
2001年 boid日記 3月
Text by 樋口泰人
3月1日(木)
久々にカイエ・ジャポン編集会議。
といっても、まだ、次の版元が決まったわけではないので、次号の具体的な内容ではなく、カイエ・ジャポンの今後について。
boid.net の青山日記に刺激を受け、梅本さん、とにかく継続するのだという意思表明。
4月中旬くらいを目標に、新メンバーでの体制を作ることにする。
版元問題は、探すのではなく、いよいよ我々自身が版元になる、という方向へ移行する方針に転換。
それはそれですっきりしたのだが、その実現のための具体的な作業は、まだまだこれから。
現実的にその作業のことを考えると、結構途方にくれてしまうが、まあこれに関しては楽観的な態度で臨むのがいいだろう。
困ったら泣けばいいのだ。
帰宅後、子供をピアノ教室へ送り出し、夜は日比谷シャンテで『マイ・スウィート・ガイズ』。
アントニオ・バンデラス、ウディ・ハレルソンが、夢破れたボクサーに扮し、破れた夢の最後のひとかけらのために戦う。
監督は、ロン・シェルトンなので、当然これもまた、『さよならゲーム』や『ティン・カップ』のような、「挫折と再生」の物語を予想してしまうのだが、どうも様子が違う。
冒頭の空撮は相変わらずである。
記憶では、『ブレイズ』の冒頭、同じような空撮があって、そのバックにはランディ・ニューマンの「ルイジアナ1927」だったかが流れていたように思うのだが(例によってまったく別の映画だったかもしれないし、ランディ・ニューマンの別の曲だったかもしれない)、ここでも、同じようにランディ・ニューマンが流れてきてもまったく違和感のない、ラスヴェガスの風景である。
だが、主役の二人が登場すると、多くの人に共有されるだろう「アメリカ」の物語の様相は消え、二人の具体的な顔と言葉が徹底して羅列されていく。
まるで、M.O.P のラップのように、ひたすら騒がしく罵りあうふたりのやり取りだけが、そこにあるのだ。
ロサンゼルスからラスヴェガスへの試合会場まで、二人の元恋人とともに、二人はくるまで旅をするのだが、その車もオープンカーであるにもかかわらず、二人の背後のに流れる風景は、ピントがボケまくり、二人の顔だけが強調される。
徹底して二人の関係だけ、つまりリングの中だけが示されていくのである。
だから逆に、実際の試合中、二人の妄想が現れて、神様や裸の美女たちがリング内をうろうろしても、まあ、それはそうだろうと思えてしまう。
日本語タイトルは二人の元恋人から見た二人のイメージで作られているが、原題は「Play it the bone」である。
したがって、二人の口から飛び出す差別発言も徹底していて、さすがにドキドキする。
ただ、言っていることと行っていることとが違うという救いを、用意してはいるのだが。
そういったことをも含めた子供っぽさを今回は描こうという、ロン・シェルトンの大人な映画ではあった。
彼の映画で言えば、トミー・リー・ジョーンズが差別主義者で頑固者の引退した野球選手に扮した『タイ・カッブ』に近いのだが、ただ、「誰もが共有可能なアメリカ」のイメージだけがそこからすっぽりと欠落している。
そのあたりに、ウディ・ハレルソンを起用した意味があるように思えた。
3月2日(金)
ようやく、オリヴェイラの『クレーヴの奥方』を見る。
まったく予備知識がなかったため、というのは言い訳で、オリヴェイラの映画を見ると常に、慣れるまでにかなりの時間を要する。
そこに映っているのはよく知っているものであるはずなのに、まったく初めて見るものであるかのような、そんな状態に陥ってしまうのだ。
それに今回は、字幕から察するに、舞台設定は全部現代になっているものの、彼らがしゃべる言葉が、原作の書かれた17世紀のものとなっているのかもしれない。
その300年の落差をものともせず、ひとつの画面の中に収めてしまうオリヴェイラの力技にくらくらする。
あの、キアラ・マストロヤンニの常に見開かれた目は、300年の時をまっすぐに貫く視線によってもたらされたものではなかったか。
同じように見開かれた目は、ブリュノ・デュモンの『ユマニテ』にもあったように思うが、だがそこには、こともなげに300年を貫いてしまう強靭さが、足りなかったように思う。
とはいえ、どうやらポルトガルではかなりの人気者らしいミュージシャン、ペドロ・アブルニョーザという人(この映画にも本人の役で出演)の歌は、ちょっとさすがに……、何とも言葉がない。
映画の最初と最後が彼のライヴ・シーンなのだが、その風貌から言っても、松山千春と言ったら言い過ぎか……。
深夜3時過ぎ、寝ていた子供が突然起きてくる。
ベッドの中で吐いたのだと言う。
行ってみると、確かに。
しかしこれといって気分は悪くなさそうで、単に寝ぼけているだけだ。
いったい何がどうなったのかよくわからず、納得のいかないまま、しかしとにかく片付けをしなければならない。。
3月4日(日)
数年ぶりに、旧知の人々が遊びにくる。
