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2001年 boid日記 6月

Text by 樋口泰人

6月18日(月)

スピルバーグの新作「A.I.」を見に行く。
なんと朝8時30分からの試写。
しかも予約制。
予約の案内状が来たときには、「8時30分」という数字だけを見て、何も考えず夜だと思っていたのだが、その後やってきた試写上を見てびっくり。
しかし今更断るわけにも行かない。
それに朝8時30分といえば世間は立派に動いている。
私の子供もすでに授業は始まっている頃だ。
電車だって思い切り混んでいる。
分かってはいるが、無茶は無茶である。
さらに昨夜から体調は最悪。
起きていることもできず眠ることもできないような状態。
ようやく劇場にたどり着くと、ロビーにいた水原文人君から「思い切り顔色悪いですよ」といきなり言われてしまう。
そうなのだ。
A.I.には、こういった「気分の悪さ」というのは認識できるのだろうか?
しかし、キューブリックが作ろうとしていたこの映画をスピルバーグが引き継いだと聞いたときには、確か、地球の天候を管理するシステムが反乱を起こしてどうのこうのという「2001年」的な物語がメインになると、どこかで読んだはずなのだが(まあ、例によって大いなる勘違いかもしれないが)、スピルバーグ版は「その後」の物語であった。
いきなり「世界の終わり」からこの映画はスタートする。
しかも、物語の後半で、なんと一気に2000年の年月が過ぎ去ってしまう。
なおかつその物語がナレーションで締めくくられるのである。
2000年の年月を貫くこの視線とは、いったい誰の視線なのか?
また、主人公の家の内部が妙に日本的で、欄間まであるので、これは「A.I.」の前に日本で撮るはずだった芸者が主人公の映画の(今も企画は続行中らしいが)名残かと思っていたのだが、この家の内部が、A.I.の記憶として再び2000年後に登場するとき、それが2000年の年月を貫く視線の主とともにあることが分かる。
これをこの映画のの「故郷」と言ってしまったら、あまりに安易すぎるだろうが、アーティフィシャルなものに対するオーガニックなものをいかに見せるかということに関して、スピルバーグはあくまでも「見せる」ことにこだわりつつ、相変わらず堂々と様々な試みをしている。
スピルバーグのA.I.は、漠然とした不安や気分の悪さのようなことをあからさまにしはしないが、そのナレーションの主は、そんな漠然としたものの中にあるように思えた。

帰りに、PC周辺をさらに強化するためソフマップへ。
ふと見ると、DVDソフトが1800円で売られている。
CDよりやすいとなるとさすがに手が出てしまう。
アベル・フェラーラ「ボディ・スナッチャーズ」。
そのうち見よう。

6月14日(木)

スタローンがインディカー・ドライバーを演じると聞いて、やはりこれは見ておかなくてはと、監督レニー・ハーリンには目をつぶり、「ドリヴン」の試写。
スタローンはもはや主役ではなく、チーム・オーナーのバート・レイノルズとともに若者たちを支える陰の人であった。
かつて大事故に遭い、田舎に引っ込んでいたところを、チームのスターを育てようというレイノルズの思惑の元、教育係としてレーサー復活を果たすという役柄だけでなく、なにしろレーサーなので座っているだけである。
レース中に大事故が起きて若者たちが同僚を助けにいくときも、本来ならそこでこそスタローンの力業の見せ場のはずなのだが、スタローンはほとんど何もしない。
CGの時代になって、アクションスターが何もしなくてもアクション映画が作れるようになってしまったことを自ら体現しようとでもしているのだろうか。
裸にもならない。
傷も負わない。
その代わりに、レースカーだけが何度も宙を舞い、転げ、傷つき、大破する。
この映画でのアクションスターは、スタローンではなく、レースカーなのだ。
したがってこの映画には、前に進めば進むほど元に戻ってしまう周回コースでのカーレースの退屈はない。
しかし、子供が生まれて以来の忙しさの中で、その退屈を味わうことを忘れてすでに久しいが、フィッツパルディやポール・トレーシー、アンドレッティなど実名があげられるインディーレーサーたちの顔ぶれが、かつて見ていた頃とまるで同じなのでちょっと笑ってしまった。
そこは競争社会の極のような場所でありつつ、しかしとんでもなく家族的な場所でもあるのだ。
あと、この映画にはバート・レイノルズをはじめ、何人か「負」の役割を背負って登場する人物たちがいるのだが、物語的には彼らがこの映画の鍵を握っている。
もう少し、彼が非情だったらと思わざるを得ない。
もはや彼ら自身にさえコントロール不能な何かに突き動かされる「負」の人々だったら……。
この点では、完全に、スティーヴン・ザイリアンやソダーバーグの勝ちである。

