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2002年 boid日記 9月

Text by 樋口泰人

9月30日(月)

安井君ではないが、雨模様の天気と台風接近の気圧低下のためか、気分が重い。
思ったよりも気温が高く、湿気もあり、どうにもこうにも。
じっとしていてもつらいだけなので、久々にヘラルドの試写室へ。
キャスリーン・ビグローの新作『K-19』である。
ハリソン・フォードとリーアム・ニースンが、60年代ソ連の原子力潜水艦の艦長と副艦長に扮する。
物語がなかなか始まらない。
いや、映画が始まっている以上当然物語りも始まっているのだが、確かに、ちょっとした驚かしもありの冒頭のエピソードもついているのだが、いわゆる「イントロ」という感触がないのだ。
なんと言えばいいのか、物語の途中から観始めてしまったような、そんなあっけなさで、観る側ではなく、潜水艦の中にいる登場人物の側のペースで物語が語られていく、というような感じ。
観る側をベースにしての、「起承転結」という決まり事が、どこかで無視されているような、ある単調さによって、エピソードが重ねられていく。
最初は平板なものであったそれらのエピソードは、繰り返され、重ねられていくうちに平板ゆえの厚みを獲得して、北極海を覆う雲のどんよりとした憂鬱にも似た重い空気を潜水艦内に充満させていく。
5.1チャンネルで作られた、デジタル・サウンドが、モノラルのアナログ・サウンドのような厚みのある音空間を作り出している。
音作りというよりも、この語りのリズムの単調さの積み重ねが、そのような空間を感じさせてしまうのだ。
任務途中で事故をおこすこの潜水艦の多くの乗組員のそれぞれに焦点を当てていけば、おそらく、ルー・リードやエイミー・マンのアルバムのようないくつものアメリカの物語(この映画の場合はソ連だが)を語ることは可能だが、この映画はそれをしない。
愚鈍さを恐れることなく、次々に行われる訓練の数々と実際に起こってしまった事故の対応という潜水艦内での行為だけを、ゆっくりと見せていく。
ちょっとした退屈な会話から、観客は、乗組員の何人かは、任務が終わると炭鉱労働者となり、潜水艦以上に地上の光を見ることの出来ない生活を、この先何年も送るだろう事を知る。
艦長のあまりに非人間的な言動に関しては、観客も乗組員たちと同様、戸惑うはずだ。
ある程度の状況説明はつけられるものの、しかし最後までその真意はわからない。
したがって、始まらなかった物語は、終わりもしない。
憂鬱な厚い雲は広がったままだ。
つまり、これは冷戦時代のソ連の物語だが、アメリカの物語でもある。
世界中を、この重い雲が覆っている。

9月27日(金)

青山・長嶌と夕食会。
安井君も参加する予定だったのだが、天候の都合によりキャンセル。
朝、今にも雨が降り出しそうな空を見て、安井君は大丈夫だろうかと思っていたところにメールがあり、「だめだ」という「件名」をみただけですべてを把握。
あまりのタイミングのよさに笑ってしまう。
安井君の「病状」を知らぬ人にとっては、一体「天候」と体調とがどう関係があるのかと思われるかもしれないが、あるものはある。
待ち合わせ場所に現れた青山は、半袖のTシャツ1枚。
どちらかといえばかなり厚着の私も長嶌も、あきれる。
そんなに寒くはないと言われてしまえばそれまでだが、あの時間、半袖のTシャツ一枚でうろうろ歩いていた人間は、東京中で一体何人いただろうか。
まあ、余計なお世話だが。
夕食は、恵比寿「ソナム」。
BOX東中野の常連さんにはお馴染みかもしれないが、東中野に「松屋」という韓国料理屋がある。
ここがなかなか美味。
職場がすぐそばの私の妻は昼食時には愛用しているのだが、昨年、この店が恵比寿に姉妹店を出したのだ。
「ソナム」とは、韓国語で「松」という意味らしい。
一度は新店舗の方を覗いてみようという好奇心から、本日の選択となったのである。
妻のお薦めの「カムジャタン」は、骨付きの豚肉とジャガイモなどを胡麻ベースのスープで煮込んだ鍋なのだが、最後のおじやがいける。
和食の鍋でもおじやはするが、それとは迫力が違う。
これなら私も半袖1枚で大丈夫かも。
あとは、はらみ、ちぢみ、できたてキムチが美味。
うまいキムチしか食えず、下手をするとアレルギー症状を起こすという贅沢な舌を持つ私もこれならまったく問題なし。
とはいえ、相変わらず極端な早起きが続く私はすでに「おねむ」の時間で、時々気が遠くなっている。
唐辛子も眠気には勝てない。
話題の中心は、「愛」について。
いや、まあ、愛を巡る諸々とタイタニック号について、かな。
どちらにしても、具体的なことはここでは書けない。