中に占い師の友人がひとり。
3年程前までは、渋谷パルコの地下にある、占いコーナーで店を開いていたが、今はフリー。
久々に占ってもらうことにするが、本日は本格的な占いではなく、友人に「易」を伝授するための実験台である。
したがってこちらもついいい加減に、「何を占ってほしいか」と尋ねられて思わず「金運」と答えた、その不真面目さが尾を引くことになったのだが後の祭り。
8面体になったものがふたつともうひとつは通常の6面体の、合計3つのサイコロを振り、その出た目の組み合わせによって、運勢が決まる。
運勢の基本を決めるのが8面体のサイコロで、6面体のものはそのオプション。
つまり、8×8の64通りの運勢について分かっていれば、素人でもこの占いの基本はクリアーできる。
今日はその64通りが書かれた「易」の本を使っての実習となったのだが、私が振ったさいころの目の組み合わせのページを開くと、いきなり「訴」という字が冒頭にある。
いったいこれは何なのか。
いやな予感が胸をよぎる。
と、「これは争いごとですね」と、占い師。
書かれていることを読むと、どうやら、何かをしようとすると私の中の争いを好む何かが顔を出しろくなことにならないから何もするな、じっと待つがよい、ということである。
これまで、もっぱらネガティヴな運勢は口にされつづけてきて、そのために以前のホームページは「office reverse」の名前でやったりしたのだが、「争いを好む」というアグレッシヴな占いが出たのは初めてで、さすがに動揺する。
「いや、私は金運を尋ねたのであって、これは金運とどのような関係があるのか。実験台だからといって少しいい加減過ぎないか」と文句をいうと、「ほら、それが争いを好む証拠です」と占い師。
「いやいや、私は争いを好まないが、なんだかめちゃくちゃ巻き込まれたりするだけだ」と反論するのだが、「でもとにかく、何事も中庸にというのが肝心ですよ、樋口さん」とたしなめられる。
仕方ないので、「では、このサイコロの赤と黒のふたつの数字のどちらが先でどちらが後か、誰が決めたのか。順序が反対なら、ほら、こんなにいい運勢が出ているじゃないか」と、逆の場合の運勢を示すと、「それはそのときそのときで決めればいい」のだと言う。
「じゃあ今回は実習者からその説明はなかったし、もしかするとこの、時には冒険をしても大丈夫、というとってもオーケーな運勢を信じてもいいのか」
「どちらでも信じたいほうを信じるのがいいんじゃないですか」
そう言われても、いったん目に焼き付いてしまった「訴」の文字は微動だにしない。
ぶつぶつ文句を言っていると、じゃあもう一度やりますか。
そんないい加減なものなのかこの占いは、いえ信じられるまで何度でもやればいいんですよ、ただ一般的には3度やると一生たたられると言われていますけどね。
いや、とにかくさっきのは実習者がよくなかったし私も少しいい加減だったから、今度はまじめにやると言ってサイコロを振ると、出た目は違うのだが、やはり「争いごとで問題が起きる」という結果。
おとなしくしていろと。
しかし何もしないでいろという、「金運」とは?
占い師は子供のオセロにつかまって、すでに占いの世界から遠い。
オレゴンではジョン・フェイヒーの葬式が行われている頃だ。
3月5日(月)
見逃していたロバート・ゼメキスの『キャスト・アウェイ』を、新宿スカラ座。
冒頭、どこまでも続く農地の中のクロスロード。
アメリカのど田舎の風景で、いったいこれは現代の物語なのか半世紀ほど前の物語なのか、見分けがつかない。
まあそれは物語が進むにつれ、それは95年で、場所はメンフィスだということがわかる。
エルヴィスが流れる。
などなど、アメリカ好きにはたまらないアイテムがまずはちりばめられ、これもまた『フォレスト・ガンプ』同様、トム・ハンクスの身体を借りたアメリカの物語ではないかという予感が走る。
もちろんそのように見ることは十分にできる。
また、さまざまな時計と時間のエピソード、飛行機事故で無人島暮らしをはじめてからの波の音だけが延々と反復する時のないエピソード、そして、帰還後の元恋人とのエピソードを見れば、この物語の中心に「時間」があることはいうまでもない。
何しろ『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と『コンタクト』の監督なのだ。
だがこの映画のポイントは1点。
「カウボーイ」という言葉にある。
映画の冒頭と最後に発せられるその言葉を聞き逃してはならない。
誰が誰に向かってその言葉を発したか、その関係がこの映画の物語の根本をひっくり返すのではないかということが、映画の最後になって分かる。
当然私も、冒頭に発せられた「カウボーイ」をおぼろげにしか覚えていない。
もう一度見なくてはならない。
だが、すべてはメンフィスのクロスロードから始まり、今そのクロスロードの真中で戸惑っているトム・ハンクスがいる、ということだけは確かだ。
