
boid日記 2007年5月~7月
text by 樋口泰人
7月29日(日)
昨日は、友人の納骨式と四十九日の法要があり、寺へ。
驚くなと言われていた墓は、その意味では驚かなかったが、かなりな広さがあり、そちらの方に驚く。
しかし、あまりの暑さでさすがに疲れる。
夕方、見なくてはならないビデオをあれこれ見始めるが、疲れで寝てしまう。
夜は、『アワー・ミュージック』の音調整。
DTSの音はさすがにクリアで気持ちがいい。
DTSのようなデジタル・システムになると、ゴダールでもアメリカ映画のような音のバランスになる、ということがよく分かる。
そのの音はあまりに洗練されていて、壁の音を活かそうとすると本当にバランスがよくなるのだが、「爆音」という気がしない。
結局、左右のスピーカーを優先させることにする
試写の時に私が聞いたはずの壁からの人の足音などは、残念ながら確認できず。
何度かおなじシーンを見たのだが、やはり違う。
ではあのとき聞こえてきたのはなんだったのか・・・
しかし、映画の最後には、堂々と「Dolby SRD」の文字が。
一体これは・・・
ゴダール&ミュジーはドルビー・デジタルで作ったのに、誰かがDTSにしてしまったということか???
フィルムに書かれているようにSRDだったら我々のこんな苦労はなかったのにねえ・・・
というところでふと疑問が生じたのだが、私が見た試写室は映画美学校の第1だったと記憶している。
美学校の試写室はDTSに対応していたかどうか未確認なのだが、例えば、もし、DTS未対応で、プリントに焼き付けられているドルビー・サラウンドでの上映を行っていたとして、そっちのヴァージョンにだけ壁を伝う足音が入っていたりする、というようなことはあり得ないだろうか?
まあ、いずれにしても、だからどうだ、という話ではない。
私がその音を聴いた『アワー・ミュージック』は、あのときだけのたった1度の上映だったということにしておこう。
本日は、終日原稿書き。
事務所開設以来、土・日は仕事をしないということで来ていたのだが、このところさすがにそういうわけにはいかなくなっている。
やってもやっても終わらない。
雷雨の後、投票に。
選挙の時はいつも迷う。
現政権をひっくり返すだけではなく、その亜流でしかない民主党も危うくさせるような結果を生むために、自分の一票を誰に入れるのが一番有効なのかを考えてしまうからだ。
選挙結果は民主党の大勝ということに終わったが、毎度のことながら投票率の悪さには驚かされる。
今回も50パーセントを切りそうな勢い。
先日のフランスの総選挙では、確か90パーセント近い投票率ではなかったか。
選挙に行かないのは個人の自由ではあるが、行かないなら、税金も払わない年金も払わないもちろんNHKの受信料も払わない、という一貫性をもってほしいものである。
それらを支払って選挙に行かないなんて、クソやろうにむざむざ自分の金をあげてるようなものだ。
それなら、それらを支払う代わりにboidにカンパしてほしいと切に願う。
夜は選挙繋がりで、『ブレイズ』を見る。
ポール・ニューマンが伝説のルイジアナ州知事を演じる。
久々に見直したのだが、ニューマンがかなり痩せていて今にも死にそうな気配。
ドキドキするのだが、それが物語のポイントともなるわけだから、これも役作りだったのだろうか。
その後、ニューマンは俳優としてもインディ・カー・チームのオーナーとしてもまだまだ活動していたわけだから。
最後に流れるもう一人のニューマンの「ルイジアナ1927」には、またもや泣いてしまう。
しかし、ロン・シェルトンのような普通の映画を撮ることのできる人が新作を作れない状況が続くアメリカ映画には、いったい何が起こっているのだろうか?
7月26日(木)
夕方からの打ち合わせの資料を忘れたことに気づき、ギリギリ間に合いそうなのでいったん家に帰ったのだが肝心の資料が家にない。
よく考えると、当日に持っていこうとすると絶対に忘れるからと思い、何日か前に事務所に持って行ったのだった。
暑さのせいとか体調のせいとか、いろいろ理由はつけられるのだが、われながら寂しい。
仕方ないので急いで事務所に戻り資料を持ち、打ち合わせ場所のキングレコードへと向う。
サークのボックスセットのデザインやブックレットの構成などなどについて。
そこでもまた、私が発売されるタイトルを間違えていたことが発覚。
呆れるばかり。
『大空の凱歌』は発売されません。
発売されるのは『自由の旗風』。
その他は同じです。
若いころから、記憶チップを頭に埋め込んで、どこにでもいける車椅子に乗って生活したいと言ってはばからなかったのだが、本当にそうならないと社会生活ができなくなりそうである。
事務所を作ったのも、そういったもろもろの事務整理その他を何とか若者たちに任せようと思ったからでもあるのだが、とにかく今の状態では、人に伝える前に忘れていたりするので、私の姿を見てすべてを分かってくれるような人でなければ、boidの整理はできそうにない。
仕事がらみの音楽ドキュメンタリーの流れで『パンクス・ノット・デッド』と『アフロ・パンク』を見た。
前者は、タイトルから想像していたものとはまったく違い、20年以上活動を続けるパンクスの現在の姿や現在の演奏、現在の発言がしっかりとクールに処理されていて、立派なドキュメンタリーになっていた。
「パンク」ということよりも、人が生きていくこと、何かをやり続けていくことに関する非常に刺激的な作品。
絶対にタイトルで損している。
このタイトルじゃあ、パンク好きしか見に行かない。
そうじゃない人にこそ見てほしい映画なのに。
とはいえ、どんなタイトルをつけてみても、パンクに興味のない人がこういった映画を見るようなことは考えられないからこういったタイトルになったのだろうけど。
山形国際ドキュメンタリー映画祭などでやってもらったらいかがだろう。
何かそういった荒業でもしない限り、棲み分けの進んだ居心地の悪い業界に爽やかな風が吹くことはない。
『アフロ・パンク』はさすがにちょっと雑なつくり。
意図的なものなのだろうか。
ぶちぶちと切れたり、全然違う音質の音が平気でつなげられたりしているのがどうもうまくいっていない気がする。
深夜のバウスでは出張DTSの取り付け作業が行われた。
とにかく『アワー・ミュージック』はDTSでやらざるを得ないのでこうするしかなかったのだが、関西の業者から装置を借り(東京ではレンタルしてくれるところがなかったのだ)、東京の業者が取り付けに来てくれたものの、それらの料金はそれなりの値段になる。
『アワー・ミュージック』の、おそらく2.5日分の興行収入くらい。
配給収入に直すと5日分くらいか。
それなら今回は上映自体を中止した方がいい、という考えもあったのだが、ここまでやってしまったのだし、プリントがあるのに上映しないというのもおかしな話ではあるのでやることにしたのだ。
いずれにしても、バウスがDTSの装置を購入するまでは、2度と爆音DTSはないので、この機会に是非ご来場を。
特に、壁からの音に注目。
ゴダールの映画で、壁のスピーカーからの音が移動感を持ちながら聞こえてきたことはない。
いや、私の記憶での話しなので、なんとも自信はないのだが。
土曜日の爆音調整のときに、その音も確認したい。
それに、3つの章ごとに、音の作り方を変えているはずなのだ。
そこにも注目していただきたい。
次回に爆音ゴダールをやるときには、プリントに焼き付けられているアナログ信号によるドルビーSRでの上映をやってみようかと思う。
かなり違った音になっているはずだ。
とにかくDTSのセッティングは無事終了。
フィルムとの同期も大丈夫との知らせ。
土曜日の調整が待ち遠しい。
7月24日(火)
あまりの体調の悪さに、昨日分の日付まで間違えた。
月曜日は23日、火曜日分が24日である。
というわけで、火曜日は1日中グッタリ。
家で仕事をしているときなら、本当にずっと寝続けてしまうところ、無理やり事務所に出てきて、多少の事務仕事やら何やらを。
夜は気分転換と仕事の要請もあって、『エア・ギター エピソード0』と『Too Tough To Die』。
ともに音楽ドキュメンタリーという枠組みに入るものだが、一方は音楽を演奏するのではなく音楽にあわせてギターを弾いている風に見せるパフォーマンスに命をかける人々、一方はラモーンズの結成30周年を記念したトリビュート・ライヴに集まった人々が主役。
『エア・ギター』の方は、とにかくまあ、こんなバカなことにこんなに真剣になって・・・、とあきれかえりつつ笑いつつ、出演者のキャラの面白さに拍手、という作品なのだが、一方でこれは、ロックがいかにヴィジュアルと結びついた音楽だったか、ということを再認識させてくれる。
見ることと聞くことがイコールになって流通した初めてのポピュラーミュージック。
これだけ音楽もののドキュメンタリーが数多く作られ、公開されている中で、その中心になっているのがロック・ドキュメンタリーだという事実は、20世紀後半がロックの時代だったということもあるのだが、ロックにおけるヴィジュアルの重要性がそこに占めている割合は案外大きいのではないかと思う。
ラモーンズの『Too Tough~』の方は、最初から飛ばしまくりなので、何も言うことなし。
やはり、ちゃんと演奏が聴ける音楽ドキュメンタリーはいい。
映画を観ながら音楽史のお勉強をしたいわけではないのだ。
ラモーンズに大いなる影響を受け音楽をやってきた人々が、その亡き後(このライヴの3日後にジョニー・ラモーンが亡くなった)に、こうやって自分たちのスタイルでラモーンズの曲を演奏する、そういう彼らの現在の姿にこそ歴史は詰め込まれているはずで、それを見ることが一番の勉強ではないかと思う。
個人的には久々に見たXの演奏に感銘を受けた。
昨日書いた、太い音のギターがここでも聞ける。
とにかくこうやって盛り上がりまくる会場の様子を見ていると、もしかするとラモーンズこそがR&B、そしてその後のソウル・ミュージックに最も近づいた白人音楽だったのではないかと思えてくる。
演奏者やそれを聞く人の人生と現在の暮らしと音楽との不可分の関係性、という意味で、なのだが・・・
というわけで夜になってようやく元気を取り戻す。
単に昼間はやはりダメだ、ということだけなのかもしれないのだが・・・
7月24日(月)
すでにバテバテである。
いろんなことが重なりすぎ。
耳も不調。
『AA』の上映は無事終了。
6回を完走できた人はどれくらいいただろうか?
