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2002年 boid日記 8月

Text by 樋口泰人

8月29(木)

昨夜から喉が痛み出す。
鼻の奥から喉にかけて、どうにも気持ちが悪い。
しかし本日は神宮球場。
子供との約束でキャンセル不能である。
喉あめをなめながらの野球観戦。
でもこうなってくると私も病気なんだが元気がいいんだか、自分でもよくわからなくなってくる。
10年ぶりの神宮球場は、ヤクルト連勝中とはいえ、なんとなくまだぼんやりとした感じ。
ジャイアンツと3ゲーム差くらいに縮まってこないと、みんな本気になれないのだろう。
いまはまだ、相手チームに勝たせてもらっている、というふうにしか見えない。
そんなふうに見えてしまうのも、モンタージュを目いっぱい使って迫力満点に見せるテレビでの中継を見るのに慣れてしまっているからだろう。
子供も、バックスクリーンを振り返っては、打者が打つたびにそこに映し出されるビデオ画像を見ては、今起こったことを確認している。
あまりにあっけらかんと、しかもあっという間に物事が起こるので、目の前の事を見ているだけでは実感が湧かないのだ。
まあ、野球自体、元々のんきなスポーツだから、ますますそんなふうに感じるのだろう。
しかし、我々の陣取るライト側にはボールの飛んでこない試合だった。
両チームあわせて1球のみ。
試合終了後、駅への道を急いでいたのだが、前を行く外国人一家が歩道いっぱいに広がりのんきに歩いていて邪魔でしょうがない。
しょうがないなあ、と思ってよく見ると、ペタジーニ一家であった。
そういえばペタジーニは9回の守備で交代していた。
試合終了を待たずに球場を去り、シャワーを浴び着替えて、観戦していた一家と共にご帰宅という次第。
うーん。

8月28日(水)

ようやく胃腸の調子が何とかなり始めたと思ったら、昨日は持病の耳鳴りがひどくなり、これだけひどくなったのはいつ以来だろうと思い出すのに苦労するほどこの間は治まっていてくれたことを感謝せよということかと思いはするものの、つらいものはつらい。
すっかり人格崩壊して一日が終わる。
耳鳴りといっても仮に「耳鳴り」といっているだけで、確かに鳴ってはいるのだが、それ自体がつらいのではなく、それに伴って頭の中が反響版の用のようになってしまうのがつらい。
音への集中力、選択能力がなくなり、すべての音が等価に聞こえてしまうのだ。
それに伴って、こちらもまたそれらの音と等価になり、内と外との区別ができなくなってしまう。
シュトックハウゼンが「音」と「サウンド」の違いについて書いていたと記憶しているが、この耳鳴りの時期は「音」から「サウンド」へと、こちらの身体が変化してしまうのである。
とにかくじっとしているしかない……。

