
2002年 boid日記 2月
Text by 樋口泰人
2月28日(木)
六本木へジェームズ・マンゴールド(「17歳のカルテ」)の新作「ニューヨークの恋人」の試写を見に行くついでに、青山ブックセンターにて長期間ほったらかしにしてあったビデオの精算をする。
この手の事務的な作業は、別に全然対したことではないのだが、何故かいつも可能な限り後回しになる。
澤野雅樹氏の「不毛論」(青土社)を読んでいたこともあり、ますますこの無能さを何とも思わなくなり、こんなことをしていては本当に貧乏一直線とは思うものの、だからといってどうにかなるわけでもない。
まあそれでもこうやって何とか精算に行ったりするわけだから、私もたいしたものだと思う。
ぼんやりとそんなことを思いながら青山ブックセンターから出ると、前方から厳しい顔の見慣れた人物。
長嶌である。
私のことにも気がつかない。
一体そんなに厳しい顔で何をしようというのか、とりあえず声をかけると、夜に行われる佐々木君、大友さんなどのイヴェントを青山チームが撮影するので、その現場に打ち合わせに行くのだという。
試写までは時間があったので、私も一緒に。
青山ブックセンターの並び、50メートルほど麻布よりのところにできたスペースである。
確か前は、日産か何かのショールームだったところではないか?
青山は小説「Helpless」も書き終わり、さっぱりした表情。
3月末か4月末発売の「新潮」に掲載されるはずである。
始まったばかりのビデオ撮影は、5月くらいまでの長丁場で、しかも今回は、音楽会の大御所たちにインタビューしたり、演奏を撮影したりで、精神的にもかなりしんどい作業が続くはずである。
しかし映画美学校の青山クラスの授業の一環でもあるので、美学校生たちの若さとやる気が支えになるはずだ。
何年ぶりかで佐々木君とも会見。
ティエリー・ジュスの短編映画上映ついての画策を。
「ニューヨークの恋人」は、20年ほど前ならゴールディー・ホーンが得意としていたような、いわゆるロマンティックコメディであった。
だが、途中、もっとアナーキーなスクリューボールコメディに行きたくて仕方ない、というような気配もあり、ニコニコする。
それに、メグ・ライアン扮する主人公の名前はキャサリン(他の登場人物からは「ケイト」と呼ばれているが)で、途中「ティファニーで朝食を」の音楽が効果的に使われることを考えると、やはり監督も、理想の主人公として、オードリーではない、キャサリン・ヘプバーンを想定していたのではないか。
もちろん「赤ちゃん教育」の。
だが、成り上がりのキャリアウーマンという、どこかにトラウマを持つ主人公をアナーキーな笑いに突入させるには、メグ・ライアンのような、どこか現実感を引きずった女優がやったら余計に転がりが悪くなるだけである。
黒澤明の映画に出てくるお姫様のような素っ頓狂な演技を平然と日常的にできる軽さと強さを持った女優が、ここには必要なのだ。
もちろん若き日のゴールディ・ホーンでも何とかなっただろうが、今これができる女優はやはりジュリア・ロバーツではないか。
ジェームズ・マンゴールドの流れで言うと、「コップランド」「17歳のカルテ」そしてこの映画と、「閉じられた世界の中に入り込んだよそ者」、というテーマが変奏されているのがよく分かる。
それぞれ、そのよそ者たちは、それぞれのやり方でその閉じられた世界と関わっていくのだが、その時彼らは皆、自らを卑下するのでもなく、世界を否定するのでもなく、放っておけば今にも世界から消されてしまいそうな自らの存在の微かさを、その微かさのぎりぎりのところで当たり前のように全面肯定している。
ぎりぎりのところで、フィリップ・ガレル「夜風の匂い」の真っ赤なポルシェやカトリーヌ・ドヌーブの真っ赤なコートと同じレベルに、彼らはたどり着いていると言ったらいいだろうか。
今回の映画はそんな彼らの存在のあり方が、最も意識されたものになっているように思えた。
2月27日(水)
「メメント」「アメリ」「ブレアウィッチ・プロジェクト」「キューブ」などなど、最近のヒット作に共通する、目の前の世界を見ている主観こそがその世界を構成しているかのような、ある種の唯脳論的な世界観は、ゲームやインターネットなどのテクノロジーと切り離せない、現代的な世界観なのだろうと思うのだが、「メメント」を例外として、残りはほぼ、そこからいかにして脱出するかが物語の根幹をなしていることを考えると、多分みんな、そんな世界からは早く抜け出したくてたまらないのだろう。
つまり、そこに閉ざされるか解放されるかということが、物語の緊張感を作り出してきていたのだが、ニック・ハムというイギリス人監督による「穴」という映画では、主人公たちが閉じこめられてしまった穴からどうやって逃げ出すか、ということがサスペンスを作り出すことはない。
なぜなら抜け出したその先も、穴の続きだからだ。
あるいは、その先もまた穴の続きにしてしまうのだと決意することで、主人公はその穴から出ていく、といえばいいか。
