
2002年 boid日記 5月
Text by 樋口泰人
5月31日(金)
このところずっと家に籠もっており、体調も最低になったので、このままではいけないと、新宿ディスクユニオンまで。
手持ちの現金も心細く、こんな時はいらないCDを売るに限る。
このところずっとCDショップへ行くのを控えていたので、その反動がちょっと心配ではあるのだが。
CD売却後、さすがに本日はそのまま帰ろうとしたのだが、1階の店内からディランの「It's all over now, baby blue」が聞こえてくる。
歌っているのはディランではないが、なかなかいい。
その声に惹かれてつい店内へ。
よく聞くと聞き覚えのある声。
ブライアン・フェリーであった。
しかし、ブライアン・フェリーがこの曲を歌っていても不思議ではないが、果たしてこれまでのアルバムに入っていたか、まるで記憶にない。
ロキシー関係に関してはいい加減な効き方をしていて、青山に怒られてもいるので単に記憶にない、ということなのだろうが、その後に流れた曲も聞き覚えがない。
しかもこのギターはクリス・スペディングではないか?
妙な胸騒ぎを憶え店内を散策すると、なんと新譜が出ていたのだった。
知らないというのは恐ろしい。
イーノ、ポール・トンプソン、それにやはりクリス・スペディング。
そしてこの音の処理。
スピーカーの問題なのだろうか。
うまく言えないのだが、音の厚みがさりげなく伝わってくる。
デジタル処理された音のおもちゃみたいな感触がないのだ。
精製された塩とミネラルを含んだ塩の違いという感じの、微妙なブレがあって、ウルウル来る。
思わず買いそうになるが、ブライアン・フェリーには気を付けろ、というのが私の経験則であるので、とりあえず、このアルバムはここで聴いた記憶だけを残しておくことにする。
代わりに、ペル・ウブの新作『セント・アーカンソー』、そして、なんと、何年ぶりになるのだろうか、テレヴィジョン・パーソナリティーズの新作『Fashion Conscious』。
彼らがまだやっているなんて……、と、一瞬、気が遠くなる。
確かあまりに貧乏で、マスターテープさえ売ってしまい、おかげで旧作の再発さえできない、という話を聞いた記憶があるが。
ここで私が買わねば一体誰が買うのだという、同類相哀れむと言えばいいか、要するに貧乏同士の助け合いの意味をも込めて。
1曲目はキンクスの「I'm not like everybody else」という、無茶苦茶渋いカヴァーである。
シングル「サニー・アフタヌーン」のB面。
その他、ピンク・フロイド=シド・バレットの「バイク」やら、ダニエル・ジョンストンやら、それにリー・ヘイゼルウッドの「I've been down so long it looks like up to me」って、我が家にあるナンシー・シナトラのアルバムには入っていなかったけど、これはふたりが別れて以降の曲なのか?
このあたりの曲の解説は、60年代のポピュラー音楽マニアに尋ねたいところだ。
もちろん、オリジナル曲もボロボロとあり、以前に比べ、かなり繊細な音作りになっていて驚く。
70年代末のイギリスのパンクの流れの中で聞くと、まさに当時のラフトレード的な音として聞こえてきた彼らだが、今、こうやって聞くと、はっきりとサイケデリックな音を作っているので、またしてもこちらのいい加減な聴き方を反省するが、では昔のアルバムを聞き返そうとしてももはや手元にない。
上述したような理由でおそらく再発もなし。
やはりいくら貧乏になっても、CDは売ってはいけない。
まあ、今だと、ちゃんとコピーしてから売ればいいのだが。
だが、しかし、ディスクユニオンで彼らのアルバムに付けられていた紹介文には、「ドイツのバンド」とあり、確かにドイツのレーベルから出てはいるが、その紹介者は彼らの過去を知らぬ様子で、ドイツから突然こんな変なバンドが出てきましたよ、という感じの紹介がされていた。
でも彼らはすでに70年代半ばからやっている人たちである。
今はなきラフトレードの第1弾シングルも、彼らの「パートタイム・パンク」という曲であった。