家に帰っても胃の中で唐辛子が燃えている。
眠くて仕方ないのだが、簡単には眠れず漫然とした時間を過ごす。
青山が持ってきてくれたエイミー・マンのニューアルバムでも聴こうかと思うがやめ、低音のビートが頭をくらくらさせるスラムヴィレッジの新作を聴いて、このなんともいえない時間をやり過ごす。
ジェイ・ディー脱退後、初のアルバムとなるのだが、メンバー・チェンジの影響というより、アルバム製作に対する意図の違いがはっきりと出ている。
物語のジャンルの違いではなく、モノクロで撮るかカラーで撮るか、シネスコで撮るかスタンダードで撮るかというような形式上の差異と共に音を作り上げていったという感じだろうか。
時折聞こえてくる、ジャー・ウーブルのようなベース、アナログ・シンセ時代のクラフトワークのようなビリビリと震える電子音などは、ロック・ファンの心もくすぐるだろう。
明日は、子供の学校でお化け屋敷である。
妻はその担当で、お化けその他の脅かし音源にいいのがないというので長嶌にCDを作ってもらっていた。
永久保存版。
杉並第十小学校のお化け屋敷では、少なくともこれから数年は長嶌の音が聞ける。
まあ、子供たちや先生たちには関係ないことだが。

9月26日(木)

ここにきて極端な早起き生活に陥り、まあ、それでうまいことやっていけたらそれはそれで結構なことなのだが、なんだかずっと時差ぼけしているような、はっきりしない日々。
とはいえぼんやりしていても1週間は簡単に過ぎていくから不思議だ。
先日、某配給会社から、「今後、宣伝関係の資料、写真などのデータをネット上に置くので、そこに登録してほしい」という内容のお知らせが届いた。
これだけ宣伝媒体が増えると、宣伝を行うほうもどこかでそのような一括化に踏み切らざるを得ないだろう。
試写状とかも、いくつかの配給会社からはメールでくるが、どこかが一括して試写日程をまとめて送ってくれたらどんなに便利か。
そんなことを常々思っていたこともあり、とりあえず登録ページにアクセスしてみた。
当然、さまざまな事項を記入しなくてはならない。
書いている媒体の名前とか、その媒体の種類や形式、販売対象などなど。
それらを書き込んでいるうちに、というか、既にいろんなジャンルが設定されていて、こちらはその中から選べばいいだけなのだが、それだけによりいっそううんざりする。
雑誌の代理人にでもなった気分である。
私は単に、「・・・・・」という雑誌に書いている人として認識され、雑誌の連載などが終わればそれっきり、ということになる。
これはもう、住基ネットどころの騒ぎじゃないよなあ。
馬鹿らしくなったが、まあ、登録だけはしておく。
boid.net 上にも、勝手に写真などを使ってやろう。

水曜日は、今度こそNHKにソクーロフの試写に行こうとしたのだが、途中でHMVに引っかかり、それっきり。
このところ意識してCDを買いに行かなかったのだが、いったん入ってしまうともうダメである。
それにあの、試聴のシステムが……。
あれこれ聴き続けていると、簡単に時間が過ぎる。
それにしても、ティンバランドの働き振りには目を見張る。
結局、ベック、スラム・ヴィレッジ、アンジー・マルティネス、DJ Rolando、Shade Sheistなどの新作を。

本日はフランソワ・オゾンの『8人の女たち』を見に行くはずだったのだが、あれやこれやをグズグズやっているうちに時間が過ぎる。
早起きはしているのだが、事はなかなか思うように進まない。
依然時差ぼけは続く。

9月19日(木)

