
2000年 boid日記 12月
Text by 樋口泰人
12/ 13(水)
この間、すっかり日記をサボってしまった。
後になってみると特に何をしていたわけではないのだが、日々はそれなりに思い切り大変で、映画もほとんど見ていない。
今日も朝から、boid.netの立ち上げのための仕上げ作業で、ほとんど息切れ状態。
ずーっとパソコンに向かっていると、通常はおとなしくなっている持病の耳鳴りが復活してくる。
つまり、完全に人格崩壊して、『ロスト・イン・アメリカ』で言えば「統覚」のない状態へと突入する。
某誌に依頼された原稿も、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と『ジュリアン』をネタに、というふうに言われていたのに、すっかり勘違いして『ダンサー』だけで書いてしまい、結局、別のコラムとして『ジュリアン』を書き直す羽目になる。
これまでそれなりに長い間ライターの仕事はしてきたが、内容の素材そのものを間違えてしまうというのは初めての事態だったので、さすがに反省というか、愕然とする。
編集者に言われるまで、疑いもしていなかったのだ。
というか、言われた今でも、そんなことは聞いてなかったよ、という気持ちさえあるくらいで、これは一体どういうことだろうか。
まあとりあえず、それもまたテクノストレス、ということにしておこう。
しかし、ネットのboid.netを見てみると、何だかこの間の苦労が嘘のようにそっけない。
そんなものだろうとは思うのだが、そんなものなのだろうか。
12/ 14(木)
新しいパソコンがやってくる。
windows ME搭載マシンである。
といっても購入したわけではなく、某パソコン誌で、ディジタル編集ソフトの使い方を特集することになり、そのために、編集部から借りたものである。
たまたま私のwindowsマシンと同じメーカーのものだったので、特に何の問題もなく使い始めたのだが、しかし、もうあきれるほど、いろんなアプリケーションや、プロバイダへの加入のための窓口ソフトが、ずらずらとデスクトップに並んでいる。
ちょっと前に比べてハードディスクの容量も数倍以上に増えたのだが、それ以上に、プリインストールされているソフトの数々も増えて、これではいくらハードディスクの容量が増えても追いつかない。
セットアップ用のCD-ROMが3枚もあるので本当にあきれてしまう。
私が初めてマッキントッシュのLC2を買ったとき、確かフロッピー10枚ちょっとで事足りていたのだが。
テレビを見ると、ティン・パンがニュースステーションに。
彼らの足跡を追ったビデオが流れ、久米宏や渡辺真理があれやこれや言ったりはするのだが、ティン・パンの人々は特別何を話すわけでもなく、のんきに鍋をつついている。
これは一体何のプロモーションなのだろうか。
彼らもまた、発売したCDが売れないと困るような状態にあるのだろうか。
20日のライヴのチケットは即日完売だといっていたから、そのための出演でもあるまい。
放映された彼らのスタジオライヴを見る限り、もう思い切り繊細な音作りをやっていて、テレビの音ではとても彼らの音に追いつけない。
そうなると余計にテレビ出演の意図が気になるのだが、まあ特別たいした意図はないのかもしれない。
12/ 15(金)
元エスクァイアの編集者田畑さんから電話がある。
彼女は今、「ハーパース・バザー」という女性誌のカルチャー欄の担当をしていて、1月売りの号では、「新世紀に活躍する注目の人!!」みたいな特集をするのだという。
で、音楽関係で何人かピックアップしてくれないかという相談。
そんなものできるわけない、とあっさりと断る。
今の音楽界がどれだけ滅茶苦茶なことになっているか、タワーレコードのフリーペーパー「バウンス」の新譜欄にどれだけのCDが紹介されているかを話し、これだけ毎月新譜が出ている中で、そこに見晴らしの良い何かを置こうとするような企画自体が間違いなのだと、断りの理由を説明する。
まあ、雑誌というのはそういうことをしたがるものなので、特別なんとも思わないが、とりあえず田畑さんには、そんな企画を立てるのが悪いと小言を言っておく。
ちょうど送られてきた「SIGHT」に載っている、青山、阿部、東の鼎談で、東君が以下のような発言をしていた。