木曜日には三崎方面にまで取材に行き、城ヶ島を巡るボートに乗り、マグロ丼を食った。
取材なのか観光なのか分からなくなってしまったがそれはそれで良し。
そのままバウスに出向いて、ゴダールの爆音調整。
『フォーエヴァー・モーツァルト』は、爆音での爆撃音。
本当に目の前で爆発しているような感じである。
しかしものすごい音の分離。
爆撃による世界の分断が、音でもはっきりとなされている。
引き続き『愛の世紀』。
こちはら、そうやって分離させた音をいかに重ね合わせるか、という作業。
目の前で出来上がっていく音の層の厚みに驚く。
世界の分離と統合がこの2作によって試みられている。
今回のゴダールは、もろもろの悪条件も重なって動員が非常に心配されていたのだが、予想以上というか、今のところ前回以上の盛況ぶり。
このまま、『アワー・ミュージック』まで行ってもらいたい。
3本続けて爆音で見ることで、いろんな発見があると思う。
とにかく『アワー・ミュージック』は、バウスでも、爆音でも始めてのDTS上映なのだ。
元々がDTSサウンドで作られた『エリ、エリ』でさえ、バウスにDTS再生装置がないためにアナログ上映したのだが、今回は何しろ「デジタル・ゴダール」と銘打ってしまったために、どうしたってDTSで上映せざるを得ない。
もう、ほとんど無理やり、赤字覚悟で、関西からの出張DTSレンタルによって、何とか上映にこぎつけられたのだ。
こういった音のシステムの違いは、告知してもそれ自体が動員に影響するわけでもないと思われ、新しいシステムが開発・導入されたとき以外はほとんど告知されないが、ゴダールがDTSまで使った、ということはいまさらながら、本当にすごいことだと思う。
爆音でどうなるか、しかも出張レンタルのDTS装置がうまく作動するか、木曜日の音調整が楽しみではある。
本日は、週末に送られてきた『サッド・ヴァケイション』のサントラを繰り返し聞く。
ほんとうにいい。
1曲1曲にそれぞれの歴史が込められている、というような感じ。
つまり、それぞれがこの映画の登場人物のような、ものすごく大きな歴史と記憶を抱えた上での小さな表面となって、ここに現れてきている。
まったく別の時代・別の場所で生きてきた人たちが、奇跡的にひとつの場所に集まってしまったというか。
どうやら青山自身が弾いているらしい、最後のガレージ・パンク風の曲のギターの音の太さにニヤリとする。
かつてはリンク・レイがそうだったが、今、こういった太い音を出してくれる人はあまりいない。
私の知っているところでは、Americo、湯浅湾の牧野君がときどきこういった音を出している。
演奏のうまい下手というのは、よほどのことではない限り私には分からないのだが、その音に込められたものの大きさ、みたいなものは、分かるときがある。
このサウンドトラックに込められているのは、そんな音だ。
どうやら緊急発売されるとのこと。
映画ともども、是非。
7月16日(月)
とりあえずグッタリ・モードなり。
仕方ないので、日曜日から月曜日にかけて、ドン・シーゲルはじめ、いくつかのDVDを見る。
ようやくスコセッシの『ディパーテッド』を。
周囲の評判はかなり悪かったのであまり期待していなかったためか、それなりに面白く見た。
音楽にマーク・リボー(ギター演奏者として)まで起用しているあたりは、さすがに勉強家というか、チェックに怠りなし。
ただやはり、今やこういった映画は、女性映画として撮られるべきではないかと思った。
男たちの映画として撮ってしまうと、どうしたってその世界が「ゲーム」の様相を呈し、緊迫感は出るものの、それだけ。
『サッド・ヴァケイション』が示してくれた世界の姿を見てしまった者としては、やはりこの、男たちの世界だけでは非常に物足りないし、世界を「ゲーム」としてとらえるなら、トニー・スコットくらいまで行ってほしいものである。
つまり、「ゲーム」の果てに現れる場所というか、この情報化社会の成れの果てでわれわれが生きている、その出発点に立つ前にこの映画の男たちは死んでしまって、それはそれでいい気なものだと思うのだ。
とはいえ、地震である。
こういった大きなプレートの動きは、いつか予測できる日が来るのだろうか。
しかし、そのうち、地震で原発がひどいことになるのではないかという気がしてならない。
7月14日(土)
台風の低気圧のおかげで身体が動かない。
午後からは仕事をしに事務所に行こうと思っていたのだが、身動き取れず、そのまま横になり夕方まで。
起きあがると寝違えたみたいで、首が回らない。
頭はひたすらボーッとするばかり。
ギリギリの時間でバウスにたどり着き、『ハート・オブ・ゴールド』を堪能。
やはり、劇場で見ると、実際にニール・ヤングが演奏をしているステージと、スクリーンに映るステージと、現場で演奏を見ている客席と、そしてスクリーンに映るステージを見る映画館の客席との、4つの空間が交錯して一つの空間を作りあげる、そのスリリングな時間をはっきりと感じることができる。
照明や画角、編集などなどあらゆるものが、そういった、「映画館でこの映画が観られること」を意識して作られている。
やはり、とにかく、こうやって一度はスクリーンで見ることができて良かった。
ただやはり、フィルムでやりたい。
もっともっと深みのある、「時間の旅」みたいなことが体験できるものになるはずだ。
その後、爆音の今後の日程のおおよそを決める。
ゴダールの後は、9月1日。
『ブラック・スネーク・モーン』の公開記念の「爆音ソウル・サヴァイヴァー」。
爆音史上初めてのブラック・ミュージックである。
詳細は来週末にはお知らせできる。
10月の爆音は、レイトとオールナイトの組み合わせ、11月は直枝政広ナイト。
果たして予定通り行くかどうか・・・
しかしboid犬チームはさすがである。
台風の雨だというのに猪股は傘を持たず、大塚は自転車でやってきていた。
人間までの道は遠い。
7月13日(金)
昨日の続き。
イオセリアーニのタイトルは『ここに幸あり』であった。
うーむ、こんな分かりやすいタイトルを忘れてしまうとは・・・
おそらく、プレスにあったインタビューで、原題の「秋の庭」と物語自体の内容との話があれこれ出てきて、そのために混乱してしまったのではないかと思う。
でもまあ、「混乱」と「忘却」は違うからねえ。
いずれにしても、その邦題通りの映画であることは間違いない。
なんというか、「私がここにいることがすなわち幸せなのだ」という物語。
といっても、「幸せ」のあり方は、限りなく「無意味」に近い。
ブルジョワ的な「幸せ」が完全に失われてしまったところに初めておとずれる「幸せ」。
間違えば虚無へと進んでしまう一歩手前で「無意味」へと展開する僥倖といったらいいか。
何かを失って初めて人の心の温かさに触れた、というような幸せなどものともしない「無意味」。
編集のテンポ、演出、音響など、映画のさまざまな要素が、圧倒的な「幸せ=無意味」を作りあげているので、だから、物語上は完全に悪役である、主人公の愛人(何しろ主人公が大臣を罷免されたらさっさと別の男に乗り換えて、またもややりたい邦題、超高級品を買いあさり、咎められると悪態をつくばかり)までもが、最終的にどこか可愛らしく見えてきてしまうのだ。
まあ、そんな思いもまた、私なりの「意味」付与ではあるので、あっさりと吹き飛ばされてしまうのだが。
それから、昨日のゴダールの件。
なんとか解決がつきそう。
3回券予約・購入した皆様、お騒がせしました。
『アワー・ミュージック』も、デジタル音響にて爆音上映できると思います。
本日は、「爆音デジタル・ゴダール」記念Tシャツが出来上がってくる。
こんな感じ。

今回は、今後のためのテスト販売、ということもあり、とりあえずの製作枚数は最小限。
準備ができ次第、boid通販での販売と、バウスでの販売になると思う。
通販は、消費税込み2940円、バウスでは劇場割引にて2800円、という値段設定になる予定。
ボディの色は、写真の藤色の他、チャコールと、ちょっと灰色がかった青。
サイズは、色によってさまざまで、売れ行きを確認しながら、次回に繋げて行こうかと思う。
商売として成立するには、まだ時間がかかる。
でも、結構可愛いので、とりあえず劇場にて確かめていただけたらうれしい。
夜、シネマ・ロサから、先週のイヴェントで使用した機材を運び出し、大里宅へ。
そこには彦江もいて、久々の会食。
ちょっと前、青山にも言われたばかりだったのだが、彦江からも「白髪が増えた」と言われる。
まあ、それなりの年齢だし、そこそこ苦労もしているので、こればかりはどうにもならず。
7月12日(木)
イオセリアーニの新作を見る。
多くの人が出入りして、その出入りだけで世界を作りあげていくという相変わらずの手法は洗練を究め、ほぼスラップスティックすれすれ。
何も事件が起こらないはワード・ホークスの映画、というか、日常がそのままスラップスティックである状態というか、とにかく、巨匠の晩年恐るべし。
しかも、そのバカバカしさや大人気ない行動に、何も意味がない。
あらゆる意味がそげ落ちて、そこに残ったものだけが映っている。
呆れて見ているうちに2時間が終了。
おかげでタイトルさえ忘れてしまった。
資料を事務所に置いてきたので、明日、確認して報告。
事務所に戻ると、バウスから、爆音ゴダールについての衝撃的な報告が。
このままでは上映自体を中止せざるを得ない。
とにかくなんとか上映には持ち込みたいのだが、もし、無事に爆音上映ができたとしても、それは「無事に」では全くなく、多大なる犠牲の上に可能になったものである。
とりあえず、『フォーエヴァー・モーツァルト』と『愛の世紀は』OK。
問題は、『アワー・ミュージック』。
とにかくこの1日2日のうちに決着をつけねばならない。
なんとしてでも上映は行うことを前提に、どれだけの犠牲ですむか、犠牲が多すぎた場合は誰がどう、その負担を背負うかをはっきりさせねばならない。
ただ、今回のことで分かったのだが、『アワー・ミュージック』を上映した地方の劇場のかなりの場所では、デジタル音響での上映がされていない。
『アワー・ミュージック』の恐るべき音の分離と統合が、曖昧になったまま見られてしまっているのである。
つまり、ゴダールがなぜ今、そのような分離と統合にこだわったか、その音の構成の中に、いかにして現代社会の姿を入れ込んだか、ということが伝えようなく上映されてしまった。
もちろん、上映設備が各劇場で異なるのは当たり前だから、そういうことは織り込み済みではあり、その上映に対して苦言を呈するつもりはまったくない。
そうではなく、そこで上映されたものはその場所限りのものであり、映画はあくまでも上映されて初めて映画になるのだ、ということを強く再確認しなければ、と思ったのだった。
例えば『エリ、エリ』の用にDTS用に作られた音源を、DTS再生装置がないために、その補助用にプリントに焼き付けられたアナログのドルビー・システムで爆音再生した場合、これがまた、誰も予期しなかったような音を産み出してしまう、ということがあったりするわけで、デジタル上映用に作られた音源をアナログ再生すること自体がダメだというわけではないのだ。
アナログ再生された音がまた別の世界を作りあげたとしたら、それはそれで本当に凄いと思う。
その「誤解・間違い」の中に、我々が映画を観ることのマジックが潜んでいるはずなのだ。
例えば、You tubeや携帯で映画を観る時代がもう目の前に来ているのだが、その小さな画面と頼りない音響で見る映画は、同じ作品でもまったく違った姿を見せてくれるかもしれない。
その姿もまた、その作品なのだと思う。
7月11日(水)
本日は、「グラインドハウス」のもう1本、ロバート・ロドリゲスの「プラネット・テラー」。
女優の扱いでは、タランティーノより生々しくて好きだったのだが、今回は、タランティーノの頑張りに負けている。
主人公が片足になり、義足代わりに機関銃をセッティングされるまでがいくら何でも長過ぎやしないか?
