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2001年 boid日記 7月

Text by 樋口泰人

7月29日(日)

土曜日は午後から青山とPhewビデオの編集作業。
「カオスの縁」の時はシンプルな編集をやったのであまり気にならなかったのだが、今回は2台のカメラで撮影したものを4つのトラックに置いてオーバーラップさせて繋いでみた。
こうなってくると、さすがに我が家のMacintoshではパワー不足である。
数分のレンダリングに2時間近くかかってしまう。
2ヶ月ほど前に見たカノープスのキャプチャー・ボードのデモンストレーションでは、12万円ほどのそのボードをWindowsマシンに入れれば、スタジオでやるのと全く同じリアルタイムでエフェクト処理があっさりと出来ていた。
それを見てしまっているだけに、この遅さが気になって仕方がない。
マックでも、リアルタイム・エフェクトが出来るボードが出ているし、やはりいよいよ購入に踏み切るべきか。
しかし新作でDV撮影を行ったゴダールが、インタビューで、「DVの技術者は圧縮技術のことばかり気にかけている」とぶつぶつ文句を言っていたことを思い出す。
気にしなければならないことは、もっと他にあるのだ。
だがやはり、これだけ遅いとやりにくいことも確かだ。
慣れの問題もあるのだろうが。

夜、「アイズ・ワイド・シャット」。
映画が始まる前に、「この映画のサイズは監督の遺志によるものです」というコメントが出る。
どんなサイズで始まるのかと思ったら、スタンダードである。
しかもこれが妙にしっくりきている。
画面の手前にあるものと奥にあるものとの関係が作り出す世界の姿が、非常にわかりやすく見えてくるのだ。
何のことはない、映画館では上映設備の問題でスタンダードサイズに出来なかったので、せめてビデオやDVDではオリジナルサイズに戻したということなのだろう。
キューブリックはスタンダードを念頭に置いて、この映画を作ったのだ。
おそらく。
おお、劇場で見たときの妙な違和感は、このためだったのかと納得。
まあそれも、これを見たから言えることではあるが。
しかしこうなってくると、「劇場で」「フィルムで」映画を見るということはどういうことなのか、あらためて考え直さざるを得なくなる。
もちろん、映画が監督の想定通りに上映されたことなどかつて1度もなかったはずだと言うことも出来るわけだから、劇場に映画を見に行くと言うことは「予定外」の映画を見に行くということなのだと言ってしまってもいい。
それは「インディヴィジュアル・プロジェクション」でも高らかに宣言されていたことでもある。
一方イメージとしてのキューブリックは、そういった例外を認めない完全主義者であり、いよいよ始まるネット配信による劇場上映に加担する中央集権主義者ということになる。
だがこの映画を見ると、そういったキューブリック的イメージとは微妙にずれた位置に、キューブリックはいるように思える。
完全であることと例外が入り込むこととが矛盾しない地平といえばいいだろうか。
そこでは完全さを求めるが故に例外的なものが生まれたのではなく、完全であることは例外が入り込むことでもあるのだ。
それはこの映画の二つの世界の関係にも表されている。
その関係を示すために、スタンダードサイズが必要だったのではないか?
そんなキューブリックの示した世界はもはや前提であるところから、「インディヴィジュアル」の作者による「ニッポニア・ニッポン」は始まっている。

7月27日(金)

青山にあるLAPIN ET HALOTというギャラリーとライヴスペースとが合体したような(こういう場所を今は何というのだろうか)ところで、大友良英さんと木村タカヒロさんの音楽とアクションペインティングのイヴェントがあり、その後で、私と青山・大友でトーク。
大友さんが「路地へ」に曲を提供したこと、木村さんが「路地へ」のために中上健次のイラストを描いたこともあって、トークのお題は「中上健次のレコード棚」。
青山が中上を念頭に置いてCDを選曲し、それに関して我々があれやこれや言うという企画だったのだが、その中でかけたデヴィッド・トーマスによるビーチ・ボーイズのカヴァー「サーフズ・アップ」がやたらと評判がよく、トーク終了後から何人もの人から「あのミュージシャンの名前を教えてくれ」と言われる。
大友さんも、トークの最中に「いやあ、いい曲ですねえ」と感嘆していて、ペル・ユビュがデヴューしてから20数年間聞き続けてきた私としては、おお、こんなこともあるのかと、うれしい限り。
3年前の来日時は、オンエア・イースト数10人だったのだ。
あのライヴを見て以来、いつかデヴィッド・トーマスのビデオを撮るのだと言い続けているのだが、こうやって音を聞いてもらえばそれなりの反応が返ってくるということは、まだまだ私たちの声が、聴けば分かってもらえる人に届いていないかということを思い知らされた次第。
なんか、あまりしつこく言うのも大人げないと、つい、遠慮していたのだ。
青山と、これからはデヴィさん、ガンガンあちこちで言いふらそうと誓いを立てる。
こういうラジオのDJみたいなことも、機会があったらやって行かねばとも。

