
資料編 1 『イディオッツ』の示す第三の層 阿部和重
公開 boid.net vol.1 ラース・フォン・トリアー『イディオッツ』を語る 資料編 1
『イディオッツ』の示す第三の層 阿部和重
「ドグマ」の規則は、カメラの存在を特権化するものというよりは、むしろ、通常の映画(フィクション)の撮影環境から積極的に遠ざかる試みとして捉えるべきではないかと思われます。カメラ(映画製作)の実在/不在に過度の影響を受けぬ日常性(自然主義的な現実性)の再現を、「ドグマ」は目指しているのではないでしょうか。そのような理由により、「撮影はロケーションのみで行われなければならない」「小道具やセットは持ち込んではならない」「ストーリー上、特定の小道具が必要な場合は、その小道具がある場所を撮影場所に選ぶべきである」「映画はカラーでなくてはならなない」「人為的な照明は認めない」「オプティカル処理やフィルター使用は認めない」等々の取り決めがなされたのではないかと思えるのです。
「ドグマ」は「映画をその始まりの地点へと戻す運動としてあったのかもしれない」という樋口さんの指摘は恐らく正しいと思われますが、「ドグマ」の規則を(ほぼ)忠実に守って撮られた『イディオッツ』(これ以外の「ドクマ」作品は未見です)におけるカメラの在り方、または視線と対象の関係については、僕は以下のように考えます。
カメラ=視線の意味を、スクリーンの内と外で別けて考えるべきでないかと僕は思いました。『イディオッツ』の被写体たちにとって、カメラはむしろ、「見られていること」を意識させぬ透明な存在に近付いていたのではないか。ここでの役者たちは、日常性の再現が重視された撮影環境の維持によって、カメラの存在もまた一人の登場人物なのだと疑似的に受け止めつつ、その視線(カメラアイ)を周囲のそれと大差なく感じていたのではないか。少なくとも、撮影現場においてはこのような状況だったのではないかと思われます。しかし、これを観客の側から捉えると、事情は変わります。作品(映像の連鎖)として映し出されたカメラの視線は、観客に対してある強い印象を齎します。反構図主義的な姿勢と対象への徹底した接近によって、「ドグマ」的カメラアイは個人的な視線の意味合いを強めますし、同時にその視線からは、強固な主体性(ドグマ)が感じられます。カメラと対象との距離の近さ(あるいは非日常性や装飾性の排除)は、視線(カメラアイ)の人称性を強く示し、「なぜそれをこのように見ているのか」の考察へと観客を導く、概ねそんな仕組みになっているのではないかと思えるのです。
以上のことは、東浩紀との対談(『不過視なものの世界』所収「過視的なものの世界」)の中で、カメラアイの問題について述べたことと関連しています。 ところで、「ドグマ」の規則は、映画批評における僕の姿勢と明らかに対立するものだと言えるかもしれません。なぜなら僕はこれまで、ことあるごとに疑似ドキュメンタリー作品を批判してきたからです(「ドグマ」の規則は、疑似ドキュメンタリー的スタイルの成立条件とほとんど一致します)。ならば僕は、「ドグマ」作品である『イディオッツ』に否定的かというと、逆なのです。というか、『イディオッツ』は、疑似ドキュメンタリー的スタイルに対する極めて有効な批評性を備えた作品に思えました。
僕が疑似ドキュメンタリー作品を批判し続けたのは、ドキュメンタリーの手法が喚起する「リアル」な印象を紋切り型のドラマの補強材として安易に利用しているような映画が90年代に急激に増えたことが主な理由でした。その過程ではっきりしたことは、映画においてはもはや、リアリティの根拠や所在を明言できないということでした。すべてが擬装可能であるということが、疑似ドキュメンタリー的スタイルの興隆によって改めて明白になったのではないでしょうか。ついでに言えば、デジタル技術の進歩もこうした傾向を別の角度から推し進めたのだと思われます。
結局のところ、「ドグマ」の規則は逆説的に、映画(表象)と現実との乖離をこそ際立たせてしまっているように思えます。カメラの前で起きることはどれも現実ですが、フィルムに写し取られたイメージは原理上、虚構性の側に回収されざるを得ない。そのため、撮影環境において日常性(自然主義的な現実性)を仮構する必要があるというわけです。「ドグマ」は、予め不可能を宣告された上で、あえて「真実」に迫るための理念なのだと言えるかもしれません。その「真実」は当然、初めから想定されたものであってはならず、擬装を強く拒むものであるはずです。他の「ドグマ」作品は判りませんが、『イディオッツ』は、そうした「真実」の顕在化に半ば成功しているように思えるのです。
『イディオッツ』の登場人物たちは、知的障害者を擬装します。つまり『イディオッツ』は、「擬装すること」それ自体をドキュメントの対象として扱うことで、同時に疑似ドキュメンタリーの虚偽性を暴露するわけです。疑似ドキュメンタリーとして撮りながらその虚偽性(媒介性)を示し、なおかつ「登場人物たちや彼らの置かれた状況の中から真実を引き出すこと」を「究極の目的」としている点が、『イディオッツ』という作品を僕が高く評価する理由です。
『イディオッツ』には、いくつか納得できない箇所がありますが(とりわけ最後のシークエンスにおいて明かされるカレンの「不幸」なエピソードや、彼女に同行したグループの一員スザンヌの泣き顔をクローズアップで捉えたショットは受け入れ難い)、作品全体は欠点を充分に補い得る強度に達していたと思います。二重の擬装(芝居のレベルと撮影のレベル)が徹底して試みられることにより、現実と虚構の間に生ずる第三の層とでもいうべき独自の感触を及ぼす瞬間が確かに認められました。その第三の層を、虚偽性(媒介性)の中に芽生える「真実」と捉えてみたいと思います。例えば、ジョセフィーンという若い女性が父親に連れ戻されそうになり、ジェッペという青年が車に執拗にしがみつく場面があります。ジョセフィーンとジェッペは前日お互いの想いを確かめあったばかりなのに引き離されるという、エピソード自体は全くの紋切り型ではあります。けれども、そこで演じられるジェッペの激情に駆られた振舞いが、それまでに繰り返された知的障害者の模倣の身振りとほとんど区別がつかず、ここでまた改めて、イメージの混乱が起こるのです。そのジェッペの行動は、擬装の無力化であり、それゆえに嘘でも本当でもない第三の層=「真実」を意味しているように思えました。