
トリアー座談会に寄せて 青山真治
もうずいぶん時間が経ってしまい、もうどうでもいいじゃないか、とも思える遅延の仕方の中で、しかし何かとても重要な事が語られたような気もして、無視したままにしておくわけにもいかないと思い立って、あえてこの後に及んで雑感を述べさせていただきたく、筆を取りました。
2000年11月28日アテネフランセ文化センターでのboid.netの第一回総会の熱気はネット上に採録された記事によっても十分伝わってまいりました。その場に参加できなかった自分の身を恥じ、また聴衆として集まった方々を嫉妬しもしました。本来ならばそこで身を引くべきところをこのように筆を取るのもその嫉妬ゆえだと御考え下さい。
そこで語られているのはラース・フォン・トリアーのことなのですが、彼について触れる前にまず一度、とある過去を召還してみたいと思います。その過去にはライナー・ヴェルナー・ファスビンダーとフィリップ・ガレルという名前がついております。御存じの方も多いと思いますが、ファスビンダーは69年から死ぬまでの13年間に43本の映画とテレビを監督しました。まるで三池崇さんですね。しかしダニエル・シュミットの話によると、ファスビンダーは現像所や機材屋に借金しており、彼らとの契約で作り続けなければならない状態にあったそうです。自転車操業というやつです。おまけに彼には多数の協力者というか取り巻きがいて、それは劇団という形で組織化されていたようですが、そのリーダーとして彼らを喰わせる義務もファスビンダーにはあったわけです。一度彼はスタッフを前に「お前たちは俺を搾取する」と怒鳴って仕事を放棄したこともあるそうですが。で、私は彼の作品をそれほどは見ていませんが、いくつかの作品を見た印象でいえば、非常にシュアな仕事をしている作品とそれこそ商品として成立するギリギリの、ピントも合ってなければ編集も甘いといったデタラメな作品の二種類がある。しかし、脚本どおりに凄い早撮りで撮ってしまったような感じの後者でさえ、異様な熱気というか、勢いを感じる。
一方でフィリップ・ガレルという人がいて、この人はまったくお金がない状態で、しかし少しでもお金が手に入るとフィルムを買って、一時間四三分の完璧な画面を持った作品を三日三晩で撮ってしまう。録音機材を借りる金が無いのでサイレントで作る。そんなことを同じ時期にやっていた人です。そのガレルが数年前来日した時にファスビンダーについて次のようなことを言っていました。
ファスビンダーの開拓したものは、たとえば『マリア・ブラウンの結婚』に見られます。
衣裳は時代遅れであり、装置も古臭い。しかも映像は早撮りされているからとても汚い。
最初はテレビドラマのような醜さなのに、そうした美学を越えたところで、ある瞬間から内面から出てくる素晴らしさによって、傑作になっていく。その内面的な価値は、たとえば絵画で、いろいろな色を塗り重ねて表面は絵の具の醜い塊になっている、ところが美しさが内側から出てくる、そうしたことと同じだと思います。ファスビンダーが証明したことは、映画は映像だけではない、ということです。
(青土社「ユリイカ」'97年5月号)
この話は別に大した話ではなく、誰でもが思いつきそうなファスビンダーへの讃辞だと思いますが、これをガレルが言うところが面白いと僕は思うのです。ローマで撮影していてその次のローマのシーンとの間に1カットだけパリのカットが入る予定になっていると、一旦そのカットを撮りにパリへ戻るという、ちょっと気狂いじみた順撮りを行うガレルにこうしたことを言わせるファスビンダーというのはいったい何でしょうか。
もしファスビンダーが今生きていて『イディオッツ』のようにデジカムで撮ったとしたらガレルは何と言うだろうか、と思います。ガレルは徹底して35ミリフィルムにこだわります。しかしもしファスビンダーについてガレルが言っていることが正しければ、デジカムだろうとフィルムだろうと変わりないのではないか。ゴダールは「デジカムは圧縮だから」のようなことを言って批判しますが、美学的側面だけを取り上げれば、ファスビンダーのやり方はそのまま現在のトリアーたちドグマ一派のやり口と変わらないのではないか、と僕は思います。
