
2001年 boid日記 1月
Text by 樋口泰人
1/ 8(月)
昼、新宿「らんぶる」にて、黒沢さんのインタビュー。
boid.netへの掲載用に、今回は大寺眞輔がインタビューするのだ。
大寺の、きっちりと構成がたてられた質問に、目を見張る。
私のインタビューとはまるで違う。
大抵は雑誌の仕事でのインタビューとなってしまう私は、限られた時間の中で行うため、とにかく気になったことからまずぶつかって、その反応を見ながら質問を展開していくという方法をとってしまうのが習性なのだ。
今日は2時間ほどの時間があったので、大寺のような構成をたてなければうまく話をきき出せなかったように思う。
それがどんなものであったかは、boid.netで確認してほしい。
今月末くらいには、載せられるだろうか。
しかし、黒沢さん、片目の周りに黒いあざを作っている。
年末の掃除の際に、換気扇の上の留め金のようなものが落ちてきて、それが目のあたりを直撃したのだという。
いや、喧嘩して殴られたとかそういうんじゃないですよと、こちらが何か言い出す前に言うものだから、これではまるで先走った言い訳のようなものだと、思わず笑ってしまう。
インタビュー終了後、大寺からboidの今後について、いくつかの提案。
その中にひとつ、大ネタあり。
大変な作業になるだろうが、ちょっとやる気になって、早速某所にメールする。
1/ 9(火)
昨年末から引きずっていた、2月のboid.netイヴェントの構成をやっと決める。
この春に連続上映される日活時代の鈴木清順作品を上映しつつ、現在の視点から清順作品を語る、という方向性だけは決めていたのだが、さてそれをどうやるか、何を上映するかということになると、まったく考えが浮かばなくなる。
年末年始の忙しさにかまけてずっとサボっていたのだが、さすがにもう決めないと、アテネフランセも困ってしまうだろう。
まあ、アテネのためにやっているわけではないのだから、こちらが決まるときでないと決まらないのだが。
とはいえ、小心者の私は、さすがに落ち着かなくなり、昨日からあちこちに電話をしたりメールを出したりしていたのだ。
で、黒沢さん、塩田君、荻野の3人がそれぞれ1本ずつ、それぞれの基準で清順この1本をセレクトし、それについてのコメントを書き、それをもとにトークを始める、ということで落ち着いた。
2月9日に2本(この日は上映のみ)、10日に1本とトークである。
ただ、黒沢さんが、『回路』の初日がその日になりそうな気配で、出席は微妙。
まだまだ波乱含みである。
深夜、菊池信之さんからファックスが入る。
『月の砂漠』の静岡ロケで、山の中に入っているにもかかわらず、宿泊先から、先日のインタビューの校正を送ってきたのだ。
これでもう3度目だったか4度目だったかの直しである。
それも、すべて撮影のあと、翌日も早いだろうに、大体深夜の2時3時にメールや、こうやってファックスが届くのだ。
インタビューの中でも、音のミキシングにいかに時間をかけ、その時間がどれだけ大切かということを菊池さんは話しているが、それは他のことについても変わらない。
基本的に諦めの早い私は、この粘りを見習わなくてはならないだろう。
といってもまあ、それができるくらいなら、今こんな風にしてはいないだろうが。
1/ 11(木)
雑誌「ユリイカ」編集部の山本氏より電話。
明日の夕方までに原稿がないとかなりやばいことになるとのこと。
考えてみれば今月下旬売りの映画『EUREKA』特集号の原稿だから、そりゃあたしかにやばい。
とはいえ小説『ユリイカ』に、あれほど余白の部分が書き込まれていては、それに加えていったい何を言えというのかと、先日青山にぶつぶつ文句を言ったのだが、とりあえずジム・オルークの「EUREKA」を聞き直すことから始める。
だが、果たして明日夕方までに、書きあがるだろうか。
その上、boid.net掲載の怒りの青山日記に関して、いったいどういうつもりでああいった暴言を掲載しているのかと何人かから怒られて、しょぼくれているものだから、ぜんぜん集中力が高まらない。
