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boid日記 2007年8月

text by 樋口泰人

8月26日(日)

久々に爆音のものすごさを実感する。
深夜の爆音調整『ハッスル&フロウ』。
映画もいいが音もいい。
最初、なかなかバランスが決まらず思いのほか苦労したが、最終的に決まった音は、マジですごい。
体中が震える。
こんなのを夜明けに見たら、一体どうなるだろう。
しかもメンフィスの荒んだ空気、ビッチたちや男たちの夢と希望と絶望とが絡み合った人生の愛おしさ。
ただ単に映画を見ることがこんなに楽しいなんて。
遊びに来ていた松田さんも、バウススタッフも大喜びで、深夜1時半くらいに作業が終わったにもかかわらず、みんな盛り上がったまま3時くらいまで事務所で大騒ぎ。
いやあ、本当にこんな雰囲気になるのはサーフのとき以来。
何とかしてこの雰囲気を多くの人に伝えたいのだが、どうしたらいいかわからず。
とにかく無理やり見てもらうしかない。
サーフのときに嵌った方々、爆音ファン、前回のゴダールで今後の爆音が気になっている方々、とにかくだまされたと思って、そしてそれだけではなく、知人・友人を無理やり誘って見に来ていただきたい。
今回の爆音は別格。
特に『ハッスル&フロウ』は爆音映画殿堂入りを果たす。
他には『クリスタルボイジャー』『エリ、エリ、レマ・サバクタニ』などが殿堂入り済み。
まあ、いずれにしても、どんなことになっているか9月1日のお楽しみである。

8月24日(金)

さすがに半端ではなくへばっている。
バカらしくなるほど忙しく、試写にはまるで行けず。
今年は倒れる前に、どこかで早めにギブアップ宣言をしなくてはと思う。
その日は近い。

とはいえ昨夜は、9月1日用の爆音調整。
まずは、『ソウル・サヴァイヴァー』と『シャフト』
こういうのをやると、やはり元気が出る。
ただ単にでかい音でこういう映画を観ることの面白さ。
ルーファス・トーマスが口を曲げ、ニヤッと笑い、サム・ムーアがクルクルと体を回し、強く透明な声を点に向かって放つ。
一方では、バカみたいに強いサミュエル・L・ジャクソンが画面を駆け回り、音楽が途切れなく流れ車のエンジン音と銃撃音がそれに重なり見事なアンサンブルを聴かせる。
ただただ映画を観ることの楽しさが場内に溢れる。
このときばかりは、自分はもの凄くお得な人生を生きているのではないか、という気分になる。
だからまあ、こうやって翌日のへばりも我慢できるのだが。

しかし、バウスやboidのスタッフがこんなに喜ぶ爆音はサーフ以来だから、それはそれで悪い予感もする。
みんなもそれは分かっていて、既に昨夜の時点で、「こんなに楽しいんだから、動員が悪くてもまああきらめるしかないよね」、という風な空気も流れる。
そんなもったいない話にしないためにも、なんとか大勢の人に見てもらいたい。

ただ単に映画を観ることの楽しさといったらいいだろうか。
『シャフト』なんて、かつてうんざりするほど繰り返されてきたお決まりのパターンばかりで成り立ってもいる映画であり、それ自体の新しさや凄さはどこにもない。
だから見る価値はないという人もいるかもしれない。
だが、こうやって音楽とエンジン音と銃声と喋りとが積み重ねられていくうちに、その疲弊感とともにアメリカの現在の荒廃やそこで生きていくことの厳しさがジワッと伝わってきて、それが今度は自分が日本の現実を生きる時のほんの小さな支えともなる。
その積み重ねが、何かを変える。
大した映画でなくても良いのだ。
つまり、大した人生でなくても良いのだ、ということなのだが、それはもちろん、諦めとは違う。
その「諦めとは違う」という部分を、爆音がガーンと伝えてくれる。
それで、何かお得な人生を生きているような気分になる、という次第。

本日は松田さんと、『ブラック・スネーク・モーン』の前売り券を買ってもらいつつご近所ランチ。
いかに我々が世間の流行から取り残されているかについて、あれこれ。
ただ、やり方次第では、そこにもまた生きる道が残されているように思えるのだが。

しかし疲労のため、仕事はまったく進まず。

ああそれから、ダグラス・サークのDVDボックス。
現在、それに入れるブックレット作りも進行中。
本日、サークの書いた小説も翻訳許可が下りた。
ボックス2の方のブックレットに掲載。
お楽しみに!