6月12日(火)

見ようと思いつつ延び延びになっていた「テルミン」。
楽器を演奏していると言うより、魔法でもかけているかのような、あの演奏の怪しさは一度見たら忘れられない。
この映画は、その世界一怪しい楽器「テルミン」を作ったテルミン博士に関するドキュメンタリーであった。
何を勘違いしていたのか、見るまではテルミン博士の物語をフィクションにした映画だと思っていたのだ。
しかしまあ、老人たちの話というのはほとんどドキュメンタリーとフィクションの境目がない。
これは「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」でも「トスカの接吻」でもほとんど同じ。
彼らの言葉以上にテルミンの怪しい響きが、その曖昧さの意味を雄弁に語っている。
さらに、ソ連のスパイでもあり、晩年は不老不死の研究をしていたというテルミン博士のいかがわしさは、どこかバロウズを思わせる風貌もあり、十分に説得力がある。
いかがわしさの説得力とはいかがなものかとも思うが、とにかくそれぞれ十分なキャラクターがここに揃ったということである。
その意味でも「ブエナビスタ」や「トスカ」と同じ。
などと思っていたら、ソ連から何十年かぶりでニューヨークにやってきたテルミン博士が町を歩くシーンは「ブエナビスタ」そのものであった。
ともにカーネギーホールでの演奏がメインテーマにもなっているし。
いったいこれはどういうことかと思うのだが、作られたのはこちらが先である。
ただし、老人たちの演奏を魔術的に見せるテクニックでは、ヴェンダースの方が上。
この映画で見る限り、テルミンの演奏はなぜか楽器の演奏に見える。
ベンヤミン的に言えばあらゆるものから「アウラ」を消す映画の機能がそうさせたのだということにもなるのかもしれないが、残念ながらここには、もう一つの映画の機能であるはずの科学的な視線が少し足りない。
魔術を科学する視線で、老人たちの怪しい指の動きをとらえてほしかった。
とはいえ、まるで口を曲げ体を揺らすことでようやく言葉が発せられ、しかしいったん出始めた言葉がとどめなくそこから流れ出るのを止めることもできないといった風情のブライアン・ウィルソンのインタビューは見事であった。
そのシーンの後、トッド・ラングレンが一瞬登場して、人間テルミンとなり、口真似でテルミンを演奏するのだが、このインタビューのブライアン・ウィルソンこそ人間テルミンそのもののようでもあった。
クレジットタイトルの終わり、映し出されたこの映画を捧げる3名ほどの人名の中に、ピーター・アイヴァースの名前があった。
70年代終わりには自殺してしまった、それほど人気があったわけでもない孤独なシンガー・ソングライターと、この映画はどんな関係があるのだろうか。
アイヴァースのレコードの中で、テルミンが使ってあったかどうか、記憶にない。
たまたま先週の土曜日に、荻野に貸してあったアイヴァースのレコードが3年ぶりくらいで戻ってきたのだが、もちろん我が家にプレイヤーはない。
そういえば、アイヴァースの何枚かのアルバムがついにCD化された。
久々にCDを買いに行ってみようかという気になる。
家に帰ると、学童保育所から連絡がきていて、子供が耳が痛いと言っているらしい。
すでに妻が病院に連れて行っている。
どうやら中耳炎らしい。
昨年から、滲出性中耳炎という通常の中耳炎とは別の、痛くもないし何ともないのだけど耳の聞こえだけがどんどん悪くなると言う、ちょうどこの頃の子供が罹りやすい中耳炎で耳鼻科通いをしていて、それがようやく後少しというところにまでなったのところで、今度は本物の中耳炎になってしまったのである。
またもや毎日の耳鼻科がよいが始まる。
せっかく行き始めた試写も、もはやこれまでか。

