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『ピクシーズ/ラウド・クァイエット・ラウド』
2月3日より、吉祥寺バウスシアター他にて公開

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photo by Jonathan Furmanski

日常のなかに、ふっとあらわれる歪んだ空間
向井秀徳(ZAZENBOYS)

1989年、俺は高校に入学して、それまで聞いたことがなかった、アメリカやイギリスのインディー・ロックに目覚め、ピクシーズに出会った。
「DOOLITTLE」「BOSSANOVA」「TROMPE LE MONDE (世界を騙せ)」と共に高校の3年間を過ごした。
それから自分でバンドをやるようになったが、ピクシーズの影響はやはり、とてもデカい。同じように影響を受け、バンドをはじめたヤツは世界中にいるだろう。

日常のなかに、ふっとあらわれる歪んだ空間。
そんな一瞬の、奇妙な非現実の風景を、とてもキャッチーに描くピクシーズの音楽が、俺は大好きだった。

そして、ピクシーズは解散した。

バンドのライブ活動というのは、無意識にも意識的にも、異常なテンションと興奮の状態が続く生活だ。その状態の中で、音楽をより突き詰めていきたい、という欲求が加速していくと、とても敏感な精神状態になる。ヒリヒリした状態ってやつだ。それを心地よいと感じることができればいいが、やはりストレスになっていく。
それが続くと、メンバー間に温度差が生まれる。

やりとりは少なくなり、突き詰めたい表現欲求を持つ者や、無心にプレイして音楽のヨロコビを感じていたい者、マネーを稼ぐ手段としてやっている者、それぞれ、自分のやる気の持ち様を見いだそうとする。思いはバラバラになり、意識の共有が希薄になる。

そうなっていくと、バンドちゅうのは、なんだかよくわからん特殊な関係になる。友達同士でもなければ、勝つ負けるのひとつの目標を持ったスポーツ・チームでもない。ただステージで、それぞれの楽器をアンサンブルさせて、観客を熱狂させる集団。
ずっとそれが続くと、やはりバンドは崩壊する。ピクシーズもそうだった。


ピクシーズの再結成をドキュメントしたこの映画は、バンドという特殊な集団のなまなましい現実の姿が、ありありと、写し出されている。
特に、あのヒリヒリした空気を生み出すまい、とメンバーが意識的になっている姿がとてもリアルだ。あの緊張感はゴメンだ、と穏やかに過ごそうとする姿。そのぎりぎり保っているバランス感に、胸が締め付けられた。
ただ、ステージではそんなことは関係なく、皆、純粋に音楽を楽しんでいるように思える。そして、そこで鳴っている音はまぎれもなく何度となく聞いたあの、奇妙でかっこいいピクシーズサウンドだ。

もう一度バンドに賭ける情熱と、それに伴う葛藤を抱えて、ツアーに向かって行くピクシーズ。バンドというものは一体なんなのかを、この映画は描いている。


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photo by Jonathan Furmanski

アウェイ・ウィズ・ザ・ピクシーズ
ヒダカトオル(BEAT CRUSADERS)

2005年12月11日。
新木場コーストにてピクシーズと共演した際、俺は思い切ってキムに聞いてみた。
俺「貴女はベースも歌も作詞も作曲も全てにおいて才能溢れているのに、どうしてソロアルバムを作ろうと思わないんですか?」
キム「ありがとう。でも私は、バンドをやることが大好きなの」

これほど簡潔で心強い言葉はなかなか見つからないと思う。
欧米のみならずアジアや世界各国の音楽界に蔓延するスター・システム。それに対するアンチテーゼとしての音楽…インディーズでも、PUNKでも、アバンギャルドでも、アンダーグラウンドでも何でも良いけど…我々が追い求めていた一つの理想が、ピクシーズには全てある。

胸を掻き毟るメロディと、シュールだけどシンガロングしたくなる歌詞。
普通の人達が、背伸びすることも無理することもなく紡ぎ出したサウンドだからこそ説得力も違う。だからこそ再結成に無理があったら気の毒だとも思っていた。でもキムの言葉を聞いて一安心。ピクシーズとしての新譜が出ようと出まいと、我々はただ彼らの叩き出す静寂と轟音に、身を委ねていれば良いのだ。
 
