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2001年 boid日記 2月

Text by 樋口泰人

2月3日(土)

アテネフランセにペドロ・コスタを見に行く。
昼過ぎから青山が講演をしたのだがそれには間に合わず、それどころか映画にも間に合わず数分過ぎに息を切らしてアテネの階段を駆け上がったのだが、なんと場内は満員で、扉のところもすでに立ち見客でいっぱい。
何とかもぐりこんでみていたのだが、あとからも何人か遅刻者が入ってきて、映画も映画なのでへばりつきながら見ているのが苦しくなり外に出る。
出ると、アテネの泉雄一郎が、「まったく統覚がないでしょう」と笑っている。
確かに、これを見てしまうとハーモニー・コリンもやたらとロマンティックに見えてしまう。
まあ、そういった比較は見る側の勝手な意識の問題に過ぎないのだが。
とはいえせっかくの外出を無駄にするわけにも行かないので、新宿へ。
何を見ようかと迷った挙句『13デイズ』。
新宿ピカデリーの前へ行くと長蛇の列。
知らないうちにピカデリーは、「1,2,3、4」と分かれていて、この列は『13デイズ』ではなく『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のものであることが判明。
あまりの華やかさに動揺し、おろおろするばかり。
しかし、『13デイズ』の気配がない。
ようやく発見した『13デイズ』の文字が告げているのは、劇場は正面入り口から入るのではなく、ビルの裏手へ回らなければならないということである。
仕方なく裏手に回ると、確かに『13デイズ』をやっている。
やっているのだが、なぜか土曜日に限り入れ替え制で途中入場不可とのこと。
ペドロ・コスタだけでなくケヴィン・コスナーにも嫌われてしまったか。
こうなったら仕方ないのでスタローン。
『追撃者』である。
スタローンはますます抽象的な存在になっている。
相変わらず痛めつけられはするが、どこか迫力がない。
というか、もう痛めつけられることはスタローンにとって余計な出来事のようにも見える。
画面の中で、フラッシュがたかれたような、白く光ったコマが一瞬挿入されるところが何箇所もあり、それは最後まで謎なのだが、それがあるためにこの映画自体が誰かの意識、あるいは記憶そのものであるかのようにも見え、スタローンはその意識の中でかろうじて幽かな肉体を誇示しているだけのようにも見えるのだ。
しかし久々に見るミッキー・ロークは、どのシーンでも薄暗がりの中にいて、はっきりとその表情を見ることができない。
これは、俳優からの注文なのか演出意図なのか?

2月9日(金)

今日と明日、アテネフランセでboid主催の鈴木清順イヴェントなのだが、いきなり大トラブル。
世の中安心しているとろくなことがない。
やはり、あくまでも自分でやれるところはやっておかないと。
反省はするものの、どうも私も被害者であるような気がしてならないのだが。
アテネの泉も落ち込んでいる。 まあ、あまりのことに怒る気にもならない。
しかし、最後にちゃんと確認しておけば……。

2月10日(土)

昨日のトラブルで、すっかりしょげたままトーク。
とはいえ、塩田君が相変わらず飛ばすので思わず笑ってしまう。
1時間しかなかったので、突っ込みは控えたが、「次回」を設定できそうだったので、今回は『回路』の初日で参加できなかった黒沢さんにも参加してもらって、もう一度時間をかけてディスカッションを行うことにする。

2月13日(火)

午前中の渋谷は、寒さのせいもあってなんとなく清々しい。
単に人があまりいないからか。
しかし、どう見ても中学生にしか見えない子供たちがあちこちをうろうろしているのは一体なぜだろう。
とりあえず、どこかの修学旅行かもしれない、ということで納得しようとするが、こんな時期に修学旅行はないはずだし。
単にサボっているだけではないように思えるのだが。
私は梅本さんと、次回boid企画本の打ち合わせ。
『ロスト・イン・アメリカ』ならぬ『ロスト・イン・ヨーロッパ』を作ってはどうかと話しているのだが、話しているうちに「ヨーロッパ」という地域性ではなく、もはや当たり前のように国籍を超えて交通しながら製作されていく映画の運動そのものをとらえるような本にすることで、ぼんやりと方針が固まってくる。
あとはそれをどうやって具体化していくか。
もちろん版元も探さねばならない。