夜は、「チャーリーズ・エンジェル」。
長嶌からもフライング・リザーズの「マネー」が流れるとの情報あり。
本当に流れる。
ほんの少しだけど。
これはこれで良し。
ゲームもまた喜、というところだろうか。
先週末に見たアイヴァン・ライトマンの「エボルーション」がどこかノタノタしていて、「Xファイル」のパロディにも、ロバート・マキャモンの「スティンガー」にもなれず、パンツもおろして尻を車のフロントガラスにこすりつけまでしたデヴィッド・ドゥカブニーのがんばりに応えられなかったのとは、対照的でもある。
「エボルーション」にはダン・エイクロイド、「チャーリズ」にはビル・マーレーという二人のコメディアンの身の振り方も、どこか対照的だ。
映画的には負けだけれど、ダン・エイクロイドは「パールハーバー」も含め、着実にコメディアンのその後の人生を歩もうとしているようにも見える。
一方ビル・マーレーは、あくまでもコメディアンという表層を生きようとしているかのようだ。
「紐育ウロチョロ族」でテルミン演奏を披露するジェリー・ルイスに近いのは、ビル・マーレーということになるだろうか。
だが、「チャーリーズ・エンジェル」の白眉は、やはりメイキングである。
香港ワイヤー・アクションとハリウッドのCGテクノロジーの見事な融合。
もちろんここでもそれが科学的な視線によって撮られているわけではないが。
ただとにかく、このように多くの人と緻密な計算が必要な映画の製作の場合、監督には自らのビジョンをあらかじめ形にして伝える能力が要求されるだろう。
それは何かを作る作業と言うより、何かを作るシステムを作る作業といった方がいいようなものだと思う。
もちろんそれが「ゲーム」であるのだが。
ハーモニー・コリンやオヴァルは、そういった「ゲーム」の場に限りなく近づくことによってそこから身をはがそうとしているのだと思う。

6月10日(日)

妹の長男は今年武蔵野市の公立中学に入学したのだが、未だに宿題もないし、小学校に比べても遙かに楽な感じで授業をやっているらしい。
それが今の標準的な公立中学の指導方針だということなのだが、そのままの状態で授業を受けていては入りたい高校にも入れず、結局ほとんどの家庭が塾に通わせているのが現実である。
それも、3年生になってからでは塾が新規の入塾を受け付けてくれず、2年生までには塾に入れなければならない。
その塾の平均的な授業料というのが、月額1教科2万円なのだそうだ。
つまり高校受験のために塾通いをさせようとすると、月々10万円の費用がかかる。
それが支払える家庭とそうでない家庭とが当然出てきて、それにしたがって子供の成績にの格差も広がり、親は経済的心理的負担をめいっぱい背負わされることになる。
こんなことなら、多少授業料は高くても私立中学に通わせた方がましだったと妹は言う。
神戸の事件があったときに、新聞紙上で「私たちの頃は「寅さん」があったが今の子供たちにはそのような映画がない」と書いた寺脇研はいったいこういった事態についてどう考えているのだろう。

フランソワ・オゾンの「焼け石に水」を見る。
ファスビンダーの原作である。
19歳で書いた戯曲だということだが、この厳しい人間関係のドラマをどうやって19歳の若者が創り得たのか、途方に暮れる。
そりゃあ30代半ばで死ぬはずである。
ファスビンダー映画祭の実現を心から願う。
がんばれユーロスペース。
フランソワ・オゾンもがんばっている。
シナリオが書かれた時代ではなくその約10年後の70年代に時代を設定し(シナリオ自体にそれが書き込まれていたのだろうか、よくわからない。オゾン監督のインタビューでは、「ファスビンダーがどっぷり浸かったこの時代に対し誠実でありたいと思った」と語っているのだが)、しかし、その70年代的な風俗を徹底して画面から排除して、ただ、CDではなくレコードだということだけで、これがCD以前の時代の物語であることを聞かせるのだ。
その一方で、画面は徹底してクリアな輪郭を保っている。
レコードの時代をCDの時代が見つめる映画と言ってもいいだろうか。
ファスビンダーがかつて語った「あざとい仕掛けこそが、人物の真実へと引き込んでくれる」という劇作の原理に沿って、オゾン監督もまた、ファスビンダーの仕掛けの上にさらなる仕掛けをしたのだとも言える。
ただ問題は、ではそこから何が出てくるのか、ということである。
レコード盤に刻まれた凹凸を針が触知して、その信号を音に変換するレコードのシステムを、ぴかぴかのディスクの表面に焼き込まれた情報を光センサーが読みとって、音に変換していくCDのシステムが映し出すとき、そこには結果的にシニシズムが生まれてしまうのではないか。
レコードの時代にどこかに閉じこめられてしまうことと、CDの時代にどこかに閉じこめられてしまうことの差異について、この映画は無意識であるように思えた。

