
2002年 boid日記 7月
Text by 樋口泰人
7月31日(水)
本日は、フレデリック・ワイズマンの「アメリカン・バレエ・シアター」の試写に行く予定だったのだが、映画を見に連れて行けという子供にせがまれ、「ポケモン」に、と思っていたら、朝になって子供が「タイムマシン」に行きたいと言いはじめて、確かに以前から「タイムマシン」を見たいといってはいたが本気だとは思えなかったので、先週一人で見に行ってしまっていたのでどうしようかとオロオロするもののどうにもならないので、なんとなく理不尽な思いのまま新宿ピカデリーへ再び。
毎週水曜日は女性1000円の日とかで、うちの子供は確かに「女性」ではあるがまだ8歳の子供なので子供料金を要求したところ子供料金も1000円であった。
まあ、映画館にしてみれば子供も大人も一人前に座席ひとつを占有するわけだから、「子供料金」自体が理不尽なことかもしれず、ましてやこの映画のように小学生の子供が見ることはほとんどない映画では、子供に連れられて親がやってくるようなメリットはまず考えられないわけだから、確かに当然といえば当然の値段であった。
まあそれはそれとして、ではなぜ女性だけ1000円なのか?
そうでもしないと女性は映画館にやってきてくれないからか?
とにかくサーヴィスをして女性客を映画館に呼ばないと映画館経営が行き詰まってしまうからか?
あるいは、女性たちをデートに誘おうとする男性客に、映画に行くいい口実を作るためか?
おそらくそれらのどれもが少なからずあたっているのではないか。
劇場内は、それなりの混みようであった。
私の場合基本的に後ろ側の席で映画を見るのが常なのだが、空席がなく、前から2番目という、結構な席になってしまったのだった。
あまりの暑さにみんなが仕事サボって映画館に集まっている、ということなら日本の未来も明るいのだが……。
しかし、「ポケモン」や「ドラえもん」のおかげでこの手のSF作品のディテールへの説明が要らないのは、親としては非常に助かる。
時間を旅する機械がどんなものであっても、未来世界がどんなに変であっても、人間がどんな形に進化していようとも、子供はとりあえず「ドラえもん」や「ポケモン」を参照しながら勝手に理解しているのである。
ただこの映画の場合、どの時代に行っても、2030年のニューヨークを除いては基本的に暗いので、どれがどうだかよく分からなくなったみたいである。
8歳くらいの子供は、映像を見るときに物語の筋を連続的に追っていくことがまだうまくできず、分節化された映像や音に一気に集中していく。
すべての場合にそうなのではないのだが、とりあえず物事を連続的につじつまを合わせながら見ていく作業の鳥羽口に立っている、という感じなのだ。
だから、大人から見ればどうしてそんなことがわからないのかまったく理解に苦しむようなところで混乱してしまう。
もちろん「タイムマシン」のような映画を8歳の子供に分かるように作れ、ということが言うつもりはまったくないのだが、ただ、この映画に欠けているのは、どこかそのような、あるシーン、ある時代を一瞬で理解させてしまうような、決定的な何かだったように思える。
まあそれは、この映画だけでなく、ほとんどの映画に欠けているものなのだが……。
ああ、80万年後の未来の地底人の貴族階級の人間に扮した白髪長髪のジェレミー・アイアンズは、エリオット・マーフィーみたいだった。
劇場から外に出ると、まだまだ思い切り暑い。
昨夜はほとんど眠れず体調はガタガタで、この暑さと湿気が1ヶ月以上続くのかと思うだけでうんざりする。
記憶では、アメリカが京都議定書を批准しなかったのは、たとえば批准しなくても、地球の温度は1ºC上がるだけだと誰かがブッシュ大統領に進言したからだという話を聞いた覚えがあるが、9月11日の国際貿易センターの映像を見なければ世界が今どのような状態にあるのかを理解できないような不感症の人間には、その1ºCがどんなことを引き起こすのか、想像することもできないのだろう。
