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2002年 boid日記 3月~4月

Text by 樋口泰人

4月23日(火)

青山の小説「Helpless」に出てきたこともあり(まだ途中までしか読んでいないが)、ヴェルヴェットの「ローデッド」を、本当に久々に聴く。
多分、10数年ぶり。
CDになってからは聴いていなかったのだ。
今回聴いたのは、さまざまなデモ・ヴァージョンやアウトテイク、アーリー・ヴァージョンなどなどから構成されている2枚組CD。
レコードで聴いていた時の印象は、もっとモノラルに近い、肉厚の音だったような記憶があるのだが、CDで聴くと全然違う。
レコードとCDの違いなのか、それとも私の記憶のいい加減さなのか。
こんなにそれぞれの音が、くっきりと分解されていたとは。
今更ながら、自分のいい加減な聴き方を反省する。
しかしレコードで聴いた時、例えば、9曲目の「Train Round The Bend」の背後で、一定のリズムを刻みつつ左右のチャンネルを不安定にゆらゆらと揺れ動くギターの音は、このように聞こえていただろうか。
空間のどこにも定位されないが、しかし確実に聞こえてくるばかりか、近づいてくる列車の進行をはっきりと感じさせもするその音は、だが、あくまでも不安定に頭の周りをゆらゆらと揺れ動くばかりなのだ。
ボーナストラックとして収録されているさまざまなヴァージョン、アウトテイクの数々も同様、それらの差異がひとつの楽曲の歴史的な進行を示すのではなく、ある曖昧な広がりとして、ぼんやりとした像を形作っていく。
「ローデッド」には収録されなかったがこのCD盤には収録されている「オーシャン」という曲では、ジョン・ケールがキーボードを弾いているらしいのだが、ダグ・ユールは「そんなことは知らない」と言っている。
ただ、自分が弾いたオルガンの音ではないとも言う。
ジョン・ケールは、「弾いたことは弾いたが、どのテイクが使われたのかも知らない」と答えている。
マネージャーが勝手にジョン・ケールを連れてきて、勝手にオーヴァーダビングしたのだ、ということらしい。
また、やはりこのCDだけに収録されている「I'm Sticking With You」では、モーリン・タッカーのボーカルを聴くことができるが、当のタッカーは、レコーディング・セッション中にスタジオを訪れたことはないと証言している。
ではこの声は誰のものなのか。
だがトラック・シートにはモーリン・タッカーの名前ははっきりと書かれているらしい。
ならば、彼女そっくりの誰かが彼女の名を語り、仲間たちとともに歌を歌ったのか?
小説「Helpless」では、このセッションの時に妊娠中だったため参加しなかったモーリン・タッカーがたたくドラムについての記述がある。
もちろん作者の意図的な「間違い」なのだが、存在しなかった人間によるボーカルを収録してしまったこのセッションにおいて、いくつかの固有名とともに収録されたドラムの響きが、そこには存在しない誰かによって演奏されたものであっても何ら不思議ではない。
あるいはこれもまた、マネージャーによって誰にも知らされず差し替えられたものなのかもしれない。
そのような曖昧でぼんやりとした広がりの中で、小説「Helpless」は読まれるべきだろう。
単行本化の折りには、アウトテイクとかデモ・ヴァージョン、アーリー・ヴァージョン、オルタネイト・ミックスなどなどが入り乱れ、膨れあがった「Helpless」を読むことができるだろうか。
などと妄想していたら、5-3でジャイアンツに勝っていたはずのスワローズは最終回に同点に追いつかれた挙げ句、10回表には一挙5点も奪われてボロ負けしている。
顔を合わせた時の子供のにこにこ顔を思い浮かべるだけで腹立たしい。
明日は無理難題をふっかけてやろう。

4月22日(月)