その後の打ち上げで、大友さんは実はデヴィさんに会ったことがある、ということを思い出す。
クリーヴランドでライヴをしたときに、見に来てくれたらしい。
その時は、どこかの会社の名詞みたいなものをくれたのだとか。
当時、普段は普通に働いていたのでは、というのが大友説。
現在は、オハイオではなくブライトン(ロンドンから南に1時間程度の海辺の町)に住んでいることは、カトラーさんから教えてもらった。
来日ライヴの時もウィスキーを飲み続けていたので、カトラーさんにデヴィさんはいつも飲んでいるのかと尋ねたら、「酒飲みだよ」と言ってニヤッと笑うばかりであった。
あの笑いは何を意味しているのか。

同じ席で、青山が、向こう側に座っていた男性を紹介してくれる。
「松田広子さんと高校の時に同級生だった人だ」と言われ、話をはじめると、あれ、この人はどこかで会ったことがある。
名前を尋ねたらやはりそうだ。
松田嬢がまだ大学生だった頃か、卒業したばかりの頃か、とにかく10数年前に紹介され、その後も何度か、松田嬢の口から噂を聞いていたのだ。
不思議なことがあるものだと昔話になったら、今度は大友さんが、80年代に私が雇われ店長のようなことをしていた高円寺のレンタルレコード店にせっせと通っていたということが判明。
場所が高円寺でなおかつ普通の店では置いていないレコードをメインに集めていたので、当然ミュージシャンの客が大勢いたのだが、まさか大友さんもそうだったとは……。
別に恥ずかしいことは何もしていないのだが、何だか、妙に恥ずかしくなる。
不思議な日があるものだ。

7月24日(火)

日曜日から月曜日にかけて、子連れで海へ。
普段ほとんど外に出ていないため、これまで海に行ってひどい目に遭わなかったためしがない。
さすがにもうそんなことでひどい目に遭っている余裕はどこにもないので、今回は思い切り用心して出来る限り日差しを避けていた。
どうしてそんなにまでして海へ? というと、海に行かなければ連休は学童保育の主宰する親子キャンプに出席する羽目になっていたのだ。
人嫌いアウトドア嫌いの私にとって、小学校や学童保育が次々に仕掛けてくるイヴェントは、本当につらい。
あ~あ。

見逃していた「アンドリュー NDR114」を見る。
同じロボットものということもあり、「A.I.」との比較の意味もあった。
「ホーム・アローン」のクリス・コロンバス監督作品なのだが、ポイントは脚本家のニコラス・カザンである。
アメリカとアメリカ映画の歴史を見渡す視点をロボットの視点に重ね合わせ、また、主人公の一家にやってきたロボットが自分の役割を説明するときいきなり3D映像を投射しはじめるという冒頭のエピソードによって、そのロボットが「見る=撮影する」者であると同時に映写する者でもあることを見せる。
そしてさらには、ロボット自らが自分の身体を改造・変容させていくという編集機能も持つという、まさに映画そのものとしてのロボットというこの設定は、監督の力というより脚本家の力によるものだと思えるからだ。
その設定を受けて言えば、ロボットが限りなく人間に近づき、ついに死をも迎えてしまうところで人間たちがようやくそのロボットを人間と認めるところで終わるその物語は、映画が限りなく現実に近づいてその境界線がなくなったところで映画は死ぬ、というふうにも言い換えられる。
この映画のロボットの視点とは、そんな映画の死の視点であるとも言えるだろうか。
そこから現在を振り返る、というのがその視線の向きである。
つまり、死によって世界は閉じられてしまう。
それに比べると「A.I.」は、その後の映画ということになるだろう。
何しろ人間が絶滅した後にも、ロボットは生き残るのだから。
すでに人間がいなくなった地球の上で、それでも撮影・編集・上映される映画。
それがスピルバーグの目指す映画なのだろうか。