8月22日(水)

昨日は、事務所に行く時に新高円寺の駅で、ビターズエンド佐竹君にばったり会う。
先週末から始まったジャ・ジャンクー『長江哀歌』の様子を尋ねると、なんと大盛況、とのこと。
ジャ・ジャンクーの映画で、シャンテが毎回大混雑になるなんて、やはり10年やり続けてきた甲斐があったねえと、他人事ながら大いに喜ぶ。
今回は、いろんな意味でこれだけ中国の社会情勢が取りざたされていることもあり、そういったことからも映画に興味を持った人も多かったのではないかと思われる。
したがって、単に10年やり続けてきただけではなく「運」もあっただろうとは思うのだが、とはいえ、「運」を味方に付けるような映画を作ることができるかどうかも、製作者たちの力であるわけだから、これはもう確実に、こういう映画をこういう作り方で作ることができて作ることを可能にした製作者たちに拍手を送るべきだろう。
いわゆるフィクションとも言えず、ドキュメンタリーとも言えず、その中間あたりで、ダムの下に沈みゆく大地の中に染み込んだ物語を浮かび上がらせるように記録したこの映画の作り方は、日本の映画にとっても大いに参考になるのではないかと思う。

本日は、直枝本の仕上げに向けての打ち合わせなどあれこれ。
boidの年内の大ざっぱな予定について、中根、黒岩と。
とはいえ、相変わらず、すっきりしたスケジュールが決まるわけではない。
言い訳がましくいえば、スケジュールを決めてそれ通りに事が運んでも、それがどうした!? ということでもあるわけで、あーだこーだ大騒ぎしながらバタバタとやっていくことで何かが浮かび上がってくればそれでいい。
大騒ぎできるくらいの時間をちゃんと持て余していることが大切なのだと思う。
直枝本も結局最後まで、ページ数も決まらぬ状態で、日々、あれこれやりとりしながら徐々に固まりはじめてきている。
本を作っているというより、1枚のアルバムを作っているような気分である。

8月21日(火)

先週末、3日ほど夏休みをとった。
といってもパソコンを抱えてのもので、家族とともに涼しい場所に行って、そこで仕事をしていた、というだけのこと。
もちろん、最高気温24度というのは、なかなか快適なものではあった。
来年のboidの夏は、リゾートオフィスにて、ということにしようと思う。
ただしそれは、あくまでも私のみの話。
若者たちは暑い東京で汗水垂らして働いていただきたいと思う。
まあ、来年もboidがあれば、の話ではあるのだが。

昨日は安井君が、できたばかりの「シネ砦」創刊号を持ってやってくる。
以前、この日記でも書いたことがあるが、映画美学校の安井ゼミの数名とともに昨年公開の日本映画101本を観て、それらを1本200字程度の文章にしたものをまとめたものだ。
101本集まるとそれなりに壮観である。
とはいえ、日本映画を盛り上げようとか、自分の研究の成果をここで発表しようとか、何かを語ろうとか、そういった類のものではない。
単に黙々と、時にはうんざりもしながら映画を観て、それをまた黙々と時にはうんざりしながら文章にしていく作業の成果である。
ひたすら身体的な読み物。
こちらも、この101本のうち数本しか観ていないことに呆れながら読むしかない。
資料として挙げられていた昨年の興行収入トップ5の日本映画は1本も観ていなかった。
一方で外国映画の方は『ハリー・ポッター』や『ナルニア国物語』も含め、5本ともしっかり観ていた。
現在の日本の映画状況に全く逆行するこのバランスの悪さを、今年は少し修正しなくてはと思う。
とはいえ安井君によれば、「これを読んで日本映画を観ようと思われたら、失敗なんだよなあ」とのこと。
その不毛さは、確実にアメリカ映画へと通底していく。
それから、「シネ砦」は3000部しかつくっておらず、置き場所も少ない。
読みたい人は、積極的に探して見つけ出してほしい、とのことでもある。
置き場所は、敢えてここには記さない。