例えば、ヴァーチャルな映像やインターネットを通してのコミュニケーションなど、人と人とが直接向き合うのではない現代社会の関係のあり方を巡ってさまざまなことが言われているが、数字でしか物事を見てこなかった世間の大人たちの関係のほうが、よっぽどどうかしていたとしか思えない。
以前、仕事でMTVジャパンをたずねたことがあり、その時会ったすでに50歳前後のいかにもサラリーマンといった風情の関係者が、若者風俗のことをあまりによく知っていて、音楽や映画にも詳しいのであきれたことがあるのだが、彼らの話を聞いていると、今どこで何がヒットしているとか、どれくらいの視聴率があるとか、どれもこれも、風俗の一覧表にできるようなことばかりだった。
そのような(仮想)現実を突破する道具として、現代のヴァーチャルなネットワークや映像は、十分に有効に使えるのではないかと思う。
7月24日(水)
先週末から子供の夏休みが始まり、初日にはいきなり高尾山に登り1年分の運動をして1年分の汗をかく。
過酷な夏休みの始まりである。
聞いた話では、今年から学校が完全週休2日制になり、公務員である先生方は、昨年までは出勤した土曜日の代休として夏休みがあったのだが、今年からはそれがなくなり、夏休み期間中でもとにかく学校へ通っているのだとか。
やることがあるなしにかかわらず、それが公務員というものだそうである。
一方で、学期中は誰がどう見ても先生の数が足りず、ついていけない子達が特殊学級へ追いやられたり、授業が中断したり、表ざたにはならないさまざまな事件が起こっているのに、一方では時間を持て余す夏休み(もちろん実際は、さまざまな試みがなされてはいるのだろうが)。
以前、杉並第十小学校の校長に、明らかに手が足りないんだから、ボランティアでもなんでも募集して、授業なりさまざまな行事なりの手伝いをしてもらえばいいではないかと言ったことがあるのだが、校長は、そういった前例を作ると教育委員会に目をつけられるのでできない、と言うのである。
公務員の給与体系なり、制度なりが革命的に変わらない限り、教育現場に未来はない。
寺脇研も、テレビに出て、「案外物分りのいい人」などと若者たちに言われている場合ではないだろう。
「ゆとり教育」に不安を抱いた親たちは、子供たちの塾通いの時間をさらに増やし、あるいは最初から私立学校へと通わせ、教育における貧富の差はますます拡大している。 そんなもやもやとした怒りと共にアテネフランセへ。
ダウザーと『戦艦ポチョムキン』とのジョイント・ライヴである。
ほとんど客がこないかもしれないと、長嶌から聞いていて、しかしいくらなんでもそれほどではないだろうと思っていたのだが、確かに長嶌の予想よりは多かったものの、客入りは悪い。
一体どうなってるんだと憤慨するがまあ、それはそういうことか。
もちろん全然納得しているわけではない。
ライヴは、圧巻であった。
『孤高』の時に大友さんたちが音楽をつけたのとは違い、こちらは既に映画ファンにはおなじみの映画であり、評価も定められ、誰の目にもはっきりと分かる物語もある。
そのきつい条件の中、ダウザーがどのように音をつけ、なおかつ既に自分の中でイメージの固まった映画がどのように見えるのか。
ダウザーがその場で発した音は、『戦艦ポチョムキン』に映されているそれぞれの対象を、徹底してマテリアルな素材へと送り返していくものであった。
ポチョムキンの乗組員たちにかぶせられた白い布、肉に群がる蛆虫、ロープにかかって落ちそうな男、光る十字架、階段を落ちそうになる乳母車の車輪、追われる人々の狂った目つき、そしてポチョムキンを出迎えるヨットの群れとそこに吹いているはずの風、その風が運ぶ空気の匂い、波の光。
それらはもともとの映画に映されているものだし、ダウザーの音無しにもいくらでも見ることのできるものなのだが、ダウザーの音は、それらと、この映画の物語を結び付けているものを軽々と引き裂き、というか、端から問題にさえしていないかのようなずうずうしさで、我々が見ようとするもの、見たいものとは別の何かを、しかしそれはあらかじめそこにあったものでしかない何かとして、我々の前に展開する。
