
存在の狼煙 -- フランスでの暴動について
存在の狼煙 -- フランスでの暴動について 廣瀬純
「図書新聞」2754号(2005年12月17日)より転載
フランスに住んでいない私たちがいまなすべきことはひとつしかない。フランス諸都市の郊外で蜂起した勇敢な人々をひたすら支持し肯定するような国際的な連帯を形成し、これによって、彼らを様々なやり方で弾圧し続けようとしているフランス政府に対して、直接的にせよ間接的にせよ、圧力をかけることである。
今回の暴動にはどんな社会的背景があるのかといった問いに対する答えは、おそらく、世界中の誰しもが想像する通りのものであり、私もまたそれ以上詳しいことは知らない。要するに、高い失業率、公共サーヴィスの崩壊、都市計画の失敗、就職差別、宗教や文化の違いに基づく偏見、人種主義、そしてとりわけ、警察による日常的な暴力といった背景である。
こうした背景を挙げ連ねつつ、彼らにもその怒りを表現する権利があると納得してみたり、そうだとしても暴動という表現手段は行き過ぎであると批判してみたり、これほどの大きな暴動になったのは麻薬売買で稼いだ資金を使ってイスラム原理主義者が裏で糸を引いているからではないかと詮索してみたりすることは、まったくの時間の無駄である。
それでもなお、今回の暴動について何らかの「背景」を語る必要があるとすれば、それは、「背景」というものを、今回暴動を起こした人々に政治エリートたちがこれまで割り振ってきたトポスのこととして理解する限りにおいてであろう。彼らは、今回の暴動を通じて、はじめて「背景」から「前景」へと躍り出たのだ。暴動を起こすことによってはじめて、彼らは、不可視な「わき役」であることをやめ、世界中の誰の目にもはっきりと見える「主役」になったのである。
いかなる意味でも「アクター」として認められていなかったという点において、彼らは「わき役」ですらなかったと言ったほうがよいかも知れない。彼らは、より正確には、「政治の舞台」を独占し続けようとするエリートたちが自分たちにとって都合のよい表象を政局に応じて好き勝手に投影することのできる「対象」に過ぎなかったのだ。共和国の秩序をつねに乱そうと企んでいる「不良」あるいは「ならず者」、共和制の諸価値をまったく理解しようとしない「よそ者」……。彼らはつねにこうした表象の「対象」とされてきた。そうした「対象」が、今回の暴動のなかで、自らを「主体」としてはじめて屹立させたのである。
暴徒たちひとりひとりの顔を私たちは知らない。路上で警察無線の音を耳にして反射的に恐怖を感じ、三メートルもある高い壁を乗り越えて、EDF(フランス電力)の変電所のなかに逃げ込んだ二人の無実の若者が、そこで感電死したときに、彼らの仲間ひとりひとりの顔もそこで一緒に最終的に焼き潰されたのだ。暴徒たちは、その灰のなかに残された小さな火種を拾い、路上に駐車された自動車に次から次へと火を放った。こうして暗闇のなかに立ち上った大きな狼煙が、もはや誰にもその存在を否定し得ないやり方で、ひとつの顔をくっきりと描き出したのである。今回の暴動は、顔を奪われた人々がひとつの集団的な顔を集団的に創造するプロセスなのだ。すなわち、サハラ以南及びマグレブからの移民の家族に生まれた若者たちをはじめとした、しかしながら、必ずしも彼らだけには限らない、フランス諸都市の郊外の貧困地区に暮らすすべての人々からなるひとつの社会階級の、集団的な顔である。
深夜に郊外で警察の厳しいコントロールを掻い潜って路上の自動車や公共施設にひたすら火を放ち続けるという今回の暴徒たちの行動は、まさに、常日頃から彼らを「ならず者」にして「よそ者」だとみなしてきた政治エリートたちの迷妄をそっくりそのまま実演してみせたものだと言える。暴徒たちは、政治エリートたちがマス・メディアと結託して彼らに押し付けてきた「ならず者」かつ「よそ者」という役柄を、見事なまでに演じてみせたのだ。そして、だからこそ、フランス政府は、今回の暴動に対して、まさに「ならず者」かつ「よそ者」を武力弾圧する目的でアルジェリア戦争勃発直後の一九五五年四月に制定された「非常事態宣言法」に基づくデクレを布告し、諸都市の郊外を戒厳令下におこうとしたのであり、さらにまた、だからこそ、ニコラ・サルコジ内務大臣は、まさに「ならず者」であることと「よそ者」であることとに対してそれぞれ処罰を科す「二重処罰」の復活を公に宣言し得たのである。
「ならず者」かつ「よそ者」という表象を文字通り実践してみせるという、多大なリスクを伴ったこの行動を通じてこそ、顔を奪われた暴徒たちは、ひとつの集団的な顔を創造し、その存在をもはや決して拭い消せないやり方で「政治の舞台」の上に刻み込んだ。すなわち、暴徒たちは、その蜂起の仕方そのものにおいて、自分たちが誰なのかをはっきりと表明したのだ。暴徒たちがすでに立ち去ったその背後で炎上する無数の自動車から立ち上る狼煙は、インディアンたちのそれと同様に、彼らの闘争の始まりを告げるサインであり、彼らの存在を示すインデックスなのである。
今日のフランスで頻繁に用いられている権利要求行動の方法はふたつある。ひとつは、つい先日もSNCF(フランス国営鉄道)の職員たちがその民営化プロジェクトに反対して行ったようなストライキである。そしてもうひとつは諸都市におけるデモ行進であり、そのうちでももっともよく知られているものに、例えば、パリ市内でのレピュブリック(共和国)広場とバスティーユ広場とを結ぶ象徴的なルートを含むものがある。