今更だが、人前で喋るのは大変である。
学校の先生とか、一体どういう神経をしているのか今もってよく分からないのだが、まあ、慣れの問題でもあるのだろうか。
土曜日は、夕方から、アテネフランセでのノーボディ・イヴェント、ナンニ・モレッティ「親愛なる日記」上映後の安井君のトーク。
ひとりで喋るのかと思っていたら、ノーボディの志賀、黒岩、両名によるインタビュー形式で行われた。
さすがにインタビューは大変そうだったが、彼ら自身がやろうとしたことだから、まあ仕方がない。
途中で、ちょっとした質問を思いつく。
話の展開の助けになるかと思ったのだが、他人の心配をしているどころではない自分の状況に、体は凍り付いている。
夜は、日仏学院で、ゴダールの「ソフト&ハード」の上映後、トークを行わなくてはならないのだ。
さすがに相手がゴダールだと思い切り気が重い。
最初はかたくなに断っていたのだが、ゴダールやミエヴィルの映画そのものではなく、フィルムにとらわれずビデオからDVまでを取り入れながら活動を続けるふたりが、おそらく現実の作品制作の上で直面しているはずのデジタル映像の問題について話す、ということでOKしたのだ。
したがって、内容は半分以上が、ノンリニア編集の方法とか、デジタル圧縮の仕組み、デジタル映像によるスローモーションの不思議など、実際のゴダールやミエヴィルの映画とは関係ないことばかり。
ただ、それらのデジタル映像の問題からゴダールやミエヴィルを見ることもできる、という、「ハード&ソフト」な話をした。
基本的に無理をせず、私の知っている範囲の話をしたつもりだったのだが、それでも、家に帰ると体中がかさかさになっている。
この日のトークは、とにかくテープおこしして、整理し直し、とりあえずの完全版を作ろうと思う。

本日は、昼から「スパイダーマン」の予定だったが、スタローンの「D-TOX」が今週いっぱいで終わってしまうこともあり、急遽新宿シネマミラノへ。
冒頭、FBI捜査官であるスタローンが再婚を決意しているガールフレンドと過ごす最後の一夜のシーンがいい。
まあ、アイリッシュ・トラッドの音階を模した音楽の効果によるもの、とも言えるのだが、何でもないふたりのやりとりの間に流れる時間の穏やかさが、もはや現実にはない時間の名残のようで、ちょっとほろりと来る。
その後の展開は、すべてこのシーンがなければ成り立たない。
すべてを失い、アル中になり、ワイオミングの雪深い山中にある元警察官のアル中患者養護施設に入所するという、スタローンのたどった道のりは、かつて確実にあった時のぬくもりを忘れられなければ忘れられないほど現実の世界から遠ざかっていくという、リアルと現実との乖離を示し、物語は当然、その乖離からの回復へと向かうのだが、山中での連続殺人鬼との対決後、ようやく現実世界へと、これから山を下りていくはずのスタローンの後ろ姿は、未だに続く吹雪で見えなくなる。
殺されたガールフレンドに渡すはずだった婚約指輪を木の枝にかけ、スタローンは過去を清算したかにも見えるのだが、山中の天候はまるでそれを祝福しないのだ。
生き残った彼らはこのまま雪の中をさまよい歩き続けるのではないだろうか、そんなことを思わせる終わりであった。
もちろんここでも、殺された恋人との最後の一夜のシーンで流れていた、テーマ曲がかかる。
スタローンの傷だらけの身体だけが、かつてあった世界と現在をつないでいる。
ただまあ、物語の大半は、要塞のような施設の中で展開され、その内部構造がいっこうに明らかにされない描き方や、内部にいるらしいが誰がそうなのか分からないまま連続殺人鬼におびえる施設の人間たちの姿など、空間と人間関係の見取り図を作れない近年のサスペンスではお決まりの流れ。
さまざまな素材には事欠かない展開でもあっただけに、監督が黒沢清なら、とか、「名前のない森」の監督ならこれはどのように思うか、などなど、ぼんやりと考えていた。

4月17日(水)