そうしたら『セレブレーション』という、これはトマス・ヴィンターベアという若い人の撮ったドグマ作品で、僕はあまり好きではないのですが、これがファスビンダーの映画をそっくり裏返したような作品なんですね。というかはっきりとファスビンダーを意識して作られている。旧弊な家父長制の大家族、人種差別主義者で幼児虐待者の父親、その父親への子供たちそれぞれの反抗と和解、などなど。もっとも、ファスビンダーなら家族もろとも殲滅せしめるであろう呪われた国民性に対する反抗の様相を、シニカルに裏返したら当然反動にしかならないわけで、それがこの作品の幼稚な欠陥なんですが。しかしそこでヨーロッパにおけるファスビンダー的物語の取った役割、つまり「社会的恩恵を被っていない様々な周辺集団の問題と取り組む」破壊者としての映画、社会にとって「忌わしい」ものとしての映画を、パロディの位相において反復する構えが取られているのは間違いないでしょう。そして『イディオッツ』なら、その意味でのファスビンダー性をシニカルにならない形で反復する集団についての映画と言えるのではないでしょうか。で、そのことを出発点に考えるに、もともと「ドグマ」というのは、ファスビンダーがやっていたことをより徹底した形でやろうとした試みではないか、と僕は考えています。映画のエリートとして映画内部の改革を目指したヌーヴェルヴァーグではなく、稲川さんの仰った「映画が何をすべきか」という大命題をその「外に向けて問いただす」ファスビンダーなのではないか、と。
ではその「ファスビンダーがやっていたこと」とは何か。私なりの言い方で言えばそれは 「映画の一人前化」ということになるでしょうか。つまり絵画や写真、文学、演劇、音楽という先行する諸芸術に依拠し続ける映画を、それらから遠ざけ、固有の表現形式として成立させる。一人前でもない者が「外に向けて問いただす」ようなまねをしても、聴衆に対する説得力がないでしょう。但しファスビンダーの場合、それを混沌とした自らの作業の中で実践しようとしたので、ドグマのように体系化された戦略ではありませんでしたし、何より彼には「演劇」という出自がついてまわった。一方、ドグマの否定規則はそれぞれ、先行する諸芸術からの名残りをいちいち外していくための体系として読めるのではないでしょうか。例えばそれは、議論の対象にもなったハンディキャメラと三脚の対立などに現れているでしょう。三脚の禁止は、それが「ブルジョワ的」だからではなく絵画におけるイーゼルや写真芸術の三脚の形式としての名残りであるからではないか。
しかしそれらを外して何が映画固有の表現として残るのか。それは一つに、黒沢清さんがトリアー批判の最大の要素として挙げられている「編集」ですね。もちろん小説や音楽にも「編集」の概念はありますが、映画のように編集点をはっきりその表現のさなかに露にすることは他の芸術にはない、映画固有の技術でしょう。黒沢さんの指摘どおり、『イディオッツ』は「編集」に大いに依拠した作品です。そしてそれを私は悪いことだとは思えない。黒沢さんの指摘によれば、それは大林宣彦の『青春デンデケデケデケ』に近い、ということでしたが、しかし同じく黒沢さんが「顔ばかり見せられる」という批判をされているのに対して『青春デンデケデケデケ』の場合、逆に「顔」を見ることが出来た記憶が私にはない。あの作品には、偶然私の最初の二作に出てくれた大森嘉之君と浅野忠信君が出ていて、私は彼らを見ようとしてあの作品を見たのですが、ほとんど顔がわからなかったことを記憶しています。そして、そのような大林の説話論的持続に一切逆らわない編集が個人の顔を犠牲にして成立していたのに対して、『イディオッツ』の編集はことごとく生理的リズムを破壊するようにして進み、同時に集団劇でありながら個々の顔を忘れ難く定着させることに成功している。この成果には、やはりそれなりの評価が必要ではないか。さらにこの「顔」を見せる/見せないの差異は、個人を隠す/隠さないという差異に変換されて『イディオッツ』を稲川方人さんの指摘するプロレタリア性を補強するでしょう。片や個人を隠蔽する方法を採る『青春デンデケデケデケ』を、帝国主義的映画として批判することも不可能ではない。そのような帝国主義的な隠蔽(ホロコースト性)への抵抗として『イディオッツ』の方法は実践されているとも、少々大袈裟ではあるけれど言っていいかもしれません。
またこれが複数のキャメラによって撮られている点も、そこへ繋がっていくのではないか。越川道夫が問題にしたインタビューシーン、これは実は私も大いに問題を感じ、パロディである限り認める気にはならないのですが、しかし芝居パートのキャメラが主体として根源的に持ってしまう<権力>は、キャメラが複数化されたところで御破算になるわけではないが、インタビューシーンにおいてこの主体を俳優と並存させるに至り、つまり仮にであれ、キャメラ=主体もまた客体によって見られる立場にあることによって、芝居パートとの断絶面を浮き彫りにしてはいないか、そこが越川が言及した『2/デュオ』との違いではないか。『2/デュオ』のインタビューシーンは虚構と地続きに接続し、そこに不意に主体が「降りてくる」ようにして登場するのですが、『イディオッツ』のインタビューシーンでは、主体は前提となる虚構の一部として最初からそこ(フレーム外)にいたように見える。しかしこの断絶によって、却って主体と客体の並存はより明確になる。
