
2001年 boid日記 12月
Text by 樋口泰人
12月31日(月)
この時期、うっかりしていると10日くらいあっという間にすぎる。
この間、あれやこれやですっかりガタガタになっていたのだが、本日は年賀状を印刷しようとしたらプリンターが壊れた。
ソフト的な問題ではなく、紙を1枚ずつ巻き込んでいくベルトの部分がダメになってしまったらしく、完全にお手上げである。
これを機会に今年は年賀状を出さないことにした。
それはそれでいいのだが、プリンターはどうにかしなくてはならぬ。
先日は、掃除機が、いきなりうなりをあげ始め、モーターから焦げ臭いにおい。
危うく火を噴きそうになったところで止めたのだが、やはりこれも完全にダメ。
ほんとにまったく、困ったものである。
困ったものと言えば、どうやらboid.netがアダルト・サイトとして、どこかの検索エンジンに登録されたようだ。
最近「バナーを載せるだけで簡単に稼げます」とか、「自宅作業で高収入」とかいう件名のメールがやたらと送られてくるのだが、これがすべて、アダルト系のバナー広告代理店からなのである。
「アダルト・サイトの管理者様にだけ配信しています」とか書いてあるメールも中にはあるので、多分本当にどこかのエンジンに載せられてしまったのか、あるいはどこかのアダルト・サイトのリンクに載せられてしまったのか……。
なかなか名誉なことではあるのだが、本当にboid.netにやってきたアダルト・サイト・ウォッチャーたちは、どう思っただろう。
来年は、トップページを飾るboidガールズとかにご登場願いたいものだが、残念ながら私にはその甲斐性がない。
自薦、他薦、受け付けます。
そのアダルト・メールにくわえて、またもやここにきてウィルス・メールが次々に送られてくる。
この時期、ウィルスにやられてしまった人たちはさぞ大変だろうと思いつつ、添付書類付きで怪しそうなメールは何も見ずに削除しているので、私に添付書類付きのメールを送ったのに返事がこず変だとお思いの方は、連絡ください。
てなところで、今年もあと2時間弱。
今年はなんだかあれやこれやと、自分の怠惰さを忘れて動きすぎたので、来年は少しじっとしていようと思う。
30時間睡眠とか平気でやっていた私が、どうして3、4時間睡眠の連続を乗り切ることが出来たのかよく分からないが、まあそんなものか。
一昨日、安井君から質問を受けて自分でも以前のことがうまく思い出せずに答えに窮したため、昨日は「ペイ・フォワード」を見直したのだが、やはりあの展開の早さは変だ。
一体どこがどのように変なのか、まあ、来年はぐずぐずそんなことを考えてみたいと思っている。
12月19日(水)
昨日はキャメロン・クロウの「あの頃。ペニー・レインと」とタイのウォシャウスキー兄弟ことパン兄弟の「レイン」を見る。
キャメロン・クロウの方は、10代半ばの彼自身が初めて「ローリングストーン」誌に記事を書いた頃の物語で、いかに私は音楽に狂ったか、というような音楽映画になっているかと思ったら、確かにロックは次々にかかりまくるものの、しっかりと物語の背景となっていた。
このあたりの距離感が、キャメロン・クロウ独特のものだ。
だが肝心の物語自体は、たいしたことはない。
冒頭、サイモン&ガーファンクルの「ブックエンド」のジャケットを見た主人公の母親が、マリファナでとんでる目つきだといって罵倒するシーンは笑えた。
「レイン」の方は、完全にノンリニア編集以降の映画。
細かな編集、スピードの部分的な変化、場面転換以外の場面でのオーバーラップ、あるいは、ハイテンションなテクノミュージックなど、あらゆる手法が最先端のものなのだろうが、音楽の変化も俳優たちの動きも、徹底して記号化されてそれ以上の説明は何もいらない。
本気でこれでいいと思っているのだろうか?
本日はツァイ・ミンリャンの「ふたつの時、ふたりの時間」。
この映画で初めてツァイ・ミンリャンとくんだカメラマン、ブノワ・ドゥロムがインタビューで、「彼の空間の使い方がすばらしいと思います。抽象性とリアリティが見事に溶けあっています。ある時突然、私は今まで台詞しか撮ってこなかったのではないか、という思いに襲われたほどです」などと言っている。
まあ、きまじめに本心を語ったのかもしれないが、ということは、それまで彼が組んできたトライ・アン・ユンやセドリック・クラピッシュや、マイケル・ウィンターボトムやブノワ・ジャコやジャン=ジャック・ベネックスといった監督たちは、とても監督とは呼べない類の人たちであることではないか。
これまで誰も彼に、映画は台詞を撮るんじゃないってことを教えなかったのか、それとも、そんなことは前提として仕事をしてきたのか。
まあでもカメラマンがそんなことを言いたくなるくらい、この映画の空間は、ある徹底した意図によって切り取られていることがよくわかる。
パリのカフェなど、もしかして台北のどこかで撮ったのではないかと思うくらい、限定された広がりのない空間として、主人公を抑圧していた。
街角のシーンでも同じである。
その空間の抑圧が、ラストシーンでようやく解放されるのだが、ただそれで、主人公たちが世界と関係を持つことができるようになったとは思えない。
単純すぎるかもしれないが、彼らとともに涙を流しているわけにはいかないと思う。
ツァイ・ミンリャンの映画を見たときには、必ずそう思う。
台詞を撮ってばかりいる代表的な監督ともいえるテイラー・ハックフォードの「プルーフ・オブ・ライフ」も見る。
したがってハックフォードの映画は、シナリオと俳優がすべてなのだが、今回はともに厳しい。
