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公開座談会 鈴木清順を語る 2001年2月10日

公開 boid.net vol.2  鈴木清順を語る
2001年2月10日 アテネフランセ文化センター  


樋口 今日見てもらったのは『踏みはずした春』という58年の作品で、見れば分かるように、いわゆる鈴木清順という映画のイメージからはちょっと違った作品です。初期の作品ということもあるのですが、ものすごくまっとうに作られているというか。まずそれの選者である塩田君の方から『踏みはずした春』を選んだ理由を述べてもらおうと思います。セレクションのときに相当迷ってたみたいなんですけど。

塩田 迷いましたね。数ある作品の中から何を選ぶかっていうときに、とりあえず考えるきっかけは作るわけですよね。本質的な理由は別にないんだけど、たとえば宍戸錠で行こうかな、とか考えてみる。『殺しの烙印』とか、それで行こうかなと僕も思ったわけですが、もう荻野君が『殺しの烙印』を選んじゃってたんですね。じゃあ高橋英樹系で行こうか、『刺青一代』とか『けんかえれじい』とかの世界ですよね。高橋英樹で行こうかなと思ったら、今度は黒沢さんが『けんかえれじい』を選んじゃってた。残されたのは野川由美子系かなと。『春婦伝』とか『肉体の門』とか僕非常に好きなんですけれども。しかしそれもなぁというのがあって、「塩田さんは女性ものを選ぶんですね。」というような図式になるのもイヤですし。
で、その他っていうのがあるわけですよ。その他っていうのは和田浩二その他、初期ってことですよね。じゃあ初期で行こうかなと、みなさん大変王道なところを選んでいるから、比較的見れないようなのを選ぶっていうのが一つあるよなっていう。じゃあその中から何を選ぶかっていうときにですね、今度はカラーにするか白黒にするかっていう。ここでまた迷ったんですね。2作品とも他の選者の作品が白黒だったんですよ。やっぱり清順の特色はカラーにある、とまでは言い切れないけど、白黒もいいんだけど、やっぱカラーも1本やりたいよなって。そこで『刺青一代』か『野獣の青春』に戻ろうかと思ったんだけど、それも今更だなあと思って。ビデオで観れる作品ばかり並ぶのも詰まらないし。で、まあ白黒でもいいかあと思ったときに今度はスタンダードかシネスコかっていう問題があってどっちにしようかと思ったら、他のがみんなシネスコなんですね。これはスタンダードだろうと思ったんだけど、スタンダードの作品を僕見てないということに気がついて、じゃあと思って、みなさんが多分あんまり見てなくて、僕が非常に印象に残っていて、題名が好きっていうね。『踏みはずした春』という素晴らしい題名がシネスコの横位置に並ぶのをもう一度見たいっていうそういう発想と、僕が僕なりに清順をいうものを考えてる上で何か引っかかりのある作品ではあるんですね。何かしら清順的なものがこの作品にでている。非常に清順的なものがでている一方、きわめてオーソドックスでもある。清順という監督は実はめちゃくちゃうまい監督なんだってことが分かる。と同時に、めちゃくちゃうまい監督なんだってのがあった上での『殺しの烙印』だということも分かる、という長い理由でした。

 それで、今の話の続きにいってしまってもいいんですけど、その前に『殺しの烙印』を選んだ荻野からの選考理由というのを。

荻野 はい。『殺しの烙印』はもう、別に「荻野洋一プログラム」などと名付けるまでもなく、こうした催し物のセレクションでは必須の作品でしょう。僕も『殺しの烙印』をセレクトする前に、別の二本を想定してみて、そのうちの一つが、もう大好きな『悲愁物語』だったわけですが、今回は日活作品の中から選んでくれということでしたので、これは叶いませんでした。そして、もう一つは『河内カルメン』でしたが、これには、塩田さんと黒沢さんと今回ご一緒するというお話でしたので、ちょっとした思い出が浮上してきましてね。むかし千葉の船橋で、塩田明彦による鈴木清順のセミナーがあったんですよ。

 すいません、憶えてないんですけど。

 80年代の中頃だったんですが、その時に女優像を語るというイベントが、船橋西武の上階のスペースで催されたんです。

 僕と黒沢さんでやったの?

 いえ、塩田さんお一人で。その時に、塩田さんがS.P.P.時代にお撮りになった『ファララ』という長編8ミリ映画と、『河内カルメン』が同時上映されたのです。その時の興味深い思い出話なんかをちょっとぶり返させつつ、『河内カルメン』について語りなおしてみようかなとも考えたりしました。つまり『春婦伝』『肉体の門』に連なる野川由美子系で、清順作品の中でも興行的に成功した系列です。これらの作品を見直すことで鈴木清順のものすごさがすぐにわかるということです。
ところが、鈴木清順をいうものを私たちが考えるとき、そういう『河内カルメン』的な充実感を真っ先に共有するということには多少の違和感があったんです。やはり世代的に言っても、鈴木清順という人はまず映画を撮ってくれない映画監督であるという時代に私たちは生きてしまっているという感覚があるんですね。したがって、日活の50年代後期から60年代にかけての、年間に3?4本と撮り続けていた時代の、撮影所システムがまだ比較的健康に機能していた時代の作品よりも、清順という監督が撮れなくなってしまった、そしてやっと撮ることのできた作品が『悲愁物語』だったわけですけど、これは松竹ですが、撮れなくなってしまった最大のきっかけとなる日活映画『殺しの烙印』へとちょっと回帰していくというような形で選出したわけです。

 それで、どこから話したらいいのかというのがあるんですが、塩田君のさっきの選考理由の中で、この中にも清順的なものがあるのだという部分と、塩田君が感銘を受けた部分というところから話してもらえるといいんですが。