実はそれこそがファスビンダー的であると言える。ファスビンダー作品にはインタビューシーンこそありませんが、代わりにしばしば彼自身が主演し、主体=客体としてフレームの内外を行き来します。また彼の登場しない作品においても彼はフレームの外にいながら、存在を内に感じさせるようにいる。彼が演じていなくても、その空間に視線を投げかけるだけでなく肉体的に俳優たちと並存し、そのことを必要以上に感じさせる演出をしている。それが彼と俳優との関係のし方であり、それはトリアーも同様で、それによって辛うじて彼らは自らの<権力>に留保をつけることができる、あるいは曖昧にすることができる。ファスビンダーが「お前たちは俺を搾取する」と怒鳴ったのは、何も彼のスタッフが彼に過剰に依拠していたからだけではなく、そのようにその場に彼がいることを求められたからではないか。主体であり続けることを許されなかったからではないでしょうか。
このようなあり方は神経症以外の何物でもないでしょう。ここで見られるのは明らかに、映画をめぐる病理です。しかし神経症であり、病理であるけれども、映画を「一人前」にするためにはこれくらいやらなければならない、という固い理念もそこにはある。映画の自己批判であり、またトリアーの自己批判としてそれらの経緯があり、その自己批判を経由しなければ映画の中にオルタナティヴな領域を築くことはできない。もちろんそんなことをしなくても映画を作ることは可能だ。しかしこのような映画の可能性を閉ざすこともまたあってはならない。稲川さんの仰った「プロキノ映画」としてこの映画があるとすれば、それがそのようなオルタナティヴな領域を指向し、形成しうるからではないか。しかし映画作家の主体的自己批判など、従来の演出の過程の中でいくらでも見い出すことのできたものです。トリアーは、というかドグマはそれを、演出の、撮影現場の外部に綱領として配置する。これが管理の体制でないとは決して言い切れません。安井豊さんの仰った「不自由さに拘束された自由」とは、この外部的管理システム(数台のデジカムによる複数の視線が監視キャメラ・システムと原理的には同じであることが最大の例でしょう)があって初めて可能となるような演出、及び撮影現場の解放であり、主体の内面のみに還元されるものではないのではないでしょうか。つまり、あとは物語の質と、その物語を映画においてのみ可能な方法で語る主体の強度だけが試される環境としてフィルムは機能する。それこそが純粋無垢な、他ジャンルに真っ向勝負を挑む一人前の映画の形態だということではないでしょうか。『2/デュオ』の場合のような、作品外の政治学によって演出家に対して撮影現場の特権化を目論み、綱領のないことを標榜しながらそれが結果的に裏返された「システム」の醸造に他ならない、といった拘束の現実に目を瞑る単数的な解放ではなく、それとは逆に、規則に蹂躙された集合的存在としての映画そのものの特権化、その内なる解放が目指されているのではないか。当然それは運動としてでなければ効果を発揮しえないでしょうから、ドグマは複数の作品をノマディックに生産していくことを趣旨とするわけです。ドグマ映画各々はいわゆるライプニッツ的球体の集合として連帯する必要があるのです。そんな、ちょっと開き直ったような、コミュニスティックな形態に可能性があるかどうかは、とりあえずここでは問わずにおきますが。
しかしながら、近しい方法で作られたとはいえ、『イディオッツ』は他のドグマ映画とも、また本人の前後二作ともどこかが違っています。それらの作品群の中でこれだけが、稲川さんの仰る「プロキノ映画」たりえている気がするのです。それは、トリアーの前後二作と共通する、演じるという主題における差異だと思われます。『奇跡の海』では主人公は神に祈りを捧げる時、神を演じて神の答えを自分で言います。あるいは夫のために自分を他の男に与えようと演じている。また『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でも、空想の中で主人公はミュージカルシーンを「演じ」ている。この主題をめぐった『イディオッツ』の問題を詳らかにするのは、またしてもあのインタビューシーンでしょう。前述の箇所で、私は「仮にであれ」と書きました。この「仮にであれ」キャメラ=主体が見られる立場にあること、それは逆説的に、トリアーもまた演じている可能性がある、ということです。全員が裸になる時、彼もまた裸になった、という挿話を待つまでもなく、トリアーはそこですでに演出家と役者の垣根の突破を仮構しているのです。