てな訳で妙に時間が20年以上さかのぼり、つい、エリオット・マーフィーの最近作2枚をカップリングしたアルバムまで買ってしまう。
ホームページで新作の1曲丸ごと無料ダウンロードなどをしてくれていて、いつもお世話になっている、そのお礼のようなものである。
レジデンツの入門者向けお買い得アルバム、のようなものも950円という格安値段で出ていたが、あれはなんだったのだろう。
相変わらず謎のバンドである。
5月22日(水)
製作中のフィリップ・ガレル発言集CD-ROMのため、稲川さんにガレル・ビデオを諸々渡す。
一体いつ寝ているのかと思うのだが、相変わらず稲川さんは早起きで、9時30分過ぎには電話がきた。
そろそろ気温も上昇してきて、そのうち昼は寝ていられなくなるだろうから早起き態勢に入るいい機会でもあり、そのまま起きるのだが、結局、昼寝。
2時くらいに青山からの電話で起こされる。
某イヴェントで上映するビデオのための素材ビデオを受け取ることになっていたのだ。
これが結構な量で、最終的には1時間30分ほどのものにするにしろ、パソコンにキャプチャするだけでもかなりのことである。
忘れていた作品など、つい見てしまうだろうし。
作業開始までにキャプチャが終わるかどうか。
その後、映画美学校試写室にて『プロミス』。
この映画に関しては、配給会社のアップリンク代表、浅井さんの以下のようなメッセージがついていなかったらきっと見なかったと思うので、かなり長くなるが、全文を掲載する。
昨年の3月バーミアンの遺跡がタリバンにより破壊されれたことが世界に報道された時、新聞の片隅にアフガニスタンの人のコメントが載っていました。「メディアは命のない石像が壊されて初めて事件として報道するが、これまでに何万人のアフガン人がタリバンに殺されても、そのことは報道しなかった」。9月11日から半年前の事です。
世界の問題を知ること、それは人々を孤立から救う手立ての一歩だと思います。ただし、まずその情報がなければどうしようも有りません。伝える事のできる立場にいる人が自らの仕事を怠ることは罪だと思いました。
僕は、昨年の2月ロッテルダム国際映画祭でこの『プロミス』を観ました。これを日本で公開すべきだと思いましたがビジネス面を考えると正直躊躇しました。9月にアメリカで同時多発テロ事件、そしてアフガンでの殺戮が起きました。事の問題の根元はどこにあるのか、配給会社としてできることは何かを考えました。そこで『プロミス』という映画の存在を知っている者として日本で配給することを決めました。
『プロミス』は声高にパレスチナ・イスラエル問題を訴える映画ではありません。パレスチナとイスラエルに住む7人の子どもたちの眼を通して和平の可能性を考える映画です。また「人なぜ憎しみあうのか?」という素朴な問題を直視した映画です。子ども達が持つ世界観は、周囲の大人達や住んでいる環境によって形成されたものでしかありません。最終的に中東問題解決ならびに和平努力は、パレスチナとイスラエルの子ども達に託すしかないことを映画は伝えます。
この映画を製作した非営利団体“プロミス映画プロジェクト”は、中東における和平プロセスを映像の持つ力で促進し、和平努力を支えることの大切さを人々に伝えることを目標としています。プロジェクト参加者には、イスラエルの故ラビン首相の妻 故レア・ラビン氏、パレスチナ解放運動家ハナン・アシュラウィ氏、俳優のリチャード・ドレイフュス氏、デボラ・ウィンガー氏、オシー・デイヴィス氏などが名を連ねています。
アップリンクでは“プロジェクト”の意を汲みこの作品を日本で上映していきたいと思いますのでこの作品の上映を応援してください。
浅井隆(アップリンク主宰)
とまあ、以上がメッセージの全文である。
何かの問題を「子ども達に託す」ほどばからしいことはないと思うし、また、罪のない子ども達の無垢な表情を見せられたりするのはうんざりなので、このような映画は絶対に見たくないのだが、一方で、彼らのことを知らないのも事実である。
こうやってチャンスを与えてくれる人がいる以上、それに応えてみるのもいいのではないか。