あるいは、誰もいないクロスロードから始まった物語が、最後にトム・ハンクスという肉体を持ってクロスロードにたたずんでいる。
それが「アメリカ」だとこの映画は言っているかのようでもある。
そしてここにも、『フォレスト・ガンプ』に表層にうっすらと漂い、『ホワット・ライズ・ビニース』では裏返しになってはっきりと現れた超越的なものに対するシニシズムが、さらに複雑さを増した形で張り付いているようにも思う。
つまり、「なしうる限りの抵抗の後では、我々は偶然全てに身を委ねるしかない」という鎌田哲哉氏の言葉が表面をつるつると滑って行ってしまうような、奇妙な滑らかさと安定感の中で、主人公は「偶然」に身を委ねるのである。
もちろん、そういうことは「偶然に身を委ねる」とは言わない、という言い方もできる。
では彼は何に身を委ねていたのだろうか。
「いや、それはクジラに決まってるじゃないですか」と、『アビス』で堂々と宇宙人を出したジェームズ・キャメロンなら言うだろうが、この映画のゼメキスは、そうは言わないだろう。
3月7日(水)
レニ・リーフェンシュタールの本に掲載するコマ抜き写真の作成のため、朝から稲川さんほかスタッフと、パソコンの画面とにらめっこ。
久々のスタジオboidである。
私は単なるオペレーターとして、該当するコマを抜いていくのだが、さすがに200コマ以上もあると、いくらやっても終わらない。
夕方から、来日中のヴェンダースを囲む催しがあり、出席することになっていたのだが、取りやめる。
といっても、日曜日の占い以来、突然の「ひきこもり」状態に襲われていたので、行ったとしてもただしょぼくれて帰ってくるのが目に見えていたので、まあ、「助かった」というのが本音。
しかし、リーフェンシュタールの映画をこんなにじっくり見たのは初めてなのだが、さすがにむちゃくちゃなことをがんがんやっている。
具体的にはほんの出版を楽しみに、というところ。
大雑把なことを言うと、映像の断片を組み合わせて世界を構成する、というのはあらゆる映画の基本だが、その組み合わせ方、ドキュメンタリーへのフィクションの取り入れ方、そしてそれらが示す世界の像のあり方、などなどが、ディジタル以降の映画のそれに、非常に近く感じられた。
最も近いのではないかと思えるのが、『ホワット・ライズ・ビニース』の時のロバート・ゼメキスである。
基本的にそこには何もないのだ。
いや、映像では示すことのできない何かがあるということを映像で示そうとせずに、映像では示すことのできないものを映像にしてしまっていると言えばいいか。
つまり我々を、我々自身や映像の限界に立ち向かわせることを忘却によって回避させる力があるということなのだが。
リーフェンシュタールがファシズムと結びついたのは、非常によく分かる。
3月8日(木)
松田広子嬢製作・松岡錠司監督『アカシアの道』 。
試写をサボっていたら、最終試写なので来てくださいと、松田嬢から呼び出しを食らう。
5時30分からイマジカの試写室なのだが、木曜日は子供をピアノに送り出すため、家に4時40分くらいまではいなくてはならない。
あせって電車に飛び乗るのだが、こういうときに限って電車が止まる。
御徒町駅で誰かが線路内に入ってしまったらしい。
事故ではないらしく、5分ほどで動き出す。
五反田駅からあせって歩いていると、声をかけられる。
ビターズエンドの定井君である。
「日記終わっちゃいましたねえ」。
この頃、どこに行っても青山日記の話題が出る。
活動中も、停止後も、その反響の大きさに驚かされるのだが、たとえば雑誌などでこんな反響を得ることはもうない。
雑誌の中のある種の役割の終わりを実感する。
ぎりぎりでたどり着いたイマジカ試写室は、ほぼ貸しきり状態。
私のほかに2名ほど(最終チェック試写だということもあって、「ほか2名」とは、撮影の笠松さん、録音の橋本さんだったはずだ)。
「母親から大きな心の傷を受けたひとりの女性が「介護」を迫られ再び母親に向かい合うことで、自分自身に対して、母親に対して、そして「母と娘」の関係について新しい視線を獲得しようとする物語」と、プレスシートの解説には書かれている。
確かにそうともいえるのかもしれないが、私には「母親から大きな心の傷を受けた」娘が自分なりの物語を獲得することで母親との関係を絶つ物語というふうに見えた。
そこで彼女が試みているのはあくまでも自己の物語の完成であって、確かにそれによって「新しい視線を獲得」することはできるのだが、では母は娘の中でどのように生き始めるのだろうか。
気になったのは、母と娘の過去が回想されるとき、それが決まって娘の回想であることだ。
どうして二人の過去は、母親の記憶としては語られることはないのか?
まさに記憶そのものとなりつつある母は、娘の障害として娘の前に立ちはだかるばかりである。
もちろん母は記憶の現前として、回想ではなく今現在の行動全てが過去につながっているということはわかる。
だがそれは再現フィルムとどこが違うのか?