コスタ・ガブラスの娘が撮った「La Faute à Fidel」というのを観る。
まだ、邦題がついていないんじゃないかな。
68年くらいのフランスを舞台に、コミュニストになったブルジョワの両親を持つ少女の目線でとらえた世界の姿。
大人たちの葛藤や対立の姿は、いろんな意味である種のパターンにはまってしまっているように思えたのだが、そうやって大人の視線で世界を観てしまう少女が、ようやくそれから自由になって自分の視線を獲得するまでの物語だと思うと、全てに納得がいく。
これから始まる長い旅がスタートするところでこの映画は終わる。
それがこの映画の終わりということではなく、スタートは常に目の前であるのだという現在形に向けて世界が広がる終わり。
つまり、その終わりがこちらの現実に流れ込んで来るという構造。

それから、やはり女性監督で、デンマークのスサンネ・ビア『アフター・ウェディング』。
主人公のマッツ・ミケルセンが、どうしてもヴィゴ・モーテンセンに見えてしまう。
というのは私の勝手だが、登場人物たちの立場や感情、その人格の部分も気がつくとするすると違うものになったり、また戻ったりする。
どうやらそれがこの監督の映画の特徴の一つでもあるようだ。
人格が入れ替わるゲームのようなものとしてそれは作られているのではなく、一人の人間が持つさまざまな面がある時何かをきっかけに露出してしまう、それを瞬間瞬間でとらえては映し出してしまうのである。
一人の人間という枠を誰もがコントロールしきれないギリギリの場所で、この映画の主人公たちの人生がある、ということか。
というか、ギリギリの場所というような大げさなものではなく、我々はごく当たり前にそんな感じで生きているのだということでもあるのだろう。
一人の金持ちの葬式のシーンは結構泣ける。
映画を観る人にとって、単に映画の中の登場人物に過ぎないこと人も、その映画の中だけだったとはいえとにかくある時間はそこに生きていたのだ、という奇妙な生の証のようなものが映し出されているように思えたのだ。
その意味で、『エリ、エリ』の百葉箱の中のモニターに映る中原のシーンを思い出しもしたのだが、それはこちらもまた、ビデオ撮影されているからかもしれない。
しかも、ハイヴィジョンではなく、普通のDVの、いかにもビデオっぽい画面。
あの電子映像が、人間の生の証を映し出してしまうという皮肉。
私の中に、『夢の涯てまでも』の電子映像が人類の微かな記憶の映像として刷り込まれてしまっているために、そういうふうに見えてしまうのだろうか・・・

などなど、観なくてはならないものが多すぎて、なかなか日本映画の不毛の地に足を踏み入れることができない。

8月14日(火)

本日も、黙々と仕事。
ただ、どこも夏休みなので打ち合わせも試写もなく、こちらの仕事に集中できるので助かる。
事務所の窓から見える靖国通りも交通量は普段の半分以下で、通行中の人々もどことなく呑気に見える。
だからまあ、仕事をしていてもあまり、仕事をしている気分にはならず。
何となくダラッとそこにいて、何となくあれこれしていると少し仕事がはかどっている、というような状態。
CDはガンガン聴けるので、特に退屈もしない。
直枝さんの原稿をまとめながら、それに合わせた音楽を聞いているのである。

しかし、インタビューをこうやってまとめていると、自分の知らない音楽や聞いてこなかった音楽がまだまだ山ほどあることを思い知らされ、愕然とする。
ただ、だからつまらない人生だったということではなく、このまとめを読むと、直枝さんが聞いてきた音楽の豊かさを分けてもらっているような、そんな気分になるのだ。
音楽を聴くことの意味、それがどのように自分の人生に関わるか、そしてそのことが世界をどのように変えるか、そんな眺望がひらけるのだ。
かなりギリギリの作業になってしまっているが、なんとか早く形にして、多くの人に読んでもらいたいと思う。