 それを言うと、もう僕それを喋って今日終わっちゃうんですよ。ちょっとその前段階から喋っていいですか? 
とりあえず、どうやって清順と出会ったのっていう話をすると僕は一ネタあるんです。僕が鈴木清順を初めて見たのは『殺しの烙印』で、やっぱり『殺しの烙印』ではじまって『殺しの烙印』で終わるっていうぐらい、『殺しの烙印』なわけなんですよ。大学の一年か二年ぐらいの時なんです、初めて見たのは。鈴木清順という名前を知ったのも同じ頃だと記憶しています。周囲でも噂になってて、凄い人だという。で、今はなき大井武蔵野館か何かで、『殺しの烙印』、『荒野のダッチワイフ』、『毛の生えた拳銃』という身も蓋もない3本立てなんですけどね。これを見に行きまして、最初に上映された作品が『殺しの烙印』だったわけです。
この映画、みなさんもご覧になったと思いますけど、ナンバー2の殺し屋ジョーがですね、転落のきっかけになる狙撃失敗事件がありますよね。あそこでなぜ狙撃に失敗したかというと、標的を狙ったライフルの銃身に蝶が止まった。で、蝶が止まったということに関してはいろんな解釈があって、あれは蝶が視界を塞いだんで失敗したんだというのと、いやそうではない、蝶の重さ0.何々ミリグラムが弾丸の軌道を変えたという説があって、ぼくはある日、清順監督に会ったことがありまして、「清順監督、どっちなんですか?」と聞いてみたのですね。すると監督は「まあ、答えは君の中にあるね」って(笑)。やっぱり喰えない人だな、この人はと思った記憶があったりもするのですが、蝶が問題なんですよ、要するに。
僕、世の中にほんとにこういうことがあるんだなと思ったんですけど、初めて見た『殺しの烙印』でジョーの狙撃が失敗して、銃身から蝶がひらひらひらと舞ったその瞬間、画面が不意にストップモーションしたんですよ。まあ、その時点で、僕はすでにめまいのような世界に踏み込んでいまして、蝶が舞い上がったその瞬間にふわっと画面が止まったことにほとんど何の違和感もおぼえなかったんですね。こんなとこでストップモーションか、と漫然と思ってたら、次の瞬間今度は画面がダラダラと溶け始めたんですよ。あれ、フィルム溶けてるよ、すげえ演出だなあと思ってたら、フィルム燃えてたんですよ、後ろの映写室で(笑)。蝶がとまった瞬間フィルムが燃えるというね、ほぼ確実に監督の計算を越えた経験をしてしまって、驚いたわけですよ。画面真っ白になってるのに僕はしばらく演出だと思ってたんですよ。
実は映写中にフィルムが引っかかって、熱で燃えるというその燃える瞬間を見たのは生まれて初めてで、フィルムが燃えるというのはこういうことなんだとその時初めて知ったんですけどね。画面真っ白になった後、しばらくみんな演出だと思って見てて、周囲の人も誰も騒がないわけなんですよ。そのうち、「すいません、今フィルムが切れましたんでお待ち下さい」っていうアナウンスがあって、あ、切れたのかと初めて思ったんですよ。それは、もう映画そのものも驚きだったし、その体験そのものも驚きで、数分後にはフィルム繋がれて上映再開ですとなったんですけど、だからといって何が解決したわけでもなくて、さらなるめまいが続いたところで映画は終わったわけです。それはもう、何がなんだか全然分かんなかった。ただただ驚いたんですね。映画見てこんなに驚いたことはないというぐらい驚いたんですよ、その時。
で、今でこそ思うのはですね、やっぱり表現というのはいかに人を驚かすかだと。いろんな意味でね。つまり『踏みはずした春』のようにめちゃくちゃうまいというのもひとつの驚きではあるんです。で、驚くとですね、人はものを考え始める。やっぱり表現の存在理由の根幹はそこにあって、驚く、驚いた瞬間に人は何かを考え始める。そして何かを考え始めるのをやめた時にですね、鈴木清順というのは作家になるというか。考えるのをやめたときに、要するにこれが清順のスタイルなんだ、清順の美学なんだってなっちゃう。清順美学だ、何か変なことやる人なんだって。でもそれって、驚きに対して考え続けることをやめた瞬間なんですね。その時に、すべては清順の個性だと、清順の美学であって、清順の個性であって、そうやって個性的な一監督として清順は場所を得るわけですよ。収まる。その時に悪しき作家主義が始まるというのが僕の考え方なわけですね。その、作家主義の悪い面がそこで始まって、ものを考えなくなる。ところが清順について考えると常に僕はあの蝶の場面を思い起こしまして、「あれは美学ではない、あれは世界観だろう」っていう思いがずっとあるんですね。その辺のことをみなさんともお話しできればと思うんですけど。

 例えばほら、荻野なんかは、今回のチラシのコメントの中で、頭を下げるしかないっていう風に書いてるわけじゃないですか。頭を下げるっていう下げ方と、今の塩田君が言った、考えるのをやめるって言うのとは、違うとは思うんだけれども。

 いや、まったく同じ意味合いだと思うんです。

 まあ、同じだと僕は、荻野君の文章読んで思いましたけど。美学だから個性だからで済まないものを感じちゃうわけでしょ。

 そうですね、ただ具体的な補足をすれば、鈴木清順という人は、黒沢さんや塩田さんもあるいはそうかもしれないんですけど、映画志望だった少年たち、つまり僕たちが、模範にすべき対象の一番最上段の近くにいる人で、何とかこれを真似してやろう、これをこんな風な形で、何か表現できたらいいなというところの、正直な話「手頃なモデル」としてあったと思うんです。黒澤明を模範にするというのはちょっと「違うな」って当時考えたわけです。ところがそういう気分の中で、鈴木清順みたいなことをある8ミリ少年がやってみて、その時に初めて気づかされる、自らの愚かさというんですかね。それは恐らく、所詮ナルシシズムの裏返しだと思いますけれど、そういった限界性に気づかされるという意味合いもちょっと含んでいるんですけどね。ちょっと違う意味にずれてしまうことですが。

 昨日から『けんかえれじい』『殺しの烙印』『踏みはずした春』と3本続けて見て思ったのは、さっき荻野が言った映画を撮らない監督として鈴木清順という人がいて、『悲愁物語』でやっと再び撮り始めた、ちょうどそれくらいから見始めた監督達――まあ塩田君もそうだけど――いろんな人たちがいると思うんですけど、その人たちの作品の中に全部、鈴木清順がいるというようなことですね。逆に言えば、鈴木清順という人は、ある年代以降の監督達のすべてを既に含んでいるだなあというのを改めて分かったっていう感じがしたんです。まあ、黒沢さんがコメントの中で、最初の作品、最初の映画って言ってたんでしたっけ、映画の始まりみたいな映画であるっていう風に書いていたと思うんですが、だから余計、今の日本映画の源にあるのかなあというような感じさえ受けてしまいました。まあそうなるとやっぱり頭を下げざるを得ないなあっていう感じでもあったんですけどね。

 今の日本で映画撮ってる人で、清順監督に一番近い人って、僕は黒沢清だろうなって思うんです。僕は先程『回路』と『ギプス』の予告編が並べられて上映されたときには、黒沢清と同世代に生きてることを真剣に呪いましたけどね。鈴木清順を見直すとやっぱりねえ、かつてこれを目指すべきだと思った俺は馬鹿であって、なり得ないものになろうとしてはいけないっていう感じを強く持つ。まさにその、荻野君のコメント読んだときにね、人は清順の前で平等になるっていう。それって、おまえは並であるって突きつけられちゃうことの衝撃なんですよね。だから僕は鈴木清順にいてもらっては困る。僕が今やってることは、率直に言って、遙か彼方に『踏みはずした春』を見ているんだけれども、それは始まりに過ぎなかったっていう世界だから、鈴木清順はほんとに抹殺されて欲しいというのがあるんですよ、僕の中には。ちょっとこの人やばいよねっていう。
というのは、鈴木清順という人は『踏みはずした春』をご覧になった方にはお判りのように、一般的な娯楽映画を実にうまく作れる人であるにも関わらず、実は全然別のことを考えているんですよね。鈴木清順がいるっていうことは「あんたそんなことやってるけど、ぜんぜん違ったことが映画には許されてるんだよ」っていうことを常に突きつけられるということなわけです。何をやっても、「きみそれは、いまここの論理でしかないんだよ、こっち来れば別の論理がある」っていうようなことを突きつけてくるのが清順監督で、「所詮、君は人間だね」って言われちゃうわけです。「所詮、君は人間ね。でもね人間じゃない世界もあるんだよ」っていうのが黒沢清なんですよ。と同時に高橋洋でもあるんですけど。
すごい抽象的な言い方をするとね、鈴木清順という人には比喩がないんですよ。それはどういうことかと言うと、『殺しの烙印』のような映画を作るとき、「殺し屋の世界はまるで悪夢のようである」とは、この人絶対言わない。「まるで何々のようである」みたいな比喩は、「そんなもの所詮、人間側の発想だよね、そうじゃないんだよね」っていう。そうじゃない、文字通り「悪夢なんだ」というのが清順。その上で「どんな悪夢?」「こんな悪夢」っていうのが清順なわけで、それはもう「まるで悪夢のようである」みたいな柔な発想じゃないわけなんですよ。「『殺しの烙印』悪夢です」で終わる。この徹底性だと思うんですよね、清順監督が怖いのは。それは悪夢なんですよ、で、どんな悪夢かが問題だろうと。それはこんな悪夢ですっていう風に鈴木清順は『殺しの烙印』を撮りあげてみせる。まさに「これがナンバー1のやり方だ」っていう感じでひとつの世界を作り上げてみせる。これが清順のやり方だっていうようなことだと思うんです。それをやられてしまうとですね、僕らやっぱり立つ瀬がない。というか、結論出されちゃったという感じがしちゃうんですよ。