そこへ大寺から、「Crossroads」の水原君への反論を樋口さんが書いてしまったら、あの場所の公平さが失われるので、はっきりとルールを作りましょうという提言。
こういうことに「そんなつもりはなかった」という言い方は通用しないので、素直に従うことにする。
1/ 13(土)
スタジオボイスの特集用の、「DV以降の東京の風景」(仮題)というコラムのため、『W/O』というビデオ作品を見る。
DVで撮ったものをモニタに映し、それを更に撮影してコンピュータ編集を行ったという代物である。
東大の駒場寮をスクワットしていた人々の記録と取り壊し反対闘争の記録、あとはいくつかの東京の風景で構成されている。
ただ、最初から思い切りノイズが入り、画像処理が施されているから、何が映っているのかよく分からない。
監督は、駒場寮内で「obscure」というギャラリーを開いていたというのだが、まさに「見分けにくい」ものがそこには映っているのだ。
更に分かりにくいのは、寮の取り壊しに反対している人々の、反対理由である。
といっても、それは、物語的な因果関係を示すエピソードがないというだけで、あくまでもヒップホップ的な手法で物語をブレイクビーツしていくこのビデオでは、よりダイレクトに「因」と「果」が結び付けられているということになるだろうか。
それはまるで、作られては壊され、また作られ壊されして、常にその相貌を更新し続ける東京という街の、かき消されてしまった「見分けにくい」記憶そのものが、さまざまな操作を経てようやく画面に姿を現して、寮の取り壊しを阻止しようとしているようでもあり、そしてそれは、そこかしこに刻み付けられた記憶をサンプリングしてリミックスする操作なしには出現不可能だったのではないかとも思えた。
この方法が映画に通用するとは思えないし、もう一度それが可能だとは思えないのだが、ただそれが、製作者たちの「生」と強く結びついている限りにおいて、何度でも繰り返し試みられるべきだと思う。
石井聰亙の新作が早く見たい。
1/ 15(月)
試写に行く。
考えてみれば、多分、12月の始めに塩田君の『ギプス』を見に行って以来、試写には行っていなかったのではないか。
恐ろしい。
見たのは『楽園をください』というタイトルの映画。
さすがにこのタイトルでは到底見に行く気も起こらず、すっかり忘れていたのだが、どうやら南北戦争時の南部の若者たちの物語だということで、これはやはり見ておかねばと思い立ったのである。
原題は「Ride with the Devil」であった。
台湾生まれの監督アン・リーのインタビューからこの物語を総合すると、ドイツ移民の息子である(つまりよそ者の南部人である)南部の若者が、自由と平等とを旗印に掲げてその後の世界を均一化していくヤンキーと戦うことにより、自由と平等を得る物語という風になるだろうか。
しかし気になるのはやはり、この映画における「Devil」とは何か、というところである。
そうやって見ると、そこかしこに「Devil」はいる。
南部の若者たちを大殺戮へと導いていく男、もはや人殺しを趣味のようにしてしまった凶暴な若者、あるいは愛し合うたびに相手の男が命を落としてしまう不運な女。
もちろん、主人公の"よそ者"南部人である若者を、結果的に南部側に立たせてしまう説明不能の力や、それぞれの個人の思惑を超えて戦いが起こってしまうシステムなどなど。
だがそれらのどれも、決定的なものに思えないのは、いったい何故だろうか。
奇妙に明るくクリアな画面、どこか語りを急ぐように少しだけ早く終わるそれぞれのカット、どこかシネスコサイズの画面を大胆に使い切っていない構図、などなど、原因はいくつか考えられるが、そのどれもまた、しっくりこない。
最初から画面を埋め尽くす緑の草木が、物語の悲惨さにもかかわらずその後の主人公の自由と平等の獲得をあらかじめ保証しているからだろうか。
だとすると、「悲惨さ」とそれがイメージする風景とが、私の中ですでに固着しているということも言えるわけだし、しかしどうもそれだけでもない。
この物語って、ほとんど『新・仁義なき戦い。』じゃないのか?
