
boid日記 2008年6月
text by 樋口泰人
6月30日(月)
通夜から葬式と、田舎の年寄りたちと共に気の遠くなるようなマッタリとした時間を過ごした後の月曜日は、いつにも増して調子が狂う。
しかし、葬儀をする子どもたちももう立派な年寄りで、はっきりと消耗していたりするから、この先の10年間で一体何回こういった葬儀に立ち会うのだろう。
こうやって全員が勢揃いするのもこれが最後かもしれない。
しかし、40年ぶりに会った何人かの親戚などは、私はまだ小学生のままであり、この先10年とこれまでの40年が一気に重なり合ったりもする。
そんな時間の淀みを抱えたまま、本日は、『ルー・リード/ベルリン』へ。
これもまた、72年に発表されたアルバムの30数年ぶりのライヴでの再演という時間の物語でもある。
もちろん、30数年前のルー・リードがそこにいるわけではない。
圧倒的に歳をとり、深い皺の刻まれたひとりの老人がステージに立つ。
体型はほとんど変わらないが、声はもう完全に老人の声である。
私はかつて、ルー・リードのドキュメンタリーDVDの解説で、ルー・リードの「強靱な匿名性」について書いたことがある。
この映画を見てショックだったのは、その「強靱な匿名性」が何処かで失われ、年老いつつあるルー・リードという個人の物語を語る映画の主人公として、彼の肉体がそこに見事に収まっている、ということであった。
ひとりの人間の物語としてはそれはそれで十分に成立していてまったく問題ないのだが、個人的な意見を言わせてもらえば、年老いてもなお、訳の分からない強靱さを不意に見せつける人間離れした人をそこに見たかった。
NHKホールでの時も見事だったが、神宮球場のフェスティバルで来日したとき、半分お祭り騒ぎのステージ上で、ひとり硬直したまままったく違う空気を発していた20年前の姿が忘れられない。
というわけで、猛烈に『Live in Italy』が聞きたくなったのだった。
フレッド・マー、フェルナンド・ソーンダース、ロバート・クインという、私にとっては最強の布陣のライヴ。
このアルバムと、そのちょっと前に出た『ブルー・マスク』という80年代前半の2枚がルー・リードの最強のアルバムと言ってしまったら、顰蹙を買うかもしれないが。
しかしこの映画を見たら、Fソーンダースがまだ一緒にやっているのでビックリした。
でも、彼のベースの音があまり聞こえてこないんだよねえ・・・。
今聴くと、どこかソウルのパッケージ・ショーのようにも聞こえてくる『ベルリン』の曲の数々には、ソーンダースのベースはあまり合っていないのかもしれない。
それに、おそらく、プロデューサーのハル・ウィルナーなのか、あるいはルー・リード本人なのか、かなり音をいじっているのではないか?
たとえばそれまでは聞こえていたはずのシンバルの音がほとんど聞こえてこなくなり、ギターの音だけが大きくなるとか、1曲の中の曲の展開によってバンドの音のバランスが微妙に調整されているようなのだ。
私の耳の問題なのかもしれないが。
いずれにしても、演奏自体は、『ベルリン』収録曲ではない、最後から2番目にやった「ロック・メヌエット」が一番、バランスが良かったように思えた。
最も完成度が高いというか。
こういったステージは、すべてがうまくいっていないといけない。
ロックンロールのライヴではなく、あくまでもショーであり、ショーであるが故にある種の強靱さが浮上するような、そんな仕組みが求められる。
その意味でも、ソウルのステージに近いのではないか。
先日の日記に書いた、アントニーの歌声は、そういった要求に立派に応えていたと思う。
まあ、とにかく、見たら見たであれこれあれこれあれこれあれこれ、思うことが次々に出てくる映画であることは確かである。
とはいえとにかく『Live in Italy』である。
私はもう、ルー・リードのアルバムはほとんど持っていないので、試写の帰りに西銀座のHMVによってみた。
案の定、在庫切れ。
仕方なく、というか、やはりこれも持っていない『ブルー・マスク』を買う。
とにかく、ロバート・クインのギターが聞きたくてたまらなくなってしまったのだ。
もはやどちらがルー・リードなのか分からない、ギリギリとした音をガツンとあびずに何をしろというのか。
で、ふと見ると、その奥に置いてあった『Take No Prisoners』の帯に「ミストライアル」という邦題が。
しかし『ミストライアル』は赤いジャケットの86年のアルバムで、帯を見ても確かに、そのアルバムについての解説が。
つまり、パッケージ作業の際のミス。
というわけでついでにそれも買ってしまったのであった。
これは、罠なのか・・・
それからこの間、オリヴィエ・アサイヤスの『レディ・アサシン』について、黒沢さん、梅本さん、川口敦子さんから、ありがたいコメントをいただいた。
もう、これを読んだら誰だって一度は劇場に駆けつけざるを得ない、そんなコメント。
ここで紹介したかったのだが、さすがに本日分があまりに長くなったので、近々別ページにて。
チラシにも掲載する。
映画共々お楽しみに!
