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boid日記 2009年2月

boid日記
text by 樋口泰人

2月28日(土)

昼間、姫1号の合格祝いを家族で行ない、事務所へ。
やってもやっても仕事は終わらず。
いよいよ笑い事ではなくなってきた。
大塚の仕事は各所にお願いし、負担を減らすことに。
これで、爆音映画祭のポスター完成への道はほぼ閉ざされることになる。
さて、どうするか。
中原が孤独に耐えて寒い部屋でじっくり絵を描くことはできるか?
その原画を今回の個展のカタログ兼ポスターのポスター面として使って映画祭の宣伝にもしようという目論みだったのだが、いよいよ危機。
まあ、こちらの目論みなんて何とも思っていないからこそこういう依頼をしたわけだから、これは自業自得。
裏ポスターは出来たんだけどねー。
しかしよく見ると「FILM FESTIVAL」が「FIKM FESTIVAL」になっていた。
うーむ。

で、本日は『爆音2008』の初日『クローバーフィールド』であったわけだが、もう、それどころじゃない状態。
こんな初日は初めて。
一体どうしたことか。
予定ではもうちょっと余裕があったはずなのだが・・・
まあ、これから私も、週末は実家へ、というのがどんどん増えていくだろうから、さらに「こんなはずじゃなかった」となること間違いなし。
早めに対策を立てなければ。

昨夜は爆音映画祭終了後すぐに始まるオリヴィエ・アサイヤス『NOISE』を見た。
話し言葉はなく、全部が歌と演奏で、権利元から送られてきた資料にも歌詞どころか曲名もないような状態なので、これを一体どうやって公開したらいいか、頭を抱える。
もちろん、バウスでやれば音はとんでもない凄くなるはず。
ソニック・ユースの人々の別ユニットは、音の渦を作り出し頭の中を駆け巡るに違いない。
日本でのライヴのときはボーカリストとしてのオーラが少し足りないように思えた(つまり、あくまでも女優が歌を歌っているように見えた)ジャンヌ・バリバールも、たぶん相当な緊張感の中で歌っていたはずなのだが、その緊張感も含め、いよいよ歌手として本格化してきたようにも見えた。
演奏シーンばかりだから、話し言葉のノイズや聴きやすさなどを気にせず、思う存分の爆音に出来る。
『デーモンラヴァー』の爆音上映のソニック・ユースの音で大喜びした人は、そのまんまの状態でこれを見ていただけると思う。
音調整をする前から、爆音殿堂入り作品であることを確信するのだが、しかしとにかく、フランス語や英語ばかりではなく、おそらくアフリカのどこかの言葉(もしかしてアフリカなまりのフランス語か)で歌が歌われるので、それらの歌詞をすべて聴き取って字幕にするとしたら、予算と期間がまったく折り合わない。
したがって、例えば、ソニック・ユースのメンバーがそれぞれ2名ずつのユニットで何かするらしいし、ちょっと面白そうだから行ってみるかと、フラッとライヴを見に来た感覚で映画を見て、しかし一体その他のバンドは何だったんだと思いつつ入場のときに受け取ったカタログを見てみるとそのバンドや歌についていろんな解説があってそれらを読むうちにもう一度そのライヴを見たくなる、というような解説が入っているカタログ=パンフレットを無料で配布するのはどうかと、思い当たる。
外タレのライヴのコンサート・パンフレットをただでもらって映画を見るという感覚である。
そういうカタログ作りの作業を誰にお願いするかといったらこの人しかいないよねという人に本日は早速電話をして、話を進める。
ちょっと前、別件でものすごい量の翻訳作業を依頼していたので、果たしてそれがどのような進行状況かハラハラしていたのだが、そちらはほぼ終了状態。
相変わらず仕事がめちゃくちゃ速い。
したがって何とか引き受けてはもらえることになったわけだが、ただ、いずれにしても作品を見てもらってから。
急ぎでDVDを送る。
すべて3月中に決着を付けていかねばならない。

それからやはりオリヴィエの『8月の終わり、9月の初め』も見直す。
いくつかの出来事が終わり、始まり、その終わりと始まりとが深く重なり合いながら多方向へと展開していく、その多層性に胸が引き裂かれる。
5月の日仏の特集上映では、どうやらついに日本語字幕付きで上映されるらしい。

それから、爆音映画祭上映作品リクエストについて。
昨年を憶えている方はお分かりのように、3月15日の締め切りの時点で上位10作品の決選投票がさらに月末に行なわれる。
その説明をアップしておいた。
詳細はこちら→
上映権や上映料の問題で上映できない作品が多々出て来るので、今後はどれが上映できそうか、狙いを絞りつつ投票していただけるとありがたい。

2月27日(金)

今日は姫1号の都立高校入試発表のため、案の定眠りが浅く、発表を見に出かけてしまった1号と妻を追う2号の鳴き声で目が覚める。
結局それから眠れず。
9時30分過ぎに1号からのメールあり。
無事合格ではしゃいでいる。
まあこれでboidへの経済的プレッシャーもなくなり、こちらも気が軽くなったというわけなのだが、しかしまあ、都会の子供達の高校受験は大変だねえ。
私が山梨の地元の高校に行ったときなんて、たぶん、倍率1倍すれすれで、ほぼ誰も落ちない、という状態だったはず。
期末試験の続きみたいなものだったから、未だにどうして高校受験くらいでこんな大変なことになってしまうのか、まったく理解不能。
とはいえ心配は心配なわけだから何とも理不尽な心労なのであった。

そんなわけで本日はもう、ヘロヘロ過ぎで仕事にならず。
あすから「爆音2008」が始まるというのにこんなことでいいのだろうか。

そうそう、今更説明するのも遅すぎでちょっと照れてしまうのだが、「爆音2008」というタイトルだが、昨年日本公開された映画の中から何本かを選んで爆音上映するという意味である。
だから来年この時期に同じような趣旨でやる爆音上映は、「爆音2009」となるわけだ。
バウスのスピーカーがそれまで生き延びてくれることを願うのみ。
爆音上映でガンガン儲けてスピーカーをバウスに寄付できるくらいになればいいのだが。
でもあのスピーカーの値段を知ったら、そんな夢みたいなこと言ってられないのであった。
これじゃあ映画館の音の環境が良くならないはずだよねえ。
私が映画館の社長だったとしても、そんな贅沢はしない、というかできない。
その意味でも、爆音上映は生き物だと思うしかないのだろう。

2月26日(木)

爆音調整が始まると1週間にメリハリがついていい部分もあるのだけど、週に2回あるとさすがにへばるねえ。
しかも本日は2本。
12月に引き続き虹釜君を迎えた夜のジュンク堂イヴェントが何と盛況のうちに終わり、というか、もうこうなったらすべて話し尽くすまで10回でも20回でもやってやる、くらいな感じのノリになって、もう終わりのない終わりにすっかりはまったままとにかく無理矢理終わり、そのまま駆け足でバウスへ。

バウスではすでに『クローバーフィールド』の調整を、バウス・スタッフによって始めている、という算段だったのだが、何と、あまりに低音が出過ぎてバウスの他のスクリーンの方に完全に影響が出てしまい、バウス2のレイトが終わるまで調整が出来ない状態になっていたのだった。
恐るべし、破壊者。
NYだけではなくバウスまで破壊しようというのか。