そしてたとえば、アクション映画以外の何ものでもないかのように見える船内での闘争シーンが始まり、そのリズムとスピードをダウザーが増幅させるとき、あるいは、人々が兵士たちの銃に向かって歩み始めるラストシーンでスーイサイドの「フランキー・ティアドロップ」からサンプリングされた高鳴る心臓の鼓動のようなリズムが流れるとき、我々は唐突に、革命とは何かを知ることになる。
素材=情報として分節化された映像と、分節化されたそれらの形式的な連なりがダウザーの音と共に我々の体内にインプットされ、そしてそれらが、インプットされたリズムや音響への反応としてアウトプットされる、そのインタラクティヴな運動の只中に、観客は立たされていると言えばいいだろうか。
エイゼンシュタイン自身は予感していたかもしれないが、当時には決してありえなかったはずの運動がここにはある。
エイゼンシュタインの時代からはるか隔たってしまった現在以降に映画を見ることや作ることのヒントが、ここにはゴロゴロと転がっているのだ。
一体どうしてこのような貴重な体験の場に人は足を運ばないのか、うちあげの席で私は憤る。
本当にもったいない。
まあ、私のような不精者に言われたくはない、ということもあるかもしれないが、そして既存のマスコミ関係者には今更何も期待してはいないが、せめて「nobody」の人々くらい、一人や二人、来てもよさそうなものだ。
雑誌編集者を目指す者なら、それくらいの嗅覚は働かせなくてはならない。
「様子見」でもいいから、誰かがやってくるべきなのだ。
『孤高』と大友さんにはホイホイやってきて、『ポチョムキン』とダウザーなら駄目なのか。
今更ポチョムキンなんて、という高をくくった態度は、腐ったマスコミに就職してからとればいい。
もちろん『孤高』のときの演奏も素晴らしく、私は普段の不精を大いに反省させられたのだが。
(しかし、私が気づかなかっただけで、誰か来ていたとしたら、申し訳ない。まあいずれにしても、「nobody」にとってはいわれのない言いがかりのようなものかもしれないが)。
あまりのことに、いよいよハリウッドに行ってジョン・ウーの映画音楽でもやったらどうかとダウザーの二人に提案するが、さすがにそれもどうかとたしなめられる。
長嶌はそれとはまったく別件で、怒る。
何に怒っているのか、秘密。
7月13日(土)
子供に連れられて杉並公会堂、「うしろの正面だあれ」。
虫プロ製作のアニメである。
戦中の、東京下町に住む一家の物語。
一体なぜこのアニメを見たいと思ったのか、子供に尋ねると、「戦争の話は好きなの」、と言う。
確かに、義母に買ってもらった「火垂るの墓」のビデオを何度も見ていたが、どうやらそれでハマったようだ。
主人公の女の子の顔が、何処かしらジブリ系の顔をしていたということもあったのだろう。
しかし、今や東京ではなくなってしまった大家族の物語は、子供の目には々映ったのだろう。
この映画での発見は、子供たちが疎開後の東京には、当然なのだが町から子供たちの姿が消えてしまったということを教えてくれたことだ。
子供たちの声の聞こえない町で、爆撃と死滅の予感を生きた親たちの心情を思い、泣く。
だがこういったことは、親たちには通じても、子供たちには何のことやらまるでわからないだろう。
私でさえかろうじて記憶に残っているだけの古い日本の町並みや、大家族の住む日本家屋の構造などは、子供たちにはどのような感情を呼び起こすのか。
まるで知らないものでも、「懐かしさ」としてインプットされるのだろうか。
「ドラえもん」の映画版の短編などを見ても同じことが言えるのだが、気配としては、経験していないものでも「懐かしさ」を感じる回路がどこかでできているように思える。