この数日は、テレビの「リアルタイム・ショー」の天下であった。
こうなると「タマちゃん」も「横田さん」もほとんど見分けがつかない。
そんなときにフィリップ・ガレルの映画を見ると、それが映画であるというだけで、私がここにいるという確かさを信じることが出来る。
本日は、ようやく間違いもなく映画美学校第2試写室にたどり着く。
「白と黒の恋人たち」。
前回、日仏学院で見たときは字幕もなく、同時通訳のイヤホンもない状態で、まったく解せぬフランス語に耳を傾け、モノクロ・シネスコのスクリーンに見入っていただけなのだが、今回ようやく字幕付きで見てみると、案外細かいところまで把握していたので驚く。
というか、そこにあるものをはっきりと見るための時間と、距離が、ここにはあるのだ。
繰り返されなくても、十分に分かる。
1回限りのその一瞬を捉える、というのとは違う。
何度も繰り返されてきた挙句のその1回限りのものと言ったらいいだろうか、洗練ではない繊細な「wild inoccence」がそこにはある。
そこでは、主人公の映画監督によって作られつつある映画と、彼の現実と、寝ている間に見る夢とが区別なく描写され、また、ヘロイン撲滅を意図して作られている映画がヘロイン売却の資金によって作られ、映画の主人公の女優であり監督の恋人はヘロイン中毒になるという、もはや誰も逃げられない連鎖が登場人物たちを覆っているのだが、ゲームのようにそれが解きほぐされていくわけでは決してない彼らの困難な歩みによって、それを見る我々もまた、ある複雑さを体得する。
その連鎖が唐突に断ち切られるラストシーン、オーヴァードーズで倒れた女優を乗せて去っていく救急車をとらえたショットは、それを見つめている監督やスタッフたちのものであると共に、救急車に乗せられた女優のものでもあるような。
確か、映画のロケハンで、自らの実家だったか物語のモデルとなった女の実家だったかを訪れた監督に、「もっといい場所は他にもあるのにどうしてここを使うのか」と、助監督は釈然としない思いを語るのだが、「いや、でも、ここが原点なんだからここでいいのだ」と監督は応えていた。
映画にとって単なる対象に過ぎないものを主体化することによって世界を反転し、見ることが同時に関わることであるような、対象との距離感の変容を、この映画はもたらす。
それは「リアルタイム・ショー」のもたらす距離感の喪失とは正反対のものだ。

9月13日(金)

夏の間ずっと保留状態だった次回公開boid.netの内容がようやく決まる。
10月25日の金曜日、「恐怖の映画史 パート3」である。
ちょうど、8月から発売が始まったマリオ・バーバ・コレクションと「恐怖の映画史 パート2」の発売記念。
DVDでの上映になるが、とにかく今回のコレクション作品の中からの1本と、黒沢さんの最も得意とするヨーロッパの怪奇映画の話になる。
本来なら「白い肌に狂う鞭」か「血ぬられた墓標」が出来ればよかったのだが、諸事情で願いかなわず、「呪いの館」か日本初公開(DVDは10月11日発売)の「知りすぎた少女」になると思う。
「恐怖の映画史 パート2」cd-romは、多分10月半ばには発売できるかな。
夏の間すっかりしょぼくれていたが、涼しくなってきてさすがにぼちぼち動き出さないと、というところではあるのだが。

本日はジェニファー・ロペス主演の「エンジェル・アイズ」。
ジェームズ・マンゴールドの監督だとばかり思っていたのだが、入場のときもらった資料によれば「メッセージ・イン・ア・ボトル」などを撮ったルイス・マンドーキだと書いてある。
その他どこを探しても、マンゴールドの名前はない。
うーん。
マンドーキとマンゴールドを勘違いしてしまったということなのか……。
まあよい、ジェニファー・ロペスである。
今回は、シカゴ警察の警官に扮するのだが、サスペンスでも犯罪劇でもない。
タフな暮らしを続ける彼女と家族、そして恋人との物語であった。
女性警官が主人公のホームドラマ。
きつい状況設定の中の物語だが、要するにアイドル映画である。
そうなってくると、泣かせどころが問題となってくるのだが、それをビデオカメラに向かっての長台詞でやってしまうという演出。
台詞だけでなかせることも出来るという彼女の演技力を見せなくてはならないというような枷でもあったのだろうか。
結婚式のスピーチなどは、このようにすればいいのかと、ファミリーとの公的な付き合いになるとついドキドキしてしまう私は、それなりに感心しながら見る。
しかしジェニファー・ロペスは歌手としてブレイクして以来、どうしてもそちらの人気に引きずられて、どうもよろしくない。
どうせなら、瀬々君が彼女を主演にして「ドッグ・スター」をリメイクするというのはどうだろう。
かなり泣かせてくれると思うのだが。