6月26日(木)
朝、103歳になる祖母が息を引き取ったとの知らせあり。
この祖母の生命力に関するエピソードは多数あって、本当にもう、このままずっと生き続けるのかと思っていたのだが、やはり人は死ぬ。
午後から、『AA』の今後に関する打ち合わせ。
本日から新潟での上映が始まり、とにかく出発点に戻ったことで取りあえずの区切りがつき、その後の展開のためのあれやこれやであった。
まだ漠然とはしているが、やらねばならないことははっきりしている。
夕方からはジュンク堂にて、12枚のアルバム3回目。
湯浅さんを向かえてのトーク。
ますますかつての深夜放送に近いノリでの90分。
驚いたのは、二人の持ってきたアルバムのアーティストを、来場者たちのほぼ誰も聞いたことがないという事実。
20年前、こちらが当たり前のように聞いていたものが、もはやまったく忘れられてしまっている。
というか、それくらいいろんな音楽が氾濫し、短いタームで移り変わっているのだから、若者たちは本当に大変である。
覚えることや、聴かねばならぬものや見なければならないものが多すぎ。
これからの人たちが100年も生きた日には、その大量の記憶ですべてが押しつぶされてしまうのではないかと思う。
その後、バウスにて爆音調整。
本日はキャンド・ヒート。
テレビのモニタで見ていると、ちょっと走りすぎではないかとも思えたノリノリの演奏は、大画面大音量で聞くと、やはりこれはこれで良いのだと納得。
演奏のスタイルはもはや過去のものではあるのだが、ただ確かにこのような演奏があり、こうやって音楽が演奏されていたという事実が、まるでその場にいたかのように、実感される。
今回のラインナップの中では、知名度で言うとタウンズ・ヴァン・ザントの次に低いバンドだが、キャンド・ヒートをやることにして良かった。
すでにアル・ウィルソンの死亡後のライヴのため、「オン・ザ・ロード・アゲイン」でのあの裏声を聞くことはできないが、それはそれ。
このライヴでの冒頭の「オン・ザ・ロード・アゲイン」は、ロックの持つ狂暴さを十分に感じさせてくれるもので、我々はまさにこの音を聴くために路上にあるのだと思わせてくれた。
これを見ると、久々に『都会のアリス』が見たくなるねえ。
アイスクリームをなめながら「オン・ザ・ロード・アゲイン」をぼんやりと聞いていたアリスのけだるい時間が、今もまだ何処かで続いているような気がしてならない。
とはいえ、金・土は通夜&葬式。
落ち着かぬ日が続く。
6月25日(水)
昨日の『ハプニング』だが、『大いなる幻影』の他に、もうひとつ、『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』もまた「その後」の映画だと書くのを忘れていた。
取りあえず、この2本を見て、『ハプニング』を見ると、ほんとにおかしな気分になるんじゃないかと思う。
8月に2週間の爆音レイト・ショーを行うオリヴィエ・アサイヤスの『レディ・アサシン』と、その後に続く特集、「オリヴィエ・アサイヤスとアメリカの友人たち」に関して、青山から以下のようなコメントが届いた。
自分の体を日本人との取引に使ったアメリカ男に別れを告げ、北京でのクラブ経営を夢見るフランス女は仕事仲間と麻薬取引を実行するが失敗、窮地を雇い主である中国男に救われる。逃げた先で遠くに見えるホテル・アイビスのネオン……。いま映画を撮ることはもしかすると世界じゅうの大都市にあるこのビジネスホテルのようになることかもしれない、と一瞬頭をよぎった。ことにアメリカ以外の場所で映画を撮ることは。点を線で結ぶのではなく、無数の点になること。ただし、この「点」はアメリカにだけは存在しない。n-a。勝利も敗北もない地平で『レディ・アサシン』はそこに達成する。同時にこの達成は新世界、つまりアメリカ行きの搭乗口から引き返すことでもあるようだ。それでいい、とオリヴィエは言う。私もそう思う。アメリカ映画を作るよりアメリカの友人でいることを択ぶのも悪くない。