娘が恋人と旅行するために母をひとりにしてしまったことの後ろめたさがそのまま母の過去へと還流し、かつての母の後ろめたさとなって娘へとさらに還流して、娘が母の元に駆けつける、そんな記憶のとめどない流れは、ここでは起こりそうで起こらない。
端的に言って、娘が娘であり母でもあるような「新しい視線を獲得」することは、この映画では決してない。
視線はあくまでも安定している。
その安定した視線を支える橋本文雄氏の録音は、非常に素晴らしいものであった。
くっきりと聞こえる台詞の数々が、これはそういう映画なのだということをしっかりと主張していた。
だからこの映画はこれでいいのだろうが、少なくとも私には関係がない映画であった。
安井君から聞かされていた安井君の出演シーンは、「秘密」を聞かずに見れば(聞いて見ても)、滑らかに進行するシーンだった。
夜はNHK「トップランナー」に青山出演。
さすがにテレビだと喋りにくそうだ。
過剰なサーヴィスもなく、淡々と進行して行く。
しかし、『エクソシスト』の話の最中に、『エクソシスト3』のギャグで笑いを取るというマニアックなサーヴィス。
メジャーにはなれないかも。
3月9日(金)
スローラーナーにて某所での諸々のイヴェントについての打ち合わせ。
4月末から1ヶ月ほどの企画なのだが、私はその頃ヨーロッパ行きの計画も立てていたのを、今ごろになって気がつく。
ふたつのことがまったく結びついていなかったのだ。
恐ろしい。
ただ、イヴェントのほうは、時期がずれる可能性があり、スケジュールの決定は持ち越される。
だがそれにしても、時間だけがどんどんと過ぎて行く。
あっという間に4月になる。
帰り、せっかく渋谷にきたのだから、シネクイントでやっている『ギャラクシー・クエスト』を見ようと思っていたのだが、なぜか気分が乗らない。
仕方なく、新宿UNION。
デヴィッド・トーマス新作と彼が解説を書いている通称ザ・ナンバーズの75年のライヴ、買い逃していたジョン・フェイヒー『イエロー・プリンセス』が日本盤で発売された。
デヴィッド・トーマスは、この数年のうちでも最もいいのではないか。
解説で大鷹俊一氏は「『エレウォン』が架空の底なし沼から世界中につながっていく物語だとしたら、これはアメリカという国が持っているもう一つの光景を描き出した、音によるロード・ムーヴィーと言える」と書いているが、これは、ロード・ムーヴィー以後の物語だ。
もはや動くこともじっとしていることも意味をなさなくなった後の物語。
ヴェンダースは、『ミリオンダラー・ホテル』の中に、ビートルズではなくデヴィッド・トーマスを響かせるべきだった。
まあそうなったらそれは『ミリオンダラー・ホテル』ではなくなってしまうわけだから、余計なお世話である。
3月10日(土)
本当に久々のカイエ・シネクラブ。
今回はオリヴィエ・アサイヤスの『感傷的な運命』。
見るのは、昨年の6月以来で、さすがにさまざまな細部をすっかり忘れていて、3時間をたっぷり堪能してしまう。
前作の『8月の終わり、9月の初め』や『イルマ・ヴェップ』同様、多くの人が集い、人間関係は錯綜し、カメラがその網の目の中を縫うように移動する前半1時間。
中盤の1時間は、その集団から離れた主人公二人の濃密な時間を、スイスの湖と山の季節の変化とともに捕らえた繊細な画面のなかで展開。
そして最後の1時間は、再び集団の中に戻った二人が次第にその身体を変化させ、ついには男でも女でもないたった一人の人間となって、集団の中の関係性とはまったく切り離された静けさを得る。
しかしその静けさは、諦念や癒しや悟りのようなものではない。
心の平安はなく、単に「私」がここにいるということそのものに、私が震えているその静けさである。
そんな場所に彼らを到達させるために、オリヴィエ・アサイヤスは使い慣れない巨額な資金を集め、おそらく初めての経験だろう膨大な数のスタッフやキャストをコントロールし、この年代記を作ったのだ。
まさに「ビガー・ザン・ライフ」な映画である。
ニコラス・レイの魂が、まったく姿を変えて、この映画の中に注入されているように思えた。
打ち上げの席で、安井君から、トークの中で荻野がいきなり語り始めた「パリ・サンジェルマン」の話のときに、「パリ・サンジェルマン」がサッカー・チームだという説明を誰もしなかったと指摘される。
私も梅本さんも、ついあたりまえのこととして聞いていたのだが、確かにそのとおり。
あれは、フランスのサッカーのチームのことです。
今更言っても遅いが、まあ、念のため。
家に帰って、日本のサッカーの結果を見る。
昨日、「toto」発売記念に、一応買っておいたのだ。
この手のギャンブルは、つい、手が出てしまう。
明日の鹿島-広島戦を除き、J1は、東京ダービー以外は当てたのだが、J2はボロボロ。
やはりこれは、そう簡単には当たらない。
boidビデオの第3弾が出る日はまだまだ遠い。
3月14日(水)
朝から、先週の水曜日の続き、リーフェンシュタールのビデオからのコマ抜きである。
昨夜、諸々の準備をしておいたので、今日は案外早く終了。