そしてようやく10時30分過ぎから調整再開。

で、まあ、これがほんとに、「何が自由の女神だよ、ふざけるんじゃねえよ」みたいな感じでガツーンと来るんで大笑い。
いやあ、今年の爆音映画祭のテーマは、「爆音とはいっても音がでかいだけじゃなくて、繊細でいい音をちゃんと聴かせる映画祭」ということになっていたのだが、まあ、そんなものは木っ端みじん。
音でかくしてワーワーやればいいんだよ、という大胆な勢いが、実は繊細な細かい音の編集で押し寄せて来るそのブレイク・ビーツ感は、『プライヴェート・ライアン』と微妙に一線を画す。
私はこちらをとるが、皆さんはいかがだろうか。

で、バウスのスピーカーの命も後どれくらいかと思わず漏らしてしまいそうな(実は爆音も今年が最後か、とも裏では囁かれている)『クローバーフィールド』が終わると、一転してたぶん爆音史上最も穏やかな音が聴こえてくる『イースタン・プロミス』。
もちろんそれは想定内のことで、この穏やかさの裏側にある黒い脈動と赤い詩情をどう引き出すかが問題。
まあそれもまた、例のサウナの重く苦しいアクション・シーンによってすべて解決。
この際『イグジステンズ』もやりたいなーと思ったが、もはや上映権なし。
とにかくいろんな映画をやれるうちにやっておかないと。

というわけで帰宅は午前3時。

そうそう、ジュンク堂の前に事務所では爆音映画祭ポスター製作が一瞬にして大詰めとなっていて、その場の勢いでとんでもないポスター原画ができ上がったのだった。
ヘアスタ12号のジャケットに続き、あまりに素晴らしく呆れるものとなり、しかし果たしてこれを貼ってくれるところがあるかと冷静に考えると、やはりポスターとしては役立たずになる可能性大。
したがってこれは、裏ポスターとして秘密裏に流通させるしかない。
ヘアスタのマンスリー・シリーズのセット購入者のみにプレゼントするか、あるいは個展の来場者のみへのプレゼントにするか。
何らかの形では世に出したいと思うのだが。

しかしとはいえ、もうそろそろ仕上げなくてならない肝心のポスターは全然仕上がらず、作品としては俄然おもしろいがポスターとしては何の役にも立たないものばかりが量産されていくこの数日。
真の破壊者とはこういう人のことを言うのかもしれないと思った。
社長としてはそんなことに感心している場合ではないのだが。

2月25日(水)

boid周辺は大混乱。
いよいよ収拾がつかなくなってきている。
この混乱に我慢ならなくなった私はスケジュール管理用の小型モバイル・マシンを仕入れ(中古だと、秘書としては十分すぎるほど使えるレッツノートの一番小さいやつが、通信契約をすると数千円で手に入るのだった)、日々やらねばならぬことを書き出してチェックしているからとりあえず何が出来ていて出来ていないか見渡せる状態だが、今週から来週にかけてのチラシ入稿やらチラシ入稿やらジャケット入稿やらポスター作成の手伝いやらが死ぬほどある大塚は、完全に手も足もでない状態。
しかも、月末なので、ヘアスタ11号の各店舗とのやり取りもあり。
私がそれを手伝い始めるとboidの機能自体が麻痺するので手伝わず。
ただまあ、小さな配給会社の宣伝担当のめちゃくちゃな労働量からみると、今の仕事量は序の口ではないだろうか。
そこまで働けとは言わないから、大丈夫。
ここ数日、全力で働いてください。

とはいえ、いろんなことが宙づり状態のまま、時間が過ぎていく。
中原の個展のタイトルを「ペインティング/ペンディング展」なんていうタイトルにしたのがまずかったか。
爆音映画祭の上映作品も決まりそうでなかなか決まらず。
日々、そのもやもやが増幅していく。
まあ、そう簡単には思い通りにはならない。
本日は、爆音映画祭のポスターをある程度仕上げてしまうという予定で中原もやってきたのだが、こちらもまた宙づり。
ようやく帰り際に方向性が決まったが、さてそれを仕上げるだけの時間はあるのか?

オリヴィエ・アサイヤスの特集の方も、思わぬ展開を見せ始めている。
普通に生きていこうと思っている人なら、「思わぬ展開」とか言っていないで、とになく何も展開しない、という道を迷わず選ぶに違いないのだが・・・

2月24日(火)

本日もまた、気がつくと夜、という状態。
2月は他の月より2、3日少ないからねえ・・・

夜は中原がやってきて、ついに完結を迎えるマンスリー・ヘア・スタの12号ジャケット作り。
いやあ、これがまた・・・

最後にしてついにこれか! という問題作(笑)。

本当にこれにしていいのかどうか、一晩寝てから判断を、という話になっていたのだが、そのとき中原が考えついたアルバム・タイトルを聴いて、もうこれしかないという結論に。
本当にまあ、よくこんなタイトル考えつくよなあという、タイトルとジャケットの組み合わせにおいては他の追従を許さず。
まさに最終号にふさわしい(笑)。
お楽しみに。
でもこれは、相当数の人が呆れるんじゃないだろうか。
特に吉祥寺方面の方々は唖然とするはず。

しかしとにかくこれでミステリー・ディスクを残すのみ。

2月23日(月)

いやあ、爆音調整が始まると元気が出るねえ。
本日は朝も早くから銀行に行って諸々の手続きを行ない、その後はバタバタと各所に連絡したり連絡したりしているうちに夜になり夕食の時間もなくそのままバウス。
したがってたどり着いたときにはすっかり疲弊していたのだが、ミーティングをすませ、本日のネタである『アクロス・ザ・ユニバース』が始まると、身体中がむくむくと起き上がる感じ。
身体に一本の筋が通る。
それに加えて『アクロス・ザ・ユニバース』が思った以上にがつんと来る音になっていて、考えてみたらTボーン・バーネットが音を作っていたのだった。
基本的に歌を聴かせるための映画なので音をでかくしても、気持ちよくなりはしても結局は予想通りの音に落ち着くかなと思っていたのだが、何のことはない、戦争シーンや暴動シーンもふんだんにあり、ボーリングシーンの音もごりごりになっていて、これはもしかすると『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のボーリングより迫力あるかとも思え、何はともあれ、一度は爆音で見ておかなくちゃね、という出来上がりになったのであった。

ビートルズが音楽で行なったさまざまな冒険を、映画の物語に置き換えていく、という手法をとっているこの映画、でかい音で聴くと完璧にサイケデリックなとリップ・ムーヴィーにもなっていて、その冒険の物語を見せたあげく、そうやって彼らを冒険に赴かせた源へと皆をたどり着かせるという落ちがはっきりとわかる。
私たちに必要なのは何か、ということが非常にわかりやすく示される。
その堂々とした態度に、ドキドキした。

本日は、都立高校の入試で、姫1号も朝早くから出て行ったのだが、どうやら中央線が事故で止まった影響で、入試の開始時刻が2時間遅れたらしい。
私の帰宅が深夜過ぎだったためどのようなことだったのか詳細はわからないが、世の中が便利になればなるほど、ちょっとした事故が各方面に大きな影響を与える、その不思議な連鎖の増幅に何だか嫌な気分になった。

2月22日(日)

こんなことを何度書いても仕方ないし、皆さんもう十分だと思っておられるかもしれないが、しかし、スゲー忙しい。
本日もどうしようもなくて昼から出社して作業をしていた。
湯浅さんもやってきて、ミックス済みの『港』を聴きながらチラシや裏ジャケやらの打ち合わせもすまし、ミックスの出来上がりにもニコニコして、微妙な違いの積み重ねが大きな展開をも生むこういうポストプロダクション作業の不思議に感じ入りつつ、夕方からはオン・サンデーズに向かい、中原個展の打ち合わせ。
で、具体的なスケジュールを見ていくと、やはり本当にドキドキするくらい時間がないんだよねー。
それにこればかりじゃないかならなあ・・・