帰りがけ、先日のイヴェントのギャラを振込みに銀行へ。
しかしなぜか振り込めない。
係員に尋ねると、他行振込みになるので(荻野、塩田共に住友銀行で、boidの口座は東京三菱銀行)、原因を調べられないと言う。
二人ともの口座番号を間違えるはずはないので、明らかに機械的なトラブルがあるはずなのだが、それでも調べてくれようともしない。
一体、他行振込みにかかる420円の手数料は何のために支払っているのかと尋ねると、それはまた別の問題でとか何とかごまかされる。
その 係員は銀行職員ではなく警備の人だったので、それ以上苦言を呈しても無駄なので、とにかくまた後日で直してその時に、ということで引き下がる。
しかし世の中のシステムというのは一体どうなっているのか。

2月14日(水)

ようやくファレリー兄弟『ふたりの男とひとりの女』。
時間ぎりぎりで家を出て駅へついたら財布を忘れたことに気づき、出直し。
おかげで冒頭の5分ほどを見逃す。
このところ、鈴木清順のシネマスコープ作品を立て続けに見ていたので、ビスタサイズの画面がどうも窮屈に見える。
いつもは抜けのよかったファレリー兄弟映画の画面がこんなに窮屈に感じるのは、やはり鈴木清順さすが、とか何とか思っていたのだが、どうやらこれはファレリー兄弟の仕掛けのようだ。
ジム・キャリーの三つ子の子供が成長してからそれははっきりする。
3人ともとんでもなくデブなのだ。
この3人がいつも共に行動する。
多分、一人一人のショットというのはなかったのではないか。
この3人のショットだけでなく、他のショットも、無理やり画面の両端に人物を置いてその隙間の奥のほうにもうひとりを置くというショットが目立ち、それが画面に奥行きを与えるのではなく、そこに広がるはずの空間の窮屈さだけを伝えているのだ。
そのため、例えばどこまでも広がった緑地の中を車が走っていくようなショットでも、本来ならシネスコであるはずのものが圧縮されたように見えてしまうのである。
この映画では画面には登場しないオフの語り手がいて、その語り手の声によって物語が進行していくのだが(フォン・トリアーの『ヨーロッパ』というよりも、『トゥルーマン・ショー』への意識だろうとは思う)、その語り手が最後に「心温まるいかにもアメリカ的な物語でした」というようなことを言う。
つまり、この物語自体が、アメリカ的な物語への意識によって作られていることをあからさまに語っているのであり、したがってそこに映される画面もまた、アメリカの風景へと向けて広がっていくのではなく、アメリカ的な風景の中へと収縮していくのである。
しかしそんなものの中に収まるはずはないではないか、というのがこの映画の窮屈さである。
通常なら、アメリカ的な物語の風景の中へ収めていくために何かを削り落としてしまうところを、ファレリー兄弟は何も削らないまま「圧縮」してしまったのだと言えるだろうか。

家に帰ると斎藤敦子さんからコピーが送られてきている。
NHKがクリス・マルケルが作ったタルコフスキーのドキュメンタリーを放映した際に、監督、製作者に無断で再編集して放映したとのこと。
「大阪映画サークル」975号に掲載された斎藤さんの記事をスキャンして載せておく。
この斎藤さんのコピーが同封された手紙の下には、NHKから受信料を支払えとの通知が。
あまりにも間が悪いぞNHK。
当然、支払い用の用紙はゴミ箱へ。

2月15日(木)