自らの作り上げた世界から抜け出せば、その先にはなにか開放的な世界が広がっているのだとは思わないが、だからといってこのようなシニカルな物語の展開は、ちょっとうんざりする。
ただ、ホラー映画としては、この映画のように世界中を自らの主観によって構成しようとする人間ではなく、彼女の話を延々と聞いて彼女の物語作りを手伝うことになったカウンセラーを主人公だと考えれば、十分に成立するネタだろう。
多分、同じような映画がいくつも作られることになるだろう。
陰気なジュリエット・ルイスといった風情のソーラ・バーチが、ジュリエット・ルイスくらいの野蛮さを見せてくれたら、もうちょっと違う映画になっていたのにと、無い物ねだりをする。
2月26日(火)
モハメド・アリの全盛期をマイケル・マンが映画化した「ALI」。
冒頭、いきなり、アリではなく、サム・クックの紹介から始まり、サム・クックのライヴの延々と続く。
これはいつのライヴだろうか。
年代や経過した時間が意識的に排除されている、ある意味で非常に野心的なこの伝記映画の中で、唯一1963年という具体的な年代が、冒頭のどこかで示されていたと思うのだが、サム・クックの63年のライヴアルバム(「at the copa」「Live At The Harlem Square Club」)とは、別の音源だと思う。
などといきなり、モハメド・アリそのものよりも、アメリカ文化の広がりの方に目を向けさせられる。
以降も、実在の人物や実際の出来事や、さまざまな行為に対する説明を書いたまま、映画は展開していく。
ほとんどのシーンで手持ちカメラが使われているのだが、その見せかけのドキュメンタリー・タッチではなく、この出来事の羅列、その背後や経過に関する説明の排除といった構成によって、この映画は観客を画面に引き込もうとしている。
スポーツ・キャスターに扮するジョン・ヴォイトも、どこからどうやってみてもジョン・ヴォイトには見えない。
アリに扮するウィル・スミスは、冒頭のシーンでも示されているように、その端整な顔立ちは、アリというよりも本当にサム・クックである。
だから、ジョー・フレイジャーやジョージ・フォアマンとの対戦は、サム・クック対オーティス・レディング、アラン・トゥーサンのようにも見えてくる。
つまり、モハメド・アリの映画でもあるのだが、どちらかというとアメリカの20世紀の記憶に関する映画と言った方がいいようなものになっていた。
帰宅後、サム・クックのアルバムを探すが、1枚もない。
やはり売ってしまっていたのだ。
こういうときは、自分の物持ちの悪さを呪う。
仕方ないので、やはり映画の中で流れていたアレサ・フランクリン。
アトランティック移籍後の最初のアルバム「貴方だけを愛して」は絶品である。
2月20日(水)
またもやレンタルDVDでトラブル。
といっても今回は新宿TSUTAYAの問題ではなく、レンタルDVD固有の問題。
表面に付いた傷のため、途中で止まってしまうのだ。
それが、今年に入ってすでに3回。
多分、まだ20枚程度しか借りていないと思うのだが、そのうちの3枚でトラブルが起こっている。
ビデオの場合だと、ノイズが出たり映像がにじんだりして、それはそれでつらいのだが途中で止まってしまうことはない。
DVDの場合は、トラブルが起こるともう、お手上げ。
その部分を飛ばして観るしかない。
CDと同じサイズの中に、CDの10倍ほどの情報が詰まっているわけだから、多分ちょっとした傷とかにも繊細に反応してしまうのだろう。
返却の際に状況を説明するのだが、そうなると問題のDVDは廃棄されることになるはずで、果たして同じタイトルのDVDが再入荷されるのかどうかは、そのタイトルの回転率次第ということになる。
しかも、再入荷のためには、相当な回転率を上げていなければならないことは容易に想像がつく。
つまり、大ヒット・タイトル以外は、このようなちょっとしたことで棚から消えていくことになるのだ。
新宿TSUTAYAでは、私のおかげでこの1月ほどで3枚のタイトルが姿を消した(未確認)。
いつでもそこにあると思ったら大間違い、という状況は、ビデオの時よりひどくなるだろう。
だとすると、その部分をとばさなくては観ることのできないものだったとしても、棚にあった方がいいかどうか考えてから、返却時に状況を説明する必要があるかもしれない。
でもまあ、そのうちネット配信の時代が来るかもしれないし、とか思っていると、「DVDの次のメディアの統一規格発表」という記事。
DVDの数倍の記憶容量を持ち、ハイビジョン・クラスの映像でも記録可能なメディアが開発され、ビデオやDVDの企画の不統一で失敗したメーカーが、統一規格での発売で合意したのだという。
それは結構なことなのだが、一体今大騒ぎしている「ブロードバンド」って何? という素朴な疑問が……。
まあビデオ・テープの代わりに、撮影・記録用で使うにはこれが必要なのか。