まあとにかく、今回は原因ははっきりしていたので、1日で何とか復帰。
本日はクリアな世界が広がったのだが、高円寺は阿波踊りで熱気ムンムンである。
妻が子供と子供の友人を連れて祭りに出ている隙に、日劇での『マイノリティ・リポート』試写。
スピルバーグ、トム・クルーズの新作であるのに会場の温度は低い。
阿波踊りには完全に負けている。
ギリギリの入場だったので立ち見を覚悟していたのだが、前の方の席10列くらいはかなり空いている。
日劇の場合、この空いている前の10列ほど、というのが問題で、スクリーンと座席とが近すぎるため、このあたりで見ると画面がかなりゆがんでしまうのだ。
横のほうだと最悪。
この席で同じ料金を取るのは犯罪だとまでは言わないが、たいした度胸である。
で、この前方の席に座るか、たってみるかという選択を迫られたのだが、こうなると迷うことなく座って見ることを選んでしまうわけだから、どんな席だって料金を取れるものからは取ってしまえというのは、それなりに理にかなっているのかもしれない。
だがさすがに目の前に広がるこの馬鹿でかいゆがんだ画面に慣れるのは大変である。
しかも今回は、かなり画質が粗い。
主人公の置かれた宙ぶらりんな状況と、過去と現在と未来とが絡まりながら主人公に降りかかってくる時間軸のねじれが作り出す徹底して不透明な世界を示すためだろうか、あるいは、ビデオ撮影したものをデジタル処理した後にフィルム変換した画質の劣化を隠そうとするためなのか、単に粗いだけではなく、どこか霞んだような画像処理が施されているので、その透明さを欠いた世界の姿が気になって仕方がない。
さらに、トム・クルーズの父親的存在のマックス・フォン・シドーの顔を目いっぱい大写しにするものだから、この顔のでかさにすっかりトリップしてしまう。
予告編にもあったと思うが、警察に追われているトム・クルーズが顔を変形させて警察の本部に忍び込むとき、ある薬を注射して顔面の筋肉を弛緩させるのだが、このすっかり弛緩して伸びきったトム・クルーズの顔よりマックス・フォン・シドーの顔のほうがすごいのだ。
あの顔面弛緩剤のアイディアのために、マックス・フォン・シドーをキャスティングしたとしか思えないのだが。
そんなわけで、『マイノリティ・リポート』は、日劇の前方から10列以前の席で見ることをお勧めする。
それから、スピルバーグさんには、『マイノリティ・リポート』のテレビシリーズ化をお願いしたい。
『ダーク・エンジェル』みたいな。
とにかく無理やりエピソードを作ってしまって、間延びさせながら12話くらい作ってくれるといいのだが。
なんか、それくらいのダラッとした時間感覚の方が、合っているような気がするのだ。
未来社会(あるいは現代社会)の複雑な世界設定や、進化したテクノロジー、その中で生きている人間の感覚、社会のシステムなどなどを一気に詰め込んで説明するには、もはや映画とは違う感覚が必要とされているように思う。
もしこれまでと同じ方法でそれをやるなら、テレビ・シリーズ化して、ゆっくりとそれらを浮かび上がらせて行くほうが絶対に適しているはずだ。
その意味で、ジェームズ・キャメロンの選択は、確かに一つの方向を示していると思う。

8月26日(月)

週末には体調も完全復調の予定だったのだが、それはこちらの勝手な予定。
見事に裏切られ、再びガタガタになって、金曜日はほとんどの予定をキャンセル。
体中の力が抜け、ひたすら惰眠をむさぼるのみ。
しかし、予約制の試写はこういう時都合が悪い。
どうしようか迷ったが、よろよろとイマジカ試写室へ。
M・ナイト・シャマランの『サイン』である。
しかし久々のイマジカ試写室は相変わらず素晴らしい。
先日、もうDVDでいいのでは? などと書いてしまったが、世間の映画館がこの試写室並だったら、それはもうまったく問題なし。
『サイン』は案外小粒な映画であった。
いや、あえて小粒に作った映画であったというべきだろう。
物語の8割ほどが、主人公の家で展開される。
宇宙人は確かに出てくるが、ここしかないというところに姿をあらわすだけだ。
登場人物も限られている。
極私的な世界がいきなり無限遠の外部世界と直結してしまうのである。
ハワード・ホークス製作の『遊星よりの物体X』といった風情。
つまり、それなりの予算と最新のCG技術を使って50年代のSFホラーの現代版を作った、というところだろうか。
序盤の、まだ「サイン」がサインである予感の時期は、鳥の声や周囲の物音、時には人間の話し声にさえフィルターがかけられて、予感のドームの中にいるような気分になる。
まだ宇宙人は出てこない、あくまでも現実的な風景が広がる現実世界が映されているのだが、それこそが非現実の世界――つまり、何かが隠されることで成り立っている世界――なのだと、その音響は示す。
そして本当に宇宙人が現れ始めると、そのような音響処理は姿を消す。
そこから現実の物語が始まる。
しかし、その現実の宇宙人もまた、「サイン」に過ぎなかったというふうに物語りは展開して、神の恩寵の元にある世界が出現する。
この3つの世界の連続的な展開という映画の構造は、シャマランのこれまでの2作と同じといっていいだろう。
細部の洗練は増している。
宇宙人をほんの一瞬見せるだけで、しかも何をするわけでもなくただ姿を見せるだけで怖がらせてしまうその感覚は、ほとんど日本のホラー映画といってもいい。
そういえば、冒頭のいくつかの固定カメラによるショットは、まるで日本映画のように見えた。
管楽器、ピアノ、弦楽器の音を巧みに使い、音色の変化だけでグルーヴを作り出すジェームズ・ニュートン・ハワードの音楽は見事だった。