青山のブログにも書かれていることなのだが、アメリカ映画を作ることとアメリカの友人になることとはまったく別のことである。
無数の点になることはそれなりの覚悟が要る。
無数の点になることだけではなく、無数の点としてあることも要求されるからである。
アメリカ映画は常にそこからの脱出を夢見てきたしそのことを描くことで結局は無数の点となっていたのだが、アメリカの友人であることは、無数の点となり無数の点であり続けることを意図的に選択することでありそのことを描くことによってかろうじてアメリカ映画を支える。
例えば世界的に評判の悪かったヴェンダースの『夢の涯てまでも』の既視感が、90年代の多くのアメリカ映画を支えていたと言うことはできないだろうか。
同じように、『大いなる幻影』や『エリ・エリ』の既視感が、今後のアメリカ映画を支えていくだろう。
つまり8月のオリヴィエ特集は、単なるオリヴィエ・アサイヤスの特集でありつつも、今後のアメリカ映画を予め見てしまう特集でもあるのだ。
それらは単なる無数の星としてしかないが故に、未来のすべてが詰まっている。
オリヴィエ・アサイヤスは、そんな孤独だがこの上ない贅沢な道を歩み始めているのだと思う。
6月24日(火)
どうしようもなくグズグズな日中を何とかやり過ごし、夜はシャマラン『ハプニング』の試写。
『レディ・イン・ザ・ウォーター』の壮大さから、今回は壮大さを装ったB級作品へ、といったところか。
とにかく冒頭からいきなり何かが起こる。
その早さがなかなか良いし、その後、一方で非常にオーガニックな物語へと展開しそうなところを、あまりに残酷なというか、あまりに酷い人々の死に方によって、ただ単に人を殺したいだけの映画にも見せてしまう。
しかしこの説明のなさ。
『クローバーフィールド』といい、この映画といい、あるいは『インディ・ジョーンズ』最新作もそうなのだが、とんでもない何かが起こってしまうときのあまりの説明のなさは、一体何なんだろう。
この映画では特に、「世界は説明がつかない」という台詞が何度も繰り返されていた。
まあ、それとは別に、この映画の場合、『大いなる幻影』(黒沢版)を見てしまっている我々は、10年前にもう、この映画の『その後』を見ていたのではないかという奇妙な既視感を覚えるはずだ。
家に帰るとこれ(↓)が到着していた。

フランス版『恐怖の映画史』である。
話があったのは3年前くらいだったろうか。
boidの海外進出第1弾(笑)。
あまり厚くはない本だが、中を見ると、話題になっている映画の画像が盛りだくさん。
単に多い、ということではなく、あるシーンの流れが分かるように掲載されていて、これは、スチール写真ではなく、コマ抜きだろう。
フランスでの画像の著作権がどのようになっているのか、どうやって処理されているのか分からないが、現在の日本の出版事情を考えると、とんでもなく贅沢な本になっている。
『ジョーズ』と『カリスマ』の爆破シーンが4コマと3コマ2列に並べてあったり、『CURE』のラストと『エクソシスト3』の廊下と病室の何コマかが見開きページの両側におかれていたりと、フランス語はまったく分からないのだが、そういった写真を見るだけで、語られている内容を思い出す。