しかし、どちらにしても、私のところにもロボットがやってきたらやってもらいたいことは山ほどあるのだが。
その山ほどの仕事その他にうんざりしながら、まあ、とにかく昼食でもと出かけたお気に入りの近所の洋食屋で、またもや脚本家Tさんと遭遇。
この日記にTさんのことを書いてから2週間ほどたったのだが、その間に2度遭遇していて、本日で3度目である。
これはもはや偶然を越えている。
あまりのことに、つい声をかけてしまう。
やはり本人であった。
当たり前である。

7月18日(水)

月曜日は「ブリジット・ジョーンズの日記」という映画を見た。
例の大ベストセラーの映画化である。
舞台挨拶では、主演のレニー・ゼルウィガーが30分以上の大遅刻。
ライヴなどで待たされるのは特に気にならないが、さすがに試写でこれだけ待たされるのはなんだかちょっとあっけにとられる。
内容はというと、もうこの10年ほどテレビドラマというものを見ていない私だが、江角マキコさんとかがやっているOLものの一部を見ているような気がした。
なんと言ったらいいかよく分からないのだが、例えば同じ女性監督でも、ジョディ・フォスターが監督していたら、全く違う味わいを持つ映画になったと思う。
ただ、何かバラエティ番組の映画のパロディを見ているような男たちの殴り合いのシーンを見ていると、これまで我々が見てきた映画の中の力感あふれる殴り合いは、彼女たちの目から見たらこのような滑稽きわまりないものに見えたのだろうという気分になる。
その意味ではこれはパロディではなく、単にそう見えたものを見えたように写している、ということになる。
その野心のなさというか、世界に対するおびえのなさが、この映画を見る人をどこかで安心させるのではないかと思った。
テレビドラマみたい、という感想は、この意味においてである。
映画は常に、例えばどんなにつまらない映画でも、カメラの向こう側にあるものに対してある種のおびえを持っていたように思う。
それが映画をおもしろくさせたりつまらなくさせてきたはずである。
だがこの「ブリジット・ジョーンズの日記」には、外側がなく、すべてのものが内側にある。
それが「日記」の世界というということなのだろうか。
これは例えば「MEMENTO」や「CUBE」「エレベーター」「ファイト・クラブ」「マトリックス」などなどのもつある種の閉塞感と地続きの、奇妙に明るい開放感といってもいいのかもしれない。
「ありのままの君が好きだ」というこの映画のキーワードは、「トゥルーマン・ショー」のドームの中に立てられた見せかけの自然のようなものだろう。
しかし、映画の中で何度も繰り返し流れるヴァン・モリソン「Someone like you」。
ヴァン・モリソンは、「プリティ・ウーマン」といい、この手の映画には欠かせないアイテムとなった。