で、本日は、目黒にある青山仕事部屋に、我が家のマックG4およびビデオ編集セットの完全引越し。
映画美学校の若者たちに運んでもらい、セッティングをする。
私がはじめてマックを買ったのがちょうど10年前で、当時はまだ、メモリ8メガ、ハードディスク40メガのLC2。
モニタ、プリンタなども含めて50万円ほどだっただろうか。
しかし、ついに我が家からマックがなくなる日がくるとは……。
まあ、この何年間は、ビデオ編集以外にマックを使うことはほとんどなかったわけだから、日常生活において特に困ることは何もない、ということがなんとなく寂しい。
テーブルの上にぽつんと空いた空間は、果たして何の「サイン」となるのだろうか。

セッティング終了後、さすがに帰って寝たほうがいいかと思いつつ、気になっていた『REM』へ。
レム睡眠のレムなのだが、原題を見ると「insomnies」。
クリストファー・ノーランの『インソムニア』は英語で、こちらはフランス語である。
といっても、これはフランス公開用のタイトルで、この映画はフランスの製作会社が製作元となっているために、日本に回ってきたプリントにもフランス語タイトルがついていた、ということなのだろうが、英語での原題は「chasing sleep」。
まあ、どちらにしても不眠症の映画ではある。
しかしそれの日本タイトルがどうして『REM』なのかといえば、不眠のあまり、不眠と睡眠との境界がなくなってしまった主人公の物語だからである。
こちらもまた、1件の家が舞台。
ほぼ完全に主人公の家のみで進行し、また、その家自体が、不眠の主人公の頭の中のようなものと化している。
不眠と睡眠との境界がないように、この家もまた、妄想と現実との境界がない。
コーエン兄弟の『バートン・フィンク』を思い出す。
バスタブに浮かぶ大きな赤ん坊が気持ち悪かった。

8月21日(水)

六本木のタリーズ・コーヒーには、阪本順治君似の店員がいる。
年のころは少し若く30代半ばか。
顔つき、風情、物腰、しゃべり方など、そっくりというわけではないが、どこか阪本君を思い起こさずにはおかない何かがあるのだ。
つまり、タリーズ・コーヒーにはまったく不似合いな店員で、気になって仕方ない。
などとニヤニヤしていたら、テーブルの上に置いた腕時計を忘れてしまった。
ブエナビスタ試写室で『9デイズ』終了後、ようやく気が付く。
もはや2時間前の出来事。
半分諦め加減で尋ねてみると、阪本店員の見事な対応。
「これですか?」と、時計の特徴もろくにたずねずにすぐに時計を差し出そうとする若手店員を諌め、必要事項をしっかりと確認した上で、「これですね」と。
とにかく時計は無事。
『9デイズ』はテンポのいいシナリオがそのまま映画になっただけ、という感じ。
ジョエル・シューマッカーが、プロデューサーの期待通りの仕事をした、ということだろうか。
これも、テロリストが核爆弾をアメリカで爆発させようとする。
邦題は『9デイズ』だが、『6デイズ/7ナイツ』や『13デイズ』のように、原題と同じではない。
原題は「Bad Company」。
したがって、核爆発までの時間的な切迫感より、殺された双子の兄弟の身代わりとなってCIAエージェントに扮してしまう仕事振りと、アンソニー・ホプキンスふんする上司や仲間たち、そして彼らに命令を下すさらに上の階級の人間たちなどなどとの関係に、視点が置かれる。
主人公に扮するクリス・ロックの悪乗りのせりふで思わず笑ってしまうが(何しろテロリストとの会話の時間稼ぎのためにでっち上げるコンピュータの最新システムの話の中で、MIT出身のドクター・ドレ博士が発明したなにやらだとか、ウータンクランが開発した何やらだとか、まあ、そんなヨタ話を延々と東欧のテロリストたちに聞かせるのだ)、まあ、それくらい。
もちろん核は爆発しない。