稲川さんと、このままではずっと苦労し続けて時間ばかりが過ぎて行くという話。
しかし、世の中、簡単には儲けられないという話。
夜、フィリップ・カウフマン『クイルズ』。
六本木の20世紀フォックス試写室での試写だったので、その前に、現在録音の仕上げ中の『月の砂漠』スタジオへ顔を出そうと思ったのだが、うっかりソファで眠ってしまう。
慌てて六本木へ。
またもや試写室は、ほぼ貸しきり状態。
しかし映画は素晴らしい。
タイトル通り「羽ペン」のような映画であった。
その羽毛の毛先が、囁き声となって、人から人へと伝わって行く。
そんな肌触りの中に、悪魔と神が同居する。
マルキ・ド・サドの映画かと思ったら、そうではなくて、彼の言葉が持つ「羽ペン」の感触が、そこに映っている人物を乗り越えて飛び出してくる。
その意味では、『エクソシスト3』とも比べたくなってしまったのだが、とにかく、もはやサド侯爵は複数いるのだとしか言えないところまで、物語は突き進む。
タイトルもだから複数形なのではないか。
たとえばもし、フィリップ・カウフマンが、「羽ペン」ではなくパソコンで書かれる言葉の物語を作ったらどのようなものになるのか、想像することもできないが、ちょっと見てみたい気もする。
ペンと紙を奪われたサド侯爵が、自らの血で、身につけているものすべてに言葉を書き付けて、その血染めの衣服をつけたまま狂人たちの食事テーブルで暴れるシーンは、まるで、70年代のミック・ジャガーのようであった。
また、『タイタニック』のケイト・ウィンスレットもホアキン・フェニックスも、おそらくこれ以後も含めて彼らの最高の演技を見せているのではないか。
ウィンスレットの最期のシーンは、『タイタニック』の裏返しのようでもあってニヤリとしてしまうのだが、「撮影のどの段階でも毎日、期待に胸膨らませてセットに入り、互いに抱き合った後、情熱と感情のこもった、哲学的で嬉しくなるほどばかばかしい台詞をしゃべり始めた。鬼のように働き、うんざりするほどの満足で帰宅した」と記すフィリップ・カウフマンは、そんな、小さな映画的記憶などまるでものともしないだろう。
いや、案外こそこそ考えていたりして。
3月16日(金)
昼、ダニエル・シュミットの『ベレジーナ』の試写に行くはずが、案の定寝坊して、『ペイ・フォワード』。
自ら発した言葉の伝達不可能性とコントロール不能性に賭けたサドの物語と違って、こちらは人間の善意の可能性に賭けた少年と彼を取り巻く人々の物語。
この「賭け方」の方向の違いが、アメリカ映画におけるフィリップ・カウフマンの現在の居場所を、的確に物語っている。
とはいえそれは、『ペイ・フォワード』のミミ・レダーとは関係のない話。
『ピースメーカー』『ディープ・インパクト』の2作では、国家の危機、地球の危機という大きな物語の中に家族や親子の物語を見事に織り込んで、パニック映画というよりホームドラマの色合いの強いものに仕上げた彼女は、徹底して小さな物語にこだわりつづける。
そして、その小さな物語の連鎖が大きな物語を生む、というのがこの物語であるのだが、気になったのは、その「連鎖」のタイムラグである。
たとえばそれが本当に「大きな物語」を獲得するには、できるだけその時間差は大きい方がいい、というのが物語作りの基本だろう。
『タイタニック』の成功を見ても、まだ十分それは世界的に通用する。
だからこの映画でも、少年の住むラスヴェガスでのエピソードと平行して語られるロサンゼルスのエピソードは、少年の善意の連鎖の果てのエピソードなわけだから、通常の物語的感覚では、地理的な隔たりだけではなく時間的な隔たりを伴っているはずなのだ。
つまり、ロサンゼルスのエピソードで語られた善意の連鎖の結果の物語の発端となった少年は、すでに亡くなっていたとか、年老いてホームレスになっていたとか、あるいは、善意の連鎖の結果からその連鎖の元を探るジャーナリストが、錯綜する連鎖の中で迷子になる物語……。
物語の展開からも、ミミ・レダーがこれまで語ってきた親子や家族の物語からも、当然そのような記憶の顕現が、そこで語られるものと思っていた。
しかしこの物語は違う。
連鎖はあっという間にロサンゼルスまで届いてしまうのだ。
それどころか、連鎖の元を探るジャーナリストが少年を見つけ出し、その連鎖が少年のところに戻ってきたと思ったら、今度は少年が、その連鎖によって命を落としてしまう。
テレビが、ジャーナリストの撮影した少年のインタビューを放映しているときにはすでに、連鎖の元は存在しない。
それまでにどれくらいの時間がたったのだろうか。
ラスヴェガスが舞台だということで、季節感はまるでない。
その時間感覚のなさのためにこそ、この場所が選ばれたといってもいいかもしれない。
もちろん、最後には、その時間のない時間を生きてきた二人の大人にとっての記憶の顕現と時間の回復の物語が用意されているのだが。
帰り道にHMV。
DAFT PUNKの新作が出ていて、それを購入してインターネットにアクセスすると、誰でもDAFT PUNKの音を作ることができるシステムをダウンロードできるのだとか。
つまり、世界をDAFT PUNK化するための連鎖のシステムが、売られているのである。