新聞に、ワールドカップのチケット予約についての記事がいろいろ。
まあ、ネット予約の延期については単なる作業の遅れだったりするのだろうが、予約方法に関しては、まったく納得できない。
ひとつの試合に関しては、ひとりが1回だけしか予約希望を出せず、自分が誰と行くかという同伴者名をも予約希望時に出して、その同伴者名をも含めて、重複者は予約希望リストからはずされるということらしい。
このやり方に対する抜け道はいくらでも考えられるが、しかし、どうして1年以上もあとのサッカーの試合を、誰と見に行くか、今から報告しなければならないのか。
どうやら当日は本当に予約どおりの人物が来ているか身分証明書のチェックがあるとかないとか言われているが、何故そこまでしなければならないのか、よくわからない。
だって、たかだか1年間とはいえ、1年間の間にはいろんなことが起こる。
恋人たちや夫婦は別れ、友人同士も喧嘩し、あるいは突然の事故で他界したり、出産やら転勤やら、 あるいは会社の倒産やら。
サッカーという予測不能の出来事の連続として成り立っているスポーツの世界の祭典で、それにもっともふさわしくないやり方が採用される現実を、我々はもう少し重く受け止めるべきではないのか。
それはそうかもしれないがそれでも見たいのだと、妻は朝からやきもきしているが、そんなバカらしい報告ができるかと、私は見に行かない宣言をして、試写室へと向かう。
なんかお間抜けな映画だなあというような感想しかなかった『π』という映画の監督である、ダーレン・アロノフスキーという人が作った『レクイエム・フォー・ドリーム』。
ビート世代の生き残り、ヒューバート・セルビー・ジュニアの原作、脚本による物語。
しかしまたもや、プレスシートがデザイン優先で、今度は全体がひとつの輪になっていて、外側は文字ではなく写真その他の画像ばかりで、輪の内側に諸々のデータやらインタビューやらが載っている。
普通に読もうとすると、はさみか何かでどこかを切らなければならない。
情報なんていいから映画を見よ、ということなのかもしれないが、だったら、このプレスシートもいらない。
監督はインタビューの答えて、この映画のカット構成を、「ヒップホップ・モンタージュ」だと言っている。
その割には、映画は、ルー・リードの『コニーアイランド・ベイビー』の2番煎じみたいだったけど。
あれからもう30年近くが過ぎようとしているのに。
ルー・リードの評伝本の序文に村上龍が書いた「戦争も内乱もボクシングもカジキマグロも闘牛士も必要としない。想像力だけで勝負し、その不安に耐える」という言葉を、この監督はよくかみ締めるべきだろう。


2月16日(金)

14日の日記のNHK問題について、青山からメール。
NHKというところは、決して訴訟問題に発展するようなことはやらないはずで、つまり契約書のどこかに、再編集の許諾条項があるはずだ、とのこと。
ようするに、あくまでも「ルールの範囲内で」やっているのだということを前提にして、他人の作品をまるで自分たちの作ったものであるかのように見せている、ということなのだ。
その権利を、彼らは「買った」のである。
その資金は、我々の受信料である。
我々はそういう国に住んでいるのだ。
しかしその一方で、彼ら(我々)の潤沢な資金がなければ、多くのインディペンデント作品は、ますます製作資金回収の道を閉ざされていくことも事実である。

2月17日(土)

