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boid日記 2007年9月~10月

texy by 樋口泰人

10月31日(水)

忘れていて得した1日。
といっても、この1日がなければどうなっていたことか。
昨夜は、『宇宙の柳~』につける解説の確認のため、筆者の中山さんにそれらのデータをすべて送ったつもりが別の中山さんに送っていたことが判明。
しかも見ず知らずの中山さんで、なぜか私のアドレス帳の中に入っていたから、見ず知らずではないはずで、しかも、本日、その中山さんではなく、本来送るはずだった中山さんから『届いてない』という連絡を受けて判明。
先日は、サークの権利問題のあれこれを青土社の宮田君に送ってしまっていたりと、自分のやっていること自体に全く責任が持てない状態。
しかも明日は、某大学での講義があり、その準備もあってあたふたしているところにバウスから、12月8日の『Too Tough To Die』の初日が時間通りできなくなったという知らせ。
9時スタートのはずが、11時スタート。
これでは電車のあるうちに帰れない。
レイトではなく、オールナイトである。
一体どうしたらいいのだ!
仕方ないのでオールナイトでやるしかないのだが、しかし既に「レイト」ということで告知済み。
とにかく、明日の講義が終わってから至急何とかするしかない。
というわけで皆様、

12月8日の『Too Tough To Die』は、

午後11時スタートです!

10月30日(火)

本日は、近所の小学生が変質者に狙われたらしく、中学生も集団下校。
こんな社会で生きるのは大変だが、なんとか逞しく育ってほしいと思うばかり。

しかし今日のような、雨が降りそうで降らず、でも降らないわけではない、というようなはっきりしない低気圧模様の日は、体調最悪になる。
半端ではない。
分けられるものなら分けてあげたいものだが、だれもこんなものいらないだろう。
超脱力。
鬱々としたままひたすら働き続け、1日が終わる。
事務所では小倉が、さまざまな媒体に『宇宙の柳~』と『ROCK LOVE』の売り込み電話を延々とかけまくっている。
ほとんどが不毛に終わるが、それでも連絡を取り続けねば、紹介されることもない。
作るのも大変だが、売るのも本当に大変である。
皆様よろしく。
音楽に興味のある人だったら、読んで絶対に損はない1冊になっている。
直枝さんのことを知らなくても、たっぷり楽しめるし、音楽への接し方が変わる。
で、なるべくboid通販で買っていただけると、助かります。

10月29日(月)

子どもの中学で、悪質ななりすましメールやネット上の中学校裏サイトなどへの書き込みが問題になっている。
最初は一人の生徒の一人の生徒への嫌がらせだったのが、今や複数の生徒同士になり、特になりすましメールはもう何がなんだか分からなくなっている模様。
自分が自分になりすましメールを出して被害者のふりをするものまででているらしい。
こういったことは過去に例のない事態なので、先生方も手を焼いているようだ。
被害者へのメールや書き込みは、警察沙汰になりそうな本当に悪質なものから他愛のないものまで。
警察も、はっきりとした事件ではないので、ネット上の捜査もできないのだという。
裏サイトを見ていると、何か熱病のようにも思え、案外放っておいた方がいいような気もするが、子どもたちは私のように先が短いわけではないので大変である。
胸が痛む。

子どもが見ていた「スマスマ」にアヴリル・ラヴィーンが出ていた。
どうしてスマップと一緒に歌っているのかまったく分からなかったが、その後とりあえず、スージー・クアトロとランナウェイズを子どもに聞かせる。
しかしたいした反応無し。
あくまでも影響力の薄い父親であった。

それから、boidペーパー最新号掲載の『宇宙の柳、たましいの下着』に関する中山義雄さんの文中で、「彼自身は「地動説」の人で」という部分が出てくるのだが、これは「天動説」の間違い。
読者の方からの指摘。
完全に私のチェック・ミスであった。
お詫びと共に訂正を。

10月28日(日)

ダメな日は思い切って休んだ方が身のため、ということを痛感した1日であった。
そんなことは十分承知の上で働いてみたのだが、やはりダメだった。
と、書いたところで、今月は31日まであることを発見(?)。
1日分助かった。
でも、本当に31日まであるよね・・・

