作品を作ったのかと思っていたら、まったくそうではなかった。
なんと、そこがまだ旧ロシア皇帝の宮殿だった頃へとタイムスリップするのである。
ワーグナーのことを「若造」とか呼んでいたから、おそらく19世紀半ばだろう。
資料がないのではっきりとは分からないのだが。
馬鹿でかい建物内に飾られた美術品はそのままで、そこに当時の人々がこれでもかと登場する、あきれるほどの大掛かりなコスチューム・プレイなのである。
だが、当時の人々だけではない、現代の人々も登場する。
タイムスリップではなく、19世紀も20世紀もほとんど誤差のうちでしかない、遠い未来の視線によって見つめられた映像、ということなのだろうか。
とにかくカットなしに移動し続けるカメラに合わせてすべてがコントロールされているその「自然さ」とばかばかしいほどの贅沢さに驚くが、なんだかこれは、スタジオワークにたけたミュージシャンがライヴをやる羽目になり、しかし素のままでライヴをやるわけにも行かず、結果としてただひたすら神経症的にあれやこれやを詰め込んでしまった、そんなライヴを見ているようだ、というような思いが浮かぶ。
かつてパルコで行われたレジデンツのライヴは、それはまあ、スカスカで、あれはあれでどうしたものかと思ったが、これはその対極にある。
ヴァン・ダイク・パークスやブライアン・ウィルソンのライヴは、大分お年を召してからのことだったので、そこそこ余裕も出て、そういったハラハラするような感じはなかったが、ソクーロフはそうではない。
さすがにいくらとんでもない時間と技術力と芸術への意思がそこに働いていても、そんな神経症に付き合う義理は私にはないので、ひたすら船酔いに身を任せていると、周りの人々はかなりの確率で本物の眠りに入っている。
だけど、これは本人はどう思っているのかは分からないのだが、ちょうど眠りに落ちそうになるあたりのタイミングで、どう見ても冗談としか思えないような、馬鹿みたいなことをやっているのである、ソクーロフさん。
思わず笑う。
しかし果たして、これが冗談ではなかったとしたら、ますます失礼をしているなあと、不安だけが増幅する。
これまた神経症ということか。
だが、最後の、巨大広間での大舞踏会のシーンでようやくその神経症にピリオドが打たれる。
いや、正確には、その舞踏会が終わったあたりで、ということになる。
一体そこには何人の人がいたのだろうか。
数百人? あるいは千人を超えていたか?
同じ広間で、おそらくそれだけでも相当な場所を占めているはずなのだが見た目には広間のほんの一角に位置しているに過ぎないオーケストラの演奏が終わり、集まった人々が、名残惜しそうに、まだ高揚した気分を半分以上その広間に残しながら、ゆっくりと、ダラダラと、出口へ向かう。
そのなんともいえない、ライヴが終わった後の、奇妙な淀み。
ライヴ会場と現実世界との両方に気持ちは広がりつつ、しかし、足だけは、その淀んだ気持ちをしっかりと裏切りつつ、確実に一歩を踏み出していく。
おそらくこの気持ちの、いやソクーロフなら魂というだろうが、その魂の広がりと足の裏切りを示すためにこそ、この壮大な仕掛けと1カット撮影が必要だったのではないか。
編集不可能な一続きのライヴ演奏と目くるめく舞台装置が作り出す視界の巨大な広がりと共に、何かの確実な終わりを、我々は実感することになる。
ヨーロッパの終わり……。
だが、その後は?
渋谷の人ごみの淀みを、私はいらつきながら歩く。
景気付けに、何年ぶりかでスージー・クアトロを聞く。
「悪魔とドライブ」は、今聞いてもムチャクチャかっこいい。