思えば、一番最初にCD-R版を作ったとき、インタビューから文字おこし、まとめまで、全部ひとりでやったのだった。
もう、あんなことはできない。
若者たちを頼るばかりである。
まあ、それでいいのだと思うのだが。
そうそう、ルー・リードのライヴ・ドキュメンタリーを見たバウスの西村さんが、その中に出てくるルー・リードが絶賛しているアントニーというミュージシャンがかなり凄い、という話をしてくれた。
このアルバム↓
日本盤が発売されたときに私は買って聞いていたのだが、ヨーロッパ的な演劇臭が少し強くて、それさえなければもっと素直に聞けるのにと思っていた。
だが多分、ライヴを見ると、印象もかなり変わるのだろう。
聴き直してみると、なかなか良かった。
次回の試写には行くつもりなので、どんな風な登場の仕方をするか楽しみではある。
6月23日(月)
ようやく本日より通常営業に戻る。
月曜日で、月刊ヘアスタ3号が完成したばかりということもあって事務・発送作業を延々と。
今後のboidの展開について何となく妄想を広げつつ、黙々と作業をこなす。
したがって特に書くこともなし。
妄想は妄想なので、ここで書いてしまっては単なる嘘つきになってしまう。
そんなところへ小田君から、こんな映画があるんだけど、誰か公開してくれないかというメール。
「Girls Rock」→
簡単に言ってしまうと、「スクール・オブ・ロック」の実際版というか、「キャンプ・オブ・ガールズ・ロック」というようなことか。
予告編を見ると、これはロックの魅力に取り憑かれた誰もが経験したはずの初期衝動が作り出す魅力に溢れた躍動感が存分に伝わってくる。
公式HPの感想文にもそんなことが書いてあったように思う。
来年の爆音映画祭で上映できたら良いんだけど。
何処かの配給会社が買ったりしてくれないだろうか。
という営業を、明日から始めるわけである。
帰宅すると、アマゾンからこのアルバムが届いている。
キース・ウェストのシングル盤や未発表曲を中心にしたアンソロジー。
注文したのは多分、今年の初めの方だったように思う。
rpmからリリースされるこのコンピレーション・シリーズはどれも内容が良くて、かなりの数買っている。
それぞれに付けられた詳細な解説を翻訳して1冊の本にできたら、それだけで、60年代の若者たちのロックへの初期衝動から洗練への過程が手に取るように分かるものになるのではないかと妄想はさらに膨らむのであった。
このアルバムもまた、見ただけでニコニコしてしまうようなジャケットのようなキラキラした音が詰め込まれたものであった。
この音を聴いていると、すべてがやり尽くされた後でもなおやるべきことはあるのだという気がしてくるから不思議だ。
6月21日(土)
雨水をたっぷり含んだ墓地の湿った空気は十分に重たくて、自分がそこにいることさえ忘れてしまいそうになる。
友人の死から1年が経ってしまったわけだが、1年という時間が長かったのか短かったのかということもよく分からなくなるような幽かな時間の中に、ゆっくりと捕らわれているのかもしれない。
一昨日からの月刊ヘアスタ3号のパッケージ&発送作業によってか、身体がだいぶ楽になったにもかかわらず、やはり寺の空気は只者ではない。
思えば昨年の今頃は、もうちょっと暑かったような気がする。
本日もこの湿気と雨模様のおかげで、バウス屋上で予定していた爆音映画祭打ち上げを兼ねたバーベキューは延期。
午後からは、7月の爆音ロッカーズ・チラシ作成の仕上げに入る。
湯浅さんからは、『ビー・ヒア・トゥ・ラヴ・ミー』のための下記のようなコメントが届いた。