10月27日(土)

昨日、思潮社から本が届いていた。
詩の本など、私にはまったく関係ないはずだがと思いつつ開いてみると、稲川さんの詩集『聖-歌章』だった。
思い切り潔い本である。
何しろ本体の表紙部分には、鳥みたいな押印があるだけで、その他は何も無し。
表紙の厚紙も、中に入っている厚紙がむき出しになるよう裁ち落としてある。
そして、それをくるむように、縦に帯が掛けられていてそこに本のタイトルなどが書かれているのだが、これがまるでその本を封印するように裏表紙の方までまとめてくるんでいるから、本を広げることはできない。
うっかりするとその帯を破ってしまいそうだ。
もちろん、バーコードも印刷されておらず、本屋の立ち読みもアマゾンでの通販も拒否している。

このところずっと子どもが微熱を出していて、先週の土曜日に病院で血液検査をしてもらい、本日はその結果が出る。
異常なし。
ついでに、血液型も分かる。
私と同じだった・・・
それだけは避けたかったのだが・・・

昼から、恒例のトリプルポイントHMV詣で。
するとこんなアルバムが。
levon.jpg
レヴォン・ヘルム →

というわけで、それらを聞きながら、ひたすら『宇宙の柳~』の原稿、画像類の整理、整理、整理。
『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』を見た時には、さすがにもうこうなるとレヴォン・ヘルムもドラムを叩く力はないのではないかと思ったのだが、このアルバムを聴くと、力がなくても叩けることが分かる。
この軽さが恐ろしい。
もう、そのままあの世まで飛んでいってしまいそうだ。

10月26日(金)

『宇宙の柳~』のボーナスCDをプレス会社に納品。
CDの方はこれで出来上がりを待つのみ。

一方、サーク第2弾ブックレットの方は、青焼きで、大きなミスが発覚。
こんなところが間違えているなんて!
でも気がついて良かった。

10月25日(木)

『宇宙の柳、たましいの下着』の仕上げの最終段階に入っている。
さまざまなデータや画像類の調整で、一日が終わる。
サークのボックスセット、第2弾のブックレット青焼きも上がってくる。
こちらはとりあえずなんとかなったかな、というところ。
あのインタビューと小説が読めるだけでもすごいとは思う。
というかまあ、何はともあれ、サークの映画がこうやってみられるわけだから。
あとひと桁多く売れたら、値段も半額にできるんだろうけど・・・

しかし、今回は、サークといい、『宇宙の柳~』に引用する歌詞といい、権利問題に苦しめられている。
日本盤のライナーの中の歌詞カードのところに「聞き取り」という注意書きがなぜ書いてあるのかも、はっきりと分かった。
歌や曲などの著作権を支払うことに関しては異存はないのだが、とにかくもう少しその手続きをシステマティックにしてほしいと切に願う。
外国曲の場合は本当に大変である。

夜は、訳あって、80年代高円寺のレンタル・レコード屋「パラレルハウス」に集っていた友人たちが事務所に集合。
50歳前後のオヤジ・オバサンの同窓会となる。

10月24日(水)

朝から左肩が痛み、我慢して仕事していたのだが、耐えきれなくなり、夜、整骨医のマッサージを受ける。
保険がきくので助かる。

『宇宙の柳、たましいの下着』は、いよいよ大詰め。
しかし、関係諸氏の忙しさ、今回のインタビューやアルバム解説をお願いした中山さんの絶妙の時間感覚、そしてboidの混乱(というか私の混乱)などなどのため、いまだに予断を許さず。
果たして発売期日に間に合うか・・・
しかも、ここに来て、引用した歌詞の権利元がはっきりせず、国内では処理できない曲が判明したりなど、さまざまな手続きもギリギリ。
他人事なら、スリリングで楽しいんだけどね。