「それこそネットの話だったら、昔は"マザーコンピュータ"みたいなものがイメージされていた。機械化した神がどこかに一ヶ所あって、そこを通してみんな繋がれる。でも現実にネットワーク 社会がきたら、まったく逆で、何も根拠がない状態で突然人間と人間が向き合ってしまうような世界がやってきてしまった」
これはまさに、音楽の世界がもっとも早く流通の上で実体化してしまった世界像でもあるだろう。
そこに見晴らしをつけようとすることは、虚しい作業であるだけでなく、その虚しさに同一化することによって、それがある種の全体主義の温床になることはあまりに明らかなことだ。
危ない気配をひしひしと感じる。
夜、阿部君から、「なみおか映画祭」のパンフレットに書いた『ユリイカ』論が送られてくる。
2次使用ながらboid.netに掲載するためのものだ。
そこで書かれている、「二台目のバスに乗り、事件の現場を再訪した沢井らの旅は、終点から始まる。終点と始点の重なり合った場所から出発する旅の目的地は、予め想定された"どこか"ではなく、行けるところまで行くことによってしか辿り着け得ぬ限界点だと言える。」というその限界点に、我々は何か見晴らしをつけながら行くのではなく、先の見えない森の中を、1本1本のそれぞれの木と向き合いながら進んでいく、その根気というより想像力を持たねばならないだろう。
それが、クリス・カトラーの言うインプロヴィゼーションであり、サイボーグという概念であったりするのではないか。
更に、大場正明氏よりメール。
ホームページをオープンしたとのこと(http://c-cross.cside2.com/index.htm)。
覗いてみると、90年代に入っての大場氏の批評の集積。
この根気に、いきなり動揺する。
思わず、「もう、これらを1冊の本にまとめるとか、売るとか、そういうことは諦めたのか?」という、何だかやたらと下世話なメールを返信してしまう。
一体、誰かに頼まれて作ったのか、それとも単に、自分のために作ったのか、何だかやたらと気になってしまうのは、多分私の怠惰が、大場氏のページのどこかストイックな部分(単に私がそう思ってしまうだけなのだが)に、反応しているためだろう。
しかし、ページの構造を見ると、今後ますます拡張、増殖していく気配がある。
本当に、一体どうなっていくことやら。
12/ 16(土)
新宿3丁目ルノアールで、『ユリイカ』の録音担当、菊池信之さんにインタビュー。
雑誌『ユリイカ』の映画『ユリイカ』特集のためのものだ。
菊池さんの噂はあちこちから聞いていたにもかかわらず、会うのは初めて。
会ってみて、噂からおぼろげに想像していた人物と微妙にずれつつも次第にその焦点が定まっていき、結局噂どおりの人物ではないかという感触を得る。
絶妙のタイミングで、ポツポツと話を続ける、その持続の仕方が妙に心地よい。
90年代半ば以降の何かが壊れた世界の中から始まる『ユリイカ』と、撮影所のシステムが残っていた時代の映画の音とはまるで違うものを目指している菊池さんの音響についての話がシンクロして、インタビュー自体はともかく、少なくとも私の原稿の参考にはなった。
今度の『ユリイカ』特集では、少し長めの原稿を書くことにもなっていて、他のメンバーの顔ぶれを意識したり、これまでに書かれた『ユリイカ』についての原稿を読んだりすると、もうこれ以上何を書こうかと思案に暮れていたのだが、今回のインタビューはかなりそのヒントを見つけることができた。
家に帰ると、黒沢さんから『カイエ・ジャポン』の『ユリイカ』特集に載せる原稿が届いている。
これまた傑作。
『ユリイカ』の内容に関しては、ほぼ完全に触れていない。
しかし『ユリイカ』のことばかりが書いてあるという、これは黒沢さんでなければ書けない原稿である。
なんとなく、私の原稿のほうも先が見えてくる。
深夜、青山に電話。
菊池さんに、明日からクランクインだと聞いたので、ご様子伺いといったところ。
明日から静岡での撮影かと思ったら、年内は都内各地での撮影とのこと。
静岡に遊びに行ったついでに温泉にでも入ってこようかという思惑が外れる。
しかも、静岡の撮影地はとんでもない山奥で、車がないと無理とのこと。
寒そうなので、そちらには行かないことにする。
キャスティングは相当大変だったようだが、結果的に満足のいくものになったみたいで、何より。