観てみると、予想通りの無垢かつ「周囲の大人達や住んでいる環境によって形成された」世界観を持つ子ども達が登場し、彼らの発言はうんざりすると同時に非常に面白く思わず笑ったり泣いたりもするのだが、そしてまた、彼らの発言や子ども通しのやりとりを見せられながら、イスラエルやパレスチナの子ども達の生活を多少は「知る」こともできるのだが、だが、この映画が日本で上映される意味は、そういったことにはない。
ただこれが日本で上映される、ということのみに意味があるのだと言えばいいだろうか、つまり、何かが動くこと、例えば撮影のために、映画の撮影スタッフがイスラエルとパレスチナの間を何度となく移動すること、罪のない子ども達にとっても超えがたいパレスチナとイスラエルの境界をカメラは易々と越え、また、フィルムもこうやって日本へとやってくる、その移動そのものが、ある種の政治の場を生み出しているのである。
この映画に、大人達の発言もなく、子ども達の感情的な対立や和解のみが映し出されているのは、ここに映されなかった数多くのことが、問題の根元にはあり、それこそが今後彼らが大人になって手を付けなければらならない問題であり、我々が今対処しなければならないことであることを示すためだろう。
家に帰ると高橋洋さんから電話。
ウィルスメールについての相談である。
どうやら通常のウィルスメールではなく、「ウィルスメールに汚染され、ウィルスを送ってしまいました。ついては、「jdbgmgr.exe」というファイルをシステムから削除してください。ファイル検索をすると、テディベアのアイコンがついたこのファイルが見つかるはずで、それを削除しないと2週間後にはアドレス帳のリストに載っている人々に同じウィルスメールを送る付けるはず」というメールがやってきて、さすがに心配になり、検索すると本当にテディベアのアイコンのついたファイルがあるものだから、つい削除してしまったところ、それこそがチェーンメールの罠で、テディベアアイコンのファイルはウィンドウズのシステムに必要なものだった、とのこと。
つい1週間ほど前、私のところにも何度か同じようなメールがやってきていた。
こういったチェーンメールは相手にしないに限るのだが、検索すると本当にそのファイルがあり、しかもテディベア。
これは不安になりますよねと、高橋さんは笑う。
ただ、そのメールのちょっと後に、また、「あのメールは間違いでした」というメールもやってきて、一体どちらが本当なのか判断不能になり、不安だけが増すという、やっかいな代物である。
しかしとにかく、このメールは単にチェーンメールで、ウィルスとは一切関係がないので、今後同じようなメールが届いたら相手にしないように。
うっかりテディベアを削除してしまったら、マイクロソフトのホームページのウィルス関係のページでファイルのダウンロードができるようになっている。
5メガくらいのファイル。
しかしこのどちらが本当なのか判断停止になって不安だけが増幅していく状態は、まさに現代そのものとも言えるし、『ビューティフル・マインド』の主人公の不安がまさにそれではないかと、高橋さん。
「nobody」のサイトで、黒岩さんが、ロン・ハワードはこの映画の中で、「ないものがあること」と「あるものがない」こととの分別がされていないことを指摘していたが、まさにその分別がされない、あるのかないのか分からない不安の増幅そのものが語られていた。
もう一度見直してみると、はっきりすると思うのだが、主人公は最後まで、妄想の人物達を本質的には分別できなかったはずである。
ただある種の技術によって、それを分別することに成功したのであって、言い方を変えれば、主人公は彼らのことを「あるものがない(見えるのにいない)」と思うことではなく、「あるものはある(見えるものはいる)」と思うことによって、彼らをいないものと見なすことができた。
そのことが見る者を不安にさせるのではないだろうか。
ロン・ハワードの近年の映画では、常に「帰還」がテーマになっているが、この映画では、「帰還」であるとともに決定的な一歩が踏み出されてしまったその後戻りのできなさが語られているのでは?