本日も朝から最悪の体調。
この低気圧、早くどこかに行ってくれないか。
久々に頭痛薬のお世話になる。
本来なら朝から黒沢さんの新作の撮影現場にお邪魔することになっていたのだが、昨日のうちに断っておいて正解。
映画の現場にかかわる人たちは、体力がなければやっていけないと、改めて思う。
私の場合は「気力」の問題でもあるのだが。
まあ、とはいえ、昼からゴダール。
まずは、土曜日の日仏学院でのイヴェントのために『ソフト&ハード』。
確か、イメージフォーラムが組んだ特集で、パルコパート3で見て以来、ということになるだろうか。
そのころ、阿部君はすでに映写技師をやっていたのか定かではないが、年齢的にまだか……。
しかしさすがに80年代半ばのゴダール=ミエヴィルは、まだ若い。
まるでゴダールについての研究論文を執筆中の女学生、といった風情のミエヴィルと、中年期から老年期への以降に自分自身まだ戸惑いつつその戸惑いを笑いのネタにしようとでもいうかのように少しだけだらしなく太った体でテニスラケットを振るゴダール。
夕方からはようやく『フォーエヴァー・モーツァルト』へ行ったのだが、何というか、当たり前の感想でとても恥ずかしいのだが、とにかくあまりの精度の高さにあんぐり。
音の定位のさせ方の精密さ、奥行き。
いくつかの音の層が波のように重ねられているとでもいいたくなるような、微妙な配置。
海や雪や砂浜の輝き。
それに、あの黒塗りの車は何だろう、こんな時は免許もなく普段はあまり車種などに興味を示さない自分が後ろめたく思えるのだがもう仕方がない。
エンジンの響きもいい感じだ。
それに冒頭のシーン、講演かどこかでゴダールと誰かがサッカーのまねごとをしている間で突っ立ったまま本を読む男が、そのままの姿勢で次のカットでは劇場の前に立っていて、まるでそこだけをオーヴァーラップさせたかのような何とも絶妙なつなぎ。
などなど、あまりのすごさにあきれていると、何と戦車まで登場する。
そのあたりにあったのを撮っただけかと思っていたら、本当に動く。
『カラビニエ』の戦車と、通じてはいるがどこかでまったく違っている。
爆弾も当然のように爆発。
サラエボで演劇を上演しようとしていた男女は見事に殺され、裸で引きずられて海辺に置かれたそのふたりの死体に衣装が掛けられたところから、その女の父である映画監督の新作の撮影へと引き継がれていく歴史のプログレッシヴなフィードバックのあり方は、ニール・ヤングの爆音の核心を、あっさりと貫いていく。
あきれるような爆笑シーンも数々。
「ゴースト・オン・マーズ」を超える、ゴージャスな映画であった。
『愛の世紀』は、この映画の老監督による「最期の映画」とも思えてくる。

終了後、麻布十番にある某スタジオで行われている『浅草キッド』の最終ミックスへ。
到着すると、すでに作業はほぼ終わり、最後のチェック上映を残すのみ。
2週間ぶりに見る『浅草キッド』は、なかなか新鮮であった。
ビデオの場合、モニタの違いが大きいので、そのせいもある。
ただ、やはり、カメラマンは釈然としないものが残るだろう。
映画の場合も、確かに劇場の上映設備の違いでまったく違ってしまうのだが、ビデオの場合は更にそれが激しい。
だから逆に言えば、そういった差異を貫くものを映すことが、カメラマンの仕事、ということになるだろう。

終電ぎりぎりで家に帰ると、昨日の日記の中で、「プロローグ」であるはずのところが「エピローグ」になっているという、青山の指摘メール。
いやはやまったく、このボケもとりあえず低気圧の仕業、ということにしておく。

4月16日(火)