ゲリラに誘拐された夫を救うため、妻が雇った交渉人と叶わぬ恋に落ちる、という設定なのだが、夫にデヴィッド・モース、妻にメグ・ライアン、交渉人ラッセル・クロウという組み合わせでは……。
何というか、これまた「台詞を演技しているだけ」といった感じなのだ。
たとえば前作「ディアボロス」のキャスティングをそのまま借りて、キアヌ・リーヴス、シャーリーズ・セロン、アル・パチーノという組み合わせなら、相当なものがあったと思うのだが。
ただラストシーンはいい。
救出された夫とアメリカに戻るため、交渉人に別れを言うため、妻が夫に「1分だけ待っててね」と言って以降だ。
その台詞を言うときのメグ・ライアンをとらえたショットは、確かに台詞を撮している以上のものではないともいえるのだが、ただそれだけでもこのようなショットが撮れるのだし、それはそれで十分に映画であることを物語っていた。
そういったところがテイラー・ハックフォードの真骨頂である。
そして本当のラストシーンで、いきなり空撮になるところもいい。
願い叶わず行き場をなくした妻と交渉人との思いが突如風に乗って町の上に舞い上がる、といった風情なのだ。
このとき同時に、ヴァン・モリソンの「I'll be your lover, too」が流れる。
できればその後の空撮を、ワンカットのまま押し通してほしかった。
12月17日(月)
朝からウィンドウズ・マシンが立ち上がらず、まったく仕事にならないまま、憮然としつつ六本木、ギャガ試写室へ。
途中、青山ブックセンター六本木店での売り上げ精算のための伝票を忘れたことが発覚。
更に憮然とする。
しかし「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」は、グラムロック特有の尊大さと繊細さが同居する不敵な映画であった。
タイトルはバンド名。
アングリーインチの命名は性転換したときの傷跡に由来、というなかなかな設定。
ジェイン・カウンティになったウェイン・カウンティ主演の「ベルリンブルース」を思い出す。
ノリは「ベルリンブルース」の方が上だが、物語の構成力はこちらの勝ち。
ルー・リードの歌の中で歌われた数々の物語をひとりの人間の物語に再構成すると、このような映画になるのではないだろうか。
したがってこの映画の「曲名」としては「ヘドウィグ・セッズ」とするのが妥当だろう。
途中、「ペイル・ブルー・アイズ」のような台詞のやりとりも出てきて泣かせる。
などなど、かなりたまらない出来なのだが、演奏と歌(声)はどうもいただけない。
「アイ・ウォナ・ビー・ユア・ドッグ」と歌うことがそのまま歌い手を「主人」へと変えてしまう危うさを綱渡りしていくために必要な、華麗さが欠けている。
サントラを買って聴こうという気には、残念ながらならない。
結局は全然売れなかった田舎バンドという映画の設定には見事にマッチしているので、ある意味で成功したサントラとなっていることは事実だし、素晴らしい歌詞もいくつかあるのだが……。
もしこの音が物語からの要請だったとすると、最後の2曲だけは、物語の設定上も音が大変身していなければならないはず。
ここだけは、演奏をクランプスに依頼するとか、できなかっただろうか。
とはいえそうなると、この映画とはまったく別の物語になってしまう。
映画の途中から動き始めた、ラックスとポイズン・アイヴィ主演のクランプス版「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」の妄想では、ラックス演ずるヘドウィグは最後まで徹底した世界の中の欠落として、その決定的な空虚から、次々に理解不能な怒りの弾丸を発射し続けることになっていたのだが……。
おそらくこの違いが、私がこの映画の演奏に乗れなかった原因でもあり、結果でもあるだろう。
しかしまあともあれ、「カタクリ家の幸福」とはまったく違う「アングリーインチ」な世界の姿を見せてくれたことに感謝。
夜はようやく何とかパソコンを立ち上げる。
いくつかの方法で修復を試みてはいるのだが、どれも一時しのぎに過ぎない。
明日は一日、システムのそう入れ替え作業となるかもしれない。
無事一日で済めばいいのだが……。
12月16日(日)
しかし一体何が悲しくて日曜の朝午前10時から歌舞伎町の映画館で「とっとこハム太郎」など見なくてはならないのか。
「ハムハムランド大冒険」だって。
ついさっき寝たばかりだというのに。
「ゴジラ」を見たいと子供が言うので連れてきたら、この様である。
東宝も、併映作を少しは考えてもいいのではないか。
「ゴジラ」が始まった途端、「ハム太郎」目当ての子供の何人かが泣き始め、うるさいったらありゃしない。
多分親は、せっかくだから「ゴジラ」を見たかったのだろう。
なかなか場内から出ていかない。
映画のせいもあるのだが、もう、怖いも何もあったものではない。
「世界が終わってしまうこと」の恐怖は、この映画でも、最後に「インデペンデンスデイ」をやってしまう宇崎竜童扮する主人公の軍人の記憶の中にしかないように、目の前のゴジラがいくら暴れても立ち上がっては来ない。
モスラのゆっくりとした動きとか、ゴジラが海から浮上する仰角ショットとか、ニコニコしてしまうような細部もあるのだが、それ以外はまったくダメである。
この映画には、「17歳のカルテ」で流れた「ダウンタウン」のように、目の前の世界の終わりを甘美なメロディに込めて歌う、豊かさはない。
そしてまた、評判の割にはそれほどつまらなくはなかった「アルマゲドン」の親子のやりとりのアホらしくもあるガッツもない。
しかしそれにしても、この自販機コーヒーのまずさは一体どうしたことだ。
歌舞伎町コマ東宝。
インスタントコーヒーにクリープ入れて200円もとるのか!
