Welcome to boid.net!


Caregories

recent

archives_reports

青山真治『月の砂漠』撮影を見る  2001年1月6日  樋口泰人

年12月半ばから始まった『月の砂漠』の撮影は、数日の正月休をはさんで、この日が21世紀最初の撮影である。
場所は地下鉄南北線「麻布十番」駅の真上にあるビル。
土曜日でもあり正月休の名残ということもあってか、都心のオフィス街に人通りはほとんどない。
私と梅本洋一が到着したのは午前10時、早朝から「麻布十番」駅での撮影を終えたスタッフ、キャストがビルの6階に場所を移して、次の撮影の準備を始めている。
映画の中では、そこは主人公が社長を勤めるハイテク企業のオフィス、という設定である。
大学時代の仲間たちと始めたその会社はハイテク・バブルの時代に急成長したものの、今や経営危機に直面し、その前に家庭崩壊で妻子に去られてもはや荒むばかりの主人公は会社崩壊も避けられない運命にあることを半ば直感しつつ、最後の悪あがきをしている。
エドワード・ヤンの『ヤンヤン 夏の想い出』にも似た設定で、そう思いつつ見回すと、このフロアもどこか『ヤンヤン』に出てきたハイテク企業のオフィスのようでもある。
まあ、こういった企業のオフィスは大体同じような風景なのだが。
およそ30名ほどだろうか、社員役のエキストラがパソコンを前に座り、通路をはさんでガラスで仕切られた向こうには社長室や会議室などなどがある。
カメラ位置によっては、この相当な広さの1フロアのほとんどが視界に収まる。
したがって、基本的には社長室と通路での芝居がメインとなる撮影なのだが、すべての登場人物やエキストラが、そこには待機していなければならない。
更に、仕切りのガラスへの映りこみもある。 それに加えて、ほとんどのショットでカメラが動いている。
つまりスタッフは、カメラの動き、俳優の演技、遠景として映るエキストラの動き、ガラスへの映りこみ、などなどを気にしながら、一つ一つのショットを作り上げていかなければならない。

EUREKA』とは正反対のスタンダードサイズの画面を選んだ青山は、こういった画面構成を予め考えていたのだろう、カメラのすぐ近く、その少し向こう、そして更に遠くという3つの遠さを画面の中に収め、そして同じやり取りを、何度か別方向から撮影していく。
そして割と長めのひとつのセリフがいくつかに分断され、更にそれが何方向から撮影される。
これまでの青山作品より、確実にカット数の多いものになるだろう。
その時、それぞれのカットは、単に物語をテンポよく見せていくためのものでもなく、カットの多さによって映画に付け加えられるある種の感情を期待してのものでもなく、おそらく撮影時に流れたさまざまな時間と空気を写し取ったそれが総合されて作り出す新しい時間と空間を示すものとなっているのではないか。
例えばカメラ手前に置かれた小物や写真、奥に映っているかもしれない社員たちの動きが、30代半ばにして絶望の縁に立たされつつある男の、これまで生きてきた時間、これから生きるだろう時間、あるいはもしかしたらありえたかもしれない別の時間を、今まさにカメラの前で動く男の現在へと、静かに還流させていくはずだ。
とはいえ物語の内容から、カサヴェテスやフィリップ・ガレルをつい想像してしまうのだが、画面だけ見ているとマーティン・スコセッシやオリヴァー・ストーンになっていたら凄いかもしれない、などと不埒なことも考えてしまう。
あるいはロベール・ブレッソン的なショットと時間の切断を、そこに見ることができるのだろうか。

して、本格的にそれをやったのは今回が初めてだということなのだが、青山は俳優を見て演出するのではなく、カメラの脇にある小さな液晶モニタを見ながらの演出を行っている。
俳優の演技に気をとられてしまうと、その他の場所で何が起こっているか、画面全体のバランスを見ることができないから、というのがその主な理由らしい。
しかし、青山の日記にも出てきたように、その液晶の画面は暗く小さいので、全体のバランスを見るといっても相当な集中力が要求される。
脇から覗くとほとんど何も見えない。
『ロシアン・エレジー』状態である。
だが、田村正毅カメラマンの作る独特の揺れの中に収まっているその幽かな画面は、それはそれでとんでもなく危うい何かが映っているようにも見える。
いっそのことその暗さのままやってしまったらどうかとさえ思えたのだが、さすがにそれはそれでまったく別の映画になってしまう。

からの光があるうちは、ほとんどノーライトに近い光で撮影してきたものの、足の速い冬の日差しの終わりがやってくると、必要最小限のライトがやっと点灯される。
映画の中ではほんの数分のシーンなので、太陽光があるときと同じ光に見えなければならないはずなのだが、そのあたりの技術的操作はあっさりと済んでしまっている。
実質1ヶ月で約2時間の作品の撮影を済ますということがどういうことであるか、それはやってみたことがある人でないと分からないだろうが、もちろん私にも分かりはしないのだが、この日の撮影だけを見ていると、それがスタッフに、極度の緊張と集中力、そして豊かな経験を要求しているのがよくわかる。
これは『CURE』の撮影のときも感じたことなのだが、そこで何かが行われているというよりも、ほとんど何も行われていないのではないのかと思えるような、奇妙な軽さと静けさが、そこにはあるのだ。

かし、シナリオにしてもそうだが、撮影というのもやはりよく分からない。
結局映写したときにどんなものが映っているか、その映像を想像しながら見るしかないからだ。
しかし結果的にそれがどんなものになっているか、その時点でわかっているものは誰もいない。
例えば俳優たちの演技が良かったのか悪かったのか、その基準はどこにあるものなのか。
それこそカサヴェテスやジャームッシュのように、クランクイン前に俳優たちと綿密にリハーサルを行い、実際に撮影されるもの以外のエピソードを作り上げて、登場人物の背景全体をそれぞれがその身体の中に染み込ませてからカメラの前で演技を始めるのなら、話は別だ。
だが、今回のようにひとつのセリフさえいくつかに分断されているような撮影の場合、それぞれの演技はそれぞれのものでしかなく、そのそれぞれが良くてもつなげたときにそれがどう見えるのか、あるいはそれで本当に良かったのか、その判断は果たして撮影時に下せるものなのか。
また、俳優たちは、どうやってその分断された連続を、持続しているのだろうか。
いや、青山は、その切断と不連続をこそ、この映画の中に取り入れようとしているのではないか。
俳優たちが持続しそこなった何かを見つけ、その何かの集積により、つまり、ありえたはずの時間の集積により、しかし結局はこうでしかありえなかった彼の人生の断片を形作ろうとしているのではないか。
そんな妄想が、私の頭を駆け巡った。