
2001年 boid日記 11月
Text by 樋口泰人
11月28日(水)
本日もまた、8時に目が覚めてしまう。
これは一体どうしたことか。
眠れそうにないので、起きる。
1時からはトニー・スコットの「スパイ・ゲーム」。
徳間ホールは音がいい。
音質というよりも、音が鮮明なのだ。
それぞれの音の位置関係が無茶苦茶くっきりと聞こえる。
映像、音の両面で、常識はずれに情報量の多いこの映画(スパイはその過剰な情報の中から必要な情報だけを一瞬のうちにセレクトしなければならない。そのスパイと同じ状況に、観客もおかれるのである)にあって、音の鮮明さは重要なファクターである。
もちろんだからといって、そのめくるめく映像と音の渦の中から何かが見えてきたり聞こえてきたりするわけではない。
90年代以降のアメリカ映画の一つの傾向として、こういった過剰な情報を誰がコントロールするか、誰がそれらに対して超越的な視線を持ち得るかという、支配権争いのゲームが核となる物語が数多く作られてきた。
スパイを主人公とする映画は、90年代以前においても、必然的にゲーム的な要素はそのうちに含んでいたのだが、ことさらここにきて「スパイ・ゲーム」というタイトルを付けたのには、もちろん意味がないわけではない。
90年代以降の「ゲーム的」な映画の特徴は、誰がゲームの支配権を握るかという戦いを描いていると同時に、結局その勝者も敗者もゲームのシステムの中でのものでしかないことが、結果的にあらわになるということだ。
プレーヤーたちはゲームの外側に立つことはないし、ゲームの枠組みを越えた何かに立ち向かっていくようなことはない。
だがこの映画が主張するのは、「スパイ・ゲーム」にルールはない、ということである。
後1日で退職するスパイを主人公にしたのも、そのためだろう。
彼はもはやその内部にいる必要はないのだ。
その主人公をロバート・レッドフォードが演じるというのも分かる。
ハリウッドというゲームの王国の内側と外側を行き来する彼の現実と、この映画はどこかで通じ合っているからだ。
その意味で、この映画は完全にロバート・レッドフォードの映画だった。
ちなみにこの映画では、レッドフォードは自ら先にゲームを仕掛けることで、「スパイ・ゲーム」に勝利した。
クリント・イーストウッドがやっていたら、もう少し違う映画になっていただろうと、無い物ねだりをする。
しかし本日もまた、ウィルスメールが2件。
ここにきて、一体どうしたのだろう。
11月27日(火)
最近はだいたい朝の6時過ぎに寝て、昼に起きる、というパターンで暮らしているのだが、本日は、寝るのに失敗。
昨日の胃の不調が尾を引いたのだ。
更に、1時からの「害虫」の試写に今日こそは行かねばという、妙な緊張感もあり、ますます眠れなくなる。
仕方なく10時には起き上がり、ボーっとしたまま渋谷へ。
「害虫」は、海辺の町の物語であった。
高い堤防と中小の工場とおそらく山の手当たりにあるのだろう新興住宅地。
その住宅地に住む中学生の少女が主人公だ。
その閑静な住宅地と、海沿いの荒廃した風景とが、対をなしている。
「害虫」というタイトルが気になって仕方がなかったのだが、この二つの風景の利害関係に関わるのだろうかと思ってみていると、どうやらそうでもない。
そのそれぞれの風景の中でもまた、それぞれの利害関係が生じているのだ。
唯一、その少女だけが、二つの風景の中を行き来する。
その靴音、姿は見えないが町の上を飛んでいるらしいジェット機の音、少女の目の前を走りすぎるトラックの走行音などが強調され、また、遠くには、町の外へと延びていく高速道路が見える。
更に少女は、目の前の現実だけではなく、そこにはいない男との交信を手紙によって続けている。
つまり、この映画のさまざまな要素の中にさまざまな逃走線が引かれ、少女を、外へ外へと誘い出そうとしているのだ。
しかし、それは果たして外へと延びた逃走線なのか?