アモス・ギタイの「キプールの記憶」という映画も見た。
ギタイ若き日の戦争体験の記憶を元にしたフィクションで、そこがイスラエルであるということもあって、そこに描かれるさまざまな描写が普段我々が映画の中で見る戦争の描写と違えば違うほど、これこそ真の戦争の姿なのだと感じる。
まるで本物の戦争を初めて見るような感覚に襲われるのだが、一方でこれもまたフィクションであるのだという意識がもたらす違和感も絶えず貼り付いている。
つまり、それがそうではないもう一つ別の可能性に向けて、この映画は絶えず見るものの心を開いていく。
冒頭から、町を走る車の音が戦場の戦車やヘリコプターと同じレベルで聞こえてくる。
また、4人の男たちが担架に乗せた怪我人を担いで苦闘する泥濘のペチャペチャという彼らの進行を妨げ続ける音もまた、同じレベルで聞こえてくる。
おそらくそれらの音は皆、それがそうではなかったという可能性の向こう側から聞こえてくる音なのだ。
映画の前半に、若き日のギタイである主人公が、ヘリコプターに乗って戦場を見下ろすショットがある。
いったい地上にはどんな風景が広がっているのか、見せぬまま、じっと主人公の横顔が映され続ける。
主人公はそのショットの中で、明らかに何らかの感情を湧き上がらせ、表情も変えるのだが、結局地上は移されぬまま、別のエピソードが始まってしまう。
ただ、映画の最後の方に、このショットに対する遅れてきた切り返しショットが現れる。
ゴラン高原なのだろうか、人影もない戦場がヘリコプターによる空撮でかなりの時間映される。
そこに映っているのは、人影もなく戦車の轍だけが残る泥沼の高原の風景である。
人間も神もいない風景といったらいいだろうか。
ハーモニー・コリンの「ガンモ」にも、このような風景が映っていたように思う。
神に見放されたと感じたときはじめて人間は十字架の上のキリストに同化できるのだと、スラヴォイ・ジジェクが書いていたように思うのだが、「キプールの記憶」では、そのような「同化」は行われない。
ギタイはキリストの代わりに、まるで神の視線のごとく高原を見下ろしていたヘリコプターに向かっての突然のミサイル攻撃を用意するのである。
信仰とは別の、可能性としての生きる道を、この映画は傷だらけの兵士の姿として映し出したように思えた。

今日はマーロン・ブランド、ロバート・デニーロ、エドワード・ノートンという3世代のハリウッド・スター共演による「スコア」を見た。
一瞬イーストウッドの「目撃」かとも思えるようなスタートに、ちょっとハラハラするが、後は取り立てて言うこともなし。
ちょっとおもしろかったのは、金庫破りのデニーロが地下倉庫に保管されている秘宝を盗み出すとき、監視カメラや赤外線探知機のような視覚的要素に関しては徹底して繊細な対処を行うのに対し、音に関しては全く無頓着なことだ。
ガチャガチャとさまざまな器具を金網にぶつけ、おまけに金庫を爆破しさえする。
もちろんそこが地下室で、監視カメラは音までは拾わないという設定上当然のことなのだが、例えば「ミッション:インポッシブル」のように、保管場所を徹底して厳重な警戒下に設定してもよかったはずなのだ。
つまり、この映画は現代的な徹底して精密な設定を敢えて避け、昔ながらアクションを、クライマックスにしようとしたのである。
その時我々は、俳優が流す汗の一粒が警報機を作動させるかどうかにハラハラするのではなく、人間が汗を流すという状況そのものにハラハラする。
そういうものが映画だったのではないかと、この映画の作者たちは確信しているはずだ。
帰り道、地下鉄の駅の階段付近に思い切りの人だかり。
何が起こったのかと思ったら、信じられないような雨。
階段下まで、ガンガン吹き込んでくる。
昨年、清里に行ったとき、このようなものすごい雨に遭遇したが、こんなとんでもない雨が東京で降るとは……。
駅の隣のスーパーに走り込むだけで、ずぶ濡れになってしまう。
地球の温暖化は、テレビなどで報道されている以上に深刻なのではないかと、真剣に思った。

7月13日(金)

エアコンが悲鳴を上げている。
この暑さはいったいなんだ。
隣の小池さんちではエアコンが壊れてあたふたしている。
そりゃ壊れもするか。

ウディ・アレン「おいしい生活」を見る。
「おいしい生活」と聞いてパルコを思い浮かべる人は、今の大学生でどれくらいいるのだろうか。
80年代バブルを知る人間にしか分からないこのタイトルをわざわざつけるということは、配給・宣伝会社も30代以上の観客を期待してのことなのだろうか。
まあ、ウディ・アレン自身がもう60代後半なわけだからそうそう若者受けがねらえるとも思えないし。
この映画でも、いつもながらの音楽をはじめ物語の構成、演出、などなど、さまざまなところでクラシックへの回帰が目に付く。
前作「ギター弾きの恋」から、カメラマンが変わった(チャン・イーモウやチェン・カイコーのカメラをやったチャオ・フェイ)ということもあるのかもしれない。
というより、そのためにカメラマンを変えたのだと言った方がいいだろう。
だとするとそれが単なる回帰なのか何かの始まりなのかは気になるところなのだが、とりあえずこれを見る限り、ちょっとよく分からない。
その分かり難さが、ウディ・アレンの新局面という感じもする。
しかしそれにしてもトレーシー・ウルマン。
基本的に俳優の顔を覚えるのは全く苦手な私だが、またもやだまされてしまった。
でも、普通の人は一目で分かるのか……。