フィルムの代わりにもなるし。
でも、レンタルだけは、DVDで終わりにして欲しいなあと、切実に思う。
午後はファレリー兄弟の新作「愛しのローズマリー」。
9歳の時に死んだ父の「女は美形に限る。それが人生」という遺言がトラウマになり、見た目でしか異性を判断できない男が、ある日であったセラピストに暗示をかけられ、その人の心の美しさだけが見えてしまうことになる。
後はご想像の通り、という展開なのだが、ことが人間のが意見に関わることだけに、当然、身障者ネタも登場する。
「メリーに首ったけ」でもかなりきわどいことをやっていたのだが、今回もまた、モテモテの腕力おじさんが登場する。
見事な両腕歩行で、ダンスフロアの注目を一身に浴びる。
おまけ映像のスキーは圧巻。
この微妙といえば微妙、アナーキーに突っ走ることも十分可能なネタのどのあたりに落としどころを見つけるかが注目されたのだが、結果としては、かなり苦労してうまくまとめた、という感じか。
多分今のアメリカ映画では、身障者ネタで笑うよりも、崩壊する家庭をシリアスな笑いで肯定する方が、やばいネタなのだろう。
その意味では、数年前ジョディ・フォスターが「ホーム・フォー・ザ・ホリデイ」で越えた一線を、その後、越えた映画は数少ない。
この映画もまた、その一線の強化に貢献するばかりなのだが、途中で登場したタクシーの運転手が、どこかゲイリー・ビジーを思わせ、出演シーンはほんの一瞬だったのだが気になって調べてみると、さすがにゲイリー・ビジーではなかったが、ファレリー兄弟関係のほとんどの作品に出演している、ダニー・マーフィーという人だった。
それも全部、ほんのちょっとしか出ていないから、多分かなり近い身内なのだろう。
などなど、ファレリー兄弟映画は、何故か細部に注目させるところがいくつかあり、それらを調べていくと思わぬ広がりを見せたり見せなかったりというおもしろさがある。
つまり、アメリカ映画という森の中に根を下ろしている感じがあるのだ。
この1本で何かができるわけでもなく、ほとんど無用の長物のような映画でもあるのだが、その背後に、時折奇妙な広がりを見せる。
その意味で、貴重な人たちであると思うのだが、もちろんその広がりが硬直してしまうことも十分にある。
そういったこととはまったく関係なく、今回は、ラストシーンで流れ出したエジソン・ライトハウスの「恋のほのほ」にグッと来る。
こういうのうまいんだよなあ、この人たち。
もう30年前か……。
2月19日(火)
本日はほぼ20年ぶりに「ピンク・フロイド ザ・ウォール」。
80年代は、今更ピンク・フロイドなんてと、ほとんどなんの感慨もなく見た憶えがあるだけでその他の記憶はまるでなく、一体今見るとどんなものかと、興味半分、恐いもの見たさ半分で出かけたのだが。
やはり恥ずかしい。
なんというか、自分と近いものを見たときの恥ずかしさではなく、自分とはまったく違うものを見たときの恥ずかしさである。
それとも、「恥ずかしい」と感じる以上、どこか近いところがあるのか……。
笑ってしまったのは、「バッファロー66」とまるで同じショットが何度もでてくること。
もちろんこの映画の方が先だし、アラン・パーカーは「バーディ」でもほぼ同じようなショットを使っている。
私が「バッファロー66」を恥ずかしくてたまらなくなってしまうのは、これらのアラン・パーカーのすり込みがあったからだと、ようやく納得がいく。
ヴィンセント・ギャロってアラン・パーカーだったんじゃん。
とか書くと、アラン・パーカー・ファンにもヴィンセント・ギャロ・ファンにも怒られそうな気がするけど……。
ただこの映画、アニメ部分はなかなかいいし、実写の中にこうやってアニメを挿入するのは当時の状況としてはそれなりに冒険でもあり、また、ナチの集会を真似たシーンも、西欧社会ではかなりの覚悟がいっただろうし、それらの野望や野心を一本の映画にまとめ上げた力は一体何だったのかと考えた。
最も簡単な答えは、ピンク・フロイドの名声と金、ということになるのだが、ロジャー・ウォーターズは、もうちょっと奥が深い人のように思える。
帰宅後、久々に「nobody」サイトを見たら、梅本さんが、冬季オリンピック・レポートをやっている。
ほとんどリアルタイムで競技を見ているので、本当に驚く。
梅本さんの忙しさを知っている者としては、この体力というか気力というか、弛まぬ動きには毎度びっくりさせられる。
私にこの何分の一かの力があればと毎度思うのだが、まあそれは無い物ねだり。
nobody別ページでは、昨年のベスト5が掲載されていた。
全員のベスト5が、何だかとてもよく似ているように見え、不思議な感じがした。
まあいつも一緒にあれやこれややっていればそれなりに似たようなことにはなるのだろうけど、それをそのまま出さなくても……、という何となく歯切れの悪い感触を得た。
ちなみに新年会で出た安井君のベスト1は「ドリヴン」。