どうせ、お子ちゃま連れのしょうもない親子ばかりだと、高をくくっているのか。
同じ映画館でも、200円で立派なコーヒーを販売しているところだってあるのだから、単にそれが映画館値段なのだというわけでもないだろう。
そんなことは何件か映画館を巡ればすぐ分かる。
確かに映画館に入ってしまえばそこはクローズドな空間だから、それしかなければそれを買ってしまうのだが、だからこそ、その空間を作る愛と誇りが必要なのではないか。
ゴダールが労働と愛を常に同列に並べるのは、単にそういうことではないのか。
そうそう、そういった労働に対する視線のあり方においても、「アルマゲドン」の方が、「ゴジラ モスラ キングギドラ」よりずっと上だった。
12月15日(土)
昨日行きのがしたジュンク堂で、夏以降のboid売り上げの精算。
残念ながら売れ行き悪し。
boidの先行きを憂う。
貧乏は完全に通り越してしまったので、もうこれ以上憂うこともないのだが。
午後からはウィノナ逮捕記念で「17歳のカルテ」。
青山から薦められていたのにさぼっていたのだが、その怠惰を反省。
ウィノナ・ライダーとしては、「ルーカスの初恋メモリー」以来の出来ではないか。
80年代半ばに作られた「初恋メモリー」では、生真面目でエキセントリックな中学生を演じていたが(もちろんまだ、ティム・バートンやジョニー・デップに出会う前である)、10余年後のこの映画では、何故かまだ高校生、という設定もすでに泣かせる。
やはりショートカットの方が断然いい。
あの映画もロケーションがよかったが、こちらも、ほんの少ししか出ない屋外ショットが本当にいい。
精神病院を、アンジェリーナ・ジョリーとふたりで脱出して、すでに退院した知り合いの家に泊まった翌朝の、何とも言えない寒々しさ。
あるいは、病院の仲間たちと連れだって冬の日にアイスクリームパーラーに出かけたときの町の風情。
その美しくもあり厳しくもある世界が彼女たちを抑圧しているのだと、この映画はゆっくりと語っていく。
テーマ曲である「ダウンタウン」の甘美なメロディの裏側に貼り付いた絶望とともに、彼女たちは町に出たのだ。
ウィノナ・ライダーが精神病院に送られるタクシーの中では、小さく、THEMの「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ、ベイビー・ブルー」が流れる。
この歌はあきらめの歌だからディランの曲の中では嫌いな曲だ、とかつて語った友人がいたが、だがこの歌の主人公たちは、「すべて終わった」と歌いながら、まだ何も終わっていないことをかみしめているのだ。
そういえば、ガレルの「夜風の匂い」の中で、唐突にテレビ画面が映し出され、スペインかイタリアかのお馬鹿なバラエティ番組のようなものが流れはじめたときに、これまた唐突にイタリア語の歌が、テレビのショットが終わった後も続けてしばらくかかるのだが、このメロディはほとんど「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ、ベイビー・ブルー」であった。
あのシーンが何故あったのか、未だによく分からない。
この映画には、さすがにそのような唐突なシーンはなかったが、アンジェリーナ・ジョリーが仲間をいじめるシーンは、70年代のロバート・アルトマン的な寒々しさがあった。
先日の「冷たい水」上映イヴェントのうちあげの時にアンジェリーナ・ジョリー、ジーナ・ガーション、ジェニファー・ロペスという私好みの3人で「チャーリーズ・エンジェル」をやるのはどうかという話が出たのだが、その一方で、同じ3人とこの映画の監督ジェームズ・マンゴールドで「三人の女」をやるというのはどうだろうか。
でもまあ、それじゃ誰も病気じゃなくなるか。
付け加えておくと、撮影はジャック・N・グリーンであった。
それまで静かに人物を見つめていたカメラがふと動くときの緩やかさは、まるでカメラがそこに流れる空気になったかのようだ。
「トゥルー・クライム」と「スペースカウボーイ」の間に、彼はこの仕事をしていたのである。
それから、ジェファーソン・エアプレインの「Comin' back to me」はなかなかいい、ということを再発見。
思わず、CD棚から「シュールリアリスティック・ピロー」を取り出して聞く。
アル・クーパーはすべて売ったくせに、ジェファーソンは残しておいたのだ。
情けない話だが、そんなものだろう。
12月14日(金)
外に出なくてはと思いつつ、昨日も一日ほとんど家の中。
まあ木曜日は、子供の帰宅の関係で3時には家にいなくてはならないので、どうにも予定が立てづらいのだが。
籠もりつつ、見逃していたアベル・フェラーラの「ボディ・スナッチャー」を見る。
この人がジャンルものを撮ると、単なる間延びした演出に見える部分と、唐突に訪れる事態の緊張の落差にいつも驚かされる。
やろうとしていることとプロジェクトの大きさとのギャップのためもあるだろうが、それでもまとめてしまう人はまとめてしまうわけだから、およそそんなことはどうでもいいというか、まあ、こんなものだろうと思っているに違いない。
この映画では、一家の母親が宇宙人になってしまったと子供たちや父親が確信したとき、多分「ギアが入れ替わる」とはこういうことを言うのだろうと、そんなシフトアップのお手本のような豹変を、母親と映画が見せる。
あまりのことに唖然とするしかないのだが、家族の関係の細やかさに関しては最初からほとんど描かれていないので、少し辛い。
ただ、ほとんどの作品でフェラーラとコンビを組んでいるジョー・デリアの音楽と、特に音響設計は一貫して凄い。
基地の中を主人公のガブリエル・アンウォー(本当はアンワーと発音するということだが)が歩くシーンだったかの、めちゃくちゃ細かい音の定位のさせ方に、ほとんど頭クラクラ状態。
「プライベート・ライアン」ほど大げさではないし、特に何の変哲もないシーンでとことんまで風景の動きに対して忠実に音の動きをつける、その過剰さは、一体どこからくるのか。