 今の話で言うと、多分その悪夢っていう意味合いで出してきたのは、『殺しの烙印』以降なんじゃないかっていう気もするんですよ。『けんかえれじい』以前というのは、脚本家というのがばらばらじゃないですか。多分二本ぐらい書いた人もいるんだろうと思うんですが、それも多分撮影所のローテンションか何かで、だからそれ以前の作品で、清順と誰それみたいなセットで考えられるような脚本家というのは全然いないですよね。まあ、木村威夫さんがかなり脚本に加わっていたということがあるにはあるんですが、ただ、『殺しの烙印』以降脚本家が、「鈴木清順」っていうのを意識して脚本を書き始めてるっていう感じがするんですよ。ただ脚本家といっても、大和屋竺、田中陽造という名前は挙がるものの、木村威夫さんや清順さん自身もかかわっているんで、「脚本家」という実態があるのかどうかもちょっと不明なんですが。とりあえずその曖昧な存在を「脚本家」と言ってしまえば、脚本家が「鈴木清順」というのを意識し始めて、いわば鈴木清順のそれまでの映画というのを、まあ精神分析みたいな感じで、脚本の中に入れ始めて以降、鈴木清順の映画のレベルというか地平がちょっと変わってきたなっていう。そう思うんですが。塩田君が今言ったのは、『殺しの烙印』以降の、ギアチェンジして以降の事なんじゃないかなっていう。あるいは、塩田君が今言ったようなことを意識的に映画の中に取り入れ始めたのが、『殺しの烙印』以降のことではないかと。

 今の話でひとつ補足しておきますと、悪夢が問題なんじゃなくて、比喩がない、文字通りである、ということの徹底性が問題なんですけどね。ただ樋口さんの話を受けるかたちで話を進めますと、結局「具流八郎」、つまりは大和屋竺、田中陽造、曽根中生その他の人々の精神分析は実に本質をついていたと僕は思うんです。そのポイントはいくつかあるんですけれども、結局比喩じゃないんだというのは、要は人間の否定なわけです。人間主義の否定であって、要するに人間機械になるっていうね、清順にはいわゆる人間を描こうという意志はないわけですよ。人間を描くことで、自分に見えている世界が描けるとは思っていないんだと思います。実際、人間を否定したところで見えてくる世界というのが世の中には確実に存在するわけですよね。
これもまた極論なんですけど、清順というのは本質的にフォルマリストだなあって、僕は思うんです。例えばですね、大和屋竺なりなんなりが、鈴木清順のこれまでの映画を精神分析して映画を作ったときに、彼らは旅館に閉じこめられてほんの二週間かそこらで『殺しの烙印』のホン書いているんだけど、具体的に清順映画はどうこうと理論的に思考したわけではもちろんなく、なかば無意識のうちにやっているにもかかわらず、彼らは清順映画の本質を突いたわけです。推察ですけど。で、そのポイントは何かというと、例えば人間把握の問題があるわけです。人間をどういう風に描くのというときに、『殺しの烙印』のジョーって、「ご飯の炊ける匂いの好きな殺し屋」なわけです。それって人間について何を語ってるの? という話なわけですよ。通常の作劇上やるようなレベルでのキャラクター設定をもう、放棄してる。確信犯的に放棄してるんですよ。まあ、あのアイデア自体は清順監督の友人にガソリンの匂いがたまらないほど好きで、ガソリンの匂い嗅ぎすぎて死んじゃった人がいたっていう実話からきているらしいんですけどね。
それはともかく鈴木清順の映画の主人公って基本的に、内面が空っぽなんですよ。その空っぽであるということを徹底してて、それがまた黒沢さんに通じるんだけど、空っぽなんだよっていう。どういう風にキャラクターを設定するっていうのがない。どういう風に設定するのっていったら、いっそ「謎の女」とかでいいっていう。脇役はまだそれでもキャラクターがあるんだけど、主人公はないんですよ。飯の匂いが好きだとでもしとかないとこの人なんなのか分かんないっていう。それは要するに「ナンバー2」という場なんですよね。ただ「ナンバー2」という場があるという。
例えば『殺しの烙印』のラストで、後楽園ホールのリングで、ボクシングの試合会場で、殺し屋が闘うんだけど、それはどういう風な考え方かって言うと、ボクシングというスポーツが例えばある。その時にそれぞれの人間たちにそれぞれのドラマがあって、そこで勝ち負けが決まり、栄光と悲惨があり、涙あり人生あり、これは普通の人間ドラマ、人間主義ですよね。そうではない、鈴木清順はリングを見てる。つまり、そんなもの入れ替わり可能でしょ、ということ。毎年、毎月ここで試合があって、勝ったり負けたりしてるんだと。で、終わるでしょ、リングが残ってるよねっていうのが、『殺しの烙印』なんですよ。それは要するに、ナンバー2っていうのは、あるいはナンバー1もナンバー3もナンバー4も、みんな場所なんですよ。場所にいる人なんですよ。役割といってもいい。そんな風にしか人間を捉えてない。それが鈴木清順の本質であって、その感じっていうのが、内面が空っぽなんだっていう。私は役割よっていうのが、左幸子。『踏みはずした春』の。
脚本家はどんどん変わってるのに、明らかにそういう一貫性があるというのが鈴木清順の作家性なんですよ。脚本をどういう風に捉えていくかというとき、何かしら、清順の人間把握によって脚本家が一生懸命作った人物像が変形されているのではないか。僕は脚本を読んだわけではないので断言はできないわけですけど。それでも脚本家が別になっても結果が似てくるとしたら、原因はやはり監督にあると考えざるをえないだろうと。
で、『踏みはずした春』の左幸子なんですけど、ここでひとつ注意したいのは、この善意で必死に若い不良少年を更生させようという左幸子のキャラクターが、「こんなのばかばかしいよ、偽善だよ」ってな感じで、清順がアイロニカルに笑いにもっていってるとは僕は思わないんです。鈴木清順は絶対本気で撮ってる、この映画。左幸子に絶対興味持ってる。内面空っぽな人が自分の外にある論理、外在的に存在する論理に自分を従わせる。彼女は善意で一生懸命BBSという運動をやろうとしてるんだけれども、ではこの人はなぜBBSなのということの動機は何にもないんですよね。そんなもの描かれてないし、詮索しても無駄だよねって。ただ自分の外にひとつの論理があって、自分はその論理に従ってるんだっていう感じじゃないですか。この映画、最後はハッピーエンドなんですよね。目的に成功したんですよね、左幸子はね。ちゃんと更生させちゃったっていう。で、こうフッてしゃがみ込むんだけども、絵に描いたように笑って立ち上がって去っていくっていうラストを僕は好きでしょうがないんですが。
それはともかくとして、こうした左幸子的な人間把握というのは『けんかえれじい』のキロク、高橋英樹演じるところのキロクという青年にもどこか通じるものがある。この青年ってのが実は内面あるようで空っぽな感じがするんですよ。映画の前半、キロクというのはほとんど自分の意志で動いてないわけです。ある時は年期の入った先輩不良青年スッポンの言葉に従い、またある時は別の不良グループのリーダー・タクアンの言葉に従い、キリスト教徒たる下宿先のヒロインに従い、ヒロインを通じて知ったらしいイエス・キリストの言葉に従う。これはもう「文字通り」に従うわけで、具体的な細部に関しては映画を見た方ならお判りかと思うので省略しますけど、要はキロクという人物が複数の人から与えられた指示=言葉を本当に「文字通り」に実行するというのが映画の前半部分の基本的なドラマの流れを作り、見せ場を作り、ギャグを作っている。で、映画の最後は北一輝という人物と袖摺り合わせたキロクが東京ではいまこことは全く別の何やら凶暴な論理がうごめていることを直感して列車に飛び乗るところで終わるわけです。そういうキロクの「文字通り」っていう徹底性、それは先程言った比喩のなさっていうのともリンクしてくるし、場としての人物像というのもリンクしてくるのではないか。
なんというのでしょう。ちょっと整理しますと、内面の空っぽな人間がいて、その人物像を場に還元していく、そういう世界の掴まえ方。それは別の言い方をするなら世界の構造をつかむということですよね。その構造というのはこの世界の構造であったり、向こうの世界の構造であったりするわけですけど、『殺しの烙印』というのは一見向こうの世界の構造にみえて実はこの世界の構造でもあるっていうことではないか。そういう意味ではこれまた極論になるわけですけど、清順は実は構造主義者でもあるっていうね(笑)。先程、僕が清順のことをフォルマリストって呼んだのも、まあ同じような意味合いにおいての話なわけですけど。