月曜日に観た『アザーズ』がどうも物足りなかったのは、その点においてである。
とりあえず、今週いっぱいで終わってしまう『ビューティフル・マインド』を見に行こうと思う。
5月21日(火)
女優としてカンヌ映画祭に出席中の坂本安美が出演したオリヴィエ・アサイヤスの「Demon Lover」の評判はどうかと、いくつかのカンヌ関係のサイトを見ると、「賛否両論」「激しいヤジ」という文字が眼にはいる。
確かに内容が内容だけに(インターネット時代の性と暴力についての映画である。詳しくは、「nobody」2号に、撮影日誌あり)、それなりの反発を受けるのは当然。
これもまた名誉な反応と言うべきか。
しかしそこに掲載されていた写真を見て愕然とする。
何と、ジーナ・ガーションが写っているではないか。
パリと東京とアメリカを舞台に繰り広げられる物語、ということは聞いていたが、そしてアメリカでの舞台となるのはオースチンだということも聞いていて、音楽がソニック・ユースということだから、もしかするとオースチンではバットホールサーファーズの面々も顔を出すのだろうか、などと呑気な妄想をしていたが、ジーナ・ガーションが出演するとは聞いていなかった。
ということはカンヌでは、坂本はジーナ・ガーションと同席しているということか……。
帰国したらどんな会話が行われたか、詳しく取材しなくては。
写真とか撮っていないだろうか。
5月19日(日)
子供に連れられて、『ロード・オブ・ザ・リング』へ。
朝8時30分からの回。
映画館の従業員も大変だろうが、親も大変である。
そんなに無理して1日4回上映しなくても、と思うのだが……。
でも、どう見てもこの映画、「ブレインデッド」ピーター・ジャクソン全開で、無茶苦茶恐いホラー映画になっている。
一瞬だけはっきりと見える化け物の顔とか、黒いマントに身を包んだ生き霊たちの撮し方、それらの登場の仕方など、正統派のホラーというよりやはり『ブレインデッド』なスプラッターの気配があちこちにあり、そのたびに私は「ウワー」と、驚いていたのだ。
先週の『スパイダーマン』はこのゆっくりした展開に子供はついていけるだろうかと心配になったが、今回は、こんな極端な映画を子供に見せてしまって大丈夫だろうかと、それはそれで心配になる。
まあ、物語をなぞっただけの『ハリー・ポッター』を見せることを思えばまったく問題ないのだが。
だが子供は、全然恐くなかったと言う。
夢に出てきそうなものがいっぱい映っていたのだが、どうしてあれが恐くなかったのか尋ねても、あまりピンと来ていない様子である。
よく分からない。
しかし私は、この手の神話的世界の勇者たちの物語が苦手である。
もはや完結して閉じられた舞台設定の中に入っていく時の、ある種の儀式にも似たお約束ごとについていけなくなるのだ。
本日の『ロード・オブ・ザ・リング』は吹き替え版で見たのだが、さすがにリブ・タイラーやケイト・ブランシェットが自分のことを「わらわ」とか、年寄りの魔法使いが決まって「~なのじゃ」とか言っているのを聞くと、もうどうしていいか分からなくなる。
さすがにその場で暴れるわけにもいかないのでじっと見ているしかないのだが……。
ロール・プレイング・ゲームができないのも、アニメを見ることがつらいのも、およそこの手の閉じられた世界のお約束についていけないからなのだ。
『スパイダーマン』の妙にスカスカした現実世界が愛おしい。
そこには、ファンタジーの世界が壊れてしまうことを恐れ、次々に見たこともないような舞台を作り出す神経症的な閉塞感はないからだ。
「私はどこにもいないがどこにでもいる」と確信を持って呟くダークマンのすがすがしさが、『スパイダーマン』にも受け継がれている。
ただ『ロード・オブ・ザ・リング』のスプラッターな気配は、閉じられようとする円環を内側から食い破る、ある力の在処を示しているようにも思えた。
だとすると、このシリーズは、永遠に完結しない物語となっていって欲しいと願うのだが、でもまあ、さすがに原作がある異常そうもいかないだろう。
パート2もピーター・ジャクソンが監督するようなので、展開を期待したい。
5月13日(月)
六本木にシシカバブのサンドウィッチ屋さんができている。
その香ばしい匂いにそそられるが、今は前歯がダメなのである。
差し歯にしていた歯の根が折れて、治療中。
仮歯の状態ではサンドウィッチは厳禁だ。
歯が治るまで、潰れないでいてくれと願う。
ギャガ試写室でショーン・ペン監督『プレッジ』。