というような不満より、とにかく、この作り方では単なるノスタルジーでしかない。
今、この手の映画をこのようにかつてあったものの「再現」として作ろうとするその立ち位置が、全く受け入れられず。
現在の映画が立たされてしまっている危機的状況をしっかり引き受けつつ、自らの立ち位置を鮮明にし、そのことによって新しく作られる映画の基準点のような作品を作りあげたタランティーノに比べ、こちらは、その危機的状況を隠蔽するばかり。
さまざまな良い部分もあって、ニヤッとしたりもするのだが、とにかくこれではもうダメなのだと言っておきたい。
この物語をすべて、現代映画として、ノイズを入れたりコマ飛びを入れたりというフィルム的郷愁抜きで、全面デジタルによって(これもほとんどデジタル処理しているとは思うが)、「映画」とは違う作品として堂々と作りあげるべきではなかったかと思う。
その後、mapの小田君と、直枝本についての打ち合わせ他。
その雑談の中で、小田君からさまざまなCD発売や映画の公開に関するアイディアが出る。
いろんなことが、この数年で変わってくるのではないかと思う。
boidの今後に関しても、考えされられること多し。
7月10日(火)
昨日は直枝本の取材がいよいよ大詰めを迎え、通常の取材の他、本全体の構成や表紙も決める。
鈴木の表紙用写真を直枝さんがかなり気に入って、この路線で、来週、本番の写真を撮ることになる。
ただこういう時は、得てして試し撮りの方が良かったりするから、今後何が起きても大丈夫なように準備もしておかなくては。
あとは、空模様との相談。
見逃していた『ドリームガールズ』を見る。
冒頭から、歌に圧倒されるがさすがにずっと同じ調子なので、途中でちょっと飽きる。
だが後半、それぞれの立場や生き方が鮮明になるにつれ、再び物語に入り込む。
アメリカ映画の中で、このような物語は一体どれだけ繰り返されてきただろうか。
時代の先端に立ち栄光を手にする者と、取り残された者の対比。
だがこの映画がちょっと特殊なのは、結局のところ皆同じ場所に立つことになることを示唆しているところか。
取り残された者たちの優位(つまり旧タイプの人間の優位)を説く『ダイハード4.0』とは違い、この映画はその物語のどこかに、人はそのどちらも選ぶことができるし、どちらを選んだにしても、それがあなたの人生である限り素晴らしくもあり悲惨でもある、というような、優しくもあり非情でもある視線があるように思えるのだ。
そこから、「ソウル」が生まれ出てくる。
そんな気がした。
本日は、『トランスフォーマー』試写。
案外、スピルバーグ色が強く、特に前半の、闘いの現場とそこから離れた場所での家庭と若者たちのドラマの部分。
『未知との遭遇』『ET』『宇宙戦争』などなどを思い起こさせるシーンが次々に。
それらを味付けにして、『ターミネーター』+『ロード・オブ・ザ・リング』を骨組みとした物語が展開。
緻密に語ろうとしたら、5時間はかかるだろうなあ、というところをその半分。
したがって相当大ざっぱな進行具合なのだが、こちらもまた、宇宙人たちがアメリカの防衛システムに侵入してデータを奪い、ウィルスをまき散らすというくだり有り。
通信機能がダメになり、またもや旧型の通信システムに頼るという展開。
こういった事態は、アメリカの無意識のトラウマみたいになってしまったのだろうか。
あるいは、今、国家を滅ぼそうとした時に、こういったシステム破壊が最も分かりやすく現実的だ、ということなのだろうか。
では、日本ではどうなのだろう。
今の日本を真剣に破壊しようと考えた時、何をどうするのがベストなのか、みんなで知恵を出し合って物語を作ってみるとどうなるだろうか?
そういう企画に金を出してくれるところは果たしてあるだろうか?
その後、事務所にて、キングレコードのスタッフと打ち合わせ。
いよいよダグラス・サーク・ボックスセットの発売が決まる。
10月10日に『Has anybody seen my gal?』『心のともしび』『天の許し給うものすべて』の3枚組。
11月10日に『翼に賭けた命』『愛する時と死する時』『大空の凱歌』『悲しみは空の彼方に』の4枚組。
という予定。
いずれにしても、何千セットも売れる物ではないので、値段は高い。
こればかりはどうにもならない。
通常のレンタルは行わない。
買えそうにない人は、近所の図書館、大学の図書館、その他ありとあらゆるところにリクエストをしていただけたらと思う。
それぞれの値段に見合うだけの、豪華ブックレットをどう作るかが、今後の課題となる。
あと、『ブラック・スネーク・モーン』の初日も決まる。
9月1日。
シネアミューズにて、まずは3週間ほどのロードショーとなる予定。
こちらもガツンと行きたい。
しかし、タランティーノと全く重なってしまう・・・
7月8日(日)
子どもと共に『ダイハード4.0』。
サイバーテロの物語である、ということ以外に「4.0」というタイトルの意味が分からなかったことが悔やまれる。
ソフトのヴァージョンアップ時の表示以外の意味は、ここに込められていたのだろうか?
どなたか分かっている方がいたら、是非boidまでご一報を。
いずれにしても、これまでのように、孤立無援で限定された空間を無理矢理作り出すのではなく、世界のすべてに向けて開かれているが故に孤立している空間、という現代社会の状況をそのまま舞台設定にした意味では、確実にヴァージョンアップしている。
そのとらえどころのない空間の中で何が確実で何が不確実なのかを、ブルース・ウィリスの肉体がかぎ分けていく物語、ということになるだろう。
プログラマー同士の闘いになってしまうとアクション映画としては全く成立しなくなってしまうので、いかにブルース・ウィリスという俳優の中に、電子ネットワークを肉体化させるかがポイントであるのだが、予想以上に頑張っていた。
『ロッキー』と『ダイハード』が久々に作られたのは、偶然ではないように思う。
もちろん『デス・プルーフ』もそうだ。
『ダイハード4.0』は、『デス・プルーフ』のように、本当に命がけのスタントではなく、確実に新しい映画のアクションとなっているのだが、それでもその中で見せることのできる肉体の痛みをどう描くかについて、生真面目に取り組んでいるように思えた。
父と娘の物語にした、というところがポイントだろうか。
ただ、それ故に非常に保守的な物語にもなってしまっているのだが。
我が娘は、ブルース・ウィリスみたいなお父さんがほしいと思ったりするのだろうか?
その後、妻との待ち合わせがあったのだが、私が携帯を忘れ、連絡取れず。
私と娘は、携帯を持たない妻に「こういう時のために携帯を持ってくれ」と訴えるのだが、妻は「携帯に頼るからいけない。今後は2度と携帯に頼らず、最初からスケジュールを決めておく」と。
我が家の通信網は、未だ20世紀のままである。
夜は、友人たちと、新大久保の「まいう」。
日本では、ここしかメニューにないという非常にシンプルな韓国風鶏鍋。
ここには何度か来ているのだが、本日の鶏鍋はベストの味。
7月7日(土)
『AA』第3章初日、そして、大里俊晴&吉増剛造イヴェント。
噂には各所から聞いていた吉増さんのパフォーマンスを初体験。
その後のトークで「無意識のうちに我々が囚われている枠からどうやって逃れていくか」という話を吉増さんがされたのだが、まさにその実践をそこに見たように思えた。
「ああ、これでいいのだ」とその場では本当にそう思うのだが、ではいざ自分がそういう風に出来るかというと、これはもう本当に難しい。
これも一方では「洗練」とも言えるのかもしれないが、それは確実に、「洗練」という枠を無にするような洗練である。
吉増さんによれば、「AA」という映画は、映画の枠からすり抜けてしまったような映画である。
先週の蓮實さんの話はその逆で、「AA」がいかに映画らしい映画であるかということだったのだが、これは、両方を聞くと両方ともまさにその通りとしか言いようのないことになっていて、つまり、「AA」という映画がその両方を確実に持っている映画だということになる。
そしておそらく、数多くの人が見れば見るほど、その多様性は更に広がっていくはずだ。
間章とも青山真治とも軽やかに離れて、今後もさまざまな場所でさまざまな人たちに見てもらえることを望むばかりである。
7月6日(金)
天候のせいか、この2,3日はひたすら怠く、なすすべ無し。
木曜日には黒沢さんが事務所に遊びに来て、あれこれ。
脚本の仕上げに入っているらしい。
予定通りなら、秋にはクランクインとのこと。
『LOFT』『叫』と、続けて公開されたので、あまり間が空いているようには見えないが、劇場用の作品の撮影は1年半ぶりくらいになる。
内容に関しては、敢えて全く触れず。
その後、本当に近所に引っ越してきたオフィス・シロウズへ。
以前のオフィスに比べ、広く、きれい。
各所からの花束も大量に届いていて、ちょっとだけ、芸能界の匂いをかぐ。
松田さんは、新作の『恋するマドリ』の公開が迫ってきて、かなり忙しそうである。
この作品は、映画美学校出身の大九明子さんの、初めての劇場長編になるのかな。
Francfranc が制作に関わっているとのことで、チラシその他も、非常に可愛らしい。
こんな感じ→
来週くらいには試写に行ってみようかと思う。
水曜日には、やはり美学校出身の横浜聡子さんの『ジャーマン+雨』というのを見た。
『恋するマドリ』の予告編で流れる、新垣結衣さんのナレーションによく似た、いかにも素人というか、スのまま喋っているようなナレーションによって展開する映画だった。
こういった「素」の感じは、今、流行なのだろうか。
あるいは、若い女性監督たちに共通する何かがあるのだろうか?