ああそうか、ここはすでに宇宙人に乗っ取られている場所なのであった。
地中人の性質をそのまま正確にコピーする宇宙人の耳が、その場の現実音を正確にコピーしたということか。
真空の宇宙空間で撮られた写真の過剰な鮮明さと同じ鮮明さが、そこにはあった。
本日は朝からJASRACに「Phew Video」の追加支払いに行き、三池崇「カタクリ家の幸福」、その後は池袋ジュンク堂でこれまでの売り上げの精算。
という予定だったのだが、予定通りいったのはひとつだけ。
帰りに、本当に久々の新宿HMV。
青山日記にあったアル・クーパーのアルバムを見て泣く。
私は未だに、コッポラの「レインメーカー」のあちこちで小さく流れていたオルガンは、アル・クーパーだと確信しているのだが、事実はどうだろうか。
今日のところは、青山に先を越されて悔しいので買わない。
そのアルバムの下に、ロキシーの再発盤が数枚。
これまた青山日記で怒られてしまったので、反省してこの際もう一度聞き直してみようかとも思ったが、すぐにとなりのルイス・フューレイの再発盤に目がいく。
ついでにキャロル・ローユも出ていないかと探したが、なかった。
結局買ったのは、バスタ・ライムス、アウト・キャスト、ティンバーランドの新譜と、聞き逃していたコラプトのちょっと前に出たアルバム。
コラプトは日本盤だったのだが「パカっとキメて、ぐーるぐるん。」なんていうザッパみたいなタイトルが付いていていやはやと思ったら、これはどうやらアルバム・コピーらしい。
DMXの新譜は安井君に借りることにする。
TSUTAYA新宿では、カイエの橋本君にばったり。
橋本君は、モフセン・マフマルバフの「サイクリスト」を探していて店員に尋ねていたのだが、あちこち探し回った店員は、「コンピュータを検索しても入っていない」との答え。
マフマルバフだかマフバルマフだかマフバルバフだか、まったく区別の付かない私は、そんなもの探せという方が無茶だと橋本君に言うと、橋本君は出たばかりのこのビデオが置いてないのはおかしいと、あって当たり前という態度。
この映画に対する認識の差は、しかし、すぐそばの棚に堂々と「サイクリスト」が置かれていたことで決着が付く。
3本とも貸し出し中であった。
私はスティーヴン・セガールの「DENGEKI」。
セガール目当てではなく、共演のDMX目当てである。
何とDMXがワイヤーアクションまでやっている。
次回は、「クロウ3」に主演ということだから、いよいよ本格的に俳優業に踏み出したということだろうか。
だとすると、あの歩き方はどうにかしなくてはならないだろう。
だがこの手の何かが足りないばかりの映画は、時折本来なら映画には流れ込んでくるはずのない時間がふと入り込んでくるときがあり、そうバカにしたものではない。
この映画では、「ふたりの男とひとりの女」でも、完全にジム・キャリーを食っていたアンソニー・アンダーソン扮するDMXの相棒がオーナーのクラブシーン。
それまでは、DMXやジャ・ルールなどの音楽がそこかしこで流れていたのだが、このクラブの中だけは、ほとんど音楽が聞こえない。
でもみんな、その聞こえない音に合わせて、当たり前のように踊っているのである。
それを特別なシーンとして見せようという意志は、この映画のどこにも感じられない。
映画の中のリアリティとしても、それは、ごく当たり前のシーンとして撮られているのである。
一体何故このシーンはこんなことになったのだろうか。
その静かさに呼応するかのように映画のラストに置かれた、アンソニー・アンダーソンとトム・アーノルドのバカな掛け合いの過剰さと長さは、まあ、ジャッキー・チェン映画のNGシーンのようなものだろうが、これはNGでも何でもなく、最初からこの掛け合いのために撮られたシーンである。
一体この人たちは何を考えているのやら。
監督は「ロミオ・マスト・ダイ」の人であった。
キャスティングその他、すべての面で納得。
見終わった後、CD棚からアル・クーパーの「スーパーセッション」を探したのだが、何と、アル・クーパーものが1枚もない。
すべて売ってしまっていたのだ。
クーパー関係で残っていたのは、レイナード・スキナードのファーストと、マイク・ブルームフィールドの「三頭政治」だけだった。
我ながら呆れる。
と、ここまで書いてネット上にアップしようとしたら、ネット関係が突然調子悪くなってしまった。
ケーブル回線での常時接続なはずなのだが、途中で切れてしまうのである。
この日記も、アップしている途中で繋がらなくなってしまったので、半日くらいは変な状態のままになっていただろう。
ようやく、15日の午前中になって回線が快復する。
我が家のパソコンの問題だったのか、ケーブル回線の問題だったのか。
マックの方も繋がらなかったのでケーブルの問題だと思っていたのだが、このウィンドウズも、本日など20回ほど再起動しないと立ち上がらないという状態になってしまったし……。
それにしてもウィノナ・ライダー万引で逮捕。
昨日は、「DENGEKI」の他に、ウィノナ、アンジェリーナ・ジョリーという私の新旧のアイドル共演の「17歳のカルテ」をようやく借りてきたというのに。
ああ。(この部分15日午前中に執筆)
12月12日(水)
ようやく「夜風の匂い」原稿が終わる。
この日記でも延々と振れ続けていた音の問題などもあり、妙に深く関わってしまったため、原稿を書くための距離がとれなくなってしまったのだ。
仕方がないので、「ワイルド・イノセンス」でも流れていたTHEM、ヴァン・モリソンをガンガン流し、勢いをつける。
THEMのファーストはいい。
ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンの「ナウ・アイ・ガット・ウォリー」は、かろうじてこの域に達しているかとも思えるが。
となるとジョン・スペンサーの課題としては、今後いつか、「アストラル・ウィークス」みたいなアルバムを作ることではないか。