調布の日活スタジオにて、鈴木清順『新・殺しの烙印』の現場取材。
旧作では宍戸錠、南原宏治がやった役割を、今回は江角マキ子、山口小夜子がやる。
しかも、スタンダード。
シネスコ・サイズのどこかすかすかな画面の中で、支えを失ったかのような人間たちが、しかしこの世の初めからそうであったように動き回る、そんな清順映画が好きな私は、一体スタンダードでどのようなものが出来上がるのか、まずはそこに目が向いてしまう。
と、セットの入口から奥まで、一筋の黄色い道。
両脇に、円柱が何本か。
奥は、坂になっていて、両脇に15段ほどの階段があって、その上が舞台になっている。
背景は、ホリゾントで、白い幕にニュートラルな照明が当てられている。
当然カメラは、その舞台上からまっすぐの道を見下ろしたり、逆に、道から舞台を見上げたりする。
モニタに映ったそれを見ると、実際の見た目以上の距離感。
舞台上に立つ江角マキ子も山口小夜子も小さなシルエットになっている。
たったそれだけのことなのだが、その小さなシルエットに思わず感動する。
90年代日本映画とは、鈴木清順が映画を撮らなかったゆえに成立したのではないかとさえ思う。
おそらくこの映画の公開によって、大抵の日本映画が見事に相対化されてしまうだろう。
そこから、誰がどのように逃れ出ているか、あるいはどのように自らの場所を確保しているかを見ることが、今後の課題となるのかもしれない。
具体的な現場の様子に関しては、これ以上書くと掲載誌に申し訳ないので、やめておく。
女性の方は、映画公開時に私の記事を目にすることがあるかもしれない。

しかしスタジオは寒い。
ボーっと突っ立っていると、足元からジンジン冷えてくる。
鈴木清順、木村威夫という高齢者たちは、一体どのような体力をしているのか。
などと思って見ていると、目の前を通った木村威夫さんが、床に敷いてあったビニールシートに足をとられて、まるでスローモーションのように転ぶ。
一瞬、時が凍りつき、私はほとんどストップモーション状態である。
だが、気が付くと何事もなかったかのように木村さんは起き上がり、周囲の心配をよそにカメラのそばへと歩いていく。
ほんの10秒ほどの出来事だったろうか。
「監督に必要なのは体力です」と清順さんは言っておられた。
昼休みに行われた共同インタビューのとき、私は初対面にもかかわらず、気がついたら「清順さん」と呼んでいた。
失礼なやつだと思われたかもしれない。
しかし言ってしまったものはもう取り返しがつかないので、今後は「失礼なやつ」で通すしか仕方ない。

2月18日(日)

昨夜から私のいとこが遊びにきていて、子供を連れて日比谷のスケート場へ行く。
私は当然不参加。
3年程前、やはり子供連れでスケートに行き、ひどく転んで以来もう無理はしないことにしたのだ。
小学生時代は、冬になると田んぼを凍らせてスケートをしていたのだが、それはもう記憶の中だけのことだ。
そんなわけで昼過ぎに妻とスケート場に出かけて、子供たちに合流して昼食という算段である。
日曜の日比谷のなんと清々しいこと。
春めいた気候がそう思わせるのだろうか。
昼食は、日比谷公園内松本楼。
気になっていたものの、これまで立ち寄ることはなかった。
妻といとこはオムライス、私はボルシチ、子供はカニクリーム・コロッケ。
町場の洋食屋程度の手ごろな値段がうそのようなうまさ。
特に、カニクリーム・コロッケは、その食感に是非はあるだろうが、私は初めてカニクリーム・コロッケというものをうまいと思った。
食後、スケートの疲れからすっかり回復した子供が園内を走り始め、仕方なく私も付き合う。
と、何かが足に当たり、バランスが崩れ、立て直そうとしているうちに見る見る地面が近づき、胸から地面に激突する。
危なく顔面を打ちそうになるところ、ぎりぎり右手でかばったのだが、掌をつくことができず、手の甲をついてしまうという情けなさ。
一体何のために、スケートを避けたのか。
もう、うっかり走ることもできない。
人はこうやって、自分の年齢を実感するのだろうか。
昨日の木村さんは、一体何を思っていたことだろう。

2月19日(月)