監督はインタビューで次のように語っている。
アメリカは自由を約束して世界を征服しているかに見えるが、彼らはまだ自分の国を完全に征服しておらず、自分の自由を達成していない。この現在進行中の葛藤と希望を全編で表現した。
ここで、「アメリカ」を「日本」に置き換えて「世界」を「アジア」に置き換えても、この発言は成り立つ。
『新・仁義なき戦い。』では日本の「Devil」がはっきりと指し示されていて、その否応なさが全編に暗い影を落としていた。
その姿をすでに見てしまっているためなのか。
「いやそうじゃない、この映画の「Devil」って、最終的に主人公の妻になる「不運な女」のことなんだよ」と、英語を解する人は言うかもしれない。
確かにそれで、美しく物語は収まるのだが。
だが、南北戦争は現在も続行中であるというこの映画の主張は、やはり心しておくべきだろう。
1/ 16(火)
急に、『回路』のパンフレット用の原稿を書くことになり、慌ててもう一度『回路』の試写へ。
さすがに込んでいる。
東宝の試写室の入場チェックは厳しく、フリーのライターだと、どんな媒体に書くのかということを明記しなければ入れてくれない。
「マスコミ試写会」という名前の通り、試写会は媒体や組織相手のものであることを厳密に実践しているのである。
それはそれで、会社の方針としては一貫している。
ただ、もはや人格を失ってしまったライターとしては、映画の写真とキャッチーな紹介が載っていればそれでいいんでしょ、というすさんだ気持ちになる。
というか、映画にかかわるさまざまなことが、こうやって映画から疎外されていくのだろうと、複雑な気持ちになる。
これは今回に限ったことではまったくないのだが。
ただ一方で、そういう疎外をも巻き込んでいくのが映画だという気もする。
夜、子供が宿題の本読みをする。
最近どんどんと父離れが進み、本読みのときは「お父さんはあっちに行っていて」などと言い始める。
何を言うかと、無理やりそばで聞いていると、1年生ながら立派に読んで行くのであきれる。
だが、ノートに本読みの採点をつける役割の妻は、ちょっと読むのが早すぎるだとか、途中で気が散っているだとか、声の大きさがバラバラだとか、レコーディングのときのような注文をつけている。
いくら職業だからといって子供の本読みまでその耳で聞くなんてあんまりだと思って見ていたのだが、子供は悪びれずいちいちうなずいて素直に従っている。
なんてことだ。
今度、子供のナレーションが入る映画があったときには、ぜひ使ってもらおう。
1月18日(木)
ウォン・カーウァイの『花様年華』。
いったいこれをどう読めというかと思ったら、「かようねんか」と、そのまま読むのだそうだ。
「満開の花のように、成熟した女性が一番輝いている時のこと」、という注釈がついている。
40歳にさしかかろうという年齢の二組の夫婦の不倫の物語である。
ただ、例によって、その二組の設定と住居が問題で、その二組は同じアパートの隣に引っ越してきて暮らし始めるのだが、そのそれぞれの伴侶同士が不倫をしていることが判明し、そのうちに不倫をしていないほう同志も心惹かれあっていく。
登場するのは、このうち不倫をしていないほうの妻と夫だけ。
それぞれの伴侶は後姿がほんの少し映されるだけで、あとはまったく映されない。
おそらく、二組四人がそれぞれ映されていたらまったく違う映画になっただろう。
撮影は相当大変だったというから、もしかすると最初は四人の物語だったのかもしれない。
しかしこの映画を見る限り、やはり最初から二人しか登場させない物語として始めたとしか思えない。
二人がそれぞれの伴侶との記憶を引きずりながら、そして二人の未来を思いつつ、それにそれぞれの伴侶との未来を重ね、その未来を思うたびに自分たちが過ごしてきた過去の思い出が次々にあふれ出てくる、そんな物語になっているのだ。
二人は未来を思い出し、過去をこれから生きる未来のように語る。
二人が二人であることで四人になっているといえばいいだろうか。
もう途中からは、実は不倫しているそれぞれの伴侶など最初からいなかったのではないかとか、もともとこの二人こそが夫婦だったのではないかとか、二人のアイデンティティがどんどん不明瞭になっていく。
彼らの「現在」の中から、彼らの過去や未来が溢れ出して「現在」の輪郭をあやふやにしていくこの状態を、「成熟」というのかもしれないと、ふと思う。
とはいえ、主演のマギー・チャンと彼女の住む構造のないアパートに見とれている間に映画は終わっていた。
所々で出てくる、説明のための字幕は余計だったように思う。
夕方、帰宅した子供が、友達のところに電話をしなくてはと言い出す。
どうやら遊ぶ約束をしてきたらしい。
しかし木曜日は中野にあるピアノ教室に行く日で、そのために彼女はいつもより早く学童保育から帰ってきたのであり、私も木曜日は4時以降の仕事はいれずに帰宅しているのである。
そんな状況が、子供はまったくわかっていない。
だって、遊ぶ時間なんてないじゃないか、いったいいつ遊ぶつもりだったのかと問うても、子供は、でも約束をしてきたと繰り返すばかりである。