とにかくそれぞれが混乱したり、忘れてしまったりすることのないように、プロジェクトごとの進行表も作ってはいるものの、それでも漏れてしまったり、その表には入らない小さなプロジェクトのことがおろそかになってしまったり忘れてしまったりで、なんか頭の中がいっぱいになりつつ帰宅。

家で、『港』を聴きながらやり残した作業の続きをやろうと思ってミニコンポにCD-Rを入れたら、まったく読み取らない。
ようやく読み取ったと思ったら、「シェーの果て」の途中でCDが空回りを始め、それっきり。
こちらが「シェー」と言いたくなる。
いずれにしても、我が家のミニコンポのCDドライブの調子が悪くなっていたのは確かだから、またもやこれも買い直さねばならないのか。
うーむ。

2月21日(土)

午前中、湯浅さんから電話があり、湯浅湾『港』のすべてのミックスが終わったとの知らせ。
明日、そのコピーを事務所に持ってきてくれるとの事。
あとはマスタリングのみとなったわけだが、すでにもう、ミックス前の生音を聴き込んでしまっているために、果たしてこのミックスにより音がどんな風に変わったか、ドキドキでもある。

ニュースでは、セブンイレブンの賞味期限切れ前の商品問題をやっていて、どうやら、セブンイレブンでは店頭で商品が破棄されればされるほど儲けが出るようなシステム、フランチャイズ契約となっているらしい。
昨日は長者番付の発表があり、日本ではユニクロの社長が1位でパチンコ・チェーンの社長が2位。
どれもこれも、貧乏人から金を巻き上げた人間が世の勝利者となっている模様である。
まあ、本当の金持ちは、こういうところに出ないような配慮をしているだろうから、さらに分かりにくいのだが、いずれにしても、こちらも独自の回路を作り出さねばさらにずるずると巻き上げられるばかりである。

午後からはせっせと『大音海』索引作業。
夕方、さすがにちょっと疲れたので、新宿に出てタワーレコード。
今月はほとんどCDを買っていなかったため、あれこれつい手が出てしまう。

で、特に好きな音ではないのだが、あまりにジャケットが凄いので、これを(↓)買ってしまった。

ofmontreal.jpg
オブ・モントリオール →

サンタナの『ロータス』と言えば分かる人には分かってもらえると思うのだが、あの22面だったかのジャケットと同じく、展くとポスター状になるように折り畳まれたジャケットで、それも細かい描き込みがびっしり。
そして部分的に型抜きもしてあって、贅沢きわまりなし。
boidでも一度こういったジャケットをとは思う。

音の方はジャケット同じく、全面にびっしりと音が詰め込まれ、きらびやかな音の壁が作られているのだが、その大変な作業が、かつてと違い今や頑張れば出来てしまうのだというような事を思わせてしまうところがちょっと物足りない。
後半、音数が少なくなって歌声がちゃんと聞こえるようになった方が個人的には好みである。
XTCを聴き返したくなった。

それから、ヨーマ・コーコネンの新作を。

jorma.jpg
ヨーマ・コーコネン →

なんとレヴォン・ヘルムのスタジオでレコーディングとミックスをやっているのである。
デジパックのジャケットを開くとそのスタジオの様子が映っていて、音を聴く前にこの風景にやられてしまった。
ああ、こういうところで誰だって一度はレコーディングしたいと思うようなあ、この木(気)の感じ、天井の高さ、上からとらえたドラムセットとレヴォ・ンヘルムの佇まい・・・
音を聴いてみると、その写真を見てしまったためか、まさにそこからしか生まれてこないような音に聴こえてしまった。
人間の意識なんてそんなものである。
でも本当に、その音の輪郭の際立ち方は、その曲が優しければ優しいほど、そこをちょっとつつけばジョン・フェイヒーのようなドロッとした音の塊が顔を出しそうで、ヒリヒリと怖い。
侯孝賢の『珈琲時光』の中の神保町の風景が、あまりにくっきりとした輪郭でとらえられていて、まるで宇宙空間で写した風景に見えた、あの何でもない怖さと言ったらいいか。
ただまあ、それもまあ、こちらの勝手な妄想に近いものかもしれない。
いずれにしても、このアルバムは、ダウンロードではなく物体(写真)とセットにて。

しかしこういう写真を見てしまうと、いよいよ弱ってきた両親の面倒を見るついでに実家を改造してこんなスタジオにするのもいいのではないかと、できもしない妄想が頭をもたげる。
レヴォン・ヘルムのスタジオもウッドストックにあるわけだから(ビッグピンクの側、という事か)、ニューヨークからの距離を考えると、ちょうど山梨の私の実家くらいじゃないかと、これまた勝手な思い込みを深くする土曜の夜であった。

2月20日(金)

まあ、許容量以上の事をやろうとしている方が悪いのだが、今週もまたドタバタのboidであった。
本日は、昼からボランティアに応募してくれた大学生の面接をして、その後、今度の爆音映画祭で上映を企画している『国道20号線』の監督、富田君とその相棒の相澤君がやってきて、雑談&打ち合わせ。
彼らはついこの間まで、ラオスだったかカンボジアだったかとにかくあの辺りの山岳地帯奥深くに入り込んで、映画を撮っていたとの事。
その内容はここでは書けないが、まあ、とんでもない作品になる事は間違いないはずの、破天荒な撮影だったようだ。
よくまあ、そんな無茶するなあと呆れつつ、確かに大層な目にも遭ったみたいだが、にも関わらず何事もなかったかのような、そうするのが当たり前というような態度の清々しさを頼もしく思う。
とにかくぐずぐず言っていないでさっさとやるべき事をやってしまう、その身軽さが必要なのだ。
彼らの作る製作集団「空族」のサイト(ここ→)での活動記録を見ても、ひとつの製作集団という事ではなく、自分たちが行なう動きそのものを「空族」と名付けているのではないかと思えるような、不定形な動きを見て取る事が出来る。
彼らの日本での動きと、身軽に(本人たちにとっては大変な事だったのかもしれないが)ラオス山岳地帯まで侵入してしまう動きとは、当たり前のように繋がっていて、その動きが見つめた風景が彼らの映画として形作られていく。
とにかく今の日本の映画の制作や上映のシステムにとらわれず、撮影・製作・上映という映画の流れを自分たちのやり方でどこまでもやり続けてもらいたい。
その動きが製作中の映画に反映され、そしてそれが上映のための足がかりを作り、上映は次の作品のきっかけになるような、まあ、自転車操業といえば自転車操業ではあるのだが(笑)、そんな食べる事と作る事とが一体化している活動をやっていけたら、というような話をした。

私としては、今回の爆音映画祭での上映が、彼らが毎月アップリンクにて『国道20号線』を上映しているその活動の妨げになるかもしれないと、果たして爆音映画祭での上映をした方がいいのか悪いのかかなり迷っていたのだが、とりあえず今回は映画祭で上映する事で、これまで彼らの事を知らなかった人たちに彼らの存在を伝えられたらそれでよし、という判断にて上映の決断をしたのである。
まだどういう形での上映がふさわしいかはっきり決まっておらず、もうしばらく考える必要があるのだが、いずれにしても上映は行なうので、この機会に是非。
何と言うか、佐向大の『まだ楽園』にも見られた、どうしようもない空虚を丸ごと受け入れて生きている風景が、闇雲にこちらの心をとらえてしまうのである。