同じ日に、友人が録画してくれたNHKのドキュメンタリー『かわいいウォーズ』というのを見たのだが、そこでは、渋谷の109を席巻する「リアル・クローズ」と呼ばれる若い女性向けの、要するにカジュアル・ウェアなのだが、それを着る同世代の女子たちがデザインしたウェアに関する取材も行われていて、そういった「素」の感じがいかに若い女性たちに受け入れられているかを、その売れ行きの圧倒的な数字とともに紹介していた。
そこには最早、歴史はない。
新作は、2週間で売れなくなっていくそうだ。
もちろんそこには、そういった「金」をプロデュースしたり群がったりする男たちもあれこれ出てくるわけなのだが、いずれにしても、何かのきっかけで、映画もまた「リアル・ムーヴィー」とか何とか、さすがにもうちょっと可愛いキャッチでないとダメだと思うのだが、とにかく「素」の感じをうまいこと使った映画が大受けするようになるのかもしれない。
2週間ごとに新作が公開される、という状況は、プログラムピクチャーの時代を思わせもするが、そういったこととも見事に全く関係ないスピードとサイクルがそこには出現するだろう。
そういった時、我々はどのような態度を取るべきなのだろうか。
そろそろ覚悟を決めなくてはならないかもしれない。
マイナー・リーグのブログに書かれている、親子、老人と孫に関する言及も、そういったことを見据えてのものとして読んでみたい。
という日本の状況とはまったく関係なく作られたクエンティン・タランティーノの新作『デス・プルーフ』をようやく見る。
周囲からはあれこれ聞いていて、さすがに少し乗り遅れてしまった感もするものの、たっぷりと堪能。
これはどうしたって爆音でやらざるを得ないでしょう!
というか、こういうのを妄想しながら爆音をやっていたとも言えて、初っぱなのジャック・ニッチェで大拍手。
これまでのタランティーノ作品では、女性たち、特にビッチ系の女性たちの扱いが、いかにもビッチな女性、というのをタランティーノがかつて観た映画の中から探してきたお勉強の跡みたいなものが目について、今ひとつ乗れなかったのだが、今回はすべてがそこに肉体化されているように見えた。
というか、それぞれの女性たちが主役に近い役割で出てくるわけだから、色物として出てくるのとは違うのは当然。
ただ、いずれにしても、こういう映画をタランティーノだけにやらせておいていいのか!
と、腹立たしくもあった。
同じような妄想を抱いている人は、この日本にも相当数いるはずである(それも私の妄想か・・・)。
そのしょうもない妄想を現実化させてしまう腕力が、我々に求められている。
とはいえ、後半の、ボンネットに人を乗せたままのカーアクションには痺れる。
技術と経験の集大成(たぶん)。
とにかく、映画の十分すぎる歴史と、そこから得たアイディアとをたっぷりと使った、贅沢な「低予算映画」であった。
boid犬チームの一人であるデザイナー大塚が、以前、犬チームのもう一人猪股と、それから私とで、アリゾナあたりの砂漠の中でサーフショップをやっている夢を見たらしいのだが、そういうのもいいかな、とも思わせる映画であった。
これを見たおかげで、ますます『ブラック・スネーク・モーン』にも気合いが入る、そんな映画でもあった。
7月2日(月)
本日も引き続き、グダグダ。
そう簡単に回復せず。
とはいえあれこれやらねばならぬこともあり、何とかこなして帰宅途中の近所のスーパーで、お隣のお父さんに遭遇。
お隣のお父さんは、男子3人と犬3匹(boidと違って本当に犬)を、今や一人で育てている、それだけ聞くと立派な父なのではあるが、実は、家にサウンドシステムを購入して深夜まで低音を近所中に響かせつつDJの練習も行う、そして腕にはタトゥーありの、これまた立派なレゲエDJなのであった。
で、いつもはboid猪股と大して変わらぬ風体をしているくせに、本日は、どこから見てもしょぼくれたサラリーマンのスーツ姿。
そういえば、昨年までは現場仕事(これまた猪股と同じ)だったが、今年からIT企業の営業として就職したと言っていたっけ。
出会った瞬間、思わず「詐欺じゃないですか!」と口から出る。
お父さんも「いやいや、まあまあ」と笑っている。
ただ、いくらしょぼくれサラリーマンの衣裳を着ても、どこからかヤバイ空気は伝わるらしく、時々相手がびびって、本来なら決まらぬ話も決まってしまうことがあるとか。
うーむ、世の中、誰がどこで何をやっているか分かったものではない。
深夜、シネマ・ロサより、『AA』第1章の動員報告。
第1章は3日間のみだったのだが、3日間で245名の動員。
1日平均80名を超す方々に見ていただいたことになる。
レイトで、かつ2回目の上映ということを考えると、相当いい数字ではないかと思う。
このまま6章まで、皆さん覚悟を決めて見に来てください。
そして、そのまま爆音デジタル・ゴダールへ!
その後、もうすぐ発売になる『ハート・オブ・ゴールド』DVD日本盤のサンプルを借りたので(もちろん仕事絡みで、とにかく急いで見ざるを得ない状況なのであった)、字幕付きヴァージョンを初めて観る。
ほとんど動かず、さまざまな角度からではあるが(つまり、カットは時々変わるが)じっとステージを見続ける一貫した視線が浮かび上がらせるのは、そこに映らない者たちの声である。
ステージの一番後ろで、ステージを照らす証明の影になり常にシルエットでしか映らない黒人コーラス隊の人々の姿。
アメリカ合衆国が常に抑圧してきた姿なき人々、殺された者たちの声がそこから聞こえてくるのだ。
ニール・ヤングもエミルー・ハリスもペギ・ヤングもベン・キースもスプーナー・オールダムも、みんな次第にそういった人々の一人になっていく。
こういった映画を結局どう頑張っても爆音上映出来なかった日本の映画上映環境の貧しさを呪う。
この貧しさと、防衛庁長官のお言葉と、年金問題不始末などなど、すべて根っこのところではつながっている。
映像特典のインタビューで、ニール・ヤングが、コンサートを望遠レンズで撮影してもらうのが好きだと語っている。
演奏中にカメラが目にはいるのが好きではないという理由の他に、望遠レンズで撮影することによって、レンズとステージとの間にある独特の空気(そこには観客が存在する)を、それは映すことが出来るからだと言う。
そこから音楽という野獣が出てくるのであり、それを安全な場所から観察するのが望遠レンズを使った撮影なのだと。
かなり興味深い発言なのだが、何しろこれは、文字数の限られた字幕の日本語を、おそらくそんなことを語っているのだろうと私が勝手に解釈したものなので、英語がちゃんと聞き取れる人に聞き取ってもらい、文字数制限無しではっきりした日本語にしてもらいたいと思う。
7月1日(日)
疲れのため単なる廃人と化していたのだが、深夜になって、エドワード・ヤンの訃報が届く。
何ということだ。
悲しみはもちろんだが、エドワード・ヤンが映画やこの世界に対してやるはずだったことを一体誰が引き継ぐのか、そしてそれに対して我々はどのように動いていったらいいのか、などなど課題の大きさに、呆然とする。
追悼文がこちらに書かれている→
6月30日(土)
『AA』初日。
その前にバウスに行って今後の打ち合わせをすませ、池袋へ。
青山・中原と食事。
最近の映画上映やCD販売に関する貧しさについて。
このままでは本当に、誰もが同じものを見たり聞いたりすることしかできなくなる。
何かを売ったり人を集めたりするということは、売れる物を売ったり、人が来るものを上映する、ということとはまったく違うことだ。
ロサは、ほぼ満員。
2回目の上映だったので、本当に心配していたのだが、とりあえず一安心。
蓮實・青山トークは、こういう場所で映画を観る前に行うトークは、いったい何のためにどう話せばいいのか、ということを的確かつ見事に見せてくれた。
要するに、何かを売る、映画に来てもらう、そして売りたいもの、見てもらいたいものの面白さと使用法のポイントを分かりやすく話す。
これを聞いてしまったら、誰だって6章まで絶対見落とすわけにはいかないと思ってしまう。
例によって私は、非常に弱気かつ押しの弱い言い方で、ある章を見逃しても、そこで諦めないでくださいと挨拶したのだが、それをネタに、「そんなことではいけない、覚悟を決めて全部見るのだ」というところから、トークは展開したのだった。
第4章での高橋巌さんへのインタビュー時のピントの動き、そしてその章の危うさから一気に展開して、「生」あるいは「現在」へと飛躍していく大胆な展開など、1本1本の章だけではなく6章全体がひとつの活劇として見事に構成されている、という指摘など、この映画が持つ「ドキュメンタリー」と「フィクション」の大胆な混交について、などなど。
そして、予定通り、見事に50分弱で終了。
おそらく二人とも、一度も時間を気にしなかった。
上映終了後は、トーク効果で『間章クロニクル』がバカ売れ。
すごい。
と、その時、『AA+』の宣伝もしてもらえばよかったと気付く・・・
うーむ。
その後、うちあげの席では、思わぬゴキブリ騒動2回。
一部が騒然となる。
結局朝まで。
へとへとである。
今週の体調が思いやられる。
6月29日(追加)
肝心なことを書き忘れた。
明日は、『AA』初日である。
アテネでの公開から半年以上が過ぎ、1日1章ずつのレイト。
1日全章、というアテネでの上映とは正反対で、それぞれの時間は短いが、全部見ようとしたら3週間で6回、ロサに足を運ばねばならない。
それはそれで大変な労力である。
ただ、全部見なくてもいい、という風に考えれば、時間が出来た時にだけふと立ち寄る、というスタイルで、贅沢な時間を過ごせる。
完成に5年かかった映画である。
見るのに5年がかりでもいいではないか。
しかもそこで語られているのは、20年以上前の出来事であり、そして20年後の出来事でもある。
終わった時間を甦らせるのか、終わろうとしない時間に決着をつけようとするのか、いずれにしても20年がかりの物語であることには違いないのだ。
明日は初日記念で、蓮實・青山対談あり。
蓮實さんは、間章を教えたこともあり、その話を聞いた時はさすがに驚いたが、それ以上のことは聞いていないので、もしかすると明日は、もっといろんなエピソードが出てくるかもしれない。
まったく違う話題になるかもしれない。
40分から50分程度の対談の後、上映となる。
6月29日(金)
本日は朝から銀行の調査有り。
いつか調査に来る、ということは聞いていて、しかし全然やってこないので、書類だけで落とされたかと思っていたのだが。
話を聞くと、何度か電話したのだが、誰も出なかったと。
幽霊会社かと思われてもいたらしい。
うーん、留守電くらいはちゃんと、boid用のものを作らねば。
そういうことのために謎の中国人の下で日々いじめられつつ働く猪股がいるんだよなあ・・・
昨日は、Tシャツ作りの準備をしながらboidには3匹の犬並人間がいる、という話で盛り上がったのだが、そのうちの最下層の1匹として、留守電ナレーション作業をお願いしたいものである。
素早くね。