この何とも中途半端な状態を引きずったまま帰宅するのも具合が悪く、ホラーでも見て刺激するかと思い立ち、「パニック/脳壊」へ。
しかしこれまた資料を見ると、ホラーでもスプラッターでもなく、殺し屋のホームドラマであった。
「脳壊」という文字だけで、勝手にスプラッターだと決め付けていたのだ。
「ブレインデッド」とかそのようなものではないかと……。
主人公の殺し屋は、「マグノリア」でかつての天才少年君のなれの果てを演じたウィリアム・H・メイシー。
誰がどう見ても殺し屋には見えない彼が、ドナルド・サザーランド扮する父に仕込まれて殺し屋になったものの、中年を過ぎて悩み始め、壊れつつある家庭をいかにして再生させるか。
結局は父殺しの落ちがつき、なあんだ、という感じで終わるのだが、その殺し屋が何かの間違いのように突然心を奪われた若き母になかなか心を打ち明けられず、しかも妻子への思いも断ち切れず、漫然と夜を過ごす、そのなんでもない退屈な時間がなかなかよかった。
しかし、「脳壊」というのは一体どこから出てきたタイトルなのだろう。
このあまりに即物的なな文字面と響きは、どうしても脳が破裂して中身がそこら中にぶちまけられるという連想を呼ぶのだが、そんなことを考えてしまうのは私だけなのだろうか。
単にさえない中年男の物語なんだけどなあ。

ああそうそう、昨日も書いた小学生たちの歌の件で青山からメール。
あのCDを聞いて泣いたと日記に書いておいてくれと。
まじで、「月の砂漠」に入れたくなったということだから、いつに成川からない日本公開の際には、しっかりと入っているかも。
まあ、今から音を入れなおしたり、権利料を支払ったりする予算があれば、の話ではあるのだが。
それから、小学生たちが歌う「バンド・オン・ザ・ラン」は、「どこまでもいこう」のテーマ曲としてぴったりではないかと思った。
そうなると塩田君や松田さんにも聞いてもらわねばならないか。

9月12日(木)

こういった日記の場合、その場の勢いでつい大雑把なことを書いてしまい、後から読み返すとずいぶんいいかげんでいやはやまったくと思うことがしばしばだが、10日付の日記の小学生たちの歌、レインコーツとフィル・スペクターは本質的に相容れない。
極端に言えば、フィル・スペクターがしなかったようなことをしたのがレインコーツだとも言えるわけだから、その二つが同居するという説明もまた、一体どういうことか、という感じである。
レインコーツに喩えたのは演奏面、フィル・スペクターに喩えたのは音響面、というふうに説明したほうがよかったかもしれない。