そういえば、佐向の初の劇場用の長編は3月上旬にクランクインするとの事。
こちらも楽しみではあるが、何しろ撮影は6日間というスケジュールらしいから、果たしてどうなるか。

ちょうど打ち合わせも終わる頃中原もやってきて、話はさらに広がり、収拾がつかぬまま終わる。
中原はパリのホテルで作ったミステリー・ディスク用の音源を持ってきた。
これまでの12枚のシリーズとはまた違ったテイスト。
全部を聴く時間がなかったのだが、中原の中で生きている事と音を作る事、そしておそらく絵を描いたり文字を書いたりする事とが、ますます一体化している事を感じた。
というか、まさにそれそのもの、みたいなやり方で音を作ったようなので、呆れた(笑)。

2月19日(木)

どうやら例の事件により、はっぴいえんどのCDその他が店頭から消えるらしい。
自主規制である。
発売会社にしてみれば、「しょうがねえなあ、でも、なんか言われたらまずいからとりあえず引き上げておくか」、みたいな事なのかもしれないが、そんな会社の面子より、はっぴいえんどのアルバムの方が大切なのは明らかだから、これまた怒るというより笑ってしまうしかない。
まあこれで、再発されたときに話題になって結局はっぴいえんどの音はさらに日本中に広まる可能性が出たと思えば何の事はないのだが。

それとはまったく関係ないのだが、先日、原雅明君のところから出るオムニバス・アルバム用に作った曲を、中原が聴かせてくれた。
8秒間のループによって作る、というのが作者たちに課せられたテーマらしいのだが、その8秒間が凄くよかった。
8秒あれば、人はものすごく豊かなものを作る事が出来るのだと思った。
そこに込められた音の奥行きと広がりだけではなく、ループさせるその最初と最後をどこで始めどこで終わるかだけで、確か『AA』の中で灰野敬二さんが言っていたはずだが、かつてのブルースマンたちが苦労して研ぎすましていった音のズレによる世界の切断と接合を、そこでは当たり前の出来事のように行なっているのだった。
へア・スタのマンスリー・シリーズではそのような事を人力のオーヴァーダビングを駆使してやったりしていたのだが、今回は機械的なループでもそれが十分に可能である事が証明されたわけである。
実は今年、今回のマンスリー・シリーズが終わったあとに、まったく別のマンスリー企画を考えているのだが、それにはこういったちょっとしたテーマを設けて、それにそって作ってもらうといいのではないかと、ふと思ったのだった。

本日は相変わらず全力にて1日が終わる。
ふー。

抜け殻で帰宅すると妹から電話があり、父親が病院に運ばれたとの事。
ちょっと前から使っていた癌の治療薬の副作用に注意という指導を受けていて、先日、私も一緒に病院に行って説明を受けてきたのだが、いよいよその副作用かと、さすがに慌てる。
だがしばらくしてまた連絡があり、血液検査の結果、このところの疲れが出ただけで副作用ではないとの知らせ。
とりあえずホッとするが、今後の事を急ぎで考えねばならない。

2月18日(水)

今回の爆音映画祭は割と順調にあれこれが決まっている。
というはずだったのだが、ここに来て、いろんな問題が浮上してきて、やはりまったく簡単ではないという状況になりつつある。
まあ、こちらの思惑通りになる事なんて本当に稀な事だから、当たり前の進行という事でもあるのだが。
ただやはり、再度気持ちを入れ替えて対応していかないと、大変なことになる。
どうやったら関係する人たちそれぞれがそれぞれの立場で面白く関われるかをひたすら考えているのだが、すべてがうまく行くわけではない。
少しでもその関係がよくなればと思いながらやるしかない。

本日は午前中、聖蹟桜ヶ丘まで、某社へのお願い。
映画祭の協賛は、このご時勢なのでどこも反応は悪いのだが、とにかく来年以降のためにも、こういう映画祭があるのだという事を知っておいてもらうことが大切。
とにかく来年以降を見つめながら動くばかりである。

午後からは事務所にて宮田君と映画祭のカタログについての打ち合わせ。
これもまた、販売用であると同時に、来年以降の宣伝・説明のために作る。
助成金がもらえていればなあ、というところなのだが致し方なし。
助成金も協賛金もなく、とにかく入場料収入だけで運営し、しかも我々の生活も考えていかねばならない。
本当にどうやったら何とか行けるかと頭を抱えているところに、さらに難問も降り掛かって来る。
やりたかった作品の上映料があまりに高すぎるのだ。
これでは手も足もでないので取りやめざるを得ないのだが、とにかくどこまで金額を下げてもらう事が出来るか、再交渉にはいる。

この作品に関しては、まだ最初の金額提示なので今後の話し合い次第なのだが、こういう交渉をしていると、ときどき本当に「権利」とは一体誰のためにあるものなのかと真剣に疑う。
「権利」なんて糞だと言ってしまった方が世の中ずっとよくなるとしか思えないときがあるのだが、まあ、その「権利」を獲得するために戦ってきた多くの人の歴史の事を思うと、そう簡単な話ではないのだが。
今も、上記の作品ではない別の作品で、本当に某配給会社に火をつけてやりたいくらい呆れた権利獲得と権利放棄状態を目の当たりにしている。
頼むから早く、倒産してくれと、日々祈るばかり。
それ以外、おそらく某作品が日本で上映できる日はないのではないか。
なんて、ネガティヴな怒りを充満させていると身体にも良くないし、そのツケがこちらにも回って来るので、まあ、気長に待つしかない。

一方オリヴィエ・アサイヤス方面は、『CLEAN』の公開が少し難航しているものの、5月に日仏学院でも特集が決まり、『夏時間の庭』『NOISE』と続く。
なんとかして『感傷的な運命』も上映したいんだけどね。
boidでもそのために、久々にboidペーパーを作り、4号くらい連続でオリヴィエ・アサイヤス特集をやろうかと思っている。
誰もやってくれないんでこれまた致し方なし。
これだけ雑誌やフリーペーパーが溢れているのだから、どこかひとつがその気になって、一緒にオリヴィエ特集やりませんかと声をかけてくれたりしないかなあと思っていたのだが。
まあ、そういう声がかかるくらいなら、とっくの昔にオリヴィエ特集上映が行なわれていたはずだから、これまた地道に行くしかないわけである。
まだまだ道のりは長く厳しい。

2月17日(火)

老人問題と田舎問題は根が深いというか奥が深いというか、まあそれに直面したたったひとりの人間としては、何も考えず目の前の状況を処理していくしかない、ということだけはよくわかった。
この状況全体を打開しようとしたら、それに一生を捧げても終わらないし何も判断が出来なくなり、呆然とするばかり。
我が家の場合は、ふたりの老人が今現実に困っていることを聞き出して解決していくところから始めるしかないのであった。

とはいえboidの仕事もやらねばならぬことだらけで、本日は朝から全速力。
何をやったのかよくわからぬまま、目の前のことを次々に片付けて気がつくと夜なのであった。
身体の中に何も残っていないこの感じは、案外気持ちよくもある。
ただこの気持ちよさはそれなりにクセ者でもあるので要注意。
別にその気持ちよさを味わいたいわけではないのだ。