夜は、アテネで篠崎の『浅草キッド』の試写をやるのでそちらに行こうとも思っていたのだが、『9デイズ』がどうも煮え切らなかったので、景気付けによみうりホール『トリプルX』へ。
こちらもまた、突然CIAのエージェントに引き抜かれたギャングと東欧のテロリストの物語で、しかも同じようにチェコが舞台である。
アメリカはもう、すっかり、9月11日の元はとってるんじゃないかとさえ思う。
しかし、ロブ・コーエンはかなり飛ばしている。
『ワイルド・スピード』でははまだまだCGと画面のスピードと音とがバラバラで、そのモタモタしたテンポとクリアに分解されすぎの音に、ちょっとどうしたものかと思ってしまったのだが、今回はOK。
大雪崩と競争しながらスノーボードで雪山を滑降(これまた『ディープ・インパクト』の大津波を思わせる)、ポンティアックGTOを飛ばしながら、川を走る生物兵器を乗せたボートに銛を打ち込みそのままダイブするとか、諸々の大技に加え、「タバコを吸うと命を亡くす」などとトリプルXことヴィン・ディーゼルに言わせておいて、最後の最後に、そのテロリストに向かって熱感知弾を撃ち込み(テロリストはそのときもタバコを吸っていた)、「だから言っただろ」と決めさせるチープな演出、あとは、兵器マニアのCIA職員の活躍ももうちょっとあったらよかったのだけど。
キャスリーン・ビグローの『ハートブルー』を思い出す。
まあ、あれほどいかれた感じがないのは、監督か、ヴィン・ディーゼルの人の良さが出てしまっているのかもしれない。
音楽もほとんど鳴りっぱなし。
音は映画館ではもう、これが目いっぱいではないか。
多分、映画館で見るよりDVDだと思う。
ヘッドホンでフルボリュームで見ると、かなりなものになっているはずだ。
既に製作の技術力が公開システムの技術力を完全に追い抜いているのだから、もう、劇場にこだわる必要はないのではないか。
特に、このように既成の音楽を多用する場合は。
劇場とDVDの同時公開とかできればいいのだけど。
でもまあ、経済システムも遅れてるわけだから、そうはいかないのかも。
それから、トリプルXが麻酔弾を打たれ、目覚めたときのダイナーで流れているのが、ドノヴァンの「メロー・イエロー」で、しかもいかにも店内音楽風にアレンジされたインストルメンタルとして流れていて、この絶妙な酩酊の気配にクラクラした。
このちょっといかれたアレンジと演奏は、ランディ・エデルマンの仕事ではないかと思うのだが、これはもう、ロプ・コーエンさんにインタビューでもしない限り分からない。
ちなみにこちらの映画のアンソニー・ホプキンスの役は、サミュエル・L・ジャクソンがやっている。
一匹狼であり、部下にもそのような人種を好む上司。
昨日の『トータル・フィアーズ』も含めて、これらの映画で彼らに命令する人間は、ことごとく無能である。
アメリカ映画がこうやって、社会的ヒエラルキーの上位の人々を無能に描けば描くほど、現実の保守化が進んで行くのは、これらの映画がいいクッションになっているということなのだろうか。

8月20日(火)

いつものことであるが、すっかり体調を崩していた。
持病の耳鳴りから始まって、突然声が出なくなったかと思ったら、今度は胃腸をやられ、この2日ほどは、おじやとうどん。
さすがにこのまま弱っていてもどうにもならないと思い立ち、今日は、懸案だったシティバンクの口座を開くため、新宿まで。
よろよろとたどり着いたのだが、さすがに日本の銀行とは全然雰囲気が違う。
アメリカ映画みたいに、個別のブースで担当者とお話をするのである。
しかも店内はこれ見よがしに洗練されていて、いかにも「マネービジネス」って感じなのだ。
つまり、金持ち以外は関係ありません、って雰囲気丸出しで、オロオロしながら担当者と話をはじめたのだが、開口一番「1ヶ月の平均残額が30万円以上ないと口座維持手数料が2100円かかってしまいますがよろしいですか?」と。
いきなりこちらの貧乏を見透かされ、もちろんこちらも、paypalとの送金手続きのために便利に使おうと思っていただけだから、なすすべなし。
やはり便利なものには落とし穴がある。
ただ、アメリカの銀行のシステムは基本的にこのようになっているみたいだから、シティバンクとしてはごく当然の対応をしているだけなのだろう。
その分、さまざまな利点も便利さもある。
日本の銀行から海外送金しようとすると、条件にもよるが、3000円くらいはしっかり手数料を取られてしまうわけだから、例えば月に何度か送金などをする場合、口座維持料の月々2100円は、案外お得な値段なのである。
いずれにしても、金持ちが得するようにできていることだけは確かだと、あまりにあたりまえのことを再認識。
まあとにかく、この手のことに詳しい妻に相談することにして、今日のところはあっさりとシティバンクを後にする。