本日は、昨日の失敗にめげず、再び六本木GAGA試写室へ。
ただし、ガレルではなくウディ・アレン。
またやっていなかったらどうしようかとドキドキする。
青山から、そういうことがあってはいけないから自分は試写状をちゃんと持っていく、というメールをもらって、確かにそうだと反省したものの、本日もまた、試写状は机の引出しの中。
やはり全然反省していない。
しかしさすがに、「スコルピオンの恋まじない」は時間どおりに始まる。
時代設定は1940年代、保険会社の調査員を、ウディ・アレンが演じる。
彼と、社長と、新たに入社したやり手の女性社員とを巡るサスペンス・ラヴ・コメディである。
それこそ40年代、30年代なら、ゲイリー・クーパーとキャサリン・ヘプバーンとか、そんな組み合わせの物語。
それを、ウディ・アレンとヘレン・ハントがやるわけだが、なかなかがんばっている。
お互いに相手の悪口をまくし立てあう早口の台詞は何とも気持ちいいが、あまりにぴったりとはまりすぎて、それなりに気持ち悪かったりもする。
当然のように、ほとんど憎み合っているともいえるこの二人が最後にはうまくいくことになるのだが、それはそれで何とも見事でもあり、適度な力の抜き方もしていてそれ以上緻密に作り上げない物語との距離感は素晴らしくもあるのだが、私の好みとしては途中でウディ・アレンを誘惑する大富豪の娘に扮する「ショー・ガール」のエリザベス・バークレーの真っ赤な唇にやられたこともあり、このしょぼくれた老年保険調査員と大富豪のわがまま娘とがうまくいってしまうアナーキーな展開を半ば本気で妄想しつつ、ハッピーエンドを迎える。
気になったのは、シーンごとの色味がかなりばらばらだったこと。
これは意図したものなのか、現像の影響なのか。
また、舞台となる場所は、保険会社の事務所と、ウディ・アレンの部屋、そしてヘレン・ハントの部屋の3箇所で、物語のほとんどがこの3箇所で語られていくのだが、焦点深度の浅いレンズを使った部屋の中の撮影で、基本的にカットを割らずカメラが部屋を移動したりパンしたり、また、広い画角の中に何人もの人々を入れてその前を人々が行ったり来たりするシーンにおいて、その中心となる人の位置が変わってもピントを調整せず、ほとんど最初のピント位置のまま撮影していたように思う。
そのときの、移動する人々のボケ方や、ピントの決まり方に、催眠術を使っての犯罪劇、という物語の展開も加わって、ちょっとドキドキする。
とはいえ徹底して映画の世界の中だけで洗練を極めるこのウディ・アレンの態度に疑問をもつが、具体的に日時が伝えられるわけでもなく、その他の世界的な状況もまるで分からないし、町の様子などもほとんどでこないというこの閉じられた映画の世界は、40年代といえばもしかすると第2次世界大戦中かもしれず、それゆえに戦争や国家権力の気配など微塵もない、恐ろしく極私的な世界のみをウディ・アレンが作り上げたのだともいえる。
1年前の事件以降、外側の世界に目を向けることをもってよしとする風潮に、この映画は徹底して抵抗しているのかもしれぬ。
「親密さ」を持って社会的なものに抵抗しようとした19世紀末のヴァレリーのような位置に、ウディ・アレンは自分の場所を見つけ出そうとしているのだろうか。
でもまあ、元々そうなんだから今更変えはしないよ、という程度のことなのかも。
どちらでもいいが、私としては、エリザベス・バークレーを……。

9月11日(水)

六本木のGAGA試写室へ、フィリップ・ガレルの「白と黒の恋人たち」。
本当は先週には行くはずだったのだが、当日になってのトラブルで行き損ねていたのだ。
さすがに今日は行かなくては、と、諸々の用事を途中で切り上げ六本木へ向かう。
だが試写室の前は誰もいない。
既に10分前だから、そんなはずはないのだが、関係者の姿もなく、どうやらGAGA内部での、何かの試写が始まる様子である。
一体ガレルはどうしたのだ。
あまりに売れそうもないので既に試写の段階で諦められたのだろうか。
いや、私が時間と場所を間違えたに違いないと、メモ帳を見ると、間違いなくこの時間にGAGA試写室と書いてある。
予告もなく試写を変更するようなことは考えられないので、残された可能性は私の写し間違いであるのだが、またもやそんな情けないことがあっていいものかと、しかしそれ以外にありえないのだからどうしようもないわけで、釈然としない思いを抱えたまま、かといって他にすることもなく、帰宅。
慌てて試写状を調べると、「映画美学校第2試写室」とちゃんと書いてある。
ああ。

9月10日(火)

昼過ぎに、安井君が遊びにくる。
いい歳した中年男二人が昼から何やってるんだ、という感じではあるが、まあ、そんなものだ。
安井君お薦めの、ヒップホップ系のアルバムあれこれがお土産。
中でも「衝撃の一枚」というメールがやってきて一体何かと心待ちにしていたのが、これはヒップホップでもなんでもなくて、70年代に録音されたもの、カナダの小学校の元ヒッピーらしき先生が小学生たちに歌わせた、ポール・マッカートニー、デヴィッド・ボウイ、ビーチ・ボーイズなどなどの歌を集めたアルバムである。
岸野雄一率いる「どもまでもいこう」合奏団か、と、勝手に想像していたのだが、近いといえば近い。
演奏はもっと下手である。
初期レインコーツあたりにも通じているかと思える。
しかし、2チャンネルで録音されたという音の何ともいえない広がりと厚さが、とてつもなく奇妙な感触を残す。
安井君の解説によると、フィル・スペクターの音にたとえられているということである。
確かに。
同じく安井君が持ってきてくれたEDANというニューヨークの白人(オールドスクール・マニアだそうだ)や、あとはティンバーランドやそれから椎名林檎のアルバムにも聴くことの出来るクラフトワークのアナログな電子音の響きと同じように、おそらくこれらのスペクター・サウンドもまた、まったく予想もしないところに顔を出して、我々のいる位置を指し示しつつその足元を崩壊させる厄介な音としてありつづけるだろう。
青山の「月の砂漠」も、ビーチボーイズのオリジナルではなく、こちらの小学生たちの歌を使えばよかったのかもしれないと、本人のいないところで、勝手なことを言って笑っていたのだが、結構いい感じかも。