しかし、映画祭を含め、いくつかの上映を続けざまに企画していると、まだまだどうにかしたいがどうにもならない映画がそこら中に転がっているのが分かる。
どうしてこの映画がこんなことになっているのかと、笑っちゃうような事態となっているのだが、多くのマスコミの方々も元首相の「笑っちゃう」発言にあれほどこだわるのなら、自分の身の回りにもどれだけそういうことが転がっているか、少しは足もとを見つめたらどうか。
今のままでは、政治部の記者も芸能人の追っかけと変わらないではないか。
などと、余計な方にまで腹が立つくらい、捨て去られ忘れ去られた映画の見捨てられ方はひどい。

音楽の場合、輸入盤が広がることでその作品が根付いていきもするが、映画の場合は言葉の問題が大きいから、とにかくどこかで誰かが思い切らねば事が始まらない。
私の場合、楽天的すぎるのか計算が甘いのか世の中をなめているのか、つい簡単に思い切ってしまいあとで大変なことになったりするのだが、いずれにしても、日本中にこれだけの人間が生きていて、誰かひとりくらいそうやって思い切ってひとつの映画を配給するなり権利を買うなりする人間がいたっていいじゃないか。
とは思うものの、結局誰もいないのはまあ、生きてる時代と場所を間違えてしまった自分の運の悪さを呪うしかないのか。
などなどぶつぶつ思いながら、この映画の権利を買ってなんとかするためにはどれだけの事が必要なのかと、またもやあれこれ計算を始めているのであった。
まあそれはそれで、楽しい妄想でもあるんだけどね。

というか、そこがきちんとできさえすれば、「思い切る」とか「覚悟を決める」とかいう心情の問題ではなくなるわけで、だからboidの場合は、こういう風にやれば小さな会社でもそこそこ思い切った事も出来るというシステム開発を徹底して行なうための会社組織でもある。
そういった意味でのノウハウを、きちんと記録に残していかねばと思っている。
まあ、そのためにさらに忙しくなってしまうわけなのであるのだが。

2月15日(日)

実家にて。
気がつくと腰痛で身動きが苦しくなっている母親の日常を、肺がんが進み始めて声が出なくなってきている父親が助けている、というなんとも大変な状況になっているのであった。
しかも、すぐ近所の母親の実家では、実家を継いだ叔父が3年ほど前に倒れ、つい先日はその後の一家を支えていた叔母も倒れるという緊急事態となり、幸い叔母はすぐに元気になったのでよかったが、いずれにしても昨年103歳で祖母が亡くなって以降、その子供たちのヨレヨレぶりが露になっているのであった。
そう遠くないうちに、笑い事ではすまなくなる。
明日はとりあえず父親のかかりつけの病院に行って、病の現状と今後の治療についての話を聞く。
話を聞いたところでどうなるわけでもないのだが、とにかくこちらももろもろの心構えをしておかねば、というところなのである。

しかし半年振りに戻ってみると、実家のある町のメインストリート(国道52号線)はすっかりきれいになって、歩道も美しく出来上がっているのであるが、人通りがほとんどない。
映画の撮影くらいしか、使い道がないのではないか。
住んでいる人間たちばかりでなく、町自体の今後も危ぶまれる。
一体今後この町がどうなっていくのか興味はわくものの、それは単なる部外者としてのもの。
当事者たちは頭を抱えていることだろう。
あるいは日々の暮らしで目いっぱいなのかもしれないが。
いずれにしても、東京での暮らしとは、生きていることの実感のあり方がまったく違うことになるのだろう。

たとえば中原もこれくらいの田舎に住んでみるとどうだろうか。
おそらくまったく耐えられなくなってしまうのだろうが、もしかすると案外、何か晴れやかな気持ちになるかもしれない。
可能性は低いが、どうせならためしに思い切ったことをしてみるといいかもしれないと思った。
まあ、2,3ヶ月、という期間限定でのことではあるが。

2月13日(金)

常に存在の危機にさらされているのはたったひとりで生きる個人ばかりではなく、映画だって同じことだ。
映画祭や爆音上映その他である映画を上映したいとすると、そのうちのいくつかはすでに上映権が切れていたり、プリントがなかったり、上映権もプリントもあるのにその他の問題で上映できなかったりと、本当にままならない。
昨夜は、爆音映画祭のミーティングにボランティア参加の何名かが加わったのだが、参加者は映画が上映できない、という実体がどういうことなのか、その一端を見ることができたのではないかと思う。

そして何とも始末の悪いことに、上映されるために作られたはずの映画が上映できないことについて、誰も責任を取ることが出来ないようなシステムの中にすべてが収まってしまっている。
昨夜の中原の問題だって、おそらく誰が悪いとその責任を特定することは出来ないはずだ。
みんながそれぞれ自分の仕事をしていることが、じわじわと自分たちの首を絞めていくことになる。
何とばかばかしい社会だろうとおもいつつ、せっせと働く本日の私であった。
うーむ、気がつくと深夜である。

2月12日(木)

本日は公私ともに朝から走り通しの1日。
「公」の方では、税務署やら銀行やらバウスやら。
「私」の方では、子供の高校入試発表であたふたドキドキ。
とりあえず希望の私立は合格したのでよかったのだが、いずれにしても今月下旬の都立に受かるかどうかで我が家とboidの経済状況は大幅に変わる。
今の成績で受かりそうな都立にしてくれと子供には話したのだが、誰に似たのか無茶なところを受けようとするので、とにかくその日の調子次第で今後3年間は毎年しっかりと授業料を取られることになるのだった。

今回の高校受験問題で明らかになったのは、今増えてきている中高一貫校に入れるのが現状ではベターということ。
都立校の受験がかつてのように区域割りでのものではなく、都内全域どこでも受けられるようになったおかげで、結局各高校の格差がはっきりと分かれてしまい、中学から高校へ、という時点でその後が大きく分かれてしまうのである。
だいたいにおいて中学3年生くらいの時期に、自分の将来がはっきりと見えている子供はごくわずかだから、そんなもの先送りした方がいいに決まっている。
小学校から中学校へというときに親が勝手に進路を決めて中高一貫校に子供を押し込んで、子供はその恨みを中学高校の6年間持ち続けているうちに自分の将来を見つめ始めたところで大学受験とか就職とか専門学校とかへ分かれる、そんな道筋の方がせっかくの10代をおおらかに過ごせるように思うのだ。

でもまあとにかく、とりあえずは私立に受かって良かったよかったといっているところに中原から電話があり、本日1時からのインタビューを忘れていたと。
すでに時間は1時直前。
どうやら中原は試写室に入ってからそのことに気づき、慌てているところ。
インタビューというのは、3月の個展のためのカタログに掲載するものだから、もう時間もギリギリで、何としても今日、中原には出てきてもらわないとならないのだった。
こんなことがないように、何度も確認したはずだったのだが・・・
うーむ。

しかしとにかく30分遅れでインタビューは始まったとのことなので一安心。
私は諸々の手続きを済まし事務所に。
で、まあ、いつものようにあれこれ各所に連絡を取りつつ、カタログの打ち合わせなど。
カタログは冊子状のものではなく、B全のでかいポスターの裏面を利用してのものにする。
ポスターとして貼ることも出来るし、読み物として保存しておくことも出来る。
そのポスターには、今度の爆音映画祭のポスター用に中原が描く原画を使用することに決定。
果たして入稿に間に合うように、原画は出来て来るだろうか。

