
資料編 鈴木清順作品選者のコメント
公開 boid.net vol.2 鈴木清順を語る
資料編1 選者のコメント
『けんかえれじい』
これはいわゆる日本名作映画と呼ばれるものの一本であるが、そのような範疇にまず面白いものはないとタカをくくってこれを見逃している人がいるといけないので、挙げた。
冒頭五分で、あなたはいきなり衝撃を受けるだろう。そして、これは絶対に日本映画ではないと確信するだろう。ではアメリカンかと言うと、そうではない。もちろんヨーロピアンでもない。何ものにも属さない映画、まるで宇宙から降ってきたような映画、いや、原初の映画と呼んだほうがいいだろうか。つまりこれは神話であって、映画史から完全に自由になるとは、こういうことを言うのだと思う。で、それを可能にしたのは、たかが天才程度の人間ではなく、ほとんど神の領域に達した人物であることは言うまでもない。
ところで映画には、あと二人このような人がいて、三つの超越的存在として威光を放っている。いわゆる映画三聖人、鈴木清順、ジャン・ヴィゴ、山中貞雄、これである。
黒沢清
『踏みはずした春』
出征した山中貞雄は、戦地においてひたすらギャグをメモし続けたという。鈴木清順 は‥‥清順はメモをとるという発想すらなく、ただひたすら笑い転げていたにちがい ない。
ヒューモアというものが単なる感性の問題を超えた世界観の選択であるとする ならば、いわゆる清順美学と呼ばれてきた諸々の破壊的様式とは、実はある世界観の 徹底化に他ならなかったのではないだろうか?
清順による「内面」の否定、「人 間」の否定とは、むしろ美学の廃棄による「別の論理」の顕在化に他ならなかったの ではないだろうか?
塩田明彦
『殺しの烙印』
鈴木清順の映画の前では、誰もが平等である。
平等というより、清順と向かい合うとき、人は常に、「自分のここが非凡である」などと密かに想定していた自惚れがあえなく木っ端微塵になる事態を、指をくわえて眺めるという経験を味わわざるを得ないのである。
だからできれば清順を自分から遠ざけておきたい。
けれども体がそれを許さないのである。
『殺しの烙印』を見ると、このことがいっそう身に滲みてくる。
1960年代、人はこの作品を見て腹を立てたものだ。
腹を立てたり、解雇したりして自分の生のバランスをとったつもりだったろうが、彼らもまた、『殺しの烙印』の不滅さを証したてるための小道具でしかなかった。
だが彼らと、清順映画に魅せられている私たち現代人にいったいどんな違いがあるというのか。
清順の前で人は平等なのである。
荻野洋一