7月12日(木)

月に1,2回、どうにもこうにもならない日というのがある。
特に何があったわけでもないのに、とにかく全くだめなのだ。
何があったわけでもない故に、もう、徹底的に最低の気分である。
そんな日は、ひたすらその最低の気分に蹂躙され続けるしかない。
今日は暑さのせいにしておこう。

昨日は、『MEMENTO』という映画の監督、クリストファー・ノーランへのインタビューを行った。
『MEMENTO』は、発病以降の記憶がどんどんと消えていく前向性健忘という症状を持つ主人公が、自分がそうなった原因でもある妻の虐殺の復讐のため、ポラロイドカメラにメモを次々に残しながら記憶を記録することで犯人を追うという物語を、一応のメインストーリーとしては持っている。
ただ、彼が最終的な「殺し」をしてしまったところから時間をさかのぼりながら語られる時間構成、主観的な視線をカラーで、客観的な視線をモノクロで描くという画面構成、それから記憶喪失という特性のため、ブツンブツンと時間が確実にとぎれながら語られていくそのディジタルな感触などなど、複雑に絡み合う語りの技法は、『ユージュアル・サスペクツ』に例えられたり、あるいはまた、スティーヴン・ソダーバーグが絶賛したということからも、どこかソダーバーグの一時期の映画にもにて見えるし、『ファイト・クラブ』『マトリックス』『CUBE』などなど、近年のアメリカ映画の諸特徴をそのまま引き受けているようにも感じる。
それでいて、どこか『EUREKA』にも似た「最初の地点に戻るために前進する」というような進行の感覚があり、また、忘れても忘れても執拗に犯人を追い続ける主人公は『Helpless』の光石研のようでもあって、数日前この映画を見終わったあと青山にメールしたら、どうやらジム・オルークからも同じようなメールが来たのだという。
ただし、おなじようニシネスコで撮られていても『EUREKA』のような大きさはなく、まさに初期のソダーバーグのような「小さな」感触を得てしまうところもあって、インタビューも、いったいこの人は何をどこまで考えている人なのかを手探りする、というようなものとなった。
30分しかなかったということもあったのだけど。
クリストファー氏は、およそ「監督」という職業に就く人の風情からはかけ離れた風貌の持ち主であった。
同行した編集者のIさんなど、監督を目の前にして「監督さんはいついらっしゃるんですか?」とか言い出す始末。
要するにマネージャーとか事務所の人にしか見えないのである。
どこにもいそうで、しかしこういう場にだけはふさわしくないような、妙に「普通」な感じの人であった。
インタビューをしていて、『ユージュアル・サスペクツ』にしろソダーバーグの映画や『ファイト・クラブ』『マトリックス』、それから『EUREKA』にしろ、どの映画の名前を挙げてもどこか頷きつつどこかでいや違う違うと思っていた引っかかりが、最後の最後でようやく解けた。
語りの技法にばかり目がいってすっかり惑わされていたのだが、何のことはない『トゥルーマン・ショー』だったのだ、これは。
そしてその仮想の「父」との戦いを、「父」を殺してしまった後から語るところがこの映画のポイントであった。
『EUREKA』がその後の風景をいかにフィルムに収めるかということに終始することで次第に怪物的な様相を帯びていったのに対し、こちらは、それ以前の風景をいかに見せるかに終始して、その出来が映画の善し悪しを決めるのだという気配さえ漂う。
それが、アメリカで映画を作ることなのか、ある種の「映画」との折り合いの付け方が、もちろん映画とはそのようにしてしか作られないものではあるものの、どこか腑に落ちなさを感じてしまう。
それが、あれやこれや話題になっている今のアメリカ映画の若手の映画一般に対する大まかな私の感触である。
ソダーバーグ、ザイリアンなど何人かは、折り合いをつけつつどこかで確実に一歩踏みはずしている、その踏みはずし方が、意識的でもあり、何かにせっつかれてでもいるようでもあり。
その意識と無意識が出会う場所、まさにこの映画の主人公のような状態で、ソダーバーグやザイリアンは映画を撮っているように思えるのだが、クリストファーさんは未だちょっと分からない。
いつか大きな映画を撮りそうな感じもする。