などとぐずぐずしていたら、一日が終わる。
考えてみると外に出たのは、昨日は昼食を食べに行くときだけ、本日は郵便受けまで。
最近は、あまりの体調の悪さにできるだけ外に出て歩くように心がけていたのだが、ちょっと体調が戻り出すとすぐこれである。
夜、トゥバ共和国に行きたいと言っている妻から、トゥバの交通事情のとんでもない話を聞く。
この手の話を聞くと、電車やバスが時刻通りに動いていることの方が恐ろしくも思えてくる。
しかしまあ、家からでさえ簡単には出られない私にとって、トゥバは永遠の異境であろう。
12月11日(火)
本日も篠崎来宅。
ビデオ編集が続く。
私は「スタジオボイス」のための「夜風の匂い」原稿を書いていたのだが、集中力が高まらず、何だか変な原稿を書いてしまう。
結局自主規制してボツ。
夜、高崎映画祭用の篠崎ビデオの音響もやってくれた臼井勝さんがやってきたので、ついでにドルビーSR、ドルビーAについて尋ねる。
臼井さんの説明によれば、「SR」「A」は、圧縮方式の違いで、「SR」で圧縮されたものを「A」で解凍して出力したら、当然音に変化は出るとのこと。
しかしフィルムの場合、基本的に「SR」がほとんどだから、「A」で出力したときにしか聞こえない音が入っているというのは、通常考えられない、ということだった。
そのた、もしかするとサラウンドなのではないかとか、いくつかの可能性を教えてもらうが、どちらにしても、最初のイマジカ試写室での設定がどのようになっていたのか、もう1年半も前のことなので、結局は謎。
子供は明日、学童保育所で劇をやるのだという。
絶対見に来てくれと、何度も言われ、むにゃむにゃとお茶を濁す。
妻は、会社で仕事だから行けないと、あっさり断ったらしいのだが、こういう場合私は立場が悪い。
一体いつ仕事をしているか分かったものじゃないと思われてしまっているからだ。
仕事があるからダメだとはっきり言ってしまえばいいのかもしれないが、何となく気持ちが引き裂かれ、はっきりと返事をできないものだからますます事態は曖昧さを増し、子供は眠くなり、私の胸にはまたひとつ鈍い重さが加わる。
12月10日(月)
午前中から篠崎がやってきてビデオ編集。
先生をしている映画学校の生徒たちが作った作品を、指導しているのだ。
「指導」というかプロデュース件、カメラマン件、編集者となっていて、見ていると、青木富夫、斎藤陽一郎、高橋洋などなど、豪華キャスティングである。
高々学生映画なのにこんな贅沢な思いをさせていいのかと言ったら、いや、普段は仲間内だけで緊張感もなく作っているのでプロの人間たちを相手にどこまでやれるか試さなくてはいけないと、篠崎。
しかしこのビデオの青木さんは凄い。
画面を顔面がはみ出す超クロースアップの迫力ともう徹底してバカ者なアホ踊りとが同居する。
しかも金のハリセン。
「夢の涯てまでも」の笠智衆と「ピストルオペラ」の平幹二郎と志村けんがひとりになっている。
更に編集を続ける篠崎を残し、私はリトルモアに打ち合わせ。
本来なら、アテネフランセでのオリヴィエ・アサイヤス「冷たい水」上映とトークを見に行くはずだったのだが、すっかり日にちを勘違いして、打ち合わせを入れてしまったのだ。
ベルリン映画祭用の日本映画のパンフレット作成のための最初の編集会議である。
リトルモアに行くと、ひとりのカメラマンが写真作品を持ち込みにきている。
孫君から紹介されてその写真を見たのだが、それがなかなか面白い。
まるで幽霊写真のように見えるのだが、まったくそうではない。
現実の人間を写しただけで、それが幽霊のような、輪郭を欠いた広がりとして見えてくるのだ。
その手法も聞いたのだが、ここでは書けない。
案外簡単な方法なので、彼でなくてもできてしまうからだ。
その誰にでもできる手法での彼のオリジナルだからこそ、そこにどんな言葉を付け加えるかがポイントだという孫君の的確な意見。
このままでは一発屋として終わってしまうだろう才能を、どうやって育てていくか、プロデューサーとしての手腕が問われる。
打ち合わせ終了後、あわててアテネフランセに。
すでにトークも終わり、映画も半分終わっている。
今更見て、ただでさえ曖昧な記憶を更に混乱させるのもどうかとためらうが、まあ、それでもと思い、途中入場。
入ると、最も鮮明に記憶しているファイアストームのシーンであった。
ここで確かジャニス・ジョプリンがと記憶していたのだが、CCR。
まあそんなものだ。
しかし、最初みたときも思ったが、これだけ曲を使えるのは、本当にうらやましい。
日本映画に予算があって、好きな曲をガンガンかけられるのだったら、私は絶対映画の選曲家に立候補していただろうと、妙に興奮する。
映画が終わり、やはり見ていた山本均さん、井土紀州も、何となくニコニコ。
これもまた映画そのものの力に他ならないのだが、まるで映画ではなくロックの力によってある種の人々を興奮させるかのようなこの映画の魅力は、オリヴィエ・アサイヤスという映画監督の、監督しての存在のあり方を見事に示しているように思う。
それは、会場でも販売されていた「nobody」2号に中根さんが書いていた「イルマヴェップ」におけるマギー・チャンと同様、「管」としての身体の不自由と自由を生きる姿に、当然重なっていく。
この映画の音楽の連なりは、80年代終わりに発売されたのソニック・ユースの「デイドリーム・ネイション」のドライブ感と、「その後」への意志が、遠く反映しているように思えた。
うちあげ後、更にどこかへと向かうnobodyの若者たちを後に、我々年寄り連中は帰宅。
帰るとビターズエンドから「夜風の匂い」の音に関する報告が。
それによると、ドルビーAでセッティングすると例の椅子の軋みや時計の音まではっきりと聞こえ、ドルビーSRでセッティングするとほとんど聞こえなくなるとのこと。
しかし、映画の終わりのクレジットには、「ドルビーSR」とはっきり書かれているのだそうだ。
一体どうなっているのか、この映画は。
だが、「ドルビーA」と「SR」との違いは何か?