それは、外から内へと入り込む、袋小路への道ではないのか?
だが少女は、そのことをあらかじめ知っていたかのように、その両方の軌道に乗るのである。
少女の足音は消え、ヒッチハイクしたのだろうか、車の走行音がそれに取って代わり、そのいわば自動運動は、外へ行けば行くほど内側に入り込み、過去へと向かう旅路は新しい未来へとズレていく。
しかしいずれにしてもそんなに明るい未来が訪れるわけではないことも、少女は十分に承知しているのだろう。
だが投げやりになるわけでもなく諦めきっているわけでもない少女の態度は、しかしそれ故に更なる困難を招くだろう。
「害虫」とはそんな少女の態度そのもののことを指すのかもしれないが、だがそれもまた一つの生き方なのだということが、映画の最後の呟きのように歌われる少女の小さな鼻歌によって示されているように思えた。
その鼻歌を引きずりながら帰宅。
冴えた頭のまま、しばし眠る。
夜、安井君に電話。
明日、新雑誌「C+」の創刊記念パーティがあり(私はこの雑誌で10年ぶりに「星取り表」をやることになった)、編集長の小出さんから安井君を誘いだしてくるようにと伝言されていたのだ。
とはいえ、パーティ嫌いなら、私も安井君に負けてはいない。
何のことはない、私も欠席することになる。
小出さん、「C+」の編集のみなさまごめんなさい。
それから昨日の日記で書き忘れたのだが、昨日だけで、ウィルス付きのメールが3件あった。
とりあえず、何となく分かったのでそのまま削除したのだが、いよいよウィルス撃退ソフトのお世話にならなければならないか……。
面倒なことになった。
11月26日(月)
寝坊して試写に遅れる。
酷い夢を見ていたのだ。
池袋あたりで、長嶌と一緒に現金を盗み、おそらくそれは何かの組織の金だったのだろう、組織の人間と思われる追っ手に追われ、人混みの中に逃げ込もうと思い焦れば焦るほど足が進まない。
ほとんど呼吸困難な状態で目を覚ましたのである。
私の見る夢はだいたいこんなものだ。
たまに妻の見る夢の話を聞き、あまりに呑気な夢なので愕然とするのだが……。
まあ、仕方ないので、のそのそ起き出してもろもろの事務作業と原稿書き。
夕方から、ジェームズ・グレイの「裏切り者」に行こうと思っていたのだが、低気圧のせいなのか、調子が悪い。
胃のあたりも重苦しく、無理しても仕方がないのでぐずぐず。
今日はこんなものか。
11月25日(日)
雑誌の締め切りがいよいよ年末進行になってきて、何だかせわしない。
月曜日までの原稿を何とか仕上げて寝ようとしたら、青山からメールが来ていて、昨日アップした撮影日誌の冒頭が欠落しているとのこと。
確認したら、本当に10行ほどがすっかり抜け落ちている。
イヴェントその他でこのところすっかり寝不足になっていて……、などとまあ、いつものように惚けていただけなのだが。
訂正して、アップしておく。
本日は、昼過ぎに、松田広子夫妻来宅。
日本家屋の今後について、話し合う(?)。
おみやげに、吉祥寺俵屋の和菓子。
以前吉祥寺に住んでいたとき、我が家は俵屋の斜め前に位置していて、何かにつけて愛用していたのだが、この2,3年はすっかりご無沙汰だった。
和菓子なのだが、ケーキ並みな値段で売られている俵屋の菓子類は、しかし十分に値段分だけはうまいのだ。
久々の食感に、心が和む。
11月24日(土)
本日は、アテネフランセにて「恐怖の映画史 パート2」イヴェント。
1時30分から7時近くまでの長丁場である。
とある事情で内容に関しては、黒沢・篠崎トーク以外は発表していなかったためか、客入りは不調。
今後の宣伝、アナウンスのやり方について、いきなり反省させられる。
内容に関しては、来てくれた人たちにとってはそれなりにお得なものであったと思う。
後半の、篠崎による、恐怖映画の細部は黒沢清によっていかにして読み替えられてきたか、というビデオを使ってのトークは、これから映画作りをしようとする人にとって、いい勉強になったのでは。