振込みのできなかった塩田・荻野のイヴェント・ギャラを振込みに、再び東京三菱銀行・新高円寺支店へ。
今度は口座番号も再度確認したので、これで振り込めなかったら、何かのトラブルか、あるいは、住友銀行のシステム上の不都合があるに違いない。
しかし、やはり振り込めない。
まだ、営業時間内だったので、係員に尋ねるが、口座番号が間違っていないとしたら、当行では分からないとの一点張りである。
出てきた課長の言うことをまとめると、システム自体は問題ないし、機械の問題でもない以上、我々の責任の範囲を超えている、ということになる。
いや、それはわかっているが、私はお客で、ただ単に振込みをしたいだけで、しかも口座番号も彼らが普段使っているもので間違いないことを確認してきているわけだから、これは一体どういうことなのか、ちょっと調べてくれてもいいでしょう。
しかし、それをしてくれないのである。
それはできません、と繰り返すばかり。
一体銀行というところは、取引している銀行同士で、トラブル処理の窓口のネットワークさえできていないのだろうか。
それよりも何よりも、自分のところの客が目の前で困っているのだから何とかしてあげようという商売の基本的な姿勢を見せてほしかったのだが。
そんな基本的なことさえ銀行はやろうとしない。
おそらくそこには、個人のプライバシーの問題や、会社としての責任範囲が絡んできているのだろう。
これが金銭を扱う者の社会的ルールというやつなのかもしれない。
しかしそのルールを作ったのはあなた方ではないのか。
客は単にそれに従うことでしか、「社会的」行動ができないということなのか。
家に帰って、先週送られてきた、崎山政毅氏の『サバルタンと歴史』(青土社)を読み始める。

この「サバルタン(subaltern)」という言葉をあえて日本語に訳すとすれば「従属的・副次的(存在)」あるいは「下層の人びと」となるだろう。しかし、「サバルタン」とはあくまで関係のなかで生きるものだということをおさえておかねばならない。植民地主義が不可避的に組み込まれた支配が作りあげ再生産する社会的諸関係において、「従属的・副次的」であり「下層」であることを刻印された人びとに、この言葉は向けられているのである。

この本の編集者の青土社の宮田君は、確か「思い切り難しいですよ」といっていた。
だが、崎山氏自身は、相手に向かって明快に言葉を開いていける人だったと記憶している。
何しろ、崎山氏の「せっかくだから飲みましょう」というひとことで、まったく酒の飲めない私は朝まで付き合うことになったのである。
この本も、相手に向けてネットワークを開いていく崎山氏の明快な言葉によって語られている。

夜、帰宅した妻に銀行での顛末を話すと、それはそうだがさっさと住友銀行に連絡をとりなさいと言われ、確かにそれが大人のやることだとしょんぼりする。
更に、送られてきた青山の日記で、カイエ最新号における私の大チョンボが発覚し、ますますしょんぼりする。

2月20日(火)

昨日の銀行の件が、解決する。
といっても、結局私の度重なる確認ミスと、荻野の番号入力ミスが重なってのものだったという何とも情けない結末。
こんなしょうもない輩がいるから、銀行も相手にしてられないという態度をとるしかないのかもしれない。
うう。

2月21日(水)