 フォルマリストということを画面の形式につなげて考えると、『踏みはずした春』ではむちゃくちゃ奥行きをつけた画面を作っているわけですよね。この奥行きのあるシネスコの画面が、どんどんどんどん『夢二』の二次元の空間へと変わっていくっていう流れとして、鈴木清順の画面の歴史を捉えられるのかなとも思うんですけど。だとするとその、鈴木清順の中で、『踏みはずした春』ような奥行きの深い映画を撮ってたところから、二次元の世界へ突入していく部分っていうのはどういうところにあったのかなと。

 いま塩田さんに解説していただいた、極度の、純粋なと言ってもいい形式主義ですね。その形式主義が徹底的に押し推められた結果、ちょっと逆説的な形で、人間的ではあらざる人間性みたいなものがこう、ちらっと垣間見られるはしませんかね。そういうスリルが、たとえば『殺しの烙印』あたりにも漂っているんです。フィルムに映っている物の奥行きは限りなく平面化されていくんだけれども、却ってそのことで平面の非平面性みたいなものが現れる。ラストシーンでは後楽園の四角いリングがあって、客席の入場口から、ヒロインの真理アンヌが入ってくる。これはギプス姿なんですけど、すぐに、錯乱した宍戸錠にパーンとあっけなく撃たれてしまうわけですね。その時の彼女のほとんどマリオネットのような、自動人形のような入場の仕方、倒れ方、そして無表情な死に顔ってものが、ちょっと月並みな言い方だけれども、ある種の哀感っていうですかね。そんなものがそこに現出されていていたと感じるんです。

 僕は大学生の時に『殺しの烙印』を見て、真理アンヌには燃えましたね(笑)。実は哀感も感じたような気もするんだけど、今見直すとあまり感じないんですよね。大和屋竺のエッセイ(「マリちゃんと拳銃」『悪魔に委ねよ』ワイズ出版所収)とか読むと、初稿では真理アンヌは火であぶられて死んだはずだったんですね。ところがプロデューサーが、真理アンヌは殺すなって。最後に持ってきて真理アンヌにちゃんと芝居を作れという指示がプロデューサーの方からあって、大和屋さんとかは、それを受けて無理やり書き直した。でも真理アンヌは途中で死んだんだから、それを生き返らしてラストに持ってきたら、構成壊れるし、どうしようかって、大和屋竺と田中陽造があれこれ話し合ったわけです。で、ラストに真理アンヌを出すっていうのは要するにメロドラマをやれっていうことだと、大和屋さんたちは確認しあっている。その意味では荻野君や僕がそこに哀感を感じたというのは、大和屋さんたち脚本家がプロデューサーの狙いを受けて直した、その結果なのだという捉え方もできますよね。
ただここで面白いのは、脚本家たちがどういう理由付けで真理アンヌを生き返らせたかというと、要するに「お化け」だと。お化けなんですよ、あれは。生きてようが死んでようがかまわない、とにかく出て来るんだっていう。それでいいんだっていう世界把握って何なんでしょうね。僕にはそこがうまく言葉にできない。『踏みはずした春』はキャラクターのレベルにおいて、人物描写のレベルにおいて何かしら清順的なものが出てきている。それは多分、脚本家が精魂込めて書いたホンを一旦突き放して、自分なりの角度から読み直したところからくる登場人物の空っぽさだと思うんですね。それ以外はきわめてオーソドックスに作られていて。
『踏みはずした春』の中で雨が降りますよね。クライマックスで雨の中、小林旭が格闘する。俺は二度と喧嘩はしない、好きなあの娘のためにも更正するぜと誓った小林旭だったのにっていう場面でざあざあと雨が降ってくる。あれは要するに情緒を盛り上げる雨ですよ。やっぱりここで雨降るよねっていう映画における最も正しい雨の降り方。やっぱりここで濡れた地面を小林旭は這うっていう。それは盛り上がるよねっていう。一方、『殺しの烙印』はどうかというと、一仕事終えた殺し屋、次のカット雨がザー。視界を遮られた抽象的な場所で真理アンヌ登場。で、そのうち線で書いた雨まで降るっていう(笑)。なんですか?っていう。映画史上最も間違った雨の降り方をしてるっていうね。その意味では、『踏みはずした春』から『殺しの烙印』に至る過程の中に、ひとつの転換なり飛躍なりを見ることは間違いではないと思いますけど。