子供の一日は、まったく不連続に構成されているらしい。
1月19日(金)
最近留守電に伝言がぜんぜん残っていないなあと、なんとなく不思議に思いつつも、まあさっぱりしていていいやと思っていたら、なんと、留守電のメッセージがいつのまにか変わっていて、「後ほどおかけ直しください」というものになっていた。
何の事はない、これでは伝言が残っていないはずである。
急用のあった方、ごめんなさい。
いったいいつからこうなっていたのかまったく記憶にないのだが、かなりの間そうだったような気もする。
夜、『回路』パンフレットのための原稿。
文字数がそれほど多くないのと、普段から映画雑誌なんて読んだことのない人も多く買うことだろうという配慮もあって、何についてどう書くか、なかなか書き出せないうちに土曜日朝までの締め切りがやってきているのだ。
ようやく、誰が彼らの後姿を見ているのかということを検証していくと現実とフィクションをつなぐ回路が出来上がるという話でまとめる。
もっとほかに書くことはあるとは思うのだが、ここはこれまで。
この原稿のために再見した『大いなる幻影』と、すでにいろんなことがごっちゃになり始めている。
『大いなる幻影』の中で、主人公の一人、ミチ(唯野未歩子)が屋上から飛び降りるシーンがあるのだが、あれはいったい、どういうことなのだろうか。
やはり、黒沢清と落下の欲望について書けばよかったか。
だがそれはまた、いつかにとっておこう。
1月20日(土)
明け方に寝たのに、なぜか9時過ぎに目がさめてしまう。
起きるのも癪なので布団の中でぐずぐずしていると、妻が、「テレビに青山さんが出ている」といって起こしに来る。
TBS「王様のブランチ」という情報番組である。
とりあえず場慣れした感じでにこやかに座る役所広司氏の隣で、不機嫌そうに疲れた表情の青山。
いつ怒り出すかとはらはらしながら見ていたが、とりあえず適当にギャグをかまし、笑いを取っている。
生真面目な妻は、ひどい番組だといって怒っている。
午後からは、日仏学院にてカイエ週間のイヴェント。
今日は、『カオスの縁』とスニークプレビューの秘密作品をやったあと、「青山真治監督を囲む会」というのがある。
私と稲川さんと青山とで簡単に話をしたあと、客席との質疑応答。
しかし、いきなり、南北線市ヶ谷駅で迷子になる。
日仏学院に行こうとするたびにここで迷ってしまうのだ。
電車を降りたときに出口表示を見れば、どの階段を上ればいいかすぐわかるのだが、そのたびに今回は絶対大丈夫と自分の感を信じ、階段を上っていくと、なんだかわけのわからないところに行ってしまう。
どこにも「法政大学方面」という表示がない。
そこでやっと階段を上り間違えたことに気づき、またもやホームに下りてから別の階段を上る。
他の駅では絶対にこんなことにはならないのに、一体どういうことなのだろうか。
イヴェントが終わり外に出ると雪。
夕食を取っている間にどんどん降り積もっていく。
『月の砂漠』は明後日、多摩川での撮影があるという。
『EUREKA』初日の舞台挨拶に加え、日仏でのイヴェント、更に明日は8時くらいから撮影開始というハードスケジュールの青山はすっかりお疲れ気味。
レストランの人に風邪によく効くというカクテルを作ってもらってうまそうに飲んでいる。
酒の飲めない私は、この楽しみは予め削除されている。
雪は更に降り積もり、車で帰る梅本・坂本、佐藤・青山は、さすがに大変そうだ。
佐藤公美嬢の運転を知っている私は、思い切り不安だったのだが、公美嬢は「もうすっかりうまくなったから大丈夫」と胸を張っている。
などと他人の心配をしていたら、帰りの南北線で乗り過ごす。
なんてことだ。
市ヶ谷駅ではなく、南北線と相性が悪いのか。
1月22日(月)
ジョン・ウォーターズ『セシル・B ザ・シネマ・ウォーズ』。
入場のときのもらったプレスシートには「ジョン・ウォーターズ通信」というタイトルがつけられていて、新聞風のつくりになっている。
この映画に限ったことではないのだが、試写会で配られるプレスシートが年々凝ったものになってきている。
売り物のパンフレットならともかく、プレスシートであまり凝られても、ちょっと困ってしまう。
資料的な価値はあるので基本的にプレスシートは捨てずにためてあるのだが、やたらと小さかったり大きかったり、変形だったり、今回のように新聞風だったりして、それらを整理しようとすると場所ばかりとって全然うまく整理できないのである。
いっそのことネット上にちゃんとしたデータベースを作って試写会では何も配らない、という風にしたほうが、宣伝費の節約になるのではないかと思う。
各配給会社の共同事業としてデータベース作りをやれば、今からでも十分立派なものができるのではないか。
今、宣伝会社に支払っている宣伝費の何割かをデータベース事業に回すだけで、全然状況は違ってくるはずなのだが。
この映画は積極的な宣伝は一切やらずにネットだけで告知、というような思い切ったことをしたって全然問題ないだろうと思うのは、素人の夢のような考えなのだろうか?