本日、メディア各所に『宇宙の柳~』の告知を送っていたのだが、その際には「アンチ音楽ガイド本にして、実に正統派のガイドブック。音楽を知ったつもりには決してさせないが、聞く耳を育ててくれる」という説明を添えた。
したがってこれは、映画を観る目を育ててくれる本でもあると思っている。
でも、世間は、何かを知ったつもりにさせてくれる本ばかりが売れているからねえ・・・
自分探しをする暇があったらこういう本を読んで自分を変えてみるのはいかがか? なんて思うのはオヤジになってしまった証でしかないのだろうか。

10月23日(火)

子どもが熱を出し、学校を休む。
その昼食調達のため、近所のスーパーに行くと、午前11時だというのにすごい人。
ほぼ全員が主婦。
休日のデパートなどの人混みとは違う圧倒的な日常の迫力に、すっかり落ち着きをなくす。

携帯が壊れる。
背に腹は代えられないので、機種変更手続き。
新機種を買うのに2年間のローンを組まねばならないのだが、月々のそのローンの金額分が、通話量からサーヴィスとして差し引かれるというシステムなのだと。
つまりただなのかと尋ねると、結果的にそうなるとの答え。
でも、2年のローンが終了する前に機種変更をすると、その後のサーヴィスが亡くなり、残ったローン分は支払わねばならない。
などなど、便利なんだか面倒なんだか分からないシステムで、まあ結果的に値段が変わらねばよし、ということで納得はするのだが、きっとこうやってすべてIT企業の思うままになっていくのだろう。
海賊版携帯電話の普及が待たれる。

ダグラス・サークのボックスセットVol.2用のブックレットの入稿。
予定していた3本のインタビューのうち2本のインタビューの権利がとれず、最後になってページ数を少し減らす羽目に。
胃の痛い1,2週間だった。
しかし、メインとなるロング・インタビューは数日前に権利の許諾がおり、ポジティフ誌の協力でサークが書いた短編小説も掲載することができた。
インタビューとこの小説をセットで読むと、映画の深度が更に深まる。
お楽しみに。

10月22日(月)

『宇宙の柳、たましいの下着』の追い込みに入っている。
体調の件はとりあえず忘れておく。
そのついでに、昨夜行くはずだった、ウェス・アンダーソンの新作上映をすっかり忘れる。
火曜日だと思っていた・・・
ただ昨夜は、整骨医での治療後で腑抜け状態だったから、いずれにしても無理だった・・・
そんなことなら、チケットをさっさと誰かに渡しておけばいいのに、という声も聞こえてくるが、火曜日だと思ってたんだから・・・

『宇宙の柳、たましいの下着』付録CDに収録する、弾き語りの歌が素晴らしい。
本を読み、直枝さんの音楽への接し方を十分身体の中に入れ込んだあとに聞くと、更にその歌声が身体の中で響く。
これだけで売りたいくらいだが、そういうわけにはいかない。
音楽を読むという体験を通して、この歌声は更にエコーが深まるのだ。

10月21日(日)

もういい加減日記を再開した方がいいと、友人たちに言われた。
体調を悪くしているのでは? と、各方面にも心配をかけている。
まあ、皆さんの想像通りという状態。

今回はすべての原因が目。
動画、パソコン作業、など仕事に関わるすべてが原因なので、始末が悪い。
ペドロとのトークがあったので、『コロッサル・ユース』だけは見たが、それ以外はこの1ヶ月一切見ていない。
パソコン作業をやめると本当に生活破綻者になるので、週に何度か近所の整骨医で電気治療とマッサージをしてもらいつつ、ギリギリなんとか。

というわけで、近況報告でした。

あと、『宇宙の柳、たましいの下着』発売記念のトーク・イヴェントが、11月24日に池袋ジュンク堂にて。
対談相手の湯浅さんと直枝さんは、今回がほぼ初対面で、しかし、大学の後輩・先輩。
予定では、湯浅さんに、この本で取り上げた音楽について、あれこれ質問しつつ、更にいろんなことを掘り下げかつ広げていっていただく、ということになっている。
まあ、全然別の話になるかも知れないが。
本もそうなのだが、このトークも、これまでのカーネーションのファンのためだけにあるのではない。
カーネーションを一度も聴いたことが無くても、十分刺激になるはず。
何かを変えるきっかけになると思う。