気がつくとエアコンがすごい音を立てている。
12/ 17(日)
現ハーパース・バザー誌の契約編集者である田畑さんと、同僚で、カウリスマキの『白い花びら』のパンフ編集者であった保田さんがやってくる。
何とかという若手デザイナーの顔写真がなく(若手といえば聞こえはいいが、要するに今年デザイン学校を卒業したばかり)、卒業パーティを記録したDVから、静止画素材を抜き出すため、我が家のマックを使いにきたのである。
といっても実作業は私がやらねばならない。
機材がそろっていない人にとって見ればとんでもないことかもしれないが、一旦揃えてしまうと、こういう作業は特別たいしたことでもなんでもない。
しかし、マックの調子は相変わらず悪い。
作業の間、田畑さんから、先日のエスクァイア誌上での私と柳下君との対談の件で、バーカー・ボーイズの片割れの町山君が、柳下君に、「こんなに新しいアメリカ映画が盛り上がり始めているときに、アメリカ映画は終わっただなんて対談をするのは一体どういうつもりだ」とか何とか文句をつけたとかつけなかったとか、という話を聞く。
たしかに、『ファイト・クラブ』や『マトリックス』や『マルコヴィッチの穴』などなど、話題には事欠かない。
『π』の監督の新作『レクイエム・フォー・ドリーム』という映画も、たいしたものらしい(という噂である。まったくお間抜けな映画だった『π』を思うと、どうにも信じられない話ではあるのだが)。
しかし、でもあの対談では、敢えて「アメリカ映画は終わった」ということに、私はしたのだ。
要するにエスクァイアの文脈で、ポジティヴに「アメリカ映画の若手監督が面白い」とかやってしまうと、90年代に入ってせっかく「迷子」になった我々が極めて個人的なやり方で「アメリカ映画」直接向き合っている今、またもやそこにマザーコンピュータを作り上げて、その中心との交信によって映画を見なくてはならなくなってしまうからだ。
それに、『ファイト・クラブ』にしても『マトリックス』にしても『マルコヴィッチの穴』にしても、別に、イギリスやドイツ映画のニューウェイヴといったって、全然不思議じゃないものではなかったか。
むちゃくちゃ金をかけたインディーズ作品にしか見えなかったけど。
12/ 18(月)
朝から延々と、パソコン誌のための、ビデオソフトの使い方講座準備。
このために借りたwindowsマシンは、しかし動画と音声を同時に扱うと、さすがに不安定になる。
何だやっぱりこの手のことをするとwindowsも不安定なんだと、ちょっと腹立たしくなる。
というか、あらためて、パソコンは何でもできるわけではないのだと、実感する。
IT革命の日は遠い。
ニュースでは、NTTが光ファイバーの個人利用を実験的に実施すると報道している。
それはいいが、電話料金は何とかならないのか。
もうずいぶん前の話になるのでばらしてしまうが、私の知り合いがNTTのイヴェントのためにCD-ROMを作っていた。
そのとき、コピーライターを使って、3日ほど取材をして、原稿を4000字程度でまとめてもらった。
で、そのコピーライター氏から、その仕事の請求書がやってきてびっくり。
何と 90万という金額がかかれていた。
私の知り合いはあきれてどうしようかと思ったのだが、とにかく、NTTの方に、これだけの仕事を頼んだらこの請求書がきたと報告したら、これがまた何とまあ、何日か取材にいったしね、ということでNTTはあっさりはんこを押したのだそうだ。
湯水のように金を使うとは、まさにこんなことかと思うのだが、これは貧乏ライターのひがみだろうか。
IT革命を謳った国家予算が、このように消えていかないことを祈るばかりである。
私はその話を聞いて以降、とにかくNTTにはできるだけ支払いをしないように心がけ、現在では電話もインターネットもケーブルテレビに変えて、個人的には直接のNTTへの支払いはすべてなくなっている。
でも結局は、ケーブルテレビが使用料を支払っているわけだから、同じことかもしれないのだけれど。
そのケーブルテレビも、会社が小さかったうちはいろんなやり取りがとてもスムーズだったのだが、この夏に合併して以降、いろんな手続きがものすごく複雑で面倒になってしまった。