ところで岩村は、その後2試合を欠場した。
どうやら手首を痛めたらしい。
さすがに若松は優しいから、ツネオやジャイアンみたいに、のび太が泣いてもかまわず連れ出すようなことは出来ないだろうなあ。
今日の第3戦も、のび太がいたら1,2回でヤクルトが勝負を決めていただろうなあと、これでまあよくも大リーグだと言えるもんだとあきれる石井一久の投球に腹を立てながら思った。
石井は3年ほど前に比べて明らかに球威が落ちている。

7月10日(火)

近所にカレー屋ができた。
とりあえず、本格的なインドカレーのレストランである。
新高円寺駅のそばにあったカレーレストランは開業半年でつぶれてしまい、寂しい思いをしたのだが、こちらはどうだろうか。
腰の低い、いかにも商売人といった風情のインド人のオーナーが先頭に立って店を仕切っている。
店員のインド人たちもオーナーのしつけ通り、丁寧な対応をしてくれるのだが、彼らがまだなれていないためか、あるいは彼らの日本語がまだまだつたないためか、彼らに対応されているうちにこちらまで緊張してしまう。
1週間ぶりにランチを食べに入ると、入り口付近のテーブルに怪しい人影。
と書けば、私から話を聞いている何人かの人はすぐにぴんとくるはずなのだが、そう、脚本家のTさんがおもむろに食事をしている。
私はTさんとはこれまで何度も出会う機会があったはずなのに、面と向かって挨拶もしたことがなく、「それもまた縁」と思っていたのだが、3年前にここに引っ越してから、付近でやたらとすれ違うのである。
どうやらTさんもこのあたりの住人らしい。
初めは私の見間違いか人違いだと思っていたのだが、どうもそうではない。
目の前に現れるより先にその存在を感じさせてしまうあの独特の雰囲気。
間違いはない。
そうはいっても、Tさんは私のことを認識しているのかどうかも定かではなく、道でいきなり呼びかけても驚かれるだけだろうし、いつもドキドキしながらすれ違っているのである。
しかし、それがまた、よく出会う。
行動パターンがにているのだろうか。
いや、会社にも行かずふらふらと働いている人間のすることといったらだいたいこのようなものだ、出会ったことに意味を見出すのはそれこそ意味のないことだと思うものの、やはりこれだけ何度も出会うといったいこれは何なのかと疑いたくもなろうというものだ。
隣に住んでいる人ならともかく、こんなに同じ人と町なかで出会っていいものだろうか。
Tさん以外で、これほどよく出会う人は、私の記憶にはない。
そこら辺を歩いている人はみんな知らない人だから、何度すれ違っても忘れているだけなのだろうか。
よく分からない。
しかしこのカレー屋でまでとは。
いくら何でもここは私のテリトリーである。
家から距離にして100メートルもない。
こんな場所にまで出現するとは。
恐るべしTさん。
もちろん今日も私は声をかけ損ない、落ち着かぬ気分のままカレーを食することになった。
ここのカレーはそれなりにうまい。

夜のクライマックスは岩村であった。
4チャンネルの野球中継が終わった後のリレーナイター。
誰もがヤクルトの完勝を疑いもしなかった9回裏。
2点差の2アウト3塁で3番輪島が、全然調子のでない高津のおそらくシンカーを引っかけてぼてぼてのサードゴロ。
おおこれで終わり終わり、明日は上原をどう攻略するかだなと、もはや心は明日に向かった瞬間、岩村のグラブからするりとボールが。
これだけならただのエラーなのだが、この後の岩村。
今にも泣き出さんばかりの顔つきで、高津に謝っている。
泣くな岩村。
でもほんとに泣いてたみたいで、松井ヒットでサヨナラのピンチになった後の清原がまたサードゴロ。
もう見てられない。
本人もそう思ってたのではないか。
ボールがどこにきているのか、涙に隠れてまるで見えず。
ジャイアンに無理矢理野球をやらされているのび太のような、もうすぐその場から逃げたくてたまらないのにボールが飛んできてしまってどうしようと泣いてるうちに、ドラえもんがボールをグラブに入れてくれてワーイ助かった、とまあ、そんな思い切り頼りない姿に、球場全体が、どこかにいるはずのドラえもんを探したのだった。