と書いていたところに中原から電話があり、「SPA!」の連載が打ち切られるとのこと。
「SPA!」自体も休刊になるのかと思ったらそうではなく、連載のみが終わり。
それも3月いっぱい。
雑誌がひとつの連載を終わりにするのは、雑誌の編集方針もあることだから仕方のないことだが、あと1ヶ月の時点で終わりを告げるのは、今問題になっている派遣労働者の契約解除と同じ、労働者のその後の生活をまったく顧みない一方的な通告と言われても仕方のないことだ。
実際問題として、週刊誌の連載の場合、1本あたりの金額はそこそこでも、1ヶ月では結構な金額になる。
1回3万なら、1ヶ月で12万から15万。
ひとりの人間が生きていくことを考えると、その金額があと1ヶ月でもらえなくなるといきなり言われても、じゃあ一体どうしたらいいのかを考える時間さえない。
特に文章だけでその金額を稼ぐのは本当に容易ではないのだ。
それもフリーで生きていることの宿命、ということなのだろうか。
契約社会とはそういうことなのだという言い方も出来るとは思う。
ただやはり、そこで契約するのも働くのも人間である。
だからそういうことのないようにさらに契約を緻密にする、という方向で現代社会は進んでいるのだが、それは弁護士やら代理人やらを儲けさせるだけでこちらにとって何のメリットもない。

先日、テレビを見ていたら、人間の声を使っての発電システムを考案した若者へのインタビューをやっていた。
その若者が言うには、電気によってスピーカーから音が出るなら、その逆もありで、音がスピーカーをふるわせてその震えが電気信号に変わり電気を作ることは可能だと小学校4年生の頃から考えていて、ようやくそれが現実的なシステムとなったと。
今度の爆音映画祭のゲストとして呼びたい! と思ったのだが、話はそれだけでは終わらず、彼はそのシステムを使って、人や車の移動の際の振動から発電するシステムを考え、その方がより大きな電力を生むため、今、いろんな場所でそれが使われるようになっているのだそうだ。
渋谷のハチ公のところにも、そのシステムを使った発電装置が置かれているという。

つまり今や完全に時の人となりつつあるその若者が起こした会社はふたりでやりくりしているのだそうだ。
会社を大きくして、そのために余計なことまでするようになったら、この現代社会の歪みと同じものを引き受けることになるので絶対にそれはしないのだと彼は語る。
つまり、契約社会を生き抜くために更なる厳密な契約を結ぼうとするのではなく、契約などなくてもお互いに顔を見合わせながら生きていける社会を作ろうということである。
石油や原子力を使わない発電の仕組みを考えるのと、自分たちが生きていくための金銭を得るための仕組みを考えるのと同じ考え方で、彼は生きていこうとしているのであった。

boidのさまざまな活動も、同じような意味において行なわれている。
とにかく足場を作ること、土を耕すこと、種を植え、実を収穫しつつ、翌年、翌々年へとつなげていく。
実を収穫してそれでおしまいにはしない。
そういった最小回路の中から、ようやく明日が見えて来る。
まあ、時には野心や野望も必要なのだが(笑)。

しかしほんとに何という社会なのかと思う。
芸能界のように事務所に守られているわけでもなく、たったひとりで生活をかけて文章を書いている人間がそこにいるということを、現代社会のシステムはまったく理解しようとしない、というかしたくもないし、関係ない、ということなのだろうねえ。

何というか、本当にちょっとしたことなのだ。
「ほんの少し、そこに愛情と優しさを注げば、世の中はもっと素晴らしい場所になる。あなたがいても、いなくても」と、ニール・ヤングさんだって歌っているじゃないか。
その歌が収録されている『グリーンデイル』以降のニールさんの活動は自身がそれまでに蓄えてきた力や金や智慧をてらうことなく使って、彼なりの回路を作り上げ世界に向けてそれを展開していこうという試みだと思うが、今の日本では、そのことの是非を問う前にその事自体がまともに認識されていないという体たらく。
「ほんの少し」のことが、とにかく簡単には伝わらないのであった。

そういえば本日も税務署に、とある書類を申請しにいって、それが出来ない説明をあまりに一方的な言い方で、しかも非常に丁寧にされて本当に頭にきたのだが、こちらは何か文句を言いたくて苦情を言っているわけではないのだ。
ただあなたたちがあまりにこちらのことを考えずに自分たちのみを守ろうとするばかりだから、いくらなんでもそうじゃないでしょうと言わざるを得ないのである。

いずれにしても我々は、弁護士も立てず契約書も書かず、堂々と身体ひとつで生きていくばかりである。
いつかそれが、ひとつの「システム」となるはずだ。

2月11日(水)

このところ体調が低位安定状態で、良くはないものの何とか毎日を乗り切ってきていたのだが、昨日は久々につらかった。
月曜日にやってきた中原がパリから悪いウィルスでも持ち込んだのではないか。
などと疑ってみるものの、だからといってどうなるわけでもなし。

ただとにかく、来客が次々にあって、とりあえず、あーだこーだ言いつつ、気分の悪さをごまかして夜。
その間、いろんなことが決まるが、これもまた、詳細は追って発表。

本日は、昼から出社して、『大音海』索引作業。
とにかくこのところずっといろんな人が事務所に来て、あれこれを決めたり画策したりしていたもので、休日しか索引作業をする時間がないのだ。
今後も同様。
だから「この期間は『大音海』作業のみ、他の仕事はやらず」と決め込んでやらねば仕上がらないだろうなあ・・・
父親の具合があまり良くないので、近々実家に帰ることにしているのだが、1週間ほど引っ込んで実家にて索引作業、というのもいいかもしれないとは思う。
いずれにしても、マジで思い切った手を打たないと年内にも出来上がらない。
どうしたものか・・・

作業の途中、湯浅さんから電話があり、本日4時からタワー渋谷店にて山本精一さんとの対談あり、ついてはその際に湯浅湾『港』及び『大音海』の仮チラシをとのこと。
大塚も出社していたので、急遽仮チラシを作り、大塚はタワーへ。
入れ替わりに湯浅湾のベーシストでもあり次号から「スタジオボイス」編集長となる松村君がやってきて、あれこれ打ち合わせ。
「スタジオボイス」はもう400号なのだそうだ。
30年以上の歴史を刻んでいるのであった。
考えてみれば、私が書店で売られている雑誌に初めて文章を書いたのも、「スタジオボイス」だったように思う。
あれからも20年以上が過ぎた。
これからも20年などあっという間なのだろう。
本日も、気がつくともう、夜なのであった。

なんて感慨に浸る暇があったら、おそらく多くの人から「無駄」とさえ言われるかもしれない『大音海』に収められる膨大な言葉のうねりや、論理的であるが故に荒唐無稽にも聴こえる湯浅湾の歌詞とそれを支える音の構築力とユーモアを、どうやって多くの人に知らせることが出来るか、とにかく知力と体力を振り絞っていかねばなるまいと思うばかり。
AmericoもDowserもHair Stylisticsも、私としてはこの日記の読者の方々全員に、ひとりひとり直接売りつけたいくらいのお薦めアルバムなのであるが、これはほんと、どうしたら伝わっていくのかねえ・・・
まずはとりあえず、湯浅湾の音を知らない人も知っている人も、4月8日のスーパーデラックスへ。
3時間たっぷり、湯浅湾も全力で演奏します。
こんな機会2度とありません。

2月9日(月)