『アンブレイカブル』を新宿ミラノ座で。
この劇場、スクリーンが大きいのはいいのだが、客席の前後の間隔が狭い。
どうも窮屈で落ち着かない。
まあそれは、映画のせいでもある。
先日の『ふたりの男とひとりの女』でもそうだったのだが、この映画も、やたら窮屈な画面。
こちらはシネスコなのにもかかわらず。
何か、一回り分、画面が狭いのだ。
覗き穴から世界を見ているような、そして更にその後ろから何者かに覗かれているような、嫌な気分だ。
『マルコヴィッチの穴』の、穴の中の人間と、マルコヴィッチ自身の両方の気分を一気に味わうと、こんな感じになるのかもしれない。
もちろんこれらの映画の「気配」は、巧妙に作りこまれたカメラワークや環境音によるものだ。
冒頭の列車内のシーンは、電車が移動する距離感をまったく排除した、純粋なスピードと揺れだけで成り立っている、極端に居心地の悪いものだった。
それはおそらく、物語のあとになって明らかになる超自然的な力が見た光景とも言えるだろう。
フォン・トリアーのような揺れるカメラワークが、どうしてそういった超越性を意識させてしまうのかよくわからないが、とにかくそれが「技術」としてこの映画の中に取り入れられていることは間違いない。
そしてそれらの効果は十分に威力を発揮しているといえるのだが、ただ物語の展開の仕方は、あまりに大雑把過ぎないか。
それに、いくつかの前フリのネタを仕込んでおきながら、いざそれを使う段になるとまったくそれを展開できないのはどういうことか。
いや、するつもりがないのか。
すべては、人間の未知の能力ということで収まりはついてしまうのだが、そういうものがあるのだということだけを示しておいて、それに対する態度は保留してしまう(あるいは、観客にゆだねる) というのは、全然納得がいかない。
ただ、主人公の家のある坂道の風景をとらえたショットは、それもまた、『奇跡の海』の各章の合間に挿入された静止画像のようだとも言えるのだが、静けさと穏やかさと、そして何よりも、この映画が意識的に排除している体感的な時間と距離とを一瞬にして見せる、稀有なシーンであった。
とはいえ全然納得がいかないまま、映画を見たというよりも、何か悪いものを頭の中に注入されたような気分のまま家に帰り、荷物を置いたら、一番上に置いた地下鉄のプリペイドカードが、作り付けの机と壁の5ミリほどの隙間にするりと落ちてしまう。
隙間が狭すぎてどうにも、拾うことができない。
買ったばかりで、まだ2000円分くらいは十分に残っていたのだ。
年間に、こうやって消費されるプリペイドカードの額は、相当なものになるだろう。
またもや資本の罠にはまったと、更に嫌な気分になる。

2月22日(木)

『ハロルド・スミスに何が起こったか?』なんていうタイトルと、まるで『ゴダールのリア王』のゴダールのような頭にシールドをいっぱいくっつけたおじさんの写真に、なんだこれはと試写状をよく見ると、監督にピーター・ヒューイットの名前。
『ビルとテッドの地獄旅行』の人である。
これは何があっても行かなくてはと、ほとんど義務のようにして、試写室へ。
やはりガラガラである。
どこか歯切れの悪かったファレリー兄弟のもやもやを久々のヒューイットさんが吹き飛ばしてくれるかと思っていたのだが、こちらもなんとなくやりにくそうだ。
アメリカで撮っていれば、空間と登場人物のおおらかさの中で生き生きとしてくるはずのこの映画の泥臭いギャグだが、今回はロンドンが舞台。
どこか窮屈そうに、笑いを狙っている。
ただ、冒頭の、まるでカセットテープで録音したかのようなバズコックスのなさけないくらいにもこもこした(サウンドトラック作成の際に、あえてオリジナルのままにしておいたに違いない)音の「Whatever happened to?」から、ビージーズの「恋のナイトフィーヴァー」 へと繋がる一連のシーン、そして主人公たちの視線が次第に交錯し、それらが作り出すアナーキーな空間が突如として出現するテレビのトークショーの場面、それから『カリフォルニア・ドールス』を思い起こさせると言うとまああまりに大げさすぎるがパンクバンドとビージーズがミックスされる大団円など、心踊るところはそこかしこにある。
父と子の物語同時に描かれる、かつてのジョン・ヒューズのようなラヴ・ストーリーも、見詰め合う二人の顔だけですべてを見せようとする、王道の演出。
実は父親は超能力者だったという設定なのだが、同じ超越的な力を扱うにしても、昨日のM・ナイト・シャラマンとは違い、カメラの視線自体がそれを代表することはない。
それはそこに生きる人々の関係をのみ示していて、しかも人々は、その関係以外の世界があることなど知りもしないし知ろうとも思わない。
これもまた、デヴィッド・リンチ命名の「ご近所映画」の変形ともいえるのだが、ただ徹底してその視線が人々の関係の間に立とうとしているゆえに、いつかそれが外へと開かれていく可能性を、ある種の懐かしさと共に示している。
すでに成長した主人公の回想によって語られていく形式も、その懐かしさに寄与しているとは思うのだが、ただ、その語りとは違う地点から、この映画の人々は見られているように思う。