資本主義社会の組織というものはこういうものなのだということを、あからさまに見たような気がして、それはそれで意義深いことではあったのだが、やはりやりにくくてしょうがないことには変わりない。
どうやら社員にとっても同じことなようで、メールアドレスの手続きのもろもろの変更のお知らせなど、こちら以上に会社事態が混乱しているのがあからさまに分かり、これがゴダールの言う「DV圧縮」のなれの果てなのだと実感した。
12/ 19(火)
気がつくと、日曜日からこの3日間、子供の病院通いの送り迎え以外、家から出ていない。
こんなことでいいのだろうか。
病院の帰り、子供が走るので追いかけようと思ったら、もう膝から下ががくがくして、まるで走れない。
やはりこんなことではいけないと思うのだが、どうにかなるようだったら今ごろこんなになっていない。
しょんぼりしていたところに、巻上公一氏からカイエのための原稿、筒井さんからboid.netに載せるクレイマー・イヴェントの直しが送られてくる。
この1年くらい、自分で原稿を書くよりも、他人の原稿が経由していく郵便空間になっている場合の方が多く、その通過のエネルギーによって生きているようなものだと時々思う。
その半面、まったく自分のコントロールがきかなくなり、目眩が次第に酷くなっているような気がする。
青山日記の某大俳優氏ではないが、誰か私を使ってくれ、と呟くばかり。
気がつくと、今年は、原稿らしい原稿を数えるほどしか書いていないような気がしてきて、まあ、だからどうだという気もするのだが、何だか再びしょんぼりしてしまう。
それもこれも、子供の中耳炎と一時的な難聴のための病院通いで、ほぼ絶望的に映画が見られなくなったことのせい、ということにしておこう。
12/ 20(水)
撮影に入ったばかりの青山の新作『月の砂漠』のシナリオが届く。
まずは気になった、某大俳優、パンク女優の名前を確認。
大俳優は、思わぬ人で、しかしなんとなく分かるような気もして納得。
それ以上に動揺したのはパンク女優の方で、かつて彼女のファンだった私は、70年代前半、彼女がエレック・レコードから四人囃子と出したアルバムまで持っていた。
これはやはり、そのアルバムを持って撮影現場に出かけてサインのひとつでももらっておこうかとレコード置き場を探すと、ない。
何のことはない、引越しのときに売ってしまっていたのだ。
いつものことなのだが、この、物持ちの悪さは、愛の薄さに由来しているのかと、時々思う。
せめて売ったことくらい覚えていてもいいはずなのにと思うのだが、売るときは多分もう、尾を引くような後ろめたさすらないのかもしれない。
我ながら悲しい。
しかしシナリオというものは、映画を見た後だといろいろな発見があるのに、この段階で読んでもなんだかよく分からない。
ここに書かれていることよりも、書かれていないことこそが重要なものに思えてくるのだ。
それに加え、シナリオ上はごくわずかしか登場しなかったり、一面的な描き方しかされていない人物たちが、それゆえに非常に重要な役割を背負っているように見える。
こういったシナリオを、プロデューサーは一体どのように読み、どのような判断を下すのだろうか。
12/ 21(木)
昨日のシナリオの「大俳優」氏、私の勘違いというか、もう絶対この人ではありえないという思い込みにより、もうひとりの「大俳優」こそが、問題の人物であった。
さすがにこれはすごい。
この人が本当にヴェンダースを見ているのか……。
今回のシナリオを読んだ彼は、『アメリカの友人』だね、と語ったそうだが。
しかし、例のパンク女優とこの大俳優をならべてみると、そうか、これは藤田敏八と神代辰巳の追悼映画にもなるなと、『EUREKA』がロバート・クレイマーとエイブラハム・ポロンスキーの追悼の意味もあったと語った青山の言葉を思い出しながら、勝手な思いをめぐらす。
とはいえふたりとも主役ではないし、特にパンク女優は映画の冒頭に登場するだけだから、彼女がこの映画にどのような力を与えるかは、出来上がってみなければ分からない。
演技/演出の手腕が問われるところになるだろう。
12/ 22(金)
新作『モレク神』のプロモーションで来日しているソクーロフにインタビュー。
この映画ではヒトラー、ほぼ完成した次作ではレーニン、そしてその次はヒロヒトという3部作を企画中のソクーロフは、どうやらいよいよヒロヒトの準備に入ったらしく、相当きついスケジュールの中でプロモーション活動をしているようだ。