爆音映画祭、その前の4月に行なう某爆音オールナイト、そして映画祭に続いて行なう爆音オリヴィエ・アサイヤスなど、さまざまな企画にあれこれの動きが出る。
その結果がどうなるにしろ、こういった動きと一体となって、毎日を送っていけるのはいいことだと思う。
動きの詳細を全部お知らせしたいが、まあこういうことは言ってしまったとたんに動きが止まったり他に思わぬ影響が出たり、ということがあるので、確定後、すぐにお知らせします。

夕方、パリから無事帰国した中原がやって来る。
いつになく元気そうなので、それだけでも行って良かったと思う。
パリでも相変わらずいろんな人に会ったようだ。
海外に行ってもまったく変わらない、中原の人付き合いの広さには本当に恐れ入る。
私のような人嫌いの人間にとっては、なんとも想像しがたい能力である。
購入物の中で笑ったのが、エマニュエル・べアールのヌード写真集。
割と最近になって発売されたものらしく、確かに年輪が刻み付けられている。
しかし一体これは何のためにどんな読者を想定して作られたものなのだろう。

とりあえず私としては、頼んでいたオリヴィエ・アサイヤスの最新刊を手に入れたので、それで満足。
中原はいよいよ3月末の個展開催まで、かなりのハード・スケジュールが待っている。
私も明日からは、延々と人に会うばかりの日が続く。

2月7日(土

恵比寿の写真美術館の地下で上映されている牧野貴君の「Still in Cosmos」を見に行く。
「映像をめぐる冒険」と題された特集展示のひとつとして上映されているものだが、さすがにパーテーションで区切られているとはいえ音は漏れてしまうから、大きな音での上映は出来ない。
牧野君からはそれがちょっと残念という連絡はきていたのだが、見てみると案外そうでもない。
何と言うか、見ているうちにこちらの視覚と聴覚をじわじわと広げてくれるような構成になっているのだ。
もちろん、最初小さかったボリュームが次第に大きくなっていくという物理的な展開がそうさせるのだろうが、それだけではなく、映っているもの聴こえて来るものすべてが次第にこちらの意識の奥深くに侵入してきて、そして逆にこちらの意識を、光や音が生まれて来る場所へと連れ去るのである。
その近さと遠さの転換が、この作品ではますます洗練されてきたように思えた。

その後新宿に出て、新調したメガネを受け取りに。
かけてみると世界の見え方がまったく違う。
度数の問題もそうなのだが、レンズの屈折率違うものにしたのでそのせいもあるのだろう。
世界がハイビジョンで見え始めたような感覚。
くっきりとすべてが見えるのにも関わらずモノの大きさがすべて小さくなったような感じで、その世界の近さと遠さの狭間に置き去りにされたような気分である。
このメガネで、再度牧野君の作品を見たらどんな感じがするだろう。

2月6日(金)

昼に湯浅さんがやってきて湯浅湾の『港』のジャケット作り。
いくつかのアイディアが出たのだが、かなりあっさりとひとつのものに決まる。
まさに湯浅湾『港』というジャケットとなった。
音の方も、5曲ほどのミックスが仕上がり、聴いてみると、多分ひとつひとつの音の広がりが増したためだろう、前後の音が溶け合うものだから、何だかさらに曲が遅くなったように感じる。
この遅さが大切なのだ。

そんなところにパリの中原から、クランプスのラックス・インテリア死去の知らせ。
・・・
・・・
・・・
死はいつもこうやって思わぬところから訪れる。
参った。
最近、boidでは湯浅湾とともにアレックス・チルトンのアルバムがヘヴィー・ローテーションでかかっていたのだが、これも何かの知らせだったのか。

songsthelord.jpg
アレックス・チルトンのプロデュースによるクランプスの1stアルバム →


彼らの場合、見かけやパフォーマンスの特異さから、単なるオカルト・バンドとも思われてしまいがちだが、もちろん進んで数ある単なるオカルト・バンドのひとつになろうとしていたのでもあるだろうが、やはりとにかく腰の据わったリズムと胆の座った歌がその背後にあるロックンロールの壮大な広がりを、我々にがつんと見せつけてくれたのであった。
音をでかくすればするほど、彼らがまさにアメリカの歴史と土地とそこに彷徨う無数の魂とともに音を出していることが実感できる。
テンションが高くなればなるほどそのクールさが心に突き刺さる。
そんなバンドだった。
初来日の狂乱のステージは今も私の大切なロックンロールの風景である。

そういえば、その初来日のライヴ会場(今は亡きエムザ有明)でも確か中原と会ったのだった。
一体高校生がこんなライヴを見ていいものかと、呆れたことを覚えている。
もう、高校を辞めていたのだったか。

初期のライヴやリハーサル音源が集められた『How to Make a Monster』という2004年リリースの2枚組のアルバムがあるのだが、その中に入っている解説をラックスとパートナーのポイズン・アイヴィが書いていて、「マーク・ボランが昔のブルースの影響を自分の音楽の中に取り入れて再構築していった、その作業に驚いた」というフレーズがあった。
ハウリン・ウルフやロバート・ジョンソンやキャブ・キャロウェイの音を、現在に読み替えていくそのやり方を自分たちもやっていきたいと思ったと。
つまりロックンロールとはそういったものであるのだと、彼らは30年以上の時間をかけて、私たちに歌い続けてくれたのであった。
「自分の夢の実現」とか言っている今の日本社会を吹き飛ばす、壮大で爽快な音楽が、彼らのアルバムには目一杯詰まっている。

2月5日(木)

本日はさすがに疲労困憊なので日記もお休みと思ったのだが、あまりなことが起こったので、軽く報告を。
といっても、「事件」ということではなく、「ミス」。
まあ、いつものことといえばいつものことなのだが、このところ、メールの送り間違いがひどく、我ながらちょっとまずいと、さすがに本日は思った。
数日前は、「松井」違い。
昨日は「坂口」違い。
そして本日は、「河村」と「川村」違い。
まったく無意識にガンガン宛先間違いメールを各所に送っている。
いつかこの間違いメールのために、本当にひどいことを引き起こしてしまうかもしれない。
今のうちからお詫びを。
お詫びですむようなことだったらいいのだが・・・
それからもし、私からわけの分からないメールが届いたとしたら、読まなかったことにしてとりあえず「間違いですよ」という返信をお願いします。
何だかねえ・・・

2月4日(水)

ようやくいろんなことの整理がつき始める。
何時どこで何をすればいいかという仕事の基本状態が整い始めたということなのだが、これはまあ、ようやくスタートラインに立てたということでもあり、本番はこれから。
まだまだ先は長い。

夕方、中原の個展の簡易カタログの編集をお願いしたK氏がやってきて打ち合わせ。
その中で判明した、というか今更私が気づくというのも本当にひどい話なのではあるが、個展までの時間がわずか。
本当に申し訳ない。
ただ時間が逆戻りするわけではないので、とにかくその限られた時間の中で出来ることをやる。

夜は鈴木がやってきて、中原がこの数年で描いた絵の、物撮り。
こちらの準備がないので呆れられる。
鈴木を残し、我々はバウスへ出向き、爆音映画祭会議。
こちらで予定している作品だけでも、もう、上映枠をオーヴァーしている。
昨年は多くの媒体などに依頼していろんな作品を選んでいただいたのだが、今年は映画祭としてのテーマをはっきりと打ち出して、映画祭事務局主導の、かなり硬派なセレクションになると思う。
でも、このラインナップなら、私が学生だったら1週間休学してこちらに通うかな。
まあ、学生時代に大学にはほぼ通ってなかった私がこんなこと言ってもまったく説得力はないのだが。
しかしそれくらい面白いプログラムになりつつあるように思う。
『爆音』という大きなテーマがいろんな作品を有機的に結びつけ始めている気がする。
その有機性をはっきり見せられるかどうかが、今回の映画祭の成否を決めるのではないかと思う。
その意味で、まだまだ自分だけが納得している、という段階。
それを外に広げていくためには、一体何が必要なのか?