銀行の調査はとりあえず滞りなく終了。
だが、あまりにあっさり引き上げられたので、それはそれで心配にもなる。
ただまあ、金を借りるわけでもらえるわけではないわけだから、いずれにしてもろくでもない話ではある。
その後も細々としたことがあれこれ続き、本来ならタランティーノの新作の試写に出向いているはずのところ、事務所にてグズグズ。
というか、Tシャツのデザインデータの最後のチェックや、ボディの色のセレクションなど、あれやこれや。
鈴木も先日の柳の写真を持ってやってくる。
さすがに私のとはまったく違う。
ここに直枝さんのイメージしている何かが重なってくれば、いい感じになるのではないか。
とはいえ、マイナー・リーグさんの、タランティーノ映画への興奮ぶりを見ると、ちょっと嫉妬する。
ここ→
でもまあ、天気のためか、全然元気が出ないのだから、本日行けなかったのは致し方なし。
ただ、本当に面白いみたいで、あの人もこの人も「面白い」と言っている。
こうなってくると『ブラック・スネーク・モーン』とか言っているのはバカみたいな気がするが、まあ、それはそれである。
同時期公開なので、次号のboid paper をどうしようかとか焦ってしまうが、まあ、そういうことのためにやっているわけではない。
いちいち映画の公開に合わせていたら、他の雑誌と同じになってしまう。
そのあたりは、こちらのペースにて。
6月27日(水)
ようやく現実復帰。
この数日は友人の死にまともに向き合って、ほぼすべての儀式に参加させていただき、生きている人間が死体となって骨になり、そして生きていた記念の写真となるまで、人間からただの「もの」になっていくまでの変化の過程を間近に見ることができた。
変な言い方だが良い経験だった。
初七日の食事会では、既にここにはいない人間についてそれぞれの人々の持つさまざまなイメージが紡ぎ出され、そしてその部屋中にぼんやりと死者の魂が浮かび上がるような、不思議な時間を持つことができた。
本日は、午後から、直枝本の表紙やグラビア用のロケハン。
直枝さんの指定の場所があり、品川区某所に。
直枝さんがいくつかのレコード・ジャケットや写真家の写真を参考に出してくれたのだが、それらをみるとこれはもう「シェイディ・グローヴ」何ものでもない。
直枝さんにも確認し、木々の影を撮影しに行ったのだった。
カメラマン鈴木の車で、黒岩同伴。
ロケハンの前に、7月7日の『AA』イヴェントで使用する機材を受け取りに、横浜国大の大里研究室へ。
大学に入る手続きをしている我々の反対車線を、梅本さんの車が通りすぎていく。
梅本さんも、まさか我々がそんな場所にいるとは思わなかっただろう、全く気づかず。
大里研究室は、大里宅と全く同じ様相を呈している。
機材と資料の山。
一体この先、ここはどうなっていくのだろう。
とにかく機材一式を受け取り、車に積んで、品川某所に。
横浜国大への道を間違えて40分ほど時間をロスしたために、夕刻が迫る。
いくら「影」を撮るとはいえ、さすがに本当の夜になってしまっては具合が悪い。
ギリギリの時間に到着。
私も自分のデジカメであれこれ撮ってみたのだが、最初、設定を間違えて、全然撮れず。
後半になって、ようやく、なんのことはないフルオートで撮ればいいじゃん、という当たり前すぎる結論に達し、撮れたものが下記のような写真。
もちろんこれは、私のお遊びで、鈴木の撮ったものがどのようなものになったかは、金曜日に判明。
しかしまあ、本日分は、あくまでも「試し」なので、表紙になるものとはまったく違う。
見ていただければ分かるように、柳の木がテーマ。
その柳の影の風情の中に、いかにして多くの時代を注入できるかがポイントなのである。
おそらく江戸時代から、この辺りの道筋に数多く植えられてきた柳が見てきた歴史としての「影」。
そしてそれが今もまだそこにあって生きているという事実を、いかにして伝えるか。
鈴木に託された使命は重い。
6月21日(木)
昨日は午後から、直枝取材。
ひたすら誰かに伝えたいという願いと、何かを聞きたいという願いが巡り会う一瞬があるのだ、という話。
その出会いの一瞬は、例えば、レコードが発売されたその時かどうかはまったく分からず、その10年後に訪れるかもしれない。
したがって、音楽を聴く者は、いわゆるリアル・タイムと別の時間と空間を持っている。
その存在を信じ続けることが重要。
既に私の妄想も入り込んでいるとは思うが、そんな、今度の本の核となるような話となる。
本日は午後、友人が危篤との知らせ。
実は昨夜、ちょっと嫌な予感がして、「元気ですか?」というメールをしたばかりだったのだ。
昨年、同時期に体調を崩し、しかも私より大変な状態だったにもかかわらず、退院後は私より元気で、呑気な私は、それが彼女の目一杯の頑張りだったのも気付かず、最近メールが来なかったのを、「元気な証拠」と勝手に思いこんでいたのだった。
とにかく、諸々の用事を片付け病院へ。
しかし既に意識はなく、でもとにかく、やせ細った身体で懸命に呼吸をしている。
その姿を見て、それまでの動揺が少し落ち着いたのは一体何故か・・・
一旦家に戻って、とにかくいくつか抱え込んでしまった月曜日までの締め切り原稿をこなしていると、「亡くなった」との連絡が来る。
悲しいとか辛いとか、そういうのではなく、何かもっと大きな厚みのある感情に襲われる。
よく分からない。
とにかく冥福を祈るのみ。
6月19日(火)
今週は、まだ先だろうと思っていた原稿の締め切りがいくつか重なり、更に、本日はboid paper も納品されてきて、しかも経理絡みの整理をしなくてはならず、予定していた試写はすべてキャンセル。
いろんなことが断り切れなくて、つい、今度は行きますとか伝えてしまうのだが、そう簡単に試写に行ける状況ではない。
ただ、取材や原稿の仕事は結構断っていて、一度断り始めると、断ることも段々平気になってくるから不思議だ。
事務所開設以来、引き受けた仕事より断った仕事の方が多いような気がする。
こんな事ではいずれ家賃とギャラが支払えなくなる。
まあ、そうなったら辞めればいいだけなので、延命のための努力はしない。
というか、それくらいお気楽な態勢でいないと、身体がもたないような状態でもある。
つまり、私のさまざまな状況が逼迫すればするほど、外側からはお気楽に見えるようになるというわけで、それはそれでますますバランスがとれなくなっているのであった。
とはいえ、爆音ゴダールの後の爆音企画が次々に湧き出てきて、まだバウスにも伝えていないのだが、本日も深夜になって判明したのは、バランス良くスケジュールを立てたはずの秋の予定がこちらの思惑通りには行かなくなり、8月末から9月上旬くらいにかけてに重なってしまいそうだということ。
整理し直さねばならない。
うーむ、せっかくいい企画だったのに、あまりに立て続けだとさすがにちょっと苦しい。
ひとつの企画を大事に育てて、その中で生活していけるようになりたいものである。
とはいえ、目の前の問題をどうするか。
いずれにしても、ジャーマン・プログレ・ファンとカンフー・ファンが同時に大喜びできる爆音映画を上映できると思うので、大いに期待していただきたい。
まあ、カンフー・ファンはもう見てしまっているだろうから、音楽に興味がないと余り意味ないかもしれないけど・・・
実は昨日、竹内まりやと一緒に、木村カエラのニュー・アルバムも借りてきていた。
竹内まりやだけではちょっと寂しかったのと気恥ずかしかったためだ。
まあ、木村カエラも一緒に借りて、その淋しさと気恥ずかしさがどうにかなったのかどうか疑問ではあるのだが、まあ、時にはこういうのも聴いてみよう、という。
で、本日、あれこれの作業をしながら聴いてみたのだが、あまりピンと来ず。
それぞれの作曲家によって1曲1曲違うアレンジの方にしか興味が行かなかったのは、まだ私がどこかで照れているためかもしれない。
竹内まりやにしても、歌詞カードを見ながら聞くと結構いい歌もあり、ホロッとしてしまうのだが、ではこういった感情は、ユーミンの歌ではどうなるのかと、次は30年ぶりくらいにユーミンのアルバムを聴いてみようかという気持ちにもなる。
いずれにしても本日のところは、耳直しに、キャット・パワーを聴くことになったのだった。
好きなんだよねー、このアルバム。

キャット・パワー「ザ・グレイテスト」→
6月18日(月)
本日はひたすら地味な事務作業と原稿書き。
昨夜飲んだ頭痛薬(開放的な場所にいた後は必ず酷い頭痛に襲われるのである)のおかげでなかなか頭がはっきりしないが致し方なし。
作業をしながら、「ジャーニー・スルー・ザ・パスト」を聴く。
当時、評判は相当悪かったアルバムだと記憶しているのだが、今聴くと、かなり面白い。
そのデタラメさ、というか、映画を観ずにこれを一人のミュージシャンの最新アルバムとして聴くという状況になったら、相当の失望感を味わうことになったかと想像に難くないが、しかしそのダメな感じや中途半端な部分も含めて、これを形にしてしまったニール・ヤングの姿勢は、やはりいつも刺激的なのだ。
それにまあ、あくまでもこれはサントラだから、音質や演奏の質がどうのということではなく、映画の中でこのようなことが起こっていた、という記録としてのアルバム、ととらえれば、問題なくOK。
ただ、当時は、映画も公開されていないわけだし、そういう距離感はとれなかったかもしれない。
その意味で、「同時代に聴く」「同時代に見る、体験する」という不自由は、常に存在している。
「現場にいる」事がいかに我々の目にフィルターをかけているか。
どうやら映画の方は、DVDボックスセット向けに再編集なのかな、確認したわけではないのではっきりしたことは言えないが、かなり手を加えられている、ということらしいので、その発売後にようやく、新たな形でこのアルバムも発売されるのではないかと思う。
それとも同じボックスセットにはいるのだろうか?
帰りがけ、ついに竹内まりやの「デニム」を。
しかし、彼女のデビューは、私が、パンク、ニューウェイヴ三昧になった日々とぴったり重なり合っているので、30年後にこうやって初めて彼女のアルバムを聴く、という事をしている自分に狼狽えたりする。
6月17日(日)
通勤生活のペースになってきたのか、土・日になると、身体が動かない。
そのままにしておくとグータラ寝るばかりである。
昨日は、夕方くらいにもぞもぞと動き出し、高円寺中古盤屋巡りを。
しかしまあ、この時期の夕方の高円寺は、単にアジアである。
各所に死ぬほどダラダラな風景が展開。
マーク・リボーがLOS CUBANOS POSTIZOSと一緒にラテンをやっている98年のもの、ニール・ヤングの『ジャーニー・スルー・ザ・パスト』のサントラ(日本盤)、それから、キャロル・キングのファーストなど。
マーク・リボーのものは聞き逃していたのだが、当時ちゃんと聞いておけば良かったと後悔。
『ジャーニー・スルー・ザ・パスト』は、CDだと、アマゾンで3万円近くの値段が付いているのだが、日本盤のLPだと1500円って、これはこれが正常価格なのだろうか???