このろくでなしのゴクツブシのいい歌うたいのどうしようもない全身流浪の心のありかは、アメリカの良心とかいうチンプな言葉で括れるようなところにはない。音楽の本質はスタイルの奥にあるのだから。ダービー・クラッシュやジョニー・サンダースやダニエル・ジョンストンを愛する者こそ見なければならないハードコア人物伝。俺は泣いた。
湯浅学
もう、来週からはそのための爆音調整が始まる。
8月のオリヴィエ特集のラインナップ確定までは、もう少し。
6月18日(水)
症状は昨日よりさらに悪化。
全然ダメじゃん、という事でほとんど何もできず。
宮田君がやってきて、来年に向けてのboid書籍についての話をしただけ。
そんなどうしようもない日の音楽は、この2枚。

ボニー“プリンス”ビリー → エルヴィス・コステロ「百福」→
ともにこんなダメな日でなくても、充分素晴らしい。
ボニー“プリンス”ビリー(ウィル・オールダム)は、何処かエイミー・マンとも似た歌を歌うときのスタンスが際だってきた。
コステロのタイトルは、カップ麺の開発者、安藤百福さんからとったものなのだそうだ。
アルバムを作るのに、私はお湯をかけただけだと語っているらしいのだが、それくらい彼の周りには歌が充満しているのだろう。
あるいは、あらゆる所に歌を聴く耳を、彼のキャリアが鍛えてきたという事なのだろう。
こちらは例のSHMCDで作られていた。
6月17日(火)
秋葉原の事件への見せしめのように宮崎勤死刑囚が処刑されてしまった不快さのためか、本日は再びゆらゆらの1日。
例えば小泉今日子が政治家達に直接、「この映画を見て下さい。カンヌで賞までとった映画なんですよ」とか何とか訴えることで、『トウキョウソナタ』を見てもらうようなことはできないだろうかと、思う。
見てもらったところでどれだけの人に通じるかは運次第でもあるとして、少しは何かが変わるのではないか。
あまりに楽天的な考えかもしれないが、そんなことを夢想しても罰は当たらないだろう。
7月の爆音ロッカーズで上映する『タウンズ・ヴァン・ザント ビー・ヒア・トゥ・ラヴ・ミー』のために、直枝さんが以下のようなコメントを寄せてくれた。
タウンズ・ヴァン・ザントはある日「Flyin' Shoes」を履いて本当に空を飛んだという。フィルムに焼き付いた森に揺れる光がこんなにも美しいということは、彼の歌が風なのだ。カメラは失われた記憶の線上にぶらさがる雲の下、遠く儚いメロディを紡いだソングライターの"あらくれたたましい"の足跡を追う。「Pancho And Lefty」をはじめ、数々の名曲と貴重なライヴ・シーンの連続にため息はつきないが、彼を偲ぶテキサス音楽シーンの重鎮たちの不器用にはにかむひとつひとつの表情も愛と憎悪に満ちていてじつにいい。音楽ファンなら必見の一本だ。
直枝政広(カーネーション)
チラシその他に掲載するためのものなのだが、こんなコメントを読んだ日には誰だってこの映画を見に行かざるを得ないだろうと思い、ここでも紹介することにした。
タウンズ・ヴァン・ザントは、日本ではほとんど知られていない。
私も、2年くらい前まで、まともに聞いたことはなかった。
そんな人のドキュメンタリーが日本でDVDになっただけでも奇跡のようなものなのだが、しかし、彼の歌がそれまで知らなかった人に知られない限り、発売された意味はない。
今回の爆音上映に敢えてこの作品を入れたのも、boidの活動や爆音上映に興味を示す方々にも、何とかしてこの映画を見てもらい、彼の歌を知って欲しいと思ったからだ。
これを見ることで、アメリカの音楽や映画を作り出す背景に、私たちは触れることができるのではないかと思う。