黒沢さんの、恐怖の機械の発動の現場サンプル集も、こうやって集められると、いかにこれまで映画を見ても見ていなかったか、いつものことながら反省させられる。
篠崎ビデオの中で、「黒沢清によるロッカーの正しい使い方」というのが出てきたのだが、うちあげでは、次回は「黒沢清のゴルフレッスン」というのにしようという話で盛り上がる。
まあ、映画の中で黒沢清はゴルフクラブをいかに使ったか、ということなのだが。
その他もろもろ、篠崎企画大爆発。
すべてやったらこちらの身が保たないが、そのうちいくつかは形にできるだろうか。
11月23日(金)
原稿がなかなか終わらず、結局朝になり、テレビを見るとニューヨークで演劇のチャリティ公演をやる日本の劇団員の中学生らしき少女たち数人が、国際貿易センタービル跡を訪ね、そのがれきの山を見ながら泣いている。
音声は絞ってあって、一体彼女らがどうして泣いているのか、どういう立場の人たちなのか分からなかったので、もし、家族を亡くされた少女たちならそれは涙の一つも流すだろうと思ったものの、そうでないとしたら一体少女たちは何に対して泣いているのか。
年齢的にはほぼ確実に「ポケモン」で育った世代であり、確実にやってくる世界の終わりの中でどうやって強く正しく生きていくかがテーマである「ポケモン」を見ていれば、がれきとなった元ビルなど、幼い頃からインプットされていたはずで、今更現実のがれきを目の前にして驚くこともないだろうなどとつい私は思ってしまうのだが、どうもそういうものでもないらしい。
それともある種の反射運動のようなものだろうか。
などとぐずぐず考えているうちに、妻子はピクニックに出発。
残された私は、ようやく布団へ。
気がつくと2時過ぎている。
起きなくてはならない。
4時から、東京フィルメックスの「フラワーアイランド」を見に行くことになっているのだ。
とにかく起き上がり、ぼんやりしながら地下鉄に。
映画の内容に関しては、カイエ・ジャポン・ページの「映画日誌」のコーナーを参照(多分、明日くらいには載っていると思う)。
夜、黒沢さんからドライヤーの「吸血鬼」のビデオは持っていないかという電話。
明日の「恐怖の映画史」のイヴェントのため、いくつかのビデオを使ってちょっとした恐怖のサンプル・ビデオを作っているらしい。
実は篠崎も作っていて、それに対抗して黒沢さんも作ることにしたのだとか。
一体どのようなものが出てくるのか。
今更だが、明日はそれなりにお得なイヴェントになると思うので、迷っているならぜひ。
青山からは、「椅子の軋みは絶対にあった」というメール。
あの映画は車の音と靴の音と椅子の音で構成されているのだから、ないわけないじゃないか、と。
映画館ではあの映画は一体どのように聞こえるのだろうか。
それから昨日予告していた新作撮影日誌は、明日から掲載。
青山の体調は、何とか快復したとのこと。
11月22日(木)
映画美学校試写室の名誉のためにも、一昨日の「夜風の匂い」の件をもう少し詳しく調べてみるため、配給のビターズ・エンドからビデオを借りる。
担当の古森さんからも、「ビデオできいても椅子の音が聞こえない」と聞いていたのだが、本当に聞こえない。
左チャンネルで、微かなノイズらしきものが聞こえるのだが、たとえばこれだったとしても、1年前はこんな音ではなかった。
こうなってくるとやはり私と、何人かの証言者の聞き間違いだったか、あるいはイマジカでの試写の時に、何かのノイズが入り込んだか、どちらしかなくなってくる。
あとは、ガレルさん本人に尋ねるしかないのだが、昨日ビターズ・エンドの定井君から聞いた話では、どうやらガレルさんは今、フランスのプレスに対しても、いっさいのインタビューを拒否しているそうなのだ。
あの椅子の軋みは、このまま闇に消えていくのだろうか……。
ついでにビデオで見直すと、ヘッドホンで聴いているためか、これまた試写室とは音響が全然違う。