とはいえ夜に入ってさすがにグッタリと疲れが出たので、早めに帰宅。

昨夜、サークの『心のともしび』を見たのだが、メチャクチャ早い。
話の展開も早いのだが、カットの早さがちょっと異常。
例えば廊下にいた人がドアを開けて部屋の中に入ってそこで会話が始まる時、入ろうとする部屋のドアに手を伸ばしたところでカットして、次のカットでは既に部屋の中に入っている。
なんの変哲もないごく当たり前のシーンがそうなのだ。
そこがポイントである。
確かにそれもまた何らかの「効果」を生み出してはいるのだが、それ自体も独立して、決定的な何かをそこに孕んでしまうような、そしてそれ故にまったくの無意味に見えるような、そんなカットワーク。
そういった早さだけ見ているとまるでスクリューボール・コメディなのだが、そうではなく、とんでもない悲劇がジェーン・ワイマンに襲いかかる。
これでもかと襲いかかったところで、その早さが終わり、しかしそこから本当の悲劇が始まる。
おそろしい映画であった。
そのおそろしさが、ごく当たり前のシーンのカットをあんなに変なものに見せていたのだろうか。
どっちが先なんだかよく分からない。

あと、その早さとも関係しているのだが、サークの映画はメチャクチャ台詞が多く、キングの担当者の報告によると、多いものだと現代映画の3倍近くの字幕が必要なのだそうだ。
当然スタジオ代も膨らんでいるはずだ。
商売としてやっている以上、その中でなんとか利益を上げていかねばならない。
儲かりませんでしたではすまされない現実もある。
発売まではなんとか漕ぎ着けられそうだが、問題はその先である。
あるアイディアを形にすること、そして売ること、上映することの大切さは、もっと真剣に考えられていい。
つまり、そのことに夢中になる逆転現象が簡単に起こってしまうという危うさも含めて、という意味でもあるのだが。
boidにとってもそれは同じ。
地味な作業が続く。

8月13日(月)

いや、暑いねえ。
日記の更新が滞っているのは夏休みをとっていたわけではない。
この暑さの中、土・日もなく日々せっせとあれこれの仕事をしていて、でもたとえ休んでいても暑くてだらだらするだけだから、身体的負担は同じ。

先週のドン・シーゲル鼎談のために、たぶん20年ぶりくらいで『突破口!』を見直したんだけど、あの冒頭の音楽は、一体なんだろうねえ。
まるで、ポール・トーマス・アンダーソンの映画でジョン・ブライオンがやるようなソフト・ロック。
この映画の音楽担当誰だっけ?と、資料を見直してしまった。
でもラロ・シフリンに間違いなく、単にあの時代だからこういった音を作ってしまったのか、それとも、銀行強盗のアクションに入る前のちょっとしたのどかさを出すためにあのような音を作ったのか、あるいは、ソフトロックくらい簡単に作れるよ、という音楽家としての意地だったのか・・・
とにかくあの音楽が流れ、子供たちの笑い声が聞こえ、それにつられるように噴水まで噴出したりすると、何だかディズニー映画の始まりのようなものにも思えた。
もちろんそれ以降は、ドン・シーゲルの映画だけど。
しかしそんなことを、いまさら気づくのもどうしてか。

それから、まだ字幕がつけられる前の『Has Anybody Seen My Gal?』。
これまた冒頭、イラストとともにスタッフ・キャストのクレジットが映されていくのだが、このイラストはたぶん当時の流行のものだったはずで、今見ても50年代のポップ感覚が感じられるのだけど、どことなく「サザエさん」のようにも見えるのだ。
というか、「サザエさん」自体が、アメリカ50年代のポップを日本に置き換えた絵柄だったのかと、思い当たったという次第。
いや、これまた、いまさらな話ではあるのだが・・・