そのせいなのか、元々このような人なのか、これまで活字で読んできた彼のイメージとはどことなく違う。
さっぱりとした感じさえする。
見えないものをそこに広げて見せるような、こちらを自分の世界に連れ去っていくような迫力はない。
私としては、これは随分「助かった」というところなのだが、それは果たして本人にとっていいことなのかどうかはよく分からない。
それに、インタビューの言葉は、結局はインタビュアーとの関係から発せられる部分も大きいので、単にソクーロフが私の希薄さに合わせてくれただけなのかもしれない。
だが、『モレク神』自体は、どうもしっくりこなかった。 うまくいえないのだが、ヒロヒトをも含む3部作ということを想定に入れると、このやり方では少なくともヒロヒトは絶対にうまくいかないだろうということが予想できてしまうのだ。
公人としてのヒトラーを、その「親密さ」において暴くことによって、結局は「公」そのものを暴くという、この映画でとられた方法は、西洋近代の「個」を中心にして考えられたもののように思えるからだ。
今や、その「親密さ」においてとらえられるはずの西洋近代の「個」こそが、問われているのではないのか。
オリヴィエ・アサイヤスの『感傷的な運命』で、まさにその「親密さ」によって「公」への抵抗を示したポール・ヴァレリーの小説を妻に読んでもらいながらうとうとと寝入り、庭に咲く桜の木(だったか)の下へと魂の散策を始めた主人公のまどろみを見てしまった者にとって、どうもこのヒトラーの姿は古臭いものに見えてしまう。
もちろん新しい、古いの問題ではないのだが……。
12/ 23(土)
子供と一緒に『ダイナソー』を見る。
昨日、ソクーロフは、映画はどうやったって2次元のもので、奥行きはないのだと、確か以前のインタビューでも語っていたことを、しきりに強調していたのだが、こちらは3D処理されたアニメである。
だから、身体のあり方は、アニメというより実写に近い。
微妙な表情も、かなりリアルになっている。
この分だと、そう遠くないうちに、ほとんど実写と変わりないアニメが出てくるのかもしれない。
エドワード・ヤンは、たしか、コンピュータでいくらリアルに表情をつけられるようになっても、それだけなら人間がやったほうが早いだろ、と、当たり前だが非常に現実的なことを語っていた。
ソクーロフは、コンピュータはやり直しがきくのが気に入らない、我々は後戻りのできないところで撮影しているのだと、語っていた。
『ダイナソー』もまた、惑星の落下で恐竜が絶滅してしまい、もはやここにはいない、という後戻りのきかない事実を知っているだけに、少し悲しい。
そんな現実など関係なくスクリーンを見つめる子供には、この映画は一体どんなふうに見えているのだろうか。
とりあえず恐竜映画で言うと、一番が『ダイナソー』、二番が『ロストワールド』、三番が『ジュラシックパーク』、というのが子供の判断である。
12/ 25(月)
カイエの映画日誌に載せるため、大学生たちから送られてくる原稿をチェックしている。
どれもそれなりに面白く、私の大学生の頃を思い起こすと赤面するばかり。
filmex東京という映画祭で上映された映画についての日誌なのだが、こうやっていろいろ読んでいるとなんだか映画を見なくてもいいような気分になってくるのが不思議だ。
これは文章のせいなのか、映画のせいなのか。
おそらくは両方だろう。 だがそれに加えて、私のせいでもある。
映画を見なくては、と、気持ちは焦るが、まるで時間がない。
12/ 26(火)
とにかく今日は仕事をサボって映画を見ようと思い立ったのだが、すでに試写時間には間に合わず(子供の病院通いのため、1時の回しか見れないのだ)、ロン・ハワードとジム・キャリーという組合せで気になって仕方なかった『グリンチ』へ。
新宿武蔵野館で見たのだが、同じビルの3階でも、こちらは吹き替え版をやっている。
さすがにロン・ハワードともなると吹き替えもあるのかと、それくらいのことしか思わずに劇場に入ると妙に年齢層が低い。
まあ平日の昼間だし、冬休みだしと思い、そこでもまだなんとも思っていなかったのだが、映画が始まってやっと状況を把握する。
『ウィロー』だったのだ。