 ただ、今塩田君が言った『殺しの烙印』の雨への繋がりっていう意味では、ちょっと面白いシーンがあります。今日気がついた方はいるかもしれないんですけど、小林旭が就職しようとしてお母さんの勤めている会社の社長に会いに行った時に社長と話をしていて、社長が「君はけんか以外に何ができるのかね?」って質問をしているシーンなんですが、カメラが小林旭の背中の方から、社長をずっとフィックスで捉えていて、でもその会話の中でカタカタカタカタずっと音が鳴っているんですね。何なのかな、小林旭がいらいらして貧乏ゆすりでもしている音なのかと最初は思うんだけど、しばらく聞いているうちにこれはまあ、小林旭の背後にある事務室のタイプライターの音だろうっていうことに気が付く。それ以外に考えられないよねっていうところで、カットが切り替わって、カメラが今度は社長の方に行って、小林旭の顔を正面から捉える。そして向こうの方に事務室が見えると、カットが変わった時点でその事務員がタイプライターを打ち終わっちゃっていて、音がパッと消えている。つまり、こうやって説明をすると、無駄のない奥行きのつけ方のようにも思えるんですが、ただ、最後までその音の所在は明らかではないんですね。それがタイプライターの音だなんて、一体誰が決めたのっていうこともまったく問題なく言える。そういうなんか、妙な混乱のさせ方は、『殺しの烙印』の世界観の見せ方へと繋がっていくと思うんです。

 先程、樋口さんに指摘されるまで僕はそれに気づいていませんでした。でも、確かにそういうディテールの遊びの次元でね、実は変なことやりながらも、全編王道の娯楽作品として『踏みはずした春』は仕上がっている。それは普通のうまい以上にうまいということなんでしょうね。

 だからまあ、塩田君がこの作品を選んだのはよく分かるなあと思いながら見てたんだけど。一体どこで、「塩田君がこの作品を選んだのはよくわかる」と思えたのかというと、要するに『どこまでも行こう』なんですけど、この映画の坂の多さなんですね。もうそこかしこで、思いっきり坂のある場所ばかり選んで。その高さと低さの関係が、最後の平坦な道へと向かっていく。つまり、小林旭と左幸子の人間関係が、高低の関係から平らな関係へとたどり着いたところで終わるという物語が、もうこれ見よがしに画面の構図の中に現れていて、しかもそれが嫌味なものになっていない。

 清順の映画でロケーションに魅せられるってのも楽しいですよね。つい奇抜な舞台装置にばかり驚いちゃうけど。

 街の風俗がこんなに出てくる清順映画っていうのも。

 当時の渋谷から代官山にかけてですよね。いや、見てるだけで楽しいですよね、あれ。

 『踏みはずした春』は1958年の作品ですよね。樋口さんからは、清順のそうした非常に個性的な混乱の呼び寄せ方の一貫性が、後年の『殺しの烙印』にまで繋がっているというお話を伺いました。しかしただ、作品の一番皮相のレベルでいえば、明らかに健康に作られた撮影所の映画ではありますよね。先ほど控え室で松本正道さんからご指摘でいただいたんですが、おそらくニコラス・レイの『理由なき反抗』の日本公開が56年にあって、それを見てからこの作品の発想源みたいなものが出てきたのではないかというようなご推察をなさっていました。

 題材というより、撮り方においてですよね。

 そうですね。作品のサイズとの関連性もあると思います。

 一応、原作があるわけだし。

 僕は塩田君が選ぶまで、『踏みはずした春』を見ていなくて、とにかくビデオでみたんですね。で、さっきのクライマックスの雨のシーンで、小林旭が殴られてたおれるところ。そのとき、道路になんだかよく分からないんだけれども――多分下水道なのか、とになく溝があって、その上に網が置いてある。それが、なんだか道路から幾分高くなっているのが異様なんですが、その上に殴られた小林旭がダーンと倒れると、今度はカメラがいきなり溝の中に入って、網越しに下から見上げるっていう。それが今日スクリーンで見ると、もう、やはり思い切りかっこいいことはかっこいいんだけど、小林旭の足の方から顔の方を見上げて撮ってたんですね。ビデオで見た記憶では、正面から、顔の下のほうから撮ってたという記憶があって、これはニコラス・レイじゃないかと、『理由なき反抗』じゃないかと思っていたんです。でもそれはもう勝手に俺が作ってたみたいで、今日見直したらちょっと違ったなあと。

 先程、事務所の方で、荻野君とアテネの松本さんが話してたのも、シネスコの映画なんだけれども非常に奥行きを作って画面を作ってるっていう。そこがニコラス・レイの感じに近いって話だったよね。

 小林旭が婦女暴行の容疑で留置されている建物内の、面会室での奥行きの付け方、縦構図の作り方なんかにちょっとした共通点あるんじゃないか、なんて話をしていました。しかし、この奥行きは登場人物を過不足なく説明する空間把握の一環としてあるのではありません。ニコラス・レイよりも、リチャード・ブルックスが演出する犯罪者の悔恨のシーンで浮き上がる雄弁さと比較すると、その差異がもっと際だってくるでしょう。
逆に塩田さんに伺いたいのは、清順の清順的な平面性というんでしょうかね、非人間性っていうものが、先天的に現れたのか、あるいは、彼自身が語っているように戦争体験によるものなのか、あるいはたくさんの作品を作っていく中で徐々に研ぎ澄まされていったものなのかというあたりをどんな風にご推察なさっていますか?