帰宅後、Dj honda の最新作『h III』。
2曲目にフィーチャーされたM.O.P.と9曲目のTeflonがいい。
Funkmaster Flexの『Volume IV』の2曲目、DMXほどの凄みはないが。
DMXをジェームズ・キャメロンとするなら、こちらはポール・バーホーベンといったところか。
などと書くと、安井君に「調子に乗りすぎだよ」と言われてしまうだろうか。
とはいえ、ピーター・ヒューイットにこれらの曲をがんがんかけさせて映画を撮らせる気前のいいプロデューサーは、今のアメリカ映画にはいないのだろうか。
何かが間違っている。

夜、スティーヴン・ソダーバーグの『トラフィック』完成披露試写。
こちらは丸の内ピカデリー1が超満員である。
映画の内容については、海老根によるベルリン映画祭の報告に詳しいのでここでは省く。
まさに海老根の明解な説明どおりの映画だったのだが、付け加えておくなら、最後の野球のシーンは、ちょっとドキッとする。
ロマンティックすぎるとも楽天的すぎるともいえるが、やはりこれはなければならない素晴らしいシーンだったように思う。
映画にはこういったシーンが必要なのだ。
あと、それまでの緊張した時間がふと流れを止める、刑事たちの何気ない会話のシーン。
確かこの映画の始まりも、メキシコの砂漠の中に停車した覆面パトカーの中でひとりの刑事が夢の話をするところだった。
そしてそれらをとらえるフレームの確かさ、つまり対象との距離感と、途中で仕掛けたネタを最後にきちんと使い切る確かな構成力が、この映画を支えている。

2月26日(月)

ちょっと東京を留守にしている間にいろんなことが起こる。
長嶌からはジョン・フェイヒー死すの知らせ。
なんということだ。
何の言葉もない。
2年前、強引に、それこそ闇雲に、がむしゃらにビデオをまわしていれば。
結局インタビューさえできなかった。
ホームページの情報によると、3月4日、オレゴン州セーラムにてセレモニーがあるという。
行けるだろうか?
どきどきしながら銀行に行き貯金通帳の残高を確認すると、まるで相談でもしたかのように、どこからも振込みがない。
経理の都合や、編集者の怠惰や、経営上の問題など、さまざまな理由でこうなったのだろうが、結局そのしわ寄せが、全部最下層労働者のところにくる。
こういうときほど社員編集者を恨めしく思うことはない。
まあ文句をいっていても仕方ないので、ジョン・フェイヒーについての今後の計画を、いくつか考える。
ただ、いくら考えても、自分の力のなさが恨めしく思えるばかり。

一方、シド・ヴァレットの未発表音源、「ボブ・ディラン・ブルース」が、デイヴ・ギルモア宅で発見されたという情報。
これを機に、T.レックスのミッキー・フィンことミック・ロック氏によるシド・ヴァレット・フォト・セッションの発売が可能になるかもしれないと。
まあ、この実現可能性は50%といったところか。
もちろん未発表音源発見というのも、どの程度の確からしさなのか、不明。
ついでに、4月に、ニッキ・サドゥンが来日公演という話も聞いたが、これも不明。
本当に今、ニッキ・サドゥンにライヴができるかどうかも不明。
ライヴ・ツアーはやっているというから、できないわけではないと思うのだが、不安が先立つばかり。
しかし本当に来るのか?