おそらくその気配が、子供に、この映画を見たいと思わせたはずなのだが、ただそれを子供に尋ねようとしても、やはり漠然とした答えしか返ってこない。
映画は、焼け野原になった町の真中で、孤児になった少女が強く生きていく決意をして終わる。
「バイオハザード」とまるで同じ終わりである。
違うのは、この少女には、かつてあったものの記憶が鮮明に残っていることだ。
我が子の記憶には、この映画はどんな形で残るのだろうか。
7月12日(金)
昨日の「バイオハザード」に関して、なんかつまらない日本映画のSF映画みたいだったし、アップばかりでどう見もたいしたことない映画だったのではないか、というメールが中原君から届く(大雑把なまとめで申し訳ない)。
確かに。
こればかりはなんともその通りと言うしかない。
ではなぜ? というところが問題で、これはもう、それを言ったらお仕舞いということもあるのだけど、まあ、あえて言わせてもらえば、あるいは、今更そんなこと言ってどうするのか、という感じもあるのだけれど、そしておそらく誰もが気が付いているはずだと思うのだが、映画はもう終わっている。
ガレルのcd-romの対話の中で稲川さんが言っているように、世界の風景が何年かをかけてすっかり変わってしまったのにリンクして、映画もある種の終わりを迎えた。
そこでどうするのか、というところが、今、映画を作ることの意味であるはずだ。
さまざまな立場が生まれると思う。
ただ、もはや映画も現実も変わってしまったという前提に立ち、それなりの物語を作っておきながら、しかしそれをかつての映画的な技法で包んで提出する、というのはなんだか事を面倒にしているだけだなあ、という苛立ちを覚える。
その意味で、「MI2」のジョン・ウーは事態をはっきりとさせているように思えるし、「インソムニア」や「スコーピオン」などは、その面白さとは関係なく、事態をを必要以上に複雑にしているように思える。
「バイオハザード」に引っかかってしまったのは、おそらくそのあり方があまりに鮮明だったからだ。
さまざまな映画の引用も、もう従来の引用とはまったく違う、単なるコピー&ペーストだし、時間の流れのようなものもなく、分節化された時間と空間がランダムに置かれ、それが全体を作るわけでもなく、また、それが全体を作らないことに意味があるわけでなく、ただひたすら局所的にそれがある。
その寒々しさと、ミラ・ジョヴォヴィッチの希薄な生々しさが、結果的に我々の住んでいる場所を映し出していた、という感じかな。
ただ、さすがに中原君の言うように、これ自体としては面白い映画ではないと思えるし、果たして本当に映画は終わったのかという問題も、決着がついたわけでもなし、だからガレルのcd-romなど出したりするわけで、心は千々に乱れる、というところ。
そんな揺れる思いを抱えつつ「火星のカノン」。
笑ってしまったのは、ここにもまた、ロングショットがほとんどないことだった。
5人の登場人物(一人は子供)の作り出す限定された小さな空間が、まさに地球上には存在しない場所のように映し出される。
タイトルの「カノン」は、音楽で言えば模倣の形式であり、先行する主旋律やリズムを単純に模倣したり、音程を変えて模倣したり、逆行しながら模倣したり、ある部分を拡大縮小したりなどなど、さまざまな形式的な技法によって、音を組み合わせていく。
つまりそこには他者はいない。
不確定な要素が紛れ込むことはなく、ただその模倣の形式の組み合わせによって、その和音が軋みを上げたりもする。
確か、「あなたを一人にさせない」というような言葉が、この映画の決め言葉になっていたが、カノンにおける「対」の概念は、そこに要約されているだろう。
もちろんそれこそ、劇場用長編では「冬の河童」以来となる風間志織の意図するところなのだろうが、この5人の人物たちの模倣のアンサンブルにおいて、「対」は2を示すのではなく1を示す。
だとすると「火星」とは何か?
これがどうもぴんとこなかった。
7月11日(木)
なんという暑さだ!