特に台詞。
音の出所が定位されず、画面全体から、空間を包み込むように聞こえてくる。
まるで、かつてそこで会話されたはずの声の残像のようでもある。
この映画は、そこにいる人を撮っているのだが、同時に、そこにはいないはずの人を撮っているのだとも思える。
カフェや街角や道路や建物や墓や海などなどに染みついた記憶が、死に損ねたひとりの男と彼の乗る真っ赤なポルシェによって媒介されるのだ。
だからその男は、「ゴダールの決別」でジェラール・ドパルデューのやった男の裏返しの存在のようなものだと言えるかもしれない。
最後近くに、その男と、カトリーヌ・ドヌーブ演ずる中年女が出会ってホテルで一夜を過ごすのだが、ホテルに行く途中、男が薬局による。
自殺するための薬を買うのだが、男が買っている間、女は店の外で待っている。
最初、カメラは女のそばにあって、店の中の男を(多分女の視線で)とらえている。
と、突然薬局の自動ドアが閉まり、目の前にそのドアが立ちはだかることになる。
その時、ピントは、男ではなく、視線を断絶したドアそのものにあっている。
その断絶があって、やっとカメラは店内に入り、今度は店内から、ドア越しに、女の顔をとらえる。
その女の微妙な表情は、やはりその時女は何かを理解したのだろうとしか言う他はない。
男が自殺を考えていて自分と男は一夜の関係でしかないことをか、男は記憶の存在で実際にはそこにいないのだということをか、あるいは漠然と、自分と男の間にある断絶を意識しただけなのか、よく分からない。
とにかくそこにあるそれぞれの存在論的な断絶が、二人が交わろうとする前に、はっきりと示されていると思う。
だから逆に、男がいなくなったあと、椅子の軋みが聞こえてきても何の不思議はないし、台詞が空間を包み込むような音となって響いても、何の不思議はない……。
とりあえず、椅子の軋みは、画面そのものから聞こえてくる音を私は聞いたのだと、強がっておくことにする。
午後、アテネに、土曜日のイヴェントのためのビデオを届ける。
その際、泉に「Devotion -小川紳介と生きた人々」の試写に誘われる。
別の試写に行こうと思っていたのだが、急遽変更。
見ようと思っていたのにすっかり忘れていたのだ。
小川プロのスタッフや関係者に行ったインタビューを構成したものだが、田村正毅、佐藤譲、菊池信之という青山組の主要スタッフは、何故か出演していない。
小川プロ作品に詳しい人が見たら、ここに出演した人としなかった人たちのそれぞれの立場や関係を見ることができるのかもしれないなあなどと思いながら、ハラハラ。
しかしまあ、これだけのインタビューが撮れたのは、監督が日本人ではなかったということが大きいのではないだろうか。
あるいはそれだけの時間が経ったということなのか。
食事に関しては小川紳介はとてもわがままだったといういくつかの証言のうち、「あんなに食べちゃあダメですよ。あれでは病気になりますよ」という大島渚のファンキーな発言に、しばし笑う。
徹底してインタビューのみで構成するという(インタビュー中の画面には、小川プロ作品やさまざまな記録映像などが使われるが)この映画の姿勢には、作者の意図を十分に感じることはできるが、小川プロ独特の「無名性」の中に潜んでいた個人の声を拾い上げて、そこに隠されていた何かを明るみに出すというのではなく、こうやって明るみに出た声がまた、緩やかな無名性の中に入っていくように見える。
小川プロの映画からも伺えた「空気」が、ここにも確実に漂っている。
深夜、青山からメール。
昨日から新作のクランクインだったのだが、2カットほど撮った後、いきなり気分が悪くなり、高熱で倒れたとのこと。
そのまま病院直行。
本日からは野辺山で撮影のはずが、夜の「あずさ」でようやく東京発、ということだったようだ。
実は本日からboid.netに撮影日誌が載る予定だったのだが、1日延期。
しかし大丈夫か。