『トウキョウソナタ』の長男は、アメリカの人たちの考え方やアメリカという国をもう少し知るために、もう少しアメリカに残るという手紙を寄こして未だ帰国しないままだったが、例えばそこまでしなくても、私たちはもしかすると彼が触れようとしている、あるいは触れるはずの何かに、この映画やタウンズ・ヴァン・ザントの歌を通して触れることができるかもしれない。
そしてそれは、「アメリカ」だけではなく、その他の国や場所にも通じていくことではないか。
これまた楽観的すぎるかもしれないのだが、そんなことを思っている。
そしておそらく、映画を見ることとは、それくらい微かなことに賭けてみるような、危うくてしかしある強さを持った試みだろう。
『LOFT』とは正反対に足音が本当に僅かしか聞こえてこない『トウキョウソナタ』もまた、そういった微かさが持つ強さを、堂々と見せてくれたように思う。
6月16日(月)
確かちょっと前の青山のブログで、『トウキョウソナタ』の公開がアキハバラの事件に遅れてしまったことだけが残念だ、というようなことが書いてあって、忙しさと病のために『トウキョウソナタ』を見ることができずにいた私は、せっかくの機会をむざむざ逃すダメな大人になってしまったようで、やはり何があっても見に行くときに見に行けないようではいけないと深く反省していたのであった。
とはいえ、遅ればせながらも現実復帰第1作は、当然、『トウキョウソナタ』である。
確かに青山の言うとおり、まさに今、この映画を日本人の出来るだけ多くが見ておかねば、という映画であった。
この映画の中でどうしたって小泉今日子が目立ってしまうのは、彼女だけが他人の力で生きようとしているからではないかと思った。
それがうまくもいっていないしそのこと自体に確信を持っているわけではないひとりの中年女性が結局はたったひとりで自らの人生を変えていこうとする。
だが一方で、確実に彼女は他人の力を必要としている。
このふたつの力が映画の中で危ういバランスを見出したとき、映画は終わるのだが、それはまたいつ崩れるか分からないバランスでもあり、だが永遠に危うさを更新し続けるバランスでもある。
そこに希望があるように思えた。
他人から見たら本当に取るに足らないバカみたいな小さなことに向けて、さらに力を注がねばと思った。
その意味で、『レディ・アサシン』とよく似た力を受け取った気がした。
私の勝手な見方ではあるのだが。
しかし、映画を1本見ると、眼が全く言うことを聞かなくなる。
事務所に戻ってから、パソコンの画面をまともに見ることができなかった。
そうそう、『トウキョウソナタ』の食事シーンは、黒沢さんの映画だけではなく、あらゆる映画の中でも相当多い方に入るのではないだろうか。
かといって何かが食べたくなるのではなく、家族と一緒に食事するのが怖くなったりするのであるが(笑)。
だからなのか私は、帰宅して食事中に塾から戻ってきた子どもに、『トウキョウソナタ』の話を一生懸命解説していたのであった。
子どもとしては、会社をリストラされた父がどうして家族にそのことを言えないのか、全く意味不明の様子であった。
6月14日(土)
週明けからの完全復帰に向けて気合いを入れに、HMVへ。
とはいえ、人混みと街中は、まだまだクラクラするねえ。
そこにいる人の分だけの重力が頭の上に被さってくる気がする。
エイミー・マンの新作は、とにかく歌っているその場の空気がある湿度と共に詰め込まれているような、豊かな音になっていた。
シンプルになった、という印象だが、ひとつひとつの音のふくらみながらスピーカーから出てくるような、そんなふうに聞こえる。
しかしこのタイトルは何と読むのだろうか?