低気圧のためか、寝たのは明け方だというのに9自前に目が覚めて眠れない。
頭が重い。
1時から、ソニー試写室で2本立て。
デヴィッド・フィンチャー「パニック・ルーム」とジョン・カーペンター「ゴースト・オン・マーズ」である。
「パニック・ルーム」は予想通り満員。
映画のタイトルにもなっている「パニック・ルーム」とは何か、という説明が、物語の冒頭のシークエンスで、家を売ろうとする不動産屋によって行われる。
そんなとても分かりやすいエピローグプロローグが終わると、ジョディ・フォスターとその子供はもうすでに引っ越していて、寝たと思ったら屋外には不審な影が。
という序盤の展開の速度が、「語りの効率の良さ」というよりも、どこかおざなりな展開に見えてしまうのは何故か。
だが一方でそれは、この映画はそのパニック・ルームの謎を巡っての物語ではない、ということの宣言でもある。
秘密はなく、最初に全部説明される。
その条件は、最後まで変わらない。
そんな決定的な世界を動かすのは、不確定要素たる人間たちの行動である。
したがって「パニック・ルーム」という究極の隠れ家であり開かずの部屋を巡る人間たちの戦いは、ゲームというより心理サスペンスとして展開することになるのだが、ならばこの登場人物たちの造形は、少し単純過ぎやしないか?
あるいは、ジョディ・フォスターくらいの演技力が、それぞれの俳優たちに要求される。
最後、傷つき血まみれになった男たちがなお戦うときの重苦しい画面作り、杖代わりにしたハンマーが床を鳴らす音、助けに来たもののやられまくってほとんど動けぬまま椅子に座りながら銃を構える元の夫の姿、などなど、いくつかいい場面はあった。 「ゴースト・オン・マーズ」は、先ほどの超満員が嘘のようにガランとする。
カーペンターが来日するという話もあり、また、何人かから「新作は久々の大傑作」という話も聞いていて、本来ならゴダールの「フォーエヴァー・モーツァルト」に行くところを、なにはともあれこちらを選んだ私としては、何となく拍子抜け。
雑誌の数が増え、また、インターネットを含めた新しいメディアも増えて、基本的にほとんどの映画の試写にはある程度の人が集まるのだが、最初のマスコミ試写だというのにこのスカスカな客席……。
ジョン・カーペンターの日本における位置をはっきりと見せられた気がして、それはそれでよし。
映画の方は、そんなスカスカな客席に向かって爆音を発してノリまくるロックバンドといったところか。
しかも、滅茶苦茶うまい、いや、歌心がある(今更カーペンターの映画に向かって言うことではないが……)。
ギター1本で1時間30分、歌いまくってでも聞くものを飽きさせない、曲の良さでも歌詞の内容でもなく、歌声のもつ語り口の力そのものによって人々を引きつけてしまう、しかもサーヴィス満点なステージ。
金髪の女優をこれほど絶妙のサイズと構図で撮ることのできる監督が、世界に何人いるだろうか。
ポランスキーがアメリカ映画に復帰したら、とか、一瞬思ったが、他には思いつかない。
「氷の微笑」のポール・ヴァーホーヴェンも、シャロン・ストーンをこのように撮ることはできなかったし、「クイック&デッド」のサム・ライミも「カジノ」のスコセッシも同様である。
このナターシャ・ヘンストリッジが出ている映画は何故かほとんど見逃しているので、他ではどのように撮られているか今度確かめてみよう。
ただ今回気になったのは、時間の流れが一瞬止まってしまったかのような、ボーっとした瞬間がなかったことだ。
カーペンターの映画に時々現れる、あの何でもない瞬間を、私は愛しているのだが。

夜、フィリップ・ガレル来日延期の知らせが。
ちょっとした事務手続きのミスで、飛行機に乗れなくなったという。
やはり人間は不確定要素である。
事務手続き完了後、来日予定とのこと。

4月12日(金)