開いてビックリの豪華ジャケットだしねえ・・・

Marc Ribot → Journey Through Past →
Writer →
本日は、午前中、我が家の風呂場にアリが大量発生してとんでもないことになっていたらしいのだが、私は夢うつつ。
昼過ぎに起きて、「寺へ」。
昨日からやっているmap 主催のイヴェントである。
白金高輪に正満寺という寺があり、そこは妻の実家の墓もあるのだが、その副住職(つまり、住職の息子ですな)が音楽フリークであるという話はだいぶ前から聞いていて、昨年辺りから地下のお堂であれこれ小さなライヴをやり始めたのだが、今回は、map がお堂だけではなく本堂も乗っ取っての2日間の長時間のイヴェントとなったのであった。
本日は、妻のレーベルのイノヤマランドも出演とあって、一体どんなことになっているやらと行ってきたのであるが、いきなり驚いたのは周囲の風景がすっかり変わっていたこと。
考えてみると、私はこの10年くらい、墓参りをしていなかったのであった。
すぐ脇に、ばかでかいタワーが建ち、国道1号線はすっかり整備され、明治学院大学も立派な建物になり、しかも人は歩いておらず、遠近感が狂う感じはまるでヒューストンの町のようでもあった。
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イヴェントは大盛況。
400人を超える人が集まったらしい。
本堂は、さすがに本殿(というのか?)の部分はしっかりと仕切られて、その前に機材が置かれてのライヴ。
地下は、どうやら、住職(親父ですな)もかつて音楽をやっていて、そこで練習したとかという話で、結構な音が出せる。
その2会場を適当に行ったり来たりしながら音楽を楽しむ、という趣向である。
いくつかのステージがあるクラブでのイヴェントというより、フジロックなどの屋外イヴェントに近い開放的な空気が漂う。
すっかり呑気な気分を満喫するのだが、時間がたつにつれ人が集まり、ダラッと横になったりすることができなくなる。
こうなったら墓ライヴをやってもいいんじゃないかとさえ思うのだが、さすがにそんなことやったら寺は大顰蹙を買うようねえ・・・
楽しいイヴェントであったが、我が家は姫が期末試験の勉強のために家に残っていたので、私はイノヤマランドの演奏が終わった時点で帰宅。
しかしこれを主催したmap の人々は大変だったと思う。
頭が下がる。
boidの爆音ナイトもこれくらいの開放的な雰囲気を出せたらいいのだが。
映画だとそういうわけにはいかないのが辛いところだ。
ただ、バウスなら、うまくやればいい感じになるはずで、考えどころである。
そうそう、正満時の副住職も、学生時代は吉祥寺に住んでいて、いつもバウスに通っていたとのこと。
今度の爆音ゴダールには是非と、ご招待する。
あと、イノヤマランドの山下さんから、あっと驚く爆音映画をサジェスチョンされる。
そう、これがあった!と、思わずにやり。
家に帰ってDVD発売会社を調べたらキングだったので、上映できる可能性高し。
いつ、どんな組み合わせでやるかが問題だが、これができたらこれまで爆音に興味を示してもらえなかった人たちにも「おお」と思ってもらえることだろう。
6月15日(金)
中原が持ってきた40分の新曲を堪能する。
あくまでも作られた音楽としてありながら、気がつくとその輪郭が現実の世界の中へと滲み出し、今聴いている音が現実世界の音なのかスピーカーから出てくる音なのかの判別がつかなくなる。
音楽の中に潜むさまざまな現実音が、当たり前のように現実世界の中へと浸透していくのである。
大げさに言えば、音楽を聴くことが現実を変えることであることをそこで体験できるのだ。
ただそれは、ヘッドホンで聴いても分からないし、小さな音で聴いても分からない。
ある程度のボリュームで、音に身体を包まれるようにして聴いた時、初めて、その奇妙な感覚に囚われるはずだ。
そして単に現実を変えるのではなく、ふと笑いを覚えてしまうユーモアが、そこには潜んでいる。
必要に迫られてジャンルわけすると「ノイズ」ということになってしまうヘア・スタイリスティックスの音楽だが、常に思うのは、このユーモアである。
自分の人生さえどうでもいいものにしてしまうようなユーモア、といったらいいだろうか・・・
中原に向かって、「貴族の音楽だねえ」と、思わず呟く。
その後、渋谷にて、バウス・スタッフと打ち合わせの後、『ロンドン・コーリング ザ・ライフ・オブ・ジョー・ストラマー』。
次々に公開される音楽ドキュメンタリーに、おそらく多くの人が食傷気味になっているとは思う。
ジョー・ストラマーだけで、これが3本目で、さすがの私も一体どうしたものやらと思ってはいたのだが、そういう気分は結局、映画を観ないための言い訳みたいなもので、観てみると案外普通に観られたりするものだ。
というか、こういう映画は単に観に行けばいいだけで、それ以上でも以下でもない。
それがジョー・ストラマーの生き方ではなかったか、というようなことをちゃんと見せてくれる誠実な映画であった。
まあ、ジョー・ストラマーに向き合えば、そうならざるを得ないんだけどね。
ラジオのDJをやっているストラマーの放送をみんなで聴きながらの進行、というアイディアも良し。
ただ、もうちょっとそれを展開していっても良かったのではないかと思ったが。
いずれにしても、幼少の頃からのさまざまな資料映像がふんだんに入っていて、髪の長い頃のライヴなども観られるわけだから、ファンにとっては貴重且つお得な映画であることは確か。
ただ、ポール・シムノンが出てこないのは一体何故?
資料を観ると、何か書いてあるのか?
あと、2002年の英国消防士のストライキ支持コンサートの会場で、ジョーのステージにミック・ジョーンズが上がり、一緒に演奏するシーンは、さすがに泣ける。
前半で「White Riot」の演奏をミック・ジョーンズが拒否した、というエピソードをやっておいて、このシーンでは、ちゃんと「White Riot」を二人が演奏する、という演出の賜であった。
それから、ピストルズのライヴのシーンで大騒ぎする観客たちが映るその一番最初にアップで映されるのは、スージー・スーだよね、という細かいネタもきちんと押さえている(もちろん私の見間違いかもしれないのだが)。
さらに、ジョニー・デップやジョン・キューザックといった俳優たちがクラッシュの音楽について語る言葉の誠実さ。
しかも、ジョニー・デップはほとんど「パイレーツ・オブ・カリビアン」のメイクで語るものだから、見ている方も思わずニヤニヤしてしまう。
などなど、ネタは満載。
だが、そういった、何かの確認のために観ることより、ラジオのDJとして「出演」するジョー・ストラマーが流す、さまざまな音楽に耳を傾けることこそが、この映画を観る時の最も重要な態度だと思う。
だから希望としては、この映画のパンフでは、ジョー・ストラマーの人生や発言などほとんど触れず、ひたすらラジオから流れてくる音楽についての解説で埋め尽くしてほしい。
その後事務所に戻り、あれこれ仕事をしていると、窓の外が真っ赤になっていた。
6月14日(木)
梅雨空というより、南国の雨期のような空で、こういう日にはただダラダラと、何となく不穏な感じのする雲を眺めて過ごしたいものだと思う。
しかし多分下田あたりが生涯の最南端である私が、「南国の雨期のような空」など知るよしもなく、そんな私の、所詮日本人なダラダラ感を全くものともしない、真のダラダラ野郎がboidには生息している。
そして本日もまた、私の逆鱗に触れる。
世界各地のダラダラ地帯を旅した挙げ句、現在は建築現場に高々と組まれた足場の上で、どこにも結ばれていない「命綱」を腰に巻いて謎の中国人たちにこき使われるという日々を送っているものだから、いくらどこにも結ばれてはいないとはいえ腰に巻いた命綱がない場所では調子が狂ってしまうのだろうか。
そんなダラダラ野郎の心配をしている暇があったら、boidの経済問題解決のための努力をしなくては。
ということで、爆音デジタル・ゴダールのためのTシャツを作ってみようという話になる。
今回のデジタル・ゴダールは、作品が新しいため、多くの人が劇場で見たり、DVDで見たりしている。
前回の爆音ゴダールの時は、権利切れ間近、ということもあり、とにかくもう一度見ておこう、という純粋にゴダールの映画を観たい、という方たちも駆けつけていただいたので、そこそこの盛況となったのだが、今回はそれとは違う。
爆音でゴダールを見たい、という人たちだけしか頼りにならない、という状態である。
前回で多くの人が味を占めたに違いないと思ってはいるものの、果たして本当にそうか、という不安はぬぐい去ることができず。
今回のドルビー・デジタル3本では、順を追う事にその技術的進化を確実に体感できるはずだ。
そこで作り出される驚異の音空間は、爆音によってようやく意識化されると思う。
それはもう、バウスでしか味わうことのできない喜びで、爆音といえば音楽映画、と思っている人や、ゴダールは難しいとか分からないとか思っている人にこそ見ていただきたいのだが、それをどうやって伝えたらいいのか・・・
単にバカみたいに面白いのだ。
事が単純であればあるほど伝えるのが難しい。
やはり「ブラック・スネーク・モーン」のように、鎖で縛って引きずり込むしかないのか・・・
真のダラダラ野郎には、どこにも結ばれていない命綱ではなく、バウスの爆音にしっかり結びつけられた鎖としての強靱なアイディアを、期待するばかりである。
一方で南部映画特集が奇妙な盛り上がりを見せている。
とはいえこれは、まだ決まったわけではなく、果たしてどれだけのものができるかを調査中、という段階ではあるのだが。
フランス留学中のnobody松井からも、妙に興奮したメールが(笑)。
バウス・スタッフとも、爆音で儲けて皆でニューオリンズへ、という話になる。
というところで思いだしたのだが、私の生涯最南端はメキシコであった。
エル・パソからリオグランデを渡ったのをすっかり忘れていた。
いや、もしかして、あの辺りよりニューオリンズの方が南なのか・・・
![]()
6月13日(水)
なんと、爆音デジタル・ゴダールの日程を間違えて告知していた事が判明。
ユーロのアルトマンと重なってしまったことの動揺か。
いやはや。
既に修正済みなので、こちらで確認を→。
午前中から新橋にて、昨年のヴェネチアでグランプリを受賞した『長江哀歌(エレジー)』の公開のために来日したジャ・ジャンクーにインタビュー。
午前中の約束事は、本当に緊張する。
突然の寝坊がいつやってくるか分からないからだ。
本日は無事。
インタビューも滞りなく終わる。
以前にも書いたが、とにかくインタビューとか取材というのは全然ダメで、基本的に断っているものの、ときどきふと、ピンと来ることがあり、引き受けることになる。
今回は、一方でヨーロッパでのアジアの映画の受け入れられ方が気に入らないこともあり、ジャ・ジャンクーが自国を見つめる時の立場や姿勢を確認したかった、ということもある。
40分という短い時間だったが、いくつもの頼もしい言葉を聞くことができた。
いずれにしても日本人の余計な心配や、ヨーロッパの思惑などまったく関係なく、しかしそれらをたっぷりと飲み込みつつ、ジャ・ジャンクーの映画は作られているのだった。
それは当たり前といえば本当に当たり前のことで、その当たり前さが行き場を失っている世界において、逆に貴重なものとして受け入れられているという事態が起こっているのかもしれない。
終了後、このインタビューが掲載される「エスクァイア」の編集者の小谷君から、数年前に発売された「ディープ・サウス特集」号を受け取る。
『ブラック・スネーク・モーン』のために企画しているバウスでの南部映画特集の資料にするためだ。
小谷君に指摘されるまで、その号に私も協力していたことをすっかり忘れていた。
まあ、そんなものである。
当然、その号が手もとにあるはずもなかったのであった。
事務所に帰り、やってきた大寺とあれこれ。
今週土曜日の横浜シネクラブでは、リヴェット作品をやるとのこと。
さまざまな権利やプリントの状況の問題で、上映を続けていくのは本当に大変である。
ちょっとしたことで、次回はもうできない、ということも十分にあり得るのだ。
上記の南部特集も、何と『ケープ・フィアー』が上映できそうな気配。
こういう事があると一気に盛り上がるのだが、当然できると思っていた『ダウン・バイ・ロー』が権利切れ。