6月9日(土)

ようやく見られるようになったDVDの画面があまりにきれいなので、つい調子に乗ってスティーヴン・ソダーバーグの「エリン・ブロコビッチ」を見てしまい、寝たのは6時近く。
9時過ぎに安井君からの電話で起こされる。
この1週間ほど微熱が続き、映画美学校にもろくに出勤していないと言う。
したがって本日の「公開boid.net」はパス。
まあ今日は、青山・阿部の文豪対談ということで何とかなるだろうと、安井君とは話したのだが、何か悪い予感がして、11時頃稲川さんに電話を入れてみる。
稲川さん、出席OK。
そこへ某保険会社の営業ウーマンが二人。
現在私に掛けられている生命保険の毎月の支払額がさすがに負担になったので、半分くらいにしてもらう算段である。
しかし当然、保険会社としては支払金額はほぼ変わらず、保証がもっと増えるという代案を提示。
いや将来ではなくて今なのだと説明し、やめるか半分にするかどちらしかないことを改めて伝える。
「今」というのが、無理矢理買ったパソコン代金のことなのだとは、さすがに言えなかったが。
それにしても、ここにきてますます、老後の実感が希薄になっている。
先日も妻が、20年後の生活資金のシミュレーションを作り、妻はかなり愕然としていたのだが、私は「まあ、何が起こるかわからないしいまから心配しても」と繰り返すばかり。
だからよけいに妻も不安になるのだろう。
イヴェント会場のアテネフランセに出かけようとすると今度は阿部君から電話。
阿部君も、熱が出てしまったのだという。
boid関係者は皆、病弱である。
私に言われたくはないだろうが。
しかし、稲川さんに電話をしておいてよかった。
考えてみれば、「ロスト・イン・アメリカ」を作ったときも、結局何がもっとも大変だったかというと、全員のスケジュールあわせだったことを思い出す。
こういった突然の出来事は、私自身はそれほど気にはならないのだが、会場にきてくれた人には大変申し訳ない。
ただまあ、boidがやることは、そんなものなのだ。
今後もコントロールする気はさらさら無い。
会場は満員。
すでに公開済みの「ジュリアン」に、どれだけやってきてくれるか不安ではあったのだが、とりあえず安心。
トークは絶好調の稲川・青山が圧倒的なパス回し。
まるで、「ジュリアン」批判大会になってしまった感もあったのだが、これはハーモニー・コリンを認めた上でのことである。
現在のアメリカ映画における若手監督たちのミニマルかつマニアックな映画作りとははっきりと違う、歴史的視点と物語への欲望を持った彼を、何とか浮かび上がらせようとする試みだと思ってほしい。
トークの内容はテープおこしができ次第、今回は今までとは違う形で公開しようかとも思っている。
どうなるかは、ギリギリになるまでわからない。
打ち上げは、V2日記の余波もあって、野球話とアイドル話で盛り上がる。
家に帰ってネット上のスポーツ紙を見ると、どうやら清原3連発。
打ち上げ会場からすぐの場所でも、大いに盛り上がっていたのだった。

6月7日(木)