シティバンクで結構な時間待たされたため、予定の試写には行き損ね、新宿文化にて『トータル・フィアーズ』。
『ディープ・インパクト』では大統領だったモーガン・フリーマンがCIAの長官になり、辞職して彗星接近の秘密をニュースキャスターに暴かれてしまう大臣役をやったジェームズ・クロムウェルが、こちらでは大統領になっている。
そのためか、ぼんやりと既視感が張りついて、おかしな気分である。
だが、彗星の衝突という大惨事と家庭内の人間関係という徹底してパーソナルな出来事とを平行して描く中に、すべての物語を詰め込んでしまおうとする『ディープ・インパクト』の強く太い物語への意思に対し、『トータル・フィアーズ』の方は、世界中に散在するさまざまな情報を誰がどのように集め、処理するか、その情報処理能力が世界を大惨事に陥れ、同時に救うという出口のない円環を示す。
その意味では『ディープ・インパクト』というより、『MI2』や『バイオハザード』に近い世界観の中での物語であり、明らかに9月11日以後の物語だといえる。
『ディープ・インパクト』と同じくミミ・レダー監督の『ピースメーカー』では、ニューヨークに仕掛けられた核爆弾をいかにして爆発させずに街を救うか、というのが物語りの主題となっていたが、この映画では、仕掛けられた核爆弾は、いともあっさりと爆発する。
それが9月11日以降の世界のリアリティなのだと、この映画は示しつつ、そして問題はその後なのだという物語が続く。
つまり、主人公の情報分析官と合衆国首脳をつなぐインターフェースであったCIA長官も核爆発と共に死に、出口への回路を失った情報をどこにどうやって出力するか、それが問われていくのである。
同じように核戦争の危機を扱った『13デイズ』(こちらは現代の物語ではなく、キューバ危機だが)では、情報を操作するアメリカ首脳部内の人間関係――軍とケネディ兄弟との緊張関係――が、戦いの中心の場所としておかれていたのだが、こちらはそのような中心はない。
逆にいえば、どこからでもアクセス可能なのであり、そのための情報処理能力が要求されている、というわけだ。
だから、合衆国首脳部も単なる自動機械として、入力された情報に対してあれやこれや反応するだけである。
「無能な人間だと思われるくらいなら悪人と思われたい」と、この映画の中でロシア大統領が発言していたが、主人公がこのロシア大統領に直接コンタクトするのも、当然だろう。
しかし、アメリカ映画は、悪人にさえなれないこんな無能な合衆国首脳部を堂々と描いてしまっていいのだろうか。

ああそれから、7月24日付日記、『戦艦ポチョムキン』とダウザーのイヴェントには、nobodyのメンバーは来場していた。
以下のURLに当日のレビューが載っている。
http://www.nobodymag.com/jo02-aug.html#020803
nobodyの名誉のために、訂正を。
また、この日のイヴェントに関しては、「realtokyo」というサイトの、おそらく編集長だと思われる小崎さんという方のコメントも、以下のURLに。
http://www.realtokyo.co.jp/japanese/column/ozaki.htm
こちらのコメントで、小崎さんはこうやって過去の無声映画に新しい音楽をつけることを、「いわば、新しい洋服を身につけることによる気分転換や、古くなった建物の模様替えに当たるようなことだ。」と書いているのだが、「気分転換」をしたいなら、古い映画のビデオを借りてきて音を消し、その代わりに自分好みのCDを流しながら見る/聴くことをお勧めする。
ボリューム全開で浜崎あゆみを聴きながら見るバスター・キートンとか、結構決まるのでは?
そういえばかつて「ロック・マガジン」誌上で、阿木譲が、マリ・ウィルソンだったかトット・テイラーだったか、とにかくコンパクト・オーガニゼーション・レーベルの音を流しながら見るギャング映画について書いていたように記憶しているが、まあ、これはどうでもいいや。