何やら今日は「連鎖」づいていると笑ってしまうが、当然それは買わず、EVEの『Scorpon』、LONE CATALYSTSの『HIP HOP』。
EVEがどれくらいLil' Kimに肉薄しているかと、それが興味の中心だったのだが、それは期待はずれ、というか、あまりに安直なこちらの期待とはかなり違う場所に、EVEの中心はあるように思える。
どこをとっても基本的に図太いビートとKim本人が場所を占めるLil' Kimに比べ、EVEのアルバムは、多彩なアレンジとゲストが目立つ。
強面なジャケットからは想像がつきにくい陰影が、このアルバムにはある。
Kimさんがマドンナだとするなら、マドンナと同名のヒット曲を持つEVEさんはシーラEといったところか。
しかしその中にあって、DMXのフィーチャーされた11曲目陰影のかけらもない。
まるで、過去の記憶を身体の傷として顕現する『ペイ・フォワード』のケヴィン・スペイシーが、しかしもうそんな記憶など跡形もなく失って、ただその傷と痛みだけを原動力にラスヴェガスの町を荒らしまくる、そんなすがすがしさがある。
もちろん『ペイ・フォワード』にそれを望むのは、お門違いだろう。
でもやっぱり、ケヴィン・スペイシーは好きになれない。

3月18日(日)
土曜日から引き続き、映画の資料整理をする。
机の上が、これまで試写などでもらったプレスシート類で埋まってしまって、さすがに身動き取れなくなってしまったのだ。
みんな、どうしているのだろうか。
この上の山を見るたびにうんざりする。
もちろん必要でないわけではなく、だから捨てられずに山積となっているのだが。
だが、一度整理しようと思って片付け始めると、ほとんどがゴミとなってしまうのであきれる。
やはり、何度も言うようだが、配給会社、宣伝会社の人たちは、もう一度このシステムを考え直した方がいいのではないか。
試写状にしてもそうなのだが。
何だかこの、もはや捨てられるばかりとなったこのゴミの山の重さだけが、私を映画に引きとめようとしているような気もしてきて、憂鬱になる。
昨日、映画美学校の学生から電話がかかってきて、今度、安井、荻野、樋口がかつて作った8ミリ作品を上映したいとのこと。
安井君から話は聞いていたが、いよいよ本当にやることになったらしい。
しかし、私の8ミリは、もはや手元にない。
かつて、篠崎が同様な企画を吉祥寺のジャブ50でやったとき、そのまま、劇場におきっぱなしになっているのだ。
もう、8年程前のことである。
とりあえず、篠崎に電話するが篠崎にも所在は不明。
当時のジャブ50の従業員、現在はデザイナーである渡邉純君にも電話するがやはり所在不明。
劇場でも処遇に困ってゴミとして処理してしまったのかもしれない。
私もまた、どこかでそれを、望んでいたのかもしれない。
さすがに、今になって見直すのは、恥ずかしい。
それは、原稿に関しても同じことなのだが。
とはいえ、どこにもないとなるとそれはそれで落ち着かない。
「幻のフィルム」となるようなものでもないし、何とか見つかってくれればいいと思う。
3月19日(月)
山本政志『リムジン・ドライブ』。
映画冒頭の音楽の音量が小さいのがいきなり気になる。
特にベース音。
主演のT.M.スティーヴンスがベーシストであるだけに、どうしてこの音がこうなのかぼんやりとしてしまう。
上映施設の問題かもしれない。
ただ、物語の途中で彼らがクラブでリハーサルをやるときの音は、普通に出ていたら、施設だけの問題でもないだろう。
それに、そのリハーサルシーンは、彼らの演奏をとらえた映像に、スタジオで録音されただろう音を、重ねている。
だから、たとえばベースの音やギターの音が、映像の中に定位していかないのだ。
映像と音とが、どこか決定的にはなれたまま、ひとつの画面の中に同居している。
それが、山本さんの映画作りなのだということがよくわかる。
物語もまた、まったくそのようなものであった。
主演の二人が同居を始めるのは、互いに認め合ったからではなく、とにかく日本からやってきた女が住む場所がなかったという、ただそれだけの理由しかない。
言葉も通じない。
その、関係不能の関係を強制することによって、互いに、関係不能の関係へのそれぞれのかかわり方を学んで行く。
その物語の構造を決して崩さない、クールな映画だった。
それから、しつこいようだが、この映画のプレスは、A4サイズの用紙にさまざまなデータやインタビューが印刷された10枚ほどが、透明ビニールの中に入っているという非常にシンプルなものであった。
予算の都合でそれしかできなかったということなのだろうが、この単純さが非常にすがすがしい。
これで十分なのだ。
3月21日(水)
ついに完成した青山の『月の砂漠』。
本日が初号試写である。
昨日からの仕事で、寝たのが朝の10時30分過ぎだったので、さすがにふらふらしている。
朝、寝るときになって、安井君に連絡し損ねていたことが発覚する。
いや、連絡はしていたのだが、メールで送っていただけだったのだ。
安井君がそう簡単にメールを見るとは考えられない。