退職した元警官のジャック・ニコルソンが姿の見えない連続少女暴行犯に立ち向かう。
しかし犯人は最後まで人前に姿を現さないため、ニコルソンはほとんど自分の妄想と戦っているようにも見えるし、映画の中のその他の登場人物たちは、すべてがそう思っている。
ネバダ州の山奥の町の閉ざされた空気が、更にその「妄想」に拍車をかけるのだが、例えばそれは、同じニコルソンでも『シャイニング』とは違い、ニコルソンは妄想をふくらませるのではなく、その風土が持つ妄想を吹き込まれる媒体のようなものとしてあり、しかもそんな自分におびえているようでもある。
それは、望まざる力を持ったスパイダーマンのおびえに近いようでもあり、いつの日かその呪いを踏み越えていくかもしれぬ危うさを持つスパイダーマンの未知の力からは果てしなく遠い。
大地と空に挟まれて身動きとれなくなった男の戸惑いは、どこかマッチョなセンチメンタリズムと思えなくもないのだ。
何と言ったらいいだろうか、男がひとりで犯人に立ち向かう前に、夫婦となった女との会話が必要だったのではないかと思うのだ。
それをやったら物語にならないのかもしれないが、今や物語にならなくてもそれをやる必要が映画にはある。
そうでなければ、ロビン・ライト・ペンのがんばりは永遠に報われない。
女もまた、その大地と大空の間で生きているのだから。
5月12日(日)
午前中から一家で『スパイダーマン』。
さすがに9時からの回には間に合わなかったが、11時からの回にはなんとか。
新宿プラザの座席数は1000程度だろうか、ほぼ満員。
さすがにロードショー開始2日目の日曜日である。
予告編のイメージから影響を受けたのだろうか、シネスコの映画だとばかり思っていたら、いわゆるアメリカンビスタ・サイズで、何となく居心地が悪い。
どこか狭苦しく感じてしまうのは、私が勝手に抱いていたイメージのせいなのか、それともカメラのフレームワークのせいなのか。
物語の内容も、最初からスパイダーマンがガンガン活躍するテンションの高いものかと思ったら、実はもっと地味な青春ドラマが基調になっていた。
サム・ライミはその若者たちの物語を保守的とも言える丁寧さで、ゆっくりと描写していく。
したがって隣に座る我が子の退屈と期待のバランスが崩れていくその様が、落ち着かない伸びの繰り返しとなってはっきりと現れ、親としては気が気でない。
以前、『ジョーズ』をビデオで見た時もこんな感じであった。
だがまあ、これも映画である。
平凡な高校生が偶然手に入れてしまったパワーを巡る、愛と呪いの物語は、8歳の子供にはまだ少し早すぎたか。
予告編のようなテンションの高いシーンはごくわずかなシーンに押さえられていたが、それでも見終わって外に出ると新宿の町が歪んで見えたのは、単にCGがもたらす視覚効果の反映というには、どこかさっぱりしない。
前作『ギフト』の、予め呪いに満ちた風土とはまるで違う、どこにでもあるようなスカスカの日常世界を舞台に繰り広げられる「ギフト」の呪いの物語は、それゆえ、どこかスクリーンの外側へも染みだしていこうとしているかのようだ。
子供もすっかり疲れ果てている。
帰宅後、久々にDMXのアルバムを聴いていると子供がやってきて、これはダースベイダーの曲だ、と言う。
「Who We Be」という曲なのだが、そのベースラインが、『スターウォーズ』のダースベイダーが出てくるシーンで流れる曲と同じだ、というのが子供の言い分である。
CDを見てもクレジットには『スターウォーズ』のスの字も書かれていないのでまるで分からないのだが、親が自分の子供を天才だと思うのは、このような時である。
だが子供は単に、それを憶えているだけなのだ。
5月11日(土)
フィリップ・ガレルにインタビュー。
boidから翻訳刊行予定のフィリップ・ガレルのインタビュー集『心臓の代わりにカメラを』の補足のためのインタビュー、という予定が、資金繰りも含め作業が難航中のため、とりあえず『孤高』後悔に会わせてガレル特集のCD-ROMを作ろうかということになり、急遽そのためのインタビューへと変更。
私と青山、そして、インタビュー集を翻訳中の坂本安美の3人で。
前回の来日時に比べ、ガレルさんは非常にリラックスしていて、言葉も早口になっているし、ニコニコ笑ったりもする、その笑顔がなかなか新鮮である。
日仏学院のトークとの時も思ったが、前より若くなった感じがする。
約2時間の予定が、3時間近くになり、それでも、尋ねればいくらでも話してくれそうな雰囲気である。