夜、久々にCOMMONを聞く。
デラ・ソウルの洗練にどうしても納得の行かなかった私だが、COMMONの洗練にはなぜか納得がいく。
あまりに対照的なジャケットを見比べてみればその差が歴然としてしまうのだが、ただそれだけではあまりにわかり安すぎてそれもまた納得がいかない。

2月28日(水)

キアヌ・リーヴス、ジェームズ・スペイダーの『ザ・ウォッチャー』。
キアヌが連続殺人犯で、ジェームズがFBI捜査官。
タイトルから予想される「目撃者」は出てこない。
「ウォッチャー」とは第三者のことではなく、この二人の関係を示す言葉であった。
といってもお互いに監視しあう、というような関係のことではなく、 二人の視線がひとつのラインとなるまでの物語と言えばいいか。
つまりそのときはじめて、二人が世界とかかわり始める。
それまでは、たとえ誰が誰を殺そうとも、どうも、それぞれの妄想の中の出来事にしか見えない。
『追撃者』にしろ『アンブレイカブル』にしろ、目の前にある世界の姿を写し取るものとしてのカメラの役割は、もはやアメリカ映画の一部においては完全に役目を終了して閉まったかのような印象を受ける。
そんなことはもう、とっくの昔から言われてきたのだと、多くの人は言うかもしれない。
だがそれは違う。
『ザ・ウォッチャー』にしろ『追撃者』にしろ、基本的には、ある街を舞台にした犯罪映画なのだ。
犯罪やそれにかかわる人々の物語であると同時に、その舞台となる街の物語でもある。
主観ショットで撮るときも、ニュートラルな視線で撮るときも、そこには非常に具体的な人と人との関係や人と世界との関係が浮かび上がってくるはずなのだが、単なる演出の巧拙の問題ではない部分で、その具体性が、かつてあったものから別のものへと変質していることが感じられるのである。
たとえば『ザ・ウォッチャー』には、明らかに犯人が見た映像であるはずのものが映し出されているのだが、どう考えてもそこには犯人がいるはずはない、そんなショットが紛れ込んでいる。
後になって、同じ場所で二人が出会う予感のようなショットなのだが、しかしそれがあるために、犯人の肉体の具体性が一気に消滅していくようなショットである。
これが『目撃者』のクリント・イーストウッドだったら、何の問題もないはずなのだが。
だが、どうも違う。
揺れ動くカメラが捕らえたそのぼんやりとした世界の姿は、いったい何なのか。
『アンブレイカブル』の冒頭で、列車事故が起こるまでの10分ほど、やはり同じような揺れ動く撮影が続くのだが、これはもう少しはっきりしていて、後にブルース・ウィリスが目覚めることになる超越的な力が見た世界ともいえると思う。
つまりそこには、物語的な要請も、ないわけではない。
これもラース・フォン・トリアーなら素直に「神」と言えるのだが。
それともどうやら違う。
ある種の物語的な要請や、テクノロジーの要請に巧妙に張り付きながら、人知を超えたもの、超越的なものに対する裏返しのシニシズムが、確かに顔を出しているように見えるのである。
などとぐずぐず考えているうちに、映画はあっさり終わる。
ジェームズ・スペイダーはもうちょっと皺が増えるとアル・パチーノみたいになる。
それくらいしか、見るべきところはなかった。

夜は、XZIBITの『RESTLESS』で盛り上がろうと思ったが、結局KRS Oneの図太い声が一番印象に残ってしまった。
Eminemは、自分のアルバムより、他人のアルバムでのゲストの方がいい。
あと、雑誌などで時々目にして気になっていたLow。
スティーヴ・アルヴィニのプロデュース。
「ジョイ・ディヴィジョン ミーツ サイモン&ガーファンクル」ということなのだが、やはりここは素直に、カウボーイ・ジャンキーズというべきだろう。
教会でライヴをやったりしているというところもよく似ている。
もっともこちらは、モルモン教ということだが。
アルバム前半は、それこそ通奏低音といったらいいのか、古い地層の揺れる音のような低音がずーっと鳴っていて、その振動に、彼らの目指すものを見たような気がした。
その通奏低音がなくなる後半はカウボーイ・ジャンキーズの勝ち。