9月11日(火)

昨日紹介したヘヴィ・トラッシュの件。
青山からメールがあり、『デス・プルーフ』に匹敵するようなアルバムではないと。
いや、そうなのだ。
「かつて確かにあったはずのもののエッセンスを取りだし、それを未来に向けて作り替えていく」という『デス・プルーフ』でタランティーノがやった作業の出来損ないというか、そうあるなら作った価値はあったけど、どうもそこまではっきりとした意図はないようだ。
いくら何でもリンチではないだろう、という反射神経だけで書いてしまった。
深夜の自宅もちゃんと音楽を聴けるように、昨年、私の耳鳴り大爆発と同じころ壊れてそのままになっているヘッドホンを買い直さなくてはと、本日帰りがけにヨドバシカメラに寄ろうとしていたのだが、閉店時間に間に合わず。
というわけで本日も終日、低気圧と湿気で異常なだるさを抱えたままボチボチと仕事をしていたのであった。
予定していた試写には、2本とも行けず。

それから、ジェーン・ワイマンが亡くなったのを知る。
93歳。
追悼に、完成した字幕付き『天が許し給うすべて』を見る。

9月10日(月)

昨日は、6月になくなった友人の墓参りをした。
通夜・葬式に行き逃した友人が墓参りをする案内も兼ねて。
ひっそりとした昼の寺は、なかなか不思議な雰囲気であった。
台風一過ということもあり、奇妙な清々しささえ漂っていたのだが、線香に火をつけている間にヤブ蚊攻撃に遭い、右腕がボコボコになってしまった。
納骨式の日に、脅かされていたにもかかわらずまったく刺されなかったので安心していたのが間違いだった。

本日は、パスカル・フェラン『レディ・チャタレー』。
デプレシャン・チームの一人である。
冒頭、キューブリックの『バリー・リンドン』のような、高感度のフィルム、あるいはレンズを使ったと思われる、粒子は粗いがレンジの広い、光の変化の微妙な変化も感知できるような映像が広がる。
おお、近年のゴダール以外にもこんなサイケデリックな画面を作る人がいたのかと驚いていたら、カメラマンは『愛の世紀』『アワー・ミュージック』のジュリアン・ハーシュであった。
とにかく冒頭の数分で完全にやられてしまい、視覚と聴覚がすっかり覚醒した状態で物語の奥深くへ潜入。
といっても、そこにあるもの、つまり目に見えるもの、フィルムに映るものと登場人物たちの会話だけですべてを語ろうという、徹底して知的な意思の元に作られたものだから、迷宮のようなところに入っていくのではなく、常に視界は良好である。
例えば、『ウォーク・ザ・ライン』のジョニー・キャッシュとジューン・カーターの愛の物語とはまったく違うやり方で男女間の愛を語る方法が、ここでは採用されていると言ったらいいか。
つまり、アメリカ映画を熟知しながらその語りの手法を徹底して避けながら物語を語ろうとする意図が見えるように思うのだが、それは私の思い過ごしだろうか。
そしてその手法が、例えばヴェンダースがアンソニー・マンの映画を語るときに用いる意味での「明解さ」を映画にもたらしているように思う。
ただ、気になったのは、D.H.ロレンスが原作を書いた時代とはすっかり違い、性の氾濫する現代に対するささやかな抵抗として、このような繊細な描き方がされたとはいえ、結局それを観るのは予めその描き方を受け入れる用意のある人たちだけだろう、という点だ。
ロレンスの小説はそれ自体がスキャンダルになることによって、それまで隠されてきたものを一般に露わにしたわけだが、たとえばこの映画の繊細さは、現代社会に対してどれだけの影響を与えることが出来るだろうか?
それを思うとき、この映画が立ち向かっている事態の困難さにハラハラしたりするのだが、それもまたこちらの思い過ごしかもしれない。
いや、あるいは主人公たちの語る言葉の明解さが、何かのきっかけになるのかもしれないとは思った。