とにかくいろんなことをどんどん話すので、通訳の方は本当に大変だろう。
我々のひとつひとつの質問にも、一気に5分くらいはたっぷり話す。
通訳が入るから、ひとつの質問に10分近くかかることになる。
当然、用意した質問の半分もできない。
そうなることは、最初の質問ですべて判明するので、二つ目の質問を、一つ目の答えについて更に質問するか、あるいは用意してきた質問をなるべくこなすか、という判断の元にしなければならない。
このバランスが難しいのだが、今回は、あっさり、前者を選択する。
したがって今回のインタビューのほとんどが、最初の質問である、「フィルムとビデオ、DVの問題」を通奏低音として響かせるやりとりとなった。
「芸術は進歩のないものです。同じことを繰り返すだけです」というロックンロールな発言がガレルさんの口から発せられると、やはりニコニコしてしまう。
青山とガレルさんとで話し始めたら、多分このまま数時間は、あっさりと時が過ぎてしまうだろう。
いつかそんな機会を設けたいのだが、ガレルさんはもう帰ってしまう。
フランスまで追いかけていこうかと、そうすると、ラウール・クタール、カロリーヌ・シャンプチエといった人々からも話が聞けるとか、諸々妄想は広がる。
終了後、ガレルさんはもう、あきれるようなニコニコ顔で子供をあやしつつ渋谷の街に出て行く。
我々はしばし休息。
その席で、『孤高』配給のスローラーナーの人々から、『孤高』の試写の後、音がなかったということで怒って出てくる人が何人かいた、という話を聞く。
試写状にもサイレントだと書いてあるにもかかわらず、やはり怒る人は怒るのである。
多分、音がなかっただけではなく、『孤高』という映画の規格外の部分、それを日仏のトークでガレルさんは「編集段階で捨てられてしまうだろうショットの断片を集めて作ったような映画にするつもりだった」と語ったが、そういったこの映画の特性も含めて腹を立てているのだろうが、それは別に配給会社に対して怒る種類のものではない。
映写が途中で中断したとか、フィルムの状態が悪くて見えるはずのものが見えなかったとか、そういうことなら話は別だが。
その話を聞いた青山、「一体だれだそいつは。俺が日記に書いてやる」とすごむので、みんなで、「まあまあ」となだめる。
だが、やはりこうなってくると、配給会社も試写というもののあり方を真剣に考え直すべきだろう。
その後、代官山駅前のブックス代官山へ、boidビデオの精算と納品に。
小さな駅前本屋さんなのだが、何故かboidビデオがコンスタントに売れる。
場所柄だからだろうか。
店長でもあり、古くからの知り合いでもあり田畑さんは、「でも、最近は売ったことがないのよね」と笑う。
つまり、万引きされている可能性大なのだ。
製作者としては、万引きしてでも欲しいと思ってくれる人がいてくれるのは大変ありがたいことなのだが、それこそ文字通りの小売業の人たちにとっては死活問題である。
皆さん、万引きは大書店でしましょう。
5月10日(金)
雨が降るともうそれだけでまったく動きたくなくなるのだが、仕事のからみもあってどうしても本日の試写には行かねばならぬ。
ならぬと思えば思うほど妙に緊張し、ますます体をこわばらせながら、ワーナー試写室へ。
ワーナー試写室が内幸町に移ってすでに1年はたっているはずだが、考えてみれば、行くのは初めてである。
メジャー系の配給会社の作品は、劇場を使っての劇場試写があるので、基本的にそれで行くことにしているから、という言い訳を、何となくむなしくかみしめながら、フランク・タラボン『マジェスティック』。
なんだかんだ言ってジム・キャリーものは未だに追っかけている。
事故で記憶喪失になったジム・キャリーが、助けられた田舎町に希望をもたらすという、どこかで聞いたような物語。
今回のジム・キャリーは、ほぼ完全にジェームズ・スチュワートになっていた。
『トゥルーマン・ショー』パート2という感じだろうか。
スクリーンでもあり無垢なるアメリカでもある記憶喪失のキャリーの肉体に、田舎町の人々がそれぞれの希望を投影するのだが、彼の記憶喪失前の職業がハリウッドの脚本家で、田舎町では「マジェスティック」というなの映画関係映写になるという、つまり、映画の創造から流通へという変化に希望を託すというアイロニカルな物語に、ただ単にジェームズ・スチュワートになっているだけではない、ジム・キャリーの複雑な立場を思う。
これがニヒリズムにつながらないことを祈るばかりである。
5月9日(木)