すべてがうまくいくわけではない。
だがその代わり、DVDも発売されておらず、今やほとんどの人が忘れているはずの、ちょっとした南部映画が上映できる。
ジーナ・ローランズ主演の南部映画なんて、なかなか見られないからねえ。
公開当時は、もっともっと、という不満も残った映画だったが、今見てみるとどんな風に見えるだろうか。
ただ、いずれにしても昨年のアメリカ特集の大失敗があるので、どのように構成してどのようにパッケージしたら劇場で見てもらえるかを、これから念入りに詰めていかねばならない。
まあ、考えてみたところでダメなものはダメ、と言われそうな気もするのだが・・・
しかし、ようやく買ったジョニー・キャッシュの『アット・サン・クェンティン』DVD付きの2枚組CDボックス。
この音からにじみ出てくる狂暴さはただものではない。
ジョニー・キャッシュは何度も刑務所ライヴを行っているが、それはおそらく、刑務所に潜むその野性を受け取って解放する儀式のためだったのではないか。
ある義務感というか、その義務感に取り憑かれてしまった果てのライヴというか、そこで歌われている歌以上の何かが記録されてしまっている、そんな感じなのである。
どれも聞き慣れた歌であるのだが・・・
このアルバムを聴くと、映画の『ウォーク・ザ・ライン』は好きな映画だったが、こういった静かに身震いするような狂暴さはとらえられていなかったなあと思う。
いや、これを聴いて、再度映画を観てみると、また別のものが見えてくるのかもしれない。
明日は、おまけのドキュメンタリーDVDを見ることにしよう。
6月11日(月)
事務所の冷蔵庫の扉が微妙に開いていて、大洪水となっていた。
朝から、冷蔵庫周辺の大掃除となる。
洪水といってもまあ、氷が解けたくらいだからまあ、水浸しになった冷蔵庫の中身を処分・処理して、あとは床を何とかすればどうにかなるのだが、この2日間ずっとこの状態だったとすると電気代は一体どれくらいになるのかと、ちょっと心配になる。
まあ、そういうのがすべて「誤差」となるくらい稼ぎたいものである。
しかし一体、扉はなぜ開いていたのか・・・
あとは延々と、財務処理。
どうやら、いよいよ消費税を支払わなくてはならない状態になり、そうなると、今の経費処理ではぜんぜんダメ、ということが判明したので、とにかくいったんすべてをクリアにしなくてはならない。
厄介なことがあれこれ出てくるのだが、boid事務所は、どうやらほとんど音漏れしないらしく、かなりの爆音でCD・レコードをかけていても大丈夫だから、結構楽しい。
本日は宿題第1弾のポール・マッカートニーの新作『追憶の彼方に』。
「リンダやジョンやジョージに逢いたがっているのかもしれない」という直枝さんの発言による刷り込みがあるため、どの曲を聴いても、その生死の境目をさまようポールの姿が見えてきて・・・
特に「everybody gonna dance tonight」と歌われる「ダンス・トゥナイト」、自らの出自を知る母をいつの間にか遥かに追い越して、その遠方からの視線で母を振り返っているようにも見える「オンリー・ママ・ノウズ」にはドキドキする。
聴いているうちに、もはや「ポール・マッカートニー」という固有名はどうでもいいところにこれらの歌があるのではないかと思えてくる。
曲は素晴らしいが歌や演奏はダメ、ということではない。
その洗練の極地において、ポール・マッカートニーが消え始めている。
やがて「everybody」によって、これらの曲は歌われ、踊られることになるだろう。
その意味で真のポピュラー・ミュージックをマッカートニーは作っている。
6月9日(土)
本日は昨日より更に酷い寝坊。
昼過ぎに起きて子どもと共にバウスにて『パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド』。
気がつくと吹き替え版で、しかも上映時間2時間50分!
しかしこの手の映画の吹き替え版は悪くない。
と言うか、私がもう、字幕を追うのが面倒になっている事が大きいのだが。
物語の方は、確かにこれは3時間はたっぷりかかるよ、という盛りだくさんな内容。
『ブラック・スネーク・モーン』のような、突然の緊張の持続と切断に驚かされるような映画を観たあとでは、一見滑らかな疾走感が気持ちよくもあるのだが、おそらく時間短縮のためなのだろう、いろんな物を割愛していて、これじゃあ、子供らには物語は伝わらないのじゃないか? とも思える。
しかし、このシリーズもこれで最後。
お気に入りのナオミ・ハリスに会えなくなるのがちょっと寂しい。
いずれにしても、彼女は途中で「肉体から解放」されてしまったのだが(この意味は映画を観ないとわかりません)。

帰宅後、ぴあから送られてきたPFFのお知らせを見てびっくり。
ちょっと前に、「準備している」と教えられていた70年代アルトマンの特集が!
『ナッシュビル』も『イメージズ』も『三人の女』も。
混むだろうねえ・・・
PFFは7月20日で終わりだから、boidの爆音デジタル・ゴダールに引っかからなくて良かった、と一安心していたら、なんと、21日からユーロで引き続き上映があるとのこと。
いやあ、まともにバッティングしてしまった。
なんということだ。
東京ではこれだけいろんな特集上映やら映画祭やらが行われているわけだから、何かと重ならないわけはないのだが、しかし、よりによってアルトマンと・・・
『ナッシュビル』『今宵フィッツジェラルド劇場で』『ウォーク・ザ・ライン』『ハート・オブ・ゴールド』というオールナイトやりたいねえと、ちょっと前まで言っていたばかりなのに・・・
まあ、今更ゴダールのスケジュールも延ばせないので、爆音ゴダールを見たい人は、PFFの期間中、渋谷東急でやっている時にアルトマンを見ておいてください!
ちなみに、ゴダールのスケジュールは、7月21日から2週間です。
もうすぐ、boid.netにて、お知らせします。
あと、京都の廣瀬から、京都にあるレンタル・ビデオ店「ふや町映画タウン」に行って映画を観よう、というメッセージが届く。
こちら→
その在庫は目眩くものがあるのに、なかなか借り手が現れないとのこと。
映画を観たい、という人のほとんどが東京に出てきてしまっているのかもしれない。
地方での上映、ビデオレンタルの苦労は計り知れない。
だが、京都在住の皆様、京都には本当に驚くべき在庫を誇るビデオレンタル店があるのです。
とにかく一度、行ってみてください。
6月8日(金)
朝からイオセリアーニの新作の試写。
のはずだったのだが、見事に寝坊。
しかも、早起きしようと思っていたために、一旦目を覚ましてからの2度寝となってしまったから始末が悪い。
結局起きたのは試写の終わる時刻を過ぎる頃。
おかげでその後の予定も大幅に狂う。
とはいえ、銀行に行かねば。
さまざまな書類と資料、印鑑などを持って指定の銀行に。
だが、まだ書類に不備があり、書き直さねばならない。
しかし、中野南口駅前には、スタバ、ドトールなどのカフェ・チェーン店が全くなし。
仕方ないので、昭和の時代の名残のような喫茶店にはいると、メチャクチャ混んでいる。
まあ、楽にコーヒーを飲める場所がマクドナルドくらいしかないわけだから、混むのは当たり前。
もしかして、この店のオーナーが駅前商店会の「顔」で、カフェ・チェーン店の進出を断固拒否しているのではないか。
というか、そうとしか思えないくらいの状態なのである。
北口は全然そんなことはないのにねえ・・・
一体この南北格差は何なのか。
それはともかく、無事銀行の手続きは終了。
しかし、ああいう場所に行くと以上に緊張する私は、窓口にての更なる追加項目への書き込みの際、普段なら書ける漢字も全く書けなくなり(というか元々漢字は全然書けないのだが)、でも、間違うよりましなので、銀行員に「この漢字はどう書くのか?」と、いちいち質問する羽目になったのであった。
どの漢字が書けなかったかは秘密。
いずれにしても、この結果は1ヶ月後に。
年商50億への第1歩である。
その後、UIP試写室に。
『ブラック・スネーク・モーン』の試写。
とにかく音楽関係者には見てもらわねばと、さまざまな音楽誌などのための試写を組んでもらったのであった。
もちろん、メインはバウス・スタッフ。
しかし、銀行の手続きが遅れ、招集人が遅刻という事態。
映画の方は、2度見ても不思議な映画であることは確か。
もう既に、面白いのかつまらないのか分からなくなっているのだが、何かを見て何かを考え何かを行うエネルギーの源のような映画である。
そういう映画を「普通の映画」と言ってみたい気がする。
とはいえ、あのラストシーン・・・
あんな不思議な終わり方は、『キャスト・アウェイ』のトム・ハンクスの横顔以来、という気がする。
うーむ、ジャスティン・ティンバーレイクの涙・・・

ああ、このシーンじゃないです、ラストは。
でも、このシーンもおかしな事になってるんだけど・・・・
6月7日(木)
日記の日付が1日ずれていた。
なんか、いろんなことに対してどんどん大ざっぱになっていく。
お気楽になっている、ということも言えて、個人的には良いことでもあるのだが、その大ざっぱさによって迷惑をかけていることも、おそらく大分あるかと思う。
本日は、昨日、中山さんから借りた、ローリング・ストーンズの『レット・イット・ブリード』の、ステレオ・ヴァージョンとモノラル・ヴァージョンの2種類のレコードを聞き比べる。
すると、やはり全然違うのだ。
モノラル・ヴァージョンは今回初めて聞いたのだが、ステレオに比べて中音域がモヤッとしていて、こちらの腹から腰の辺りに絡みついてくる感じ。
音以外の何かも一緒に、スピーカーから運ばれて来るというか。
ステレオ・ヴァージョンの方は、もちろんこちらは聞き慣れていることもあり、音もクリアでバランスも良くて、耳に馴染む。
ステレオも悪くない。
悪くないのだが、やはりモノラルのただならぬ気配には敵わない。
多くのモノラル・ファンは、こういう気配と共に音楽を聴いているのだろう。
ただ、こうやって聞き比べでもしないと、普通はこのようなことに気づかない。
デジタルのクリアな音に慣れてしまっている耳には、単に焦点の定まらない音、という風に聞こえてしまうかもしれない。
それで結局、「どちらで聞いても、いい音楽はいいのだ」というつまらない結論になってしまうのだが・・
多分、そういう事じゃない。
でもまあ、このメロウでドリーミーな空気の中に潜む野性の音は、何物にも代え難いねえ・・・
6月6日(水)
本日は、午後から、恒例の直枝取材。
いつもは火曜日なのだが、昨日はレコーディングのため1日ずれたのであった。
しかし、さすがにハードなレコーディングだったらしく、直枝さん大幅な遅刻。
やってきたときの風体は「さっき人を殺してきたみたい」と、インタビュアーの中山さんがつぶやくほど。
でも、取材は順調に進む。
私のようにいびつな、というか、偏ったというか、とにかくほとんど系統立てて音楽を聴くということのなかったものにとって、直枝さんの話は非常に面白くかつ参考になる。
この歳になってようやくその面白さが分かるようになった、というべきか。
いずれにしても今週は、ポール・マッカートニーと竹内まりやの新譜を聞くこと、という課題が出される。
ミュージシャンとしていかに年老いていくかという、生き方そのものの問題としてそれらのアルバムは非常に重要かつ恐るべきものとなっているとのこと。
その後、昨日の日記にも書いた私の本のタイトルをつけた青土社の編集者、宮田君、それから久々に安井君がやってきて、事務所そばの韓国料理屋にて。
映画美学校の安井ゼミでは「日本映画101本ノック」と称して、昨年公開の日本映画101本を、ただ漫然と見る、という試みがなされている。
どれが面白いかとか何か新しいものを発見するとか、そういった野心なしの、単に映画を見るだけ。
そしてその結果を、書きとめていく。
そのスタンスで、『ブラック・スネーク・モーン』も見てくれとお願いする。
青山からメールが来て、クロード・シャブロルの『石の微笑』がめちゃくちゃ面白いと。
そうなのだ、昨日何か忘れていると思っていたら、最終試写であった。
公開されるだけでもありがたいのだが、でも本当にシャブロルの映画でさえ、うっかりすると誰も知らずに公開されて消えていく。
6月下旬からの公開である。
渋谷のQ-AXシネマ。
私も何とか早めに行けるよう、メモしておかねば。
6月5日(火)
ついにboidの年商が50億を超える!