私は「チャーリーズ・エンジェル」を1位にしたが、「ドリヴン」にはかなわない。
勝ち負けではないのだが、さすがに「ドリヴン」にこられては、「チャーリーズ・エンジェル」はまだまだお子ちゃまである。
この「ドリヴン」、アカデミー賞と同時に開催されるアメリカのワースト映画を選ぶイヴェントで、「パール・ハーバー」とともに高ランクでノミネートされているとか。
名誉なことである。
2月18日(月)
海老根からのベルリン映画祭レポートも終わり、ちょっと一休みしていたこちらの日記を。
まずは、レポートに載らなかったベルリン裏話。
海老根からの報告によると、これは授賞式の様子をニュースで見た人はもしかすると気づいたかもしれないが、授賞式の司会進行役カップルのひとりは、ハンス・ツィシュラーがやったとのこと。
それを知っていれば私も朝からニュースを見ていたものをと、今更思っても時すでに遅し。
しかし、当日の段取りはかなりガタガタになっていたみたいで、ツィシュラー氏も、受賞してもいない人の名前を読み上げてしまうとか、かなりの混乱状態となっていた模様。
この混乱をツィシュラー氏はあわてることもなくこれもまたOKと余裕の構え、また、イオセリアーニも「ドイツ的ならざる混乱」と言って密やかに喜んでいたらしい。
この大人な感覚がうらやましくもあり、苛立たしくもありといったところか。
このところ、季節の変わり目の気配が漂い始めたせいか、どうも気分が優れず、胃も痛む、頭痛もひどい、頭も重い。
一昨年あたりから、花粉症ではないかと疑ってはいるのだが、まだどうにもならないほどではないので検査もせずほったらかしにしている。
単にこうやって「気分が悪い」とかなんとか言っていたいだけかもしれない。
まあそれもよし。
本日はそんな最低の気分の中「KT」。
いきなり、布袋寅泰の音楽に痺れる。
低音が凄いのだ。
よく分からないのだが、感触だけで言うと、かなり高価な機材を使ってローファイな音を出しているその余裕の響き、という感じ。
あるいはどこかでアナログ的な処理をしているのだろうか。
いや、低音をステレオ分解していないだけのか。
これは後で長嶌に聴いてもらって解説してもらおう。
単に試写室の音響のせいだったりしたら、これはまた笑ってしまうのだが。
でもとにかく、最近のドルビー・サウンドでは聴くことのできない、コンサート会場で聴いているかのような低音だった。
問題は、この低音が、とにかく高価な機材を使って作られているように聞こえてしまったことだ。
つまりそれは、この映画の内容に即して言えば、日本と韓国の背後にある超大国アメリカの音、ということになるだろうか。
そしてそうはなれない日本と韓国の貧しさを生きる人々の物語が、ここでは語られている。
といっても、その貧しさと豊かさの対立が軸となって物語が語られていくわけではない。
何しろ主人公は、主人公であるにもかかわらず徹底してその生い立ちや背景が語られずまったく抽象的で、かつ、常にその場にあるものでしかないという意味では徹底して具体的な存在である自衛隊情報収集員の男(佐藤浩市)なのである。
もちろん、まったく歴史を持たぬ奥行きのない存在というわけではない。
通常なら、主人公のトラウマとなるべきそのトラウマそのものが主人公になってしまったような主人公といったらいいだろうか。
アメリカが徹底した物量作戦で整地してしまった日本と韓国の上空を漂う、排除され得なかった何か。
男が上官からの命令を告げられる屋上のシーンで、冒頭に流れた低音とは対照的な美しく中空を漂うようなメロディがそこでは流れ、以後、このメロディが物語を語り継いでいくことになる。
だから通常なら、そこにいつどんな形で超大国の響きが介入してくるか、というところにサスペンスが生まれるのだが、この映画では非常にねじれた形でしかその響きは介入しない。
もちろんそれが事実だ、ということもある。
だがそのねじれた関係を更に補強するように、いっさいその過去が語られぬ主人公の男はひと言だけ「野球がすべてだった」と口にするのだ。
もちろんここでの「野球」は「アメリカ」のことであるだろう。
つまり男もまた、かつてはその低音の響き=超大国アメリカの中にいたのだ。
そして、男は、日本の国家権力を裏側から支える自衛隊を辞めたとき、野球のコーチをさせてくれと冗談半分で口にしたとき、野球なんかやったことあるのかと尋ねられ、上記の言葉を呟くのである。
つまり、ここでの「低音の響き=超大国アメリカ」は、「権力」を意味しているのではないということに注意しなくてはならない。
「権力」が支配する世界の外側あるものであり、かつ、「権力」を通してしか見えてこない何かである。
だから、自衛隊駐屯地上空を漂う美しいメロディは、日本や韓国から排除された何かでもあり、アメリカの外側にあるアメリカでもあり、そこに欠けている低音の存在を指し示す何かであるはずだ。
ただ、だとすると、必要なものだけがそこにあるといった的確さで処理された音響の情報量の少なさが気になる。