2月3日(火)

節分である。
とはいえ特に何かあるわけでもなく何をするでもなく、せっせと各所に連絡、連絡。
そして昼過ぎに日仏に向かう。
市ヶ谷駅前の橋のあたりは何となく春めいてきたような気もするが、気のせいか。

『夏時間の庭』の試写中に、配給会社の方たちと、これからのオリヴィエ作品上映をどのようにやっていくかの打ち合わせである。
boidの場合は上映権利料もギリギリ何とかなる額だし、デジタルものなので字幕をつけるための物理的な金額や運賃もそれほどでもないからいいのだが、『夏時間の庭』の方は字幕をつけたフィルムをちゃんと作るだけでも相当な額で、権利料もしっかりと支払っているはずだから、昼間の興行で本当にちゃんと動員がないと大変である。
これまでのオリヴィエ作品の日本での不人気具合を考えると、本当に良く配給してくれたと、それだけで感謝したいと思う。
とはいえ、そこで留まってはいられない。
とにかくこの、これまでのオリヴィエ作品のいろんな要素がたっぷりと詰まったこの作品を、多くの人に見てもらわねば。
そしてそれが次に繋がるような形で、人々の間に広まっていってくれたら。
告知・宣伝・上映という、映画の最終段階の作業は本当に難しい。

その後事務所に戻ると、各所から連絡が来ていて、爆音映画祭の上映作品が少しずつ決まりつつあることが判明。
今回は昨年よりプログラムがスムーズに決まりつつあり、かなり迫力あるラインナップになるはずなのだが、これもまた、それだけでは人は集まらない。
とにかく告知・告知、ということで、事務所ではチラシやリリースの発送作業が延々と続く。

夜はイーストウッドの最新作『グラン・トリノ』。
時間ギリギリにはいったため、丸の内ピカデリーの前から3列目という最悪な場所。
丸ピカ、日劇の4館は、呆れるくらいスクリーンまでの距離が近く、前に座ったらもう首がコリコリになる上に、最後まで歪んだ画面を見上げ続けなければならない。
しまったと思っても後の祭り。

映画の方は、結末を話すのは厳禁とのこと。
私の場合、うっかり何を話してしまうかもしれず、まあこれを見るとさすがに結末を知らずにみた方がいいだろうなあということもあり、ストーリーに関しては初めも途中も秘密。
いずれにしても、俳優としてのイーストウッドの集大成であることは確かである。
最初の方なんてまるで、『ダーティファイター』の頃のことまで思い出させるしねえ。
しかも、歌声まで聴けるというサーヴィス付き。
クレジットには書かれていないが、延々とイーストウッドのしわがれた声を聴かされ続けたあげくあの歌が聴こえて来るわけだから、しかもどうやら俳優としての最後の作品と自他ともに認める映画で、この歌・・・
俳優としての姿が消えて、声だけが残る・・・
その歌声の最初の発声が聴こえる前の息づかいが聴こえてきただけで、おそらく多くの人の胸は張り裂けそうになるに違いない。

上映が終わり振り返ると、2階席があったことに気づく。
そうだ、丸ピカは2階席なのだった。
ギリギリでもそこそこ空席があり、しかも見やすい。
もうそんなことまで忘れるほど試写に来ていなかったかと思うと、さすがにちょっと淋しい。
イーストウッドが自分の俳優としてのキャリアだけではなく、「映画」というジャンル自体を終わらせようとしているように思えてしまうふたつの近作を見てしまったことの淋しさなのかもしれないが。
いずれにしても、このふたつの作品で、イーストウッドは20世紀のアメリカの失敗を全力で描こうとしているように思う。
そのアメリカの20世紀とともにあった「映画」も自分が終わらせる。
ヒロイックになるわけではなく、そうせざるを得ない何かに触れてしまったかのような、覚悟というか決意というか覚悟でも決意でもない覚悟と決意が感じられてしまうのだった。
だからそれは当然のように、映画の豊かさとは別の場所に我々を置き去りにするわけで、つまり映画のない場所であなたたちは生きなければならないと一方的に宣告されているようなものだ。
それに対してどう思うかはそれぞれが映画とどうか変わってきたかで別れるところだとは思うが、私はそれでOK。
すべて台無しになった場所でどう生きるかだけを考える。
その意味で非常に清々しい気分である。
ただ、こういう気分に他人を巻き込んではいけないと、今後の行動にはひたすら注意しなければと思うばかり。

そして本日もまた、デッドの『Road Trips』を。
しばらく離せそうにない。
とは言うものの、今度は我が家のミニコンポが反乱を起こしつつある。
うーむ。

2月2日(月)

何ともう、今年もひと月が過ぎてしまった。
『大音海』は行く先も来た道も全く見えない、「大音海」を超える大海原に乗り出してしまった。
boidはこの果てなき海の中に大撃沈の可能性もあるがもはや後の祭り。
行けるところまで行くのみ。
そしてさらにまだ連載物が見つかったという知らせもあり、覚悟を決めても決めても、そんな覚悟は覚悟にあらずということを思い知らされるばかり。
そんなビガー・ザン・ライフな空虚に、笑いがこみ上げるばかり。
こんなとんでもないことを出来る楽しさは、他人に絶対渡したくないなあと思う。

とはいえ何とか形にしない限りは「楽しい」も糞もないわけで、本日もせっせと働く。
いろんな人が事務所にやってきて、作業やら打ち合わせやら。
まるでむちゃくちゃ活気ある事務所のようだ(笑)。
そしてようやく無事イヴェントも終わり、あと1週間のパリ滞在を好き勝手に過ごすばかりと思っていた中原からは、相変わらずの知らせ。
何が相変わらずかって、そりゃもう、あんた、ほんとに、まあ、なんてこった、という具合。
おかげで、さらに各所へのあれこれの連絡が増え、一日中フル回転で夜にはすっかり力つきる。

帰宅して、これ↓で和む。

roadtrips2_1_1.jpg  roadtrips2_1.jpg
Grateful Dead “Road Trips Vol.2/ No.1” →

デッド、90年のマジソン・スクエア・ガーデンでのライヴ2枚組にボーナス・ディスク付きの3枚、合計4時間ほど。
つまりまあ、たっぷりととことんデッド・ライヴを堪能できる代物で、ちょっと前からシリーズで出ていたものが第2期に突入。
この5300円ほどを高いと思うか安いと思うか、モノの価格というのは本当に微妙だなあと思う。
たとえば『大音海』の場合は、どんなに膨れ上がろうとも、どんなに限界を超えようとも6500円で、という話になったのだが、その値段自体に強い根拠があるわけではない。
もちろん今の段階で、すでに6500円の本の物理的、経費的な限界を遥かに超えてしまって、作り手側からはこんなお得で格安な本はないということになるのだが、買い手から見ると1冊の本に6500円も出すというのは相当な勇気がいる。
なんてことをグズグズと考えながらも、デッドの相変わらずのアンサンブルの心地よさと、ゆっくりとゆっくりと変化していく音のうねりに、すっかり乗せられて、まあ、やってしまえばどうにかなるとまたもやありもしない覚悟を決めたのだった。