気力、体力ともに回復せず。
というか、とりあえずしばらく何もしない、と(無)意識的に決め込んでしまっているためだろう、前向きな作業が何もできなくてもあまり気にならない。
本日は、ゴダールの「フォーエヴァー・モーツアルト」の試写をさぼり、CD屋巡り。
久々に入ったディスクユニオン新宿は、めくるめく音源発掘の嵐であった。
日本盤として発売されたキャプテン・ビーフハートの1980年リバプール・ライヴ、から始まり、レジデンツの70年代中期音源、80年代ニッキ・サドゥン&ジャコバイツのリマスター再発などなど。
そして、迷彩服の上に男女の顔を映した1枚の写真と1本の赤いバラを置いたジャケットのニール・ヤングの新作。
今回はブッカー・TをバックにR&Bをやっていると聞いていたが、ロックンロールのリズムとR&Bのリズムがほぼ1曲おきに配置されている。
R&Bをやっている曲では、ブッカー・Tではなく、どちらかというとベースのドナルド・ダック・ダンが目立つ。
「スリープス・ウィズ・エンジェルズ」の頃に比べて、それぞれの楽器の音をクリアにしているミックスに拠るところが大きいのかもしれない。
ただ、ドナルド・ダック・ダンは「シルヴァー・アンド・ゴールド」の時も参加していたはずで、あのアルバムでもこんなベースを弾いていたかと確かめようとしたら、なんと、CDがなくなっている。
いくら私でも売りはしないはずだが、いくら探してもない。
相変わらず物持ちが悪いのであきれる。
(青山に貸し出し中だったことが、後に判明)
今回のアルバムは、9月11日の影響が色濃く表れたものだが、かつてレーガン支援のために動いた時ほど、ポジティヴな現れ方ではない。
例えば、インディアンたちの流した血の上に建国されたアメリカ合衆国がこの事態をいかに受け止めるべきかということについて、かつて流された血の痕跡とともに歌う、と言ったらいいか。
その姿勢が最も顕著に表れている「Goin' Home」は9分近い演奏時間を持つが、最後、その演奏は、何かによって暴力的に中断されたかのように、突然終了する。
その唐突な断絶におびえてはならない、とこの歌は歌っている。
しかしそれは癒しでも鎮魂でも励ましでもなく、単に、我々は常にその断絶の上に危うく身を置いているにすぎないことを冷静に確認している、といった風情である。
ベースの刻むR&Bの踊るリズムは、その断絶の上を軽やかにステップするアメリカ人たちの発明した知恵を、はっきりと示しているように思えた。

4月8日(月)

完全に1日12時間態勢になっていて、3、4時間の睡眠で目が覚めて、7、8時間後に猛烈に眠くなる。
そのぼんやりした頭で、boid発売のCD-ROMやビデオの収支決算などを行ったのだが、あまりの管理のずさんさに我ながらあきれる。
とりあえずこのところの忙しさのせいにしておく。
まあ、それ以前の問題なのだが……。

夜は、青山、長嶌と会合。
6時に待ち合わせたのだが、30分ほど時間があき、つい眠ってしまう。
気がつくとすでに20分前。
あわてて出かけるが、青山仕事場に行くのに3度ほど迷う。
この1ヶ月ほどほとんど外出していなかったためか、風景がまるで外国のように感じられる。
だが家具が入った青山部屋は何だか妙に居心地のいい空間となっている。
あとは、編集システムが入るだけなのだが、これはいつくらいになるだろうか。
窓外に広がる風景を見下ろしながらの作業を、妄想する。
とはいえまずは、目先の企画。
某所で行われるイヴェントのためのビデオ作りの相談をするのだが、20分~30分くらいだと思っていたそのビデオが、1時間30分ものだったということが発覚。
何とまあ大胆なとあきれるが、それはそれでよし。
その後、某居酒屋に。
そのメニューの中に、「おっぱい焼き」「金玉刺し」というあんまりなネーミングなアイテムがあるのを青山が発見。
尋ねてみると、比喩ではなく、本当にそのものであり、左と右とでは味も違うという説明を受ける。
食してみると、ともに、ハツとかタンに近い食感。
何も説明されずに出されたら、誰もが普通に食べてしまうだろう。
アルコールが回り始めたあたりで、なぜかCANの話になる。
青山がおぼろげに思い出すメロディやリズムを口ずさむと、それを長嶌がすべて解説し、曲名アルバム名を当てていく。
その驚異的具体的な記憶の蓄積に目眩がするばかりなのだが、長嶌は、「あんたら一体CANの何を聴いていたのか」と怒る。
しかし長嶌の不思議なところは、そういった記憶が、具体的な場所と時間を伴った、ある種の肉体的な記憶とは違う形であるように思えるところだ。
もちろん本人にとってそうであるかどうかは別の話だが、やはり「A.I.」の音楽は長嶌がやるべきだったのではと、真剣に思う。
その後は、青山の「次回作ではボーカルもやる」宣言をはじめ、ここでは書けないことがあれやこれや。
帰り際に渡されたビッグピクチャー、MOSTなど、最近の長嶌ワークスCDを聴くと、ユーロビートが全面展開されている。
さすがにこの音が「A.I.」から流れたら世界中から顰蹙を買うだろうが、だがこの音を聞くと、「A.I.」がロボットの記憶を題材にしておきながら、母親を蘇らせるラストシーンで、母親の髪の毛という肉体的記憶がその源になるというその根拠のあり方は、やはりノスタルジーにすぎないということがはっきりと分かるだろう。
もちろんだから「A.I.」は後退的だとは思わないが。