半年以上行方不明だった友人からも、ようやくメール。
どうやら鬱症状で、ずっと籠もりっきりになっていたらしい。
金持ちなので(boidのオーナーのひとりでもある)、生活維持はできると思うのだが、今後の暮らしは一体どうなるのか。
こういう場合はどういった対応が好ましいのか、安井君に相談しなくては。
11月21日(水)
杉並第10小学校付近で、小学生にいたずらをしたり裸を見せたりする変質者が出没している。
おとといは、うちの娘が登校途中に、マンションの窓が開いて全裸の男がわざわざ子供に裸を見せた挙げ句パンツを投げてきたのだと、子供が言う。
妻はマンションそばの交番に行ったり、杉並区の地区委員に連絡もしたのだが、どこも反応が悪い。
要するに現行犯でないとどうにもならない、あとは、パトロールを強化するくらいしかない、という返事。
いたずらをした相手のマンションまで分かっていて、あとは2階か3階かが分からないだけなのだが、それでもどうにもならない。
おそらく世の中にはこの手の変質者は数え切れないくらいいるのだろうが、警察が発動するような被害に誰かが遭わない限り、変質者は存在しないことになっている。
しかし変質者は、そこにいるのだ。
夕方から、東京フィルメックスで、アボルファズル・ジャリリの「デルバラン」。
会場で、篠崎にビデオを渡すことになっていたのだが、忘れないように机の上にわざわざ出しておいたビデオがない。
「ない」のではなく、単に忘れたのだが……。
「デルバラン」はイランとアフガニスタン国境近くの砂漠が舞台という、タイムリーな映画。
もちろん「以前」に作られたもので、対アフガニスタン、対アメリカ、西欧という視点ではなく、対国家という視点が、そこでは軸になる。
「以前」の映画でありながら、「以後」の映画のような視界がそこには広がるが、いやまだ何も終わっていないのだと言うことを、この映画はゆっくりと時間をかけて示す。
冒頭のタイヤのパンクの原因が、ラストシーンになってやっと分かるのだ。
たったそれだけのことを、彼らのことを知らない私たちが体感するまでに必要十分な時間が、この映画の長さ(約96分)である。
しかし朝日ホールは映画の上映には無理があるなあ。
両脇の壁が、何の素材か分からないが、とにかく白く光っていて、そこにスクリーンの光が映り、3面鏡のような状態になっている。
まあ、思い切りパノラマな砂漠の風景も、それなりに見応えはあった。
上映後、東宝試写室に走り、見逃していたジャック・リヴェットの「恋ごころ」。
完成披露試写の時は満員で入れなかったという情報もきいていたので、心配しながら入ると、ほぼ満員。
場内が暑く、途中で頭痛。
リヴェット作品を見るのは「パリでかくれんぼ」以来になるのだが、相変わらず「捜し物」の映画。
同じと言えば同じだし、違うと言えば違う。
よく分からないが、この歳になって更に演出がうまくなっているのではないだろうか。
まあ、上にはオリヴェイラがいるわけだから、まだまだこれから、ということなのかもしれないが。
帰りに新宿TSUTAYA。
どうやら棚の配置換えをしたらしく、ビデオの置いてある位置がすっかり変わっている。
こんなところで私まで「捜し物」をする羽目になるとは……。
11月20日(火)
世の中のテンションが何となく高くなっているためか、あるいは単に寒くなり始めですっかり冬眠モードに入ってしまったのか、日々、テンションはまったく上がらぬまま、ぐずぐずと何週間かが過ぎた。
今も特に上がっているわけではないのだが、そろそろ日記再開。
しかし、パソコンの調子が悪い。
スイッチを入れてウィンドウズを起動させるまでに数回リスタートしなければならない。
本日は昼間、ケーブルの工事でネット関係も使えなかったので、パソコンは起動させず。
立ち上げのイライラもなく、快適。
パソコンなしの生活の豊かさを思う。
午後は1年ぶりに見るフィリップ・ガレルの『夜風の匂い』。