その関係は決して破壊されたわけではなく、ただ曖昧化されたに過ぎないでしょうが、それでもそれを曖昧にすることさえ不可能だと通常は考えられるし、トリアーの前後二作でもそれはなかった。ところが『イディオッツ』ではその曖昧化だけは辛うじて成功している。それはたぶんトリアーが結果的に当初のストーリーにこだわり、出演者たちが互いの名前を取り違え始めた、つまり自己同一性の保証が怪しくなったりして、現場の雲行きが怪しくなった辺りを棄てたという越川の話が正しければ、どうやらその経緯がそれを可能にしたのではないか、という気がします。つまり樋口泰人さんがいう「群れ」の記録としての映像の中の、こう言ってよければそのドキュメンタリー的側面を捨象することによって、辛うじて映画の主体性を確保した、ただそれがトリアー自身のその場の欲望と行き違っているかも知れない可能性も、なくはないわけです。おそらくその場で撮影していった過程においてはそれは記録者的な欲望としては大いにトリアーの心を動かしたかも知れない。しかしたぶん彼はそこに混入する演劇的欲望を潔しとはしなかったのではないか。より純化された「映画」を彼は求めたのではないか。そこで「「群れ」の記録」は「記録」ではなく、ただ「「群れ」の映像」と呼んだ方が相応しいのかも知れないものとなる。ハプニングやアクシデントを取り入れることで「自由」をイメージ化する映画は過去にも数多く存在したでしょう。だが映画はその手のお気軽な「自由」、「不自由さに拘束された」という意識を前提としない「自由」とは相容れないのです。映画は、不自由の城塞の中にがんじがらめに拘束された幽閉の身の美女であり、彼女を夢想する者の中でだけ辛うじて自由を得ることができる、そういうものです。それがつまり『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の物語そのままであることは言うまでもありません。でなければどうしてトリアーが、敵視するスウェーデンの大衆演劇作家であるイプセンもどきの、あのような物語を信じるでしょうか。とはいえ、それがミュージカルというジャンルをネガティヴに指向するトリアーの内面により多くを負っているがゆえに、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は『イディオッツ』ほどの過剰さを生きることがなかった。『イディオッツ』の場合、それはあくまで作家の内面の外部に配置されたシステムの根拠であり、だからこそ過剰な「自由」を実現するオルタナティヴな領域を作品内部に獲得しえたのであり、またこの過剰さが重要なのではないでしょうか。映画は常に「ビガー・ザン・ライフ」であるべきであり、それが安易なイメージ化の罠との格闘になくてはならない武器となることは、かつてゴダールがニコラス・レイの『にがい勝利』について書いた文「星の彼方に」で説明したとおりです。
しかしそのような「不自由」なシステムに包囲された空虚な内部を何と呼ぶべきか、我々はその名をまだ持ってはいません。『ロスト・イン・アメリカ』の中で、図らずも我々が呟いた「統覚のない映画」という言葉が不正確な印象しか持ちえていないのは確かです。今言えるのは、それは「非=中枢的」だ、という言い方くらいでしょうか。へたを打つと「則天去私」みたいなことと混同されかねないこの「非=中枢的」な映画のあり方について、しかしそうではないと呟きながら考えつつ、その可能性に賭けてみたい気が、いまはしているのですが。先日、PFFの映画講座で田村正毅キャメラマンのお話を僕が伺うという企画の時、田村さんのスタイルの変遷について語っている時ふと、この言葉が口をついて出たのでした。あるいは、哲学者・田辺元の「類・種・個」という概念から想定した「種の目」という言葉、これについてはカイエでの『フルスタリョフ、車を!』論や連載中の「10+1」などで言及しましたが、主体=客体の並存や複数のキャメラはこの問題に繋がると思います。しかしそれらに関しては、もう少しつっこんだ話を書いてみようと今、個人的に勉強中でして、それについてはまたいずれ。ただひとつだけ言っておくと、田村さんのキャメラは必ずしも単眼ではなく、また明らかに客体とその場に並存していると思っています。これが我々の仕事上の秘密なのです。
ところで、最終的な疑問。なぜ僕はそんなことを言い募っているのでしょうか。よくわかりません。ただ映画が成熟しなければ人類も成熟しない、そんなことを心のどこかで真剣に信じているところがあるのかもしれません。そしてもし稲川さんの仰った「映画が何をすべきか、を外に向けて問いただす」ということを理念として受け取るならば、僕もまたその理念に準じる者であると言わざるをえないでしょう。