 あの、僕は先天的な、精神科医じゃないから分かんないんだけど、先天的なものだろうと。要するに、先天的なものがないと、戦争行ったって反応人さまざまだということだと思うんですよ。僕は清順の戦争体験そんなに知らないし、ある体験を作風に還元することに関しては慎重でなきゃいけないと思うんだけど、こういう場だから当てずっぽうで言いますけど、清順が海軍だったっていうのは大きいだろうなと思いますね。地上戦やってないっていうね。
大和屋竺っていう人は子供の頃、北海道で戦中・戦後を体験した人なんだけど、炭坑町に住んでて、戦争が終わって。これは大和屋さんが清順監督との対談の中で語っていることですけど(「無頼と恐怖」前掲書所収)、大和屋さんが暮らしていた炭坑町では戦時中、強制連行で連れてこられた中国人の捕虜たちがもうめちゃくちゃな目にあってきたわけですよ。それが日本の敗戦によって一気に転覆して、いきなり民族闘争の嵐が吹き荒れたわけです、その炭坑町に。解放された中国人たちは大和屋家にもやってきて、おまえの家族の女を強姦するって宣言するわけです。で、俺たちはなぜおまえたちの家の女たちを犯すのか、その必然性を滔々と語るっていうね。中国人がね。要するに欲望でやるんじゃないっていう。論理としては。そういう、この地上でいきなり世界がひっくり返って、人間同士がせっぱ詰まるということの怖さの根源が大和屋竺にはあるわけですけど、清順という人はやっぱりそうじゃないという気がする。だだっ広い海原で船に乗ってたら空の向こうから何かが飛んできて爆弾落とされたと。気がついたら自分は海の中っていうような戦争体験ですよね、あの人は。
そこで僕が非常に面白いと思うのは、やっぱり清順という人はフォルマリストなんだなあと思うのは、とにかくおかしくてしょうがなかったと。笑いが止まらなかったといったことを言うわけです。確か「季刊フィルム」という雑誌の69年2月号に載ったインタビューの中で言ってたんですけど。そういう状況下で笑うっていうのも先天的なことだと思うんだけど、そのとき清順が何を語ってるかというと、空から爆弾落ちてきて、船の上で人が逃げまどってるんだけど、逃げるという目的は一つである。ところが、みんなそれぞれてんでバラバラな動きしてるんだという。目的一つなのにてんでバラバラな動きをしてるのがおかしくてしょうがないんだっていってるのは、これは清順の世界観だと思うんですよ、僕は。
清順は同じようなことを別のところでも語ってて、これは先程の大和屋さんとの対談の中で喋ってるんだけど、飛行機というのはいろいろな形がある、戦闘機の目的は速く飛ぶことなんだ、目的は一つだと。ところが日本は零戦になってアメリカはグラマンになって、ドイツはメッサーシュミットになるんだと、形状が全然違う。たった一つの目的を目指してるのに、なんてこう形状が変わるんだと、唯一絶対の正解を求めたら一つの結論になるはずじゃないかと。この形の違いは何かというと、それは精神でしかないだろう。民族性でも何でもいい、精神だろうと清順は言うわけです。清順はこれなんですよ。つまり形にならない精神性は信用しない。形になるものだけが彼の信頼するものであるっていう意味で唯物論者であり、フォルマリストであって。
あの人は先程のインタビューの中で、原日本人みたいなものを最近考えているんだみたいなことも言ってるんですけどね。日本人は大昔には肉食だったんだよと、で、肉食すると人間の目は青くなるんですよ、とか言うわけです。理屈はないんですよ。ただ肉食だと目が青くなると断定するわけです、あの人。要するに目が青くなんないと、草食文化といわれている日本人が実は肉食だったんだということの精神性が具体的なカタチとしてでてこない。清順はその話を構想中の映画の企画としてとして語っているみたいなんですけど、青い目の人間だから、映画のあいだじゅう空ずっと晴れてて真っ青なんだっていう(笑)。それで最後だけがオレンジ色になる、それは要するに原爆のイメージなんだと(笑)。たぶん理屈はないんだけど、原爆はオレンジなんですよ。要するにオレンジという具体的なカタチになってこその概念であり精神ということです。大島渚なんかを凄い批判するときは、精神だ何だといったってそれ、どういう形になってるのというような感じじゃないですか。
そういう一種のフォルマリストで構造主義者みたいな人のことを考えたときに、僕は決して思想的な世界に詳しい人間じゃないですけど、いわゆる構造主義というものを問題にするとき、何が問題になるかっていうと、構造主義的な思考の中では時間が消えるといいますよね。良くも悪くも時間の流れというものを括弧に括ったところで見えてくる世界のありようを構造主義は掴もうとしているって。その点を少し考えてみると、『踏みはずした春』という映画はきわめて滑らかに時間が流れていて、とある不良少年が時の流れと共に紆余曲折を経て、やがて更生するという話なんだけど、『殺しの烙印』にいっちゃうと、『けんかえれじい』もある程度そうなんだけど、『殺しの烙印』にいっちゃうと時間が消えてる。いつどこで誰がどうなってということではなくて、ただ時間が止まったような世界で、ポンポンポンとただ空間が移動していってるっていう感じがしますよね。
『殺しの烙印』の冒頭、運転手になった相棒がいるじゃないですか、一緒に仕事を引き受ける。あの男がどういう人間かというと、酒と女で殺し屋のランキングから脱落したという人なんですよね(笑)。それっていわゆる人物設定、性格設定じゃないんですよ。殺し屋って殺し屋として生きるか、酒と女で身を持ち崩すしかないわけです。宍戸錠はどうなるかっていうと、これまた酒と女で身を持ち崩すんですよ。要するに時間が流れたのではなくて、ただ反復があるんですよね。事が反復してくんだっていう。それが鈴木清順なんですよ。
時間というのは情緒だから、時間が流れていく中に情緒がある。ところが情緒切ったら反復しかないんですよ。それが世界だろうという考え方だろうと、鈴木清順は。それは、今日も明日もボクシングやってるさみたいなものと同じ発想。時間が消えるというのが鈴木清順の映画の大きな、『東京流れ者』とかもそれはそうだと思うんだけど、時間が消えて反復する。その中で人間は一つの場であるっていう。それは先程の大和屋竺という人がやはり戦中から戦後に至る混乱の中で作家としての世界観を培った人だとしたら、清順というのは戦前、戦中、戦後という激動の時代を生き抜いてきて、そこに歴史的な変化というよりは、ある反復を見てきた人なのではないかという気がするわけです。この人は時を経ても変わらない何かをみている。精神構造にしても社会構造にしても、第二次世界大戦というあれだけの出来事があったにも関わらず、本質的なところで変化できなかった物事のありようをみているという気がします。だから戦前の不良少年の話だろうと、戦後の不良少年の話だろうと、同じような人物把握、同じような世界把握で映画を撮ることができるのではないか。
世界を構造として掴むということでいえば、登場人物の内面の空っぽさというのが清順映画においていかに具体的なカタチになってるかってのをここで考えてみると、『殺しの烙印』の宍戸錠って、よく喋るでしょう。宍戸錠に限らず、清順の映画の主人公って本当によく喋るんですけど、この、よく喋るっていうのは内面がないからよく喋るんであって、内面ある人は喋らないんですよ。たけしの映画見ればよく分かるんだけど、たけしの映画って内面だらけじゃないですか、喋らないから。内面がないから「ナンバー1は誰だ!?」とか言ってられるんですよね。場でしかない。
映画後半の宍戸錠は作劇上の設定としてはやはり命を狙われていることに怯えていると解釈するのが一般的だと思いますけど、どうもそれだけじゃない感じがするんですよね。自分は空っぽだと、何者でもないという。ナンバー2という唯一のよりどころが揺らいだ瞬間に、自分が何者でもないっていうことに戸惑ってる。慌てふためいてる。 そんな何者でもなさを規定してくるのは、これは構造ですよね。だから宍戸錠が助かるためにはこの構造から脱出しなくてはならない。構造を論理と言い換えてもいいと思うんだけど、殺し屋世界の論理から逃げちゃえばいいんですよね。理論的には。でも、逃げられない。存在そのものが論理と構造に拘束されてるから。それで、最後の最後になって宍戸錠は気づくわけです。いや逃げなくてもいい。むしろ構造の中心に行けばいいんだと思いつく。それが「俺がナンバー1になってもいいんだ!」という台詞の意味ではないのか。
それって、あくまで構造の中で何かが動いてるっていう話であって、人間が苦労したけど、改心して成長しましたとか、ある熾烈な体験があって得るものがありましたとかね、そういうことではないわけですよ。成長もへったくれもない、なんにもないっていう。物事はただ反復していくのだっていう視点。それは戦争体験を通して世界観を激変させたというよりは、戦前から戦後を通して、望むと望まずとに関わらず同じ世界観でしかいられなかった人のベシミズムと、そのペシミズムを突き抜けた果ての空っぽな明るさ、というかね。それはなにかこう、太平洋のど真ん中に船から放り出されて、空にはグラマン飛んでて逃げまどってるっていうのを見て、大笑いしている人の感覚に通じるのかなという気はしますけど。かなり無理なこじつけですけど。