『セシル・B シネマ・ウォーズ』は、腐ったハリウッドに本物の映画魂を見せてやろうとする「素人」集団の映画作りの物語である。
とはいえ、「素人」とはかけ離れた演出力と構成力のあるウォーターズさんは、さまざまなアイディアと工夫と映画ファンへの目配せをちりばめつつぐいぐいと物語を展開させていくものだから、それはもう、映画好きであろうとなかろうと関係なく盛り上がらざるを得ない。
ただ、この映画で仮想敵として想定されている「ハリウッド映画」に対する認識だけは、それをイメージでとらえるのではなく、はっきりと見極めておく必要があるだろう。
試写終了後、京橋から渋谷へと移動。
銀座線の渋谷駅からシネカノン試写室へ。
いつもなら東急本店通りを上っていくのだが、少し時間があったので、井の頭線沿いにできたホテル内のショッピングセンター(あそこはなんと呼ばれているのだろう。全然分からないところが悲しい)を通っていく。
最初から下の階に降りていけばよかったのだが、どこか途中で降りようと思い、銀座線の出口からそのまま入れる5階だったか6階を、両脇に並んだオープンカフェやらレストランの見物がてら、そのまま歩いていったのだった。
だが、そろそろ下に降りようと思うと、全然降り口がない。
このままだと道玄坂上まで行ってしまうと慌てても、降り口は一向に見つからない。
まるで屋外のような造りになっているものの、そこは出口のない内部だったのだと、このときはじめて気がつく。
コーエン兄弟の映画を見たときのような、嫌な気分になる。
そういえば先日のウォン・カーウァイの『花様年華』のアパートの中は、これとはまったく逆で、あくまでも内部として作られているにもかかわらず、そこからどこにでもいけるのではないかと思えてしまうような開かれた内部としてあった。
色とりどりの映画のプレスシートがどれも今ひとつ気に入らないのは、やはり、どんなに華やかに見せても、最終的にそれはこのホテルの内部のように一方向への道筋しか用意されてないように思えるからだろう。
もちろん渋谷の街は案外便利にできていて、道玄坂上に放り出されてもそれなりにすんなりと、シネカノン試写室への道は通じている。
と、そこにはフランス北西部の田舎の風景が広がっている。
まるで『許されざる者』の冒頭と最後の風景のような、シルエットになった大地と大きな木の脇を、ひとりの男が歩いていく。
何故男がそんなところを歩いていたのかまるで知らされないまま、次のシーンではひとりの男が荒涼とした大地にひれ伏すのが映し出されるものだから、ファーストショットの男は主人公であるその男なのだと思わずにいられないのだが、後に、その大地で少女への暴行殺人があったことや主人公は刑事であることを知らされてしまうと、もしかするとそのファーストショットの男は罪を犯して逃げていく犯人であるのかもしれないと思えもする。
一方この映画の最後は、警察で手錠をかけられて確か泣きながら座っている主人公の後姿が、これまた何の説明のまま唐突に映されて、それで終わる。
それ以前に、物語上は暴行殺人犯もつかまり、事件は解決済みとなっているので、いくらその犯人が刑事の知り合いだったとはいえあまりに突然の終わり方なのだが、しかしこれまたファーストショットと同様の、刑事でもあり犯人でもある男がそこでは映されているのだと思えば何の不可解さもそこにはない。
この刑事はそういう男なのである。
まったくの演技素人が演じているのだというこの男は、この映画の間中、多くを語らず、瞬きもせず、ひたすら目を見開いて、目前に広がる風景や人々を凝視しつづけるばかりである。
彼の強いまなざしを通じて我々は、その寒々しい風景や、善くもあり悪しくもある人々の行いを見ることになるのだが、見ることしかできないことにおいて、この映画の観客も彼も、この映画の中のどの登場人物でもあるものになっていくということなのだろうか。
これもまた、ウォン・カーウァイの作り出す開かれた内部空間に通じているのかもしれない、などと書くと、「映画は芸術であって、娯楽ではないと信じています」と断言する監督のブリュノ・デュモン氏に怒られてしまうだろうなあと、なんだか余計な心配ばかり浮かんでくるのは、一体何故だろう。