
『レディ アサシン』によせて
●『レディ アサシン』爆音レイト
自分の体を日本人との取引に使ったアメリカ男に別れを告げ、北京でのクラブ経営を夢見るフランス女は仕事仲間と麻薬取引を実行するが失敗、窮地を雇い主である中国男に救われる。逃げた先で遠くに見えるホテル・アイビスのネオン……。いま映画を撮ることはもしかすると世界じゅうの大都市にあるこのビジネスホテルのようになることかもしれない、と一瞬頭をよぎった。ことにアメリカ以外の場所で映画を撮ることは。点を線で結ぶのではなく、無数の点になること。ただし、この「点」はアメリカにだけは存在しない。n-a。勝利も敗北もない地平で『レディ アサシン』はそこに達成する。同時にこの達成は新世界、つまりアメリカ行きの搭乗口から引き返すことでもあるようだ。それでいい、とオリヴィエは言う。私もそう思う。アメリカ映画を作るよりアメリカの友人でいることを択ぶのも悪くない。
=青山真治(映画監督)
情報社会の中の金銭の流通とそれに関わる身体的欲望。オリヴィエ・アサイヤスが『デーモンラヴァー』で描いたのは、そんな現代だった。『レディ アサシン』はその続編だ。「風景」が消滅し、「ここ」も「そこ」も紙幣の表面に描かれた価値を示す数字ほどの差異しかない。パリも香港も同じだ。パリから香港へ赴く飛行機の内部にまったく「風景」が欠落しているように、ぼくらはどこに赴いても同じメカニズムにしか出会うことがない。数字だけの金銭で身体と白い粉が売買されて流通していくとき、ぼくらはどうやって自分の身体の実在を実感すればよいのだろう。アーシア・アルジェントとともにぼくらも走りながら考えている。
=梅本洋一(映画評論家)
漂泊されたブロンドが目に痛いトラッシュな母を演じて撮った『サラ、いつわりの祈り』、グランジの時空に漂った『ラストデイズ』。伊ホラーの異才ダリオの鮮血を引きながらアメリカの今を体現してきた無国籍的ディーヴァ、A・アルジェント。アサイヤスが切りとる香港のやさしく酷い闇、うねる海と行き交うフェリー、暖かな水の景色に彼女の涙が溶けて、B・イーノのアンビエントな調べに包まれる時、そこに確かに感覚される波動。『イースタン・プロミス』のヴィゴ・モーテンセン、『コロッサル・ユース』のヴェントゥーラ、過激に寡黙でシンプルな存在の雄弁を貫いてアメリカではもう見られないアメリカ映画を現出させる肉体がここでも真正の活劇を支えている。
=川口敦子(映画評論家)
『レディ アサシン』は期待通りの女殺し屋ものだった。そして、タイトルにふさわしい正真正銘の娯楽映画に仕上がっていた。現代の、しかもフランス映画においてである。これはきわめて稀有なことなのではないか。こんにちアメリカ映画であっても、娯楽映画と呼べるものはほとんど見当たらない。あるのはいくつかの作家映画と多くの商業映画であって、前者の代表はスピルバーグ、後者の代表は例えば『パイレーツ・オブ・カリビアン』のシリーズだ。
では娯楽映画とは何か。ひとつの原則を紹介しよう。「殺し屋は、殺す」。これである。アサイヤスはこの単純な定義に従って、主人公が殺さない道をとことん封じ、それから「なぜ殺すのか」という理由の詳細な解明にとりかかる。こうして、殺し屋が殺さない作家映画ではなく、殺し屋が理由もなく殺しまくる商業映画でもない、殺し屋が当然の理由からばたばた人を殺してまわる映画、つまり紛れもない娯楽映画が開始された。しかしこの道はきわめて険しい。
では、なぜ?どういう理由で?この殺し屋は殺すのか。「金ではない」とアサイヤスはまず、その最も安易で商業映画では頻繁に採用されるが、実は「金を儲けるだけなら他にいくらでも手がある」上に、「金のために行われた殺人の真の原因は貧困である」というミもフタもない現実の前で殺しのプロという存在そのものが否定されてしまうことを踏まえて、この虚偽の理由を除外する。次に「その理由は不自然な愛かもしれない」と設定し、アサイヤスはその考察に最も力を注ぐ。愛が不自然に変形し、やがてプロの殺しへと発展していく……そんな途方もない仕組みを構築しようとする彼の執念はすさまじく、我々は映画が娯楽へといたるために刻々とシーンが積み上げられていく修羅場に立ち会い、息をのむ。
それで、女の殺し屋がようやく命からがら香港に逃亡したとたん、現地のヤクザが撃ってきた。凄腕の彼女は水を得た魚のように撃ち返す。私は拍手喝采した。息つく暇もないシーンが連続する後半は、娯楽映画のエキスが炸裂したアサイヤスの本領発揮と言えるだろう。
こうしていよいよクライマックスがおとずれるわけだが、作者はここで再び「愛は殺す理由たり得るのか」という設問に立ち返り、主人公に最後の試練を与える。正直、熱いものがこみ上げるのを押さえられず、私は胸をかきむしりながら呻いた。殺し屋とはこれほどまでに過酷な人生なのか、そして、娯楽映画とはかくも血のにじむような努力の果てに成立するものなのか、と。
=黒沢清(映画監督)