 今の太平洋のど真ん中の話を、実際の映画の画面に結びつけると、清順映画では極端なロングというのがすごく目立つのね。『踏みはずした春』でも、あれはどのあたりでしょうか、何車線かの電車の線路が走っていて、その向こう側を歩いている二人を撮っているシーンがあったんですが、線路が相当広いんで、向こうの二人が凄く小さく見えるんですね。広い国の映画だったら別だけど、日本みたいな狭い国で、しかも普通の町の中のシーンでそれをやるというのは、相当意識的でないとできないと思う。

 代官山の、たぶん並木橋陸橋の下の線路っぷちを、山手線を挟んでこっちから狙ってるカットですよね。現在とあまり変化しない風景ですね、あそこは。

 ええ、もうぽつんとしか見えない二人っていう、その距離の取り方が、「太平洋のど真ん中」の世界観なのかなと。ただ、今の『殺しの烙印』の話でいうと、今塩田君が言ったのはやっぱり鈴木清順を見た人の物語がそうなっているということだと思うんだよね。鈴木清順の映画を見た人によって、鈴木清順という人がどんどん膨らんでいくというか。そしてそれをさらにまた、鈴木清順は映画にしてしまうという。要は集合があって、集合の中にあるものなのに外にあるものでもあるというような「鈴木清順」という存在の仕方。そういう形で『殺しの烙印』以降は撮っている感じがするんですよね。

 同時代の映画作家にたとえば大島渚がいますが、彼なんかは映画監督の人生の物語というものが、意識的かどうか分からないけれども非常に分かりやすい形で提示されてますよね。作品の集合と人生の集合がすっかり符合しています。まず松竹大船における反逆の4作というものがあって、次に独立プロダクションでのさまざまな挑戦と共同戦線があり、そして今は、これはあくまで仮定上の評価だけれども、ある種の撮影所的なメティエとのリコンシリエーションが成立していくというような生の物語です。だから逆に今、大島渚は清順とそっくりなことを言うわけですよ。人間性なんてものはもうどうでもいい、社会、民族、国家もいらない、個と宇宙があるだけだなんてことを最近の大島は言うわけです。ただまあ大島の場合、清順の先天的な形式主義的な世界観とは違って、後天的に個と世界との交わりについてその中間項をとばすというようなものの考え方を、論理的に体得していった人だと思います。
鈴木清順の場合は、集合性ということで言えば毎作品で反復が起きてるわけで、どうしても映画ファンのあいだで清順の映画を語るときには、先ほど塩田さんがおっしゃったように、清順の映画はこうであるというようなスタイルの問題を語ることによって何かを語った気になってしまう。それより遠くのことを何か言おうとしても、どこかで齟齬をきたしてしまうというような不可思議な回路を持った映画作家です。『陽炎座』以後の清順映画は単なるパロディではないのだということを何とかして言いたい。でも、それを誰もちゃんと言えていないと思います。

 清順がフォルマリストだっていうことの意味を文字通りに受け取るなら、STYLE TO KILLっていうことのスタイルとは、イコール世界観なんだっていう。それはスタイルまんまじゃなくて、精神なり概念なりヴィジョンなりの形象化ってことなんだと。そう考えてみたいわけです。僕、大島渚の映画はそんなに見てないんですけど、僕はどっちかっていうと清順にいっちゃった人で大島渚にいった人ではないんですけど、大島渚も時々見るとやっぱものすごい人なわけですよね。あの人もものすごい人だっていうこともちゃんと言っておかなければいけないのかもしれない。
これもものすごく乱暴な言い方になるから、こういう場でしか言えないのかもしれないけど、大島渚っていうのは文化の中で最良のものを作ろうとしているっていう感じがするんですね。あの人の語る政治なりなんなりっていうのはやっぱり文化の問題だと思うんですよ。一方、鈴木清順は文化なんかどうでもいいと思ってるっていう感じがするんですよ。文化の問題を語った瞬間、その言説は否応もなく人間主義になるんだっていう。でも、そうではない世界が俺には見えているのだっていう。世界イコール文化ではない、常に別の何かがあることを忘れるなって言ってる気がする。つまり大島渚は本気で「いまここ」を善くしようとしてる。清順は外側から人間はこれまで常に「いまここ」を善くしようとして生きてきたといって見ているっていう感じがするんですけどね。

 お二人の話を聞いてるうちにすでにある程度は克服された問題なのかもしれませんけど、鈴木清順の映画もどこかで文化というものと手を結んでいき、清順自体はそうじゃなくても、映画界全体が寄ってたかって清順的な文化というものを捏造してしまいました。この捏造の時代は、清順を作家として顕揚していこうという時代ですが、これは、逆に清順が縦横無尽に自作を出していけない時代とちょうど重なっています。

 だから作家主義って、やっぱり文化なんだよね。で、文化は何を求めるかっていうと、最近僕もちょこちょこ海外映画祭行くようになってよく分かってきたんだけど、文化っていうのは監督にオピニオンリーダーであることを求めるわけですよ。清順監督はそれを拒否してる。絶対まともに答えないわけでしょう。ぼくが『どこまでも行こう』っていう映画を撮ると、行く先々の国々で「あなたの子供に対する意見を聞かして下さい」「あなたの教育に対する意見を聞かせて下さい」「現代日本の少年問題をあなたはどのように考えるか」「解決策は何か」と問うてくる。僕も文化に属しているので考えはするし、答えもするわけだけど、なるほどこれが作家主義だよなって。
要するに一文化人としての役割を作家に求めてるんですよ。実際、大島渚だってテレビのコメンテーターになったわけです。そういうことではないのか。だから清順なら清順という名前を作家主義として特権化した瞬間、即座に文化としての作家主義みたいなものが成立しちゃって、その原初にあったはずの驚き、言葉にしえない驚きというものがどこかに消え去る。でもって、清順のやることすべては清順的なスタイルとして善いことだ、清順の個性なんだ、他の何ものにも代え難い個性なんだと。
だけど僕は世界観というのは個性だとは思わないんですよ。世界観というものをそんな小さなところに収めるのは文化でしかない。だから僕はどちらかというと反=作家主義的な心構えだし、そうありたいと思っているわけです。自分の撮ってる映画は棚に上げて喋ってるんですけどね、気持ちとしてはそういう世界観でいたいと思ってるんですけど、清順は黙っていて喋らない、何か隠している。隠しているものを掘り起こさねばってますます批評家は使命を感じて、清順さんほんとのことを言って下さいって。それが文化だろって、なにか隠してるものを掘り起こそうとするのがそれが文化だって清順はきっと思ってるっていう感じじゃないのかなあ。大島渚はそこで実はこうなんだって答えるっていう。