先週末からの子供の熱のため、ほとんど外出できなかったことや、すっかり弱ってしまったWindowsマシンの代わりがやってきたこともあり、この数日はほとんどお籠もり状態。
boidサイトの内容の配置がよくわからないと、多くの人に言われていたこともあって、この際思い切ってリニューアルしてみた。
予想以上に時間をとられてしまったが、まあ、ほとんど現実逃避の口実なので。
今日は昼からコーエン兄弟の「オー・ブラザー」かフランソワ・オゾンの「焼け石に水」(素晴らしいタイトル!)を見に行こうと思っていたのだが、見事にパス。
寝たのが、朝9時ではどうにもならない。
昼過ぎによろよろと起きあがり、ついに仕入れたDVDにて、ゼメキスの「ホワット・ライズ・ビニース」を再見。
ゼメキスがカメラを縦移動するときには、たいてい何かが起きる。
この映画は縦移動のオンパレードである。
初めて見たときに、何か、ゼメキスがいろんな実験をやっているように思えたのは、この縦移動の多さのためだったのかもしれない。
カメラを縦に動かし、そこで何を起こすか、どのように見せるか、何ができて何ができないか、そんなことばかりをやっているように見えたのだ。
再見して驚いたのは、ラストシーン近くの橋の上の車の移動の空中撮影。
走る車の上方から、橋全体をとらえつつ次第に車に近寄っていくカメラが、そのまま車の中にまで入ってしまうのだ。
当然橋にはアーチ型の梁のようなものがあるので、カメラは車の中に入る前に、橋の「中」にも入らなければならず、つまり、2重に侵入しているわけである。
現在のCG技術を駆使すれば、それくらいもうなんでもないことなのかもしれないのだが。
しかしそれを、ここぞというところで、しかもあまりに当たり前のようにやるのでふつうに見ていたら何事もなかった風に見えてしまう、このゼメキスのやり口には、毎度あきれる。
「キャストアウェイ」が、どこかゼメキス的でない感じがしたのは、このような縦移動よりも、最初と最後のメンフィスの田舎の横移動が、あまりに印象に残ってしまうからなのかもしれない。

夜はサッカー日豪戦に後ろ髪を引かれつつ、半世紀以上前の日米戦。
子供らが遊んでいる野原の上を低空飛行のゼロ戦が爆音をたてて飛び抜けていく予告編が気になって、監督のマイケル・ベイには目をつむりつつ「パールハーバー」。
2時間だと思ったら3時間もある。
試写の入場チェックがやけに厳重だと思ったら、どうやらネットオークションで試写状が売買されていたのだという。
「買って」まで試写を見たい人というのは、どういう人なのか、気になる。
1ヶ月待てばロードショーが始まるわけだから、その1ヶ月が待てないということなのだろうか。
しかしネットオークションというところは、いろんなものが売られる。
先日も、篠崎から、「おかえり」だったか「忘れられぬ人々」だったかの試写用のプレスシートが1000円で売られていたという話を聞いた。
まあ、こういったことも、美術関係の売買に比べたらかわいいものだということなのかもしれない。
だがこの3時間は長い。
何か、一つ一つのエピソードを最初から最後まで描ききることができず、その不安が次々にさらなるエピソードを呼んで、終わるに終われなくなってしまったというような感じでもある。
「パールハーバー」という大風呂敷を広げた割に、内容は男女3人の関係の物語だったりするというそのバランスの悪さはそれはそれでいい。
堂々と、戦争に飲み込まれた3人の運命を描く大河ドラマにすればよかったのだ。
私は途中から、何度も「テイラー・ハックフォード」コールを、聞こえないように叫んでいた。
とはいえ、ハックフォードの最新作「プルーフ・オブ・ライフ」はすっかり見逃している。
というより、90年代の作品は一本も見ていないのだった。
だがやはり、ここはテイラー・ハックフォードだろう。
こういう物語を語らせたら、彼ほど堂々と泣かせまくれる人はいないのではないだろうか。
いや、「トラフィック」のソダーバーグなら、かなりいい線いくかもしれない。
しかしそれにしても、このハリウッドの物量と圧倒的なCG技術にはあきれるばかりである。
これを見せるために3時間が必要だったのかもしれない。
先日ようやく見た「インビジブル」が、「エイリアン」以降のアメリカ映画の語りのパターンを、見事に総括していたとすれば、「パールハーバー」は、「ジュラシックパーク」以降のアメリカ映画のCG技術の成果によって肥大した作品ということになるだろうか。
しかしまあ、それはそれでよし。
肥大するものは肥大するだけすればいい。
ただ、ポスターカラーで描いたような青い空をバックに主人公の一人、ケイト・ベッキンセールの顔が浮かび上がり、その口紅の赤がつやつやと輝くカットは、よかった。
あの唇を見たのは、スティーヴン・フリアーズの「ハイロー・カントリー」のパトリシア・アークェット以来だ。
ああそうそう、ジョン・ボイトが出ていた。
さすが。
何がさすがなのかは、見てのお楽しみ。