今回の暴徒たちは、これらふたつの「普通の」闘争形式のいずれとも異なるやり方で行動を起こした。「普通の共和国市民」とは異なるやり方で蜂起することによって、彼らは「ならず者」かつ「よそ者」を演じたのである。「ならず者」とも「よそ者」ともみなされない「普通の共和国市民」とは、何らかのかたちで職業に就いているからこそ、その職場でストライキをすることのできる人々のことであり、また、都市とりわけパリこそが「政治の舞台」だと信じているからこそ、週末の昼間に家族総出でレピュブリック広場からバスティーユ広場までを「平和に」行進できる人々のことである。
何らかの職場ではなくそれとはおそらくもっとも縁遠いであろう場所で、あるいは、パリやリヨンではなくその郊外で、昼間ではなく深夜に、プラカードや横断幕を掲げて路上を行進するのではなく、路上に駐車された自動車に無言で放火するというかたちで、「ならず者」かつ「よそ者」というイメージを完璧に体現しながら、暴徒たちは、政治エリートによって「普通の共和国市民」だとみなされている人々のそれとはまったくかけ離れた場に、新たな政治社会闘争の時空間を開いた。すなわち、彼らは、フォーディズム型の労使間調整の場からも代表制民主主義の場からも完全に外れたところに、新たな政治社会闘争の「舞台」を生起させたのだ。
ポール・ヴィリリオは、その著書『速度と政治』のなかで、マルクスによる産業プロレタリアートについての規定として次のような一節を引いている。「労働者たちに祖国はない。労働者を陸地に結び付けている臍の緒を断ち切らねばならない」。新たなプロレタリアートというものは、いつの時代にも、祖国なき者として海からやってくるものなのだ。パリ市内が「陸地」であるとするならば、その周囲に広がる郊外はまさに「海」以外の何ものでもない。今回の暴徒たちが何らかの意味で「祖国なき者」すなわち「よそ者」であるとすれば、それは、サルコジ内相らが人々にそう信じ込ませようとしているとは異なり、彼らが共和制の諸価値を理解しようとしない野蛮な移民の子どもだからなどではなく、彼らが自らをまったく新たなプロレタリアートとして政治社会闘争の表舞台に登場させたからなのである。
正規雇用労働者たちが闘争の中心をなしていた時代があった。その時代、失業者や不安定労働者たちは「周縁」とすらも呼べないような片隅に押しやられていた。今回の暴動は、少なくともフランスにおいては、そうした時代が終焉したということを、もはや疑い得ないようなやり方で、はっきりと示す出来事だった。正規雇用労働者たちに代わって、失業者と不安定労働者たちが、あるいはむしろ、失業者予備軍と不安定労働者予備軍とが、新たなプロレタリアートとして、闘争の中心にはっきりと躍り出たのである。今回の暴動が何らかの意味で「危機」であるとすれば、それは、この暴動を通じて、闘争の中心が新たなプロレタリアートへと完全に移行したからに他ならない。
失業者予備軍や不安定労働者予備軍がその「主役」となった新たな闘争の出現を前にして、実のところ、彼らとの何らかの合意を取りつけることのできるような能力は、現在のフランス政府にはまったくない(ちなみに、このような新たな状況に対する応答能力の欠如は、政権与党だけに限ったことではなく、フランス社会党を始めとした諸野党にも同様に言えることである)。そうだとしたら、フランス政府はこの「危機」をどのように乗り切ろうとしているのか。最悪な方法によってである。フランス政府は、「二重処罰」を公に復活させるとともに、非常事態令の三カ月の延長を決めた。このことが意味するのは、失業者予備軍や不安定労働者予備軍と何らかの合意を取りつけることを初めから拒否し、彼らの主体化プロセスそのものをひたすら弾圧するということである。そしてまた、それでもなお闘争を続けようとする者たちについては、彼らを「ならず者」とみなして逮捕した上で「よそ者」とみなして国外に追放するということである。
正規雇用労働者たちから失業者や不安定労働者たちへの「主役」の座の移行を、フランスだけに限った現象だと考えてはならない。それは、すでに幾つかの国において見られるものであり、確実に世界的な趨勢となっていくものである。例えば、私自身が働く日本の私立大学においても、教職・事務職ともに、とてつもなく苛酷な条件のもとで働いている非常勤教員・契約職員の人数のほうが圧倒的に多い。常勤教員や正職員のように伝統的な労使交渉の場を持たないにもかかわらず、数の面では圧倒的に常勤教員と正職員とを上回る彼らが、大学生や大学院生といった失業者予備軍や不安定労働者予備軍とともに、「暴動」を起こし、闘争の中心に躍り出る日はそう遠くない。「寄せ場」は、もはや山谷や釜ヶ崎だけに限定されるものではない。日本中が「寄せ場」化しつつあるのだ。そして、そうした新たなプロレタリアートの創造力や行動力を十全に活かし得るようなかたちで、彼らとの合意を取りつけ得るような統治能力は、フランスの場合と同様に、日本を含むどこの国の政治エリートにもまったくない。エリートたちが自らの保身のために「完全雇用」という偽りの理想を掲げている限り……。
今回の暴動に対してフランス政府がとりつつある野蛮な対応は、したがって、そのような世界的趨勢としての「危機」に対して諸政府がとり得る対応策のひとつの有力なモデルとなるだろう。例えば、日本の「ニ大政党」の野蛮極まりない政治エリートたちが、近い将来、同じ「危機」に直面したときに、彼らがこのフランス・モデルに大いに触発された対応を行わないなどと、誰が言えるだろうか。
存在の狼煙は上がった。世界中のインディアンよ、いまこそ団結せよ。
(廣瀬純・龍谷大学教員)