でも昨日までのような低気圧と湿気に比べれば、この暑さはまったく問題にならない。
ひどい寝不足だが、気分はいい。
『バイオハザード』を見る。
『トゥームレイダー』と同じく、ゲームの映画化である。
後者の主演、アンジェリーナ・ジョリーに比べ、こちらのミラ・ジョヴォヴィッチは、まったく私の好みではなく、見るつもりはあまりなかったのだが、昨日『スコーピオン』を見に行った際の劇場予告編を見たら妙に気になり、見ることにしたのだ。
その勘はほぼあたり、という感じか。
なんとなくモタモタしていて煮え切らなかった『トゥームレイダー』に比べて、多彩さはまったくないものの、その一つか二つのパターンで最後まで、あきれるくらいに単純に押しまくる。
しかし、たとえばハードトランスのように、その単純なリズムパターンの中にすべてを巻き込んで、ある別の次元へと到達させようという意図も感じられない。
非常に単純なパターンで作られたいくつかのステージが、とりあえず物語りに沿いながら並べられて入るものの、それらはすべて並列に置かれている。
したがって、たとえば『スピード』のように、生き残った主人公たちにある種の恋愛感情が芽生えるというようなこともない。
また、並列されたいくつかのステージには、さまざまな映画からの「引用」が見受けられ、たとえば、『ゾンビ』『エイリアン』『2001年宇宙の旅』といった名前は熱心な映画ファンでなくてもすぐに口にすることができるのだが、つまり、それらもまた、ひとつの分かりやすいパターンとしてコピー&ペーストされたアイテムとなっていて、それらの背後にあるはずの映画史の広がりはまったくない。
しかも最後には、『ヴァンパイア 最期の聖戦』や『マウス・オブ・マッドネス』『スペース・バンパイア』の、「世界の終わり」の風景が広がるのである。
つまり、カーペンターやフーパーがトラウマとして抱えていたはずの、実体のある「世界の終わり」が、ここでは、「世界の終わり」以降の世界の終わりとして語られていると言えばいいか。
そんな世界の広がる中、ミラ・ジョヴォヴィッチは、まるで秘境ものの映画の女性主人公のような頼りない布切れ一枚と言ってもいいような衣装で押し通し、ゲームものにありがちなコスプレはしない。
まあ、これは『フィフス・エレメント』や『ジャンヌ・ダルク』で十分やった、ということもあるのだろうが、恐ろしく背景を欠いた世界にあって、そこだけ奇妙に生身な頼りなさ。
その頼りなさのためか、ほとんど戦闘シーンで埋め尽くされるこの映画は、なぜかマッチョな香りがしないのである。
実際のゲームをやったことがないので分からないのだが、ゲームではこの彼女の役を、ゲーム・ユーザーたちがやるのだろうか? ゲームの世界に紛れ込んでしまった、唯一人間的な記憶を持つキャラクターとして。
映画の中では彼女は一時的な記憶喪失になっていて、自分の役割を忘れているということになっている。
人間的記憶と人間以降の記憶というふうに分ければ、映画の中の記憶喪失というのは、人間的記憶が人間以降の記憶を封印している状態、ということになるだろうか。
だから物語としては、彼女の持つ人間的記憶と人間以降の記憶の融合がとりあえず語られることになるのだが、『メメント』の主人公が、何処まで行っても結局実体のある世界にたどり着かなかったように、あるいはまた、実体のある世界にたどり着かないその運動だけがかろうじて世界の実態であると、それが示していたように、この映画でもまた、外の世界には崩壊して役立たずになったものばかりが無造作に散乱しているばかりなのだ。
これはこれでよし。
7月10日(水)
昨夜、青山から祝い事の知らせ。
まずはめでたし。
本日は、昼前に渋谷シネアミューズへcd-romの納品。
まだ午前中だからだろうか、それとも台風のためだろうか、人通りも少なく、なんとなく不抜けていて、ぼんやりとした渋谷。
これなら私のようなものにも歩ける。
台風がひどくならないうちに帰ろうかと思うが、すっかり見逃していた『スコーピオン』を見に新宿ピカデリーへ。
カート・ラッセル、ケヴィン・コスナー、クリスチャン・スレイターなどがエルヴィスに扮してラスヴェガスのカジノを襲う。
これでもかと使われる映像と音のギミックはなかなかよし。
時間の回転の操作によってどこか引き攣ったグルーヴを作り出し、その絶え間ない揺れによって物語を展開させていく。