7月日9(月)

すっかり日記をさぼってしまっていた。
この間、CD-ROM版「恐怖の映画史」や「EUREKA Special」、それにPhewさんのビデオの製作のための事務作業その他で、すっかり忙殺されていたのだ。
しかし、ちょっとあれやこれややろうとすると、そのために発生する付加事項があまりに多すぎる。
ものを作るのではなく、売るということの大変さと難しさを、あらためて思い知ったという次第。
しかしまあ、いわゆる社会人と呼ばれる大多数の人々はこのような雑務にもっぱら関わっているわけだから、この程度で音を上げるなんてなんて大人げない、ということになるのだろう。
ただどう考えても、こういった諸雑務のあり方が、もはや個人商店の手に負えないほどの経費と時間がかかるものになってしまっているのだ。
こうやればもっといいものになるのに、こうやるためにはこうしなくてはならずそのためにはまたこうもしなくてもならないと、どんどんと作業が横滑りしていく。
結局力つきて、何もしないでいるのが身のため、ということに落ち着くのである。
まあ、怠惰の固まりみたいな私の言葉なので話半分に受け取ってもらっていいのだが、それにしても世間のシステムは誰もが勤勉で資金もあり技術も身につけているということを前提にして動いているわけで、もちろん誰もそんな「前提」など信じてはいないのは承知の上で、「無理をしろ」と誰かがどこかで号令をかけているようなものだ。
その「誰か」が、実は自分であったりするところがこの「システム」の恐ろしいところなのだ。
まあ、そんなことをぐずぐず考えていてもことは進まず、事を進めようとすると無理しなければならない、というわけで、「EUREKA Special」は、予告した定価を引き上げることにした。
予告では1300円で代引き料金込みだったが、1500円で代引き料金別。
こういった値段設定にはいつも困ってしまう。
どれくらい設けたいか、という商売上の野心がある場合はその目標額からさまざまなことを決めていくこともできるのかもしれないのだが……。
とにかくそれやこれやしているうちに、「恐怖の映画史 part1」が、何とか発売にこぎ着けた。
CD-ROMの場合紙媒体と違い、読む人それぞれのパソコン環境によって、思わぬトラブルが起きる可能性もある。
今回使用した「T-Time」というソフトは、本を読むような感覚でテキストを読むことができるソフトで、使ってみると本当に読みやすく、これならパソコンでも長い文章が平気で読める。
だがその作動にはQuickTimeが必須であるため、標準でQuickTimeがインストールされているマック・ユーザーは問題ないにしても、WindowsユーザーはT-Timeの前にQuickTimeをインストールしなければならない。
ここで、たいていの人が躓いてしまう。
一昨日も、黒沢さんから「QuickTimeは前にインストールしてあって、プログラム・ファイルの中にも入っているのだが、T-Timeをインストールして開こうとすると「初期化できません」というメッセージが出てしまう」という報告が寄せられた。
こういったとき、新しいQuickTimeをダウンロードしてやり直してみるしかないのだが、アップルが公開したQuickTimeの最新ヴァージョンはやたらと重くて、ダウンロードに思い切り時間がかかる。
こういった負担を、このCD-ROMを買ってくれた人にかけるべきなのか?
それをさけるためには、CD-ROMの中にQuickTimeのインストーラを付属しておけばいいのだが、そのためにはアップルとあきれるような契約書を買わさなければならない。
こういったソフトの販売自体を商売にしている会社ならそのような作業に時間を割くこともできるのだろうが、こちらはたった一人であれやこれややっているのである。
ならば、無許可でCD-ROMの中に入れてしまおうか、どうせ自主制作だし。
とまあ、短気の虫がムラムラと沸き立ってきたのだが、まあ、さすがに。
ただ、Windowsユーザーで、QuickTimeのダウンロードがどうにもこうにも、という方は相談に乗ります。
ご注文の際にその旨を書き添えておいてください。