これは長嶌に尋ねることにしよう。
ああそれから、ガレルの最新作のタイトル、「ワイルド・イノセント」ではなく、「ワイルド・イノセンス」。
人格を示すタイトルかと思っていたら、人格なしのタイトルであった。
12月9日(日)
まずは昨日の日記の訂正を。
「ホーキンス青山」ではなく「ホーキング青山」である。
「名前からも分かるように車椅子に乗った身障者である」とか書いておきながら、これではまるで分からない。
しかも、単なる入力ミスではない。
篠崎に指摘されるまで、「ホーキンス」だと思っていたのだ。
とほほ。
ただ、言い訳になるが、ホーキング博士を見たら、間違いなく「ホーキング博士」と書いていたはずで「ホーキンス博士」とは書かない。
でも、「ホーキング青山」は「ホーキンス青山」となり、当然のように「ホーキング博士」と結びついていたのである。
この不連続なつながりは、一体どういうことなのか。
そのこともあったのか、バウスシアターでのカサヴェテス・トークの時、カサヴェテスの名前に関する言い間違いのネタをつい喋ってしまったのだが、これもまたいいわけになるが、そのことについてのフォローをすっかり忘れてしまった。
私は、その言い間違いをした人を貶めようとか、笑いものにしようとか--まあ多少は笑いをとろうとしなかったわけではないが--、そういった意図があったわけではない。
その言い間違いこそがカサヴェテスの映画なのだ、ということを言いたかったのである。
ジジェクはラカンの言う「男性的である」こと、「女性的である」ことについて、「<人>という類がもつ二つの種ではなく、主体が<人>のアイデンティティを獲得しようとして失敗したことの二通りの現れであるのだ。「男」と「女」の二つがあって<全体>が形成されるのではない。なぜなら、この二つともがすでに<全体>になろうとして失敗したもだからだ。」と書いているが、カサヴェテスの映画のショットのつながりも、おそらくこのようなものだと思えるからだ。
バウスでのトークは、30分の予定が50分ほどになる。
早く映画を見たかった人には申し訳ないことをした。
帰宅後、妻から友人夫婦のきつい関係についての話。
私の母もそうだったのだが、人はどうして箸の上げ下げも気に入らない人間とひとつ屋根の下で何年も暮らしていけるのだろう。
12月8日(土)
フィリップ・ガレルの最新作「ワイルド・イノセント」を見に日仏学院へ。
毎年行われているフランスのカイエ週間の中での上映なのだが、さすがにガレルだと、思い切り混んでいる。
ロードショーにもこれくらい詰めかけてくれるといいのだが。
本編上映前に「夜風の匂い」の予告編が流れる。
これがもう、ほとんどカトリーヌ・ドヌーブの映画、というふうに見えて、宣伝の苦労を思いやる。
「ワイルド・イノセント」の方は、超満員のため同時通訳のイヤホンがたりず、無字幕で見ることになる。
これはガレルの映画に限ったことではないのだが、パリの地下鉄の構内と地上とを結ぶ階段は、ときどき映画の中である重要な意味を持つときがある。
もちろんそれは、二つの世界を結ぶ中間地帯にある、という意味なのだが。
ガレルの映画では、常にそのことが意識されているように思う。
この映画でも、主人公二人の最初のキスは、その階段の途中で行われていた。
存在論的に違う場所にいる二人が接する場所として、地下鉄の階段が選ばれたのだと思うが、逆に言えば、そのことによって、この映画における二人の立場の違いが、そこで明確に示されていたということになる。
たとえば二人が電話で会話するシーンでは、女の部屋が映されているときの電話から聞こえる男の声はいかにも受話器を等した声として処理されていたのにもかかわらず、男の電話ボックスが映されているショットに切り替わると、女の声はそのまま部屋の中で喋っている声と同じふうに処理されていたように思う。
それは一体何故なのか、どのようにこの映画の男と女は違っていたのか。
などとぐずぐず考えているうちに物語は進行し、男(映画監督なのだ)の新作の撮影シーンにはいると、登場人物も増え、現実と映画が交錯し始め、これはもう分からないと、更にぼんやりし始めたところに、いきなりTHEM。
若きヴァン・モリソンの歌声が、ガンガンと響く。
先日見たカウリスマキの長編第1作、「罪と罰」の時も思ったのだが、ある音楽をいつどのようなタイミングでかけるのか、ということに関して、絶妙の配置ができる人たちがいる。
そこで流れる音楽の種類に関係なく、映画の質とも関係なく。
上映終了後、雑誌「nobody」の編集者から第2号を渡される。
1号目に比べて、格段におしゃれな作り。
印刷もよく、レイアウトもスッキリと整理されている。
本当に売り物の雑誌みたいだと、変な感想を漏らす。
その足で、法政学館ホールの「天国注射の夕べ」。
The Rest of Lifeが出演するのだ。
その他のことは何も知らずでかけたのだが、考えてみれば日比谷野音の「天国注射の昼」から20年が経つ。
10年どころか、20年もあっという間だ。
もちろん今回のものは、あのときのメンバーが再集合、というようなものではない。
ホールではすでに演奏は始まっている。
何というバンドだろうか。
アンダーグラウンドロックのお手本のような、重い音が場内を覆う。
演奏者は若くなったが、何かはまだ十分に引き継がれている。
場内の観客もみんな若い(当たり前だが)。
次に出てきたのは、キーボードは看護婦、ボーカルは包帯巻き付けコスチュームの女性二人をフロントにしたバンド。
これがいきなりプロジディばりのハイテンションなビートでやり始める。
しかもダンサー付き。
一体どうしてこんなバンドがこんな場所に? と、不思議で仕方なかったのだが、何曲かやるうちに納得。
実はブルース・ベースのテクノバンドだったのだ。
観客が引いてしまうすれすれのところでまるで異質なものを同居させるその強引さに思わず笑ってしまう。
ある曲など、全員がまったく別の曲をやっていたのではないかと思えるほどだ。