エルヴィスはその快感原則を際立たせるための、最も分かりやすいギミックだと言えるだろうか。
したがって、エルヴィスがエルヴィスであるゆえにその快感原則を壊すようなことはない。
まあこんなものだろう。
ただ、ど田舎のガソリンスタンドに立ち寄ったケヴィン・コスナーが、父親から暴行を受けているガソリンスタンドの娘を連れ出し、ガソリンスタンドを爆破させるとき、走り出す車の中からその爆発音に振り返る娘を仰角でとらえたほんの1,2秒のショットはとてもよかった。
これまでも、そしてこれからもどうせろくな人生を送ることのないその娘が、おそらくその一瞬だけは彼女の引き受けざるを得ないどうしようもない人生から解放されて高みに上ったのではないかとさえ思わせる、この映画のどんなギミックより確実にサイケデリックなものとなっていたように思えたのだが、思い過ごしだろうか。
7月7日(日)
ようやくcd-romが完成する。
相変わらずだが、完全な家内制手工業によって製作されているので、肉体的精神的に非常にきつい。
ただ今回は、青山が送り込んでくれた美学校生たちのおかげで、その苦痛をうまく乗り越えることができた。
boidも多少の分業化が始まったのだ。
今後もこの体制を維持していきたいと思うのだが、まあ、そのためには、それなりの売上がなくてはならない。
これがもっとも難しい。
貧乏は平気だが苦痛は嫌いなので、本気で何とかしないと、とは常々思うものの一向に何とかなる気配はなし。
宣伝・販売能力のある新人の登場を待つしかないのか……。
まあとにかく、『Phileppe Garrel』cd-rom、発売開始。
boid通販のほか、青山ブックセンター、池袋ジュンク堂書店、ガレル作品公開中の劇場などで販売の予定である。
来日時の日仏学院でのトーク・イヴェントを収録したビデオの抜粋もおまけとして入れてある。
1500円という値段は高いのか安いのかよく分からないが、とりあえず、それなりに刺激的なものになっていると思う。
7月6日(土)
まず、7月3日の日記のの追加から。
心臓移植手術で果たしてハートの問題が解決するかどうか。
『ジョン・Q』のニック・カサヴェテスが私の思い過ごしのようなことも意図しているのなら、「ハートの問題とはすなわち脳の問題だ」と語るクレール・ドゥニの『ガーゴイル』(9月くらいに公開かな)を見なくてはならないだろう。
『ガーゴイル』を見れば、ハートの問題を心臓移植になぞらえて語ろうとすることは、もはやロマンティックすぎる試みというほかない。
だからやはりここは、脳移植というギャグだかホラーだかよく分からないネタで暴れてほしかったと思うのは、もちろんこちらの考えすぎなのだが……。
いよいよフィリップ・ガレルcd-romの仕上げ大詰めで、昨日から、映画美学校の若者たちが手伝いにきてくれている。
見ていると感心するばかりなのだが、むちゃくちゃ集中してよく働く。
一般的にはこれがあたりまえで、私の仕事振りがだらしないだけなのかもしれないが、とにかく大助かりである。
多分、明日には完成。
しかし、いつものことなのだが、マックとウィンドウズの互換性の問題や、ハード会社、ソフト会社の思惑がらみのアプリケーションの肥大化には、本当に頭にくる。
今回のcd-romはadobeのacrobat reader で読めるような仕様にしてあるのだが、本日、青山から連絡がきて、ダウンロードに1時間もかかったと。
たかだか書類を読むだけのアプリケーションである。
まあ、そこにはもろもろの事情があるのだろうが、世間がまだダイアルアップ接続があたりまえの頃は、もっと軽く作られていたはずなのに、もう、「ブロードバンドじゃないとやってけませんよ」とでも言わんばかりのこの重さ。
紙媒体のコストの高さに比べ格安値段でできるcd-rom出版は、boidのようなアングラ・レーベルにとっては本当にありがたい代物なのだが、そこにもやはり、わなはある。
「ブロードバンド」というオーヴァーグラウンド=標準化が、しっかり待ち受けているのである。
頭にきたので、adobe には無許可で、acrobat reader 自体も収録したCDにしようかと考えるが、まあさすがにやめておく。
windows使用の人で、acrobat readerがインストールされておらず、ダウンロードに時間がかかって大変だという人は、各種パソコン誌の付録CDなどには結構収録されているので、そちらで何とかしてほしい。