確かこの前も、もう1週間以上メールを見ていないとか言っていたのだった。
とはいえ、午前中に連絡がつくはずもない。
とにかく起きたら電話をしてみようと思っていたのだが、起きたらもう時間ぎりぎりで、どのみちそれから電話したのではどうにもならない。
イマジカにつくと、案の定、安井君はきていない。
仕事があったのか、ひきこもっているのか、あれこれ想像はできるのだが、やはり、結論としてはメールを見ていないのだろうということに落ち着く。
メールもインターネットも、それぞれが一定のルールに従うことで、成り立っている。
だが、そんなルールなど、互いの了解事項に過ぎず、それが実行される保証などどこにもない。
ルールに慣れてしまうと、ついその危うさを忘れてしまう。
映画の中の登場人物たちは、すべてその危うさの上に立っているように思えた。
「何にもすがるものがないから、金にすがっているんだよ」というようなことを、主人公は言う。
それは、ニヒリズムでも、シニシズムでもない、どうしようもないくらい切実な彼の言葉のようでもあった。
しかし、それでもそれはやはりニヒリズムへと通じるのではないかと、この映画は彼を、執拗に追い詰めて行く。
そのとき、映画と映画の登場人物とそれを見る我々との間にあるはずの暗黙のルール、つまり、登場人物の人格的な同一性や彼らの個性、あるいは彼らが彼らであることそのものなど、見る側がとりあえず想定する彼らに対するイメージは、あっさりと崩れて行く。
彼らはまさにそこにそうやっているだけの人間となり、しかもそこにいるのが本当に彼らであるのかどうかという保証もない。
一体あなたは何をしたいのかと問われた主人公は、「何もないんだよ」と答えるのだが、一方で、11時までに会社にいかなかければ、友達への責任があるんだとも、大声で叫ぶ。
彼には「何もない」のではなく、何かがあるのだ。
それは何かと彼らに問い詰めるうち、登場人物たちは見事に一人一人になり、同時に誰でもあるものになる。
気がつくと、母は子であり、子は母になっている、ようにも見える。
場所の移動とともに、時間軸がどこかでねじれてしまったのだろうか。
それが「月の砂漠」なのか。
しかしそれにしても、この光と焦点の微妙な変化。
黒沢さんは『映画はおそろしい』の中で、じっと座っている人を見詰めていたカメラが、その人が立ち上がろうとしたまさにその瞬間、横移動を始める--それが映画の快楽なのだと書いていたが、この映画はそういったダイナミックな映画の快楽だけでなく、非常に微細な、小さな変化の断片の集積による快楽に賭けているようにも思えた。
そしてそれは単に細部の出来事や快楽としてだけではなく、それ自体が全体であるような、大きな変化をはらみ持つ小さな変化であるだろう。
終了後、妻子が40度の高熱を出している梅本さんは帰宅。
私は、青土社の宮田君と夕食を。
五反田には手ごろなところがない。
夜、青山から電話。
『月の砂漠』についての原稿のタイトルは、『ミッション:インポッシブル』がいいという話で盛り上がる。
なぜそうなのかは、いつか原稿ができたときに判明するだろう。
まあ、そのときはもう、まったく違うことを考えているかもしれないが。
映画の途中で、ジム・オルークの曲がかかるところでは、ジョン・フェイヒーの曲を使おうとあれやこれややってみたがどうしてもバランスが崩れてしまってできなかったという話を聞く。
確かに、この映画ではそれぞれがその場の関係の中で思わぬ変化を見せる、その積み重ねによって時間が進行していくわけだから、そこにジョン・フェイヒーというのはあまりに無茶なことだと納得する。
次回作か、その次か、いつかジョン・フェイヒーを響かせるためだけの映画というのを見たい。
3月22日(木)
昼過ぎ、『月の砂漠』のノイズというかいくつかの効果音を作った長嶌と、今後のboid企画についての相談。
長嶌は相変わらずズバズバと、こちらが言ってほしくないことでもあり、それを言ってくれなくては長嶌と会った意味はないというようなことを言う。
ひとことで言えば、私の見通しの甘さが、一気に暴露された形になる。
私の場合、見通しが甘くて何ぼ、うかつなことを言って何ぼなので、こうやって指摘されて修正を加えて行く。
おかげで少し、展望が開けてきた。
しかし、どちらにしても厳しい道のりであることは確かだ。
夜は、5月に吉城寺バウスシアターで上映される黒沢さんの『降霊』ロードショー期間中に行うレイトショーのプログラミングに関して、あちこちに連絡。
こちらも少し展望が開けてくるが、やはり、時間はない。
送られてきたメールを見ると、大学時代の知り合い。
現在は、福岡在住だとのこと。
こうやって連絡をとるのは、10数年ぶりだ。
いつから過去の日記を見ていたらしく、ニッキ・サドゥン来日についての情報を教えてくれる。
直接本人のサイトに問い合わせたら、本人からメールが送られてきて、結局4月の来日はなくなったとのこと。
ただ、来年には何とかと考えているようだ。
何とかなれ。
3月30日(金)
この1週間、ひどい下痢と吐き気と発熱で、ほとんど何もしていなかった。
確か昨年の今ごろもこんな状態になっていたような気がする。