4月6日(土)

何故か早朝に目が覚め、この3週間疎かになっていた家の掃除。
さすがに眠くなり横になったのだが、夕方まで起きあがれず。
夕食後もまた、眠る。
スワローズ対星野は、相変わらず反復していたようだ。
明日は朝から「ドラえもん」である。

4月5日(金)

朝からボーっとしながら、この3週間ほどにし損ねた事務作業を。
しかし頭の中で鳴り続ける「雪月花」。
何とかせねばと新宿HMVに足をのばすが、どうもどれもぴんとこない。
ジョン・スペの新作も出ている。
しかし、もういい歳なんだからもう少しゆっくりとリズムを刻めないものか。
これならまだ、スティッフ・リトル・フィンガーズのコピーバンド化したフェイス・トゥ・フェイスの新作の方が筋が通っている。
などと思うもののともに買わず。
結局、アンチポップ、コンソーティアム、DJシャドウ、ティーンエイジファンクラブ+ジャド・フェアを。

夜は、私にとっての開幕戦。
スワローズ対星野。
嫌な予感がしていたが、まるで2年前のスワローズ-ドラゴンズを反復するだけの戦い。
これが1年間続くのかと思うとうんざりする。
しかし、試合後の若松監督のコメントにあったように、神宮球場はすでに甲子園となっていた。
だが、勝てばいいのか阪神ファン。
と、まあ、負け惜しみを言っておく。
星野によって2軍に落とされた広沢のスワローズ復帰を願うばかり。

仕方ないので見逃していた「アメリカン・ヒストリーX」を見たのだが、これがまた、音楽やスローモーションの使い方があまりに大げさで、敢えてそれをやっているとは思うものの、これはもうニヒリズムにしかつながらないのでは。
そんな印象を受けるのは、映画そのものからのものでもあるが、それ以上に、エドワード・ノートンのキャラクターに拠るところが大きいように思える。
エドワード・ノートン主演作を続けてみて見てみると、少し謎が解けるかもしれない。


4月4日(木)