「権力」とそこからはみ出したものとの物語なら、これでいいと思うのだが……。
それから先日のTSUTAYAの一件。
映画好きなまじめな店員もいるとの指摘があり、確かにそうである。
ある種の現代的なシステムの不全とその日の店員との具体的な体験とをごたまぜにして書いてしまっているので、必要以上にきつい言葉になってしまっていたかもしれない。
申し訳ない。
まあ、ブツブツ文句を言いながら、週に1度はTSUTAYAのお世話になっているので、お許しを。
2月12日(火)
日曜日は、午後から日仏学院でクレール・ドゥニ「US GO HOME」を見る予定が、朝からひどい腹痛。
おまけに雪まで舞い始めるし、もはやこれまで。
なかなか予定通りには行かない。
やる気がないとも言えるのだが。
月曜日はその腹痛を引きずりつつ、子連れでお台場へ。
「科学技術館」とか何とかいうところに行きたいというので連れて行ったのだ。
始めて乗る「ゆりかもめ」の運賃の高さにあきれる。
20分ほど乗っただけで370円。
観光地値段ということか。
「テレコムセンター駅」のすぐ前にある「科学技術館」は、ポンピドーセンターを真似た外見で、一体中身はどうなっていることやらと心配したのだが、案外生真面目な作り。
ただ内容自体はそれなりに難しく、中学生、高校生くらいでないと理解は難しいかもしれない。
だが当日の来客のほとんどは、我が家のように連休の過ごし方に困った親子連れと地方からの観光客がほとんどで、肝心の中高生はまるで見あたらない。
したがって、パソコンを使ってのゲームや遊園地の乗り物のようなもばかりに人が集まって、研究者へのインタビュー、解説のたぐいを見る人はほとんどいない。
まあ、中高生が、これらを見るためにだけにお台場まで来るとは思えないし、こんなものだろう。
しかし、これはディズニーランドとかもそうなのだが、昼食を食べるところがない。
1軒だけあるレストランは当然のごとく満員。
後はウェンディーズ。
それもどうかということで、一駅先の巨大ショッピングセンターあたりに何かあるだろうと、歩き始めたのだが、いざ歩いてみると、近代的な建物があちこちに建つこのお台場のほとんどは、荒れ地である。
何年か前に整地されたまま、後はほとんどほったらかし。
ハイ・シーズンには駐車場になるのだろうか。
とにかくこれから何かになるための荒れ地というよりも、ここが荒れ地になる未来を先取りした荒れ地とでもいいたくなるような、もはや変わりようのない荒れ地であった。
思わずニコニコしてしまうが、そんなことでは昼食にはありつけない。
女性向けのブランドが集結し、イタリアの都市を想定した仮想空間を内部に持つ巨大ショッピングセンターに入ると、もう、トイレがどこにあるのか階段やエスカレーターがどこにあるのかさえ分からない。
徹底して視線が限定され、一定の方向に誘導される超閉鎖空間であるそこは、「マルコヴィッチの穴」「キューブ」といった、アメリカ映画の若手監督たちが作り出す空間にも似て、無茶苦茶居心地が悪い。
屋外の荒れ地とは隔絶された徹底した人工空間がそこには広がっているのだが、ある意味でそこももう変わり様のない荒れ地だとも言えるだろう。
別にWTC跡地まで行かなくても、ここでも十分に廃墟を見ることができる。
当然のように頭痛が襲い、ぐったりしていると電話が鳴り、大学時代の友人が仕掛けたジョアン・アシャートンのCDが、キャプテントリップから出るとの知らせ。
昨日のお台場の様子を話すと、どうやらかの地にある、何とか何とかラヴジェネレーションとかいう場所で、ケヴィン・エアーズがライヴを行うという。
しかもバンドで。
さすがにこれは、行かざるを得まい。
などと考える20年くらい前のプログレマニアが、どうやらお台場にぞろぞろ集まっているらしい。
その、ラヴジェネレーションとかという場所では、確かにたびたびその手のミュージシャンの公演が行われていたのだ。
いやはや。
しかし、「ゆりかもめ」から見えた、徳間ホール裏の電通ビルとあともう1棟は朝日新聞かな、とにかく完成間近の2棟の高層ビルは、バカでかかったなあ。
結局、広告会社とマスコミだけが私腹を肥やしていたってことか。
あまりにあからさまなんで、これまたあきれる。
2月9日(土)
子供に頼まれて、新宿TSUTAYAに「ジュマンジ」を借りに行く。
今年に入ってビデオの棚のレイアウトを変えた新宿TSUTAYAは、何だかやたらと探しにくい。
以前のような大ざっぱなジャンルわけではなく、俳優別、監督別にかなりきちんと整理されて、一見俳優か監督の名前さえ分かっていればすぐに目的のタイトルが探せるようになっている。
だがそうはうまくいかない、というのが人間の検索能力の不思議なところである。
「ジュマンジ」と言えば、どう考えてもロビン・ウィリアムズで探すのが常識だろうと思ってロビン・ウィリアムズ・コーナーに行くと、そこにはない。
はて、監督は誰だったか? 他に有名俳優は出ていたか?