9月9日(月)

相変わらずさっぱりしない日が続く。
こんなことではいけないと、ちょっと前向きな予定などを立ててみたりはするのだが、基本的にすべてうまくいかない。
本日は、朝からパソコンが立ち上がらず、復旧にあくせく。
とにかく起動途中で動かなくなってしまうので、どうすることも出来ず、ケースを開け、メモリなどを刺し直したりしてみると、何事もなかったかのように動き出す。
今後のためも考えて、とりあえず現時点でのバックアップをとる。
などなどしているうちに、やろうと思っていたことが出来なくなってしまうのである。
とはいえ、気を取り直し、「ウェイキング・ライフ」。
事前の情報から、アニメと実写が合体した映画だということは分かっていて、「ナチュラル・ボーン・キラーズ」や「ザ・ウォール」みたいに、ひとつの映画の中にそれぞれがあって、いわば役割分担しながら、実写とアニメが使い分けられているのかと思っていたのだが、そうではなく、一度実写撮影されたものがアニメ処理されているのだった。
本当に、実写とアニメの中間、ということになるのだが、結構気持ちが悪い。
とくに、実写撮影の際に同時録音されたと思われるシーンでは、その音の広がり方が、アフレコで行われるアニメのものとはまるで違うので、なんだか奇妙な居心地の悪さ。
内容は、「NBK」のような派手なものではなく、基本的に主人公が出会った人々の話を聞く、彼らと会話する、ということの繰り返しである。
夢の中の物語という設定になっているので、突然風景が変わってそれまでそこにいなかった人が登場して突然話し始めても、特に驚くわけでもなく、また、驚かせようともしておらず、それぞれの人々のほとんど独白に近い台詞が続く。
その内容はといえば、思想書やら小説やらからの引用に近い、生と死、現実と夢想、生きていることの意味などに関するものだが、それら自体の意味内容に意味があるというよりも、どこかで聞いたような言葉が次々に発せられて、「どこかで聞いた」ということ自体が我々を我々の現実にひきつけておく一方で、それらの言葉の連なりは夢の断片として間断なく我々に降りかかってくる、その輪郭の曖昧な領域の広がりを見せるために、それらの言葉は発せられているように思える。
そしてそんな夢と現実との中間領域に、気がつくとこちらもなんとなく引き込まれている。
「ベルリン・天使の詩」の初めの方にあった、人々の心の声を聞く天使の視線と聴覚を持ったような気分、というのが一番ぴったりしているだろうか。
その何とも頼りない状態がいいといえばいいのだが、そこから先のヴィジョンが見えるわけではない。
まさかあの、台詞の意味を考えろなんてことではないだろう。
そんなんだったら本を読んでいたほうがましだ。
音楽は、10数年前のクロノスカルテットみたいだった。
しかし、映画前編すべてをペイントしていくという作業の途方もなさを引き受けたスタッフたちには頭を下げるばかり。
それだけでも確かに、狂気の一編と言えるのだが……。

9月4日(水)

実は本日、NHKの試写室でソクーロフが90分間をハイビジョン・カメラでワンカットで撮ったという作品の試写があり、昨日はあんなに怒ったけどNHKに行っちゃいましたあ、というオチをつけるはずだったのだが、今朝方寝るときに睡眠薬代わりに飲んだ風邪薬がすっかり尾を引いて、どうにも頭がぼんやり。
このまま行っても眠ってしまうだけと諦める。
『エルミタージュ幻想』というその作品は、10月10日にハイビジョン放映するということだ。
多分、BSデジタル放送。
誰かビデオに撮ってくれないだろうか?