なんだかねえ。
7月3日(水)
フィリップ・ガレルのcd-rom製作準備で、ヘロヘロになっている。
昼過ぎに買い物をしに外に出たら、足がよろよろしてうまく歩けず、愕然とする。
あまりのことにとりあえず仕事はサボって試写に行くことにする(試写に行くのも仕事のうちなのだが……)。
考えてみたら先週末からほとんど外に出ていなかった。
昨日も、カート・ラッセルとケヴィン・コスナーがエルヴィスに扮してラスヴェガスを襲うという、ちょっと気になる設定の『スコーピオン』を見に行こうと思いつつ、あまりの疲れに横になったらそれっきりだったし。
しかし世間はなんという湿気。
この湿気から逃れるためならなんでもする、とまあ、つい大げさにうんざりしてしまうのだが、試写のほうは子供の命を救うためなら何でしてしまう父親の物語であった。
ニック・カサヴェテスの『ジョン・Q』。
冒頭のスローモーションは大げさすぎてどうもなじめないとか、まだ病気が判明する前の子供との穏やかな日常風景を写したシーンは十分にすばらしいが、物語の構成上この位置にあるのは確かにごく自然なこととしてもやはり物語を盛り上げる「効果」としてしか機能しなくなってしまうのではないか、とか、人物を写すときのフレームがテレビドラマみたいだなあとか、もろもろ文句はいっぱいあったのだが、とりあえず泣く。
いまどき、こんなに懸命に子供の命を救おうとするお父さんの姿を、こんなに堂々と見せてしまうデンゼル・ワシントンに、思わずほろりときてしまったのだ。
いつものようなツルンとした顔立ちではなく、役柄から当然のことではあるが、無精ひげを生やしたそこそこ生活感のある顔立ちに変えているのだが、それ以上の演出・演技を特に付け加えることもなく、逆にいえば、それ以上の事をしないと役柄にふさわしい貧困家庭の失業中の父親には見えないのではないか、というような不安や恐れをこちらに感じさせない彼の存在は、こういった図式的な映画にはぴったりではないか。
そして、このようなあまりにステレオタイプな、分かりやすい構図の中で、世界の姿と人間の生き方を示さざるを得ないほど、我々の目の前の社会の複雑さの中で人々が何かを見失っているのだと、この映画の彼は訴えかける。
もちろんそこには、アメリカ映画的なハッピーエンドも当然のように用意されているのだが、面白かったのは、この映画が示す父親像であった。
重度の心臓病にかかった子供は、なぜかボディ・ビルが大好きで、部屋中にボディ・ビルダーの写真を貼っている。
デンゼル・ワシントンふんするその父親も、ボディ・ビルダーではないが、とにかく、家族を養う全責任を自ら背負おうとする、言ってしまえばマッチョな父親であり、それが男として当然だと信じて疑わない人種である。
彼と妻との会話の中に、そんな彼の身に染み込んだ背景が、さりげなく現れる。
それで結局、子供の心臓移植を病院にさせるために、彼は病院を占拠する(心臓移植代を支払う能力のない彼に、病院側は手術はできないと譲らなかったのだ)のだが、その決着として、彼が自殺してその心臓を子供に与えるという決断をしたのである。
つまり、マッチョな父親は死ぬ代わりに、そのハート(心臓)は子供に受け継がれる。
しかし、今まさに自殺をしようとする瞬間、交通事故で亡くなった女性の心臓が、彼の息子にぴったりだという知らせが入るというハッピーエンドが待っている。
これは、子供も父親も共に殺さない、というアメリカ映画のハッピーエンドとしてはまったく正しい終わりなのだが、問題は子供のハートが、若き女性の心臓に置き換わってしまうことである。
マッチョな父親の死とそのハートの受け継ぎという美しい物語の完結は不発に終わり、彼らとは縁もゆかりもない、乗っていた車から判断するにそれなりのブルジョワだと思われる女性のハートが彼の子供を生かすという複雑なハッピーエンド。
その女性の姿をはっきりと意識させておくための冒頭の大げさなスローモーションだったのかとこのとき気づくのだが、それは、ハッピーエンドを強調するためというより、この複雑さを何とか伝えようとするための、スローモーションだったのではないか。
9月11日以降、明らかにマッチョ化するアメリカ社会の中で、とりあえず自分にできるところで抵抗の糸口を見つけようとするニック・カサヴェテスのハートを、ここに見たように思うのだが、これは思い過ごしだろうか。