ボヤボヤしているうちに、日記の更新が1ヶ月以上滞ってしまった。
と言ってもぼんやりしていたわけではない。
裸のラリーズの20枚組ライヴCDがやってきたところから始まり、マックG4の1Gデュアル、ファイナルカットプロ3を購入し、篠崎の新作ドラマ(スカパー!のペイ・パー・ビューで放映予定)の編集などなど、諸々が重なって、さすがにホームページの作業まではまったく手が回らなかったのだ。
こちらをさぼることで何とかバランスをとっていたという感じか。
それもようやく本日夜、篠崎ビデオの編集が終わり、一段落。
約3週間。
今回は、テレビ放映のためのDVマスターを作るという技術的なプレッシャーがきつく、データの保守管理、クレジットの文字など、実際の編集作業とは別の面での作業ですっかり疲れ果ててしまった。
マックのデュアル・プロセッサでの作業は、レンダリング作業の速さや、音の波形を表示しながらの作業のなめらかさなど、さすがに素晴らしい。
しかし、OS10での作業はまだかなり不安定で、今後のことも含め、OS10でやり始めたものの途中で挫折。
OS9に切り替えての作業になった。
また、ファイナルカットプロ3の売りであるリアルタイムエフェクトだが、これはそれほどたいしたことはない。
ファイヤーワイヤーでデッキとつないでモニタ出しをしていると、リアルタイムエフェクトは作動しないのだ。
つまり、パソコンにつないだモニタ画面の中の、ウィンドウで見る限り、という条件付き。
例えば色補正なんて、テレビのモニタに出してみないとよく分からないのだから、パソコンのモニタのウィンドウでリアルタイムで見ることができても、まるで意味はないのである。
まあ、レンダリングが早いので、それほどストレスは感じない。
それやこれやの過程でアップルに問い合わせの電話を入れたりしたのだが、この応答が、アルバイトのオペレーターがマニュアル通りに答えるだけ、という代物で、さすがにあきれる。
こちらは、今後の開発にも役立ててもらいつつ、事態の改善を図ろうと電話をしたのに、結局のところ、アップルが世に出しているソフトには問題はない、という答えの一点張り。
そういうことを聞きたくて電話したんじゃないんだけど。
不特定多数相手の商売における対応は、それなりにかなり難しいことは分かるのだが、10万円もするプロ仕様のソフトの対応に、マニュアル通りにしか答えないオペレーターを配するしかないというアップルの姿勢はいかがなものか。
篠崎のドラマは、『浅草キッドの「浅草キッド」』というタイトルで、放映される。
4月末か5月か、それくらいから1ヶ月くらいの期間、スカパー!のペイ・パー・ビューでテレビ・ロードショーされる。
浅草時代のビートたけし物語である。
浅草キッドのふたりが主演する、笑いあり涙ありの不思議な青春映画。
「不思議な」というのは、篠崎らしい老人の視線や、かつてそこにあったものを記憶している者の視線によって若者たちが見つめられていくためである。
だから残念なのは、病気のため青木富夫さんが出演できなかったこと。
かなり違った印象のドラマになっていたのではないだろうか。
しかし篠崎は相変わらず、最後まで強靱な粘りを見せる。
数フレームを切ったり、またつなげ直したり。
ひとつのカットの厳密な始まりと終わりをとるか、カットの連なりからなる全体のバランスをとるかの微妙な駆け引きが行われているのだろう。
ドラマ自体は1時間50分ほどある。
したがって、一旦修正し終わったものの全体の確認には、約2時間かかる。
この数日で、篠崎は何度その作業を繰り返したことか。
その間、市山尚三氏、松田嬢などが呼ばれ、チェックに付き合い、気がついた点などを報告し、それをふまえて修正が行われる。
ドラマの中で、工藤静香の「雪月花」が流れるシーンがあるのだが、あまりに何度も見るので、すっかり頭にこびりついてしまい、私としては理不尽きわまりない。
ニューヨークのストリップ劇場ではルー・リードが流れると村上龍が書いていたが、日本の踊り子さんたちや劇場も、もうちょっと何とかしたらどうか。
まあ客でもない者の不満など聞く耳は持ってもらえないだろうが。

打ち上げで、近所の沖縄料理店「ガジュマル」に、篠崎、録音の臼井さんと3人で行く。
店構えはカラオケスナックのような感じで入りにくいのだが、気のいいおばちゃんが料理を作る、家庭的な店である。
それに、うまい。
味付けがまろやかなのでほっとする。
どうやら沖縄の塩を使っているらしい。
などなど、沖縄の話をおばちゃんとしているうちに、おばちゃんの口から「浅草キッド」の名前が。
どうやら何度かこの店に来たことがあるらしい。
我々3人、あまりの偶然にあきれる。
そんな話で盛り上がったところで、篠崎、臼井さんとも終電の時間となり、お開き。
あとは、放送用テープへのダビング時にエラーのないことを祈るのみ。
臼井さんの音作りはこれから始まる。

3月2日(土)