仕方ないので眠気覚ましに『13ゴースト』。
始まりからやたらとアップが多く、というか、アップばかりではないのだが、フレームの切り取り方がとにかく窮屈で、カメラポジションも悪い。
昨夜、子供がビデオで見ていた『ゴジラ』シリーズの何作目かも怪獣の主観ショットによる戦いなどあって、なんだかなあと呆れて見ていたのだが、こちらのカメラポジションも相当なもの。
ゼメキス・プロデュースといったって、考えてみれば私が見た中では面白かったのは『さまよう魂たち』くらいだから仕方ないのだけど、さすがにちょっといらいらする。
これも昨日、ロメールの、どこまでもシンプルで強いフレームワークを見てしまったためか。
そんなことを思って見ていると、ようやく物語は本筋に入り、舞台となるガラス張りの1軒屋にたどり着く。
「これは家ではない、装置だ」というのがこの映画のキーワード。
装置としての家の中にゴースト共に閉じ込められてしまった一家の物語であった。
フレームが狭苦しかったのは、そのためか。
ガラス張りにしたのは、そこにかかれている呪文のために、ガラスを通り抜けられないゴーストたちの姿を、ガラス越しに写すため。
普通なら見えない幽霊たちを見るための装置である『ゼイリブ』ばりのメガネも登場する。
ただこの映画の場合、人間とゴーストの戦いではなく、人間と装置の戦いが中核をなすので、人間たちはゴーストたちにやられっぱなしである。
手も足も出ない。
装置にも、手も足も出ない。
というか、ゴーストとも装置とも戦わねばならないのだから、人間も大変である。
映画もまた、その複雑な設定にリアリティを持たせるために観客に伝えておかねばならないことや、主人公たちのせりふや行動を自然なものにするために彼らに分からせておかねばならないことなど、あれやこれやで大変である。
ソクーロフの新作は、エルミタージュ美術館を延々と映しっぱなしらしいのだが、その途中にゴーストたちが画面をよぎったりしないのだろうか。

9月3(火)

先週末は、久しぶりに対談、鼎談の仕事があったのだが、なんと二つのトークを完全にダブルブッキングしてしまい、関係者に大いに迷惑をかけた。
のんきに野球に行ったりする時間はあるくせに、仕事の時間調整はまったくなされていなかったのだ。
関係者の皆様、お騒がせしました。
バウスシアターでの対談相手の越川芳明さんは、エリクソンやピンチョンの翻訳家、ということから想像していたイメージとは、全然違う印象の人であった。
いきなり、「ホーページ、見させてもらいました」と先制攻撃され、すっかり緊張してしまう。
しかしご本人は、サークルKの作業着を着込み、これを我が家のユニフォームにするのだと言う、何ともとぼけた、やはりだてにピンチョンを翻訳してはいないという発言を、ごくあたりまえのようにして言う。
この日の対談を引き受けたのは、越川さんに一度はお会いしたい、という理由が一番だったのだが、ダブルブッキングの影響で、トークが終わるとすぐに新宿まで行かねばならぬという情けなさ。
それも、そちらも既に1時間遅らせてもらった挙句の30分遅れ。
そちらは、探偵映画を巡るムック本に載録予定のもの。
すっかり迷惑をかけたにもかかわらず、さらにまた、この鼎談でも迷惑をかける。
でもこれは、私をメンバーに選んだ編集者の責任だから、特に反省はしない。

土日は金曜日夜のドタバタが尾を引いて、風邪がひどくなる。
単に情けない休日と化す。
「nobody」第4号到着。
前郷のおしゃれな表紙とうって変わって、海外の映画祭の日本映画特集のパンフレットのような表紙。
具体的な特集は、「黒沢清」「ピチカート・ファイヴ」という名前が挙がっているが、雑誌として今号のテーマ「「東京」九十年代」というのが、大きく、中心に印刷されている。
東京の90年代と「黒沢清」「ピチカート・ファイヴ」という二つの固有名の並びが、私にはピンとこない。
いや、単純に90年代という時代の捕らえ方が、私にまだできないのだ。
94年に子供が生まれて以降、それまでとはまったく違う世界に突入してしまったこともあり、「時代」という感覚が過剰に生々しくもあり、同時にまったく曖昧なものに感じられてしまっている。
こうやってしょうもない小言親父になっていくのかと漠然と思うが、まあ、それはそれでよし。
雑誌の構成としては、90年代と60年代をつなぐ松井宏君の論考がちょうど真中あたりにあるのだが、あの後に、フィリップ・ガレルのインタビューを入れるべきだったと思う。
その視点があれば、ガレルへのインタビューの質問も、当然変わってきたと思うのが。
ただ、あのままのインタビューでも、松井君の文章の後に置かれていれば、ガレルの発言を読む、こちらの態度が違っているはずだから、映画のことしか話してなくても、どこかで松井君の文章と共鳴したはずではないか。
大雑把な感想だが、そんなことを思った。
「nobody」4号は、下記のURLにて。
http://www.nobodymag.com/