スパンク・ハッピーと共演したら、壮絶なライヴになるだろう。
というところで登場したのが、ホーキンス青山なるお笑い芸人。
名前からも分かるように車椅子に乗った身障者である。
日本初の身障者お笑いということで、すでに7年もやっているのだそうだ。
こんな場所でやりにくいと言いながらも、やたらと清々しい身障者ネタで、場内を盛り上げる。
で、登場したバンドが、ドラムに二人のパーカッション、ボーカルの二人はどこか白虎社風のスキンヘッズ。
ベースはと見ると、高橋ヨーカイさんではないか。
90年代末から復帰してバンド活動をやっているとは聞いていたが、本当に久々の勇姿。
だが、ドラムやパーカッションのリズムばかりが聞こえてきて、ベースの音は聞こえてこない。
それぞれかなりの技術を持った人たちが、思い切り繊細な演奏をやっているはずなのだが、結果的にそれは巨大なひとつのリズムを作り出すばかりである。
場内はそのお経のようなリズムにすっかり盛り上がりはじめるが、私はさすがに居心地が悪くなり、外で一休み。
盛り上がりが終わり、次のバンドのセッティング時間にラリーズが流れはじめる。
こういう場所で大音量で聞くラリーズは、本当にいい。
フィリップ・ガレルに聞かせてあげたい。
多分ガレルさんも、初めて聞いた気がしないのではないだろうか。
で、ようやくThe Rest of Lifeの登場である。
ラリーズに対抗するように、遅く、何かを探るような演奏が始まる。
この、「何かを探る」というのがThe Rest of Lifeの演奏のポイントだろう。
もちろんフリー・インプロヴィぜーションをやっているわけではないのだが。
ガレルの「ワイルド・イノセント」の中でも、主人公の女がアパートの外に出て、道をしばらく歩いていくと、そこに恋人が立っている、というシーンがあった。
二人はあらかじめ約束して待ち合わせていたはずだと思うのだが、この映画ではアパートを出てすぐに二人を出会わせることはしない。
女が男にたどり着くまでの時間を、それはほんの10秒ほどなのだが、それでも確実にとるのである。
男に至るまでの女の20歩ほどと同じように、何かの音にたどり着くまでのほんの少しの時間の中から、このバンドの音は生まれてくるのだ。
演奏中、ずーっと何かのノイズが出ていて、それが気になってしまったのは残念だった。
ホールを出て、駅に向かおうとすると、飯田橋方面でいきなり打ち上げ花火が上がりはじめる。
一体この時期に何があったのか。
12月7日(金)
本日は昼から、松田さんが今度の日曜日のバウスシアターでのカサヴェテスイヴェントのためのビデオ編集。
雑誌スイッチで特集をやったのはすでに10年以上前になるのだが、その時、カサヴェテス組の人々に行った取材ビデオを特別公開しようというのだ。
子供の頃親から、10年なんてあっという間に過ぎる、という話をよく聞かされていて、その時はまあ、何で親というものはこう昔を振り返るのが好きなのかと何も分からず聞いていたのだが、本当にあっという間に10年が過ぎてしまっているので呆れる。
ビデオの中には、もう、死んでしまったサム・ショウやアンソニー・クインが映っている。
ピーター・フォークもジーナ・ローランズもまだまだ若い。
ついでに、「はずバンズ」撮影中のドキュメンタリー・ビデオもちらっと見るが、若きカサヴェテスが思い切りテンションの高い演出をしているので、笑ってしまう。
それらのビデオを見ていると、あっという間に過ぎた10年間だったが、やはりその間に何かが決定的に変わってしまったという感触だけが残った。
それが映画の問題なのか、私の問題なのか、よく分からないのだが。
編集作業中の松田さんを残して、私は「フロム・ヘル」。
19世紀後半のロンドンが舞台の切り裂きジャック物語。
ジョニー・デップが切り裂きジャックをやるのかと思ったら、担当刑事だった。
「スリーピーホロウ」と同じ。
やはりここでも、それまではまだまだ直感と思惑だけに頼っていた犯人捜査を、科学的観察によって行う改革者として、彼は登場する。
しかも、科学的であるだけでなく、幻想の力をも借りて、集めた詳細な科学的データをひとつの物語へとまとめ上げることで、事件の全貌を露わにするのである。
おお、これは「映画」と同じではないか。
19世紀後半のロンドンに「映画」が降りたって切り裂きジャックと対決する、という何と素晴らしい物語……に、なるはずだったのだが。
いやはやどうしてみんなこう、前映画的なものに憧れるのか、何となく分かるような気もするが、これまたおめでたいとしか言いようがない。
トビー・フーパーもジョン・カーペンターもうかばれない。
12月6日(木)
パソコンが、起動時に10階ほど再起動しなくては立ち上がらなくなってしまったので、いよいよシステムの入れ替えをしようと思ったのだが、ぐずぐずしているうちに時間がなくなり、いつものように結局面倒になってやめる。
原因の見当だけは付いているので、本当に立ち上がらなくなったとしても、ハードディスクのデータは大丈夫、という妙な確信があるためか、つい延ばし延ばしになってしまう。
たださすがに起動時のイライラには、もう耐えられなくなってきているのだが。
夕方、メディアボックス試写室にて「アモーレス・ペロス」。
メキシコのロックラジオ局でDJをやっていたこともあるという、音楽畑出身の監督の長編第1作である。
ロンドンではかなりの評判をとったということがプレスシートには書いてあるが、「タランティーノが人間についての興味があったなら作っていたであろう『パルプ・フィクション』」という雑誌からの引用が書かれていたが、まあ、第1印象としてはそんなところだろうか。
タランティーノというよりも、アルトマンの「ショートカッツ」との類似の方が目に付いたが、どちらにしても、リニアな時間の流れを横断しながら語る、その語り口が目に付く。
撮影はメキシコシティで行われたようだが、現実のその町を断片化して再構成し、広がりのない抽象的な町を作っている。