本日はとあるビデオに声だけの出演。
2日ほど前、スローラーナー越川から「原稿を読むだけなんで」と、突然の出演依頼があったのだ。
しかしよりによって私に頼むなど、一体みんな、何を考えているんだか。
まあとにかく、演技などはする必要ない、というので、おもしろ半分で引き受けたのだ。
いったい何のビデオ化というと、ソフィアというバンド(私は全然知らなかったのだが、どうやらかなり人気があるらしい)のボーカル、松岡充が主演する『記憶の音楽Gb』という映画(この夏公開)の、プロモーション兼サーヴィス用のビデオである。
といっても無料配布ではなく、ちゃんと値段が付くものらしい。
映画の方は、ソフィアやサザンオールスターズなどのビデオを作っている川村ケンスケ監督によるものだが、このビデオは、『明るい場所』を監督した豊島圭介君が作っている。
私が読むのは、ある大学教授の伝説の講義。
映画にはこの大学教授が出ることはなく、音に関する主人公の特殊な能力の説明としてこの講義があるということらしい。
『ブレアウィッチ・プロジェクト』よろしく、映画には描かれなかったその世界の背後の世界を、こうやってビデオで提供しようというのだ。
とにかくその伝説の講義は、学生がカセットテープに録音しておいたものが奇跡的に残っていたという設定なので、一旦録音してから再生したものをカセットで録音し直すという、分かりやすい作業を行った。
スピーカーから聞こえる自分の声は何度聞いても慣れないが、今回は、大学の授業と言うより、何だか自己啓発セミナーでの講演のようでもあった。
まあ、講義の内容が内容なので、ということで何となく納得することにする。
しかし、単に読むだけでいいと言われたものでさえ冷や汗ものである私には、絶対に俳優にはなれないとあらためて思う。
5月8日(水)
相変わらず調子は最低のまま、ヨロヨロと日仏学院へ。
ついに来日したフィリップ・ガレルと青山のトークが行われる。
『孤高』の上映が先に行われるので、その終了近くにたどり着けばいいかと呑気に構えていたのだが、すでに階段のところに大勢が並んでいる。
どうやら上映には多くの人が入りきれず、トークだけでも、という人たちが並んでいるらしい。
驚くが、まあ、これくらいは来て当然だよな、とも思う。
トークでは、ガレルさんの口から「上映された映画の1巻目と2巻目が入れ替わっている」という衝撃の事実が告げられる。
どうやら日本に来たプリントの番号が違っていたらしい。
音声がなく、見ているだけではストーリーはほぼ分からないので、本来の上映を知らなければ巻を間違えて上映しても、まったく気づかないのである。
3月以来何度か上映されてきたものはすべてこの上映順で行われてきたので、今日までの間に『孤高』を見た人は、世界で最初のヴァージョンを見たことになるのだ。
ガレルさんも、本心はどうなのか分からないが、とにかく、これはこれで非常に面白いと、この映画の持つノンリニアなつながりを、「モダンな映画」という言い方で肯定する。
この「モダンな映画」という時の「モダン」とは、「現代的」というくらいの軽い意味で使っているのだろうか、今度のインタビューで尋ねてみようという気になった。
上映順に関しては、「ロードショーの時もこのままでいいのではないか」とまで言い始めたので、6月に映画館で上映される時にはどうなっているか。
ちなみに、ニコから始まっていたらオリジナル、男性のショットから始まっていたら日本ヴァージョンである。
トーク終了後のパーティで、カイエの橋本君に久々に会ったのだが、雰囲気が変わって見違えたと言われる。
日仏に行く前にアテネフランセによって荷物を受け取った時、アテネの泉にも、太りましたねえと言われたのだった。
どうもこの頃、人に会うたびに似たようなことを言われるから、本当にそうなのだろう。
体調が良くなったわけでは丸でないから、まったく喜べない。
最近はほとんど外に出ず、試写に行くのさえつらいので、多分人に会う時の輪郭の保ち方を体が忘れてしまったのではないかと、そんな風に納得することにする。
いや忘れてしまったと言うより、ほとんどどうでも良くなっているのかもしれないが。
帰りの電車の中で、青山と『遊星からの物体X』はやはり傑作であるという話。
特に冒頭の、雪原を走る犬をヘリコプターが追いかけるシーンは、本当にいい。
これができるのはイーストウッドとカーペンターだけじゃないだろうか、などとつい大げさなことも言ってみたくなる。
カーペンターは本当に来日するのだろうか。