本日はエリック・ロメールの『グレースと公爵』。
フランス革命時代を生きたイギリス人女性の物語だが、まず私の関心は、当時の街を再現するのにセットではなく、すべて絵を描いてコンピュータによる合成で行ったという、その現代のテクノロジーをロメールがどのように駆使したか、というようなことであった。
だがやはり、そういったこちらの意図は、あっさりと裏切られる。
コンピュータ合成といったって、単に道具なわけだから。
その意味で何事もなかったかのようにすっかり最新テクノロジーを使いこなし、また、背景の絵の中をまるで筆で描かれたかのように見える人々が当然のように歩き始めても、それが際立って驚きを誘うわけでもなく、しかしそれに驚かないわけでもなく、そしてその小さな驚きが、ロメールの映画にしては長い2時間を越える上映時間の間、ずっと持続するのである。
このひとつの小さな驚きの持続。
そしてその持続に間に、その世界のあらゆるものがそこにあからさまに映されていく。
そのあからさまな世界の広がりと人物のあり方が、そのまま物語に直結していく。
隠すものは何もない。
そんな物語なのだ。
大江健三郎の『取り替え子』の中に登場する伊丹十三と思われる映画監督が、「映画館で一度見ただけですべてを見ることのできる、ビデオなんかで何度も繰り返してみる必要のない、一度ですべてである映画を作りたい」というような欲望を語っていたが、この映画はまさにそのような映画としてあったように思う。
結果的に伊丹十三が思い描いていた映画と、どこまで似通ったものであるかは謎だが。

家に帰ると妻が怒っている。
何かと思ったら、妻のレーベルから発売しているCDの音を、NHKが無断で使ったというのだ。
妻のレーベルはJASRACに加入していないので、使用の際は権利者に許諾を得ること、という条項がはっきりと記されている。
にもかかわらず、テレビ製作の人々は、ルーティーンワークの中で、それがどんなCDかも考えないまま、適当に気持ちよかったり聞きやすかったり、とにかく自分たちの映像に都合がいいというだけでホイホイ使ってしまうのだ。
JASRACに加盟している場合、テレビ局が年間の使用料としていくら、というふうに、使った音に対してではなく、とにかく音の権利すべてを年間でまとめてグロス買いをした、その使用料を、JASRACの基準に添った形ですべての加盟者で分配する、という、何とも大雑把な形をとっている。
当然、CDの売れ部数の少ない弱小アーティストには、例えばそれが、何度もテレビで使用されたとしても、使用料は入ってこない。
著作権を守るとかってかっこいいことを言ったって、結局は金と便利さのシステムのなかのシステムにしか過ぎないわけで、まあ、そういったこともあり、JASRAC非加盟なのだが、しかしテレビ局の連中はそういったことにまるで注意を払わない。
著作権など金で買うものとしか思っていないのである。
NHKで無断使用されるのはこれまでも何度もあり、同じようなやり取りをするわけだが、今回もまた、電話をしたところ、無断使用に関しては一言の謝罪もなく、「製作プロダクションに連楽してくれ」と。
製作プロダクションに電話をすると、「じゃあ、いくら払います」という返事しかもらえない。
確かに使用料もそうだが、無断使用してしまったことについて、あんたたちは何とも思わないのか?
しかも、我が家ではまったく払うつもりはないが、我々から受信料を取って経営を成り立たせている放送局がこの始末である。
著作権料を支払えばいい、というシステムだけができていて、他人の作ったものを使うときの態度としてどうあるべきかという、生きていく基本がまるでできていない。
ちゃんと謝れNHK。