いやあ、昼間、遊びに来た佐向が、「Wikipediaに樋口さんの項目ができていて、boidの年商がすごいことになってますよ」と教えてくれたので見てみると、本当に50億。
こんな感じになってます。→
一体誰が何のためにどんな状況で書き込んだのか、謎は深まるばかりだが、boid内、家庭内では大いに受ける。
たまたま、本日は銀行からの融資を受けるための書類作成に励んでいたのだが、うーん、年商50億あったら一体いくら借りられるのだろうと思ったのだが、想像もつかない(笑)。
ただ問題は、私が早稲田大学卒業してたり、カイエ・デュ・シネマ社に入社してたりするという全くありもしないことが事実として書かれている点。
しかも、私の本や編集した本の版元が「boid出版」となっている。
まあ、たとえば、5年後に年商50億になって、本の権利もすべて手の内にして、boidの出版部から出し直す、ということもあるかもしれないから、あり得ぬ事でもない。
占い師によれば、5年後には大もうけしていい気になって、使い込んで破産、という相もでているとのこと。
学歴も経歴も詐称するほど調子に乗るって事かもしれぬ。
だとすると、例えば、5年後に破産した私が、やけくそになってこの書き込みをしたと考えると、それはそれでなかなかいい話でもある。
何だかもったいないので、皆さんにお知らせしておく。
しかし、銀行の書類を仕上げの最中、私の経歴を書く欄があり、そこに、著書を書こうと思ったら、タイトルが分からなくなり、思わず、このWikipediaを見て書いてしまった(笑)。
こんな長いタイトルを付けた編集者の責任ではあるのだが、果たしてこのWikipediaに書かれている私の本のタイトルはこれであっているのだろうか?
手許に本がないので、まったく分からない。
既に書類には書き込んでしまったので、今更間違いが分かってももう手遅れなのだが・・・
6月4日(月)
事務所リヴィング化計画は着々と進行。
本日は、自宅にあった、サンセヴェリアの鉢植えを持って事務所に。
![]()
こんな感じである。
なかなかよろしい。
そして更に、昨日某所で何の気無しに手にとって、なぜか手放せなくなりそのまま購入してしまった「砂漠の旅人」なる植物。
要するに小型のタンブルウィードなのだと思うのだが、ちょっと違うかもしれない。
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これを、1センチくらいの水を張った容器の中に入れておくと、水分を吸って次第に広がり、3日後くらいには葉も緑になるのだそうだ。
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これが水につけて1時間後の状態。
そして下が、4時間後。
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一旦緑になると、今度は水気をなくし、後はそのままにしておくと、再びタンブルウィード状態になるとのこと。
まあ、世話が楽なんで、こういうのは私のためにあるような植物なのであった。
しかし、こうやってお気楽な状態に常にしておかないとどうなるか分からないくらい、耳と目眩がヤバイ感じにもなっているのでもあった。
こういうのは本人にしか分からないので、とりあえず自分の都合で動くしかない。
猪股には「今日はテンションが高いですよ」と言われるが、体調にかかわらず、テンションは上がったり下がったりするのだ。
というわけで、夜に出席予定だった、ロフト・プラス・ワンにての「中原昌也大生誕会」は欠席。
猪股・小倉の二人が『AM5:00+』を持ち、記念販売へと向かう。
6月3日(日)
昨日は、レコード・プレーヤーのカートリッジを買い、ついに事務所にてレコードをかけられるようになる。
まあ、たいした物は何も持っていないので、だからどうだというわけではないのだが。
とはいえ、日々、事務所のリヴィング化が進む(笑)。
本日は、次号boidペーパーのため、大里俊晴宅を、青土社にて清水俊彦さんの2冊の単行本を担当した水木氏と共に訪ねる。
ギリギリの発行になってしまうのだが、6月30日からのロサでの『AA』再上映にあわせての記事を組もうとしていたところに清水俊彦さんの訃報。
そこでとにかく、お二人に追悼文をお願いしたのだが、「追悼文」という形になるかどうかは別にして、まず二人で会ってあれこれ話をする中で何らかのものを仕上げたいということになり、本日の会談となったわけである。
結果的にboidペーパー、あるいはboid.net上に発表されるものがどうなるかはまだ謎ではあるが、本日のお二人の話をそのまま載せても十分面白いものであった。
ある人物の残した仕事、文章などについて、まっさらな目でそれらを見ることができるようにしてくれる話、と言ったらいいだろうか。
何とかいい形で、表に出せたらと思う。
しかし、相変わらず大里部屋は機材と資料の宝庫である。
とにかく何も持ちたくない、という私のスカスカな空間とは全く逆のものがここにある。
頼もしい限りである。
おかげで私の省エネ人生に、ますます拍車がかかることになるだろう。
それから、『AA』のロサ上映期間中の7月6日土曜日に、吉増剛造さんがゲスト出演してくださることが決定した。
詳細は追ってお知らせするが、吉増・大里対談(大里氏によるインタビュー)に続き、お二人のパフォーマンス(詩の朗読と演奏)、そして上映という豪華メニュー。
したがって、終映もかなりの時間になってしまいそうだが、23時30分には終われるよう、構成を立てるので、興味のある方、是非ご来場を。
『AA』を既に見てしまった、という方も、また別の『AA』がそこで見られるかもしれない。
といっても映画自体が変わるはずもないのだが、その日のパフォーマンスを含めた2時間30分もまた、新たな『AA』の断片なのだと思っていただけたらと思う。
6月1日(金)
何はともあれ5月が終わる。
そのせいか、ちょっとは気分も楽になったような。
しかし、いきなり凄い映画を観てしまった。
『ハッスル&フロウ』のクレイグ・ブリュワーの新作『ブラック・スネーク・モーン』。
ブラインド・レモン・ジェファーソンの曲名をタイトルにして、ブルースについて語るサン・ハウスの貴重な映像を物語の冒頭と終盤に何の断りもなく入れ込むという生真面目すぎる荒技を当たり前のように披露して、かつてそれらの歌の中で何度となく語られた物語を堂々と語る。
あるショットからあるショットへの非常に繊細で大胆なつなぎに驚かされる。
しかもこれ見よがしに自分好みの映画や音楽をそこに取り入れるのではなく、そうせざるを得ない何かと共にあることが映画を作ることだとも言いたげな、普通さ。
映画がそこにあり、誰かがそれを観る。
そしてそれを観た者の中の「ブラック・スネーク」が確実に反応し、うめき声を上げる。
だからこの映画は、ごく普通に、取り立てて大騒ぎされることもなく、静かに、当たり前のように公開さるべきだと思う。
次回作はどうやらジャズをテーマにした映画になるとのこと。
ヒップホップ、ブルース、ジャズという三部作。
そういった「決め打ち」の感覚と、それぞれのテーマに対する生真面目さは、ちょっとジャームッシュを思わせる。
しかし、8月公開だというのに、まだ公式の試写も組めていない状態。
「静かに」といっても、さすがにこれでは誰も気づかないままになってしまう可能性有り。
なんとかしなくてはと思うもののでは一体どうしたら・・・
ただ、いずれにしても、これを爆音でやらなくてどうする、という爆音ブルース映画なので、とにかく急ぎでバウス・スタッフのための試写を組んでもらおうかと思う。
また、これはちょっと見ておきたいと思われたマスコミ関係者の方々、UIP宣伝部に「早く見せてくれ」と連絡を入れてください。
試写を組む用意有りとのことです。
なんて事まで書いてしまっていいのだろうか?
そうそう、クリスティーナ・リッチが脱いだ、ということも話題になっているようだが、確かにその意味でも十分堪能できる。

5月31日(木)
なんだかんだ言って5月も終わりである。
毎年5月は最低、と、内外に言いふらしているためか、余計に、ちょっとしたことでへこたれる5月であった。
この2週間くらいは、頭痛、吐き気、耳鳴り、目眩、腹痛などが断続的にやってきて、すべてを投げ出したくなる日々が続いたが、まあ、何とか乗り切った。
記憶力はますます低下し、2日前に観た映画のこともほとんど忘れ、視力も悪くなって、パソコンの細かい文字が見えない。
メールも辛い。
何年か前、稲川さんから原稿をもらうたびに、原稿データの文字が大きい