人間を使ったアニメと言ったらいいだろうか。
そういえば宣伝用のポスターは、グリンチに扮した(というかぬいぐるみを着た)ジム・キャリーが映っていたっけ。
とうとう最後まで、ジム・キャリーは素顔を見せなかったのだが、もちろん、動作を見れば伝わるものは伝わる。
でも、これはトミー・リー・ジョーンズだと言われても、納得してしまうかもしれない。
とはいえ、もうひとり、やはりこれこそトミー・リー・ジョーンズの役柄と思える人物がいた。
もちろんそれは、結局最後にはみんなから総すかんを食らわされてしまう、その街の市長さんなのだった。
面白かったのは、『モレク神』のヒトラーとこの映画のグリンチが、ともに、高い山の上に暮らしていることだ (ヒトラーは別荘だが)。
欲望の高みに立つヒトラーと、欲望の果てのゴミ捨て山の上に住むグリンチ。
ヒトラーは山の上でだけ自分自身になり、グリンチは最後に街に下りていくことで自分自身を取り戻す。
だがもはや、高みと低みという二分法では事態を把握しきれないところに我々の世界は来てしまっているというのは前提だろう。
さすがに『モレク神』はそこまで単純ではないが、この『グリンチ』も、その状況を把握した上で、二分法の時代を懐かしんでいるように見えた。
つまり、もはや今は違うという思いが、そこかしこに張り付いているのだ。
そこが『ウィロー』との決定的な違いである。
したがってグリンチが山を降りて街の人々と暮らし始めても、それで何かが終わったようにはとても思えない。
そのことによって、この映画は、市長ではなく平和に暮らす街の人々をこそ告発しているようにも思えるのだが。
家に帰ると、仕事のトラブルが待っていた。 その上、やり忘れていた仕事もあった。
やはり映画など見に行っている時間はなかったのだが、ここまで時間がないと、映画を見に行っていても同じである。
などと開き直ると確かに少しは楽になるが、余計仕事は終わらず、一体朝の7時過ぎにこんな日記を書いていていいのだろうか。
12/ 27(水)
12時に新宿中村屋地下1階マ・シェーズにて、安井君、そして10数年前、私と安井君を出会わせたJ君と待ち合わせ。
このところ何年か、毎年この時期に3人で顔を合わせる、恒例の集会である。
今年は、J君がいよいよ神秘主義者の本領を発揮して、10月に壮絶なパフォーマンスを我々に見せてくれた、そのことについてのJ君からのもろもろの報告と解説がある。
霊魂には実体があると言うJ君を、幽霊に実体があるなら証明してほしいと言う黒沢さんに、いつか出会わせようと思っているのだが、まあ、それはいつになることやら。
しかし、朝8時に寝たばかりなので、そう簡単には起きられない。
30分ほど遅刻して到着すると安井君が来ていない。
いくら待ってもこないのでJ君が電話すると、日を間違えたのだとか。
仕方ないので、私ひとりでJ君の話を聞くことになる。
何しろ見えない実体についての話なので、イメージできる部分とできない部分がある。
イメージできる部分にしても、こちらが勝手にイメージしているだけであって、それが果たして本当にJ君の言っているものなのかどうかの保証はない。
ただ、きいているうちに、『モレク神』のことが思い浮かび、ピンとこなかった部分の手がかりが見えてくる。
その一方、さすがに睡眠不足のせいでどんどんと気が遠くなっていく。
家に帰ると、小説『EUREKA』が届いている。
いわゆるノベライゼーションの文庫本かと思っていたら、完全に通常の小説の単行本になっていて驚く。
美しい表紙なのだが、帯をした状態だと、ススキの穂先ばかりが見え、なにやら宗教本のように見えるのは、J君の話を聞いた後だからか。
ただ、帯をとると、あれは何なのか、濃い黄色の花が宗教色を一掃する。
その上にかすかに、ジム・オルークの「EUREKA」の歌詞が。
Hello, hello, can you hear me?
映画と違い、ほとんどが、映画の前半部分に費やされている。 映画では謎だった光石研が扮した「茂雄」というキャラクターと「沢井」との関係が、見えてくる仕組みになっているようだ。
我が家では、スティーヴン・キングの新作をすでに読み終えた妻が、先に読むことになる。
本日は妻の誕生日。
夕食は、荻窪・南漢亭へ。
ここのユッケジャンはむちゃくちゃうまいのだ。