もちろん名前が出てくるはずもなく、「パニックもの」「動物もの」のコーナーを探すがない。
そばにあった、ぴあのシネマブックで資料を見て、監督がジョー・ジョンストンであることを確認したものの、やはりなし。
こうなるとお手上げなので、そばにいた女性店員に尋ねると、「今、他のお客様のタイトルを探しているので後にしてくれ」とあっさりと断られ、何だかなあと、ぼんやりあちこち見てみるのだが、どの棚も俳優たちの名前が並んでいるばかりで、ぼんやり見ている自分がただの馬鹿のように思えてくる。
そこへ、ちょっと暇そうにしていた男性店員が現れたので声をかけたら、今度は「ジュマンジ」とは何か、という応答。
「いや、ロビン・ウィリアムズが出演していて、ゲームから、ゲームの中の動物やらがどんどん現実世界に出て来ちゃう映画ですよ」と説明し、探してもらうが、やはり見つからず、その男性店員がさっきの冷たい対応の女性店員に尋ねると、今度は「当店では扱っておりません」という答え。
おいおい。
以前この日記でも書いた、橋本君が探していたマフマルバフの「サイクリスト」ならいざ知らず、「ジュマンジ」だよ、ロビン・ウィリアムズだよ、それにDVDコーナーには入っているじゃないか。
とか何とかブツブツ言って捜索を続行してもらうが、この女性店員も「ジュマンジ」を知らず、そして更にもうひとり現れた女性店員も知らなかったのだ。
いや、店内のすべてのタイトルを把握しておけとは言わないが、いくら何でもこれくらいと、何だか頭がくらくらしてくる。
で、ようやくカウンターに行って資料を調べた男性店員が、女優のコーナーに置かれていることを発見する。
キルスティン・ダンストのコーナーにあったのだ。
確かに、「ER」や「ヴァージン・スーイサイズ」や「チアーズ」で人気上昇中でもあり、「スパイダーマン」が公開されれば更に認知度は上がるはずではあるのだが、「ジュマンジ」でキルスティン・ダンストと言われてもなあ。
間違いでは全くない。
きちんと分けられてもいる。
でもそれじゃ、見つけられないんだよ。
などとブツブツ文句を言っていては、世の中についていけない親父丸出しか……。
だけどもうちょっと店員教育した方がいいんじゃないのかなあ。
でも、「当店では取り扱っておりません」というのは、もしかすると立派な店員教育かもしれないと、ふと思う。
ひとりひとりの客への細かい対応よりも、とにかくここにおいて置くからあとは勝手に探せ、見つからなかったものは置いてないのだ、というある種の100円ショップ的な開き直りは、商売のひとつのやり方だし。
ただやっぱり、「ジュマンジ」くらいは……。
2月8日(金)
午前中はようやくまとまった「恐怖の映画史 パート2」の単行本化に向けてのプロモーションをあちこちに。
昼は稲川さんに、やはり単行本化のための資料を託し、そのまま六本木で長嶌とboid製作ビデオの次回企画の打ち合わせ。
面白いものにはなると思うのだが、商売になるかならないか、ぎりぎりのライン。
というか、このまま普通に出すのでは、多分赤字なので、何か方法を考えねばならない。
こういった製作物の収支決算をするときは、一体映画関係で儲かっている人などいるのだろうかと本気で思うが、拡大公開を謳う「アメリ」のおしゃれなポスターなどを見ると、いや、やはり儲けているところは儲けているのだと、我が身の商才のなさを呪う。
全然マメじゃないしなあ。
まあ、そういう問題とも違うだろうが。
その足で、映画美学校試写室にて「ヒューマンネイチュア」。
「私はエレファントマンじゃない。人間なんだ」と叫ぶ「エレファントマン」を見事にひっくり返し、「私は類人猿だ!」と叫んで、自らの運命をとことん積極的に肯定する男女の物語。
そのひっくり返し方はなかなか笑えるし、告白と親殺しという西洋文化に同化しつつ結局最後にはそれもあざ笑う、それもまた見事なのだが、でもやっぱり、収まりがよく見えてしまうのは何故か?