雑誌の原稿のため、とにかくもう一度見ておこうと思い試写に行ったのだが、全然違う。
私を知る人は、「またか」と思うかもしれないが、今回は私の記憶違いではない。
1年前にイマジカ試写室で見たときにはあったはずの音がなくなっているのだ。
これには何人かの証言があるので、間違いはない。
おそらく台詞を聞こえやすくするために中音域を際だたせた映画美学校第2試写室の音質設定によるものだと思うのだが、映画の最後、主人公の男が死んだ後、ジョン・ケールのピアノ曲の背後で、死んだはずの男が座っている椅子が軋む音が不気味に鳴っている、途中の台詞でも「存在がなくなってしまっても微かに残るものがある」というような台詞もあり、最後の暗闇に響くその微かな椅子の軋みがこの映画の意味を決定づけていたように記憶していた、その音が、今日の試写ではまるで聞こえないのだ。
物語途中の車の走行音も、高音にリヴァーヴがかかったトリップ感のある音だったはずだが、それもない。
何日か前に、ジョン・ケールの音楽が甘すぎるのではないか、全体に甘美な物語へと収束してしまっているのではないか、という意見を聞いたときにはピンとこなかったのだが、確かにあの音が聞こえてこない限り、「存在がなくなってしまっても微かに残るものがある」というその微かさに賭けるこの映画のギリギリの逃走=闘争は、どこかしらロマンティックなものへと変質してしまうかもしれない。
だが、映画はどんな環境で上映されるか分からない。
それに映画美学校の第2試写室にしても、単に通常の、台詞を聞き取りやすくする音質設定にしてあるだけだと思うし、だとするとこれが大抵の映画館の設定に極めて近いのかもしれない。
また、昨年のイマジカの設定が、何かの間違いだったということも考えられる。
とにかく映画は、それらさまざまな環境に耐えられるものでなくてはならない、という言い方はできると思う。
だがこの映画は、その危うさと微かさにおいて、ようやく出発点に立とうとしている映画なのだ。
あの椅子の軋みの中から、今後のガレルの映画は作られるだろうと、言ってもいい。
だがその音が聞こえない。
微かなのではなく、最初からついていないのと同じ状態になってしまっているのだ。
例え昨年のイマジカの方が例外だったとしても、そこには確実に椅子の軋みがあった。
ガレルはそこに音を入れていた……。
まあそれはともかく、シネスコ画面の左手前から右奥へと、緩やかなカーブを疾走していく真っ赤なポルシェの後ろ姿は何度見てもいい。
11月4日(日)
昨日から、映画美学校にて、青山が製作中の高崎映画祭用のビデオ編集を手伝っている。
昨日は、青山のシナリオを元に、美学校の学生たちが構成・編集した3つのヴァージョンを見る。
どれもかなり面白いのだが、しかしどれも、ナレーションをやっている万田さんの勝ち、という感じ。
映像は添え物である。
あのナレーションに拮抗する映像を作るのは、無茶苦茶大変なことだ。
というプレッシャーの中、青山編集が始まる。
撮影した素材は学生たちのものと全部同じなので、青山が一体どのように仕上げるのか、学生たちにとってはいい勉強かつ刺激になるだろう。
昨日はたりなかった音楽素材として、相談したわけでもないのだが、青山がディス・ヒート、私がチャールズ・ヘイワードのCDを持っていったのには笑ってしまった。
G4プラス・ファイナルカットを使っての作業は、何だかおもちゃで遊んでいるような感じもするが、慣れるとかなり使い勝手がいい。
本日は、約20分が仕上がる。
その中で何カ所か、会心の編集が。
少しの偶然と大いなる意図によって仕上がっていくその過程を体験していくのは、何ともすがすがしい。
こういう疲れはいい。
しかし、明日で完成させねば。
11月2日(金)
午後から試写に行こうと思っていたのだが、妙に眠い。
このところ1日おきに、起きていたり眠っていたりしているのだが、本日は睡眠の日ということか。