上映中、一気に覚醒されたおかげで、上映後はすっかり疲れ果て、頭痛も始まり、ほとんど仕事が出来ず。

夜、打ち合わせの後、久々にHMVに寄る。
2ヶ月ぶりくらいだろうか。
いろんな新譜が出ていて呆れるが、少し前、青山からジョン・スペを聴き直しているというインプットがあったためか、ブルース・エクスプロージョンではない別プロジェクトのヘヴィ・トラッシュのセカンドを買う。
こちらは、世界各地のミュージシャンと共に、ロックンロールの探求をする試み。
クランプスがやっているようなことの、ジョン・スペンサー・ヴァージョンといったらいいだろうか。
日本盤のライナー・ノーツでは大鷹俊一氏がデヴィッド・リンチの映画を例に挙げているのだが、かつて確かにあったはずのもののエッセンスを取りだし、それを未来に向けて作り替えていく、という意味ではタランティーノの『デス・プルーフ』と同じような作業といえるのではないだろうか。

heavytrash.jpg

Going Way Out With Heavy Trash →

9月8日(土)

夏休みの間から子どもと約束していた、『ナルト 疾風伝』を見に行く。
既に夏休み興行は終わっており、都内で上映しているのは神保町シアターのみ。
新しい劇場だし、行ったことがなかったのでちょうどいい。
私が寝坊したのと、子どもがあまり慌てないのと、路地をひとつ入ったところにある劇場を見つけられなかったのとが重なり、10分ほどの遅刻。
何と、吉本花月というお笑いシアターと一緒のビルに入ってた。
外側から見ても奇妙で、おしゃれな建物だし、受付の辺りもいかにも新しい映画館を主張してはいるのだが、どうしてここで『ナルト』をやっているのかよく分からない。
まあ、いろんな事情があるのだろう。

しかしやはり、新しい映画館は音がいいねえ。
結構な迫力でドーンと音が出てくる。
センターのスピーカーがちょっと弱くて輪郭がはっきりしないのだが、左右のスピーカーから出る音のボリューム感はなかなかなものだ。
ここなら、ゴダール特集とかガス・ヴァン・サント特集とかやっても、彼らが作る音の空間を十分に感じることが出来るだろう。

『ナルト 疾風伝』の方は、毎度の事ながら見事なオーディオ・ビジュアル作品だった。
ナルトたちは、基本的に自分のチャクラをコントロールしながらワザを仕掛けているのだが、今回はそのチャクラを外部から注入してパワーアップした敵たちが相手。
つまり敵は、ドラッグをキメてぶっ飛んだ奴等である。
そうなるとどうしたって、映像も音もそのキメキメの状態を見せようと盛り上がるわけで、いやあ凄いなあと驚く。
とはいえ物語の方は、ドラッグをキメても結局一時的なものでしかなく、自らのチャクラを高めることやそのためのねばり強さがいかに大切かを語る健全さを失わないあたりがポイント。
しかし子ども向けのアニメの物語の多くは、「指輪物語」とか「アーサー王伝説」とか、その手の、世界の滅亡とそれを救うための使命を負った者、というような設定ばかりなのだろうか。
見るたびに、子どものころにこんなにたいそうな人生ばかりを見せられたら、一体どんなふうに育つのだろうと心配していたのだが、我が子は今のところあまりそこには影響を受けていないようにも見える。
だが、『ナルト』の場合は、設定自体はシニシズムさえ漂う運命論が支配する世界観が見え隠れするものの、最終的にはナルトが暴れて、「運命なんて俺が変えてやる!」と頑張ってすべてをぶちこわすわけだから、まあ、なかなか爽快ではある。
典型的なファルスとしてそこにあると言ったらいいだろうか。
もはやそのような男子はどこを探してもおらず、かつてもいなかったではあろうが、常に誰かによって欲望されていたはずのそのような男子として、ナルトは世界を支配するシステムに立ち向かうのだ。
そんな物語が、毎回繰り返されているというわけである。