予告編の嫌みな感じよりはずいぶん素直に観ることもできたし、同じミュージックビデオ出身でも「マルコヴィッチの穴」(脚本は両作ともチャーリー・カウフマン)のスパイク・ジョーンズよりはティム・バートンに近い人のような気もしたのだけれど、「モンティ・パイソン」でさえどうでもいいと思ってしまう私には、やはりまったく引っかかりながなく、これもまた「アメリ」のようにヒットするのかなあとぼんやり思うばかり。
ミシェル・ゴンドリーという監督は、フランス人だったのか。
でも、「類人猿」君のおむつ姿は、ほとんどたけし軍団だった。
「ラリー・フリント」で星条旗をおむつにしたウディ・ハレルソンの雄志が目の前をよぎるが、それはまあ、無い物ねだりなのだろう。
更にその後、シュワルツェネッガー主演の「コラテラル・ダメージ」。
テロで公開が延びたという、曰く付きの作品である。
コロンビアのテロリストの仕掛けた爆弾で妻子を殺されたシュワルツェネッガーが、頼りにならないアメリカ政府を無視して単独でコロンビアに侵入、テロリストに復讐する。
まあこの映画の公開延期は、さすがに現実のテロ直後にこれを観てその気になられても困る、という配慮だったのだろう。
しかしまあ、何だか物語が滞りなくどんどん転がっていくのであきれる。
「ヒューマンネイチュア」もそうだったが、ある極端な状況に置かれた個人の物語をいかに見事に展開して落ちを付けるか、ということが最近のアメリカ映画の監督たち、脚本家たちにとっての重要な課題なのだろうか。
だが今回のシュワルツェネッガーは、今まで彼が演じた中でも最強なのではないだろうか。
こんなに強けりゃ、そりゃ、勝手に復讐するよなあ。
帰りの電車の中で、テロ以後に各国の知識人たちがテロについて語ったり書いたりしたものをまとめた「発言」という本(朝日出版社)を読む。
載録されている文章はどれもそれぞれ面白いのだが、さすがに誰も、シュワルツェネッガーの野性については書いていなかった。
そうそう、本日の2作品の具体的な共通点は、ともに音楽がグレアム・レベルだという点。
とても同じ人の曲とは思えない、見事な曲の使い分けに、これまたあきれる。
「ヒューマンネイチュア」なんか、さりげなくダニー・エルフマンしてたし。
もちろん「コラテラル・ダメージ」の方は、堂々としたアクション大作のそれだったし。
長嶌にも、グレアム・レベルがメジャーになったんだから、長嶌だって何とかなるんじゃないかとか、いつも言ったりしているのだが、やはりこうやって続けて聞くと、メジャーになるのも大変である。
当たり前のことだけど。
家に帰ると、大友さんからメールが。
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2月6日(水)
コーエン兄弟の新作「バーバー」。
かなり凝った方法で処理されたモノクロ映画だが、相変わらずツルンとしていてとりつく島がない。
台詞と音楽以外の音響も極限まで削られて、その情報量の少なさが、逆に過剰な情報量としてそこに置かれている。
主演のビリー・ボブ・ソーントンもよくない。
まったく表情を変えず、その無表情にどれだけ複雑な事情と思惑と人々の関係が反映しているか、というのを語る物語であるのだから致し方ないにしても、結局やはり、彼の無表情もまた、情報量の少なさが持つ過剰な情報を象徴しているだけに終わる。
いや、別にビリー・ボブ・ソーントンがアンジェリーナ・ジョリーの夫である故の嫉妬ではない。
ただ、彼が弁護士の家の娘と怪しい関係になっていくあたりでは、おおビリー・ボブさんもジョン・ボイトさんの家に入り浸ってはこんな目でアンジェリーナを見ていたのか、とか何とか、あらぬ妄想がむくむくと。
ただ、映画の中で弁護士の娘を演じるスカーレット・ヨハンスンは、かつてのモリー・リングウォルドを思わせる、屈折した暗さを持つ風貌で、なかなかよい。
ツルンとしたなめらかな表面しかない映画の中の、唯一の陥没点であった。
2月5日(火)
このところずっと、「恐怖の映画史 パート2」のまとめをしている。
何度か行ったインタビューがかなりの量になり、読むのだけでも一苦労だ。
自慢ではないが、私は文字を読むのが遅い。
ちょっと読むと飽きてしまい、何か別のことをしないといられなくなるのである。
そうやってあれやこれやすることの疲労感が襲い始めてやっと、落ち着いて読むことができるようになるのだ。