桜の花が咲く頃は、基本的にいつもそうだ。
じっとしているしかない。
とはいえ本日はいよいよ開幕である。
プロ野球セリーグ。
今年はパリーグが1週間早く始まってしまい、なんとなく味気ないが、やはりひいきチームがあるのとないのとではまるで違う。
青山の「ジャイアンツV2日記」も始まる。
わがヤクルトスワローズは、3本柱のひとり、闘魂川崎がドラゴンズに引き抜かれ、もうひとりの伊藤は怪我、さらに主砲のペタジーニまで怪我で出遅れて、圧倒的に旗色は悪いのだが、それでも開幕は開幕である。
相手は横浜ベイスターズ。
稲川さんには悪いが、知将と呼ばれる森が新たに監督に就任し、おまけにダイエーホークスのヘッドコーチ黒江までも引き抜いて、まるでジャイアンツV9時代、いやライオンズ黄金時代を再現しようというのかこのチームのオーナーは何を考えているのか知る由も無いが、とりあえずチームは変身中で、ペナントレース前半戦は絶対にカモである。

それはともかく、開幕記念には『ドラえもん のび太と翼の勇者たち』である。
子供と約束していたのだった。
春休みとはいえ、さすがに平日はそれなりにすいている。
その昔、映画館でバイトしていた頃は「ドラえもん」が始まると、常に場内は満員で、子供とお菓子の甘い匂いが充満し、とても堪えられたものではなかったのだが、これくらいの数ではまあお気楽なものである。
本編上映前に2本の短編。
「ドラえもんズ」のシリーズは、確か前回は西部劇を意識した、物語的な構成に力を入れたものであったのだが、今回は、完全にゲーム。
ドラえもんズの動きに合わせてさまざまなステージが唐突につながっていく。
『ビルとテッドの地獄旅行』の地獄の様相であった。
「がんばれ!ジャイアン!!」で驚いたのは、この物語の中だけ、なぜか、ドラえもんやのび太たちの町に、「裏山」が登場することだ。
まるで、『グリンチ』や『シザーハンズ』の裏山のようであった。
いや、それはどこか、この数年間、われわれが何度となく目にした神戸の裏山のようでもあり、また、被差別部落を分け隔てる今は無き裏山のようでもあり、要するに、日本を裏側から支えるとともにあってはならないものとして存在しつつ一瞬だけ表舞台に登場しては普段はそんな山の存在など忘れている人々にその存在を思い起こさせ、しかし再び忘れられていくだろう、そんな「裏山」だった。
つまりそこには「日本」が映っていたといってもいいのだが、しかしさすがに「ドラえもん」、お兄ちゃん(ジャイアン)のおせっかいで大好きな漫画も憧れの少年もすべて失い泣き崩れる妹(ジャイ子)に向かって「お兄ちゃんは見捨てても漫画だけは見捨てるな」と叫びつつ妹が捨ててしまった描きかけの漫画原稿を雪降り積もる街に向かって駆け下りていくジャイアンを沈黙のまま見守る裏山であった。
いよいよ本編が始まると、ついうっかり寝てしまう。
気が付くとドラえもんたちはバードピアにいて、「イカロス・レース」と呼ばれる鳥たちの耐久競争が始まるところである。
例によってそれをかぶると鳥のように羽が生えてしまうという何とか帽子というのを被ったジャイアンとスネ男(夫だったか?)もレースに参加しているが、トップを争うのは、この映画のもうひとりの主人公の何とかという少年と、何と「ツバ九郎」である。
知念里奈が初めての声優に挑戦したというこのキャラクターは、実はヤクルトスワローズのマスコットでもあるのだ。
で、結局レースは、主人公とツバ九郎の同着1着。
しかし、赤ちゃんの頃のトラウマでいまだに自分の力では飛べず、自作飛行機で参戦した主人公に対して「失格」の判決が下され、ツバ九郎の1着となるのであった。
う~、これはいったい何の暗示であろうか。
スワローズはすでに1着が約束されているのか。
しかし主人公を、レースの後の審査で競り落としての1着とはなんとも後味が悪い。
いやいや、まだレースは始まったばかり。
家に帰ってテレビをつけると、2回表。
すでに2-0でリードしている。
もちろんピッチャーは石井一久で、どうやら1回は三者連続三振に切って捨てたとか。
この最高の立ち上がりを見逃すとは!
その後は、当然のようにスワローズに特典が入り、ベイスターズは凡打を重ねていく。
しかし石井はまだまだ。
スライダーのコントロールが悪すぎる。
あれでは来年の大リーグが思いやられてしまう。
大リーグに入れば、石井程度のスピードを出すピッチャーはゴロゴロいるし、したがって石井の生き残る道はスライダーだと見ているのだが、このままではストライクを取りにいったストレートを狙われておしまい。
実際、ベイスターズの鈴木、石井、中根といった主力級にはしっかり捉えられている。
などなどぐずぐず思っていたら、デザイナーの渡邉君から電話。
フィルムが見つかったとのこと。
行方不明になっていた私の監督した8ミリである。
見つからないうちは、どうしてないのか気になって仕方なかったのだが、見つかってしまうと、これを本当に上映してしまうのかと、再び恥ずかしさがこみ上げてくる。
美学校の人々も意地の悪いことをするものだ。
まあ、笑ってもらえればいいのだが……。