しかし、この映画、どのようなタイトルにするか、ギリギリまで難航しそうな気がする。

あと、『ブレイズ』を見直したついでに、ロン・シェルトンの『ダーク・スティール』というのを見た。
カート・ラッセルがファザコンの警官に扮する、ジェイムズ・エルロイの短編の映画化。
エルロイを読んでいると彼の父が誰だったか、なんとなく想像がついたりして、そこそこ楽しめるのだが、問題はそこではなく、画面のサイズ。
DVDで今も発売されているものだが、なんと、4:3にトリミングされているのだ。
アメリカではちゃんと劇場公開されてそこそこのヒットをした映画なので、最初からこのサイズで撮られていたはずはない。
日本では劇場未公開だったため、テレビ放映用に字幕をつけたものをそのままDVDにしたに違いない。
ちょっと前、映画の配信システムがどんなことになっているか、いくつかのサーヴィスを試してみたのだが、そのうちのかなりの数がやはりトリミング版で、これならDVDで見たほうがましと思い、入会までにはいたらなかった。
DVD全盛になって、ようやく画面サイズがほぼオリジナルのままになってきた(まあ、16:9とかになっていたりはするけど)と安心していたのに、配信時代になると、またそれが昔に戻ってしまうのだろうか?
まあ、これまた配信システム自体が安定してくるとまともになって来るんだろうけどね。
でも、モニタも横長になってしまったのだから、あえてトリミングする必要はないと思うのだけど、きっとこちらには分からない裏の事情があるのだろう。

とはいえ、今週後半は夏休みで、山梨・長野方面へ。
それまでにいろんなことを仕上げておかねば。

8月8日(水)

いろんなプロジェクトが同時進行しているため、取材とまとめと入稿作業などが一気に押し寄せてくる、という日々が続く。
原稿の締め切りがないだけ少しはマシ。
とはいえこれで目一杯だから、気持ちが分散してしまわないよう、一つ一つに集中することを心がけてはいるのだが、この暑さじゃねえ・・・

本日は、ギリギリまで直枝本のまとめ作業をやり、昼過ぎからは篠崎事務所にて、黒沢・万田・篠崎によるドン・シーゲル鼎談。
ボックスセット発売記念である。
4時間ほど、あれやこれやと。
その成果は、近々boid.net に掲載。
「突破口!」の物語を一番ちゃんと把握していたのが私だったという、私を知る人にとっては驚きのオチあり。
というかまあ、私は昨夜見たばかりだった、ということだけなのだが。
疲れ果てていると神経が妙に冴えて、いつもなら簡単に見逃すところが鮮明に見えるため、そこで一気に物語を把握してしまったのだった。
いや、実はこれまでもこういう事は結構あったんだけどねえ・・・。
ただ、その場では確かめようが無く、いつものように私が変なものを見ていただけ、というオチで終わってしまっていたのである。
いやまあ、時々はちゃんと映画を観ているのだ、ということが言いたいだけなのだが・・・

帰宅後、あまりに疲れているので仕事はあきらめ、『ワイルドスピードX3』を。
先日、爆音ソウルサヴァイヴァー絡みで『X2』を見たら、なんとロードショーで見ていて、『1』と『2』の物語を一緒にしてしまっていた事が判明、まさか『3』は見てないよね、というバカみたいな状況により、とにかくDVDを借りたのだった。
やはり初見。
よかったよかった。
日本であんなカー・アクションができるなんて、一体これはどういうことか?
『オーシャンズ12』だったかで、東欧でのカー・アクションの撮影をロシアでやり、そのためか随分乱暴な事ばかりをやるので呆れていたのだが、日本の公道でも同じようなことがおこっていた。
資本の力なのか、ハリウッド映画というステイタスによるものなのか・・・
これができるなら、『エスケープ・フロムTokyo』とか、できるんじゃないかとも思った。

そうそう、どうやら8月27日の渋谷では、公道にてブラック・スネーク・モーンが行われるらしい。

8月7日(火)

出がけに青山から来たメールにてリー・ヘイゼルウッドの死を知らされる。
まあ、もうそれなりの歳なのでショックということはない。
ただ今年日本盤も出たアルバムでは相変わらずのデュエット曲もあり、いい歳してまだまだご盛んで結構な事だと喜んでいたのだが・・・

lee.jpg

Cake or Death →

何となく思い気分を引きずったまま、直枝本取材。
本のまとめの方も大詰めで、本日は、語り足りないところをいくつか話してもらう。
ギターのコードの響きがもたらすある種の効果と曲のイメージについての話など、演奏者でなければできない話が非情に印象に残る。