カメラのレンズの選択、フレーミングが、主人公たちの住む町の広がりのなさや居心地の悪さを明らかに示しているのだが、そういった手法が監督の作り上げるこの物語のために奉仕されられていて、何だかこちらも居心地が悪くなる。
何組かの主人公たちが抱えているらしい悲しみについても、確かに彼らがどんな悲しみを背負っているのかはよく分かるが、少しも実感がわかない。
メキシコにもパロディアスユニティのような集団があったら、この人もこの映画も、もうちょっと違うものになったのではないかと、そんな無い物ねだりをしながら見終えたのだが、一体何故そう思ったのか、単純に工夫が足りない、と言ってしまえばそれまでなのだが。
しかしこの映画について、「視野も広く内容も濃く、機知に富む映画作法」とか「これはまさに世界の話題をさらうであろうセンセーショナルな作品であると同時に挑戦作であり知的な作品でもある」などと書いてしまう、ロンドンのマスコミは、相当おめでたいと言うしかない。
まあ、ロンドンに限ったことではないと思うが。
ただ、つまらない映画でもダメな映画でもない。
これからどうなるかは謎だが、侯孝賢における「ナイルの娘」「風櫃の少年」やウォン・カーウァイにおける「いますぐ抱きしめたい」のような作品になるのではないか、というような鈍い予感もある。
闘犬や交通事故シーンの妙な生々しさと、タランティーノばりの映画の構成といった、「リアル」と「フィクション」の両極端の同居がこの映画の特徴のように言われもし、多分そういうことになるのだろうが、だがこの映画の最も注目すべき点は、とにかく徹底して、バカバカしいまでに分かりやすい、ということなのだ。
物語上では唐突に行われる殺しや、謎の親子関係なども、私のようなぼんやりとしか映画を見ない人間にも、一度で把握できるくらい、そのヒントをこれ見よがしに見せるのである。
その意味では、パロディアスユニティ的な「工夫」とはまったく別の次元に、この映画はある。
しかし、闘犬というのは、未だにメキシコでは行われているのだろうか。
この映画の監督は、モンテ・ヘルマンは見ていないだろうなあ。
12月5日(水)
低気圧のせいなのか、中途半端に分かっていて中途半端に興味のあるパソコン関係の仕事のためなのか、あるいは、単に何もしたくないだけなのか、気分が重い。
頭はぐらぐらするし、胃のあたりは1日中不快感で膨らんでいる。
当然仕事もはかどらず、ボーっとしていると、帰ってきた子供が、変な人に追いかけられて、家の前で「一緒に家で遊ぼう」と声をかけられたのだという。
「お父さんが家で仕事をしている」というと、その男は走って逃げたそうなのだが、油断も隙もあったものではない。
先日の、学校近所の変質者といい、今回の男といい、これだけ身近に出現されてしまうと、さすがに参る。
今度そういった男に声をかけられたらどうするか、あれやこれや子供に教えるが、それでどうなるわけでもない。
子供専用の携帯電話を持たせることも検討する。
これまではニュースの中の出来事でしかなかったいろんなことが、ここにきて本当に身近で起こり始めていて、何だか呆れるばかりだが、とにかく子供たちは大変である。
親としては「我が子よ強く生きろ」と願うしかない。
もうちょっと何かできることはあるのではないかとも思うのだが……。
12月2日(日)
相変わらず奇妙な早起きが続いていて、ほぼ1日中ボーっとしている。
この際ちゃんと朝型に変えなさいと妻から言われ、昨日は散歩代わりに小学校の授業参観へ。
子供社会もそれなりに大変である。
できる子や元気のいい子は競って手を挙げて発言しようとし、それに乗り遅れてしまった子たちは何となく所在なさげ。
まだ2年生だから何とかなっているが、このまま高学年に行くことを思うと胸が痛む。
一クラス40人ではどうにもならないだろう。
以前、フランスの知り合いから、パリではクラスが20人程度で、それでも多すぎると問題になっていると聞いたのだが。
しかしまあ、そうなってくると、逆に、数の問題ではないような気もするし。
人間が集まるとはこういうことなのだと言ってしまうことはできる気もするが、それではあまりにシニカルすぎて。
その後、子供が「一緒に行きたい」というのを「怖い映画だから」と言って家に残し、「ロード・キラー」へ。
ジョン・ダールが監督だということくらいしか予備知識はなく、エルロイの「キラー・オン・ザ・ロード」みたいなものかと思っていたのだが、まるで逆。
というのは、殺人者の視点からの映画ではなく、被害者の視点のみの映画であった。
それに殺人者というよりも、トラック。
つまり、スピルバーグの「激突」であった。
「激突」は、私の子供のフェイヴァリット・ムーヴィーなので、これなら連れてくればよかったかと、心が痛む。
だけど、「激突」の、単に怖いものが連鎖していく感じと違って、こちらは生理的な陰鬱さがつきまとう。
主人公たちだけでなく、彼らが関係するすべての人に被害が及ぶからだろうか。
「激突」に比べて夜のシーンが多いからだろうか。
あるいは、ほとんど語られることはないのだが、主人公の兄弟の、親子関係、兄弟関係の物語が、微かに見え隠れするからだろうか。
しかし、テレビも新聞も雑誌も、待ってましたとばかりに雅子様出産の報道。
まあ、他に明るい話題もないから仕方ないのかとは思うものの、提灯行列の映像を見るたびに、日本人をやめたいと思う。
国民と国家とがある種の契約で結ばれているのなら、国民には国家を選択する権利はないのか。
まあ、ではどの国にするかといわれても、どこの国にも住みたくないわけだが。
ところで、このところ毎日平均して4,5件は、ウィルス付きのメールが送られてきている。
何かをするためにパソコンを使っているのに、何かをされないために新たなソフトを入れるのは絶対に間違っていると思うので、維持でもウィルス撃退ソフトは入れないつもりだから、このままではいつかウィルスに冒される。
データのバックアップをとっておかねば。
また、私からのリターンメールが届き、それに添付書類がついていたら、何も考えずその場で削除してほしい。