8月1日(木)

昼過ぎに学童クラブから電話がかかってきて、子供が熱を出したとの知らせ。
昨夜は暑くてうまく眠れず、目を覚まして起きてきたりしたので、それなりに疲れていたのだろう。
それとも『タイムマシン』の熱か。
いずれにしても、このような不確定要素を常に抱えていると、さまざまな予定が一気に崩れていく。
まあ仕方ない。

気になってはいたのだがすっかり見逃していた『ベティ・サイズモア』を見る。
タイトルの語感といい、どこにでもいる普通の女性が特別な人へと脱皮する物語といい、ほとんど『エリン・ブロコビッチ』と区別がついていなかったのだ。
ただこちらのほうが、ルネ・ゼルウィガーのヌボーッとした風貌のせいで、かつての少女漫画の物語に近い。
10年程前なら、これは誰それの何みたいと、作者と作品名を特定できたはずなのだが、漫画を読まなくなって10年程でかつての記憶をすっかり忘れ去ってしまうこの記憶力のなさは、自分でも恐ろしい。
絵柄と物語りは目の前に浮かぶのに、固有名の手がかりさえ出てこない。
調べようにも、度重なる引越しを機に、我が家にはもはやほとんど漫画はない。
『りぼん』に描いていた大御所なんだけどなあ。
今も描き続けているのだろうか。
ああ、松苗あけみとかが描いていたものにもちょっと近いかな。
まあ、そんなどこにでもあるような物語なのだが、なぜかその展開が、ギリギリまで読めない。
いくつかのパターンのうちにあることは分かるのだが、そのどれになるのか、いくらなんでもここに主要登場人物たちが集まってホークス的なアナーキーな空間はできはしないよなと思っていると、本当にそんな空間ができてしまうし、かといって最後までアナーキーに突っ走るわけではないし、それらの情報操作はなかなかお見事、という感じか。
スタジオボイスに載っていた町山君の情報によると、監督のニール・ラビュートは、現代社会の殺伐とした人間関係をかなり直裁に描くことにたけた人のようだが、この作品でも、それぞれの登場人物たちの自分の世界への引きこもりぶりは、単なる現代社会の描写というよりも、そこからしか物語が始まらない決定的な前提のようだ。
それぞれがそれぞれのフィクションを導入することで何かが動き、連鎖していくその現実の姿は、『トゥルーマン・ショー』のドームの内と外の区別がつかなくなった世界の姿にも似て、確かにそれはそれでアナーキーなことでもあり、特に、殺し屋親子の息子の暴走振りには笑ってしまう。
とはいえ、それらのコントロール不能な状態を、誰もが思い至る調和の取れた「現実」へといかに落とし込むかがハリウッド映画の要請でもあるわけだから、その要請とのバランスをどのようにとるか、というのがハリウッドで生き残るコツでもあるのだろう。
ニール・ラビュートさんは、案外そのバランス感覚に長けているように見える。
そのおかげで、主演女優は『ブリジット・ジョーンズの日記』への道を開かれたのかもしれぬ。
しかし、『エリン・ブロコビッチ』と比べると、本来の自分の姿を取り戻したはずの主人公の背景がまるで広がっていかない、結局どこまでいっても平板な人間たちの姿がやはりどこか殺伐としているのは、テレビドラマにあこがれていた主人公が最後には結局そのドラマの中に入ってしまうという物語の決着のつけ方からして、作者たちの意図であるはずだ。
だとすると、それを「殺伐」と感じてしまうこちらの感覚を疑えというメッセージにも、それは見えてくるのだが……。