深夜に帰宅後、いくつかのサイトを調べてみたのだが、ヘイゼルウッドの死亡記事を見つけられず、青山に問い合わせると、スポニチの芸能欄に。
腎臓ガンだったとのこと。
何となく気になって、アマゾンやHMV、タワーなどのサイトのコーナーを見たら、私の持っているいくつかのアルバムがもう、発売されていない。
確か90年代後半くらいから、再び音楽業界に復帰した(それまではどこかの市会議員か何かをやっていたはず)ヘイゼルウッドは、過去のアルバムを自分のレーベル(おそらく)からコツコツ再発し続けて、ありがたいことにほとんどのアルバムを手にすることができるようになっていたのだが、彼の死によってそういった復刻盤はこれからどうなっていくのだろうか?
死をきっかけに、ということでもいいから、多くの人に聞いてもらえたら、それはそれで十分幸せなことだと思う。
というか、あのトロトロの歌声を一度も味わいもせず一生を過ごすなんて、本当にもったいないと思う。
しかし、ナンシー&リーのアルバムとか、ヘイゼルウッドのファースト・アルバムとか、アマゾンでは驚くような値段が付けられていて、あきれる。
何と言ったらいいのかよく分からないのだが、それらのアルバムは、真っ当な創作物として作られているとともに、一方で消費物としても作られているわけで、ヘイゼルウッドは自分がやっているのはあくまでも商品としての音楽であることも十分承知していたはずだし、そこで生きてきてもいたはずだ。
それが、消費物としての生命を失うと同時に資産価値を生むという仕組みに関してはどんな思いを持っていただろうか。
コツコツと再発作業を続けたのは、そんな仕組みに関しての彼なりの生きる態度の示し方だったように思う。
しかし、1929年生まれというのは、私の母親と同い年。
ゴダールやイーストウッドより1歳上・・・

8月5日(日)

爆音デジタル・ゴダールは無事終了。
あれこれトラブルもあったが、結果的には大盛況であった。
3作品続けて見てみると、1作ごとに音の作り方を変えていることがはっきりと分かったと思う。
そしてそれらが、世界の政治や新しい動きと確実にリンクしていることも感じられたのではないか。

終了後の打ち上げかつ、今後のboidの方向を巡る会議(?)の中で、いくつかのアイディアが出る。
安井君からは、やはり爆音サーフを継続すべしと力強い発言。
こういう言葉を待っていた。
というか、単にサーフを何とかしたかっただけなんだが(笑)。

土曜日は終日寝込む。
さすがに寝てばかりではと思い立ち、2ヶ月ぶりくらいでディスク・ユニオンへ。
すると案の定、目眩く再発盤・・・
boidの経営が安定するまでは無駄遣いを控えているものの、さすがにこれは購入。

mitch.jpg

デトロイトのロックンロール&R&Bシンガー、ミッチ・ライダーがメンフィスのブッカーT&MG'sをバックに歌いまくるアルバム。
ミッチ・ライダーの歌声は、トム・ジョーンズやヴァン・モリソンのような迫力とは違い、ちょっと細めでひ弱にも聞こえるが、それが目一杯突っ張って、案外丈夫でキレることのないまま最後までその緊張感を維持していく、その危なっかしいグルーヴが何とも言えない。
MG'sの演奏も挑発的で、「The Detroit-Memphis Experiment」というアルバムタイトル負けしない。
ライナーに変な文字が並んでいるなあと思ったら、なんとロシア盤だった。
どうやらアメリカでの再発盤は8月21日に発売になるらしい。
Mitch Ryder アメリカ盤→

本日も、終日ほぼグッタリ。
夕方、事務所にて少し仕事。
中原がやってきて、今後の活動についての打ち合わせもあり。
年末に向けて、いくつかのプロジェクトを進行させることにする。

8月1日(水)

いろんなことが重なり、日記を書く時間もままならないのだが、ひとつ重要なお知らせを。
オリヴィエ・アサイヤスの『Clean』が、シネフィル・イマジカで放映される。
上映の前に放映というのもなんとも残念ではあるが、とにかくシネフィル・イマジカと契約している方は是非チェックを。
契約していない方は、契約者を探しダビングを依頼してほしい。
いや、この機会に契約を、という感じだろうか。
8月3日以降、何度かの放映になる。
詳しくはこちら→
取り急ぎお知らせまで。