しかしソファに横になるといきなり映画を見に行った夢を見るのだから始末が悪い。
予告編では黒沢さんの新作をやっていた。
すでに海外進出したらしく、「アンディ」とか「ブラッディ」とかいう香港の監督みたいなニックネームがついて、しかしそれはそれで様になっているのでうらやましい。
そんなことに感心していてはいけない、本当に映画の一つも見なければと、一体何におびえているのかよく分からないのだが、子供とともにビデオレンタル店までしばし散歩。
先日見た「トゥームレイダー」のアンジェリーナ・ジョリーが巨乳を見せびらかすばかりで一度も脱がず、まるで肌に貼り付いたシャツこそが肌であるかのような、ほとんどCGと見分けのつかぬ感触で映されていたのが気にかかり、見逃していた「60セカンズ」を。
映画自体は特に何も言うことはなかったが、「トゥームレイダー」のアンジェリーナ・ジョリーはやはりCGであった。
こちらの方が人間ぽくていいなあ、という変な感銘を受ける。
しかし、ジョン・ヴォイトの娘ということを今頃になって認識し、どうして「トゥームレイダー」なんかにヴォイトが出ているのかという謎が解ける。
だが、エレン・バーキンやミシェル・ファイファーやキム・ベイシンガーなどがある程度の年齢となってしまった今、アンジェリーナ・ジョリーにはそれなりの需要があると思えるのだが、何故に「トゥームレイダー」なのかという疑問はそのまま。
ミシェル・ファイファーにとっての「バットマンリターンズ」というにはあまりにつらい。
「ポワゾン」に期待しよう。
「60セカンズ」に関しては、こちらもまた特に言うこともなし。
「ワイルド・スピード」を先に見ているおかげで車のスピードアップのディテールがよく分かり、しかしこの映画だけ見ていても何のことかこのカット割りではまるで分からないだろうなあ、とか、そんな程度。
それより、おまけ映像のビデオクリップが泣かせる。
映画には使われなかった曲だが(多分)、「カルト」が歌っている。
80年代後半のロックシーンではそれなりの知名度もあった彼らだが、まだやっていたとは。
一部の音楽誌では、90年代のロックの担い手のような評価をもされていたが、とてもそれほどの器ではなかった。
そのことはこの10年間の彼らの活動がはっきりと物語っているのだが、とはいえこのクリップには、まるで自らの器より大きな期待を未だに背負い続けているかのような、目の前の現実とはまるで違う何かに向かって歌っている彼らの姿があった。
まあ、ただそれだけのことなのだが、いや、生きていくのは大変だと、妙に感銘を受けたという次第。
先日映画美学校で手渡されたビデオに収録されている美学校製作の作品「蘇州の猫」「明るい部屋」という2本の短編の登場人物たちもまた、目の前にいる誰かというより、そこにいない誰かに向かって話しかけている。
こちらはともに、その「誰か」が画面にも登場するのだが、もちろんそれはとりあえずの「誰か」でしかないだろう。
「蘇州の猫」では、ダニエル・シュミットばりの歌のシーンに思わずのけぞる。
手渡されたビデオのタイトルを見たときに、すぐに思い浮かんだのがこの曲だったのだが。
50年代以降、つまり、ハリウッドのスタジオシステムの崩壊以降、映画は常に音楽の語る3分間の物語に嫉妬し続けているように思う。
自らはもはや背負いきれなくなった何かに、この映画もまた、カルトとは別のやり方で、そしてもちろん近年のビデオクリップ・ディレクターともまったく別のやり方で立ち向かっているように思えた。
「明るい部屋」では、散髪シーンが気に入った。
先日見た「ハッシュ」に足りなかったのは、このようなシーンである。
冒頭の、手前に濃紺のコーヒーの自動販売機があり、その向こうに踏切があり、そしてその向こうに赤い屋根の家があるという構図の中を赤いランドセルの少女が歩いていく、という画面設計が、この映画の物語すべてを語っているようにも思えるのだが……。