2月28日の日記での「ニューヨークの恋人」を「夜風の匂い」と比べてしまったことで、「それは最大級の賛辞だ」と、青山から言われたのだが、ごめんなさい。
ちょっとこれは大げさでありました。
可能性の中心を最大限に増幅すれば、「夜風の匂い」の真っ赤なポルシェにたどり着く、というくらいかな。
しかし、マンゴールド監督、自作はジョニー・キャッシュの伝記映画ですと。
「CASH」というタイトルになっているみたいだけど、やはりここは「BST」でしょう。
オリヴァー・ストーンはキューバにはまって、カストロを題材に撮るみたいだし。
どこかで、「世界偉人伝」とかいうタイトルで特集組んでくれないだろうか?

本日は朝からパソコンがトラブル。
修理に1ヶ月かかると言われてから、さすがにそんなに長く修理に出してはおけないので、何とか諸々の設定をやりくりしてごまかしながら使っているのだが、立ち上げの際にうっかり変なキーを押してしまったみたいで、ハードディスクを完全にスキャンしなければ立ち上がらない状態になってしまったのだ。
こんな時、大容量のハードディスクは始末が悪い。
その作業が終わらない限り立ち上がらないし、全部終わらせるには数時間。
いやはや。
解決後、あわてて映画美学校へ。
本日、フィリップ・ガレルの音無映画(無声映画というのとはちょっと違う)「孤高」に、大友さん、松原さん、杉本拓さんが1回だけ音を付けるというイヴェントがあるのだ。
狭い試写室なので、本番はいっぱいだろうから、リハーサルを見ることにしていたのである。
音がつくと分かっていると、何故か映写機の音が気になるから不思議だ。
多分、何もなしだったら、単に映写機の音だというぼんやりした認識しかしなかったはずなのだが、何しろ音を出すはずのバンドは、実はほとんど音を出さないので、映写機のかたかたという音が完全にサウンドトラックと化してしまうのである。
もちろんそのことは、バンドも十分に計算済みだろう。
観客の動く音、息づかい、椅子の軋み、試写室の外から聞こえてくる音、それらもすべてサウンドトラックとなっている。
バンドの演奏がない場合、我々は必然的に音のない画面に集中するのが当然と考えてしまい、無意識のうちに耳は閉ざされてしまうのだが、この試みにおいては、バンドがほとんど音を出さないことにより、我々の目と耳は全開になる。
全身が目と耳になったような状態で、この映画と、そして我々が座っているその空間全体と向き合ってしまうのである。
ラストシーン、露出の上げ下げが、まるでカメラの鼓動のようにも、映されているジーン・セバーグの鼓動のようにも、あるいは見ている我々の鼓動のようにも見え、目を見張る。
確かインタビューで、「カメラの中でフィルムが回る音とともに私は映画を撮っているのだ」というようなことをガレルは語っていたが、その言葉が本当にそのままそこに映っていた。
この「鼓動」は、バンドの導きがなければ見えてこなかったもののように思う。
いや、確かにそれはバンドなしにも映されていたはずなのだが、バンドの(無)音が、その「鼓動」のために捧げられていたと言えばいいだろうか。
ちょっと感動的な上映であった。

その後、更にアテネフランセに。
高崎映画祭用に作られた、黒沢清、阪本順治、青山真治ビデオ上映。
黒沢さん、阪本君のものを見ていなかったのと、青山のものは最終的な音の調整をしてからのものを見ていなかったたので。
土曜日の夜ということもあってか、上々の客入り。
泉に「boidのCD-ROM、持ってきて売らなくちゃダメじゃないですか」としかられる。
いや、そうなのだ。
こういうところでちゃんと営業しなければ。
とか何とか少しは思うのだが、基本的に上の空。
黒沢さんはパンクだし、阪本君は新世界だし、青山はゴリゴリだし、これでいいのだ。
ピントがぼやけるだけで世界は恐怖へと豹変し、金髪の老人がそこにいるだけでそれを見るものは落ち着いていられなくなり、何かと何かが重ね合わされるだけで我々はその世界の秘密を知る。
それが映画だと、この3本は告げているようであった。