当然時間の感覚は混乱し、このところはだいたい1日が10数時間サイクルで回っている。
3時間ほど寝て、12時間ほど起きていて、また3時間ほど寝る。
それでずっと安定していてくれればいいのだが、そのサイクルのコントロールもままならない。
とはいえ、たまには外に出なければ、というわけでもないが、本日は昼からクレール・ドゥニさんにインタビュー。
月島にある配給会社キネティックの事務所にて。
隅田川沿いにある元倉庫。
倉庫に入れておく程の在庫をどこの会社も持てなくなったのか、あるいは家賃の安さに目を付けたいくつかの事務所が強引に越してしまったのか、とにかく外見は倉庫、中はおしゃれな事務所が各階を埋めている。
窓から見える川沿いの風景は、私の見知っている東京の風景とはまるで違う。
ドゥニさんは昨夜、フランスとのやりとりで朝まで起きていて、さすがにお疲れの様子。
インタビュー時間、45分ということもあり、用意した質問の半分もできず、消化不良。
媒体のことも考えるとあまりにつっこんだ質問もできず、つらい。
「恐怖の映画史」での1日がかりのインタビューにすっかり慣れてしまっているためか、あるいはもう、だらだらしながらしか何事もできなくなってしまったのか。
まあこれはずいぶん前から思っているのだが、外国人の監督のインタビューは、やはり現地に訪ねていって、2、3日くらいかけてやらないとどうにもならないのではないか。
今回のインタビューは、夏くらいに公開される予定の「ガーゴイル」という映画のためのものだったのだが、この映画の中で私のお気に入りのシーンは、始まって10分くらいのところ、アメリカからパリに到着した主人公の夫婦がタクシーから降り立つシーンである。
さも当然という、何でもなさで、女性の運転手が登場するのである。
物語上の展開にも、彼らの状況説明の上でも、特に意味があるわけではない。
これが男性であっても、全く問題ないし、もしかするとほとんどの人がこのタクシーの運転手が女性だったか男性だったかも憶えていないのではないか。
その程度のシーンである。
ただその、何というか、当たり前の感じ、女性だからといってそれが何かを訴えているのでもなく、ただ単にたまたま女性の運転手だったというただそれだけの何でもなさが、何だかぐっと来る。
この当たり前の感じ、誰かがそこにいて何かをしていることに意味があるわけでもなく、価値があるわけでもないのだが、ただ確実にそこには誰かがいて何かをしている。
そんな風景を映すのが、クレール・ドゥニさんはとてもうまい。
どの映画を観てもそう思う。
だから、このシーンが好きだとドゥニさんに言ったとき、ドゥニさんはとても困惑していた。
「このシーンが印象的だと言われたことの方が印象的だ」という答えであった。
そういう人だからこそ、こういうシーンを撮ることができるのだと、ひとりで納得した。
ちなみに前作「美しい仕事」で流れていたニール・ヤングの「セイフウェイ・カート」は、権利料も高く、また、とにかく曲はそのまま丸ごとかけることという条件が付いていたそうだ。
以前、この映画を観たとき、私は「nobody」サイトに「スピードが速められているのではないか」というようなことを書き込んだのだが、単にそれは上映時のフィルムのスピード、ないしはスピーカーの音質などの問題によるものであった。
「ガーゴイル」の原題は「トラブル・エヴリデイ」といって、ザッパの「フリークアウト」に入っている曲からとられた題名らしいのだが、そのことも尋ねようと思いつつ時間切れ。
「トラブル・エヴリデイ」は、ワッツ暴動に触発されて書かれた、ごつごつした現実の肌触りと、それが永遠に繰り返されていくうんざりするような反復運動とが、聞く者の神経を微妙に緊張させていくような曲なのだが、19世紀の怪奇小説(「ドラキュラ」その他)に触発されたというこの「ガーゴイル」が一方で見据えていたはずの現実とは何なのか。
しかしそれにしても、おかしな編集が何カ所もある映画であった。
そんなところで破綻に普通につなげばいいのにというところで、全く意味不明のショットがいくつも入っているのである。
それらのひとつひとつを具体的に尋ねたかったのだが……。
夜は、日仏で黒沢・ドゥニ対談をとるか、阪本君の「KT」完成披露試写をとるか、直前まで決めかねていたのだが、決めるまでもなく、ソファで寝込んでしまう。
気がつくとどちらにも間に合わず。
情けないがどうにもならず。