 僕は今の意味合いでの作家主義ってことで言うと、作家主義っていうのはそんな柔なものじゃないと思うんです。塩田さんがおっしゃってるタームとしての作家主義と、ヌーヴェルヴァーグの連中が叫んでいた作家主義ってやっぱりかなり違います。

 それは全然違いますよ。なぜかと言うと、時代が違うからですよ。反復して2度目はファルスなんですか、よく知りませんけど、事情が違う、言説空間の質が違うわけじゃないですか。ヌーヴェルバーグの作家主義今やったてしょうがないわけですよね。清順が58年に作家だっていうのはヌーヴェルバーグ的な意味での作家主義ですよ。だけど今清順を作家として持ち上げることは、確かにそれなりの社会的機能を担っているけれども、極めて危険な側面もあるんだっていうことを自覚するべきだと思うんですよ。
例えば僕なんかがですね、塩田明彦という作家として評価されないと、よほど映画がヒットしない限り僕は次を撮れないっていうね。その意味では作家主義っていうのは必要悪って言ってもいいのかもしれない。作家を作家として持ち上げてあげないと、僕にしろ、黒沢清にしろ次が撮れないっていう。まあ、僕はどうでもいいんですけど、黒沢清にしろ青山真治にしろ素晴らしい才能を持った作家たちがいて、彼らに映画を撮らせ続けたいんだと思うのならば、やっぱり応援しなければいけない、そういう意味での作家主義っていうのは否応なくある。清順だって、僕らは清順の映画見たいわけだから、清順がすごいということを言いまくって清順の映画上映すること自体は重要だと思うんですよ。
だけれども、たとえば批評的な言葉において清順を語ろうとするときにこれが清順の特性である、個性であるって終わってはいけないっていう。そこから外に開かなきゃいけない、開いてそれが映画の根源的な問題なんだとかね、世界の問題なんだとかね、横断して行かなきゃいけないわけですよ。
これはあまり良い例じゃないけど、鈴木清順を見て同じ宍戸錠の殺し屋映画が日活に同じ時代にあったと、野村孝の『拳銃は俺のパスポート』っていう非常に良くできた殺し屋映画があるんですね。白黒でシネスコである殺し屋の二人組がいて、主人公はライフル狙撃が得意でかっこいい描写があるわけです。で、宍戸錠扮する殺し屋が犯罪組織の罠にはまって、逃げようとしてある港に行ってそこで密航船に乗ろうとするんだけれども乗れなくて、相棒のジェリー藤尾が殺されたりして、それで最後、宍戸錠が逃げるのやめて戻って組織壊滅させるっていう。これが非常によくできたウェルメイドな映画なんですね。
たとえばそれと清順の映画の違いはなんなんだっていうことを考えると、結局『拳銃は俺のパスポート』の宍戸錠っていうのはいわゆるハードボイルドヒーローなんですよ。喋らない。喋らないことによって、映画というのは実はある内面を獲得するんだという、そのハードボイルドヒーローとしての語らず醸し出すムードっていうのがあって、語らず醸し出す哀感っていうのがあって、語らず醸し出す内面があって、語らず醸し出す心理があるんですよ。たけしはそれではないのか。たけしは凄くいい映画を撮ってるけれども、突き抜けてはいない。こっち側に止まっている。人物描写ひとつとっても、たけしがやってるのは『拳銃は俺のパスポート』の宍戸錠だろうと。善し悪しは別にしてね。対して、鈴木清順っていうのは何をやってるのかというと、「ナンバー1は誰だ!」って喋りまくるわけです。左幸子以来喋りまくってる。その違いはなんなんだっていうのを単に清順の個性に帰着させても意味ないわけです。要するにそういうところで外に開いていかなきゃいけないわけで、ところが近年の作家主義って、たいがいそれをやってないよねって。それが僕の正直な感想ですね。

 作家主義の弊害というのは確かにあるんだけども、逆に一つだけ注意しておきたいと思うのは、職人的なもの、あるいは作業の集団性だとか総合性だとかいったことを照準にすることで、ある種の作家の個っていうものを、ちょっとうまく言えませんけど、職人性や集団作業の側面から清順を顕揚していくというようなやり方も、あまりに一面的にやりすぎることで、同じ弊害が出てくると思うんです。

 それはまさにそうですね。

 塩田さんだって、そうしたことを含みでおっしゃてると思うんですが。

 僕よくこういう発言するじゃないですか。そうすると僕の組んでるプロデューサーが、松田広子じゃないですよ、彼女とは別のプロデューサーが、おまえ反=作家主義なんだから俺の言うこと聞いて仕事しろとか言うわけですよ。いや、ちょっと待てっていう話になるんですよ。別に民主主義でやるっていうことじゃないんだっていう、反=作家主義はね。そうではなくて想像力のありよう、その根幹をつかむような言葉のありようを問題にしているわけで。別にみんなで話し合って決めましょうなんて一言も言ってないだろう、とか思うんですよねえ。

 今、鈴木清順って、塩田明彦とか、青山真治、黒沢清、相米も、たけしも深作も、ほぼ同時に新作が劇場に掛かっていて、まぁ現象としては日本映画は勃興しているように見えるし、事実勃興しているんだろうと思いますけど、そういう百花繚乱の状況下で、なぜ今なのかは見当がつきませんが、日活さんとリトルモアさんが清順のレトロスペクティヴをやるわけでしょう。新作のためのプロモーションとか、企画のきっかけはさまざまにあるんでしょうけど。これ、ひとつ間違えたら、さっきから取り沙汰されている悪い意味での作家主義に繋がりかねない動きではあるわけですよ。でも、理由はよく分からないんだけど、そういう知らせを聞いたときに、「あ、清順か、やられたな」っていうそういう感じを持てるというんですかね。きょう、初期作品の『踏みはずした春』を拝見しまして、清順の持っている実は確かな技術ってものも再確認させられて、なんかこうシネクラブ的なものの最良の部分を体験した実感も確かにあるんですよ。

 そういうものを別に僕は否定してないんですよ。繰り返すけど、あくまで批評を突き詰めていった場合の言葉の問題であって、現象としての作家主義は否応もなくあるべきものなのでしょう。その点で最近、僕が好ましいなあと思うのは、増村かと思ってたら、小沼勝だ、清順だって次々特集が組まれて、観てみたらどれも全然違うっていうね、まるで違うんだけど、どれも素晴らしいっていう混乱をね、カオスとして体験するというのはやはりいいことだと思うんですよ。そういう流れの一環として、清順もあるし、加藤泰がきてもいいし、伊藤俊也がきてもいいし内田吐夢がきてもいいし、どんどん量としての作家主義を打ち出して、100人の作家達とかね、そういう風になっていくのもそれはそれでいいよなあと思いますけどね。

 そんなところで時間になってしまいました。

 すみません、なんだか僕ばかり喋ってしまいましたけど。

 いや、今日は、内面のない人がよくしゃべったということでいいんじゃないでしょうか(笑)。でも、この続きはまたどこかでやりたいと思っていますので、具体的に決まったら、お知らせします。今日はどうもありがとうございました。