ちなみに今回のテーマ曲はDJ Ozumaの手によるものだったが、いきなりアイザック・ヘイズの「シャフト」のようなイントロから始まる。
家に戻って、こどもに「アイザック・ヘイズ聴くか?」と尋ねたのだが、拒否された。

夜、イギリスからメール。
中原が無事到着したとのこと。
とはいえ、成田でもかなりのトラブルがあって、危なく飛行機に乗れないところだったので、イギリス入国は大丈夫かと思っていたのだが、やはり、税関で引っかかってしまったらしい。
でもまあ、とにかくブライトンまで行き着いたわけだから、たいしたものである。
事の詳細を知っていると、よくまあ無事到着したと、呆れるばかりなのだが、そういったある種のタフさが、逆に諸々のトラブルを引き起こしているのかもしれない。

9月7日(金)

冨永の新作と高橋さんの新作の試写をダブルブッキングしていたことに、本日、長嶌からの電話にて気付く。
共に映画美学校で、第1と第2。
ほぼ同時間からのスタート。
参った、どちらに行こうか、と迷うこともなく決断がくだる。
何のことはない、目先の仕事が山積みで、行きたくてもどちらにも行けないのである。
申し訳ないとひたすら謝るが(頭の中で)、しかし、たまるばかりの試写状を見ると二度と映画など観たくなくなるくらいの分量。
一体、メディア関係者、ライターの方々はこれをどのように処理しているのだろうか。
しかも映画業界のその手の仕事は死ぬほど働かないと生活費も稼げないし、死ぬほど働いたら試写は観られないし。
商売替えを真剣に考える。

しかし気がつくともう、明日は、『サッド・ヴァケイション』の初日である。
あちこちにいろんな記事やインタビューが載っていて、何となく賑やかな気がしているのだが、どのようなことになるのだろうか。
先週の『Helpless』『EUREKA』『サッド・ヴァケイション』オールナイトは大盛況だったようだから、気配は上々、というところではないかと思う。

で、公開記念というわけではないのだが、たまたま送られてきていた『群像』に、青山がその前号に書いた小説「天国を待ちながら」の合評が載っていたので読んでみた。
本読みではない私は、青山の小説で言うとようやくちょっと前に『サッド・ヴァケイション』を読了し、『雨月物語』をいつくらいから読み始めようかという状態なので、「天国を待ちながら」は当然、読んでいない。
まあ、小説を読んでなくても合評は読める。
パラパラと目を通すと、なんだか凄いことになっている。
どうやら笙野頼子さんの闘争心に、青山の小説が火をつけてしまったらしい。
それ自体は「よしよし」というところで、その厳しい発言の数々を笑いながら読んでもいたのだが、しかし一箇所、小説を読んでいなくても「これは違うんじゃないの」という部分を見つけてしまった。
これは、笙野頼子さんの発言ではなく、伊藤氏貴さんという文芸評論家の方の発言なのだが、この小説の最後の方に、主人公(おそらく)の映画学者が、(おそらくその人生において)彼女との切り返しショットではなく、同一のフレームの中に二人が収まるショットを選んでしまったことを悔いている記述があって、それにも絡めつつ、見る/見られるという関係を支配/被支配という関係と結びつけながら語っている。
その上で、谷崎の『刺青』のようにだんだん二人の関係が撮るという行為によって逆転していくような」物語を提案されている。
だが、青山の映画を観れば分かるように、青山の場合の切り返しショットは支配/被支配という関係性を生み出さない。
単に見つめ合う二人が互いに徹底して独りだということを示す。
まったく別の時に別の場所で既に死んだ者同士が一瞬だけ出会ってしまった、というような。
支配しようにもされようにも、そんなことはもう既に終わってしまったところで、まったくの孤独であると言うことにおいて平等である独りと独りが出会う、その奇跡のような瞬間を青山は「切り返し」と呼んでいるはずで、伊藤氏の説明だと、なんだか青山がその逆のことをしようとしているように思えてしまう。