しばらく前に直枝さんから推薦されていたショートウェイヴ・セットのセカンドアルバムも買った。
YouTubeで聴いたものはもっとシングル寄りの、1曲で完結した、70年代前半を思わせる音だったが、アルバムはさらに時代を遡りつつ現代へとたどり着いているような音になっていた。
ナールズ・バークレイ+ヴァン・ダイク・パークス+ジョン・ケールという人たちが絡んでいるわけだから当然といえば当然なんだけど。
アルバムの収録時間が39分という短さなのも気に入った。

The Shortwave Set "Replica Sun Machine"→
それから8月にレイト上映するオリヴィエ・アサイヤスの『レディ・アサシン』(原題:Boarding Gate)も見た。
『CLEAN』でさえ公開されない国で、この作品がまともに公開されるはずはないことはよく分かるのだが、『イルマ・ヴェップ』『デーモンラヴァー』『CLEAN』という流れで見ると、やはりこれこそこの10年のオリヴィエ・アサイヤスの集大成であるように思えてならない。
ヴェンダースが『アメリカの友人』以降、苦労しながら進んでいる悲アメリカ国民としてアメリカ映画を撮ることの道を、この映画は見事にやりのけているように思うのだ。
物語は、日本のDVD発売元がそうせざるを得なかったように、単なるエロティック・スリラーと思われてしまっても仕方ないようなものでもある。
セックスとマネーとヴァイオレンスとITがそれに絡む。
一体誰が本当の敵なのか誰にも分からない状況の中で、パリに住むイタリア系女性がついには香港にまで行く羽目になり、その見知らぬ国での人混みの中で誰も頼る者もなくたったひとりで孤独に戦い続ける。
つまり、『イルマ・ヴェップ』『CLEAN』のマギー・チャンとは正反対の構図の中に彼女は置かれるわけである。
アメリカ人が撮るアメリカ映画なら、彼女の周囲に広がるシステムとその向こうにいるはずの本当の敵に向かっての戦いが、そこでは繰り広げられるのだが、この映画はそうではない。
戦いは常に微分化して、その最小の闘争が更新され続けるのである。
誰もが持つ自分の中の弱さがさらにその弱さの元に向い、そしてそれがさらにその弱さの元に向かう戦い。
その弱さの果てに、「搭乗口」があることをこの映画は示す。
そしてその搭乗口から外に踏み出すのではなく、その前で留まることもまた搭乗口の向こうに出るひとつの方法であることを。
何しろ、搭乗口をくぐり抜けなかった果てに流れるのが、スパークスの「Number 1 song in heaven」だからねえ。
まさに、輝かしき躊躇、といったらいいか。
非常に静かな映画だが、その静けさの中で微分化していく闘争の最小回路を、爆音ではっきりと耳に焼き付けてもらえたらと思う。
6月10日(火)
本日も、空中浮遊。
そんなところに凄い知らせが。
実は、先日のアメリカのユニバーサル・スタジオの火災で、PFFのサークの特集上映用プリントにも影響が出ていて、もしかすると焼失しているかもしれないという知らせが来ていたのだった。
一体どうなることやらと心配していたところ、実際に一部焼失。
『いつも明日がある』と『天が許し給うすべて』。
しかし、何と、ニュープリントで提供してくれるのだそうだ。
とはいえ、上映までのスケジュールがあまりにタイト。
PFFスタッフの頑張りにかかっている。
それから、私の体調不良と、上映作品の未決定により発表が遅れていた7月の爆音上映。
決行が決定。
あの映画やあの映画の上映が!
お楽しみに!
とはいえ、私の空中浮遊が収まらないことには・・・
6月9日(月)
低気圧が来ると、この病の場合、非常にきつい。
午前中は動けず。
午後から、地に足のつかぬまま出社。
各所への連絡など、何とか。
帰る頃には再びゆらゆら帝国を彷徨うばかり。
梅雨が終わるまで復帰は辛いのかも・・・
6月8日(日)
皆様、お騒がせしております。
休養の結果、少し回復気味。
とはいえ、パソコンに向かってしばらくすると、次第に地球が回り始めます。
まあ、こんな感じ↓の日々ということになるでしょうか。

完全復帰まで、しばしお待ちを。
6月4日(水)
持病のメニエル再発中にて、画像にて昨日の「中原昌也 お誕生会」の報告を。
最後には下記の写真のような、湯浅湾+中原+ジム・オルークというセッションで「ルイ・ルイ」を演奏というクライマックス。
ドラムを叩いているのは中原です。
boidの今年後半は音楽メインでやろうという気分盛り上がるライヴであった。
湯浅湾のCD、絶対に作りましょう!

とはいえ、病のため、各所にご迷惑をおかけしている。
1,2週間はご迷惑かけっぱなしになるかと。