 
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photo by Jonathan Furmanski
 
PIXCEEDS
山仁 da sportsman (元Loop Junktion、現在 詩人)

酷い場所、最高の仲間、決別の時、ただ息をすることを恐れるな、中毒者だってかまわない、ただ息を潜める事を恐れるな、目から汗が出る、毒づきながら平凡な暮しに戻ったと感じられた時、全ては狂っていた、普通という言葉に頭痛を感じる、手を伸ばす、無意識に、共に命を削り、血と汗と涙を音楽に還元し楽しみ苦しむ行程をこの世ではBANDと言う、言葉より先に解り合う、後のアクションは取って着けたもんだって分っているのに、世界や人間はそれを邪魔するのが大好きなんだ、遠回りは人生の一部だとか、俺とお前達の関係は運命だとか、運転手が人間のバスは、皆の心の重さに耐え兼ねて一度は必ずPUNKをする、助走をつけるために今いる地点から後ろに下がる事を恐れるな、道上の鍵はROCKされたまま、人生のピークを最高の調子で迎えつつも、悪魔や不運は何時だって音も発てず背後に忍び寄る、上手に笑えているだろうか?赤ん坊達は元気かい?もしかしたら真顔でいるほうが上手になっているかもしれない、とても不安なんだ、いつもの奴を唄ってくれないか、そしてギターを弾いておくれ、早くしてくれよ、顔に皺が増えてしまうじゃないか、お先に永遠だけを手に入れてしまったけれども、本当は寂しいんだ、手を繋ぐ事の本当の意味が分るかい、40tyカラットの闇を越えて、決別する事の本当の意味が分るかい?
、、、、、 単にそれは再び手を合わせて歌い続ける為の準備だったんだ。
 
 
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photo by Jonathan Furmanski
 
Death to the Pixies
谷口健(BEYONDS)

Pixiesの再結成ツアーを同行取材したドキュメンタリー映画『loudQUIETloud』を観て思い耽ったことを書きます。私がバンドをやり続けていたい理由のなかにピクシーズの存在があります。緩慢な笑みが隙間隙間から逃げて、不甲斐無さや諦めからくる悲しみ、微笑、衝動的な怒号がかき出されるのです。少年期が通り過ぎた青春のメロディーが程よく哀愁に満ちてきて、ギターの音色とカッティング加減がすっとん狂で心地よいのです。まだ同時代にいたいな。「十三番目のベイビー」も「ゼアゴーズマイガン」も「オールオーバーザワールド」などの曲群も披露していってほしいな。感傷とは全く無縁で現代の理想的なロックを転がしています。転がし続けるのは時に大変です。断片的に見てとれるメンバー間のドライな様子にバンドをやって行く事の必然と苦悩が伺えます。無言のたたずまいに、切実な(わかってほしいという)願望と絶対的な信頼感があるのかもしれません。ライヴが癖になる緊張感。バンド以外での生活、それぞれの家庭や仕事が人を成長させ、老いらせ、優しくもしていく。いつ聴いても素敵な楽曲群。インプロ的なところがあるのは自分達がいつやっても飽きないアンサンブルの確認であるかの様です。リハーサルでは「ちょっと待って、iPodで確認するから!」ライヴでは「ちょっと楽屋に戻って話そう、どういうことなんだ? いったい。」私たちは人との関係では確認が必要なんですね。恋人や夫婦の間もそうでしょう。既にロックの仕法はやり尽くされたのでしょうか? 何かに憧れて始めたはずの自身のバンドがいつしか独自性を産んで無二の凄いバンドになっていく。そんな爽快さ、気持ちよさを確認させてくれるのです。ピクシーズは人類の「青の時代」を歌っているのだと思います。
現在です。私も生きているんです。演出も大事だな。飾り気のない演出。楽しく演奏したいな。曲と詩をつくっていきたいな。宇宙と時代を意識して、動物とも交信していきたいな。私はそんなことを感じつつ、このピクシーズのドキュメンタリー映画『loudQUIETloud』の会場を後にしました。
「生々しく生きている人間、激しく現実にぶつかっている人間の心の奥には、いつでも若い情熱が瞬間瞬間にわき上がっているのだ。人間の内にあって、精神の若さと、肉体の若さは猛烈に交流し、侵入しあっている。そういう衝動的な状況が青春なのだ」
岡本太郎 “青春論”より