また、見ること/見られることが支配/被支配の関係を生み出すという図式を全然意識しないでビデオを撮り始める主人公は、「もう少し考えることがあったんじゃなかろうかという気がします」とも伊藤氏は語っている。
しかし伊藤氏が言うように、たとえこの物語が「見ること/見られること=支配/被支配」という図式の中で語られていたとしても、主人公がそういうことを全然意識しないのは、当然、ヴェンダースの『リスボン物語』を受けて書かれているはずだから、あの映画の無意識のカメラがここではどのように使われているか、という興味は湧いても、そのこと自体がこの小説の欠陥になるとは思えない。

これらのことは、映画とも深く関わってくることなので気になったのだが、青山の映画を観ている人と見てない人では、小説を読むときの前提が、大きく違ってしまっているのかも知れない。

とはいえ私は、肝心の小説は読んでおらず、この合評だけ読んでの感想なので、読み違い、勘違いなどがあるかもしれない。
皆様には、合評、小説共々確認していただきたい。

いずれにしても『サッド・ヴァケイション』の、それぞれが切り返しショットの中に独りで佇んでいるような登場人物たちがひとつのフレームの中に入り込んでしまっている、当たり前のように切断と持続が同居する膨れあがった世界が、明日から渋谷に広がる。

9月6日(木)

台風である。
湿気と低気圧で、立ち上がれず、グッタリ、ほぼ一日廃人。

8月半ばから始まった忙しさで、それに爆音調整の深夜作業も加わって、ボロボロになっていた。
更に無理がきかなくなってきている。
ほぼ同年齢の佐藤真監督が亡くなった。
面識はまったくないのだが、昨日、事務所に来ていた諏訪敦彦君と、ちょうど佐藤さんの話をしていたのだった。
でも、新聞報道を読むと、その時点では既に亡くなっていた、ということになる……。

『ブラック・スネーク・モーン』の9月1日の初日は、全回満員という素晴らしいスタートであった。
その調子で爆音ナイトも、と思ったのだが、いやな予感通り、バウスに半分弱という動員。
爆音オールナイトとしては最低の動員となってしまった。
やはりこちらが喜ぶといけない。
この温度差は、私が思っている以上に大きいのだろう。
ただ、当日来場の方々には、十分満足してもらえたのではないだろうか。
朝までは辛いからと言って、爆音調整の方を見に来た松田さんも、結局オールナイトにもやってきて朝までになるし、西島秀俊君も「オールナイトはこれくらいの人数が良いですねえ」と、主催者にとっては胸の痛い発言をしつつやはり朝まで。
最後の『ハッスル&フロウ』では、会場全体がブルブルと震えていた。
リュダクリス扮するヒップホップ界のスターにテープを私に行く前に、主人公が彼女にキスをしに行くシーンなど、盛り上げることに何の衒いもなく堂々とホーンを高鳴らせ、ああこれを『ビッグ・フィッシュ』の最後でティム・バートンがやってくれていたらとも思いつつ、思わず涙したのであった。
諸々の不出来な部分も残しつつも、ある意味で、タランティーノやティム・バートンよりもずっと大人な語りが出来る人なのだ。
そういうことを地味に伝えていかねば。

それやこれやで日々廃人のままあれこれの作業を行っていたわけであるが、サークのボックスセットの方の第1弾は発売日に何とか間に合いそう。
ただ、ユニヴァーサルにあるDVDマスターの画面サイズにさまざま問題が出て、辛い。
ユニヴァーサルにもそれしかなく、アメリカのクライテリオンから出ているものもそのサイズなので、どうにもならないのだろう。
ただ、第2弾の方の『愛する時と死する時』は、サイズの問題ではなく、画質の問題でNGで、これは新たにマスターを作り直すことになったらしく、美しい画面で見ることができるのではないかと思う。

それから、イギリスのブライトンで、金曜日から行われるフェスティバルに、ヘア・スタリスティックスが出演する。
最終日のトリ。
http://colouroutofspace.org/html/home.html

明日の飛行機で出発なのだが、台風がさっさと通過してくれる事を願うばかり。

うーむ、しかし、風で家がガタガタ言っている。